(第一章) 二
二
穂雲港を出航した海国丸は、その日の内に南隣の椎柴国へ到着した。
ここは名前の通り狭い砂浜のすぐそばまで椎や楢の林が迫る小国で、穂雲から田美国の奥にある二国へそれぞれ延びる街道の一方の終着点だ。椎柴国が高稲半島の先端で、この国に属するすぐ沖の飛木島というやや大きな島の南には、滝の海と呼ばれる果ての見えない広大な海原が広がっている。海流が複雑に入り組んだこの魔の海を南へ進んでいくと暴波路国という島国があるが、行き来の困難さと、両国の間にある島々に住む牙伐魔族という蛮族のために、貿易などは行われていない。
椎柴国三万貫の城下町苫浜港で、大朋丸が一行に合流した。領主である鳴沼家が派遣する交易船で、墨浦まで同行することになっている。
港には当主の鳴沼在村ほか大勢が見送りに来ていて、海国丸は大歓迎を受けた。鳴沼家は今年ようやく統国府の許可を得て恵国との貿易に乗り出すことになったので、第一便として墨浦へ派遣する大朋丸に国を挙げて期待している。鳴沼家に墨浦の商家への口添えを頼まれた時繁は、隣国のよしみに加え、華姫の婿を断った負い目もあって快諾し、泰太郎と家臣達にその役目を命じていた。だが、泰太郎は墨浦の商人達に紹介するだけで十分だろうと考えているようだった。鳴沼家は新興の大商人大灘屋と手を組んだらしく、泰太郎の研究支援の担当でもある大番頭の長次が今回の航海に同行していたからだ。
鳴沼在村は恐縮する泰太郎達の手を押し頂いてくどいほど礼を述べると、大朋丸に乗り込む家臣達の長である家老の頃田剛辰と、次男で二十二歳の継村を紹介して去っていった。領主の代理として墨浦へ向かうこの若君は、自分を袖にした華姫ににこやかに結婚を祝う言葉をかけ、泰太郎の肩を叩いて、「本気で惚れていたので一時は恨んだが、今はもう吹っ切れている。必ず幸せにして差し上げてくれ」と言って笑っていた。
一方、長次や剛辰は海国丸の積荷に興味があるらしく、泰太郎や梅枝家家臣団を率いる家老の早頭政資にしつこいほどあれこれと尋ねていた。終いには実物を見たいと言って船に上がり込み、積み上げられた総額二十万両の銀の箱や沢山の米俵に目を見張り、甲板に結び付けられた数本の大きな丸太にまで大げさに感心していた。この巨木は仰雲大社の墨浦にある支社の本殿の修復に使われるのだ。
やがて彼等が自分の船に戻っていくと、大朋丸の船員達と雑談をしていた梅枝家財務方の湯金増雄が泰太郎に話しかけてきた。
「おかしいですね。向こうの船の中を見せてもらったのですが、船倉は空のようでしたよ」
恵国貿易の担当で海国丸の積荷の管理責任者をしている四十代のこの武家は、職務柄商人との付き合いが多く、泰太郎とは旧知の仲だった。
「空ですって?」
泰太郎は不思議そうに聞き返した。
「ええ。麦や稗の袋が少々あるくらいで、積荷らしいものが見当たりませんでした。喫水も浅いですから、ほとんど荷を積んでいないと思います」
「ということは、今回の船旅は商売の交渉だけなのでしょうか。もしかしたら墨浦で買い付けるつもりかも知れません」
泰太郎は首をひねったが、すぐに考えるのをやめた。
「きっと鳴沼様には何か考えがおありなのでしょう。時繁公から頼まれたのは墨浦の有力者に紹介することだけですから、それ以外のことは大灘屋に任せればよいと思います」
「それはそうなのですが、私は気になります。空の船を送り出してどうするのでしょうか。それに、警備するほどの積荷もないのに、家臣を三十人も連れて行くようです。今後のための調査役だそうですが、旅費が馬鹿にならないでしょうにねえ。そもそも、大灘屋は米穀商ですし、三万貫の鳴沼領の何を輸出するのでしょうね」
どうにも腑に落ちないという顔で、増雄は離れていった。
船に戻った泰太郎は、夕食の時にそれを新妻に語った。華姫は商売の下見かも知れないという意見には首を傾げたもののあまり興味を示さず、苫浜の町の様子を聞きたがった。
華姫は中年の小封主の「町を案内させましょう」という申し出を断り、船に残っていた。大封主家の姫君でありながら商人の妻でもあるという微妙な身分に周囲が対応に困っていることを分かっていて遠慮したのだ。それに、継村は華姫夫婦を恨まない度量の大きさを周囲に印象付けたいのか妙に親しげに話しかけてくるし、剛辰も機嫌を取るように厳つい顔に愛想笑いを浮かべて見え透いた世辞を並べるのでうるさかった。だから、苫浜港に着いた時に少しだけ港に降り、鳴沼家の当主親子や家老達に挨拶し、周辺の様子をざっと眺めた以外は船室に籠もって書物を読んでいた。
「話には聞いていたけれど、苫浜は実に貧しく陰鬱な町だね」
泰太郎は華姫が本当は町を見て回りたかったことを分かっていて、詳しく語ってくれた。
「お城も小振りだし、家々は小さく汚れていて、二階建て以上の建物はほとんど無かった。商店と工房をいくつか見かけたけれど、日用品を扱っているだけのようだったな。何せ、城下町と言っても三万貫に過ぎないし、大した産業もこれといった名産品もないんだ。港のすぐ先はもう山で、田畑も少ないようだった。領主の鳴沼家は国持ち封主の体面を守らなくてはいけないのに収入が少ないから、財政が相当厳しいらしい。そこへ、諸物価の高騰とこのところの米価の下落が追い打ちをかけている。重い税のために民の暮らしは苦しく、不満を力で抑え付けているから町に活気がない。この国が今まで商人達の興味を引かなかったのも頷けるね。これから交易に乗り出すわけだけれど、かなり大変だと思うな」
