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花の戦記  作者: 花和郁
16/38

  (第四章) 七

   七


「さすがはお姉様だわ!」

 林の中で大きな木の陰に隠れて合戦を見守っていた光姫は、思わず叫んだ。

「お姉様が討伐軍を打ち破ったのよ!」

 中軍の混乱を決定的にした茶色い兵士達と、本陣を一気に押しつぶした丘の上の田美衆や黒い軍勢は、華姫が命令を下したように光姫には見えた。

「まさかこれほどの大敗を喫するとは……」

 師隆(もろたか)は顔色を失っていた。

「まだ信じられません」

 輝隆(てるたか)も声が上ずっている。

「お姉様が本気ならこれくらいのことはするわ」

 光姫は華姫が恵国軍の勝利に大きく寄与していることを確信していた。部隊の指揮をとっただけでなく、作戦の立案にも加わっていたに違いない。

「お味方の完敗ですね」

 お牧が言うと、従寿(つぐとし)も頷いた。

「本陣も陥落しました。討伐軍は全面的に敗走しています」

 その言葉で輝隆がはっと気が付いた。

「我々もこうしてはいられません。急いで陣所に戻り、殻相国から逃げなければ。恵国軍は勢いに乗って追撃してくるでしょう」

「そうね」

 戦場を眺めて姉の姿を探していた光姫は振り返って頷いた。

「恒誠さんの予想が当たったわね。すぐに逃げましょう」

 師隆が伝令役の家臣に鋭く命じた。

「先行して具総殿に即時撤退を伝えよ!」

「はっ!」

 既に木から手綱を外していた若い武者は、素早く頭を下げると馬に飛び乗り、丘を駆け下っていった。

「さあ、我々も」

 腰を伸ばした師隆が声をかけると、光姫は立ち上がった。

「行きましょう。みんなと合流しなくては」

 光姫も銅疾風にまたがり、輝隆を先頭にした十数人は、麓の街道へ出て宿営地を目差した。

 敗報が伝わったのだろう、道行く人々は皆大きな荷物を持って慌てたように北へ向かっていた。高稲半島から逃げるには北上するしかないのだ。途中通り過ぎたいくつかの集落では多くの家の戸が開け放たれ、既に人気がなかった。

「急げ、急げ! 早く荷を馬に乗せろ! 積み終えた馬から街道へ出せ!」

 戻ってみると、宿所の寺院は大騒ぎだった。武者頭達が大声で配下の武者達を急かして撤収の準備をしている。恒誠の忠告通り、朝の内に全ての荷造りを済ませ、重いものは荷車に載せてあったので、残りの荷物を皆で手分けして馬の背にくくり付け、街道に列を作らせていた。

 光姫は副将の家老に駆け寄った。

「爺や、いつここを離れられるかしら」

「姫様、無事にお戻りになられましたか」

 餅分(もちわけ)具総(ともふさ)は命令者の表情を一瞬安堵にゆるめた。

「準備はほぼ完了しております。武者達には既に昼食をとらせました。いつでも出発できますぞ」

「では、すぐに北へ向かいましょう。爺やは田美衆を連れて荷駄隊の指揮をとって。私と師隆さんで殻相衆を率いて後ろを警戒するわ」

「かしこまりました。これは姫様達の分でございます。半分は夕食用ですぞ」

 具総は笹で包んだ握り飯の入った(かご)をお牧に渡し、(こう)(こう)()(ぜん)とした笑顔を再び引き締めて素早く頭を下げると、自分の隊の方へ走っていった。家老が配下の武者頭達に命令を伝えると、一千名が二手に別れ、半分が小荷駄隊の周りを取り囲み、半分は全体の先頭に立って既に混雑し始めている道を空けさせていく。やがて、荷馬の列が少しずつ動き出した。

「我々も参りましょう」

 追堀親子がやってきた。すでに三千の殻相衆は武装して整列し、待機していた。

 頷いた光姫は自分の昼食を腰の小袋に入れると、銅疾風にまたがり、先頭に立って馬を歩かせ始めた。すぐに従寿など馬廻りや騎馬武者達が続き、その後ろを長い槍を持った(かち)武者達が付いてくる。

「逃げ切れるかしら」

 光姫は隣を進む師隆に馬を寄せて小声で尋ねた。前もって準備していたとはいえ荷車も荷馬も数が限られるので、武者達は個人の荷物を自分で運んでいる。騎馬武者達は馬が疲れないように荷物をのせて自分は歩いているし、徒歩の者達は鎧兜で完全武装して槍や弓を持った上に荷を背負っているのでかなり歩きにくそうだった。街道は次々に流れ込んでくる避難民であふれかえり、軍勢は遅々として進まなかった。

「このままではまずいですな。ですが、まさか民を蹴散らして進むわけにも参りませんし」

 師隆がそうささやき返したのは、時折、どこの封主家の家臣か、すでに旗も槍も捨てた落ち武者の群れが、刀を振り回して民を脅しながら街道脇を逃げていくからだった。

「まったく、吼狼国武家の誇りが聞いて呆れるわ。私達を見下し、華姉様を裏切り者と(ののし)って、民を守るため正々堂々戦って打ち破ってくれるなんて威張っていたくせに」

 光姫の目は、そういう武者達が身にまとっている甲冑や手に持った刀へ向けられていた。遠目にも金や黒に輝き、赤や青の糸目が鮮やかだったのだ。

「総馬揃え用の武具を持ってきたのね。あんな装飾だらけの鎧が戦場で役に立ったのかしら。逃げる邪魔になるだけね」

「本当は捨ててしまいたいのでしょうな。ですが、あれを脱ぐと中は肌着だけですから、さすがに身分のある者はそんなまねはできないでしょう。下級の武者達は気にしていないようですが」

 実際、鎧を脱ぎ捨ててきたらしい者達もいた。重くて走りにくいから脱いだのだろうが、崩れた兜用の(まげ)を頭の後ろにぶら下げて裸同然の格好で逃げていくのは見苦しかった。

