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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第四章) 八

   八


「今日の勝利はこの二人のおかげだ!」

 両脇に立つ涼霊と華姫の肩に手を置いて、禎傑は大声でほめた。

 将軍達が口々に賞讃の言葉をかけると、涼霊は「ありがとうございます」と言って頭を下げたが、華姫は黙って正面からそれを受けていた。

「そして、お前達もよく戦ってくれた。これで高稲半島は我等のものだ。都が見えてきたぞ!」

 禎傑は笑った。

「我等の勝利に乾杯!」

 総司令官が杯を掲げると、諸将は一斉に「乾杯」と叫んで自分の酒器を持ち上げ、空にした。

 宴が始まった。月下城はたちまち叫び声や笑い声、箸が食器を叩く音や酒杯が打ち合わされる音で満たされた。

 穂雲城から持ってこさせた豪華な椅子に座った禎傑は、満足そうに涼霊や頑烈に酒を勧めていたが、華姫は杯を断り、静かに席を立った。

 大広間を出た華姫は、酔った兵士であふれた廊下を通り過ぎて本郭(ほんくるわ)の最深部へ向かった。寝所として割り当てられた部屋に入ると、奥へ進んで庭に面した障子を大きく開け放ち、ひさしの付いた縁側(えんがわ)に出た。

 この辺りには誰もいないらしく、城内の乱痴気(らんちき)騒ぎから取り残されたように静かだった。下の郭からかすかに聞こえる酔漢(すいかん)達の調子っ(ぱず)れの恵国語の歌が、天に入った裂け目のような金色の細い月と、金剛石の欠片を振りまいたような天の川に吸い込まれて消えていく。視線を下ろせば、滅びの神黒角龍王(くろづのたつおう)の攻撃で空から消えた月を呼び戻し白牙大神(しらきばおおかみ)の勝利を祈るために、毎月一日に燃やされる諸寺院の()()が、月下の町や近隣の村々に点々と輝いて地上の星のようだった。

 華姫は縁側の端に立ち、白い指輪をじっと眺めると、月に向かって手を合わせて目を閉じた。華姫は毎晩こうして指輪と月に泰太郎との再会がかなうように祈っている。だが、今夜は集中できなかった。狐ヶ原で見た光景が頭から消えなかったのだ。

 今日の合戦で数万の吼狼国武者が死傷したが、その何割かは華姫の責任だった。分かっていたこととはいえ、自分の果たした役割とその結果の大きさに、華姫の心は痛んだ。

 夫の奪還と仲間の復讐を目標にしている自分が、今日は多くの女達から恋人や夫や息子、父親や兄弟を奪った。女達はきっと自分を恨むだろう。親族や友人を殺された男達は自分を(かたき)とねらうかも知れない。今夜の呼び火は、まるで死者達を(とむら)い天へと帰す送り火のように見えた。あの(ともしび)のそばではきっと多くの人々が涙を流しているに違いない。

 だが、華姫はここで止まるつもりは全くなかった。手をゆるめもしない。この程度でぐらつくほど弱い覚悟で始めたことではないのだ。

「殺したいなら殺しに来ればいいわ」

 華姫は小さくつぶやいた。彼等に本物の意志と勇気があるなら実行すればよいのだ。自分が今そうしているように。もちろん、やすやすと殺されてやるつもりはない。

 華姫は合わせていた手を下ろすと縁側に正座し、夜空を眺めながら妹を思った。

 光姫の部隊は恵国軍に追い付かれて戦闘になったが、何とか撃退して逃げ延びたらしい。その戦闘で胸を撃たれたという年配の武将は、家紋からして恐らく豊梨家のご老公だろう。華姫は以前都で世話になった老将の顔を思い出して、また苦しめなくてよい人を殺してしまったと思った。きっと大泣きしているだろう妹を想像して、華姫はかすかな溜め息を吐いた。今日は父の死から丁度一ヶ月目だった。

 と、急に廊下側の襖が開かれた。振り返ると禎傑だった。

「こんなところにいたのか」

 黄金の鎧の禎傑はがらんとした部屋を見回して、ずかずかと中に入ってきた。

「なぜ宴を抜け出した。主役がいなくては盛り上がらんではないか」

「それはどうかしら」

 華姫は星空に目を戻して答えた。恵国軍の諸将に好かれていないことは自覚している。華姫の知謀と治政の手腕には皆一目置くようになり、禎傑の手前一応は丁寧な態度を取るが、陰では売国奴という悪口がささやかれ続けているし、色香で俺達の司令官を惑わす悪女と毛嫌いする者も多い。吼狼国人で彼等の仲間ではない華姫がいない方が、戦いの勝利を気持ちよく祝えるだろう。