華姫は同感だと答えて、高稲半島随一の港である穂雲の街並みを思い浮かべた。
「梅枝家は恵まれているのね。田美国は名前の通り広大な水田が広がる土地で、表高六十三万貫、実高は百万貫もあるし、銀まで出るわ。北隣の殻相国は十五万貫だけれど、交通の要衝で商人が多く通るから町はにぎやかよ。この辺りで特に豊かな二国を領しているんだもの」
「そういう見方もできるけれど、この国の貧しさの原因はやはり鳴沼家の施政にあると思うよ」
泰太郎は真面目な顔で首を振った。
「どんな国に封ぜられても、その土地を開発して民の暮らしをよくしていくのが領主の仕事なんだ。他の封主家と比べて自分達は損だなどと文句を言ったところで仕方がない。そんなことを考える人に商売や領地の経営はできないよ。田畑や鉱山を開発して安い年貢を実現なさった時繁公は、やはり名君でいらっしゃるんだ。逆に、この国のように苛政を布く領主を持つと民は悲惨だ。椎柴国の人々は皆、なぜ田美国に生まれなかったのだろうと嘆いているそうだよ」
「その通りね。お父様は立派だわ」
華姫が頷くと、泰太郎はお得意の大陸の話を始めた。
「恵国でも腐敗した役人達のせいで民が苦しんでいる。隆国との戦で物が不足しているところへ、宮廷は戦費をまかなうために銀貨の質を落として乱発したから、一層物価を押し上げてしまった。都の高官達と癒着した一部の大商人が貨幣の鋳造で大儲けしたかわりに経済は大混乱だ。なのに、高官達は銀の含有量の低下は銀価格が高過ぎるせいだと主張して、吼狼国に輸出を増やせと要求してきているらしい」
泰太郎は何度も海を渡っているので、大陸の政情や恵国貿易に詳しかった。
「ひどい話ね。高官や大商人達の横暴は取り締まるべきだわ」
華姫の言葉に泰太郎は頷いたが、「だけど、彼等の主張にも一理あるんだ」と言った。
「恵国が疲弊した大きな理由の一つが銀価格の高騰にあることは事実だからね。恵国内の銀が掘り尽くされて二十年、紙の貨幣に替える試みは失敗したから、この辺りで唯一銀を産する吼狼国から買うしかないけど、輸出制限で価格が上がって、恵国の大きな負担になっているんだ。このままではいずれ経済が立ち行かなくなる。国が破綻する前に何とかしなくてはならないね」
「改革の動きもあるのでしょう?」
「うん。恵国の皇子の一人を中心に若手の文官が集まって、貨幣の質を戻し物資を増産するなどの経済再建策を提言したと聞いている。けれど、その皇子は覚えのない罪を着せられて自殺に追い込まれたそうだ。半年前に崩御した皇帝はしばらく前から体調が思わしくなくて跡目争いが激しかったから、優秀さを他の兄弟に憎まれたらしい。裏には資金源になっている大商人達がいたようだね。若手官僚達は改革を諦めていないようだけれど、諸悪の根源である大商人達がいる限り実現しないと思うな。彼等は自分達が儲かれば民の苦しみなど意に介さないような連中だからね」
「その辺りは吼狼国も変わらないわ。禁止されているのに隆国へこっそり貿易船を送って私腹を肥やしている封主や商人がいるそうだもの」
「そうだね。隆国では銀や火薬を作るのに使う硫黄が恵国より高く売れるからやめられないのだろう。それに、恵国との貿易を許されていない外様封主は隆国へ行くしかない面もある。でも、隆国との争いで恵国の民が苦しんでいることを考えると、密貿易はやはりよくないと思うな。儲かれば何をしてもよいわけではないからね」
「商人としての誇りの問題なのよね」
またあの言葉を言うのだわと思いながら華姫が相槌を打つと、泰太郎は身を乗り出した。
「そうだよ。商売は人のためになってこそ本物だ。田美国の開発で幟屋も儲けたけれど、民も豊かになったんだ。貿易だって同じだ。吼狼国にとって利益があるのはもちろん、恵国の民にとっても価値のある交易をしてこそ本当の商人と言える。自分だけ得をしたいとか、儲けに目がくらんで悪事に手を出すなんていうのは駄目なんだよ」
「私もそう思うわ」
華姫は力説する夫に微笑んだ。
「僕は絞り吹きや松葉灰利用の技術が完成したら広く公開するつもりだ。あの技術があれば大幅な増産ができるから、銀の価格を下げても十分な利益が出せるし輸出も増やせる。恵国も吼狼国も得をする貿易ができるようになるはずなんだ」
泰太郎は墨浦でも絞り吹きをより効率的に行うための研究を続ける予定だった。引き続き支援を約束してくれた大灘屋は、技術の完成を見越して銅を買い集めているようだったが、泰太郎はもっと大きな利益のために役立てるべきだと考えていた。自分の技術で貿易が活発になって両国が豊かになることが泰太郎の望みなのだ。
「墨浦はその恵国貿易の中心地なのよね。穂雲よりずっと大きな町と聞いているけれど、どんなところなのかしら。早くこの目で見たいわ。実を言うと、墨浦での暮らしが楽しみで仕方がないの」
「僕もだよ」
泰太郎は笑って答えた。
翌日の朝、海国丸は苫浜港を出航し、半島の先端にある飛木島を右手に見ながら南東に進路を取って、長い航海に乗り出した。