「命あっての物種(ものだね)ということね。でも、本当にそうだわ。私達も急がなければ」

 なかなか進まない列の前方を馬上で伸び上がって見ていると、顔見知りの家臣が一人、人混みをかき分けて走ってきた。

「餅分様からのご伝言です」

 使者は光姫と目が合うと近付いてきて頭を下げた。

「この先、道が大変混雑しているので、月下の町を通るのは避け、迂回したいとのことです」

「分かったわ。私達は中を通って町の様子を見ながら行くわ」

「町に入るのですか。我々も外を回った方がよいと思いますが」

 師隆が尋ねると、「町の人達がどうしているか心配なの」と光姫は答えた。 

「私はこの土地の領主よ。民を放ってはおけないわ。連れて逃げるのは無理だけれど、どんな様子か見ておきたいの」

「なるほど……」

 師隆は少し考えたが、頷いた。

「分かりました。私もこの土地の代官として彼等のことが気になります。おい、町の向こう側で合流しようと具総殿に伝えてくれ」

 はっ、と使者は頭を下げると、駆け戻っていった。

 町の中は一層混乱していた。大きな荷物を持った人々や荷車で通りはごった返し、悲鳴や怒号が飛び交う中に、親を捜す子供の声や赤ん坊の泣き声が交じっている。町に入った光姫達は、街道を北上しながら武者に命じて人々の通行を整理させたり、荷車に荷物を積むのを手伝わせたり、街道沿いの家々をのぞかせて困っている人がいないか調べさせたりした。

 やがて光姫達は月下城の前までやってきた。門は開けっ放しで人影は見えなかった。先行させていた者の報告では、中には誰もいないという。城に残っていた討伐軍の役人や武者は全員逃げてしまったらしい。

「光姫様!」

 大声で名を呼ばれて振り返ると、籠城の準備で話をした町の代表者達が二十人ほど集まっていた。

「光姫様もお逃げになるのですか」

 町の(おさ)がおずおずと尋ねてきた。

「ええ、私は殻相国を離れるわ。とりあえず都へ行って、今後のことを考えるつもりよ。でも、恵国軍との戦いはやめないわ」

 光姫が答えると、一人の男が怒鳴った。

「領主のくせにわしらを放って逃げるつもりか! 普段は地子銭(ちしせん)運上金(うんじょうきん)を巻き上げておいて、いざとなると見捨てて逃げるなんてひど過ぎねえか!」

 光姫は言い返そうとして口を閉ざし、頭を下げた。

「ごめんなさい。初めはこの城に籠もって戦おうと思っていたのだけれど、とても勝ち目がないことが分かったの。だからこの城は恵国軍に開け渡すわ」

 光姫の言葉に、町衆達はやはりというように暗い顔をした。

「でも、あなた達は大丈夫よ。多分ひどい目には遭わないから」

「なんでそんなことが分かるってんだ!」

 男が叫ぶと、そうだそうだと町民達が口々にわめき出したが、光姫は「待って」と制した。

「恵国軍にはお姉様がいるわ。お姉様があなた達を守ってくれるはずよ」

「華姫様のことか?」

 町民達は顔を見合わせ、町の長が代表して言った。

「光姫様、それは本当でございますか。わしらは恐ろしいのでございます。確かに、田美国では恵国兵による乱暴などはないと聞いておりますが、今は合戦の後、兵士達の気も立っておりましょう。それにこの町は討伐軍の本拠地でございました。とても見逃してはくれますまい。華姫様のお人柄はうかがっておりますが、隅々まで目が届くとは思えません」

 光姫は「お姉様なら大丈夫よ」と説得したが、町人達の不安げな表情は変わらなかった。

「お願いでございます。わしらを一緒に連れて行って下さいませんか。皆、もうこの町にはいられないと申しております。光姫様のお邪魔は致しませんので、どうか付いていくことをお許し下さい。この通りでございます」

 町の長が深々と頭を下げると、他の人々もそれにならった。光姫が家老を見ると、師隆は首を振った。

「おやめになった方がよろしいですな。足手まといになりますぞ」

 輝隆も同意見だった。

「我々だけでも逃げ切れるかどうか分からないのです。この上町衆まで引き連れていくとなれば、ますます足が遅くなりましょう。荷造りの時間もかかります。悔しいですが、この者達は置いていくしかないと思います」

 他の家臣達も二人に賛成のようだった。光姫は手綱を握ったまま馬上で少し考えたが、すぐに顔を上げた。

「分かったわ。あなた達も連れて行きましょう」

「姫様!」

 追堀親子は驚いた。

「この人達を見捨てるなんてできないわ。それでは領主失格よ。民を守るのが武家の仕事のはずよ」

「ですが!」

「それに、この町が恵国軍の占領から解放されて再び私達の手に戻った時、私はこの人達にどんな顔で会えばいいの。駄目だわ。連れて行って欲しいと望むのなら、そうするしかない」

 光姫はきっぱりと言い切ると、町民達に言った。

「すぐに準備して。みんなにも手伝わせるから」

「ありがとうございます!」

 町衆達はうれしそうな顔をして、一斉に頭を下げた。

「時間がないわ。急いで!」

 たちまち駆け散っていく町の人々を見送って師隆は複雑な顔をしたが、輝隆は苦笑しつつも主君に好意的なまなざしを向けた。

「光姫様らしいですね。ですが、おっしゃることはもっともだと思います。問題は今ではない。この先ずっとこの町の人々と付き合っていくのだと。それを考えれば正しい判断です。そう信じましょう」

「さすがは姫様です」

 置いていこうと皆が言う中、一人だけ不満そうだったお牧は喜んでいた。

「さあ、師隆さん、輝隆さん、町の人達の荷造りを手伝いましょう。急いでここを離れなければ。町にとどまる人達には、私からお姉様に手紙を書いて預けていくわ。お姉様のことだから心配ないとは思うけれど、町の人達を守ってくれるように頼んでみるわね」

「分かりました。町民達の手伝いは輝隆に任せましょう。私は城の中を調べ、残っている物資を運び出します。大勢の民が一緒となれば、食料などがたくさん必要になりますからね。それから、家臣にも家族を連れて行きたい者がいると思います。町を襲われた場合に備えて荷物を整理しておくようにと伝えてありますので、彼等の荷造りも手分けしてさせましょう」

