第六章 雲居国の戦い 一
第六章 雲居国の戦い
一
「光姫様、今朝もお早いことでごぜえますね」
銅疾風にまたがって銀炎丸を連れた光姫が、深松従寿や楢間福子と三人で影岡の町の大通りを進んでいると、木造の小さな土産物屋の前を掃いていた一人の老婆が声をかけてきた。
「おはよう。お婆さんも早いわね」
「いつものことでごぜえますよ」
影岡は仰雲大社と温泉が有名な観光地で、朝湯や仕事前の参拝から帰ってくる人々でそろそろ通りがにぎわい始める時刻だった。
「そうじゃ、少しお待ち下せえまし」
老婆は箒を置いて急いで店に入り、枇杷の実を三個のせた皿を三つ持ってきた。
「どうぞお食べ下され」
「ありがとう。頂きます」
光姫は馬を下りて手綱をひさしを支える柱につなぐと、勧められるまま店先の背もたれのない長椅子に腰掛けた。従寿と福子も一礼して隣に座り、老婆から皿を受け取った。
福子は実鏡の近習頭楢間惟鎮の妹で、十七歳と光姫の一つ下だが、ふっくらした頬が可愛らしいなかなかの美女だ。兄同様槍術にすぐれ、影岡城に来た光姫に手合わせを願って薙刀と騎射の腕前に感心し、以来一緒に鍛錬するようになった。毎朝の遠乗りもいつもこの三人だ。妹とはこんな感じなのかしらと光姫は密かに思っている。
今年の初物だという枇杷の実は、すっかり橙色に熟していた。さっそく皮をむいて一口かじると、遠乗りで渇いたのどに果実の甘さが染み渡った。
「おいしい!」
「おいしいですね」
朝食前だったこともあり、若い三人はつい夢中になった。たちまち一つ目を食べ終わった光姫が早速次をむいていると、それをにこにこしながら眺めていた老婆が遠慮がちに尋ねてきた。
「ご神狼様にも差し上げてよろしゅうごぜえますか」
老婆はいつの間にか、既に皮をむいて種を取った枇杷を二つ皿に載せていた。
「ええ、構いませんよ。きっと喜ぶと思います」
「ありがとうごぜえます」
老婆はうれしそうに顔をしわだらけにすると、光姫の足下に伏せている銀炎丸に丁寧にお辞儀をし、腰をかがめて話しかけた。
「どうぞお召し上がり下せえまし」
恐る恐る灰色の大きな狼に近付くと、目の前に皿を置いて下がった。銀炎丸は皿を眺め、問うように光姫を見上げた。
「いいわよ。お食べなさい」
光姫が頷くと、銀炎丸は老婆をちらりと見てから起き上がり、皿に顔を突っ込んでむしゃむしゃと食べ始めた。狼を食い入るように見つめていた老婆はほっとした表情になり、胸の前で手を合わせて銀炎丸に祈りを捧げ始めた。
いつものことなので、光姫は老婆の好きにさせておいて、二つ目を食べ終わったところで、残り一つを銅疾風に持っていった。
「ご神狼様、どうかこの店をお守り下せえまし……」
満足して再び地面に寝そべった銀炎丸は、小声でつぶやく老婆に困惑したように主人へ目を向けてきたので、光姫はくすりと笑ってしまった。
二十日ほど前、殻相国での退却戦を切り抜けて後明国へ逃げ込んだ光姫達は、五日後に雲居国の中心である影岡の町へ到着した。華姫の寝返りによって梅枝家の悪評が国中に広がっていると聞かされていたので、光姫は影岡の人々から冷たく迎えられるのではないかと恐れたが、戦場から逃げてくる武者達の狼藉を警戒して町の門を守っていた豊梨家の家臣達も、沿道に出て領主軍の帰還を迎えた町の住民達も、むしろ光姫一行に好意的だった。
その理由はすぐに明らかになった。大通りの両脇に並んだ影岡の民は、実鏡や光姫達が銀炎丸を連れて進んでいくと目を見張って深々と頭を下げ、一斉に手を合わせて祈り出したのだ。
驚く光姫に、安漣が教えてくれた。
「ここ雲居国は狼神信仰の総本山がある土地です。神雲山の麓の森に住む狼達は吼狼国の守護獣と信じられていますし、この国の民にとっては付近の山に住む鹿や熊や猪から農地を守ってくれるありがたい獣でもあるのでとても大切にされています。神獣を従えた光姫様は、大神様に認められ、その加護を得ているように見えるのでしょう」
「銀炎丸はただの狼ですよ?」
光姫は首をひねったが、恒誠は「そんなことはない」と言った。
「狼は大抵薄茶色の毛並みだが、銀炎丸は全身灰色で神々しく、滅多にないほど体が大きい。俺から見ても、ただの狼とは違う威風のようなものを感じる。初代の宗皇様が天界から降りてきた時、従っていた狼は銀色に輝いていたと言うしな」
実鏡も二人に賛同した。
「狼はなかなか人に慣れません。仰雲大社の祭官が毎日森へ餌をまいていますが、警戒心が強くて人がいると近付いてこないそうですよ。でも、銀炎丸は明らかに光姫様に懐いていて従順です。それだけでもこの国の民を驚かせるには充分ですね」
「そういうものですか……」
光姫は半信半疑だったが、三人の言葉は正しかった。その後光姫は町に行くたびに歓迎され、必ず銀炎丸に食べ物と祈りが捧げられたのだ。なかなか出会えないご神狼様に近付けるというので、人々は機会があるとこの老婆のように声をかけてくるのだった。
「ごちそうさま」
店の裏手の井戸で手を洗うと、光姫達は礼を言って再び馬にまたがった。
町の門を出た光姫は、軽く銅疾風をあおった。従寿達と銀炎丸が遅れじと付いてくる。まだ涼しい朝の風を頬に快く感じながら、光姫は眼前にのしかかってくるようにそびえる神雲山を仰ぎ見た。
逆さにしたすり鉢そっくりの見事な形状のこの霊峰は、南北に長い雲居国の南半分を占める巨大な山だ。大部分が玉都と手の国の間の海に半島のように突き出していて、北側にも暴払山脈との間に平地があるので、遠くからだと海の中に山が一つだけ浮かんでいるように見える。雲見湾を挟んで都からこの山を眺めた時は、上部に夏でも残る雪と首の辺りを覆う円い神雲が朝日にほの白く輝く光景を、随分と神秘的に感じたものだ。こうして真下から見上げると吼狼国一の高さと大きさに圧倒され、決して切れることがないあの雲の上は神の領域で、今日のように煙が真っ直ぐに立ち上っている日は天上界の神々がそれを伝って山に降りてきているという言い伝えも、むべなるかなと納得してしまう。
山の麓には、臥神島という大きな狼の心臓に擬されるこの活火山と森の狼達とを祀る仰雲大社の壮麗な社が、山の巨大な影の下にほの暗く見えている。光姫は馬上で目をつむって頭を垂れ、来たるべき恵国軍との戦いに神の加護を祈った。
影岡の町から東に少し走ると、神雲山の裾野の先端が盛り上がったような小さな丘がある。その上に築かれている小振りな城が豊梨家の影岡城だ。天守がなく、かわりに灯台のような木製の高い物見櫓が立っているのが遠くからもよく見えていた。
光姫達は城の前を流れる御涙川の長い木の橋を渡って城門前の広場を突っ切り、強い風を顔に受けながら細い坂道を上った。吼狼国では夏には南風が吹くが、特に影岡城の辺りは風が強い。内の海から吹いてきた風が神雲山で分かれ、この城の辺りで再び合流して勢いを増すのだ。大手門前が一番強く、光姫の束ねた長い黒髪が後ろに大きくなびくほどの風が常時吹いている。
光姫はお辞儀をする警備の武者達に「ご苦労様」と声をかけて大手門をくぐると、下郭の厩舎に銅疾風を預け、坂を上がって中郭の浴場へ向かった。雲居国は活火山の麓だけあって各所で温泉が湧く。影岡城にも大きな浴場があって家臣へ開放されており、そのせいかこの城の者達は皆身ぎれいだった。
吼狼国の温泉は一般に混浴で広い洗い場に大きな湯船という形式が多いが、ここは利用者がほぼ武家のため、男女別になっていた。従寿と入口で別れた光姫と福子はさっと汗を流し、脱衣場で待ち構えていたお牧から新しい小袖を受け取って着替えた。隣にある休憩用の部屋で従寿と一緒に朝食をとると、光姫は福子と別れ、もう一つ坂を登って本郭の御殿へ入った。
評定の間には既に城内の主だった者がそろっていた。毎朝ここに集まって一日の打ち合わせをするのがこの城のしきたりだった。
「おはようございます」