恵国では大陸の西の広大な海を西大海と呼んでいるが、吼狼国はその海に点在する島国の一つだ。中心は臥神島と呼ばれる大きな島で、その周りを多数の小島が取り巻いている。吼狼国は古くは「うたかみのくに」と呼ばれていて、吼く神の国、即ち吼える狼の国という意味の国名は臥神島の形状に由来する。東の大陸に尻を向けた巨大な狼が前足を挙げて尾を立て、沈む夕日に大きく口を開けて吠えているような形をしているのだ。
主島の臥神島には大きな半島が四つある。北西に太く張り出しているのが頭部に当たる紅日岬半島、島の東端から北へ伸びる細い尾が豊魚半島、南西にくっついた三角形が前足の高稲半島、南東部の先に行くほど幅が狭くなる長い後ろ足が長斜峰半島だ。長斜峰半島の西には鴉が羽を広げて夕日に向かって飛び立とうとしているような形の吼狼国第二の島御使島があり、広がった尾と狼のつま先の間が狭い海峡になっている。
伝説では、三千九百年前に初代の宗皇初大皇と妻の始女皇が神雲に乗って天から降りてきた時、引き連れてきた青い狼百頭と赤い鴉千羽の中で、最も大きく全身が銀色だった一頭と一羽が海に横たわって臥神島と御使島になり、飛び散った泥で周囲の小島ができたとされている。体毛や羽毛は木々に変わって森をなし、目や胃、肩やひざのくぼみに水が溜まって湖となった。狼の心臓は胸から転がり落ちて活火山の神雲山を作り、神雲は山にかかって天界と地界を区切った。
初大皇が火口から金色の光の玉を取り出して狼達に与えると、次に大きな背中が緑の五頭が公家になって宗皇に仕え、他は茶色く変わった二頭を残して民になった。続いて、始女皇が光の玉を鴉達に授けると様々な鳥や動物のつがいに変化し、全身が黒くなった二羽と共に吼狼国各地に散らばって住み着いたという。
華姫一行の目的地である墨浦は長斜峰半島の南端の大門国にあり、足の国の中心地として、また大陸と近いために恵国貿易の拠点として古くから栄える大都市だ。苫浜から墨浦へは、狼が胸へ抱えるように持ち上げた前足の爪の付け根から、地面を蹴って伸ばした後ろ足の指の裏側への旅になる。この二つの半島に囲まれた大きな海を吼狼国の人々は内の海と呼んでいるが、苫浜を出た二隻の船はその内の海を一気に突っ切って御使島の沖に達し、鴉の足の下をぐるりと迂回しつつ墨浦へ向かう航路に乗ったのだった。
ずっと追い風に恵まれても到着まで半月はかかる。泰太郎は積荷の売却先を考えたり、墨浦支店で担当する恵国貿易について当面の仕事を整理したりとなかなか忙しかったので、邪魔をしたくなかった華姫は、苫浜を出て以後、ほとんどの時間を持ち込んだ書物を読んで過ごした。船中で唯一の女性である華姫は、特別に船室の隅に専用の小部屋を与えられていた。
小さな窓から差し込む弱い光の下で、華姫は商人を目差す初学者向けの入門書から始めて、商売や貿易の知識を記した指南書、為替や地理に関する書物などを次々に読んでいったが、とりわけ面白かったのは長斜峰半島を旅した文人の紀行文だった。これからしばらく住むことになる大門国や周辺の国々の記述を読んでいると、商売の助けになりそうな情報をいくつも見付けられたし、墨浦での泰太郎との暮らしが想像できて楽しかった。泰太郎の話では、既に店の近くに小さな家を借りてあって、家事の手伝いに来る女中も決まっているということだったが、二人で始める新生活に期待する反面不安も大きかった華姫は、考え出すと止まらなかったのだ。
泰太郎は忙しそうにしながらも時々新妻の様子を見に部屋に立ち寄ることを忘れず、華姫もその日に読んだ書物のことを夫に語った。梅枝家の家臣達や同行している幟屋の手代二人とも親しくなって、食事時に話し込むことも多く、夜には外で星空を見ながら酒を飲んだりした。
狭く暗い部屋での書見に疲れた華姫には、泰太郎と甲板を歩いて新鮮な空気を吸ったり、船乗り達と言葉を交わしたりすることが楽しかった。果てしない海や高い空を眺めていると華姫の心は安らかさで満たされ、しみじみと自分の幸福に感謝したい気持ちになるのだった。
そうして、七日ほどが過ぎた日のことだった。
華姫がいつものように部屋で書物を読んでいると、外の甲板で怒鳴り声や慌ただしい足音がして、すっかり体になじんだ船の揺れが止まった。どうしたのかしらと本から顔を上げ、外の物音に耳を澄ませていると、きびきびとした足音が近付いてきて部屋の戸が叩かれた。
「どなた?」
華姫の問いかけに、若々しい声が答えた。
「華姫様、私です」
槍本景隣の声だった。乗船している九人の家臣の一人だ。中級の家柄の次男坊でまだ十八歳、父の病気で家を継いだばかりだが、剣術の腕前を買われて一行に加えられた若者だ。
景隣は少し扉を開いて中をのぞき込み、華姫と目が合うと慌てて顔を引っ込め、表情を取り繕って部屋へ入ってきた。
「外で何かあったの?」
華姫が尋ねると、若者は武芸の師範に対するように背筋をぴんと伸ばして返事をした。
「大朋丸が停船を求めてきました」
「停船? こんな海の上で?」
景隣は頷いた。
「はい。何か問題が起こったらしく、船を止めたいので海国丸も止まってくれと言ってきたそうです。それで先程帆を閉じました。大朋丸から小舟がこちらに向かってきています」