 吼狼国では伝統的に甲冑を着て戦うのは武家の当主の役目で、兄弟や息子は武器や食料や替えの馬を運び傷病者を護送する小荷駄隊として参陣する。光姫は城を出た時に彼らを招集していたので三千人ほどが光姫軍に従っていたが、それでも、家には女子供や老人などが残っているはずだった。

「そうね。家族を残していくのは心配でしょう。一緒に連れて行くしかないわ。では、みんな、すぐに動いて!」

 光姫が命じると、家臣達は一斉に「ははっ!」と返事をして、町の中へ散らばっていった。

「間に合うといいのだけれど」

「きっと大丈夫ですよ」

 お牧が自信たっぷりに答えたので光姫は思わず微笑み、恵国軍がやってくるだろう南の方へ目をやった。


 結局、光姫達が町を離れたのは二刻余りも経ってからだった。光姫が町の者達を連れて逃げるという噂はたちまち広まって大勢が同行を申し出てきたため、準備に時間がかかったのだ。光姫達の行列は、町衆や家臣達の家族だけでなく、自分の隊とはぐれたり置いてきぼりにされたりしていた他家の負傷者まで引き連れた長いものになり、戦闘力を持たない者が三万人を超えてしまった。

 小荷駄隊と半分の五百を先行させた具総と町の出口で合流した光姫は、合計三千五百の兵を率いて全体の最後尾に付いた。いざとなったら自分達が戦っている間に民を逃がすつもりだった。その気持ちが伝わったのか、追堀親子や具総は緊張と心配の混じり合った表情で後方を何度も振り返っていた。光姫は自分がこの状況を作ったことを分かっていたので、早く逃げたいと焦る気持ちを抑えて、大将らしく堂々と振る舞うようにしていた。

 そうして警戒しながら少しずつ北上していく行列の後方に、黒い軍勢の姿が見え始めたのは、日が大きく傾いて西側の山並に近付いた頃だった。

「これは追い付かれますね」

 輝隆が言った。表情はさすがに強張っていたが、声は落ち着いていた。覚悟していたのだろう。

「どのくらいの数かしら」

 光姫が尋ねると、師隆が答えた。

「はっきりとは分かりませんが、あの砂煙の規模からすると、我々を上回っているのは確実ですね」

「恐らく騎馬の者が多いのでございます」

 具総が背後を振り返りながら言った。

「追撃用に騎馬部隊を送り出したのでございましょう」

 従寿が納得した顔をした。

「なるほど、それはいい考えですね。まだ殻相国の中でのろのろしている者達を蹴散らすのに騎馬隊はうってつけです。日暮れまでに追い付かなくては逃げられてしまいますし」

 感心した風に言ってから、従寿は周囲の人々ににらまれていることに気が付き、首をすくめた。師隆が苦笑して言った。

「確かに従寿の言う通りです。恵国軍は地理に(うと)く、民の支持も得ていません。夜の行動は危険です」

 輝隆も頷いた。

「もうすぐ後明国(あとあけのくに)に入ります。屈谷(かがみや)家と耳振(みみふり)家も参陣していましたが、後軍でしたので素早く逃げられたでしょう。恐らく我々より先行していると思われます。それに、武者の半分は国に残していますから、警戒と出迎えのために国境付近に布陣しているはずです。となれば、追撃もそこまでですね。禎傑という敵の司令官がまともな頭を持った人物なら、後明国(あとあけのくに)を攻める前に殻相国を安定させ、手の国西部の三国を落とすでしょうから」

「ということは、ここを乗り切れば逃げ切れるのね」

「乗り切れれば、ですがね」

 師隆が答えた。

「これはどこか防御に有利な地点で迎え撃つほかありませんな。畜生! 国境まであと少しだっていうのに!」

 初老の家老はらしくない悪態(あくたい)を吐いたが、光姫も気分は同じだった。

「確か、この先に道幅が急に狭くなる場所があったわね。そこならどうかしら」

「ええ、確かにもう少し行くとまた東側が林になるので西の丘に挟まれて平地が狭くなります。その入口なら、少数で守るにはよさそうですね」

「そうでございますな」

 具総や輝隆も賛成した。

「では、私達はそこで敵を迎え撃ちます。民と小荷駄隊にはその間にできるだけ先に進んでもらいましょう」

 光姫は命じて、わざと明るく言った。

「絶対に守り切るわよ。いいわね!」

「ははっ!」

 家老達の表情からは、この少数ではとてもかなわないだろうと思っていることが読み取れたが、光姫は本気で勝つつもりだった。

 華姉様の前に立ち塞がろうとする私がこの程度の敵に勝てなくてどうするの。こんなところで死ぬわけにはいかないわ。

 光姫は自分に言い聞かせて気を引き締めた。

 作戦を打ち合わせると、光姫は部隊を三つに分けた。一隊を師隆が、別の一隊を具総が、もう一隊を輝隆と光姫自身が率いることにし、配置に付かせると、宿所を出る時に持たせた握り飯を武者達に食べさせた。

「来ました!」

 物見の武者が馬で駆け戻ってきて報告した。それを聞くまでもなく、約六千の騎馬ばかりの部隊が(ひづめ)の音を轟かせて近付いてくるのが見えている。敵軍は既に戦闘隊形をとっていた。

「弓隊、構え!」

 光姫は指揮する一千の武者に命じた。自身は目立つようにわざと騎乗して弓を持ち、街道の上に出た。

 光姫の赤と白の鎧は細身で体に密着し、腰がやや引っ込んだ女性らしい形状で、見た目は美しい。だが、軽さを重視して(かし)の木でできているので、鉄砲の弾が直撃したら貫通する。やはり木製の兜と共に総馬揃え用に父が作ってくれたもので、実戦向きではないのだ。

 月下城に入ってすぐに、後から来させていた荷物の中から取り出して、町の職人に頼んで内側に鉄の板と厚手の布を張ってもらったが、気休め程度にしかならないと言われている。しかし、光姫の主要武器は弓なので体の自由がきかなくては戦えないし、体力的にも重い鎧は無理だった。

