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花の戦記  作者: 花和郁
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第五章 政変 一

  第五章 政変


   一


 紫陽花月(あじさいづき)二日の夕刻、桑宮道久は玉都へ戻ってきた。

 屋敷に入って湯を浴び、旅の(あか)を落とした道久は、夕食をとりながら家臣達に不在中の出来事をざっと聞くと、望天城へ登った。既に日が落ちていたが、道久はまっすぐに奥向きへ通じる大扉へ向かった。

 こんな時間に訪れるのは初めてだったので、念のために芳姫に面会の許可を求めると、すぐに来て欲しいということだった。道久は一瞬にやりとすると、頬を引き締めて女の世界に足を踏み入れた。

「お入りなさい」

 部屋の前で声をかけると、芳姫から返事があった。久しぶりに聞く(あま)やかな声に道久の胸は躍ったが、華姫説得の失敗をどう報告しようかと考え、ふと思い付いて生真面目な表情を作ると、恋しい女人の居室の襖に手をかけて、静かに横に引いた。


「お久しぶりでございます」

 道久は襖を開けると廊下で平伏した。その頭上へ、芳姫はどきどきしながら座布団に正座したまま声をかけた。

「道久殿、よくぞ戻りました。中へいらっしゃい」

 芳姫が招くと、道久はしかつめらしい顔で入ってきた。

「十七日ぶりですね。ですが、私は一年が経ったような気さえします。さあ、そこへお座りなさい」

 芳姫は紅色の扇で口元を隠して、自分の向かいに敷いてある座布団を勧めた。

 やり過ぎかしら。

 芳姫はややぎこちない笑みを浮かべながら思った。身分がはるかに上である芳姫に座布団を勧められるのは大変な栄誉(えいよ)なのだ。道久も驚いた様子で戸惑っている。

 でも、これは感謝の印なのだから、許されるはずよ。

 芳姫はそう思うことで、強く響く胸の鼓動を落ち着かせようとした。

 別におかしなことではないわ。この人は妹達のために遠くまで行ってきてくれたのだもの。

 自分に言い聞かせつつ、それが本心でないことを芳姫はよく分かっていた。

 道久がいなかったこの半月、芳姫は本当に寂しい思いをした。自分にとって道久がどれほど重要な存在なのかを思い知らされたのだ。国母の生活はもはや道久なしでは成り立たないまでになっており、(とどこお)っていく政務に焦り、直孝に稽古相手がいなくてつまらないと訴えられるたび、芳姫の中で道久に早く帰ってきて欲しいという思いが膨らんでいった。

 だが、寂しさの原因はそれだけではなかった。芳姫自身は認めたくなかったが、道久の視線を感じないことが物足りなかったのだ。この二年余り常に受け続けていたものがなくなってみると、胸を形作っていた大切な欠片(かけら)を一つ失ってぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気分になり、無意識に道久の姿を探してしまうことが少なくなかった。

 芳姫はこの事実を発見して驚いたが、すぐにそれは当然のことなのよと自分を納得させようとした。道久はいつも身近にいて日常の光景の一部だったし、息子の成長ぶりを話し合える相手は他にいなかった。思えばこの半年、芳姫は公私両面で道久に寄りかかり通しだった上、吼狼国が未曽有(みぞう)の危機にある今こそ武人である道久の助言が必要なのだから、これは補佐役の不在で全てを自分で判断しなければならないことから来る不安なのだと解釈しようとしたのだ。

 だが、胸の奥にはそんな理由ではないとささやく声もあったので、芳姫はますます落ち着かない気持ちになり、早く道久が帰ってきて、以前と同じ日常に戻ることを望んだ。いつの間にか懐かしむものが故郷での生活や直信がいた頃の日々ではなくなっていることには、芳姫は気付いていなかった。

 そういうわけで、道久が帰ってきたと聞いて、本当は彼の元へ駆けていきたいほどうれしかったのだが、さすがにそれはできなかった。国母の体面があるし、道久の想いを知っているだけになおさら許されない。今までの彼との距離感を崩すようなことは避けつつも、帰還を喜んでいることは伝えたかったので、道久が来るのを待つ間、部屋をうろうろしながらどうやって迎えるかを考えて、座布団を敷くくらいは許されるだろうと思い付いたのだった。

 芳姫は弾む心を抑え、笑みが不自然になっていないかしらと案じながら、道久が腰を下ろすのを待っていた。

 顔を上げて座布団を見た道久は一瞬驚いて動きを止めた。そして、主君に真意を尋ねるように上目遣いで見上げると、立ち上がって部屋に入り、そこには座らずにその手前で平伏したので、芳姫は内心がっかりした。

「長らくご無沙汰を致しました」

 道久は芳姫の落胆には気付かぬ様子でかしこまって一礼すると、へりくだった口調で長々と帰京の挨拶を述べた。芳姫は妹達の件と和平交渉の結果を早く知りたかったので、そんなことは言わなくてもよいのにと、いつもの道久らしくない鄭重だが迂遠(うえん)(ぎょう)(ぎょう)しい言い回しをうずうずしながら聞いていた。