光姫が一段高い畳に座る実鏡の左の手前に、恒誠に向かい合う形で腰を下ろすと、家老達が一斉に頭を下げた。
「では、始めまする」
全員の前に熱い茶を置いた二人の侍女が部屋を出て行ったところで、豊梨家筆頭家老の奥鹿貞備が評定の開始を告げた。
「最初に、城の改修の進み具合をご報告申し上げます」
楢間惟延という五十がらみの次席家老が主君に体を向けて口を開いた。
「当家と梅枝家の武者達の子弟、つまり小荷駄隊の面々による空堀の底ざらえと延長及び壁や建物の修復と強化は、予定通りに進んでおります。大手門付近や城の前面はほぼ完了し、周囲の崖に生えていた木も全て伐採しました。側面や背部も近隣の村人と影岡の大工達が総掛かりで行っておりますので、あと十日程度で終わる見込みです」
「よろしくお願いします。何度か様子を見に行っていますが、村人達はとてもよく働いてくれているようですね」
実鏡の言葉に、惟延は頷いた。
「はい、皆大変に頑張っております。若殿からもほめてあげて下さい」
「では、今日、この後行きましょう」
「きっと喜ぶことでしょう」
惟延が四角く大きな厳つい顔に人の良さそうな笑みを浮かべて一礼すると、続いて勘定方の家老鴫沢通容が手元の紙を見ながら報告した。
「私からは、籠城に必要な物資の調達状況についてです。まず武具ですが、予備の甲冑や槍の点検と整備は既に終えました。現在は弓や矢の製作と修理を急がせておりまして、今月末までには予定の数に達します。傷病者の治療用の薬や透景酒、木綿の布なども十分な量を確保し、恒誠様ご注文の丈夫な鎖や菜種油も入手できました。その他、大人数の籠城に必要となる雑貨類も、多くのものがそろいつつあります。先々代のご当主様のご遺訓で毎年少しずつ買い足し、古くなったものを処分して新しいものと入れ替えてきたおかげですね」
「兵糧はどうだ」
貞備の問いに、三十代の家老は長い顔に渋い表情を浮かべて「それが一番の問題です」と言った。
「味噌や醤油、漬物や梅干しや芋、海藻や魚の干物や干し肉は何とかなりそうですが、米や穀類は現在のところ目標の五割に届きません。領内の村々より高値で買い上げておりますが、恵国軍への恐れから食料を手放したがらないのです。本来ならば一年分の備蓄があるのですが、杏葉公に要請されて田美国へ向かう討伐軍に炊き出しをしたのが響いています。それでも当家の家臣だけなら充分足りますが、光姫様がいらっしゃって武者が倍増しましたし、大工や職人のほか、怪我人の手当や炊事洗濯などで家臣の妻子や村人を大勢城に入れなくてはなりませんので、今の量では四ヶ月も持たないでしょう」
「何とかならないのか」
「難しいですね。まさか、民から無理矢理徴収するわけにもいきません。都へ行かせた者達からも、他のものは値は張ったもののどうにか予定通りのものを購入できたが、兵糧は大して手に入らなかったと報告が参りました。諸侯が争って買い求めるので品不足になっているようですね。今年は田美国の米が都へ入ってきませんし、戦乱で諸国の田畑が荒れる可能性がありますので、全国的に米が高騰しているようです。当家領内の稲も無事に収穫できるか分かりませんので、秋になっても米は増えないものと考えておかなくてはなりません」
「とにかく、兵糧の確保に全力を挙げてくれ」
「かしこまりました」
「では、続きまして、影岡の町民達との恵国軍侵攻時の対応についての話し合いの件でございますが……」
家老達が次々に報告を述べていく。それを聞きながら、光姫は穂雲城より一回り小さい評定の間を見回した。
来て驚いたが、影岡城はいかにも戦闘用の城塞で、実に無骨な造りだった。まず、色が違う。吼狼国で城と言えば大抵漆喰塗りで白く輝いて見えるが、影岡城は黒い。固まった溶岩を砕いて重ねた高い石垣と、火山灰が混じった土を塗った壁に覆われているからだ。城内の縄張りも施政の場としての使いやすさを捨てて実戦を第一に考えたものになっており、大手門など主要な門の前は全て上り坂だし、道が入り組んでいるので光姫は何度も迷った。建物も実用重視で頑丈そうだが装飾はほとんど施されておらず、高い天守を設けて威風を誇示するかわりに、見栄えはしないが視界は素晴らしい物見櫓を築いてある。この評定の間も畳ではなく板敷きに座布団で、正面の壁に彫られた大きな梨の花の家紋と家訓を書いた掛け軸のほかに目立った飾りもなく、その下に生けられた花だけが辛うじて彩りを添えていた。
こうした質素さは壮麗さで知られる望天城や優美な五層の天守を持つ穂雲城とはまるで違うが、決して豊梨家の貧しさを意味してはいない。雲居国は貫高こそ十三万貫に過ぎないが、影岡は仰雲大社の門前町であると同時に霊峰の霊験あらたかな温泉地でもあるので、参詣客や湯治客が落とす金の一部が運上金として収入になっている。豊梨家は雲居国を領して以来、温泉や大社の宣伝に力を入れてきたので、今や影岡は玉都の民はもちろん、全国から都見物にやって来た人々の多くも訪れる一大観光地なのだ。それに、活火山の神雲山で採れる硫黄は船で対岸の玉都港へ運ばれて恵国へ輸出され、豊梨家の財政を大いに潤していると言われていた。では、なぜ居城がこんな造りなのかと言えば、それはこの城を築いた実護の父実佐の考えによるものらしい。
譜代の名家に生まれた実佐は武守家に忠実に仕え、天下統一に多大な貢献をした。武公は本拠地を望天城に移した時、玉都の周辺の国々に重臣を封じて守りを固めることにし、既に老齢の実佐を呼んでこう言ったという。
「雲居国はわずか十三万貫、東の煙野国の槻岡家三十二万貫、北の栄木国の泉代家二十三万貫と比べて随分と少ない。だが、あの国は都の西隣で、神雲山と大社があって神域の多い枢要の地。国主は西国街道を攻め上ってくる敵を防ぐ最後の盾にならねばならず、誰にでも任せられるところではない。わしは考えた末、お主の忠義を信じて豊梨家に与えることにした。これまでのお主の働きを考えれば貫高が足りぬことは分かっておるが、我慢してくれ」
武公に頭を下げられた実佐は感激し、平伏して誓った。
「そのような重要な国を預かりましたことは武門の誉れにござる。当家はこのご恩に報いるため、全力を挙げて必ずや都と武守のお家をお守り致しまする」
入国した実佐は、居城を築くに当たり、いざという時に戦火が及ばぬように影岡の町から敢えて距離を取って、神雲山の麓の丘を選んだ。この場所は目の前に西国街道を扼し、周囲は深い森、後方は神雲山の一部で、左側面と前面を川が流れている。実佐はこの要害の地に小振りだが堅固な城を作らせると、庭に矢竹や果樹や薬草など籠城に役立つ草木を植え、飲料水の確保と城兵の治療のために温泉を掘らせた。
武張っているのは豊梨家の家風もそうで、家臣達は常に戦時を思えという実佐の遺訓を守って質素を旨とした生活を送っている。影岡には参詣客を当て込んだ遊興施設も少なくないが、多くの家臣はそれにのめり込むことなく、暇があると仰雲大社に参拝したり、温泉に入ったり、武術の腕を競ったりして過ごしてきたらしい。当主の実鏡が十四歳と若いのに家臣達が団結し、来襲が確実な恵国軍への恐れで動揺することがないのはこの家風のためで、光姫は随分と感心したものだ。
「では、次は武者達の準備状況についてご報告致します」
次席家老楢間惟延の息子の惟鎮が口を開いた。
「正規の武者は、当家、織藤家、梅枝家のいずれも既に先の戦闘で傷んだ武具等の修繕を終え、戦う準備が整いました。現在は毎日合同で武芸と陣形を組んでの行動の稽古に励んでいます。訓練は順調で、ほぼ恒誠様に立てて頂いた計画の通りに進んでいます」
惟鎮は槍の名手で、実鏡の近習頭を務めていて信任が厚い。恒誠の一つ下の二十三だが、童顔でまだ十代に見える。
「武者達の士気は高く、殻相国撤退時の戦闘の経験を踏まえた新しい陣形も様になってきております」
惟鎮の言葉に、撫倉安漣が織藤家を代表して賛同した。
