(第六章) 三
三
影岡城の光姫達の元へ恵国軍進軍開始の報がもたらされたのは、山賊退治から十日後のことだった。冒進と陸梁の率いる先鋒軍は、後明国に侵入するや屈谷家の独岩城と耳振家の州鳥城をたった二日で攻略し、雲居国へ向かってきているという。
後明国攻略の顛末はこうだ。西高稲から紫陽花月二十七日に月下城へ戻った二人の将軍は、三日かけて準備を整え、百合月一日に兵士三万を率いて出発した。西国街道を北上した大軍は、二日に国境を越えて屈谷領内へ入ったが、これといった抵抗もなく、進軍は順調だった。屈谷家は十六万貫、武者数が三千二百と少ないので、籠城策を採るだろうと予想していた冒進は、予定通り真っ直ぐ独岩城を目差したが、翌三日、町まで数刻の距離まで迫ったところで、屈谷勢の奇襲を受けた。
その辺りは小高い丘と森に挟まれて狭い道が続く場所で、恵国軍の隊列は長く延びていた。その鼻先を、森の中から突如現れた騎馬武者を主体とする部隊が攻撃したのだ。不意を突かれて冒進は驚いたが、敵の数が二千程度と見て取ると、体勢を立て直して反撃に転じた。
すると、それを予期していたように、屈谷勢はさっと引き上げていく。冒進は敵の主力を撃滅する好機と考え、城に逃げ込まれる前に捕捉しようと、後続の指揮を陸梁に任せ、先頭の五千を率いて急追した。
少しも慌てず整然とした隊列で逃げていく屈谷勢に苛立ちながら、冒進が兵を急がせて馬を飛ばしていくと、突然視界が開けた。東側を覆っていた森が途切れ、西側の丘の麓からゆるやかに下る草地に出たのだ。辺りには田畑や人家が散在し、遠くに独岩城が小さく見えていた。
と、前方の屈谷勢二千が停止して戦闘隊形をとった。これ以上城に近付けてはならないと、覚悟を決めたらしい。冒進はしめたと思い、部下に二千を預けて正面を任せ、自分は敵の横や背後に回り込もうと、残り三千を率いて東側から前進を開始した。
左手の部下の軍勢と息を合わせて屈谷勢に向かって駆けながら冒進は勝ちを確信したが、敵の目の前まで来たところで、驚愕のあまり叫びそうになった。なんと、西側の丘からたくさんの矢が降ってきたのだ。伏兵だった。恐らく五百はいるだろう。同時に、背後からも鬨の声が上がった。つい先程通過してきた道の上に、同じく約五百の槍を持った軍勢が現れたのだ。
しまった、退路を断たれたと思った途端、更に右手の東側で大きな鬨の声が起こり、狼の耳を図案化した家紋を掲げた軍勢二千二百が森の陰から走り出てきた。耳振勢だった。十六万貫の屈谷家と十二万貫の耳振家は単独では勝ち目がないと考え、協力して迎撃作戦を立てて、罠を張って待ち構えていたのだ。合わせて約五千の軍勢に囲まれたことを知った冒進は慌てたが、二千を率いる部下に伝令を送って正面の敵を任せると、自分は背後と左右の軍勢に立ち向かうことにした。
三千の兵士を敵前で停止させて隊列を整えさせながら、冒進は敵を観察した。すると、耳振勢の大将が随分と後方にいることに気が付いた。槍をそろえて前進してくる軍勢からやや離れたところで馬廻りに囲まれて、辺りをきょろきょろしている。
禎傑のように先頭に立って剣を振るう大将は多数派ではないが、それにしても後ろ過ぎる。軍勢とあまり距離を置くと戦場の騒がしさで武者達に声が届かず、いちいち伝令を出さねばならないから指揮がしにくいだろうに、なぜあんな場所にいるのか。その理由を考えた冒進は、耳振純宣というでっぷりと太った五十六歳の武将が統国府で裁事を務めたこともある執印官上がりの人物で、教養はあるが武事は苦手なこと、にもかかわらず仕置総監の粟津広範に気に入られて五年前にこの要衝の国に加増移封されてきたという情報を思い出した。
「なるほど。そういうことか」
冒進はにやりとすると、兵士達に耳振勢に向けて密集隊形をとらせた。そして、「全員、いつもの十倍の声を出せ!」と命じ、槍をそろえて突き出しながら三度腹の底から鬨の声を上げさせて、「目標は耳振勢のみ! 死ぬ気で突撃せよ!」と絶叫した。
わあああ、と、のどが裂けんばかりにわめきながら、三千の黒い鎧は脇目もふらず東の敵へ向かって駆け出した。それを見た途端、恵国兵の鬨の声に肝をつぶしていた耳振純宣は、「ぎょええっ!」と奇っ怪な叫び声を上げて馬を返し、全速力で後方へ逃げ出した。
大将に置いて行かれた耳振勢は呆気にとられて足を止め、純宣を見送ったが、目の前に迫った恵国兵に気が付くと、恐怖に駆られて槍を捨て、主の後を追った。
耳振勢の逃げ足は速かった。一人の武者が駆け出すと他の者達も続き、一斉に領国のある北東の方角へ向かった。数人の武者頭が慌てて制止しようとしたが、無駄を悟ると一緒に逃げていった。二千二百の耳振勢は一本の矢も射ずに戦場から消え去った。
冒進は耳振勢が戻ってこないことを確認すると、すぐさま軍勢を反転させ、半数の一千五百を丘の上の弓隊に向かわせ、残りを率いて後方で退路を塞ぐ槍隊五百を攻撃した。同盟軍の意気地のなさに呆気にとられていた弓隊と槍隊は三倍の敵に攻められると戦意を失ってたちまち崩壊し、前方の騎馬隊も冒進が引き返して攻撃に加わると、かなわぬと見て撤退を始めた。
冒進は即座に追撃に移った。町へ戻ろうとした屈谷勢は散々に蹴散らされ、独岩城に入ることを諦めて北へ去っていった。
冒進は独岩の町の手前で陸梁に一万の兵を与え、州鳥城に向かわせた。陸梁は夜を徹して歩き、翌日の昼前に到着して城下町に入ろうとすると、町衆の代表が降伏を申し出てきた。聞けば、城は空っぽで、武者は一人もいないという。皆城を捨てて逃亡してしまったのだ。
後で分かったことだが、耳振純宣は遠く尾の国まで逃げていったらしい。二つの城が落ちたことを知った三十七歳の屈谷晴豊は、隣国の封主を口を極めて罵り、この上は敵軍に突入して斬り死にするまでとわめいたが、家臣達になだめられ、逃げ散っていた武者達が当主健在と聞いて集まってくると、彼等を率いて手輪峠を越えた。
蔓食国に入った晴豊は、中つ国の諸侯に使者を送り、同盟を結んで守りを固めようと呼びかけた。小封主達は皆狐ヶ原で多くの戦力を失い、恵国軍侵攻の可能性に怯えていたので喜んで同意した。屈谷家はその中で最も貫高が大きく、近隣諸侯の対立や利害に無関係だったので、晴豊は諸国からかき集めた一万六千の盟主に推され、峠に防御陣を張って、反撃の機会をうかがっているという。こうして、後明国の二城は、たった二日、一回の戦いだけで陥落したのだった。
冒進と陸梁は城を接収して町を占領した。そして、三日かけて領内を平定し、厳威将軍の五千の部隊が手輪峠を封鎖したことを確認すると、両城に合わせて三千の兵を残して、雲居国へ向かって進撃を開始した。
その知らせは、後明国に潜入した皆馴憲之の仲間によって影岡城にすぐに届けられた。恵国軍が迫っていることを知った光姫達は、予定通り影岡の町から兵を引き上げて城に籠もった。敵は大軍だし、町や村々の被害を避けるためにも、兵力を分散せず全軍で影岡城を守るべきだという恒誠の主張に、皆が賛同したからだ。影岡の町衆と仰雲大社の祭官達には抵抗しないように言い含めてあるので、焼き払われたりはしないだろう。
すでに籠城の準備は終わっており、武者達の意気は盛んだった。恒誠を中心に、様々な展開を考えて作戦も立ててある。光姫は敵軍の指揮官が禎傑でなく、華姫も同行していないと聞いてほっとしつつ、戦いに向けて気持ちを引き締めたのだった。
「いよいよ来たわね」
百合月十日の昼過ぎ、光姫は影岡城下郭の大手門の櫓から、城下に迫った恵国軍を見下ろしていた。城の前方を流れる御涙川の向こうで、黒い鎧の群が槍と鉄砲を構えて隊列を組んでいる。
「分かってはいましたが、やはり多いですね」
右隣で鎧姿の実鏡がささやいた。敵の兵力は二万七千と聞いているが、影岡の町に占領のための兵を残しているはずなので、実際は二万五千ほどだろう。影岡を明け渡したのにはそういうねらいもあったのだ。占領地が多いほど、敵は兵を割かなければならなくなる。