「私も出て行った方がいいのかしら」
「いえ、華姫様はここにいらして下さい。何かあればお知らせに参ります。もし……」
「もし、何?」
景隣が言葉を切ったので先を促すと、若者は頬をやや紅潮させて言った。
「もし、危険なことが起こりましても、華姫様と泰太郎様は俺が必ずお守りします」
「ありがとう。頼むわね」
華姫が思わず微笑むと、景隣はその笑顔に見とれた。が、華姫の視線に気が付いて慌てて顔を伏せ、さっと礼をして部屋を出て行った。
若者がいなくなると、華姫は戸口を見やって小さく溜め息を吐いた。景隣の想いにはしばらく前から気が付いていたのだが、まさか旅の護衛になるとは思わなかったのだ。
華やかな美貌の持ち主である華姫にはこうした経験が少なくない。先日も、いくら断ってもしつこく言い寄ってきた来西敦平という家老家のどら息子が、泰太郎に城下で斬り付けるという事件があったばかりだった。華姫の結婚を知って、俺より商人を選ぶのかと激怒したらしい。そういう男は手厳しくはね付ける華姫だが、景隣のような年下で純朴な青年が相手だと少々気が重いのだった。
「気にしても仕方ないわ」
華姫は首を振って、再び書物を読み出した。
紀行文は大門海峡の渦潮について書かれた箇所に差しかかっていた。大門国と御使島の間の狭い海峡は流れが速く、散在する岩礁の間に巨大な渦がいくつも巻く難所となっている。この書物を書いた旅好きの文人が天下の奇観とほめ讃える壮大な光景を想像して、華姫は心が浮き立つのを感じた。以前から行ってみたかった場所だし、墨浦から近いので、落ち着いたら泰太郎と一緒に見に行こうと考えたのだ。
代表的な土産物が渦潮をかたどった独楽だと知って、どんな形なのかしらと指で机に三角形を書いて考えていた華姫は、急に手の動きを止めた。外で高い悲鳴が聞こえたのだ。続いて、がらがらと大きなものが崩れる音がして、舟が大きく揺らいだ。
今のはきっと甲板の上にくくり付けてあった丸太だわと考えた華姫は、事故でもあったのかしらと心配になった。
と、すぐにまた、ぎゃあ、と叫び声がして大きな水音がした。誰かが海に落ちたに違いない。更に複数の水音が続いた。
事故にしては様子がおかしいわと書物を閉じた時、どんどんどん、と戸が激しく叩かれ、返事をする前に扉が開いて景隣が顔を見せた。
華姫は若者の厳しい表情を見て、何かひどく悪いことが起こったことを知った。
「襲撃です」
景隣は抜き身の剣を持っていた。
「鳴沼の武者どもが三十人も乗り込んできて、船員や手代達を次々と殺し始めました。やつらは無抵抗の者達を問答無用で切り捨てています。今、我々が防いでいますが、連中は鎖帷子を着用して準備は十分。それに比べてこちらは軽装、たまたま全員剣を持っていましたが、船員達は丸腰です。敵は船戦に慣れている上に人数も多く、苦戦を強いられています」
景隣が鳴沼家の者達をはっきり「敵」と表現したことに気が付いた華姫は、事態の深刻さを悟った。
「泰太郎さんは?」
「大丈夫です。我々がお守りします。華姫様は扉にしっかりと鍵をかけてここを出ないで下さい」
分かったわ、と答えて、戸を閉めようと立ち上がった時、甲板の方でどよめきが起こった。
「泰太郎殿、お待ち下され!」
「大番頭さん、無茶です! 下がって下さい!」
「誰か早く助け出せ!」
その声を聞いた途端、華姫は扉を開いて小部屋を飛び出した。
「華姫様!」
景隣の制止を無視して甲板へ走り出た華姫は、目の前の光景に真っ青になった。
白刃を煌めかせる多数の武装した武者達の向こうで、両手を大きく広げた泰太郎が武者の一人に正面から斬り付けられていた。湯金増雄に刀を向けた鳴沼兵の前に立ちはだかろうとしたらしい。刀がかすめた胸がたちまち赤く染まり、泰太郎は苦悶の声を漏らしてよろめいた。下を向いた剣先から飛び散った鮮血が、甲板に点々と赤い線を描いていた。
華姫が悲鳴を上げるのと、泰太郎が華姫に気付くのは同時だった。泰太郎の顔には理解不能な事態に対する驚愕が貼り付いていたが、華姫を見た瞬間生気が戻った。足を踏ん張って倒れるのを辛うじてこらえると、何かを伝えようとするように華姫を見て口を動かしたが、声になる前に荒々しい大声が割り込んだ。
「その男を殺せ!」
鳴沼継村が叫ぶと、泰太郎を斬ってしまったことにひるんでいた武者達は主君を振り返り、目の前の商人と見比べた。
「若、お待ち下さい! 泰太郎は捕らえるはずですぞ」
家老の頃田剛辰が止めようとしたが、継村はなおもわめいた。
「既に傷付けたのだ! 今更止めても無駄だ! それに、あの男は俺に大恥をかかせたのだぞ。穂雲での屈辱は決して忘れん。おい、さっさと殺してしまえ!」
命じられて武者達は逡巡しながら剣を構え直し、左右の仲間に目配せして泰太郎に迫っていった。剛辰の言葉に目を見張っていた泰太郎ははっと気が付いて慌てて逃げようとしたが、武者の一人が追いかけて刀を振り上げた。
「待てっ!」
泰太郎の後ろで尻餅をついていた湯金増雄が、武者の足に必死でしがみ付いて止めようとして、別な武者に背中を一突きにされた。白目をむいてうめき声を上げた増雄は、口からごぼりと血の塊を吐き、武者が胸に突き出た刀を引き抜くと、ばたりと倒れて絶命した。