 だから、銃弾に身をさらすのはかなり危険なのだが、当主として、ほとんどが初陣(ういじん)の武者達を鼓舞(こぶ)するために、敢えて前に出たのだ。まだ少女の光姫がそこまですれば、武者達も腹をくくらざるを得ないだろう。その覚悟が分かるのか、総馬揃えで都の人々の話題をさらった光姫の凛々しい甲冑姿を仰ぎ見る武者達の表情には、緊張と同時に、無茶と紙一重の勇気を示したこの少女を守らなければという決意が現れていた。

 恵国兵の先頭を走る大将らしき人物が剣を振り上げてこちらを差し、何かを叫んだ。吼えるような喚声(かんせい)が上がり、恵国兵達が馬上で槍を構えた。狐ヶ原の勝利で強気になっているらしく、突撃して一気に蹴散らすつもりのようだった。

 それは好都合と、光姫は弓に矢をつがえ、敵の先頭の兵士にねらいを付けた。

「放て!」

 光姫が自分の矢を放つと、千の弓が一斉に唸り、無数の矢が空気を切り裂いて飛んでいった。たちまち数十騎が悲鳴を上げて体勢を崩し、横倒しなって更に後続の数騎を巻き込んだが、恵国兵の勢いは止まらなかった。

「第二射用意!」

 その言葉を言い終わらない内に敵兵が躍り込んできた。輝隆の合図で弓隊の前にいた五百の槍武者が立ち上がり、石突きを地面に刺して槍を前方に向ける。さすがに槍の列に突っ込む気はないのか騎馬隊の足がゆるみ、槍衾を左右から回り込んで後ろの弓隊を蹂躙(じゅうりん)しようと道の端によった。

「今だ!」

 輝隆が叫ぶと、わあっと大きな鬨の声を上げて、丘側と海側の林に隠れていた残り二千の槍武者が一斉に騎馬隊に突撃した。予期せぬ横からの攻撃に恵国兵は驚き、慌てて避けようと馬首を返すところを次々に突き刺されて落馬していく。

 師隆の声が響いた。

「慌てるな。確実に馬から落とせ! 逃げる敵には構うな! 時間を稼ぐことが目的だ。夜になったら敵は引いていくはずだ!」

 具総が剣をかざして落ち着いた声で指示している。

「ばらばらになってはならぬ。組ごとにまとまって互いを守るのだ。あまり近付かせると槍で突かれるぞ」

「今よ。弓隊、斉射!」

 敵の隊列が乱れたところへ、すかさず光姫の命が飛び、千本の矢が放たれた。輝隆率いる槍兵も攻撃に加わる。恵国騎兵はばらばらと馬から落ち、指揮官が叫ぶと多数の死体と負傷者を残して引き上げていった。

「これで少しは時間が稼げるかしら」

「だとよいのですが」

 答えた輝隆は、すぐに武者達に命じて再度の攻撃に備えさせた。

 恵国軍は一旦は下がったものの諦めた様子はなく、隊列を組み直して二度目の攻撃の準備をしている。

 光姫は西の空を見上げて溜め息を吐いた。冬なら既に暗くなっている時間だが、紫陽花(あじさい)月は昼が長い。日が暮れるまでまだしばらくかかりそうだった。


「姫様、右です!」

 お牧が叫んだ。

「はいっ!」

 素早く矢をつがえながら振り向くと、こちらへ鉄砲を向けようとしている騎馬の恵国兵と目が合った。

 その瞬間、矢を放つ。肩を射られた相手は体勢を崩し、空へ向けて発砲すると、もがくような動作をして馬から落ちた。武器を落とした兵士は左肩を押さえてよろよろと立ち上がり、自陣へ戻っていく。主を失った馬は銀炎丸が吠えると怯えて駆け去った。他の敵兵も引いていった。

「ふう、これで十騎目……」

 鉢巻きをした額を思わずぬぐった光姫は、西の丘に沈みかかった夕日を仰いだ。

「あと一刻……」

 最初の迎撃でかなりの損害を与えたにもかかわらず、恵国兵の士気は高かった。撃退されるたびに体勢を立て直して攻撃を繰り返してくる。特に、馬上で鉄砲を撃つ兵士には悩まされた。初撃を槍衾に阻まれたことに教訓を得たのか槍による突撃はしてこなくなったかわりに、弾を込めた鉄砲を構えながら馬で近付いてきて、発砲するや逃げていくのだ。

 光姫達も弓で応戦するがなかなか当たらない。逆に、街道上に固まっている殻相衆は次々に被弾して倒れていく。ある限りの盾を並べて防いでいるが、全員を守るのは無理だった。周囲の林に隠れてしまえば鉄砲の弾も騎馬兵も防ぎやすいのだが、ここを突破されれば先にいるのは非武装の民だ。華姫は民への狼藉を禁じているとはいえ、恵国軍の支配下に入ることを拒否して逃亡する者達にまでそれが及ぶかは分からないので、街道を空け渡すわけにはいかなかった。

「このままではまずいわ」

 光姫は焦っていた。周りでも傷付く者が増えている。死者はまだ少ないのが救いだったが、目に見えて武者達は元気がなくなってきていた。このままでは逃げ出す者が出かねず、再度槍騎兵(そうきへい)に突っ込まれたら耐えられないに違いない。恵国軍もそれを分かっているのか、総攻撃に向けた隊列を組んでいるようだった。空は既に赤いが、暮れ切るまでまだ少しかかるだろう。

「輝隆さん」

 光姫は近くにいた従兄弟を呼んだ。

 はい、と答えて輝隆は走り寄ってきた。

「全員で突撃しましょう」

「駄目です!」

 輝隆は慌てて止めようとした。

「無謀過ぎます。失敗して反撃されたら我が軍は崩壊しますよ。それに、もし上手くいってもかなりの損害が出るでしょう。どうかお考え直し下さい」

「そうかも知れないわね」

 光姫は硬い顔で頷いた。

「でも、このまま守っていても負けは確実。きっと突破されてしまうわ。ここはこちらから敵にしかけて混戦に持ち込むのよ。そうすれば鉄砲は使えない。敵の指揮官や高位の人物を見付けて取り囲み、数人討ち取れば、敵は引いていくでしょう。もしくは、敵が追撃を諦めるくらいの損害を与えるの。騎馬の敵相手に無茶なのは承知だけれど、それしか方法はないわ。最後の力を振り絞って敵を撃退しましょう」