 型通りの文句を述べ終えた道久がもう一度平伏して顔を上げると、芳姫は笑みを作って言葉をかけた。

「長旅大変だったでしょう。疲れてはいませんか」

「はい、大丈夫でございます。お気遣い頂き、ありがとうございます」

 道久はまるで初めて国母に拝謁(はいえつ)した小封主のような顔つきで答えた。

「それを聞いて安心しました。それで、こんな時間に登城(とじょう)したのは、あなたに託した件の結果の報告のためかしら」

 相手の態度を(いぶか)しみながらも芳姫が期待して尋ねると、道久は急に(ひたい)を畳にこすり付けた。

「申し訳ございません!」

「突然どうしたのですか」

 芳姫が驚くと、道久は重大な罪を告白するような声で言った。

「恵国軍との和平に失敗致しました」

「まあ……」

 芳姫は意外な返事に絶句した。道久なら間違いないと思い、成功したものとすっかり当てにしていたのだ。

「それだけではございません。華姫様にも帰順を断られました」

「まあ……」

 芳姫は同じ言葉を繰り返した。我ながら間抜けだと思ったが、他に言葉が出なかったのだ。

「詳細はこれをご覧下さればお分かり頂けると存じます」

 道久はにじり寄ってくると光姫の返書を差し出し、すぐにまた元の位置に下がった。受け取った芳姫は封を開いて行灯の光の下でそれに目を通し、妹二人のやり取りを知って半ば納得し、半ば寂しく思った。

「華子はあなたに失礼なことを言わなかったかしら」

 大体の事情を把握した芳姫は尋ねた。

「槍を持った兵士に囲まれて生きた心地が致しませんでした」

 道久は華姫とのやり取りのあらましを都合の悪いところを除いて語ると、もう一度平伏した。

「本当に申し訳ございません。二つの提案のどちらも華姫様の心を全く動かせませんでした。実にお恥ずかしい限りです。わたくしから進言申し上げ、自ら説得役を買って出ながら不首尾に終わるとは、面目次第もございません。この不始末を理由に芳姫様のおそばにお仕えすることを禁じられましても、致し方ないことと存じます」

「まあ、そんなことは……」

 芳姫は今度こそ本当に驚いた。道久は自分の側近をやめると言っているのだ。

 芳姫は慌てた。それは困る。そんなことになったら国母の役目を果たせなくなるし、再び孤独に逆戻りしてしまう。直孝のためにも自分のためにも、そんな事態は絶対に避けなければならなかった。ただでさえ、この非常時に女性の芳姫が最高指導者であることに諸侯の間で不安が広がっているという噂をお絹から聞いたばかりなのだ。その一方で、鷲松(わしまつ)巍山(ぎざん)の復権を望む声が高まっているという。こういう時こそ、(まつりごと)や軍事を相談できる腹心が必要だった。今道久を失うわけにはいかないので、芳姫は急いでなだめようとした。

「そんなことを気にする必要はありません。華子がこれほど覚悟を決めていると知っていれば、私も許可しませんでした。考えが甘かったのは私も一緒です。あまり自分を責めては駄目ですよ」

「いえ、これほどの失敗、弁解の余地はございません。わたくしごときが芳姫様をお助けしようとは随分な思い上がりでございました。御廻組頭の職も辞し、一武者として国を守るために戦う所存です。どうか、わたくしめに罰をお与え下さい」

「お待ちなさい。私はあなたを責めるつもりは……」

 言いかけて芳姫は口をつぐんだ。硬い表情で下を向いた道久を見て、急に恐怖に襲われたのだ。

 まさか、この人は本当に私から離れていくつもりなのかしら。

 芳姫は予想外の事態に焦りながら、急いで道久を翻意(ほんい)させる方法を考えた。

 何としても引き留めなくては。何かよい理由はないかしら。

 笑顔を作ることも忘れて必死で頭を巡らせていた芳姫は、ふと一つの疑問にぶつかった。

 でも、なぜ突然こんなことを言い出したのかしら。

 考えてみれば妙な話だった。道久が芳姫の元を去ることを望む理由が分からないのだ。

 確かに華子の説得に失敗したことは失態だけれど、それだけで私を押し倒そうとまでしたこの人が辞職したいなんて言うかしら。何か、道久殿の心を大きく変えるような事件があったのかも知れないわ。……気持ちが変わる? まさか!

 芳姫の脳裏にある可能性が浮かんだ。

 もしかして、他に好きな方ができたのかしら。

 その考えは芳姫には衝撃だった。

 旅先で若くかわいらしい女の人に出会って、そちらへ気持ちが移ったのだとしたら。

 芳姫は目の前の武官の男らしい端正な顔を恐怖のまなざしでまじまじと見下ろした。

 この人が私を愛さなくなる……? まさか、まさかそんなことが!