もっとも、町を戦場にするなというのは影岡城を作った初代当主実佐の遺訓だったし、実鏡を始め豊梨家の人々の望みでもあった。仰雲大社が戦に巻き込まれたら取り返しの付かないことになる。民のことや戦後のことを考えれば、大人しく降伏して抵抗しないでいてもらった方がよいのだ。
「どう攻めてくるかしら」
光姫がつぶやくと、左にいた安漣がその向こうの恒誠に「敵はどんな風に攻撃してくると思いますか」と大声で尋ねた。
恒誠は敵が目の前にいるのにいつもの着流しの小袖に胴当てをしただけという軽装で、黒塗りの軍配で自分を扇ぎながら敵軍を観察していたが、家老の問いにやはり声を張り上げて答えた。
「最初は様子見も兼ねて正攻法で来るだろう。二城を楽々と落として士気が高まっているだろうしな。連中は今のところ連戦連勝だ。恐らく、勢いに任せて正面から攻めてくるに違いない」
そして、光姫達の方を見てにやりとした。
「まあ、心配はない。この城はかなり攻めにくい造りになっている。全体が高い崖に囲まれていて、取り付いて登るのはかなり大変だ。それに、この城は神雲山を縦に真っ二つに割って横に倒したような形をしていて、大手門はその頂上の深いくぼみの一番奥にある。だから、敵は神々が煙を伝って火口の底に降りてくるように、正面の御涙川を渡って城の前の広場を突っ切り、空堀の間の細い坂道をここまで登ってこなければならない。そこを俺達は両側の出っ張った部分から弓で悠々とねらうことができる。あの程度の戦力では、まともにかかってくる限り決して門を破れないだろう」
恒誠の言葉に実鏡は安堵したようだった。言われなくても分かっていることとはいえ、やはり恒誠のような軍学の知識の深い者の口から聞くとほっとする。それは主君達の会話に聞き耳を立てている武者達も同じ気持ちだろう。だから安漣と恒誠はわざと大きな声で話したのだ。
二度目の実戦で、しかもこれだけ多数の敵に囲まれた状況でも冷静さを失わず、安漣の配慮を悟って笑みを浮かべて答えられるところは、恒誠の将器の証明であり、光姫も頼もしいと思う。だが、一方で、その余裕がこの先もずっとなくならないで欲しいと願わずにはいられないのもまた本音だった。
「防御の手はずは予定通りでよいのですね」
光姫も周りに聞かせるように大きな声で確認した。
「もちろんだ。敵がまともに攻めてくるなら、こちらも堂々と迎え撃てばよい。この城は正面以外は崖で攻めにくいから、ここを固く守っていれば、まず城には入れない」
武者達が硬かった表情をややゆるめ、互いに頷き合った。
「本当の勝負はもっと後だが、そこは考えてある。今は目の前の守備に集中しよう」
「はい!」
光姫が元気よく答えたところへ、後ろから奥鹿貞備の声がかかった。
「敵が動き出しましたぞ。そろそろご準備下され」
見ると、黒い隊列の一部が細長い列になって前進してくる。光姫は拳を握りしめて「よしっ!」と気合いを入れると、輝隆と従寿とお牧を連れて階段を下り、東側の突出部、通称右のこぶへ向かった。殻相衆三千人を指揮するためだ。左のこぶは豊梨家二千六百人と織藤勢四百人が、大手門周辺は田美衆一千人が担当する。残りの場所は浪人衆と山賊隊各五百人と義勇民一千五百人が見張っている。総勢九千五百人は、既に皆持ち場について戦闘開始の合図を待っていた。
恵国軍は御涙川にかかる長い木の橋を渡って一旦停止し、後続を待った。やがて一万の兵力が集結し、歩調をそろえて一斉に前進してくる。空堀の縁に達した敵兵達は、盾をかざしながら城を包囲するように左右に展開していった。
黒い鎧の群が城の前の広場を埋め尽くすと、その中央から横五人の列が、盾で前と側面と上方を守りながら大手門へ続く坂を登り始めた。他の敵兵ははしごを使って堀へ降り、別なはしごを崖に立てかけて取り付き始めた。
盾に囲まれた木製のみみずのような敵兵の列は、細い坂を大手門へ向かって少しずつ進んでくる。殻相衆の武者達は、弓に矢をつがえたまま主君と敵を見比べていた。まだ攻撃してはいけないのかと問いかける三千の視線を感じながら、光姫は城壁に沿って設けた足場に立って盾の隙間から敵をにらんでいた。焦れた武者が立てる鎧の音があちらこちらから聞こえてくる。光姫は大手門の方を気にしながら、弓を持つ腕のうずきに耐えていた。
とうとう恵国兵が坂の半ばを過ぎた。一人一人の顔がはっきりと分かる。もう大手門の上の櫓でも、敵兵にねらいを付けているはずだ。次第に膨れ上がる恐怖を必死に抑えつつ、そろそろ我慢も限界だわ、と思って向かいの城壁を見ると、狭間の奥で実鏡が貞備を従えて硬い顔をしていた。隣の狭間には楢間惟鎮と福子の緊張した表情も見える。
実鏡に励ますように頷いて大手門へ目を向けると、恒誠と目が合った。恒誠はゆっくりと首を縦に動かすと、敵の方を向き、黒い軍配を大きく前へ振り下ろした。同時に、櫓から陣太鼓が鳴り響いた。
「攻撃、開始!」
光姫は叫ぶと同時に手にしていた鏑矢を弓につがえて引き絞り、ねらいを付けてひょうと射た。矢は風に流されながら甲高い唸りを上げて木のみみずの先端へ飛んでいき、盾の壁の隙間をすり抜けて、一人の首の付け根に突き立った。
敵兵はうめき声を上げて膝を付き、盾を放り出して倒れた。その瞬間、わあああ、と爆発するような鬨の声が上がって武者達の弓が一斉に鳴り、無数の矢が坂の上と崖の下の黒い鎧へ降り注いだ。
即座に恵国軍も鉄砲で応戦する。たちまち、静かだった戦場は無数の銃声と弓音と空を切る矢の唸り、そして射られ傷付いて崖を転げ落ちていく恵国兵の悲鳴で埋め尽くされた。
『花の戦記』 影岡城見取り図
二日後の夜、冒進と陸梁は影岡の町で一番大きな温泉宿の最上等の部屋で、向かい合って酒を飲みながら苦い顔をしていた。三日に渡って多数の兵力を投じて城を攻めたが、全て無駄に終わったからだ。三層からなる影岡城で最も低い下郭にすら入れなかった。いや、そもそも大手門にたどり着くことさえできずにいたのだ。
最大の理由は城の構造だった。下郭でさえ大人の背丈の六倍はある崖の上なので、大手門まで長く細い坂を登らねばならず、その間ずっと矢にさらされるのだ。固まって盾を構えて身を守ろうとしても、大手門に近付くほど谷の幅が狭くなるからねらいも正確になるし、左右と正面から集中攻撃を受けては防ぎ切れない。ゆっくり歩くとねらわれるからと数人ずつ走って登らせてみたが、強い向かい風の中、鎧を着て重い盾を持った兵士達は門にたどり着くまでに息切れしてしまい、坂の両脇の空堀には、途中で速度をゆるめて矢を受けた恵国兵の死体が無数に積み重なっていた。
幸い影岡軍は矢を節約しているらしく、坂を登るか崖に取り付かなければ攻撃してこないし、城を出てきてとどめを刺そうとはしないので、白い旗を掲げた部下を派遣して負傷者を回収することはできたが、至近から矢で射られた者達は多くが戦闘不能で、影岡の温泉場で治療させるしかなかった。
二万七千の内、既に四千が死傷している。城兵の数が予想よりやや多かったのは確かだが、これほど苦戦するとは二人とも思っていなかった。
「矢を防ぐ上手い方法があればよいのだが」
酒杯を手に、冒進は悔しげにつぶやいた。味方の損害は全て弓によるものなのだ。
「遮蔽物のない道の上で三方から射られては避けようがない。盾を持たせて密集隊形を取らせても、城兵の顔がはっきり見えるような距離からねらわれるのだからな。鉄砲で反撃しようにも、敵は城壁に開いた小さな穴の向こうだし、細い坂道の上や空堀の中で膝を突いて弾込めするのは当ててくれと言っているようなものだ。しかも、厚い木の板に鉄を張った門扉を打ち破るには破城槌がいるが、五回送り込んで全て失敗している。先を尖らせた太い丸太を一本使った重い道具を、坂を登って門まで運ぶだけでも至難の業だ。車輪と盾付きとはいえ、三十人でかからせてもたどり着くまでに全滅してしまう。かといって、大手門以外は木も生えていない高い崖で、はしごを立てかけて登るしかなく、やはり弓や投石のよい的だ。全軍で囲んで一斉に取り付けばどこかの守りを打ち破って切り込めるかも知れんが、多大な損害を被ることは確実で、砦の建設と防衛に支障が出かねん」