「おっしゃることは分かりますが、武者達は多くが傷付き、疲労もかなりのものです。鎧姿で重い荷を背負って長い距離を歩いた上に、この戦闘だったのですよ。突撃すると言っても体が動かないでしょう」

「私が先頭に立つわ。そうすれば、家臣達は付いてくるしかない」

「光姫様!」

 あくまで反対しようとする輝隆を光姫はきっとしたまなざしで黙らせた。

「これは命令よ。すぐに準備なさい」

「……かしこまりました」

 輝隆はまだ何か言いたげな様子だったが、覚悟を決めた顔で頷いた。

「では、私もお供します」

「頼むわ」

「はい」

 輝隆はすぐに歩いていって武者頭達に命令を出した。それが伝わったのだろう、武者達の目が皆問うように光姫を見ていた。師隆や具総も強張った顔を光姫に向けていた。

「準備ができました」

 輝隆が戻ってきた。武者達は皆立ち上がり、隊列を組んで槍先をそろえている。光姫は従兄に頷いて愛馬にまたがった。

「光姫様は俺がお守りします」

 同じく騎乗した従寿が槍を構えて右隣に付いた。

「左は任せて下さい」

 弓を持ったお牧も馬を寄せてきた。

「私は前だけを見ていればいいのね。頼もしいわ」

 二人は微笑んで頷いた。光姫も笑い返して前を向いた。

「さあ、行くわよ!」

 光姫は右手を高く上げた。恵国軍はこちらの動きに気付いたのか、攻撃体勢のまま動かない。迎え撃って一気に叩くつもりなのだろう。

「突撃!」

 光姫は手を振り下ろし、銅疾風の腹を強く蹴った。主人のいつになく力の入った一撃を受けた馬は、大きくいなないて猛然と走り出した。

「光姫様に続け!」

 輝隆が叫んで馬を走らせる。

 おおう、と大きな雄叫びが上がって、まず騎馬の者が、続いて槍を持った者達が駆け出した。

「行けえ!」

 従寿が絶叫するのを後ろに聞きながら、光姫は全軍の先頭に立って馬を走らせた。

 前方で恵国軍の将軍が何かを大声で叫んでいる。すると、海沿いの野原で隊列を組んでいた馬上の恵国兵達は一斉に構えていた槍を降ろした。そして、並んだ馬の間から無数の鉄砲兵が現れた。突撃を見越して、兵の多くを馬から降ろしていたのだ。

 しまった。これではねらい撃ちされるわ!

 光姫は唇を噛んだ。だが、ここで引き返しても背後を襲われる。こうなったら突っ込むしかなかった。

 周りを見ると、他の騎馬武者達も速度を落としていない。同じことを思ったに違いなかった。

 運を天に任せるだけだわ!

 薄桃色の上衣と袴と鉢巻きに赤と白の交じった胴鎧を着けた光姫が、長い髪をたなびかせて先頭を駆けてくるのを見て、恵国兵達が驚いている。と、十人余りが光姫に銃口を向けた。

 撃たれる!

 思わず目をつぶった、その時だった。

「光姫殿、止まりなされ!」

 聞き覚えのあるしわがれた叫び声がした。光姫ははっとして、思わず手綱を強く引いた。

 途端に、森が鳴った。

 次の瞬間目の前に降ってきたのは、数百本の矢の雨だった。見る間に恵国兵が倒れていく。

「槍隊、突撃!」

 今度は若い声が響き、山を揺るがすような(とき)の声が答えたかと思うと、地響きがして、千本余りの槍が右手の森から飛び出してきた。槍の林はそのまま足並みをそろえて恵国軍の左脇腹へ突き刺さった。矢を浴びて隊列を乱していた恵国軍は、側面からの奇襲を受けて大混乱に陥った。

「これは一体……」

 驚いて辺りを見回していると後ろから声がかかった。

「光姫殿!」

 振り向くと、馬に乗った豊梨実護が駆けてくる。実護の指が示す先には馬上で黒漆塗りの軍配を振るって槍隊を指揮する恒誠がおり、そのそばに騎馬の実鏡と安漣がいた。

「おじいさま!」

 光姫が驚くと、五百騎ほどを引き連れた実護は光姫の方へ来ず、恵国軍へ向かって駆けながら叫んだ。

「今だ! 突撃しなされ!」

「はいっ!」

 大きく頷いた光姫は首を返して叫んだ。

「全軍、突撃!」

 言うなり、馬を一気に走らせた。

「今こそ好機! 続け!」

 輝隆の叫びに数千の声が勇ましく応え、光姫達は一斉に恵国軍の隊列へ突っ込んでいった。

 豊梨勢と織藤勢合わせて一千に側面を突かれて動揺していた恵国軍は、実護の騎馬隊五百と光姫達の突撃で完全に浮き足立った。多くの恵国兵が逃げ出し始め、隊長級の者達が叱咤(しった)して支えようとしているが無駄のようだった。大将らしい将軍はまだ諦めていないらしく光姫の方を指差して何か言っているが、周りにいる者達は首を振っている。二千もの新手がいきなり現れたのだから当然だった。

「やりましたね、光姫様」

 真っ先に敵中に馬を乗り入れ、矢を連射して恵国兵を追い立てていた光姫は、弓を降ろして、近付いてきた従兄を振り向いた。

「敵は逃げていきます」

「どうやらそうみたいね」

 光姫は疲れた顔で頷いた。昼からの行軍と戦闘はさすがに(こた)えたえたのだ。

「大丈夫ですか」

 輝隆は心配そうな顔をした。

「問題ないわ。勝ったのだもの」

 光姫は笑ってみせた。

「それもこれも、豊梨のおじいさまと恒誠さん達のおかげだね」

 そこへ、その四人がやってきた。光姫は馬を下り、従寿に手綱を預けると、丁寧にお辞儀をして迎えた。輝隆とお牧も同じく下馬して頭を下げた。四人も馬を家臣に預けると歩み寄ってきた。