 芳姫のまなざしに気が付いた道久は、恥じ入るように顔を背けた。

 芳姫の顔から音を立てて血の気が引いた。

 もう二十七の子持ちの未亡人には愛想を尽かしたのかしら。こんなお婆さんではなく、もっと若くてきれいな体の女の子を好きになったのだとしたら。

 そういうことが起きる可能性は否定できないと頭の半分では思ったが、芳姫には信じられなかった。

 そんなはずないわ。絶対にそんなはずはない。この道久殿に限って!

 芳姫は「九年間、あなたの思いは変わらなかったではないの!」と叫びたかったが、同時に心変わりが事実だった場合に自分が陥る孤独を想像して震え上がった。強く握られた(あか)い扇が手の中できしんだ。

 もし、もし本当だったらどうしたらいいのかしら! とにかく、確かめなくては。

「道久殿」

 呼ばれて、目の前の男は顔を上げた。

 ごくりとつばを飲み込んだ芳姫は、そのいつになく生真面目な表情の張り付いた顔へ恐る恐る尋ねた。

「まさか、あなたは、他の方へ、こ、心が、う、う、うつっ……」

 と、その時、いきなり隣室へ通じる襖が開いた。

「母上。まだお休みにならないのですか」

 眠そうな目をこすりながら入ってきたのは寝間着姿の直孝だった。

「あの……、実は恐い夢を見てしまって眠れないのです。今夜は母上のお部屋で一緒に寝てもいいですか」

 恥ずかしそうに言った九歳の元狼公は、客がいることに気が付いて顔を真っ赤にしたが、意を決して入ってきた。ぱたぱたと裸足で歩いてくる息子を、言葉を発しかけたまま固まってしまった芳姫はただ目だけで追っていた。数歩進んだところで、直孝は母の向かいにいるのが道久だと気が付き、うれしそうな表情になった。

「道久先生、いつ帰ってきたのですか」

 駆け寄った直孝に平伏した道久は、顔を上げて笑みを浮かべた。

「直孝様、お久しぶりでございます。ただいま遠方より帰って参りました」

「どこへ行っていたのですか」

 尋ねられた道久はちらりと芳姫に視線を向けると、小声になった。

「これは秘密なのですが」

 と、道久が身を乗り出すと、直孝も腰をかがめて顔を近付けた。

「国母様のふるさとの田美国へ行って参りました」

「母上のお使いだったのですか」

 首を傾げる元狼公に、道久は頷いた。

「その通りでございます。よくお分かりになりましたね」

「だって、道久先生は母上の大事な家臣なのでしょう。他の人には言えないことも頼めるのですよって、お絹が言っていましたから」

「ありがたいお言葉です。道久は果報者(かほうもの)でございます」

 道久は頬をゆるめ、芳姫に向かって頭を下げた。直孝はちょっとためらったが、はにかみながら言った。

「僕も道久先生は大好きです。母上の次に好きだと思います」

「ありがとうございます」

 道久は今度こそ本当に笑顔になった。

「わたくしも直孝様を大切に大切に思っております」

 道久は真剣な口調で言った。

「あなた様は直信様の後をお継ぎになって、この国の未来を背負(せお)って立つお方でいらっしゃいます。直孝様のご成長をこの国の全ての者がお待ち申し上げているのですよ」

 (うやうや)しく頭を下げた道久は、顔を上げるとすぐに笑みに戻った。

「さあ、わたくしはまだ国母様とお話がございます。直孝様は先にお休みになっていて下さい」

 呼吸も忘れて二人のやり取りを見守っていた芳姫は、道久の同意を求める視線に気が付くと、大きく息を吐き出し、気持ちを落ち着かせながら何とか微笑みを作って息子に向けた。

「先にお布団に入っていなさい。お話が終わったらすぐに行きますから」

「はい。では、布団の中で待っています」

 直孝は素直に従った。

「でも、早く来て下さい」

 照れながら言った息子に、芳姫は頷いた。

「大丈夫、長くはかかりませんよ」

 直孝は道久へ顔を向けた。

「道久先生。明日剣の稽古をしてくれませんか。パシクとやっていたのですが、やっぱり道久先生の方が教えるのが上手ですから」

「ええ、よろしいですとも。必ず参ります」

「やったあ!」

 うれしそうに声を上げた直孝は、すぐに夜だということを思い出して声を落とした。

「では、明日、お願いします。絶対ですよ」

「はい、かしこまりました」

 道久が頭を下げると、九歳の元狼公は眠気が襲ってきたのか大きなあくびをして戻っていった。

 襖が閉まった後も、芳姫と道久はしばらく黙って隣室の物音に耳を澄ませていた。

 やがて直孝を待っていたらしいお絹の声が聞こえ、更に奥の襖を開け閉めするかすかな音が消えると、辺りはしんと静まりかえった。

 道久がささやいた。

「お休みになったようですね」

「ええ、そのようです」

 ひそひそ声で言い交わした芳姫と道久は、もう一度隣室の方を見ると、顔を戻して目を見合わせた。

 先に微笑んだのは道久だった。

「直孝様はお変わりなくお元気そうで安心致しました」

 道久の声はやさしかった。

「ええ。あの子はあなたの帰りをずっと待っていましたよ」

 答えた芳姫は、一瞬ためらってから、思い切ってこう続けた。

「私もあなたの帰りをずっと待っていました」

「芳姫様……」

 道久が驚いたように主君の顔を見上げた。

 芳姫はものすごく恥ずかしかった。きっと今私は真っ赤な顔をしているに違いないわと考えるとますます頬が火照(ほて)る思いがしたが、ここが勝負所だったので、頑張って道久の瞳を見返した。