「恵国軍の来襲までには充分間に合うでしょう」
「負傷者が抜けた穴もほぼ埋まりましたな」
息子の輝隆と共に副将として光姫軍をまとめている追堀師隆も頷いた。もう一人の副将だった餅分具総は、影岡の町の手前で光姫達と別れ、負傷した武者五百人余りと共に、避難する殻相国の民を率いて天糸国へ向かった。具総は、二万の民を保護して無事に送り届けることと、通過する玉都で事情を説明した手紙を芳姫へ渡すことのほかに、天糸衆を説得して味方に引き入れるという重大な使命を帯びていた。
「そうですね。三家の息も合ってきました。いつでも戦えるでしょう」
輝隆が言うと、貞備が光姫に尋ねた。
「では、領内から集めた義勇の民一千五百はどうですかな」
「……あ、はい、私ですね」
室内を眺めていた光姫は、視線に気が付いて慌てて返事をした。
「どうかしましたか」
実鏡が心配そうな顔をした。恒誠も怪訝な表情で見ていた。
「いいえ、何でもありません。ちょっとぼうっとしてしまって」
実鏡がじっと光姫の顔を見つめてきたので、大丈夫よと微笑むと、ようやく安心したらしかった。
実鏡は光姫にとてもよくしてくれた。評定などの際に光姫をそばに座らせることにしたのも実鏡だった。光姫は自分は客将なのだから下座でよいと言ったのだが、実鏡は光姫と恒誠を対等な協力者として扱い、大きな問題では必ず意見を尋ねてくれる。その効果もあってか、当初一部の者達から向けられていた実護の死の責任を問う冷たい視線もなくなり、合わせて光姫軍と呼ばれるようになった田美衆や殻相衆の武者達も、豊梨家や織藤家の者達と上手くやれているようだった。実鏡のそういうやさしさは家臣や民に好かれていて、この城の明るい雰囲気を作るのに大いに役立っていた。
「では、義勇の民の訓練について報告します」
光姫は表情を改めて語り出した。
「新しく編成した民の部隊も形になってきています。槍と投石紐の使い方は全員覚えました。やる気のある人達ばかりですから」
影岡へ帰った実鏡が城主の名で徹底抗戦の意志を明らかにしたところ、かなりの数の領民が武者として志願してきた。しかし、武芸未経験の者が少なくなく、貸し与える鎧や武器にも限りがあった。そもそも影岡城はあまり大きな城ではないし、光姫軍だけで四千の武者が増えていた。恒誠も数ばかり多くても意味がない上、兵糧の問題もあると言ったので、戦力になりそうな若者一千五百人を厳選し、残りは城の改修などに回ってもらった。
義勇民の訓練は光姫に任された。お姉様とおじいさまのためにも頑張って戦おうと張り切っていた光姫は、武器を持ったことのない者達に武術の基礎を教え、鎧を身に着けての動作の訓練を繰り返した。狼を連れた光姫は人気があり、その弓や薙刀の腕前と美貌は城外の広場に集まった若者達の称讃の的になっていた。
「合戦に出すのはまだ無理ですが、城の守備では充分活躍できると思います。恵国軍の来襲までに、もっと投石紐に習熟させるつもりです」
「頼みます」
実鏡が頷いた。
「では、今朝の評定はここまでとする」
解散を宣言しようとした貞備を、光姫が止めた。
「待って下さい。私から相談があります」
「何でしょうか」
実鏡が尋ねると、全員の視線が光姫に集まった。
「実は、今朝、遠乗りの途中で村人から山賊の被害がひどいという話を聞きました」
馬で通りかかった光姫を村人達が呼び止めて口々に訴えたのだ。
「暴払山脈に住む山賊が、あちこちの村を襲っているそうです。抵抗しようにも浪人者の集団らしく腕が立つ上、人数も多くてとてもかなわないので、何とかしてもらえないかと頼まれました」
「山賊の話は私も聞いております」
顔を見合わせた家臣達を代表して、民政担当の家老の楢葉惟延が口を開いた。
「十日ほど前に都の方から無頼の者が多数やってきて山麓に住み着き、恵国軍から守ってやるから協力しろと言って食料を無理矢理奪っていくと民から訴えがありました。現在のところは抵抗して殴られた者がいる程度で死者や重傷者は出ておらず、あまり非道なことはしていないようですが、武者を差し向けても到着する頃には引き上げていて尻尾をつかませず、我々も手を焼いております」
「この件は北の村々の長からも陳情が来ておったな。どう致そうか」
貞備が皆に諮った。
「各村に警備の武者を配置してはどうでしょうか」
光姫が提案すると、惟延は腕組みをして言った。「そうですな。領内の巡回もさせましょう」
賛同する意見がいくつか出たところで、実鏡は自分の右であぐらをかいている恒誠に目を向けた。
「恒誠殿はどうしたらよいと思いますか」
実鏡は九歳年上のはとこを尊敬しているらしく、彼の意見を重視していた。
恒誠は先程から諸将の報告には興味がなさそうに顎の不精髭を引っ張っていたが、実鏡と光姫の顔をちらりと見ると、素っ気なく答えた。
「放っておけ」
「えっ?」
光姫は驚いた。
「今は山賊退治どころではない。そんなことに使っている時間はないはずだ」
思わぬ答えに言葉の出ない実鏡にかわって、光姫が大声を上げた。
「放置すると言うのですか!」
恒誠は億劫そうに頷いた。
「そうだ。食料を奪うだけで人は殺さないのだろう。ならば無視しても問題はない」
「問題はないって……、大ありでしょう!」
反論しようとした光姫を無視して、恒誠は言った。
「それよりも籠城の準備を急がせろ。例えば、俺が指摘した城の裏手の排水口の改修はどうなっている。頑丈な鉄の柵がはめてあるとはいえ、城壁に大きな穴が開いているのだ。万一を考えて塞いでおけと言ったはずだ」
「あそこはまだ手を付けておりませぬ」
惟延がすまなそうに答えた。
「正面や門の付近を重点的に強化しているため、森に面した側は後回しになっております。あの穴は城を造った当時はもっと小さかったのですが、何度か物が詰まって周囲が水浸しになったため、広げるついでに塵の桶を通せるようにしたのです。中郭の奥の厨房からごみを大手門の外へ運び出すのは重労働ですし、匂ってかなわぬと家中から不満が出まして、下で受け取って森へ捨てるようになりました。それに、排水口の周りの壁は温泉の湯にさらされてもろくなっておりまして、下手に手を出すと大きく崩れて穴が広がりかねませんし、中を掃除するのにもある程度の大きさは必要ですので、大工達も困っておるようです」
「だが、鉄の格子がすっかり錆びてぼろぼろになっていたぞ。鎧を着ていても小柄な者なら通れるかも知れない。見付かりにくい場所ではあるが、念のためだ。厳重に頼む」
「はっ。せめて、外から穴の存在に気付かれぬように致します」
惟延が頭を下げると、恒誠は実鏡に顔を向けた。
「しなくてはならないことは城の改修だけではないぞ。順調と言うが、武者達の訓練はまだまだ不十分、先程の報告の通り、矢や食料も足りていない。油や薪、馬の飼葉もたくさん必要だ。他にも、新造した大型投石機の試射と調整、城外へ出られる秘密通路の内部の整備など、戦闘に備えてやっておくべきことは多いのだ」
恒誠は現在の雲居国周辺の情勢を語った。
「我々は恵国の大軍と長期に渡って独力で戦わなくてはならない。現在都で鷲松巍山が第二次討伐軍を編成しているが、玉都近隣の諸侯はほとんどが狐ヶ原や都の守備に武者を出していたので、遠い国々から武者を集める必要がある。また、巍山は武守家に忠実な諸侯を監視するため、全軍を都に集めてそろって出発するに違いなく、一部を先にこちらへ送ってくる可能性は低い。つまり、当分援軍は来ないのだ。譜代の豊梨家が滅びても巍山は痛くもかゆくもない。せいぜい軍勢編成の時間を稼いで敵に少しでも多く損害を与えてくれとしか思っていないはずだ。影岡城に籠って戦わず、恵国軍を素通りさせることもできるが、都の西を守るのが豊梨家の仕事なのだろう?」
実鏡や貞備など、豊梨家の者達がそろって頷いた。