冒進は酒を一気に飲み干すと、空になった酒杯を机に叩き付けるように置いた。
「ええい、なんという攻めにくい城だ。こんなところで足止めを食らうとは。我等はできるだけ早く藍生原へ進出せねばならんというのに」
酒杯に乱暴に新しい酒を注ぐ冒進に、腕組みをして何やら思案していた陸梁が言った。
「確かにあの城を落とすのは難しそうですな。となれば、城を攻めずに済む方法を考えるしかありますまい」
「城を攻めないだと?」
口元に運びかけた酒杯を止めて冒進は首を振った。
「あの城を放置はできん。行軍中に背後を襲われれば我等は退路を失い、最悪の場合、玉都の軍勢と挟み撃ちにされることになる」
「それは分かっております。ですから、影岡の城兵が我等を攻撃できなくしましょう」
「どういうことだ?」
冒進が尋ねると、陸梁は得意げな笑みを浮かべて説明した。
「要は、影岡城の兵数を減らしてしばらく動けなくしてしまえばよいのです。そうすれば、脅威にはならず、城を落とす必要もなくなります。司令官殿下は一月以内に西高稲の慰撫を終えられるはずです。本隊が来ればあの程度の小城など簡単に落ちるでしょうし、攻略できなかったとしても、玉都が陥落すればあの城を守る意味はなくなります。それまで我等の邪魔をできない程度に痛め付けて先に進みましょう」
冒進は酒杯を持ったまま少し考えたが、やがて頷いた。
「ふむ。城を落とせなかったと報告するのは業腹だが、大きな目的を優先するのはもっともではあるな。それで、具体的にはどうするのだ」
「敵を城からおびき出しましょう」
陸梁は自信ありげに言った。
「我々は城攻めを諦めたふりをして陣を引き払い、影岡の兵も呼び寄せて全軍で東へ向かいます。譜代封主の豊梨家は都の西の守りが役目のはずです。我々を通過させては統国府に叱責されると考え、後を追ってくるでしょう。それを引き付けつつ城から遠ざかり、適当な場所で会戦に持ち込むのです。敵の兵力は恐らく一万弱。我等は負傷者を除いても二万三千で、勝利は疑いありません。散々に打ち破って多くの敵兵を殺した後、そのままの勢いで城に攻め寄せます。可能ならば城を落とし、敵が逃げ込んで閉じ籠もった場合は悠々と都へ向かえばよいでしょう」
「なるほどな……」
冒進は再び考え込んだが、すぐに顔を上げてにやりとした。狐ヶ原や後明国で戦った敵は弱く、簡単に逃げ出した。影岡の城兵も守りは堅いが城を出て戦おうとはしない。吼狼国武者は会戦が苦手と考えたのだ。
「それなら上手く行きそうだな。敵を誘い出して撃滅するというのはいい考えだ。俺は野戦の方が好きだ。城攻めは時間がかかっていかん。部下が射殺されるのをじりじりしながら見守るのには飽き飽きしていたところだ」
「俺もですよ」
陸梁も笑みを浮かべて答え、冒進と酒杯を打ち合わせた。
翌十三日、恵国軍は陣地を引き払い、影岡の町の部隊を呼び寄せて合流すると、城へ背を向けて移動を始めた。全軍を集結させ、そろって西国街道を東へ進む様子は、誰の目にも城攻めを諦めて玉都を目差すように見えた。
すぐに、そうはさせじと、影岡城から軍勢が出撃した。影岡軍は全兵力九千五百の四分の三に当たる七千を繰り出して恵国軍を追いかけたが、距離を置いて付いていくだけで攻撃はしなかった。兵数で圧倒的にまさる相手に安易に戦いを挑めば、間違いなくひどい目に遭うからだ。守りを固めつつ用心深く追尾してくる影岡軍を振り返って冒進と陸梁はほくそ笑み、わざと隙を見せながらゆっくりと軍勢を進めていった。
北上すること数刻、影岡城から十分に離れると、冒進は田園地帯の外れにある野原で軍勢を停め、攻撃隊形をとらせた。ここで会戦して撃破するつもりだった。
この野原は昨夜二人で検討した結果、最もふさわしいと判断した場所だ。西に森、東に丘があってさほど広くないが、これ以上先に行くと暴払山脈と海沿いの丘に挟まれて平地がなくなってしまうし、ここより手前は青々とした水田に覆われている。二万の軍勢の展開には充分と、二人はこの場所に決めたのだった。
恵国軍は負傷者を下がらせると、残りの二万三千を左右に広げ、鶴翼の形に布陣した。三倍の兵力で敵を包囲し殲滅する作戦だった。影岡軍も敵がこの先の細い道に入ると攻撃しにくくなって逃げられてしまうと思ったのか、不利を承知で戦う覚悟を決めたらしく、少し離れたところで進軍を停止して陣形を整え始めた。上手く合戦に持ち込めたことで勝利を確信した冒進は、同じく満面の笑みの陸梁と頷き合い、攻撃開始の合図をしようと、剣を抜いて振り上げた。
と、その時、突然敵陣から大きな太鼓の音がして、影岡軍が一斉に恵国軍に背を向けた。そして、そのまま街道を南へ駆け足で戻り始めた。七千人の鎧武者が打ち鳴らされる太鼓に合わせ、足並みをそろえて走り去っていく。
冒進は呆気にとられ、次いで焦った。ここで逃がしては計画がおじゃんになる。同じく呆然としている陸梁と顔を見合わせると、慌てて全軍に追撃命令を出した。
冒進は大声で部下を叱咤し、馬を急がせながら、前方を整然と退却していく影岡軍を必死で追った。何としても敵が城に入る前に捕まえて撃破しなくてはならなかった。ここで逃がしてはまた城攻めをしなければならなくなる。合戦に持ち込みたいことを知られてしまったため、再び誘い出すのは困難だろう。
両軍合わせて三万の軍勢は、重い鎧を軋ませ槍や刀を鳴らしながら、百合月中旬の青空の下を黙々と走ったが、この奇妙な追いかけっこはすぐに終わった。西国街道が刈茅池と呼ばれる楕円形の溜め池の横を通る場所で影岡軍が停止し、恵国軍の方へ向きを変えたのだ。
汗だくの冒進は少し遅れて池のほとりにたどり着くと、全軍を呼び集めて隊列を整えさせつつ前方の敵を観察した。
影岡軍は野原の中央にある池と東側の丘の間の細長い草地に大きな盾を並べて壁を作り、街道を封鎖していた。広い場所は少数には不利と見て狭い場所を選んだらしい。少し先に溜め池から流れ出る川があって細い橋を渡らなければならないし、その向こうは川と青々とした水田に挟まれて街道の幅が狭いため、逃げ切れないと考えたのだろう。
この敵とどう戦うか考えているところへ、陸梁がやはり汗を拭きながらやってきた。
「敵は池と丘を左右の盾にして守りに徹するつもりのようですね」
「そのようだな」
冒進は眉をひそめた。
「やっかいなことになった。あの壁を破るのは手間がかかりそうだ」
池と丘の間の平地は狭く、七千でも十分な厚みを持った防御陣を築ける。冒進は武勇にすぐれた猛将で、兵を鼓舞して敵とぶつかり合うのは得意だが、ひたすら鉄砲を撃ち続けて相手の戦力を少しずつ削るような戦いは苦手だった。
「この丘を越えて側面や裏手に回らせるのは無理だ。反対側は池だしな」
東側の丘は溜め池が大雨であふれた時などに下の方を削られたらしくかなり急な坂になっている上、低い木が密生していて、武装した兵士が通るのは難しいだろう。
「正面から攻めるしかないか。余り兵を損ねたくないが」
影岡軍は守りを固めて恵国軍に出血を強いるつもりに違いない。兵力差が大きいので最終的な勝利は疑いないが、あまり損害が大きいと藍生原での砦造りと守備に影響が出かねない。
ところが、陸梁は勢い込んで言った。
「いいえ、逆に殲滅の好機ですぞ。敵は失策を犯しました」
「どういうことだ」
冒進が驚いて尋ねると、陸梁は影岡軍へ目を向けて嘲笑うような表情になった。
