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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第四章) 六

   六


「いよいよ今日だわ」

 紫陽花月(あじさいづき)一日の早朝、外の物音で目覚めた光姫は布団から飛び起きた。同室のお牧と一緒に夜具を片付け、身なりを整えて外に出ると、すでに朝食の支度が始まっていた。

 光姫軍は月下の町の南西にある寺院とその裏手の古城跡を陣所にしている。挨拶してくる武者達に答えながら境内を歩いていくと、追堀輝隆と深松(みまつ)従寿(つぐとし)が二人を見付けて近付いてきた。

「おはようございます、光姫様」

「おはよう。朝餉(あさげ)の用意はできているかしら」

「もうじきできあがります」

 光姫は頷いた。

「急がせて。できるだけ早くここを出たいの」

 輝隆は首を傾げた。

「どこへおいでになるのですか。今日は合戦の当日です。どこへもいらっしゃらない方がよろしいと思いますが」

「もちろん、狐ヶ原に行くのよ。合戦の様子を見てくるわ」

 光姫の返事に輝隆は驚いた。

「お待ち下さい。我々はここで待機せよと命じられているはずです」

 輝隆の言う通り、光姫軍には陣所から出ることまかりならぬという命令が来ていた。結局直照の疑いは晴れず、合戦場にすら行かせてもらえなかったのだ。

「だって、気になるもの」

 光姫は合戦を自分の目で見たかった。

「気付かれないようにこっそりのぞくだけよ。結果をただじっと待っているなんて耐えられないわ」

「命令を破って勝手に待機場所を抜け出すなんて、知られたら厳罰ものですよ。それに、大将が軍勢のそばを離れるのは感心できません」

 輝隆は慌てて止めようとし、従寿も同意見らしかったが、光姫はやめるつもりはなかった。

「きっと華姉様は戦場に出てくるわ。私も自分の運命が決まる場にいたいの。それに、負けたらすぐに逃げないといけないのだから、誰かが合戦を見ている必要があるわ」

「物見を出せばよいでしょう」

「自分の目で見た方が確実よ。あなた達も一緒に来るのよ。師隆さんにも声をかけておいてね」

 輝隆はなおも反対し、話を聞いた師隆や具総もやってきて説得を試みたが、光姫の決心を覆すことはできなかった。

 食事を終えた光姫は、銀炎丸に(えさ)の牛肉をやりつつ昨日読んだ手紙を思い出した。あの日以来、豊梨家から軍議の内容を知らせる手紙が毎日届き、一昨日はいよいよ出撃が決まったこと、一番槍をねらう諸将の間で先陣争いが激しいことを知らせてきた。昨日の手紙には丁寧にも各封主家の配置予定図が添えてあり、豊梨家は御廻組や杏葉勢や菅塚勢、後明国(あとあけのくに)の二家の武者などと共に後軍(こうぐん)に決まったと書かれていた。実鏡(さねあきら)からの手紙も同封されていて、恒誠の助言として逃げ出す場合の注意点が少年のきちんとした筆跡で記されていたので、光姫は餌にかぶり付く灰色の狼の太い首を撫でながら彼等の心遣いに感謝し、武運と無事を祈ったのだった。

「さあ、いくわよ」

 翻意(ほんい)させようとする家老達を押し切った光姫は、具総に留守を任せ、追堀親子と従寿とお牧に護衛の武者を加えた合計十余名を引き連れて寺院を出た。

 いかにも初夏らしく清々しい上天気だった。恐らく昼頃には暑いくらいになるだろうと思いながら、戦装束を身に着けて薙刀と弓を背負った光姫は、銀炎丸を連れて銅疾風にまたがり、戦場へ向かった。

「あそこが恵国軍の本陣ね」

 光姫は見晴らしのよい丘の中腹の林の中で大きな木の陰に隠れながら、月下の町の南に広がる野原へ目を凝らした。

 地元の人々はこの辺りをきつね()(はら)と呼んでいる。地名の由来は、大昔の宗皇(そうおう)がこの辺りで狩りをして道に迷った時、狐が化けた娘に宿を借りたという伝説だ。東が海、西が小高い丘の細長い平地に西国街道が南北に走っていて、月下城の南、光姫達のいる場所のすぐ下で、高稲半島西部へつながる街道が分岐して丘の間を抜けている。

「数日前、恵国軍は討伐軍に先んじて戦場へ入り、狐ヶ原の入口、海岸線が林に覆われ始めて草地が狭くなった辺りに本陣を置きました」

 輝隆が説明してくれる。

「恵国軍は東の林と西の丘の間に高い木の柵と空堀を渡して街道を完全に封鎖し、その南側を陣地としています。東西の丘と森にも柵と塀を伸ばし、横に回られないようにしています。ご覧の通り、堀を越えて陣内へ入るには細い道が二本あるだけですし、堀の前には身を隠して鉄砲を撃つための盾が多数並べてあり、防備は厳重です。ですが、恵国軍は中に籠もるつもりはないようですね」