「華子のことは残念でした。ですが、あなたが無事に戻ってきてくれて本当にうれしく思います」

 大きく目を見開いた道久に、芳姫は畳みかけた。

「あなたが戻ってこなかったら、私はどうなっていたことでしょう。これからもそばに仕えて、私を助けて下さい」

「もったいないお言葉でございます」

 道久は(こうべ)を垂れた。

「光子の手紙で大体のことは分かりました。華子は心を決めてしまったのですね。そうなったあの子を翻意(ほんい)させられる者はおりません。子供の頃からそうでした。あの意志が強く賢い子が私や光子を敵に回してまで戦うと思い詰めたのなら、誰にも止められないでしょう。無理なことをお願いしてしまいましたね」

「とんでもございません。これはわたくしの失態でございます」

 苦しげに言う道久に、芳姫は「いいえ」と首を振った。

「妹思いのあの子が光子に冷たい態度をとったことからも分かります。華子は私が手を差し伸べることなど望んでいなかったのです。光子の言う通り、私達にできることは、あの子と戦って勝つことだけなのでしょう。本当は華子はそれを私に求めてあなたを追い返したのかも知れませんね」

 芳姫は座布団から降りて道久の目の前に座った。道久が慌てて平伏した。

「道久殿。今、吼狼国と武守家は大変な状況にあります。私一人では到底この危機を乗り越えることはできません。どうか、私と直孝様に力を貸して下さい」

 芳姫は扇を横に置いて道久の右手を取り、上に左手を重ねた。腕を引かれて道久が顔を上げた。

「あなただけが頼りなのです。あなたは私にとって誰よりも大切な家臣です」

 道久は一瞬硬直し、表情を見られないように急いで顔を伏せた。再び(おもて)を上げた時には平静を取り戻していたが、それでもその目がいつもより(うる)んでいるのを見付けた芳姫は思わず微笑んでしまった。

「私にはあなたが必要です」

 無理に感情を抑えているために無表情にすら見える腹心の顔をじっと見つめて、芳姫は語りかけた。

「これからも私のそばにいてくれますね」

 道久は覚悟を決めたように表情を引き締めると、芳姫の手に包まれた右手に額を当てるようにして頭を下げた。

「芳姫様がお望みならば喜んでお仕え致します。わたくしの忠誠の限りをお尽く致しましょう」

「頼みますよ」

 道久を引き留めることに成功したと確信した芳姫は、ほっとして手を離した。道久は芳姫の顔をじっと見つめると、再び頭を下げた。

「それでは、本日はもう遅い刻限でございますので、下がらせて頂きます。高稲半島の情勢、今後の恵国軍への対応などお耳にお入れしたいことがたくさんございますが、それはまた明日改めておうかがいしてお話し申し上げます」

「ええ、待っています」

 芳姫は微笑んだ。

「私もあなたの意見を聞きたい案件がいくつかあるのです。それに、直孝様との約束もありますからね」

「はい。それでは、失礼致します」

 もう一度深々とお辞儀をした道久は、腰を上げようとしてふと動きを止め、はにかんだように小声で付け加えた。

「座布団をご用意頂き、ありがとうございました。感激致しました」

 そう言うと、丁寧に頭を下げて立ち上がり、部屋を出ていった。

 廊下を去っていく足音が聞こえなくなるまで芳姫は座っていた。やがて、体から一時の興奮と熱が引いていくと、ようやく腰を上げた。

 扇を拾い、行灯を消して灯火を手に隣室へ向かおうとした芳姫は、ふと立ち止まり、敷かれたままの座布団を振り返ってつぶやいた。

「……思い過ごしだったのかしら。他の人に気持ちが移るなんて、あの人に限って起こるはずがなかったのに。私ったらあんなに慌ててしまって」

 芳姫は扇を持った左手へ目を落とし、ぎゅっと握って、小さく微笑んだ。

「そうね。そんなはずないわね」

 安堵と喜びが芳姫の胸を満たしていた。私はまだあの人を捕まえている。明日からまたあの人がここへ毎日やってくる。そう思うと、芳姫はうれしさを抑えられなかった。

「直孝様のためにもこれでよかったのだわ。全ては我が子のため、国のためよ。あの子はまだ一人で眠れないくらい幼いのだもの。私がしっかりして家臣達をまとめていかなくては」