「遠慮する必要などないのだぞ。お前の今日の働きに文句を付けられる者はおるまい。胸を張っていればよいのだ」

 禎傑は縁側に出て華姫の隣に立つと、視線を追って夜空を見上げた。

「お前は大した女だ」

 禎傑は細い月を仰ぎながら語りかけた。かすかな風に皇子の背中の赤い垂れ布が揺れた。

「今日の戦いでよく分かった。お前は軍師として他に得難い存在だ。実のところ、俺はお前を吼狼国についての情報源としか考えていなかった。通訳や翻訳もできて頭もよいが、将軍としては大したことがないだろうとな。鉱山の防衛と合戦は全く違う。丘の上の兵どもの指揮を任せたのも、厳威(げんい)がいれば大丈夫だろうと思ったからだ。だが、お前に補佐役など必要なかったようだ。(いさぎよ)く認めよう。お前のような女は他にいない。お前は間違いなく大軍の指揮官と一州の太守が務まる才幹の持ち主だ。政事では民の心をよくつかんで安からしめ、戦場では巧みに敵を(あざむ)き、弱点を見抜いて急襲する。その器量は涼霊に匹敵しよう」

 禎傑は座っている華姫を見下ろして言った。

「俺はお前を正式に軍師に任命することにした。そして、お前に俺の妻の地位を与える。涼霊と共に俺を助けてもらいたい。それで将軍達の態度も改まるだろう」

 禎傑の表情は真剣だった。

「俺はお前を手放したくない。お前は素晴らしい女だ。知謀も美貌も心延(こころば)えも群を抜いている。この国も手に入れたいが、お前も俺のものにしたい。これからもずっとそばに置きたいのだ」

 華姫は目を伏せてかすかに微笑んだ。

「軍師の方は好きにすればいいわ。私の役割は同じだもの。将軍達にどれほど効果があるかは分からないけれどね。妻の方はお断りするわ」

「なぜだ。俺の公的な伴侶となれば、お前は我が軍で今以上に敬意を払われ、重く扱われることになるのだぞ」

「私は泰太郎さんの妻よ。そんなことは望んでいないわ」

 華姫は首を振った。

「忘れたの。私は自分の目的のためにあなたを利用しているだけよ。あなたのものになったつもりも、なるつもりもないわ。約束だから都を落とすまでは協力するけれど、泰太郎さんを取り戻して復讐を終えたらあなたの元を去るわ」

 禎傑は低く尋ねた。

「夫と別れる気はないか」

「ないわ」

 華姫は話を打ち切るように即答したが、禎傑はわずかな月光と星明かりにほの白く浮き上がった華姫の横顔に向かって、言葉に力を入れた。

「俺はお前が欲しい」

 禎傑は激しくたぎる感情を無理に抑えた唸るような口ぶりで言った。

「夫を救い出して義理を果たしたら、俺の妻になれ。俺と本当の意味で対等に話ができるのはお前だけだ。涼霊や頑烈は部下としては有能だが、魂の気高さでは到底お前に及ばない」

 華姫は黙っていた。

「俺にはお前が必要だ。お前の夫には俺こそがふさわしい。俺は本気だ。他の男のことなど俺が忘れさせてやる。お前を幸せにできるのは俺だけだ」

「私が選んだのは泰太郎さんよ」

「その意志の強さは称讃(しょうさん)に値するが、時々無理にでもへし折ってやりたくなるな」

 禎傑は華姫を抱き締めたい強い衝動に駆られたらしく、腰をかがめて腕を伸ばしかけたが、ぐっと我慢して言った。

「俺は何としてもお前を口説き落とすぞ」

 体を戻した禎傑は華姫に背を向けた。

「気が向いたら宴に来い。お前は我が軍の一員なのだからな」

 そう言うと、禎傑は部屋に入り、廊下を歩いて去っていった。

 残された華姫は、月を見上げて深い溜め息を吐いた。

 とうとう求婚されたわね。受け入れることはあり得ないけれど。

 正直なところ、禎傑のことは嫌いではない。あの野性的な強さと自信、行動力、覇気を、華姫は好ましく感じていた。南海州の彼の部屋で夜遅くまで語り合った日々は楽しかったし、こちらの言いたいことをすぐに理解して的確な言葉を返してくる対等な話し相手は、泰太郎以外では初めてだった。今日()の当たりにした戦場での彼の勇気や武勇、兵士達の信仰に等しい支持にも感嘆した。