「湯金様!」
泰太郎は叫びつつ振り下ろされる刀を避けたが、その背へ加えられた斬撃に、身を反らして引き裂かれるような叫び声を上げた。はずみで船端へ倒れ込み、あえぎながら欄干につかまって周りを囲う襲撃者達へ向き直ったが、その視線は新妻に注がれていた。
「お願い、やめて!」
叫ぶ華姫をじっと見つめた泰太郎は、荒い息をしながらうめくように言った。
「華姫様、あなたは生きて下さい! 何としても生き延びて下さい!」
「何を言うの! 泰太郎さんも生きるのよ!」
驚く華姫に、胸を血で染めた泰太郎は頭を振った。
「私はもう……。この状態では足手まといです。置いて逃げて下さい。皆様、華姫様を頼みます。……時繁様、必ずお嬢様をお守りするとお誓いしたのに申し訳ありません」
続いて何か言おうとした泰太郎へ武者の一人が斬りかかった。何とか転がるようにしてかわし、横からの一撃に腕を切られてよろめいたところへ、正面から足が飛んできた。泰太郎は船端へ叩き付けられ、うめき声を上げて甲板に倒れ伏した。
「もういい! やめろ!」
剛辰が叫んだ。
「殺してしまっては大灘屋に怒られる。捕らえて縛り上げろ!」
家老が命じると、武者達は頷き合って、一人が泰太郎の腕をつかもうとした。
その手を振り払い、血だらけでふらつきながら必死で欄干をつかんで起きあがった泰太郎は、大声で叫んだ。
「お前達のねらいは僕だろう! だが、大灘屋の手先になどなるものか! これが僕にできる精一杯の抵抗だ! ……華姫様、どうかご無事で!」
目に焼き付けるように華姫の顔を見つめた泰太郎は、捕らえようと腕を伸ばした武者の胴に抱き付くと、「うおお!」と叫びながら倒れ込むようにして欄干の外へ身を躍らせ、新妻へすがるようなまなざしを残したまま、武者と一緒に頭から海へ落ちていった。
「泰太郎さん!」
華姫の絶望的な叫び声が辺りに響き渡った。
「しまった! すぐに救助しろ! まだ間に合うはずだ!」
剛辰が海の方へ叫ぶと、継村が「ざまあみろ」と高笑いした。が、やがて下から、「発見しました。今舟に引き上げています。大丈夫、生きています!」という声が聞こえてきた。剛辰はほっとした顔になって、「大朋丸へ連れて行け。手当てを忘れるな! 船室に閉じ込めておけ!」と指示を出した。
泰太郎が救助されたと知って華姫は少しほっとしたものの不安は去らなかった。幸い、刀傷は急所を外れているようだが、あの怪我を放っておいては命に関わる。医術の知識がある華姫にはそれがよく分かった。
「私が手当てをするわ! そこをどきなさい!」
華姫は前に立ちはだかる鳴沼家の武者を叱り付け、つい先ほどまで夫が寄りかかっていた場所に駆け寄ろうとして、背後から羽交い締めにされた。
「離しなさい!」
叫びながら振り向くと、家老の早頭政資だった。
「政資さん、離して! 泰太郎さんが!」
「お待ち下さい、姫様。無茶はなりません」
「早く助けなければ! あの人は怪我をしているのよ。このままでは死んでしまうわ!」
「ですが、姫様が向かっていっても殺されるだけですぞ。武器も持たずにどうなさるおつもりですか」
家老の視線を追って前を見ると、完全武装の武者達が十数人、そろいのやや短い刀を向けて近付いてくるところだった。その後ろで鳴沼継村が華姫の様子を薄笑いを浮かべて眺めていた。
華姫は政資の腕を振りほどこうと暴れながら、光子ならこんな連中はあっという間に片付けるに違いないと思った。
あの子の腕前が私にあれば!
華姫は自分が知に傾いて武芸にさほど熱心でないことを恥じたことはなかったが、この時ばかりはそれを深く後悔した。
その間にも水主達は次々に殺されていった。梅枝家の者達が身を守るだけで精一杯なのをよいことに、鳴沼家の武者達はまず非武装の彼等を始末しようとしているらしかった。
「早頭様、私が前に出ます。このままでは船が動かせなくなります」
見かねた景隣が言い出した。もがく華姫を拘束したまま家老が頷くと、三人に合図して固まって前進していった。
「たあっ! はあっ!」
剣術の免許皆伝という景隣はたちまち二人を斬って倒した。それを見てさすがに相手をしかねると思ったのか、鳴沼の武者達は少しずつ下がっていった。
「このまま向こうの端まで行って、船員を助けましょう。俺は海に飛び込んで大朋丸へ乗り込み、泰太郎様を探します!」
景隣はそう告げると、一気に敵を突っ切ろうと駆け出した。鳴沼継村が恐怖を顔に浮かべて後ずさる。
「待て! この外道め!」
立ち塞がる武者達を次々に斬り払って継村に近付き、這うように逃げる背中へ刀を振り上げた瞬間、びゅん、と風を切る音がして景隣が派手に転倒した。
「そこまでだ!」
見ると、船室の屋根の上に頃田剛辰が立っていた。弓を構えた武者を十人ほど従えている。
「刀を捨てて投降しろ。そうすれば命は助けてやる」
梅枝家の者は華姫を入れて残り九人。その全員に弓がねらいを付けていた。
「畜生!」
腹から矢を引き抜いた景隣が無理をして立ち上がり、そばにいた武者に斬りかかった。一人を斬って倒し、慌てて剣を構えようとした一人を体当たりではじき飛ばし、身を翻して逃げる継村を追おうとして痛みによろけた景隣の後ろから、武者の一人が刀を振るった。背を切られた景隣は再び甲板へ倒れ込み、数人の鳴沼兵に剣を向けられて動きを封じられた。