「左右が池と丘ということは、こちらも攻めにくいですが、敵の行動も制限されます。開いているのは背後だけです。もし後ろを塞がれたら、完全に退路がありません」
陸梁は池の周囲の草地をぐるりと指で示した。
「我等は敵の三倍の大軍です。軍勢を二つに分け、正面から盛んに攻撃して敵の注意を引き付けておいて、もう半分で池を回って背後を襲うのです。敵は前後から挟撃されて逃げ場を失い壊滅するでしょう。敵が気付いて逃げようとしても背後は川、狭い橋を渡った先は水田と川に挟まれた細い道で、七千人が殺到すれば大混雑します。しかも攻撃を防ぎながらの撤退ではゆっくりにならざるを得ません。敵が橋を渡り切るより早く迂回軍が到着し、やはり挟み撃ちにできるでしょう」
「なるほどな。敵は自ら死地に入り込んだというわけか」
冒進は陸梁が迂回軍を担当したいのだと察して不愉快な気分になった。陸梁は志願して副将になったこの機会に、自分の手で敵の退路を遮断して殲滅し、大きな手柄を立てたいのだ。
陸梁は禎傑の南方蛮族平定軍出身の若手で、下級武官から武功を重ねて頭角を現してきた新鋭だった。周囲から将来を嘱望されていたし、本人も相応の自負心を持っていた。もっと上位の将軍を派遣するべきだと主張した華姫に実力を見せ付け、鼻を明かしてやるつもりなのだろう。
そう思って冒進は一瞬眉をひそめたが、すぐに笑みを浮かべた。陸梁のねらいは見え見えだったが、冒進にもこの作戦は魅力的に思われたのだ。南海州の鉱山で華姫に負けた汚名を雪ぐためにも、敵を包囲して華々しい勝利をあげるというのは悪くない考えだし、あまり損害を出さずに敵を壊滅させられる案に文句はなかった。それに、あくまで目標は藍生原に進出して砦を築き、禎傑を迎えることなのだ。その功績の前では陸梁の手柄など大したことはないだろうと考えたのだ。
「盾の壁はこちら側だけで、後ろは無防備です。影岡軍が背後を守ろうと槍隊を並べても、半分になってさえ我が軍の方がはるかに多いですから、前後から同時に攻めれば簡単に突き破れるでしょう」
「一枚の盾で二ヶ所は守れない、頭かばえば尻は隠れず、か。ことわざ通りだな」
「愚かな奴らですな」
二人の将軍はひとしきり笑うと、真顔に戻った。
「では、正面はわしが引き受けよう。別働隊は君に頼む」
「はっ、お任せ下さい。必ずや敵の背後を遮断してご覧に入れましょう」
陸梁は右腕を心臓に当てて頭を下げた。
別働隊一万一千の準備はすぐに整った。それを知った冒進は、自身の指揮する一万二千に命令を下した。
「攻撃開始! 別働隊が裏へ回るまで敵をこちらに引き付けるのだ。決して撤退させるな!」
冒進は槍兵四百人と鉄砲兵百人を組み合わせた四角い横長の隊列を先頭に六つ並べ、その隙間を塞ぐように次の段を配置していく陣形を取らせた。影岡軍が挟撃を避けようと必死になって向かってきても突破させないために厚い壁を作ったのだ。そして、弾丸を間断なく浴びせながら前進を始めた。影岡軍は表面と裏面に鉄板を張り付けた分厚い樫材の大きな盾を隙間なくくっ付け、盾の端に恒誠の指示で開けてあった穴から槍を突き出して恵国兵を近付けず、後方から弓や投石紐で応戦する。それを見た陸梁隊も池を左に見ながら進み始めた。
池のほとりの狭い平地を無数の弾丸と矢と石が飛び交った。発砲音と弓矢の唸りが水面に反射して遠方まで轟いていく。激しい射撃戦が続いたが、形勢は五分五分だった。
人数では冒進隊が五千人も多いが、槍兵は見ているだけで出番がないため、全員が弓や投石紐を持っている影岡軍が互角以上に戦っていた。恵国軍も前面に盾を並べ、槍兵や鉄砲兵に小盾で身を守らせているものの、基本的には真っ直ぐしか撃てない鉄砲に対して、わざと後方から放たれた矢や石は弓なりの弾道を描いて上から降ってくる。威力は直撃より劣るものの、当たればただでは済まない。
もちろん、思い切って盾を開いて槍兵を突っ込ませることはできるが、死傷者が増える。目的は敵を引き付けることなのだから、そんな無茶をする必要はなかった。本格的な攻撃は包囲が完成してからだ。
幸い影岡軍は包囲の危機にあっても逃走は困難と考えたのか後退はせず、半分に減った冒進隊を矢や石で弱らせたところで突撃して突破することに賭けているようだった。そのままこの先の狭い道に逃げ込んで守りを固めれば取り敢えず全滅は避けられる。その後、夜になるのを待って、冒進軍を迂回して密かに城へ戻るつもりなのだろう。影岡軍はこの辺りの地理に詳しいからそういうことも可能だ。冒進は部下に、敵との距離はこのまま保ち、敵の突撃に備えて守りを厳重にしつつ、かけ声と銃撃を盛んにしろと命じた。
一方、陸梁隊は順調に前進し、二つ目の川を渡ろうとしていた。刈茅池には西の山から流れ込む川が二つ、池の南端から流れ出る川が一つある。どの川も幅の割に深く、大人の肩くらいまであるが、流れ出る方はその上を西国街道が通っていて橋があるのに対し、流れ込む二本には橋がない。だから、鎧を着た兵士が一万一千人も越えるとなると時間がかかった。特に鉄砲兵は弾薬を濡らさないように、慎重にならざるを得ない。
真っ先に渡った陸梁は、いらいらしながら兵士達を待った。この二本目の川は池を挟んで影岡軍の丁度向かいの位置にあるので、敵まであと半分の距離が残っている。影岡軍は当然別働隊の動きに気が付いているはずなので、動揺した武者達が包囲を恐れ、持ち場を放棄して逃げ出してしまう可能性があった。そうなると、統制を失った敵と乱戦になってこちらも組織的な戦闘が行いにくくなり、兵士達個人の手柄にはなっても、陸梁の指揮官としての功績はあまり認めてもらえないかも知れない。のろのろしていると手柄を立て損なうと陸梁は焦っていたが、顔には出さず、ただ兵士達を急がせるように部下を叱り付けていた。
「全員川を渡り終えました」
ようやく待ちかねた報告が来た。陸梁はすぐに全軍前進の命令を出すと、自分も馬を歩かせ始めた。東を見ると、冒進隊が盾隊を前進させ、その後ろに槍兵と鉄砲兵を並べて、敵の壁へ少しずつ迫っていた。影岡軍の矢や石が尽きたらしい。これは本当に急がないと勝負が付いてしまう。陸梁が進軍速度をもっと上げよと部下に命じようとした、その時だった。
突然、今越えてきた二つの川の向こう側、つまり北の方から大きな鬨の声が聞こえてきた。同時に、恵国語の悲鳴や慌てた叫び声が辺りに響き渡った。陸梁は驚いて背後を振り返り、冒進隊が大混乱に陥っているのを発見して呆気にとられたが、すぐに何が起こったのかを理解して、馬上で槍を取り落しそうになった。
『花の戦記』 刈茅池の合戦図 その一
「恵国軍が撤収の準備をしているそうです!」
朝早く、自室でお牧と戦の身支度を整えていた光姫は、部屋の外で叫んだ従寿の言葉に急いで襖を開けた。「まだ私は着替え中です!」と抗議するお牧を無視して赤面する従寿に事実を確かめた光姫は、走って評定の間へ向かった。
広間には既に実鏡や恒誠、安漣・追堀親子・奥鹿貞備・楢間親子・皆馴憲之・白林宗明など、主立った者がそろっていた。
部屋に飛び込んだ光姫が慌ただしく座に付くと、緊張した面持ちの実鏡が皆を見渡して言った。
「いよいよ決戦の日が来ました」
全員が頷き、一斉に恒誠を見た。
「準備は全てできている」
ただ一人いつもと変わらぬ飄々とした様子の恒誠は、硬い顔の光姫を見返すと、落ち着いた声で言った。
「手はず通り、予定通りにやれば勝てるはずだ。何も心配はない」
恒誠は笑っていた。狐ヶ原の豊梨家の陣所で初めて会った時と同じ曇りのない笑顔だった。この状況でよくあんな風に笑えるものだわと光姫は思ったが、その笑みにとても安心した。周りを見ると、他の者達も同じ気持ちらしかった。光姫は戦いの前の恐れと昂ぶりの震えを体に感じながら、ぎゅっと拳を握って仲間達に呼びかけた。
「さあ、私達の運命を賭けた大勝負を始めましょう。この日のためにこれまで準備してきたのですもの!」