 一人頷いた芳姫は、静かに襖を開けて、奥の部屋で待っている幼い元狼公に添い寝をするために、忍び足で去っていった。


「まさか、芳姫様から手を握ってくるとはな」

 芳姫の部屋を出た道久は右手を見つめた。まだ女人の手の柔らかい感触が残っていた。

「玉都を留守にしたことが思わぬ効果を生んだらしい。こんな時間に部屋へ行くことが許されたから帰りを待っていたのだろうと思ったが、俺がいない間、一人になって心細かったようだ。これであの方はもう俺を手放そうとは思うまい。田美国まで足を運んだかいがあったな」

 (こぶし)を握り締めてにやりとした道久は、長い廊下を歩いていった。

「道久」

 表へ戻ると、奥向きとの境の大扉の前でパシクが待っていた。

「お前が登城するのを見た者がいたのでな」

 連れ立って歩きながら、パシクが言った。

「どこへ行っていたのだ。直孝様が寂しがっていらっしゃったぞ」

 尋ねる友人に、道久は黙って付いてくるように合図をし、建物の外に出るといつか話をした櫓へ向かった。

「ここなら誰にも聞かれないからな」

 中に入り、左右を見回して扉を閉めた道久は、友人の問いに答えた。

「田美国へ行ってきた。国母様のご命令だ」

「何のためだ」

「和平の打診だ」

「和平だと?」

 パシクは眉をひそめた。

「国母様らしくない二枚舌だな。お前が勧めたのか」

「ああ、そうだ」

 パシクは呆れたように首を振った。

「実現可能とは到底思えんが。その様子だと、やはり失敗したか」

「ああ。けんもほろろというやつだ」

「当然だろうな。お前がいない間に都へ恵国の使者が来て、居丈高(いたけだか)に全面降伏を要求してきた。さもなくば玉都の占領も辞さないそうだ」

「降伏すれば撤退すると言ったのか」

「恵国に臣従して全ての銀山の管理権を渡し、銀の交換比率を言う通りに変更すれば軍勢を引き上げるそうだ。目的は銀だけだ、吼狼国と本気で争うつもりはないと明言していた。恵国はどうにかして戦を避けようと何度も使者を送ったのに、統国府が頑迷(がんめい)だったのでこの事態に至ってしまったらしい。今回の戦の責任は全て吼狼国側にあるから、軍勢派遣にかかった費用はこちらが持つのが当然だと言い放った。もちろん追い返したが」

「俺が聞いた話と随分違うな。華姫は都を落とし、統国府を屈服させるまで戦いをやめるつもりはないと言い切った。どうやら恵国側もいくつかの勢力に分かれているらしい。いや、恵国の宮廷はあの禎傑とかいう司令官を警戒しているのか。戦の経過次第ではやはり交渉の余地はありそうだな」

 道久は考え込んだが、すぐに顔を上げた。

「他に動きはないか」

 パシクはややためらって答えた。

鷲松(わしまつ)巍山(ぎざん)公が何やら動いている」

「あの老人、まだ諦めていなかったのか」

 道久が呆れて言うと、パシクは頷いた。

「そうらしい。謹慎中だというのに、玉都にいる封主達をしきりに手懐(てなず)けている。どうやら賛同者を集めて赦免(しゃめん)を願い、討伐軍に参加したいようだ。手柄を立てて文武応諮に返り咲き、権勢を取り戻したいのだろう。相当気前よく金銀をばらまいて味方に引き込んでいるそうだ。一体どこからその金が出てくるのやら」