「景隣さん!」
華姫の叫び声に重なって、上から剛辰の太い声が降ってきた。
「殺されたいのか! 弓がねらっているのだぞ!」
華姫は歯噛みした。周囲を囲まれている以上、もし矢を避けられても体勢が崩れた隙を突いて斬られてしまう。その上、敵の人数はこちらの三倍。到底勝ち目はなかった。
「抵抗は無駄だ! こちらには泰太郎という人質もいるのだ。生かして連れてこいと言われたが、お前達には仲間を大勢傷付けられた。俺も段々殺してもよいと思い始めているのだからな!」
どうしたものかと急いで頭を巡らす華姫の首の後ろから、政資が尋ねた。
「降伏した場合、我々はどうなる」
剛辰は少し考えて答えた。
「飛木島へ連れていき、泰太郎に言うことを聞かせるための人質にする。あの様子では大灘屋のために働くのを拒否するだろうからな」
「では、命は保証されるのだな」
「そうだ。もともと華姫は捕えるつもりだった。人質は多い方が効果が大きいから問題はなかろう」
そうか、と頷いた政資は静かに言った。
「分かった。降伏する」
驚く華姫と家臣達にちらりと目を向けると、政資は言葉を続けた。
「そのかわり、まだ生きている船員達も助命し、海に落ちた者達を救助してくれ。泰太郎様の手当てもすぐにしてもらいたい」
「よかろう。約束する」
剛辰は頷いた。継村は不満そうな顔をしたが、政資達八人を殺すまでに出る味方の死傷者の数を考えたのか、剛辰の視線に開きかけた口を閉ざした。先程見た景隣の腕前を思い出したらしい。
「政資! 降伏なんて認めないわ!」
華姫は腕を取り返そうともがきながら叫んだ。
「あんな人達の言うことを信じるというの! 口先だけに決まっているわ。戦って倒しなさい! 早く泰太郎さんを助けなければ!」
「そのためにもここは降伏するべきです。このままでは我々は確実に殺され、泰太郎様をお救いすることはできません。わずかでも生き延びられる可能性がある方を選びましょう。死んでしまっては、二度と泰太郎様と会うことはかなわなくなりますぞ」
激情を無理に抑えたような声に華姫がはっとして振り向くと、家老の深いまなざしが見つめていた。
「姫様!」
平素穏和な家老の厳しい表情にこれ以上の抵抗の無意味を悟った華姫は、うなだれ、顔を背けて小さく頷いた。目から涙がこぼれ落ちた。
政資は持っていた刀を敵の武者達の方へ滑らせた。
「皆も刀を捨てよ」
政資の言葉に、梅枝家の家臣達は刀を放り出して両手を挙げた。華姫は政資の腕が離れると力なくくずおれて甲板に膝を付いたが、赤い目は継村を射殺すようににらみ付けていた。
「よし、縛り上げろ!」
剛辰が命じると、武者達はまず刀を拾い集めて海に投げ捨て、次に家臣達の懐から財布や薬籠を抜き出し、華姫の頭から簪を引き抜いた。そして、縄で全員の手を縛り、船倉に連れて行って数人ずつ柱につないだ。景隣も背と腹から血を流したまま柱に縛り付けられた。
「泰太郎さんの具合はどうなの? 他の人達は大丈夫なのかしら?」
縛られたのは梅枝家の者達だけだったので華姫が尋ねると、武者は「皆救助した。泰太郎は今大朋丸で手当てしている」と答えた。華姫が「その人達はどこにいるの?」と聞くと、「さあな」としか答えなかった。華姫は水主や幟屋の手代達は全員殺されたと察して、絶望的な気持ちになった。
華姫達を動けなくすると、武者達は船倉から銀を収めた箱や米俵を運び出し始めた。華姫の小部屋からも、書物や泰太郎の研究道具が次々に持ち出されていく。外から聞こえる縄のきしむ音や櫂を漕ぐ音からすると、大朋丸に移しているらしかった。
「これがねらいだったのね」
華姫はようやく鳴沼家の目的に気が付いた。海国丸の積荷を強奪するつもりなのだ。大朋丸の船倉が空だったのはそのためだろう。となると、襲撃は始めから計画されていたことになる。大灘屋と共謀に違いなかった。
梅枝家の家臣達の憎悪に満ちた視線を浴びながら全ての荷を移し終わると、継村と剛辰は空になった船倉を見渡して、そのまま出て行こうとした。
「待て。我々をどうする気だ」
様山という家臣が呼び止めると、鳴沼継村は振り返って鼻で笑った。
「決まっているだろう。まだ分からないのか」
頃田剛辰がにやりとして言った。
「さっき船底に穴を開けた。帆は破り、舵も壊した。もうこの船はお終いだよ」
「積荷強奪の証拠になるから沈めるのね。牙伐魔族に襲われたことにでもするのかしら」
華姫が冷たい口調で言うと、継村は笑みを大きくした。
「ほう、なかなか頭がいいな」
「筋書きはきっとこうね。牙伐魔族の船団に襲われた大朋丸は負傷者を出したものの、どうにか撃退して逃げ出すの。でも、海国丸が追い付いてこないことを心配して、戻って辺りを探し回り、数日後に漂流している船を発見するのよ。中へ入ってみると、最後まで抵抗したらしく乗っていた者は皆殺しにされていて、船倉は空っぽだった。やむなく痛みが激しかった遺体は舵や帆を破壊されて航行不能だった船ごと沈め、薬籠や私の簪など残されていた身の回りの品だけを形見として持ち帰るのよ。これなら、奪った荷をどこかで下ろした大朋丸が、予定より遅れて一隻で墨浦に到着しても怪しまれないわ」