いつも冷静な師隆が真っ先に声に力を入れて答えた。
「そうですな。不敵な侵略者どもを打ち破りましょう」
「今日は今年の戦で初めて恵国軍が敗北する日になりますね」
輝隆の言葉に楢間親子が大きく頷き、安漣も言った。
「吼狼国武家の実力を思い知らせてやりましょう」
「我等の武勇を見せる時ですな」
白林宗明が末座から声を上げると、皆馴憲之が叫んだ。
「連戦連勝で思い上がってるやつらに一泡吹かせてやろうぜ!」
「その通りだ」
貞備が笑みを浮かべ、全員が顔を見合わせて頷き合って実鏡を見た。恒誠が代表して言った。
「実鏡殿、出陣の命令を頼む」
強張った表情の実鏡は声の震えを必死で抑えながら、大将として命じた。
「では、城を出て敵を追い、撃破します。全員すぐに朝食を済ませ、支度をして大手門前に集合して下さい」
「ははっ!」
貞備、楢間親子が声を上げて平伏し、光姫や恒誠ら他の諸将も一斉に頭を下げた。すると、雰囲気を感じたのか、銀炎丸が出陣を告げる法螺貝のように大きく長く遠吠えした。
一刻後、実鏡を大将に、恒誠、師隆、安漣、貞備らが率いる主力の七千が出陣し、恵国軍を追尾していった。
それを見送った光姫は、一刻の後、追堀輝隆や楢間惟鎮と福子、皆馴憲之、白林宗明ら二千を率いて城を出た。城に残ったのは楢間惟延と義勇民五百だけだった。
銀炎丸ももちろん光姫に従っている。灰色の狼はなめした厚い皮で作った特製の防具を胴に巻いていた。吼狼国の狼は全身を硬い毛に覆われているので流れ矢程度では怪我をしないが、念のため、影岡の職人に注文して作ってもらったのだ。
光姫の部隊の武者達は、背中に弓、手に槍で、全員が騎乗していた。皆、鞍の後ろに干し草の束を積んでいる。移動速度が速く、あまり急ぐと追い付いてしまうので、光姫はわざとゆっくり進み、街道を避けて森や丘の陰を通りながら刈茅池を目差した。既に恵国軍も実鏡隊も見えなくなっていたが、敵に存在を知られるわけにはいかないのだ。
着いてみると、既に両軍は通過した後だった。戦場になる予定の場所には実鏡隊がわざと残していった厚い木の盾が散らばっている。重いから走るのに邪魔になるし、戻ってくる時の目印になるし、盾のあるところへ行けば安心だと思うから山賊や義勇民も混じった混成の武者達が逃亡したり恐慌を起こしたりするのを防げるし、手近な盾を拾って壁を築けという命令を思い出して武者達がすぐに動けるだろうというので、恒誠が置いていかせたのだ。他に、矢や拳大の石を大量に積んだ荷車も多数残されていた。
光姫達は盾の間を素早く通り抜け、恵国軍が布陣するはずの場所に運んできた干し草をばらまくと、池の北西側の森へ隠れた。全員馬から下りて身を低くし、息をひそめて北の方をうかがった。
やがて、実鏡隊が駆け足で戻ってきた。比較的軽装の山賊や義勇民達はよいが、鎧姿の武者達はかなりしんどかったはずだ。だが、皆汗をぬぐう間も惜しんで盾の壁をものすごい勢いで作っていく。敵前で背を向けて逃げてきたのだから、壁作りが間に合わなかった場合は悲惨なことになるという恐怖がある。地面にはあらかじめ盾を並べる位置が置き石で示してあるし、七日前にここで訓練を行ったので、全員やるべきことは分かっているのだ。
盾を支えるのは腕力と体力に自信のある義勇民や無頼漢達だ。米俵より重い大きな盾を二人一組でかついで長い距離を歩き、素早く隙間なく並べ、下に突き出ている釘を地面に打ち込んで固定する動作を毎日練習してきた。恒誠は選抜された力持ち達を、この盾の壁が崩れずに味方を守ってこそ全ての作戦が成り立つと激励したので、彼等は地味に見える自分達の役目に誇りを持ち、猛牛の群れの突進でも押し返してみせると張り切っていた。
すぐに恵国軍が追いかけてきた。実鏡隊の前を塞ぐ形で陣を敷き、隊列を組み直している。
「恒誠さんの言った通りになるかしら」
光姫がつぶやくと、隣にいた輝隆が「なると思います」と答えた。
「あの状況を見れば私でも軍勢を二つに分けます。正面から攻めても勝てるでしょうが、時間がかかり、損害が大きくなります。一方、池を迂回すれば包囲殲滅できるのです。ちょっと知恵の回る者ならこの誘惑には勝てないでしょう」
「そうです。恵国軍はせっかくおびき出した七千を城に戻したくないのですから、包囲の可能性を捨てるとは思えません」
「絶対、こんなところに陣を張った彼等を間抜けだと思っていますね。本当に間抜けなのは向こうですけど」
楢間惟鎮と福子も言った。次席家老の息子である惟鎮は実鏡の近習頭だから本来ならば主君の身辺を守らなければならないが、武芸と馬術にすぐれた者を選抜した光姫隊の中の豊梨家や織藤家の武者の統率者としてここにいる。梅枝家の武者をまとめるのは輝隆の役目だった。福子は渋る父と兄にせがんで光姫隊に入れてもらったのだ。
「悔しいが、この罠には俺も引っかかっちまうだろうなあ」
「私も同じ意見ですよ。きっと想定通りに敵は動くでしょう。ご安心下さい」
光姫の左手には山賊達や浪人衆を率いる皆馴憲之と、その副将の白林宗明がいる。
光姫はつい声の方を振り向き、すぐ横で爽やかな笑みを向けている宗明と目が合うと、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「あなたがそうおっしゃるなら信じます」
あれから二人の関係に進展はない。だが、気持ちがすぐ顔に出るという自覚のある光姫は、当然気が付いているはずの宗明の様子を観察して、彼もまんざらではないらしいと感じていた。現に、あれ以来親しげに話しかけてくる回数が増えている。とはいえ、恵国軍の来襲を前に、一手の大将である光姫は色恋どころではなかったので、正式に結婚を申し込むのは戦いが終わってからにしようと、ついふわふわしがちな気持ちを引き締めていたのだが、そばで笑顔を見せられると胸がどきどきするのを抑えられない。
背後で従寿の溜め息が聞こえた。従寿は光姫の様子からますます宗明に腹を立てているらしく、「あの男は信用できません。ねらいは八十七万貫ですよ。気を付けて下さい」と忠告したこともあった。
宗明を横目でにらんだ従寿は、いかにも感心した風に言った。
「恒誠様は大変な知謀の持ち主ですから、きっと読みが当たるでしょう。白林殿の策と行動を上手く利用して皆馴殿を見事に降参させたくらいですし」
宗明は眉をひそめた。だが、言い返す前に隣のお牧がたしなめた。
「その策を姫様にお教えしたのは従寿殿ですよ」
一つ年上のお牧には弱いらしく、従寿はむっつりと黙り込んだ。楢間惟鎮は困った顔をしている。
「まあ、大丈夫でしょうよ。俺が惚れ込んで手下になったお方が間違いねえって言うんですからねえ」
光姫達のやり取りをまるで芝居を見物するように面白がっていた憲之が呑気な声を出した。楢間福子は黙っていたが、興味津々の様子だった。
と、何も聞こえないという顔で池の方を見ていた輝隆が、しっ、と口に指を当てた。
「やはり、敵は別働隊を作りましたよ」
全員恵国軍に目を戻した。敵の半数が分かれてこちらに進んでくる。その向こうでは敵本隊の鉄砲隊が盾を持った兵士の陰に隠れて前進を始めていた。
「恒誠様の予想通り、敵は軍をほぼ半分に分けました」
「『敵は確実に後方を遮断して逃がさないために、別働隊をこちらの本隊と同数かそれ以上にするはずだ。恐らく半数を迂回させるだろう』だったわね。さすがだわ」
光姫は作戦の成功を確信したが、恒誠には二度も囮として使われたので、その武略に感心しつつも複雑な思いがあった。
それを分かっているのか、お牧が言った。
「出陣の時、恒誠様がおっしゃったことをお忘れではありませんよね」
「もちろん覚えているわ」
恒誠は門を出る時、見送る光姫に言ったのだ。