「おじいさま、実鏡殿、恒誠様、安漣様、本当に助かりました。心からお礼申し上げます」

 光姫が深々と頭を下げると、実護は破顔した。

「間に合ってよかった。光姫殿がご無事で何よりだ」

 安漣も笑顔で頷いた。

「我々はこの丘の向こうの裏街道を逃げていたのですが、本街道を通った恵国軍に先回りされては困りますので、物見をこちら側にも出していたのですよ。全て恒誠様のお考えなのですがね」

「そうしたら、ここで光姫殿が戦闘中だと知らせてきての。苦戦しておると聞いて実鏡が助けに行こうと言い出したのだ。恒誠殿も、もうじき日暮れだから一撃して追い払えばすむだろうと言うし、わしにも異存はなかったのでな」

「僕達が助けに向かっていることをお知らせしようと思ったのですが、恒誠殿に止められたのです」

 実鏡がはとこへ目を向けると、戦場を見回していた恒誠は顔を戻して説明した。

「丘の上から眺めたところ、光姫殿は突撃の準備をしていて、恵国軍はそれを迎え撃つつもりだと分かった。ならば、光姫殿にはそれを実行してもらい、敵がそちらに気をとられている内に密かに接近して奇襲するのが得策と判断したまでだ。光姫殿に援軍が向かうと知らせれば、自然と様子に表れて敵に伝わってしまうからな」

「顔に出るということですか」

 光姫がうなだれると、安漣は笑って否定した。

「いえいえ、士気とはそういうものだということです。命がかかっている戦場では、敵も味方も相手の本気具合には敏感になりますので。ほら、言うではありませんか。敵を(あざむ)くにはまず味方から、と。敵は大将の光姫様に常に注目していましたしね」

「はあ……」

 恒誠さんのご友人らしいというか何というか、安漣さんも相当のものだわと光姫は目をぱちくりさせたが、口には出さなかった。

「とにかく、助けにきて下さって本当にありがとうございました。皆様は命の恩人です。御恩は一生忘れません」

 光姫はもう一度礼を述べると、戦場を眺めて言った。

「それでは、私は追撃に加わります。もう少し遠くまで追い払えば、安心して逃げられますわ」

「そうだな。わしらも参ろう」

「もう一働きするか」

 四人はそれぞれの馬の方へ戻り、彼等の背中へ頭を下げた光姫も銅疾風に歩み寄った。

 従寿に手を伸ばし、手綱を受け取ろうとした瞬間、実護が叫んだ。

「光姫殿、危ない!」

「えっ!」

 振り返った光姫はいきなり突き飛ばされた。辺りに銃声が響くと同時に一瞬体が宙に浮き、耳が風を切る音がしたかと思うと、激しく地面に打ち付けられた。光姫は地面をごろごろと転がり、長い髪が顔にからまって、頬を砂が数回撫でた。

 悲鳴を上げて倒れ伏した光姫は、一瞬の混乱の後、はっとして起き上がり、目を開いて愕然とした。

「おじいさま!」

 つい先程まで光姫がいた場所で、実護が銅疾風を背に左胸を赤く染めて立っていた。痛みに顔をゆがめて鎧の上から心臓を押さえた老将は、傷口からあふれ出た大量の血がべっとりと付いた手を見て驚きの表情を浮かべると、数歩よろめいてがっくりと膝を付き、そのまま前のめりに地面に倒れた。

「実護公が! 何ということだ!」

 銃声に振り返った安漣が大声を上げて老将へ走り寄った。輝隆が素早く実護の前に立って背にかばいながら槍を構え、険しい表情で辺りを見回した。

「誰か医者を呼べ! ご老公が負傷された!」

 恒誠がいつもの余裕をかなぐり捨てて後方へ叫んだ。

「貴様!」

 騎乗して敵を探していた従寿が馬を躍らせた。近くの大岩の陰から一人の恵国兵が現れ、ひいっ、と叫んで走って逃げていく。従寿はその兵士に急迫すると、馬上で刀を抜いて構え、追い抜きざまに首を()ねた。ぎゃあ、という悲鳴と共に血しぶきをまき散らしながら高く飛んでいった兵士の頭部は、ゆるい曲線を描いて地面に落下し、数度回転してようやく止まった。目を()いて叫んだ表情のまま凍り付いた兵士の首のすぐそばでは、彼が逃げる邪魔だと放り投げた鉄砲が、まだ銃口から白い煙を吐き出していた。

「おじいさま、しっかりなさって下さい!」

 実鏡の叫び声に、硬直していた光姫は我に返り、あちらこちらが痛む体を無理に起こして、怪我をした老将に駆け寄った。

 光姫は安漣に抱き起こされて腕の中でぐったりしている実護を見て、流れた血の多さに悲鳴を上げそうになり、若い家老の表情に慌てて呑み込んだ。

「おじいさま! おじいさま! お気を確かに!」

 実鏡が呼びかけるが、苦しそうに目をつぶっている老将は全く動かなかった。

「まさか……」

 光姫は体が震えるほどの恐怖と不安に襲われた。生気がない実護の頬へ恐る恐る触れようとしたが、すぐに手を引っ込めた。老将が意識を取り戻したのだ。

「光姫殿はご無事か」

 うっすらと目を開け、老将は尋ねた。

「は、はい、私は無事です。ですが、おじいさまが……」

 後半は言葉にならなかった。光姫は老将を見つめてぼろぼろと涙をこぼした。

 孫娘の飾りや誤魔化しのない素直な泣き顔にまぶしそうに目を細めた老将は、力なく笑った。

「わしは大丈夫だ。それより、戦はどうなった」

「我々の勝ちです。敵は撤退していきます」

 安漣が答えた。振り返ると、先程光姫の方を指差して叫んでいた敵将は、実護を傷付けたことに満足したのか、腕を振って部隊を下がらせていた。

「そうか、ならばよかった」

 実護は安堵(あんど)した顔になった。

「本当にありがとうございました。でも、おじいさまを負傷させるなんて……」

 光姫は涙でぐちょぐちょの顔を伏せて繰り返し謝った。

「申し訳ありません。本当に申し訳ありません……」

 実護が何か言おうとした時、立って後方を見ていた恒誠が言った。

「医者が来たぞ」

 輝隆が両手を挙げて「ここだ!」と叫ぶと、頭を剃り上げた医師が担架を持った数人の武者と一緒に走ってきた。その指示で、すぐに安漣、輝隆、従寿が手伝って鎧を脱がせた。走り寄って光姫を片手で突き飛ばした瞬間を撃たれたらしく、前から入った弾丸は左胸を貫通して鎧の背部でつぶれていた。