「その通りだ。ならば、お前達がこれからどうなるかも分かるはずだな」
景隣が太い唸り声を上げた。他の家臣達は黙っていたが、目は怒りを語っていた。
「こんなことをする理由を教えてもらえるかしら。お金のためなのは分かるけれど、納得がいかないわ。これほど多くの人を殺すなんて」
問われた継村は憎々しげに華姫を見やり、「お前のような箱入り娘に、小国の苦労は決して分かるまい」と吐き捨てるように言った。
「俺達とて強盗のまねなどしたくはない。だが、鳴沼家はもう借金で身動きがとれないのだ。利息すら払えず、数年先の租税まで抵当に入っている。収入を増やすために領内を開発しようにも資金がない。借金を踏み倒すことも考えたが、三万貫の小国など大商人の敵ではない。統国府に訴えられたら取り潰され、当主と家老の幾人かは自刃させられるかも知れん。こんな貧しい国を与えておいて、玉都の連中は、困窮は俺達の責任だから援助はしないと言いやがった!」
継村は呪うように叫んだ。
「やむなく、最後の手段として、俺が梅枝家に婿入りし、援助を受けて借財を返そうとお前に求婚した。だが、どこかの馬鹿娘が商人なんぞを選びやがったせいで、大恥をかかされた上に、かかった費用で更に借財が増えたわけだ」
屈辱を思い出したのか、継村は顔をしかめた。
「万策尽きて、もはや国を捨てて逃げるしかないところまで追い詰められていたんだが、そこへ大灘屋がこの話を持ち込んできたのさ。よくは知らないが、お前の夫は大儲けできるすごい技術を発見したらしいな。諸国で田畑の開発が進んで米余りになり、米穀商の大灘屋は米価の下落に苦しんでいたから、その発見に飛び付き、起死回生をかけて研究を支援したそうだ。ところが、あの男は技術をただで広く公開すると言ったらしい。それでは何のために資金を投じたのか分からない。大灘屋は技術を独占するために、俺達に泰太郎を拉致し、研究資材を奪ってこいと命じたのさ」
技術とは絞り吹きのことに違いない。華姫は怒りに体が震える思いがした。あれは吼狼国と恵国両方の民をより豊かにしたいという願いが込められた技術だ。それを自分達のためだけに使おうと、こんな事件を起こしたというのだ。泰太郎が海に飛び込んだのは、捕虜になって知識を悪用されることを恐れたからだろう。
「この船は二十万両の銀を積んでいる。その銀と泰太郎の研究資料を差し出せば、借金の利子を帳消しにして元本も返済を待ってくれるという。その上、開発資金まで貸してくれるとあっては、やらないわけにはいくまい。奪った銀は隆国に売るらしい。あっちへ持って行けば利益は恵国の倍なんだとよ」
では、密貿易に関わっている者の指図なのだわと華姫は考えた。隆国では吼狼国のものは何でも高く売れるが、特に大陸で通貨として使われる銀を持って行けば、たくさんの珍しい品々と交換することが可能だった。そのため、密かに貿易船を送る封主が後を絶たず、吼狼国から流れ込む銀が経済基盤の弱い隆国を支えているとまで言われていた。
「この件の裏には玉都のとある高官がいるそうだ。そいつは大灘屋と手を組んで公用銀を密かに横流しし、隆国に売って儲けていたらしい。だが、隆国から銀をもっとよこせと言ってきたらしくてな。その高官は梅枝家の銀の品質に文句を付けて献上する量を増やさせようとしたが、激しく抵抗されたそうだ。たった十万両しか手に入らなかったとこぼしていたらしいから、憎い相手を痛め付けてやろうと思ったのだろうよ。それから、この船のことを大灘屋に教えたのは梅枝家の者達だ。あこがれていた姫君が商人なんぞを選んだことに腹を立てた連中が、情報を集めて流してくれたのさ」
玉都の高官は今の話だけでは特定が難しいが、梅枝家の家臣というのは来西敦平とその取り巻き達に違いなかった。身勝手な理由で主君の娘と同じ家中の仲間を売った者達がいると聞いて、縛られていた家臣達は一様に苦々しげな顔になったが、殊に景隣は同じ女性に恋する者として怒りと軽蔑を露わにしていた。
政資が尋ねた。
「我々を殺すのは分かるが、華姫様は人質にするのではないのか」
継村は歩み寄ってきて華姫の目の前に立った。
「俺が実行役を買って出たのはお前に仕返しするためさ。泰太郎と華姫は生かしたまま連れてこいと言われたんだが、俺を虚仮にしたお前だけは絶対に許せない。船上での斬り合いに巻き込まれて死んじまったものは仕方ないよなあ」
継村は甲高い耳障りな声で笑うと、急に忌々しげに華姫をにらみ付けた。
「穂雲でも国元でもどれだけ嘲笑われて陰口をきかれたことか。あの屈辱は忘れないぜ。ゆっくり沈む船の中で苦しみながら死ぬんだな」
憎悪をむき出しにして言い捨てると、継村は船倉を出て行った。
「若はどうしてもお前達を全員殺すとおっしゃるのでな。悪く思うなよ。泰太郎には華姫が生きていることにしておいて、絞り吹きが完成したら後を追わせてやるから、あの世で待っているがいい」
剛辰もそれに続き、外から扉を閉めた。
足音が遠ざかり、小舟に乗り移る気配がした。小さくなっていく櫂の音に耳を澄ませていた華姫が言った。
「船が沈むわ。急いで逃げましょう」
その言葉を合図に、家臣達は身をよじって縄をほどきにかかった。