「俺は最も重要な役目をあなたに与えた。作戦の成否は光姫殿にかかっている。これは吼狼国を守り、影岡城の命運を決する合戦であると同時に、あなたの名誉を挽回する最初の戦いだ。光姫殿ならきっとできると信じている」
恒誠のいつになく真剣な顔つきに光姫は驚いたが、力を込めて返事をした。
「任せて下さい」
恒誠は微笑み、一つ頷くと、馬にまたがって去っていった。
「大丈夫、分かっていますよ、恒誠さん」
光姫は小声でつぶやいて弓をぎゅっと握り締めると、周囲に手で指示して、見付からぬように更に森の奥へ下がった。
やがて、恵国軍別働隊の長い列が近付いてきた。光姫は隣に座った銀炎丸の首を抱き寄せ、地面に伏せた銅疾風の背中をさすりながら、息を殺して敵が通り過ぎるのを待った。別働隊の兵士達は実鏡隊と戦っている味方が気になるのか、森の方にはほとんど目を向けなかった。敵の本隊から激しい銃声が途切れることなく聞こえてくるが、実鏡隊は善戦して敵を近付けていない。
そうして身をひそめている内に、光姫達の前を通り過ぎて右手へ去っていった敵の別働隊が、遂に二本目の川を越えた。敵軍はこちらに背を向けて行軍を再開した。
と、実鏡隊で急に大きく太鼓が鳴り始めた。だんだんだん、だんだんだんと、陣太鼓を激しく三連打している。合図だった。
輝隆達が一斉に光姫を見た。光姫は頷き、立ち上がった。
「さあ、私達の出番よ」
いよいよその時が来たのだ。
光姫は銅疾風が声を出さないように口に噛ませていた枚を外し、手綱をそばの木からほどいた。幹の低いところに結ばれて無理矢理座らされていた銅疾風がうれしげに立ち上がり、大きく身震いした。光姫は愛馬の鼻先をやさしく撫でると手綱を握って後ろを振り返った。
「準備はいい?」
二千人が頷いた。
「では、行くわよ。全員、私に続きなさい!」
叫ぶと、光姫は手綱を握ったまま走り出した。一気に森を駆け抜けて、草地に出ると走りながら銅疾風に飛び乗った。
そのまま真っ直ぐに恵国軍主力の背後を目差す。振り向くと、お牧と従寿がすぐ後ろで左右を守り、その向こうに輝隆、宗明、惟鎮、福子らが続いていた。二千の騎馬隊は細長い矢のようになって野原を突っ走った。
数人の敵兵がこちらに気が付いて指差している。光姫は敵まであと少しのところで速度をゆるめ、全軍を集結させた。馬を走らせながら背中から弓を取って矢を握る。
「つがえて!」
武者達が斜め上に向けて弓を引き絞った。
「放て!」
二千の弓が馬上で唸り、矢の雨が敵陣に降り注いだ。武者達の半数は弓を背に戻し、馬の脇につるしてあった槍を取った。
「突撃!」
出せる限りの声で叫んだ光姫は、背後からの矢に混乱している敵の隊列の隙間に馬で躍り込んだ。ねらいもそこそこに左右に矢を連射しながら陣内を走り回り、駆け抜けると再び敵陣へ突入する。
ねらいは敵を殺すことではない。かき乱すことなのだ。敵に立ち直る隙を与えてはならなかった。
「惟鎮さん、憲之さんと宗明さん、お願いします!」
「了解しました!」
「任せて下せえ!」
「光姫様、どうかご無事で!」
叫んで、惟鎮と憲之達二人がそれぞれ五百人を連れて別れていく。光姫率いる一千人と三組で敵陣を蹂躙するのだ。福子も大きく手を振って兄に付いていった。
その時、前方で大きな鬨の声が上がった。実鏡隊の突撃だ。矢がなくなったと見せかけて目の前までおびき寄せた敵に一斉射撃を浴びせ、盾を開いて切り込んだのだ。同時に多数の火矢を敵陣内へ打ち込み、火災を起こさせた。光姫隊が隠れる前に各所にばらまいた草は煙がたくさん出る種類で、あらかじめ油をしみこませてあったのだ。
冒進隊は大混乱に陥った。彼等は実鏡隊を逃がさぬように多数の小部隊を並べて厚い壁を作り、飛んでくる矢や礫に盾を向けていたが、後方は無警戒だった。そこへ二千の矢と騎馬隊の奇襲だ。しかも、慌てて後ろを向いたところへ前の敵が突撃してきた。
半分になっても数では影岡軍の合計よりまさっていたが、火と煙にまかれ、丘と池の間の狭い場所で前後から挟撃されて騎馬隊に縦横に切り裂かれて、陣形は既に崩壊していた。光姫隊に背後を襲われた鉄砲隊が追い払おうと慌てて発砲したが煙でねらいが定まらず、騎馬で駆け抜ける敵ではなく味方に当たって混乱を一層大きくしていた。
冒進隊の苦戦を対岸に見た陸梁は、愕然として馬を停めた。
「戻りますか」
部下が尋ねた。今から引き返して本隊に合流し、敵の伏兵の更に背後を突けば、冒進隊は立ち直るかも知れない。
「いや、このまま進む」
陸梁は首を振り、前進速度を上げよと命じた。戻ろうとすれば今越えたばかりの二本の川を再び渡ることになる。つい先程、それにどれだけの時間がかかったことか。のろのろと渡河などしていたら冒進隊は負けてしまう。池から流れ出る三つ目の川には橋があるから、むしろこのまま前進を続けた方が早く敵にたどり着く。それに、引き返しては敵を包囲するという計画が駄目になる。背後を突かれれば影岡軍の本隊七千はこちらに対応せざるを得ず、そうなれば二千程度の騎馬武者など一万二千の冒進隊の敵ではないはずだった。その後は予定通り敵の本隊を挟み撃ちにすればよい。
「冒進殿の危機を救い、勝利を決定付けるのは俺ということだな」
陸梁は焦る自分に言い聞かせ、部隊を引っ張るべく先頭に向かった。
「やはり、敵は前進を続けます」
銅疾風の足をゆるめた光姫に、輝隆と従寿が近付いてきた。
「これも恒誠さんの予想通りね」
「本当にすごいですね」
従寿は心底感心している様子だった。
「こちらの背後は安全ということね。では、そろそろ決着を付けましょう。どこにいるか分かるかしら」
「はい。私がご案内します」
何度も敵陣に突入しながら、光姫達は敵の大将を探していたのだ。光姫自身は矢を射るのに忙しくて見付けられなかったが、輝隆は武者達と協力してちゃんと発見していたらしい。
「では、行きましょう」
輝隆の先導で一千人の騎馬隊は敵の本陣に向かった。
さすがに本陣周辺はさほど混乱しておらず、槍騎馬兵を中心とした五百人ほどが陣形を維持していた。そこへ、光姫達は一気に突っ込んだ。
たちまち激しい戦いになった。光姫隊はほとんどの武者が弓を背に戻し、槍を構えて接近した。恵国軍も槍で応戦する。もはや両軍とも隊列や陣形はなく、武術を駆使しての個人の戦いになった。
前方の敵は実鏡隊が引き付け、その他の敵は惟鎮や憲之の隊が攪乱してくれているので、本陣の危機にも援軍は来なかったが、さすがに大将を守る者達は精鋭だった。兵数の差で光姫達がやや優勢だが、時間が経てば気が付いて駆け付けてくる部隊が増えて形勢は逆転するだろう。それに、敵の別働隊が池を回り終える前に片を付ける必要があるので、急がねばならなかった。
敵の大将は馬に乗り、長い槍を持って辺りをにらんでいた。恐らく冒進という将軍だ。壮年で覇気にあふれ、体格も立派で、全身を真っ黒な鎧に包んだ姿はなかなかの猛者と見えた。
「これは行けそうね。後は私に任せて」
光姫が言うと、計画通りとはいえ、さすがに輝隆は心配そうな顔をしたが、頷いた。
「周囲の敵兵は引き受けます。光姫様の邪魔はさせません」
輝隆は百人ほどの家臣を呼び集めると、「ご武運を祈ります」と言って敵の大将に向かっていった。最後まで大将を守っていた数十人が応戦し、敵将の周りががら空きになった。
光姫は弓を握り締め、背中の矢の数を指先で確認すると、銀炎丸にこの場所で待つように命じ、敵将目がけて馬を走らせた。従寿とお牧が付いてくる。
薄桃色の鉢巻きと袴に赤と白の胴鎧で駆けてくる光姫に驚いたのか、敵の大将がこちらに目を向けた。光姫はぐっとにらみ返し、目の前を駆け過ぎながら矢を射かけた。ねらいは正確だったが、敵将はとっさに左腕に付けている鉄張りの小ぶりな盾で顔を守り、辛うじて防いだ。
光姫は馬を止めると、振り向いて、盾に突き立った矢に驚いている敵の大将に思い切りあかんべえをした。舌まで出して、べろべろと動かす。更に、腰を上げておしりを叩いてみせた。そして、にこりと笑って首を傾げ、手招きした。