「となれば、我々は都から巍山軍が到着するまで、少なくとも二、三ヶ月持ちこたえられるだけの準備をしておく必要がある。敵の来襲まで恐らくもう一月もない。戦が始まる前にできることは全てしておかねばならないのだ。とても山賊退治どころではない」
「待って下さい。民は苦しんでいるのですよ! 戦の準備も大事ですけれど、城を守っても民を守らなくては意味がないではありませんか!」
光姫は叫んだが、恒誠は全く動じなかった。
「どうせ恵国軍が来ればもっと派手に荒らされる。ここで少々民を守ってもあまり役には立たないさ。それに村へ武者を置くというのは現実的ではない。全ての村に配置すれば少人数になってしまい、大勢で襲われたら手も足も出ない。かといって一部の村に集めれば武者のいない村を襲うだろう。第一、ばらばらにしてしまっては訓練ができなくなる。山賊から守っても恵国軍に負けては意味がない」
「ですけれど!」
言い返そうとして言葉が続かない光姫に、恒誠は感情の読めないまなざしを向けた。
「それにだ。たとえ山賊どもを防ぐことができたとしても、恵国軍が来たら武者を城に呼び戻さざるを得なくなり、やつらは息を吹き返すだろうな」
輝隆が尋ねた。
「軍略にお詳しい恒誠様ならば、彼等を退治する方法をご存じなのではありませんか」
恒誠は首を振った。
「残念だが上手い方法はないな。山賊退治は口で言うほど簡単ではないのだ。まず、相手の人数が不明だ。ねぐらも確かめねばならない。場所が分かっても地の利は向こうにある。重い鎧を着た武者は山中を逃げ回る敵を追いかけるのには向いていないのだ。それに、ねぐらが一つとは限らない。山賊に本格的な砦など必要ないから、討伐の動きを察知したら別な場所へ移ればよいだけだ。そうやって鬼ごっこを繰り返している内に、恵国軍が来てしまうだろう」
「なるほど……」
輝隆は残念そうだったが諦めたらしかった。
「ううう……」
唸る光姫と恒誠を見比べた実鏡は、光姫に申し訳なさそうな顔をしながら、決定を下した。
「では、仕方ありません。放っておきましょう」
諸将もやむを得ないと頷いたが、光姫は一人頭を振った。
「民の苦しみを知っていて見ないふりをするなんて、私は反対です!」
「姫様。お気持ちは分かりますが、恒誠様のおっしゃる通りだと私も思います」
追堀師隆がなだめようとした。
「せいぜい、時間の許す時に領内を見回り、村長に命じて警戒を強めさせるくらいしかできますまい」
「そのようですな」
貞備も賛同したが、光姫は納得できなかった。
「だからと言って、放ってはおけません。民を守るのが領主の仕事ですもの!」
光姫は殻相国を守れなかった責任を感じていた。それを知っている月下城代家老の追堀親子はそろって顔を伏せた。
「民のためにできる限りのことをするべきです。皆さんがやらないのなら、私にやらせて下さい。一人で何とかしてみせます。本当なら、何の仕事もないあなたがやるべきなのですよ!」
光姫は恒誠に言った。恒誠は実鏡に願って全ての担当から外れていたのだ。そして、織藤家の武者の訓練は安漣に任せて、一日中部屋で兵法の本を読んでいたり、倉の屋根に寝転がって大社酒を飲みながら日向ぼっこをしていたり、突然いなくなって数日後にほこりまみれの姿で戻ってきたりと、この二十日余りずっとぶらぶらしていた。
実鏡は恒誠殿には恵国軍との戦い方を考えてもらっているのですとかばっていたが、外国の大軍との戦いが迫ってぴりぴりした空気が漂う城内で一人だけ呑気そうな様子は、光姫にはただ怠けているようにしか見えなかった。狐ヶ原の敗戦を予言した眼力と退却戦で見せた指揮ぶりに感心していただけに、何だかだまされたような気さえしていたのだ。
不満げな光姫に諸将が困ったように顔を見合わせていると、末座で一人の男が手を挙げた。
「私は光姫様に賛成です」
低く張りのある美声の主は、白林宗明という若い武者だった。
「山賊を放っておくというのは領主としていかがなものでしょうか。領内を好き放題に荒らされては豊梨公の評判にもかかわります。退治すべきだと私も思います」
二十代後半のこの男は浪人だった。恵国との戦で手柄を立てて名を上げてどこかの封主家に仕官しようと、豊梨家に陣を借りているのだ。そういう者の多くは玉都の巍山麾下の諸侯の軍勢に加わったが、その伝手がなかったり大軍に埋没することを嫌ったりして、より危険だが戦場へ出る機会が多い西国街道沿いの国々へ来る者も少なくなく、影岡城にも五百人ほどが集まっていた。十日ほど前に最も多い三十人余りの仲間を引き連れてやってきた宗明は自然とその頭目に納まり、いつの間にか朝の評定にも出席するようになっていた。
「白林殿、無礼だぞ!」
楢葉惟鎮が叱責したが、宗明は落ち着いていた。
「言い方がお気に障りましたら謝ります。ですが、光姫様がおっしゃる通り、民を守ってこそ領主です。領民に見放されては恵国軍と戦いにくくなるのではありませんか。山賊にも備えなければならないのでは、民が食料の買い上げに応じないのも当然です」
「だが、今は山賊の討伐をしている余裕はない!」
惟鎮の言葉を無視して、宗明は光姫に話しかけた。
「民をお見捨てにならぬとは、さすがは光姫様です。おやさしいですね」
容姿のよさを自覚しているらしい宗明は、影岡城の女達の間で大人気の爽やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
光姫はそんな笑顔には心を動かされなかったが、加勢を得たことはうれしく、宗明に会釈して微笑み返した。それに、この男は美男子であるだけでなく、光姫が都へ登って以来出会った武家の若い男性の中で最も腕が立ち、しかもかなりの学問があって弁舌にすぐれていたので、好感を持つ理由はあったのだ。
「姫様、おやめ下さい。ここは諦めましょう」
輝隆が言い、師隆も主君を諭した。
「恒誠様のおっしゃる通り、恵国軍との戦の準備を優先するべきです。私も悔しいですが、余計なことに時間を割いていては武者達の訓練が間に合いません。姫様が担当なさっている義勇の民も、野戦に出すにはまだ不安があると先ほどおっしゃったではありませんか」
だが、光姫は「やると言ったらやります!」と言い切り、なだめようとする副将の親子をにらみ付けて黙らせた。
「訓練が間に合わないと言うのなら、田美衆と殻相衆は使いません。義勇の民を率いていきます。恵国軍と戦う前に実戦を経験しておくのは無駄にならないはずです。よろしいですね」
光姫が実鏡に言うと、若い当主は座を見渡して少し考えた。が、本当は民の苦しみを放置するのが嫌だったらしく、結局は半分以上うれしそうに承認した。
「分かりました。光姫様にお任せします」
「では、私もお供致します」
すかさず宗明が末座から声を上げた。
「仲間を引き連れてご助勢申し上げましょう。山賊ごとき我等白林衆の敵ではありません。軽く蹴散らしてご覧に入れます。もちろん、光姫様はこの私が必ずお守り致しますゆえ、ご安心下さい……」
ここが出番、まずは一働きして実力を示し、城内での地位を高めようというつもりらしい。だが、意気込む宗明の言葉を、恒誠がさえぎった。
「それは駄目だ。浪人衆にも陣形の訓練がある。ただでさえ各人が学んできた武芸がばらばらで集団としてまとまりに欠けるのだ。息を合わせた行動がとれるようにならねば軍勢として役に立たない。光姫殿へ加勢している場合ではないはずだ」
宗明はあからさまに不満そうな顔をしたが、反論はせず、黙って頭を下げた。
「では、これで評定は終わりとする」
貞備が実鏡に平伏すると、諸将も一斉にそれにならった。光姫も興奮した顔でお辞儀をした。その様子を横目で見た恒誠も、何かを考える顔で軽く頭を下げた。
翌々日の昼過ぎ、光姫は義勇民一千五百を率いて影岡城を出発した。山賊のねぐらが分かったという報告が入ったからだった。