先程から、船底の方で水の吹き出るごぼごぼという低い音が響いている。と、突然、大木が真っ二つに割れるような轟音がして船底へつながる扉が跳ね上がり、海水が渦を巻いて流れ込んできた。
「姫様、申し訳ございません」
早頭政資が詫びた。華姫が隣へ目を向けると、同じ柱に縛られた五十二歳の家老は静かに涙を流していた。
「こうなると分かっておれば、無理にでも海に飛び込んで泰太郎様をお救いしましたものを。お詫びのしようもございません」
政資は不自由な姿勢で頭を下げた。
「もうあの時には大朋丸に連れて行かれていたわ。泰太郎さんは助かったのだから、気にしなくていいの」
華姫が慰めると、家老は一層つらそうな顔になった。
「とにかく今は脱出することを考えましょう」
「どうやってですか! この縄、全くほどけませんぞ!」
家臣の一人が悲痛な声を上げた。既に海水は足を濡らし始めていた。
「駄目だ! 噛み切るのはとても無理だ!」
縄を外そうと奮闘していた家臣達から次々に絶望の声が上がった。
「私に任せて。この指輪なら……」
華姫は家老に背中を向けた。
「政資、手首を出して」
華姫は奪われないように握った手の中に隠していた指輪をしっかりとつまむと、後ろ手に金剛石のとがった部分で縄をこすって繊維を切っていった。
「切れましたぞ!」
細くなった縄を腕力でちぎった政資は、手首が自由になると体を柱に縛り付けていた縄をほどいて立ち上がり、流れる水に足を取られながら自分の荷物から短刀を出してきて、まず華姫を自由にし、続いて家臣達の縄を切っていった。
全員が解放されると、一同は外の様子をうかがってから用心して甲板に出た。
船には誰も残っていなかった。水主や手代達は全て死体になって転がっていた。安全を確認した華姫は、傾き始めた船の上を歩いて周囲の水面を見て回ったが、死体は一つも浮いていなかった。この辺りの激しい海流に流されたのだ。
「さあ、大朋丸に乗り込んで泰太郎様を助けましょう」
景隣が言い、家臣達が集まってきた。
「武器はこの短刀一つしかありませんが、やるしかありませんな。できるだけ早くこの船を出ないと、一緒に海の底ですぞ」
脱出方法を探していた政資は焦っていた。船はもう大分傾いていて、真っ直ぐ歩くのも難しいほどだった。
海国丸の甲板の人影を見付けたらしく、大朋丸の上で指差して何か言っているが、こちらにやって来る気配はなく、逆に急いで帆を広げている。
「やつらめ、このまま放置していく気か! 逃げ支度をしていやがる」
家臣の一人の悔しげな言葉に華姫は大朋丸へ目をやり、はっとして辺りを見回した。西の水平線の上に黒い雲が見えていた。
華姫はすぐに家臣達に声をかけ、全員で増雄のそばへ行った。政資が白目をむいている仲間のまぶたを閉じて手を組ませてやると、家臣達は目をつぶって頭を垂れ、安らかな眠りを祈る言葉を小声で唱えた。
儀式が済むと、華姫は八人の顔を見渡して告げた。
「みんな、聞いて。もうすぐ嵐が来るわ」
家臣達は驚いて空の彼方へ目を向けた。
「生き延びるには、できるだけ早くこの船から脱出しなくてはならないわ」
そう言って、華姫は海上の一点を指差した。
「あれに乗りましょう」
華姫が示したのは大朋丸のやや手前を漂っている積荷運搬用の小舟だった。恐らく海国丸のものだ。ひっくり返って底が見えているが、まだ櫂が近くを漂っていた。
「あの小舟で嵐から逃げるのよ」
大朋丸は帆をいっぱいに開き、櫂まで使って全力で遠ざかっていく。嵐が華姫達にとどめを刺してくれると考えているのだ。必死で泳いでももう追い付けないだろう。反対側の海では、暗雲の中で稲妻が光り始めていた。
「他に方法はないわ。数人が泳いであの船と櫂を取りに行き、その間に他の者は水と食料を探しましょう。小船に乗り込んだら可能な限り急いでここを離れるの。生き延びるにはそれしかないわ。政資、それを貸して」
華姫は家老が手に持っていた短刀を受け取ると、髷が崩れて垂れ下がっていた長い髪をつかみ、肩の後ろでばっさりと切り取った。
「姫様!」
驚く家臣達の前で華姫は一束を増雄の胸にのせ、船端から残りを海へ放り投げた。
「これは亡くなった人達への手向けよ」
黒い髪がばらばらになって風に飛ばされるのを見届けると、華姫は自分達を救ってくれた指輪を眺め、手をぎゅっと握り締めて、家臣達を振り向いた。
「私達は生き延びなくてはならない。泰太郎さんや増雄さんのためにも」
華姫の目から涙が一筋こぼれ落ちた。泰太郎は「あなたは生きて下さい」と言ったのだ。
「私はここに誓うわ。必ず泰太郎さんを助け出し、増雄さんや殺された人達の敵を取ると。何としても生きて帰って真実を伝え、鳴沼家や大灘屋や黒幕の高官に悪事の報いを与えてやるのよ」
強くなってきた風が華姫の両目からあふれ出す涙を吹き飛ばしていった。
「それまでは絶対に死んでは駄目。全員で生き抜きましょう。そして、この誓いを果たしましょう。それが私達の使命よ。みんな、いいわね」
家臣達は一斉に頷いた。怪我をしている景隣も仲間の一人に支えられながら首を縦に振り、華姫が涙を拭きもせずに次々と脱出の指示を出す姿をじっと見つめていた。
嵐はもう、すぐそこまで来ていた。