こんなあからさまな挑発には乗らないかしら。
光姫は内心冷や冷やしたが、心配は無用だった。敵の大将は光姫の身振りの意味を悟ると、顔を真っ赤にして追いかけてきたのだ。あれでは馬が可哀想だわと思ったくらい、繰り返し腹を蹴って煽っている。だが、手綱さばきは安定し、槍先はしっかりと光姫を向いていた。やはりかなり腕が立つらしい。それに、単純に激怒しているわけではなく、配下を引き連れてやってきた光姫を将と見て倒そうとしているようだった。
大将が馬を走らせると、周囲の騎馬兵五人が慌てて後を追ってきた。光姫は従寿とお牧を連れて逃げた。敵は必死に付いてくるが、幼い頃から毎日馬で駆け回っていた光姫が銅疾風という名馬に乗っているのだからなかなか追い付けない。光姫は悠々と走り、急に向きを変えて敵兵とすれ違い、攻撃の好機と向かってくるところを二人まで射落とした。その腕前と馬術には敵将も驚いたらしく、やや慎重になったが、光姫を逃す気はないようだった。
お牧がわざと遅れておびき寄せた敵兵を従寿が背後から襲って落馬させ、敵味方とも三騎ずつになった。邪魔者が減ったので、光姫はいよいよ敵の大将をねらうことにした。
光姫は走る銅疾風の上で身をよじって、追いかけてくる敵将に数本の矢を放ったが、さすがに当たらなかった。敵将はとっさに手綱を引いて馬の速度や向きを変えたり身を伏せたりしてよけてしまうし、馬術もなかなかのものでねらいを定めさせない。そもそも走りながら動く的を射て命中させるのは至難の業なのだ。甲冑も頑丈そうで至近距離から関節などの弱点を狙わないと射抜けそうにない。かといって、馬を止めればすぐに追い付かれて槍で攻撃される。佩刀や薙刀はあるが、腕力や体力の差で、接近されたら光姫に勝ち目はないだろう。
だが、先程から駆け通しなので銅疾風に疲れが見え始めた。さすがの名馬も次第に速度が落ちてきている。敵将もそれに気付いたらしく、不気味な笑みを浮かべて距離を詰めてくる。敵の別働隊も気になるし、ここで勝負を決める必要があることははっきりしていた。
「従寿さん、お牧!」
光姫が呼ぶと、二人は馬を寄せてきた。
「例のをやるわ。他の二人をよろしくね」
「分かりました」
二人は頷くと、馬を反転させて敵将に向かっていった。
護衛の槍騎馬兵二人がそれを阻む。敵将は戦う四人を迂回し、光姫の方へ馬首を向けた。大将の後を追おうする敵兵にお牧が牽制の矢を放ち、従寿が立ち塞がって邪魔をする。お牧達は光姫達が遠ざかっていくのを確認すると、敵兵を引き付けながら別方向へ馬を走らせた。
敵将が四人を迂回する間に距離を取っていた光姫は一旦馬を止め、左手に弓と手綱を握り、右手に一本の矢を持ち、首から下げていた短い木の笛を口にくわえた。そして、矢を弓につがえると、敵将目がけてゆるやかに銅疾風を走らせた。
敵将は光姫が覚悟を決めたと悟ってにやりと笑い、槍を構えて一直線に向かってくる。光姫も速度を上げた。
残り数呼吸ですれ違うという距離まで来た時、光姫は矢を放った。至近からの攻撃だったが、敵将は難なく小盾で受け止めた。正確に急所をねらってくることを最初の挑発の一矢で理解していたのだ。光姫は素早く次の矢を背から取って弓につがえたが、引き絞るより早く敵将が迫ってきた。光姫はとっさに手綱を大きく引いて馬を右に向け、敵将の槍をかろうじてよけると、木の笛を強く吹き鳴らして全力で逃げ出した。
敵将は笛の音に驚いて警戒する様子になったが、周りを見回して誰もやってこないと分かると、すぐに光姫を追ってきた。光姫は笛を何度も吹き鳴らしながら逃げる。敵将の馬の蹄の音はぐんぐん近付き、振り返ると馬一頭ほどの距離にいた。敵将は左手で手綱を操りながら、勝利を確信した顔で槍を持った右腕を振り上げていた。
これはやられる。間に合わない。
そう思った時、近付いてくる白い影が目に入った。
来た!
光姫は笛を口から放し、矢を持った右腕を大きく上に突き出して天を指差しながら、声を振り絞って思い切り叫んだ。
「銀炎丸、今よ! 吼って!」
途端に、灰色の狼が牙をむき出しにして、腹の底から耳がおかしくなるほどの大声で吠えた。影岡城の武者達が口をそろえて恐怖と畏敬の念を覚えると言う太く荒々しい咆吼だった。その雄叫びは追い詰められた狩りの獲物の抵抗の意志を根こそぎ吹き飛ばすような猛々しさで、まさに吼狼国の獣の王者たる守護の神獣にふさわしく、主人の光姫でさえどきりとしたほどの迫力があった。
だから、それをいきなり間近で聞かされた敵将の馬が仰天したのは当然だった。狼は恵国にもいるが、吼狼国のものは大きさも強さも桁違いで、銀炎丸はその中でも群を抜いて巨大なのだ。そんな猛獣を前にした敵将の馬は震え上がって悲鳴のいななきを上げ、慌てて身を翻して逃げようとしたが、全力疾走の途中だったので曲がり切れずに足をもつれさせ、派手にひっくり返ってしまった。
驚いたのは敵将だった。突然馬の背から放り出されて地面に激しく叩き付けられたのだ。痛む体を何とか起こしたものの事態が理解できず、身をよじって暴れる馬に思わず手綱を握る手をゆるめると、自由を手に入れた馬は主人を捨ててどこかへ駆け去っていった。
それを呆然と見送った敵将は、すぐそばに馬蹄の音を聞いてはっとして振り向いた。その瞬間、目の前で銅疾風を止めてねらいを付けていた光姫の矢が、そののどを貫いた。
敵将は驚愕と憎しみを浮かべた目を大きく見開いたまま、仰向けに倒れた。そこへようやく敵兵を振り切った従寿が駆け付け、馬から飛び降りると、敵将に走り寄った。絶命を確認した従寿は、満面の笑みで光姫に頷くと立ち上がり、槍の刃の下に巻き付けてあった赤い旗を広げて高々と掲げた。
光姫は従寿と一緒に戻ってきたお牧と微笑み合うと、右手を天に向かって三回突き出した。それを見て、銀炎丸が三度長く遠吠えした。
途端に影岡軍の全ての武者が口を閉ざした。急に静かになった戦場に、光姫達三人の声を合わせた勝利宣言が響き渡った。
「吼狼国の勇者達、そして敵兵に告げます! 敵将冒進は、影岡軍騎馬武者隊の大将梅枝光子が、たった今討ち取りました!」
その途端、光姫隊の武者達の爆発するような喜びの雄叫びが辺りを埋め尽くした。武者達は吼狼国語と恵国語でその事実を繰り返し叫び、それは戦場全体に広がっていった。敵将を討ち取ったという恵国語は、恒誠が豊梨家の硫黄交易担当の家臣に聞いて全員に覚えさせていたのだ。
やがて、実鏡隊の方からも歓喜の咆哮と口を合わせた恵国語の叫びが聞こえ、一瞬の静寂の後、総攻撃を命じる恒誠のよく通る凛とした声と、実鏡の「全軍突撃!」という元気な声、武者達の勝利の確信に満ちた鬨の声が響き渡った。同時に、恵国兵達の喊声が弱まり、驚愕や不安や恐怖のうめき声に変わった。周囲を見回すと、本陣の守備兵達は抵抗を諦めて逃げ出し始めていた。もはや戦いの勝者は明らかだった。
「光姫様、お疲れ様でした」
光姫達が馬を下りて休んでいると、自分の笛を吹いて兵を呼び集めていた輝隆が戻ってきた。五百人全員を無事に引き連れて帰ってきた楢間惟鎮も、敵将の遺体を確認して喜びに頬をゆるめていた。福子は馬を飛び下りてきて光姫に抱き付いた。
惟鎮が尋ねた。
「見事なお手並み、感服致しました。あの作戦は光姫様が思い付かれたのですか」
「殻相国の退却戦で、敵の兵士の馬が銀炎丸の声に驚いて逃げていったのを思い出して考えたことなの。吼って、と私が言って右手で天を指差すと吠えるように仕込むのに、随分と牛の肉を使ったのよ」
穂雲では人々が怖がるので吠えないように躾けていたため、さしもの賢い狼も思い切り吠えることを覚えるまで五日ほどかかったのだ。
「銀炎丸もお手柄だな」