評定で出陣が決まった後、光姫は従寿やお牧らと山賊退治の方法を話し合った。その結果、恒誠が言った通り、ねぐらを見付ける必要があるということで意見が一致した。いつどこの村が襲われるか分からない以上、迎撃するのは難しい。だが、ねぐらが分かれば、そこを襲撃して一網打尽にできる。警備の手薄な場所に米が集まるという情報を流せば山賊が襲ってくるだろうと従寿が言ったので、光姫はその案を採用し、暴払山脈に近い小さな村に実鏡から借り受けた米俵を運び込み、豊梨家が周辺の村で買い集めた米が数日間保管されるという噂を義勇民達に自分の村で広めさせた。
すると、案の定、昨日の夕刻山賊が襲ってきた。言い含められていた倉の警備兵達は適度に抵抗して逃げ出し、米俵を十数台の荷車に満載した山賊達は、豊梨家の武者達の意気地のなさを嘲笑いながら悠々と引き上げていった。その後を農民に変装した従寿がこっそりと付け、山賊のねぐらを発見したのだ。山賊達は襲撃の成功に気をよくしたのか、尾行に無警戒だったという。
寝ずに報告を待っていた光姫は喜び、翌朝早速評定で出撃の許可を求めて、どこかへ出かけていていなかった恒誠以外の全員の承認を得た。山賊の人数は昨夜の襲撃でおよそ五百人と見当が付いたので、光姫は義勇民を全員連れていくことにした。
追堀親子は心配して付き添いを申し出たが、光姫は「戦うのは初めてではないし、相手はたかが山賊でこちらは人数が三倍もいるから大丈夫よ。武者達の訓練も大切だからそちらをしっかりお願いね」と言って断った。実鏡のせめて恒誠の帰りを待って作戦を相談してはどうかという助言も、「ねぐらを発見したことは昨夜の内に伝えたのに行方をくらますような人の力は借りないわ」とはね付けて、意気揚々と、しかし山賊に気付かれないように静かに、光姫達は玉都のある祉原国との境に近い北の山へ踏み込んでいったのだった。
「それにしても、お米を村に集めて山賊をおびき出すなんて、従寿さんはなかなかの策士だわ」
辺りを警戒して進みながら光姫が小声でほめ、お牧も同意すると、従寿は顔を赤くして白状した。
「この策は、実は白林殿に教えて頂いたのです」
「宗明さんが?」
意外な名前に驚くと、従寿は嫌そうに頷いた。
「一昨日の評定の後、廊下ですれ違った時に山賊退治の作戦を聞かれ、ねぐらを見付ける方法に悩んでいると言ったらこのやり方を教えてくれたのです」
「なるほど。従寿さんは公平ね」
光姫はやさしい顔になった。
従寿が宗明に好意を持っていないことは光姫も知っていた。容姿と才能に自信ありげな態度が鼻につくらしい。光姫が彼の美貌と剣の腕を認めていることも腹立ちの理由らしかった。だから、山賊討伐に宗明の知恵を借りたのが不快らしかったが、その提案を頭から否定せず、よいと思ったら皆に諮って採用を勧める辺りが従寿の立派なところだった。
「白林様には後でお礼を申し上げないといけませんね」
同じく姉のような表情になったお牧が言い、光姫が「そうね」とささやくと、銀炎丸まで賛成するように短く吠えた。
「よい報告をするためにも、山賊は一人たりとも逃がさないわ」
必ず退治しようと改めて心に誓ったところへ、従寿が手で停止の合図をした。
「そろそろ敵のねぐらです。見付からぬように慎重に近付きましょう。打ち合わせ通り、伍助殿は左手へ回って下さい」
大百姓の三男の巨漢は頷き、義勇民の半数を連れて森の奥へ去っていった。彼等の姿が見えなってから少し待った後、従寿は腰をかがめ、藪をかき分けてゆっくりと前進を再開した。光姫とお牧もそれにならい、表情を引き締めて後に続いた。
山賊達の警戒は案外ゆるく、まだ光姫達の接近に気付いていないようだった。途中、木の上に見張り台らしきものをいくつか見かけたが、どれも人の姿はなかった。不審がるお牧に従寿は、山賊は夜に行動するので昼間は寝ているのでしょうと言った。それでもさすがにねぐらでは幾人かは起きて見張りをしているはずだ。見付かって逃げられては元も子もないので、光姫達は息をひそめ、包囲するように大きく広がりながら、前方の森の中に見える小山を目指していった。
山賊のねぐらは高い崖の下の洞穴の中にあった。洞穴からは勢いの激しい小川が右へ流れ出して深い谷を作っていて、その左手を細い道が奥へ続いている。洞穴の入口は高い木の柵に囲われ、木を格子状に組み合わせた扉の手前で見張りが五人、あくびをかみ殺していた。
従寿、お牧、五助と目を合わせた光姫は、立ち上がって大声で叫んだ。
「それっ! 攻撃開始!」
光姫が薙刀を前へ振ると、一千五百の義勇民はわあっと鬨の声を上げながら森を走り出て、柵の扉へ殺到した。
武装した大集団の出現に見張りの山賊達は一瞬呆気にとられたが、事態を理解すると慌てて柵の中に逃げ込み、扉を閉じようとした。
「入口を閉めさせては駄目! 従寿さん、銀炎丸、お願い!」
薙刀を手に鎧姿で走りながら、横を駆ける近習と灰色の狼に叫ぶと、二十歳の若武者は「はっ!」と答えて速度を上げ、閉じようとする扉へ突進して扉の格子の間へ槍を突き込んだ。腕を切られそうになった山賊が手を放して飛び下がると、従寿は両手を扉にかけて思い切り奥に押した。
従寿は細身に見えて力が強い。重い木の扉はぎぎぎときしみながら内側に開いて隙間ができた。そこへ銀炎丸が吠えながら躍り込むと、山賊達は突然現れた大きな狼に悲鳴を上げて逃げ出した。
「全員、突入!」
叫んで光姫も仲間と共に柵の中へ飛び込んだ。騒ぎに気が付いて洞穴から山賊がばらばらと出てきたが、襲撃者の数の多さに驚いて逃げていく。それを追い立てるように、洞穴へ向かって光姫は駆けた。左右をお牧と従寿が警戒し、銀炎丸も主人を守るように付いてくる。後ろを振り返ると、義勇民達はほとんどが柵の内側に入り込んでいた。
「一旦止まりましょう」
洞穴の入口の前で、光姫は血気に逸る義勇民達を呼び集めた。隊列を整え、五人組を作らせる。
「では、前進!」
従寿を先頭に、一千五百人が少しずつ進み始めた。
洞穴は案外長く、次第に左へ曲がっていて、やがて前方に光が見えてきた。そこが出口らしい。その奥から水の流れる音が大きく聞こえていた。
出口に近付き、壁に隠れながら用心深く外の様子をうかがっていた従寿が、十人ほどを連れて光の中へ入っていったかと思うと、すぐに戻ってきた。
「誰もいないようです」
「なんですって?」
驚いた光姫はお牧と銀炎丸を連れて洞穴を出た。
そこは周囲を高い岩の壁に囲われた円形の広場だった。広さは影岡城の本郭くらいあるだろうか。奥に滝があり、小川の作った細く深い谷が広場の左端を巡っている。小川が目の前を横切って洞穴に流れ込むところに粗末なつり橋が架かっていて、その先は右手の崖に向かってゆるやかな登り坂になった平地に短い草が生い茂っている。周囲を囲む高い崖は途中に段があって、空の見える上の方がより広い。まるで小さな噴火口の底のような地形で、隠れ家にするには絶好の場所だった。
「ここで行き止まりのようですね」
つり橋を渡った光姫達に、対岸に先行して警戒していた従寿が言った。周囲を囲う崖は低い方の段でも大人の背の数倍の高さがあってとても登れそうにないので、つり橋を通る以外にここから出る方法はなさそうだった。
広場には山賊のものらしい簡素な小屋が十棟余り並んでいた。従寿は民に命じて全ての小屋を調べさせたが、人っ子一人いなかった。
「どういうことかしら」
広場の中程で辺りを見回しながら、光姫は嫌な予感を覚えた。見張りの賊を追って入って来たのだから、少なくとも彼等はいるはずなのに、どこにもいないのだ。どこかへ隠れたに違いないが、その場所が分からなかった。
「様子がおかしいですね」
同じく用心する顔になった従寿に、光姫は頷いた。
「一旦ここから出て周囲を調べた方がいいわ。すぐに指示を出しましょう」
民に集合を命じ、撤退の合図を出そうとした時、通り抜けてきたばかりの洞穴の方で叫び声がして、多くの民が駆け出してきた。