「お前は知っているのだろう」

「まあな。我等はユルップ海峡を常に監視していて、通る船は一隻たりとも見逃さないからな」

「巍山の工作はどれほどの効果を上げているのだ」

「詳しくは分からない。何せ我等ユルップの民は元狼公様の私兵。声がかかるはずもない。だが、聞くところでは在京の諸侯の半分以上がなびいたらしい」

「ほう、それほどとは……」

 道久は腕を組んで眉を寄せた。

「あの老人を少し甘く見ていたかも知れん。国母様と直孝様には脅威だな」

「ああ。粟津(あわづ)公などは大分神経を尖らせている。だが、杏葉公が恵国軍に勝利すればそれまでだ。巍山公の復権は立ち消えになるだろう」

「残念だが、その可能性は低いな」

「なにっ?」

 パシクは驚いて尋ねた。

「それはどういうことだ!」

「俺は恵国軍の総司令官と華姫に会ってきたが、あの二人は手強い。色欲と権勢欲で手柄を焦る武術馬鹿がかなう相手ではなさそうだった。……そうか」

 道久は組んでいた腕をほどくと、くるりと背を向けた。

「状況は分かった。感謝する」

 櫓の出口へ歩いていく友人に、パシクは慌てて声をかけた。

「待て。見てきたことを詳しく話せ」

「それはまた今度にしよう。今日はもう下城(げじょう)する」

「どこへ行く。屋敷へ戻るのか」

 道久は扉の前で立ち止まって振り返った。

「いや、これから俺なりに都の様子を探ってみる。味方の少ない国母様を全力でお守りしなければならん。俺はあの方の最も大切な家臣らしいからな」

「国母様がおっしゃったのか」

 パシクは目を見開いた。

「そうだ。手を握ってだぞ。これからもそばで仕えて欲しいそうだ。感激したよ」

「そうか……、それはよかった」

 パシクは安堵したらしい。

「ならば、お前は国母様を困らせるようなことはしないな?」

「当たり前だ。俺はあの方のためなら何でもできるぞ。これは俺の本心だ」

「そうだったな」

 パシクは幾度も頷いた。

「俺は正直なところ、お前が個人的にあの方に近付くのはあまり感心しないと思っていたが、国母様が家臣として頼りになさっているのならば大丈夫だろう。今は非常時だしな。お二人を助けて差し上げてくれ」

「もちろんだ。直孝様の剣の稽古も俺がまた担当することになった。かわりにやってくれていたそうだが、これからもたまにお相手をしてくれると助かる。違う相手と剣を交えるのはよい練習になるからな」

「ああ、分かった。いつでも声をかけてくれ」

「頼むよ。では、な」

 道久は戸を開けると外へ出て、大手門の方へ向かった。続いてパシクも櫓を後にして、衛門所の詰め所の方へ歩いていった。


「巍山か……」

 待たせておいた駕籠(かご)に乗り込んだ道久は、望天城の大手門を出ると、「鷲松家の玉都屋敷へ行け」と命じた。手始めにあの老人に会っておこうと思ったのだ。

 駕籠に揺られながら、道久は考えを整理した。

「杏葉直照は遠からず失脚する。それは間違いない」

 殻相国では数日の内に戦が行われ、恐らく直照は負ける。華姫と禎傑に会い、家臣達から森浜村の合戦での恵国軍の作戦を詳しく聞いたことで、道久は討伐軍の敗北をほぼ確信していた。霞之介に暗殺を命じたのは念のために過ぎない。

「直照の後釜に座るには、粟津広範が邪魔だな」

 道久は次の武者総監の座をねらっていた。第二次討伐軍の総大将になるためだ。封主でない道久の総監就任は異例だが、国母様の命令ということにすれば可能だろう。道久は芳姫の説得には自信があった。芳姫は自分にかわって軍事を取り仕切ってくれる人物を求めているが、信じて全権を委ねられる者は多くない。道久が名乗り出れば喜んで任せてくれるに違いなかった。

 この恵国との大戦(おおいくさ)で華々しい手柄を立てて諸侯の仲間入りをし、堂々と権力を握って貿易改革に着手するという道久の目標は変わっていなかった。その一番の障害になるのが、道久の就任や改革に反対すると思われる仕置総監の粟津広範だった。

「部下の失態を追及するか……」

 小荷駄隊の出発の遅れは行李(こうり)奉行滝堂(たきどう)永兼(ながかね)の責任で、彼を監督するのは財務奉行、ひいては仕置総監の役割だ。広範も非難は免れない。直照が敗北して諸侯の統国府への不満が高まれば、広範の地位は揺らぐはずだ。そこへ永兼と菅塚興種の銀の横流しと海国丸事件への関与を暴露すれば、責任を取らざるを得ないだろう。

「後任の仕置総監は雉田(きじた)元潔(もときよ)か」

 広範を失脚に追い込んだら内宰の老人を昇格させるのがよさそうだと道久は思った。元潔は野心だけはそれなりにあるが、定見も目標もないので操りやすい。それに、職務柄直属の部下が少なく、領国が遠い首の国の片籠国(かたかごのくに)ということもあって都に自由に動かせる兵力を持っていないから、御廻組を握る道久が権力掌握に力を貸すと言えば乗ってくるだろう。どうせ実行したい施策など大してないはずなので、形だけ立ててやって実権は奪ってしまえばよい。国母様はこちらの言いなりなのだからなと考えて、道久はにやりとした。

 今日の様子なら芳姫を落とすのにさほど時間はかからないと道久は見ていた。そうなれば、御前評定は思うままに動かせる。元潔にはせいぜい役に立ってもらうとしよう。

「となると、問題はやはり巍山だな」

 道久は駕籠の中で腕組みをして眉を寄せた。

 直照が敗北すれば戦上手で知られる巍山が復権する可能性は高くなる。老獪(ろうかい)な巍山に出てこられるとやっかいだった。

 巍山の目標は分かっていた。直利や自分自身の赦免と文武応諮への復帰、ひいては統国府の実権の掌握だ。そうなれば芳姫は権力を奪われ、直信との個人的な関係で取り立てられた道久は後ろ盾を失う。巍山が政権を取れば道久は御廻組頭を解任され、あの老人にとってより都合のよい人物が任命されるだろう。それを避けるためにも、巍山の動きには注意しておく必要がある。