輝隆が頭を撫でると、灰色の狼はうれしそうに吠えた。光姫の命令通り激しい戦闘の真っ直中でじっとしていた銀炎丸は、主人の笛の音を聞いて全速力で駆け付けたのだ。
「すげえなあ。本当に討ち取っちまったんですかい」
そこへ憲之と宗明がやってきた。
「さすがは光姫様ですね。敵の大将を倒すとは。正直驚きました」
「それほどでも……。お二人も随分活躍なさったようですね」
敵の隊長格の者が将の印として鎧の袖に付けている虎の刺繍を憲之が二つ、宗明は三つ腰に結んでいるのを見付けて言うと、宗明は首を振った。
「合戦で敵将を仕留めるのは容易なことではありません。相当の負け戦でも、多数の護衛に守られている大将は滅多に討ち死にしません。この合戦の作戦を立てた織藤公の知謀の冴えも恐ろしいほどですが、光姫様のお働きも驚嘆すべきものです。私の手柄など到底及びません。光姫様はお美しいだけでなく、とてもお強くていらっしゃる」
宗明のいかにも感心したらしい声には呆れと妬みと悔しさの響きが混じっていたが、光姫は思い人にほめられただけで舞い上がり、頬を染めた。
「えへへ、ありがとうございます」
つい笑み崩れると、従寿がわざとらしく咳払いした。
「姫様。まだ戦は終わっていませんよ」
「そうです。喜ぶのは完全に勝ってからにしましょう」
お牧達の言葉で状況を思い出して、光姫が池の向こうを見ると、陸梁率いる一万一千はまだ三番目の川に達していなかった。
二の川から三の川までは、池と水を張った田んぼの間が牧草地になっている。大雨で池が増水した時のために敢えて田にせず、水を遊ばせる場所を作ってあるのだ。雲居国は狼神信仰の中心地で寺院や民家や商店の供え物として牛肉の需要があるし、隣国の玉都へも供給しているので、牛の数が多かった。
刈茅池の周辺を戦場にすると決めた恒誠は、近くの村にこの牧草地の草を刈るように依頼し、他の場所からも枯れ草や枯れ枝を運んできて草地全体に敷き詰めさせた。陸梁隊が近付いてくると、隠れていた伍助達十名の義勇民が油をまいておいたその草に火を付けた。たちまち草地は火に覆われ、もうもうと白煙が上がって、草の上を歩くことは不可能になってしまった。陸梁は歯噛みしたが、草地の縁を回って水田との間の畦道を通るように命じた。細い道を長い列になって進まざるを得なくなったが、それでも戻って二本の川を渡るよりは早いと考えたのだ。
「これも恒誠さんの予想が当たったわね」
敵は迂回挟撃にこだわるだろうから、通行が可能な状況なら多少時間がかかっても前進しようとするはずだと恒誠は言った。自分の作戦をよい考えだと思っている限り、人はそれに固執する。名案を諦めることは、それを思い付いた自分の賢さへのうぬぼれを捨て去ることだからだ。自分の考えや行動が完全に相手の思惑通りだと他人の指摘なしに認められるのは、人という存在がいかに愚かなものかをよく知っている本物の賢者か、よほど自分に自信がない者だけなのだ。
「城を攻められた段階で分かっていたけれど、敵に騎馬兵が少なくてよかったわ。一気に走って池を回られたらこの作戦は失敗したでしょうから」
「恒誠様は、敵の先遣隊の目的は後明国と雲居国の三家の攻略と、玉都のそばまで進出して偵察し、攻撃の拠点を築くことだろうとおっしゃっていました。ですから、城攻めや砦の建設と防御に役立たない騎馬兵はほとんどいないだろうと予想されていましたが、その通りでしたね。船で海を越えてきた恵国軍にはもともと馬が少なかったようですし」
輝隆の言うように、恒誠は敵の動きが遅いことを前提に作戦を組み立てていた。殻相国の退却戦で戦った敵が恵国軍の騎兵のほとんどだと恒誠は考えていたのだ。追撃という速度が重視され、一方的な戦いになって被害があまり出ない場面だからこそ、虎の子の騎兵を投入してきたのだろう、と。
言われてみると、確かに狐ヶ原でも騎兵はあまりおらず、主に戦っていたのは鉄砲兵と槍兵だった。吼狼国に来てから馬を買い集めたとしても、軍馬の産地は首の国や中つ国で手の国には大きな牧場が少ないし、農耕馬は育て方が違うので使えない。馬を訓練して乗り手に慣れさせる必要もあるので、騎兵を新たに編成するには時間が足りないはずだと恒誠は判断したのだった。
「そろそろ集まったかしら」
光姫は辺りを見回して全員そろっているのを確認すると、池の向こうを指差して言った。
「みんな、聞いて。最初の敵は倒したわ。でも、まだあと半分残っている。こちらの残敵は実鏡さん達に任せて、私達は別働隊を追います。疲れていると思うけれど、もう一踏ん張りよ。敵を完全にこの雲居国から追い払いましょう!」
おう、と二千人が答えた。
「銅疾風、あなたにも無理をさせてしまうわね。でも、もう少しだけ手伝って」
光姫は愛馬にやさしく声をかけて首筋を撫でると背にまたがり、腹を軽く蹴った。銅疾風はいなないて、疲労を感じさせない速さで走り出した。仲間の馬の負担を考えて速度を調整しつつ、光姫は池の周囲の草地を陸梁隊の後を追って駆けていった。
大将を失った冒進隊の主力は実鏡軍の総攻撃にたちまち崩れて逃げ散った。多くの者が周囲の森に逃げ込み、陸梁隊に合流しようと池を回り始めた者達も、もはや軍勢の体をなしていなかった。
ようやく畦道を抜けた陸梁は冒進の死を知って怒り狂い、三の川を渡ったところで陣形を組み直して、猛然と実鏡隊へ迫った。だが、既に相手は追撃を終えて元の位置に戻り、今度は南へ向けて盾の壁を作っていた。陸梁はむきになって攻め立てたが、恒誠が指揮する実鏡隊に隙はなかった。
そこへ、池に流れ込む二つの川を馬で一気に渡り、畦道を素早く走り抜けた光姫の騎馬武者隊が迫ってきた。焦った陸梁は挟撃を避けるべく、部下に槍兵二千を与えて三本目の川を渡らせるなと厳命した。
光姫達は川の手前まで来て、敵が橋の守りを固めているのを知ると、槍隊に近付いて一斉に矢を浴びせて挑発してから、目の前で急に右へ方向転換し、南へ向かった。
川下で渡河するつもりだと気が付いた槍隊の将は、部下に五百を与えて橋を任せ、一千五百を率いて対岸を進む光姫隊を追いかけた。槍と鎧の重さや百合月の暑さで汗だくのへとへとになりながら必死で走る恵国兵を横目に光姫達は悠々と駆け、橋からかなり離れたところで、いきなり反転して川上へ向かった。槍隊の将は再び後を追おうとしたが、兵士達はもはや疲れきっていて動けず、呆然と見送るしかなかった。
光姫隊は一千五百の敵を置き去りにすると、速度を上げて北上し、橋の前を通り過ぎて、川上で渡河にかかった。五百の槍兵が、橋をがら空きにするわけにはいかず、かといって半数の三百程度を送っても渡河は防げないので動くに動けないでいる間に、光姫達はさっと川を渡り、陣形を整えて、陸梁隊の主力九千の背後に矢を射かけて突撃した。
すかさず実鏡隊が盾を開いて総攻撃に移った。盾の壁の陰で交代で休んでいた実鏡隊の槍武者と、光姫率いる騎馬武者の息の合った前後からの挟撃に、冒進隊が同じ方法で打ち破られたのを見ていた陸梁隊はたちまち崩れ立った。包囲されて恵国兵は逃げ場を失い、多くの者が刈茅池に飛び込んだが、重い鎧のために対岸に泳ぎ着けず、次々に底に沈んでいった。
陸梁は逃げまどう兵士達の中で一人奮戦したが、大将を探していた光姫達に囲まれ、無数の矢を体に浴びて討ち死にした。川のそばにいた二千の槍兵は何とか橋の前で合流を果たして味方を救援しようとしたが時既に遅く、光姫や実鏡達が迫ると自ら部隊を解散した。
こうして、冒進と陸梁の連れてきた二万七千人の兵士達は、すかさず追撃に移った影岡軍に散々に蹴散らされ、多数の死体を後に残して、ばらばらになって後明国へ逃げていった。
この戦いは連戦連勝の禎傑軍に対する吼狼国武家の初めて勝利であり、巧妙な作戦で倍以上の敵を打ち破った恒誠と、敵将二人を討ち取った光姫の名を、全国に轟かせることになった。
『花の戦記』 刈茅池の合戦図 その二