 着物を開いて傷口を目にした医者は眉をひそめ、黙って首を振った。

「そんな……、まさか……」

 光姫が恐る恐る尋ねると、安漣が顔を曇らせた。実鏡は涙を浮かべ、恒誠も頭を掻いて横を向いた。輝隆と従寿は暗い顔になり、お牧は目を伏せてそっと指でぬぐった。

「私のせいで、私のせいでおじいさまが……!」

 光姫は両手で顔を覆って泣き出した。自責の念が胸を締め付け、涙が止まらなかった。自己嫌悪のために吐き気すら覚えた。

 泣きながら荒れ狂う怒りと悲しみの衝動に必死で耐えている光姫に向かって、実護が話しかけた。

「よいのだよ、光姫殿」

 光姫が顔を上げると、実護は死を悟った者のほのかな笑みを浮かべていた。赤い夕日の下でもその顔は真っ白だった。

「わしはもう六十五、死んでもおかしくない年だ。老人は若者を育て支えるのが務めだ。まだ若い光姫殿を助けて死ねるのなら本望だ」

 光姫は何も答えられず、うつむくしかなかった。

「武公様にお仕えして戦場を駆け巡り、身に余る大きな領地を頂いて贅沢な暮らしをさせてもらった。もう十分だ。実鏡や光姫殿、恒誠殿のようなよい子孫にも恵まれたしな」

 実鏡は目を真っ赤にして頷き、恒誠は老公に黙って頭を下げた。

「だが、心残りが二つある」

「えっ……?」

 光姫ははっとして老将を見つめた。

「一つはな、実鏡と豊梨家のことだ」

 従弟へ目を向けた光姫は、泣き出しそうなのを無理にこらえている少年の姿に胸を締め付けられた。

「実鏡は(さと)い。きっとよい領主になるだろう。だが、まだ若い。誰か、支えになる者が必要だ」

「おじいさま、僕は一人でも大丈夫です」

 実鏡は答えたが、これからのことを考えると本当は不安なのだろう。膝の上で握りしめた(こぶし)がかすかに震えていた。

「誰かに実鏡の後見を頼みたい。さもなくば安心できぬ」

 実護は孫の顔をいとおしげに眺めると、苦しそうに首を動かして光姫に視線を移した。

「そして、もう一つはな、光姫殿、そなたと華姫殿のことだ」

「私とお姉様のこと……?」

 光姫は目を見開いた。

「そうだ。時繁殿が亡くなったと聞いた時、きっと最後まで娘達のことが気がかりだったろうとわしは思った。自分の宝だと常々おっしゃっておられたからな。そこでわしは、お父君にかわってそなた達を守ってやろうと心に決めた。光姫殿は素直でやさしい。きっと立派な母親になるだろう。だが、そなたもまだ若い。しばらくは助けが必要に違いない。華姫殿は以前都で会ったが、実にしっかりした賢いおなごだった。あの娘が敵国に味方するなどよほどのことに違いない。わしはそなた達二人の行く末を見守り、場合によっては自分の武功を引き換えにしてでも命を救わねばならんと思っておった」

「おじいさま……」

 光姫は目から新たな涙を流した。

「だが、それはもはやかなわなくなった。だから、その役目を誰かに引き継いでもらいたいのだ。これから華姫殿と戦っていく光姫殿を守り助ける者を、死ぬ前に見付けておきたい」

「そんな! 私は大丈夫です! やすらかに……」

 言いかけた光姫は、口にしようとした言葉の意味に気が付いて、唇を震わせた。

「俺に任せてくれ」

 老将の言葉に答えたのは恒誠だった。

「俺が実鏡殿と光姫殿をお守りする」

「恒誠様……」

 驚く光姫に、若い武将は真摯(しんし)なまなざしを向けた。

「実は安漣とも相談していたのだ。豊梨家の領国の雲居国(くもいのくに)は玉都の一つ手前、必ず恵国軍に襲われる。しかし、十三万貫二千六百人と武者が少なく、恵国の大軍にはとても勝ち目がない。我々は味方するつもりだが、それでも到底数が足りない。だが、光姫殿が力を貸してくれるなら、よい戦ができるかも知れない」

 光姫は恒誠の顔をまじまじと見つめた。

「聞けば、光姫殿は逃げる場所が決まっていないという。取り敢えず玉都の国母様を頼るということだったが、都に行っても恵国軍に通じているという疑いが晴れるとは思えない。むしろ、華姫殿の活躍の噂が広まれば、一層立場が悪くなるだろう。そうなれば、遠く天糸国(あまいとのくに)に引き上げるしかない。華姫殿を止めるという願いもかなわなくなる。だが、雲居国へ来てくれれば恵国軍と戦い続けることができるし、我々も助かる。二人の後見役は俺と安漣、そして家老達で務めよう。実は、この後それを二人に頼もうと思っていたのだ。どうだろうか」

 実鏡は恒誠の言葉にびっくりしつつも真剣な顔で聞いていたが、すぐに大きく頷き、家老達とちらりと視線を合わせると、光姫に言った。

「僕からもお願いします。影岡(かげおか)城へ来ませんか。僕は雲居国で恵国軍と戦うつもりです。領地と民を守りたいんです。都へ向かってくる敵を撃退するのが豊梨家の役目でもあります。でも、僕は未熟で、しかもおじいさまの助け無しで戦わなくてはならなくなりました。恒誠殿はもちろん頼りにしていますが、他にも協力してくれる人が必要です。光姫様なら大歓迎です。是非、僕達に力を貸して下さい」

 いつの間にか周りに集まっていた追堀親子や具総達を見上げると、皆光姫に任せるという顔だった。

 光姫は周囲の家臣や武者達をぐるりと見回し、息を呑んで答えを待っている実鏡と恒誠と安漣の顔を順番に眺め、最後に老将へ目を戻した。実護の穏やかな死相を光姫はしばらく見つめていたが、決心すると二人の若い武将へ体を向けた。