 そこまで考えた時、揺れが止まって「着きました」という声が聞こえた。

 広大な敷地を持つ鷲松邸の立派な門を警備している武者達は、無表情に籠を迎えた。道久が巍山に会いたい旨を伝えると、門前で少し待たされたが、やがて客間に案内された。

 しばらくして巍山が現れた。

「これはこれは、よくぞ参られた」

 主の座に腰を下ろした巍山に、道久は丁寧に頭を下げた。警戒するように道久をじろりとにらんだ巍山は、すぐに客向けの笑みを作った。

 道久が訪問先への型通りの挨拶と面会の許可をくれたことへの感謝を長々と述べた。巍山はしばらく黙って聞いていたが、飽きたらしく、途中でそれをさえぎった。

「ご丁寧なご挨拶、痛み入る。だが、もう結構だ。それより、今日はどのようなご用件かな。まさかわしが真面目に謹慎しておるか確かめにきたわけでもあるまい」

「実は鷲松公と世間話を致したく、参上つかまつりました」

「ほほう、世間話とな。どのような話を持ってきてくれたのか楽しみだ」

 巍山は首を傾げたが、期待するような口ぶりで言った。

斑畠国(はだれはたのくに)から聞こえてきた噂などいかがでしょうか」

 道久もにこやかに答えた。

「確か、豊魚(とよお)半島の先端の国だったな」

「はい。()(くに)で最北の斑畠国(はだれはたのくに)は武守家の御料地ですので、御廻組が警備しております。三年前、私も視察のために訪れましたが、その時現地の武者達から奇妙な話を聞きました」

 巍山は無言で頷いて先を促した。

豊魚(とよお)半島と沖崖島(おきがけじま)の間の海峡を、たびたび所属不明の船が行き来しているようなのです」

 道久はいかにも気楽な話のように楽しげに語った。

「相当大きな船が、どこの封主家の旗も掲げず、ユルップ族の目を盗むように夜中にそっと通り抜けるそうです。もう二十年ほども続いていることだと申しておりました。国主代を問い(ただ)したところ、以前から知っていたと白状しました。どうやら中心となっているのはとある大封主家で、用意した船にいくつかの小さな諸侯の荷も一緒に乗せて運んでいるらしいですが、武装している相手に対してこちらは大きな舟がなく、広く流れの早い海峡で取り締まるのは不可能だから見て見ぬふりをしてきたと話し、統国府に報告しないで欲しいと懇願(こんがん)されました。どうやら、誰かに口止めされていたようですな」

「密輸船か」

 巍山は唸った。

「と思われます。恐らくは隆国へ行くものかと」

「ふむ。それで、その船がどうかしたのか」

 巍山は笑みを浮かべた顔の中で目だけをぎょろりと動かした。

「統国府は密貿易を禁じております。知られたらただでは済みますまい。そこまでして財を求めるとは、実に嘆かわしい限りです。ですが、私はこの船のことを直信様にお伝えしませんでした」

 道久は巍山の肉付きのよい顔をじっと見つめた。

「米価の下落と物価高で多くの封主家の財政が苦しい状況では、致し方ないことと考えたのです。密貿易は法度に反するとはいえ、領民に重税を科して苦しめるよりは数倍ましというものです。貿易が盛んになれば産業が(おこ)り、民に新たな収入の口を与えて豊かにしてやることもできましょう」

「それはそうかも知れぬな」

 巍山は探るような視線を向けつつ頷いた。

「実は、私は隆国との貿易を解禁したいと思っているのです。外様封主家にも大陸貿易を許し、全ての通商を統国府がまとめて管理する形態が望ましいと考えております。確か、巍山殿はご領内に銀や硫黄が採れる山をお持ちでしたな。武公様に閉山を命じられたと聞き及んでおりますが、貿易を許され、それらを再開できれば、きっと潤うことでしょう」

「なるほど。そうなれば助かる諸侯は多い。当家にとっても考える価値のあることかも知れぬな」

 賛同を求める笑みを浮かべた道久に、巍山も愛想よく相槌を打った。

「ですが、その実現のためには前提となる条件があります。それは私が権力を握ることです」

 道久は顔を引き締め、真面目な表情になった。

「はっきり申し上げましょう。私は武者総監になって大陸貿易の改革を断行したいと考えております。それには諸侯の信頼を得る必要がありますが、今は丁度大戦の最中(さなか)です、恵国軍討伐の総大将になって手柄を立てるのが早道でしょう。その実現に巍山殿のお力をお貸し頂きたく、こうしてお願いに上がりました」

「力を貸すとはどういうことかな」

 巍山は用心する顔になった。

「巍山殿にはたくさんのご縁戚がいらっしゃいます。また、貴家に恩のある封主家も多いとうかがっております。その中には譜代封主家も少なくありません。彼等の説得に際して巍山殿からお口添えを頂きたいのです」