 彼が本気で自分に惚れていることも、彼なりの誠意とやさしさを向けてくれていることも分かっている。時折見せる強引さや子供のような征服への純粋な欲望さえ、不思議と不快ではなかった。それでも、華姫には彼の求愛を受け入れるつもりは微塵(みじん)もなかった。

 華姫は指輪を眺めて心の中でつぶやいた。

 私はあくまでも泰太郎さんの妻よ。その立場を捨てることはできないわ。

 それが華姫の規定する自分であり、吼狼国へ戻ってきた理由の全てだった。ここで禎傑を受け入れてしまえば、ただの侵略者で裏切り者になる。現実には多くの人々がそう思っているとはいえ、華姫は自分なりのやり方で泰太郎の妻として振る舞い、夫を大切にしているつもりだった。

 そして、八人の家臣と姉と妹以外で唯一そのことを理解し尊重してくれるのが禎傑なのだ。彼と話していて感じる気持ちの近さとある種の安心感はそれが理由かも知れない。

 だが、あくまでも泰太郎の妻として戦うことを、華姫は夫に、禎傑に、自分自身に誓ったのだ。それに、泰太郎を助け出したら、最後に禎傑を殺して逃げるつもりだった。そのことは家臣達にも話して了承を得ていた。

 妻になるどころか、内心で禎傑の信頼を裏切っている。そのことに華姫は急に罪悪感を覚えた。あの野心的だが屈託(くったく)のない笑みが驚愕と深い悲しみと怒りに濁るところは正直想像したくなかった。だが、あの男を一人の人間として好ましく思うことと、侵略者を倒すことは全く別な話だ。恵国軍に協力していようと、華姫は自分を吼狼国人だと思っていた。自分を信じて付いてきてくれる政資達や暴波路兵達のためにも、田美衆のためにも、華姫は恵国の人間になるわけにはいかない。自分と禎傑の間には決して越えられない溝があるのだ。

 つい物思いにふけっていたことに気が付き、まといつく考えを振り切るように首を振った時、ふと別な気配を背後に感じて華姫は振り向いた。いつの間にか小さな灯りが部屋の向こうにあり、政資や景隣など八人の家臣全員が廊下に控えていた。華姫を心配してやって来たらしい。

「こちらへいらっしゃい」

 声をかけると、家臣達は部屋を通って縁側に出てきた。政資は一礼して華姫の隣に座って灯りを置き、その周りに皆が集まって円になった。景隣が進み出て、小さな盆を華姫の前に置いた。そこには刺身を盛った皿と箸と、朱色の杯が九つ載っていた。

 全員が杯を取ると、華姫は景隣を制して銚子(ちょうし)を持ち上げ、酒を注いでいった。

「遅れましたが、苫浜(とまはま)城を落とし、鳴沼在村を処刑して第一の復讐を達成したお祝いです」

 政資の言葉が孤独な主君を慰める口実(こうじつ)であることは分かっていたが、華姫は小さく笑って頷き、空へ目を戻した。

「不思議ね。同じ月なのに、吼狼国で見るとはるかに美しく感じるわ」

 華姫の言葉に、政資も同じ方を見上げた。

「わしも同感です」

「ここが故郷だからでございましょう」

 景隣が言った。

「ようやく帰ってきたのね」

「はい、帰って参りました」

 家臣達はそろって頷いた。全員が家族から義絶(ぎぜつ)を言い渡されていた。政資は妻から離縁を告げられ、景隣は家に顔を出したが追い出されて塩をまかれた。

 それでも故郷は懐かしく、全員が帰郷を喜んでいた。それを共に祝い、侵略者として、敵として故郷の土を踏まざるを得なかった悔しさと悲しみを分かち合えるのは、この九人しかいなかった。

「救出と復讐の成功に」

 華姫が杯を(かか)げた。

「我々の故郷と、この月に」

 政資が応じ、九人は杯に口を付けた。


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