「分かりました。お世話になりましょう」

 光姫は精一杯の覚悟を言葉に籠めた。

「私も共に戦います」

 恒誠は頬をゆるめて頷いた。

「ありがたい。光姫殿に来てもらえれば心強い」

「心から歓迎します」

 実鏡も涙を浮かべたまま笑顔になった。

「よろしくお願いします」

 光姫は深々と頭を下げた。

「これで思い残すことはなくなった」

 既に力の抜けた(うつ)ろな表情になっていた実護が、痛むのかやや苦しげに眉をひそめながら頬にかすかな笑みを浮かべた。

「時繁殿には娘達を最後まで見守ってやれなかったことを詫びねばならぬが、わしがこの戦に出てきたことは無駄にならなかったようだ。貞備(さだはる)

「はっ、ここに」

 奥鹿(おくじか)貞備(さだはる)という豊梨家の筆頭家老が実護の横に片膝を突いた。

「家臣達にこの三人を守り助けるように伝えてくれ。光姫殿を恨んではならぬとな。それがわしの遺言だ」

「ははっ」

 五十がらみの家老はさすがに目を充血させていたが、涙は見せずに頷いた。

「光姫殿」

「はい」

 光姫は両手で実護の手を包み込んだ。もう景色が(うつ)っていないのか、老将の目は空を真っ直ぐに見つめていた。

「華姫殿を止められる者はそなたしかおらん。娘達が戦うことを時繁殿は悲しむかも知れんが、これはそなたの役目だ。姉上を救ってあげなされ」

「はい。必ず」

 光姫は涙をこぼしながら頷いた。

「実鏡」

「はい」

 少年は両手を上へ重ねた。

「お前の肩に多くの家臣と領民達の命がかかっておる。大変だろうが、しっかりな」

「はい。心得ています」

 実鏡は深く頷いた。

「そして、恒誠殿」

「ここにおります」

 恒誠も両手を重ねた。

「実鏡と光姫殿を頼む」

「お任せ下さい」

 恒誠は力を籠めて答えた。

「そして、安漣殿、貞備達、皆へお願いする。三人に協力して、この国を、吼狼国を守ってくれ。これからは彼等若い者、戦狼の世を知らぬ者達の時代だ。わしらのような老人はそろそろ消えるのが定めなのだ。いつかそなた達が年老いてあの世に来ることになったら、この国がどのように変わったか、どれほど発展したかを聞かせて欲しい。その日を楽しみに待っておる」

「おじいさま……」

 光姫はこらえ切れずにうつむいた。実鏡は嗚咽(おえつ)を漏らさぬように口を固く閉じて、何度も何度も首を縦に振った。

 と、老将の手が急に重くなった。はっとして顔を上げると、実護は全てをやりつくしたような晴れやかな笑みを浮かべて目を閉じていた。

 光姫が泣き崩れると、諸将は一斉に兜を外して(こうべ)を垂れた。実鏡もとうとう涙をこぼした。そばに控えていた銀炎丸が慰めるように主人の頬に鼻先を寄せると、光姫はその首に抱き付いて泣きじゃくった。

 やがて、目をぬぐったお牧と同じく赤い目の従寿に促されて光姫は立ち上がった。実護の遺体は担架に載せられて鄭重に運ばれていった。

「さあ、我々も行きましょう。もうすぐ日が暮れます。急いで後明国(あとあけのくに)へ入らなければなりません」

 輝隆に言われて、光姫は家老達に負傷者を手当てし、隊列を組み直して行軍を再開するように命じた。輝隆は光姫が心配なのか、何度も振り返りながら先に軍勢の方へ歩いていった。

 その日の深夜に、光姫達は国境を越えた。たいまつを手に屈谷(かがみや)領内へ入った一行は、街道沿いにある大きな寺院に宿を取り、ようやく足を休めることができた。

 先行した者達が炊き出しを始めていたので、手早く食事を済ませると、武者達はばたばたと倒れるように眠りに就いた。光姫も寺院の一室でお牧と横になったが、自責の念のためか、悪夢にうなされた。

 翌朝、寺院で実護と梅枝家の戦死者達の葬儀と、狐ヶ原の合戦で死んだ全ての者達の供養が行われた。人々が死者達の眠りの安らかなることを祈る中、実鏡と共に喪主を務めた光姫はまたも大泣きし、前もってお牧に持たせてもらった手ぬぐいをびしょびしょにしてしまった。

 実護の火葬が終わると、光姫と実鏡は家臣達の新しい墓に花を供えて手を合わせ、主君の骨を持った貞備と共に出発した。今度は光姫と並んで実鏡と恒誠も隊列の先頭に立った。

 私は戦い続けなければならないわ。

 黙々と歩く総勢四万以上の行列と、その背後で小さくなっていく古い寺院を光姫は愛馬の上から振り返った。

 お姉様のためにも、おじいさまのためにも、私は恵国軍と戦って勝たなくてはいけないのだわ。

 光姫は今ではそれが自分の生まれ付いての定めのような気がしていた。実護は命をもってそれを教えてくれたのだ。

「どうかしましたか」

 隣を進む実鏡が声をかけてきた。その向こう側では恒誠が馬上で瓢箪から大社酒(たいしゃしゅ)を飲んでいる。

「実鏡さん、恒誠さん。私はこれから決して諦めず、最後まで戦い抜こうと思います。お二人も私と一緒に戦ってくれませんか」

 光姫が手を差し出すと、実鏡は一瞬驚いたが微笑んで頷き、(くら)の上で腕を伸ばしてその手を固く握った。その背後で恒誠が瓢箪を持ち上げてみせた。

「こちらこそよろしくお願いします。光姫様のお力を当てにしていますよ」

「任せて下さい!」

 光姫も微笑み、力を入れて握り返した。

 今日は紫陽花月(あじさいづき)に入ってまだ二日目、恵国軍の奇襲から一月(ひとつき)しか()っていない。光姫は昨日に続いて透き通るほど晴れ上がった青い空を見上げて、今年は長い一年になりそうね、と思ったのだった。


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