「て、敵が後ろから攻めてきただ!」
彼等に続いて、刀を手にした山賊が百人余り洞穴から現れて、つり橋の手前で足を止めた。
「出口をふさがれたか!」
従寿が唸ると同時に、上から笑い声が降ってきた。
「はっはっは。まんまと引っかかったな」
慌てて声のする方を見上げると、岩壁の上、二段になっている崖の下の段で、数百人の山賊が弓を構えていた。
「罠だったのか」
従寿が悔しげにつぶやいた。
「完全に囲まれていますね」
お牧の声も緊張と警戒が露わだった。
「侠兵会の本拠へようこそ。俺は頭の皆馴憲之と言う」
山賊の首領らしいがっしりした体格の男のよく通る声が、滝壺に大きく反響した。
「てめえらは豊梨家の者だな。俺達の兵糧調達を黙って見ていればよいものを、無駄なことをする。小封主のくせに討伐できると思ったのか!」
憲之が叫ぶと、数百人の山賊が一斉に笑った。
「俺達は諸国から集まった任侠の徒だ。恵国軍を防ぎ、玉都を守るために雲居国へやって来た。何せ、討伐軍は負けちまったし、統国府は政変のごたごたで当てにならねえ。大翼の鷲松巍山は慎重で当分動くつもりはねえらしい。このまま放っといたら、恵国軍は都のそばまで来ちまうだろう。霊峰神雲山と総本山仰雲大社のある雲居国も占領されるのは時間の問題だ。こりゃあ、黙って見ちゃおれん、俺達が立ち上がるしかあるめえってことになって、こうして出張ってきたってわけだ」
憲之はぐるりと広場を見回し、光姫を見付けると大声で呼びかけた。
「おい、お嬢ちゃんよ。てめえが大将だな。悪いことは言わねえから降伏しな。大人しく手を挙げて、二度と俺達を討伐しようなんて考えねえと約束したら、生かして帰してやるよ」
首領は勝利を確信している口調で言った。
「俺達の敵は恵国だ。吼狼国の民を殺したくはねえ。お互い無用な殺生はねえ方がいいだろう。ただし、武器と鎧は全部置いてってもらうぜ。米はあちこちの村から借りてきたが、矢と槍と甲冑がまだ足りねえんでな。都で用意はしてきたが、五百人全員には行き渡らねえし、備蓄が多いに越したことはねえからなあ」
山賊の首領は愉快そうな顔で要求した。
「さあ、さっさと降伏しろ。俺達にはかなわねえと素直に認めて、武器を置いて鎧を脱げ。そうすりゃあすぐに城へ帰れるぜ。断るって言うんなら、考えが変わるまで、あんた達にはここにいてもらうことになる」
「くっ……」
周囲の目が集まるのを感じた光姫は、湧き上がる怒りを抑え、薙刀をぎゅっと握ると声を張り上げた。
「降伏はしないわ。あなた達は吼狼国を守るというけれど、雲居国の民は山賊の害に苦しんでいるのよ。目的が正しくても、民を苦しめるのは間違いだわ! 降伏して武器を置くべきなのはあなた達の方よ!」
光姫の言葉に義勇民達は明るい顔になり、そうだそうだ、山賊なんかに負けるものか、そちらこそ降伏しろと口々に大声で叫んだ。
「聞いたでしょう。彼等はこの国の民よ。これが民の声なのよ。奪った食料を返して、すぐにこの国を立ち去りなさい!」
山賊の首領は義勇民達を見回すと、手を広げて肩をすくめてみせた。
「俺達も民を困らせたくはねえんだが、仕方がねえんだ。恵国軍が攻めてくる前に兵糧を確保しなきゃならねえからな。俺達には先立つものがねえし、譲ってくれって頼んでも頷きはしねえだろう。だからやむなく付近の村から食料を借りたんだが、そのかわりこの国を守ってやるんだ、文句はあるめえ。それに、恵国軍に奪われるくれえなら、俺達に差し出す方がまだましってもんだろうさ」
「言わせておけば、勝手なことを」
従寿は歯がみした。
「山賊らしい言い分ですね」
お牧も腹を立てたらしかった。
「とにかく脱出しましょう」
従寿がささやいた。
「ここにいては射殺されるだけです。つり橋を渡って洞穴に避難し、崖の上へ登る道を探しましょう」
お牧も同意見だった。
「上からねらわれては勝ち目がありません。一旦洞穴の外へ出るしかありませんね」
光姫達も弓や投石紐を持っているが、下からねらって当てるのは難しい。逆に、山賊達は圧倒的に有利な位置から攻撃できる。
「そうね。そうしましょう」
光姫は二人に頷くと、義勇民達に命令した。
「ここから脱出します。全員、洞穴へ向かいなさい!」
それを聞いて、憲之が言った。
「無駄な抵抗はよせ。あんた達は完全に包囲されてるんだぜ」
「いやよ。降伏はしないわ。私は恵国軍を止めて、お姉様を救うのだもの!」
山賊の首領はやむを得ないという顔になった。
「仕方がねえ。おい、てめえら、ちょっと脅かしてやれ!」
山賊達が弓を引き絞った。つり橋の前に移動した義勇民達は光姫の指示を待っているが、橋の向こうには山賊がいる。洞穴の真上の崖にも、大きな岩の間に数十人の賊の顔が見えた。橋の上で射られては避けようがない。
「どうしますか」
お牧が尋ねると、従寿が前に出た。
「私が先陣を務めます。橋を渡って対岸に切り込みますから弓で援護して下さい」
「それしかなさそうだけれど……」
光姫はためらった。こんなところで民の命を危険さらしたくない。だが、いつまでも考えてはいられなかった。義勇民達は指示を待っている。
光姫が迷っているのを見た憲之は、にやりとして言った。
「さあ、大人しく降伏しろ。逃げられねえことが分かったろう」
それを聞いて、光姫は覚悟を決めた。自分達は民を守るためにここに来たのだ。山賊に屈するわけにはいかない。
「従寿さん、行って。私とお牧で援護するわ」
遂に頷き、背中の弓へ手をかけた時、対岸で騒ぎが起こった。洞穴の奥から悲鳴や剣戟の音が聞こえてくる。と、鎧姿の武者が三十人余り現れ、数人がつり橋周辺の賊を見事な剣技で追い散らしてこちらへ渡ってきた。先頭を走ってくるのは、赤い立派な甲冑に身を包んだ白林宗明だった。
「光姫様、ご無事ですか」
「宗明様! どうしてここへ?」
思わず駆け寄ると、橋を渡り終えた宗明は、光姫を見て安堵した顔になった。
「織藤公には止められていましたが、心配でしたのでこっそりと付けてきたのです。光姫様達が洞穴に入った後、山賊が現れて後を追っていったので、これはまずいと思い、突入しました。光姫様に万一のことがあってはなりませんからね」
「私のために?」
思わず聞き返すと、宗明はにっこりと微笑んで頷いた。
「そうです。光姫様の身を案じて駆け付けて参りました」
「まあ……」
光姫は赤面した。武者姿の凛々しい美丈夫にやさしい笑顔でこんなことを言われたら、さすがに恥ずかしくなってしまう。
「ご無事で安心しました。もし光姫様が怪我でもなさったら、私は自分を許せないでしょうから」
光姫には宗明の笑みがいつもの十倍も魅力的に見えた。思わず食い入るように見つめてしまってから、気が付いて慌てて下を向いた。表情に困った光姫は、火照った顔を隠そうとうつむき加減で上目遣いになりながら、取り敢えず礼を言った。
「助けにきて下さってありがとうございます。この場所を見付ける方法を教えて頂いたことにも感謝します」
「いいえ。光姫様は雲居国の希望ですからね。私は光姫様のためなら、たとえ火の中、水の中、洞穴の中ですよ」
「まあ、そんな……。それに、ここは敵の罠の中ですよ?」
「だとしても、私は恐れません」
「まあ……」
白い歯を見せた宗明に光姫はついうっとりしたが、そこへ横から声がかかった。
「光姫様、お礼はもうそのくらいでよいでしょう」
従寿だった。何やら不満そうな顔をしている。お牧も複雑な表情で言った。
「姫様、今の内に脱出しましょう」
光姫ははっと我に返った。
こんな時に、男性の笑顔に見とれるなんて。
自分の呑気さを素早く反省した光姫は、表情を引き締めて答えた。
「そうね。急いで橋を渡りましょう」
宗明も真面目な顔に戻った。
「では、私が先に渡って橋の向こうの山賊を追い払います。三十人ほど仲間を連れてきていますが、山賊の数が多く、刀で脅しながらここまで走って来るのがやっとでしたので、まだかなりの賊が洞穴の中にいます。敵にふさがれる前に、洞穴の出口を確保しましょう」