「なるほどのう……」

 巍山は一応の筋は通っていると思ったようだが、すぐに疑問を口にした。

「貴殿の考えは分かった。だが、武者総監は杏葉公だ。あの方を辞めさせるつもりなのか」

 道久は首を振り、自信に満ちた声で断言した。

「そのことならば心配はございません。恵国軍が総監の座から蹴落としてくれるでしょう」

「それは負けるということか」

 巍山はさすがに驚いた。道久は心持ち小声になった。

「実は、国母様のご命令で田美国の情勢を探りに行って参りました。私の集めた情報が正しければ、討伐軍は負けます。少なくとも勝つのは難しいと思われます」

「それは確かなのか」

 巍山は身を乗り出した。

「恐らくは」

 道久は和平交渉の話は伏せつつ自分が見てきたことをかいつまんで話した。

「恵国軍の司令官はなかなかの人物のようです。涼霊という軍師も相当の切れ者と聞きました。杏葉公はかなり苦戦なさるに違いありません」

「ふむ……」

 巍山は腕を組み、太い首を肩に沈み込ませるようにして考え込んだ。

「討伐軍が敗退すれば、また武者を集めて次の軍勢を送ることになります。私はその総大将になりたいのです。ですが、私には戦の経験がございません。そこで、総監に就任後、巍山殿を赦免し、助言者として同行をお願いするつもりです。もちろん、恵国軍に勝った暁には、文武応諮の職にお戻しし、貿易改革にお力をお貸し頂きたいと考えております」

「なるほど。わしに声をかけた理由はそれか」

 巍山は納得した顔になった。

「この計画を私は何としても実行するつもりです。処遇の件は固くお約束申し上げます。必要でしたら誓紙をお書き致しましょう」

「いやいや、それには及ばぬ。そのお言葉だけで十分だ」

 巍山はうれしそうに何度も頷いた。

「そういうことなら当家にも異存はない。もし杏葉公が失脚して武者総監が空席になった時には桑宮殿を推すように、親しい封主家に話しておこう」

「ありがとうございます。後は殻相国の戦の結果を待つだけですが、それももう数日中のことでしょう」

「おお、では早速動かねばな」

 笑顔で道久が退出すると、隣の部屋から家老の千坂(ちさか)規嘉(のりよし)が出てきた。

「あの話、本気でございましょうか」

「口先だけに決まっておる」

 巍山は不愉快そうに顔をしかめた。

「あの青二才め。隆国船のことをほのめかして脅してきおった。恐らくわしの魂胆を探り、釘を刺すために来たのだろうよ」

「どうなさいますか」

「どうもせぬ。あの男に監視を付けておけ。何やらたくらんでおるようだからな」

 そう言うと、巍山は腕組みをして考える様子になった。

「だが、あやつめ、直照が負けると断言しおった。最近都におらぬからどこに行ったのかと思っておったが、田美国ならば納得だ。もしあやつの申すことが正しければ、都は面白いことになろう」

 巍山はしわがれた太い声で家老に命じた。

規嘉(のりよし)。まだ陥落せぬ封主家への工作を強化せよ。栄木国(さかえぎのくに)に隠した武者どもも、いつでも玉都へ来られるように準備させておけ。殻相国の情報はどんな些細なことでも全てわしに知らせよ」

「かしこまりました」

 家老は平伏した。

「この国難を上手く活かして権力を握るのはこのわしだ。桑宮なんぞにしてやられはせぬわ」

 巍山は腹心の禿頭(はげあたま)を見下ろしながら唇を笑みに歪めた。


「あの老人、やはり食えないな。俺の脅しに顔色一つ変えなかった」

 鷲松邸の門を出た道久は背後を振り返ってつぶやいた。

「やつの復権は絶対に阻止せねばならん。それには元潔と組んで統国府を掌握し、直孝様と芳姫様のご威光で譜代封主どもを従えるしかない。俺の邪魔はさせん」

 心を決めると、道久は駕籠に乗り込み、自邸へ向かうように命じた。

 翌日、雉田家の屋敷を訪れた道久は、元潔に仕置総監就任を支援するという話を持ちかけた。かわりに自分を武者総監と第二次討伐軍の総大将に推してもらいたいと頼むと、内宰は喜んで同意し、協力を誓った。相談の結果、芳姫の説得は道久が担当し、元潔は譜代の諸家から内々に承諾を得ておくことで話がまとまった。

「鷲松巍山にはご注意下さい」

 最後に道久は元潔に言った。

「あの古狸は危険です。我々が政権を得たら捕らえてどこかに幽閉し、数国を取り上げて勢力を削ぐべきです」

「そうじゃな。わしもそう思うよ」

 元潔も賛同し、二人は連絡を密にすることを約束して別れた。

「俺の権力掌握が近付いてきた。心ある奉行達との会合も早速再開しよう。今日にも使者を送っておくか」

 雉田邸を後にした道久は駕籠で望天城に向かった。

「これで芳姫様さえ落とせば全てが上手くいく」

 道久は芳姫へ言上する様々な施策を指を折って確認しながら、昨夜の恋しい女人のすがるようなまなざしを思い出してにやりと笑った。


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