「はい。お願いします。私もすぐに続きます」
光姫は頷いて、背後を振り返った。
「さあ、みんな、白林様が助けに来てくれたわ。この機に脱出しましょう!」
おう、と上がった叫び声に頷いて背を向けると、光姫は薙刀を構え、先を行く宗明を追って橋へ駆け込んだ。
幸いなことに、なぜか山賊は矢を射かけてこない。これなら渡れるわと、銀炎丸と共に勢いを増して橋の中程にさしかかった時、急に前を行く宗明が立ち止まった。その背にぶつかりそうになってよろけた光姫は、振り返った男の太い腕にいきなり抱き締められた。
「ご免!」
「えっ?」
鼻に宗明の肌と鎧の匂いを感じて思わず強く息を吸い込んだ光姫は、そのまま足を抱えられて抱き上げられた。途端につり橋が大きく揺れた。思わず男の腕にしがみついた光姫の目の前で、宗明が必死の形相で叫んだ。
「戻れ! 橋が落ちるぞ!」
「ええっ?」
意味を理解できなかった光姫が上を見上げると、宗明の端正な美貌の上方に大きな岩が見えた。ひさしのようにせり出した対岸の崖の上から、山賊達が橋に向かって岩を落とそうとしているのだ。
次の瞬間、それっというかけ声と共に、大岩が光姫の上に落ちてきた。
悲鳴を上げかけて凍り付いた光姫を抱えたまま、宗明がつり橋を全力で走り出した。岩に気付いた銀炎丸が急反転してものすごい勢いで橋を駆け戻り、従寿らも慌てて引き返していく。
元の岸まであと数歩、というところで、ぶちっ、という音が谷に響いて、光姫は体が後ろに引かれるのを感じた。橋が壊れたのだ。
落ちる、と思った瞬間、今度は急に体が浮き上がった。何が起こったのか分からぬまま光姫は勢いよく宙を飛んで、つり橋のたもとの土の上に転がった。
「姫様!」
駆け寄ってきたお牧に抱き起こされて、自分が投げ飛ばされたのだと気が付いた光姫は、近付いてきた銀炎丸の顔を見て微笑んだが、はっとして崖際に走った。
「宗明さんは!」
つり橋の柱につかまって下をのぞき込むと、切れて垂れ下がった橋の踏み板の一つに両手でつかまっている宗明の姿があった。
「よかった。本当によかった!」
安堵の息を吐いた光姫に、宗明は爽やかに笑った。
「光姫様がご無事で何よりでした。やむを得なかったとはいえ、放り投げてしまい、申し訳ありません」
「そんなこと……!」
光姫は思わず涙ぐんだ。身の丈の数倍はある谷の上でぶら下がりながら自分を案じてくれるこの男に、光姫は不覚にも感動していた。
「今、助けますから」
命じるまでもなく、既に従寿や宗明の仲間達が綱を引き上げにかかっていた。
「よかった。誰も落ちなかったみたいですね」
お牧に言われて慌てて谷底を確認した光姫は、遺体が一つもないことにほっとし、宗明にばかり気を取られていた自分が恥ずかしくなった。将にあるまじきことだわと自分を叱った光姫は、同時に猛烈な怒りに襲われた。
宗明が上がってきたのを確認すると、光姫は崖の上を見上げて叫んだ。
「なんて危ないことをするの! 死人が出たかも知れないのよ! 絶対に捕まえて、きつく懲らしめてやるわ!」
怒りで真っ赤な顔の光姫を見下ろして、憲之は大声で笑った。
「よくぞ無事だったな。その運のよさは認めてやろう。だが、罰するって言うが、一体どうやって俺達を捕まえるつもりなのか聞きたいねえ。あんた達はもうそこから出られねえんだぜ」
言われて、光姫は自分達がこの広場に閉じ込められてしまったことに気が付いた。
唯一の道であるつり橋はなくなってしまった。山賊の小屋を壊してはしごを作れば崖を登れるかも知れないが、包囲された状態では不可能だった。二、三日もすれば影岡城の実鏡達が心配して助けが来るだろうが、それまでここを出られない。幸い水は滝壺に降りればくめるが、山賊達の奪った米は崖の上にあるらしく見付からなかったので、手持ちの食料は非常食として持ってきた干し飯が一食分だけだった。知恵を期待して宗明を見たが、悔しげな顔で首を振るだけだった。
「さあ、観念して降伏しろ」
勝ち誇った笑い声を上げる山賊の首領を見上げて、光姫や宗明達が途方に暮れた時、突如天から聞き慣れた声が降ってきた。
「降伏するのはお前達の方だ」
どこから、と思って上方を見回すと、崖の最上部、山賊達がいる段より更に高いところで、円く切り取られた空に突然豊梨家の旗が無数にたなびいて、弓を構えた千人以上の武者が姿を現した。
「山賊ども。お前達は完全に包囲した」
声の主は織藤恒誠だった。例の黒漆塗りの大きな軍配を持っている。隣には実鏡もいた。近習頭の楢間惟鎮がすぐ後ろに控え、兄の横で福子が手を振っていた。
「ええっ? 恒誠さん? 実鏡さんも? どういうこと?」
驚く光姫を一瞥した若い武将は、軍配の先を山賊の首領に向けて言った。
「皆馴憲之と言ったな。抵抗は無駄だ。大人しく降伏しろ。このねぐらの周囲には三千の兵がいる。洞穴の入口の前はもちろん、お前達がいるその段からの出口にも多数を配置した。もはや逃げ道はない」
恒誠の口調は素っ気ないほど淡々としていたが、その声は円い広場に響いてはっきりと聞こえた。
「光姫殿から山賊が予想通り襲撃してきたので尾行してねぐらを見付けたと知らされた時、俺はおかしなことだと思った。米を一ヶ所に集めるという噂はいかにも策略の匂いがするのに、ほぼ全員で襲撃した上、簡単に尾行を許したというのだからな。
ねぐらを見付けられれば一網打尽にされる可能性があるのに、なぜ尾行を追い払わなかったのか。俺はきっと山賊はねぐらを襲われても勝てる自信があるのだろうと考えた。人数を教えたのも油断を誘うために違いない。それでは光姫殿や義勇民達が危ない。
そう思った俺は、昨夜の内に城を出て、ねぐらがあると聞いた場所を見に来た。そして、この谷の構造を知り、山賊の作戦を悟った。彼等を捕らえるには、中にいる間に、洞穴の入口だけでなく、山の上にも多くの兵を配置する必要がある。だが、彼等は討伐隊の襲来を予想しているはずだから、見付からずに接近するのは難しく、包囲が完成する前に逃げられてしまうだろう。
そこで俺は、光姫殿には予定通り攻めてもらい、山賊に討伐隊を罠にかけたと思わせておいて、その間に実鏡殿に頼んだ援軍で密かに包囲することにしたのだ。白林殿が現れた時はしまったと思ったが、山賊の注意を引き付けてくれそうだったので、そのまま行かせた。すると、外にいた賊が追いかけて洞穴へ入っていくし、中で騒いでくれるしで、大いに助かった」
憲之は呆気にとられて聞いている。まさか全て読まれているとは思わなかったのだろう。一方、光姫は、殻相国での退却戦に続いて今回も恒誠に利用されたと知って腹を立てていた。
「囮にするなら、前もって教えて下さい!」
無駄だろうと思いながら抗議すると、案の定恒誠は「それでは光姫殿の様子から敵に悟られてしまうからな」と言い放った。それが事実らしいことは今の周囲の反応から認めざるを得ないし、作戦だったことは理解できるが、そのために橋から落ちかけたのかと思うと、光姫はやはり不愉快だった。宗明も、自分がたった三十人で助けに来たことを知りながら、利用できそうだから突入を止めなかったと聞いて、美貌を怒りにゆがめていた。
「というわけで、俺はこの谷を調べ上げ、全ての道に十分な武者を配置した。逃げることは不可能だ。殺されたくなければ降伏しろ。命は取らん」
ぽかんとしていた憲之は周囲を見回して恒誠の言葉を確認すると、上を向いて返事をした。
「確かに逃げられねえようだな。だが、降伏はしねえよ」
山賊の首領は大きく首を振った。
「強盗略奪の罪で斬首されても文句は言えねえことを考えれば、助命はありがてえことだ。だが、その提案に乗ることはできねえ。俺達はここで捕まるわけにはいかねえんだ。大義のためにな」
山賊の首領は恒誠に訴えた。
「頼めた義理じゃねえのは分かっているが、どうか俺達を見逃してもらいてえ。民を苦しめたことは済まねえと思う。領主として見過ごせねえのも当然だ。だが、俺達の義心は理解してもらいてえんだ。全ては国を守るためにやったことだ。皆死ぬ覚悟はできてるが、投獄されては恵国軍と戦えねえ。奪った食料は全て返す。すぐにこの国を出て行くと約束する。だから、俺達に戦場で死ぬことを許してくれねえか」
首領が頭を下げると、山賊達全員がそれにならった。
「見逃がすことはできない。この国からは出さない」
恒誠が断言したので、どう答えるかと待ち構えていた光姫は驚いた。義勇民や豊梨家の武者の間からもざわめきが漏れた。山賊のしたことは確かに罪だが、首領の言い分を聞いて同情する気持ちが起こったらしい。
「どうしても投獄してえのか。処刑を見せ物にして民の人気取りでもするつもりか」
憲之が吐き捨てるように言い、山賊達は不穏な唸り声を上げた。
「そんなことはしない」
恒誠は冷ややかなほど落ち着いた声で言った。
「お前達には我々の仲間になってもらう」
「ええっ?」
光姫が思わず声を上げると、山賊達も意外だったらしく、どよめいて一斉に恒誠を見上げた。
「お前達のしたことは確かに重罪だ。雲居国の民の怒りを知るべきだ。だが、その志は認めてやってもよい。武家ではなく、命令も受けていないのに、国を守るために命を懸けて戦おうという気概は称讃に値する。それになかなか知恵も働くようだ。村々を襲ったやり口と、光姫殿を誘い込み、つり橋を落とした罠の張り方はよく考えられている。皆武芸の心得があるようだし、この谷での動きも悪くなかった。これほどの戦力を捨てる法はない。そこで、お前達を処罰するかわりに、我々の配下に組み入れようと思う。仲間として迎えるから、影岡城で共に戦わないか」
憲之は半信半疑の様子で尋ねた。
「俺達の罪は許してくれるってえのかい」
「そうだ。お前達を投獄すれば無駄飯を食う者が五百人も増える。だが、追放では罰が甘過ぎるし、他の国で同じことをする可能性がある。かといって、国を守るために戦おうとした者達を斬首すれば、義勇の民や家臣達の士気を下げるだろう。恵国との戦いを控えた豊梨家にはどれも益がない。ならば、武者として戦わせた方がよほどましだからな。また、このねぐらにある食料は全て豊梨家がもらいうける。米が高騰して兵糧の確保に困っていたのだ。山賊の被害にあった村々には事情を説明し、米の代金を渡す。米を元の村に返すのは手間がかかるし、我々が戦いに使うと言えば納得するだろう。どうだ。お前達にとっても悪い話ではないと思うが。これはご領主の実鏡様も了承されたことだ」
と横を見ると、実鏡が真剣な顔で頭を下げた。
「僕からもお願いします。僕達の仲間になってくれませんか」
「なるほど……」
山賊の首領は考え込み、周りに仲間達が集まった。
しばらく相談した後、山賊達は再び顔を上げた。
「分かった。仲間になろう。この状況では降伏するほかねえからな」
皆馴憲之は言った。
「俺達はたった五百人だ。軍勢としちゃあ大したことはねえ。恵国の大軍に勝つのが難しいのは分かってた。後方を攪乱するのが関の山だろうと思ってたんだ。だから、影岡城に入ってご領主様の軍勢と一緒に戦えるんなら、願ってもねえことだ。それに、俺達は志は高いが先立つものがねえ。武器も食料も足りねえし、ねぐらもこんな粗造りのものでは心許ねえと思ってた。ここは敵を誘い込むのにもってこいだから、恵国軍の一部を閉じ込めたら、どこか別な場所に移るつもりだったんだ」
山賊達は皆頷いた。
「それに、俺はあんたに興味が湧いた。俺達の罠に気付いたのも、いつの間にか包囲してたのもなかなかだが、何より俺達を仲間に加えて、武者の数と食料を確保しようってのが気に入った。あんたの指揮の下でなら面白い戦ができそうだぜ。これからよろしく頼んます」
憲之が膝を付くと、山賊達もそれにならい、一斉に恒誠と実鏡に平伏した。
「皆馴殿。君達の処遇だが、私の配下に入ってもらおうと思う。当面の役割は、近隣の国々での情報収集だ。手の国にも何人か行ってもらうことになる。無頼の徒には裏のつながりがあるだろう。それを利用して恵国軍の情報を集めて欲しい。他の者は影岡城で武術の訓練だ」
「分かりやした。そういう仕事なら任せて下せえ」
顔を上げた憲之が胸を叩くと、恒誠は更に言った。
「それから、これはまだ確約はできないが、戦で手柄を立てれば家臣への取り立ても考慮する」
山賊達はざわめき、取り囲む武者達も驚いたように恒誠を見た。
「我々が戦に勝ち、加増を受けられればの話だがな」
恒誠がにやりとすると、山賊達から大きな笑い声が起こった。
「はっはっは。たとえ話だけでもありがたいこった!」
憲之は豪快に笑うと、もう一度頭を下げた。
「これより、お二人に忠誠をお誓い致しやす。どうかよろしゅうお願えしやす」
頷いた恒誠は、笑顔の実鏡と目を合わせると、光姫に声をかけてきた。
「光姫殿、ご無事で何よりだ。今橋を修理させるから、少し待っていてくれ」
呆気にとられて恒誠と憲之のやり取りを聞いていた光姫は、我に返るとまた腹が立ってきた。
「何がご無事で何よりよ! 私は橋から落ちかかったのよ! 人を囮にするなんて最低よ!」
大声で言い返すと、光姫はぷいと背を向けて、宗明へ歩み寄った。
「先程は助けて下さり、本当にありがとうございました。あなたは命の恩人です」
頭を下げると、宗明は恥ずかしさと悔しさの交じり合った笑みを浮かべた。
「あまりお役に立てませんでしたが、光姫様をお助けすることができましたので、来てよかったと思います」
とんでもありません。本当に助かりました。そう言おうと宗明を見上げた光姫は、返しかけた微笑みを急に強張らせ、身を固くした。胸がどきどきと激しく打つのを感じて驚いたのだ。
もしや、と思って上目遣いに宗明の顔を見つめてみると、どんどん顔が上気してくるのが分かった。心臓が激しく拍動し、体中がぞくぞくして震え出しそうだった。
これは恋だわ。
光姫は確信した。
私はこの男性に恋をしてしまった!
光姫は甘いうれしさとじっとしていられないような興奮の混じり合った不思議な感動に襲われたが、同時にわけもなくものすごく恥ずかしくなった。
宗明が怪訝な顔をしていることに気が付いた光姫は、きっと今自分は真っ赤だろうと思った途端恥ずかしさに耐え切れなくなって、「本当にありがとうございました!」と叫ぶとくるりと背を向けて、滝に向かって全力で走り出した。
すぐに銀炎丸が付いていく。驚いた従寿が慌てて後を追い、呆気にとられている宗明に一礼したお牧も続いた。光姫は高い滝にしぶきを浴びるほど近付いて見上げながら、胸の前で両の拳を握って、大声で笑い出しそうになる口元を必死で引き締めていた。
私は見付けたわ!
光姫は心の中で叫んだ。
宗明さんこそ、私の運命の人に違いないわ!
凛々しい美貌と引き締まった長身、頭脳の冴え、鋭い弁舌と武芸の腕、そしてあの爽やかな笑顔。どれをとっても宗明は光姫の理想通りだった。
華姉様。私は遂に運命の人を見付けました。見ていて下さい。絶対に彼を手に入れてみせますから!
滝の上の青空に向かって誓うと光姫は振り返り、訝しむ様子の従寿と呆れ顔のお牧、それに銀炎丸を誘って、火照った顔と渇いたのどを冷やしに滝壺へ降りていった。
その様子を高い場所から恒誠はじっと見下ろしていた。隣で同じ相手を見つめていた実鏡は、年上のはとこの表情の読めない横顔を見上げて問いかけた。
「恒誠殿がこの場所を偵察に来たのは、光姫様を心配したからなのでしょう?」
恒誠は答えず、視線を合わさぬまま手にしていた軍配を腰に差すと、「さて、山賊の首領に会いに行くか」と言って歩き出した。実鏡はその後ろ姿を眺めて小さく溜め息を吐いたが、すぐに家臣達を引き連れてはとこの後を追っていった。