 確かに、恵国軍は本隊らしい約二万七千の軍勢を陣地の前に整然と並べて攻撃態勢をとっていた。討伐軍の出陣を予期していたように、今朝早くに陣内から出てきたという。野戦を挑むつもりらしい。

「あれがお姉様達ね」

 華姫率いる田美衆七千と、暴波路国の者達と聞く茶色い甲冑(かっちゅう)の兵士一千は、野原と街道を横から見下ろすように西の丘の上に並んでいた。なぜか暴波路衆も梅紋の旗を立てているので、合わせて八千でひとまとまりに見える。その背後には監視役なのか、黒い鎧の恵国軍約八千がいる。

「恵国側の総兵力は田美衆を合わせて四万三千です。一方、討伐軍は七万を四つに分けています。本隊は三段構えのようですね」

 総大将の杏葉直照は街道の分岐点よりやや南に本陣を置き、その前に、先鋒三万、中軍一万二千、直照自身が率いる後軍(こうぐん)二万三千の合計六万五千を並べていた。それとは別に、高稲半島西部の三国の兵五千は本隊から離れた場所で自分達の領地へつながる街道を封鎖し、本陣の側面を警戒している。討伐軍は月下城を空にして、全軍で恵国軍を叩くつもりのようだった。

「お姉様はどう戦うのかしら」

 丘の中腹に並ぶ梅花の家紋の旗の後方で、華姫は十人ほどの武者に囲まれて立っていた。死に装束のような白一色の姿の華姫は、鎧武者達の中で異彩を放っていてよく目を引いた。

「いよいよ始まるようです」

 丘の木々を揺るがすような雄叫びが輝隆のささやきをかき消した。法螺貝(ほらがい)が吹かれ、陣太鼓が鳴り響くと、両軍が敵に向かって進み始めた。林に身を隠した光姫達は、固唾(かたず)を飲んで戦いの行方を見守った。


『花の戦記』 狐ヶ原の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


「攻撃開始だ! 先鋒は前進して正面の敵を撃破せよ。中軍は丘の上の恵国軍と梅枝勢を警戒して待機し、もし坂を下って先鋒を襲うようならその側面を衝け。後軍(こうぐん)は当面本陣の守備だが、必要に応じて投入するから、決して気をゆるめるな!」

 やや盛り上がった場所に作られた本陣で、床机に座った直照は軍配を振るった。すぐに伝令が走り、鎧武者の列が南下し始めた。

 先鋒の軍勢は弓隊を先頭に槍隊が続く陣形で恵国軍の黒い隊列に近付いていった。恵国軍も向かってくる。まずは矢戦だ。恵国軍の鉄砲が先に放たれた。轟音が鳴り響くと同時に先鋒の隊列のあちらこちらでばたばたと武者が倒れた。だが、討伐軍の足は止まらない。ぐんぐん距離を詰めていく。

「止まれ。構え!」

 今度は討伐軍の弓隊が一斉に歩みを止め、射撃体勢を取った。

「放て!」

 びゅん、という空気を切る音が何千も同時に重なって、無数の矢が飛んでいく。矢の雨は恵国軍に降り注いで多くの悲鳴を引き起こしたが、やはり前進を(はば)むことはできなかった。恵国軍は隊列を乱さずに進んでくる。

「槍隊、前へ!」

 鉄砲兵と弓武者が背後へ退き、背の高さの三倍の長い槍を持った者達が前に出た。

「前進!」

 櫛の歯のようにならんだ数万本の槍の列が、敵の槍衾(やりぶすま)に向かって突っ込んでいった。恵国軍も似た武器で迎え撃つ。

 両軍の兵士達は腹の底からのどが割れるような大声で咆哮(ほうこう)しながら槍を振り上げると、相手に向けて叩き降ろし、突き、払った。たちまち兵士達の叫び声に、鎧の隙間や防護の薄い手足を切られた者達の苦痛の声が交じり始める。だが、周りの味方が倒れても、兵士達は誰も槍を振るうのをやめようとはしなかった。五万七千人の兵士の叫び声は、山鳴りのような巨大なうねりとなって遠い山々にこだました。

「押せ! 押せ!」

 大声で叫ぶ討伐軍の武者頭(むしゃがしら)達の向かいでは、恵国軍の指揮官達が意味不明な言葉で兵士達を叱咤(しった)している。

「やったぞ!」

 槍隊同士の激しい争いがしばらく続いた後、相手の圧力に負けて下がり始めたのは恵国軍の方だった。討伐軍の隊列では誰もが戦いの恐怖と歓喜に興奮し、手柄を立てて加増に預かりたいという封主達の思いが武者達一人一人に伝染して無謀とも言える勇気を生み出していた。わずかに数にまさる討伐軍の先鋒は、じりじりと恵国軍を南へ押し戻していった。

 この勢いは、ある小封主の軍勢が列から抜け出て敵を横から攻撃すると一気に加速した。側面を突かれた恵国軍の隊列は次第に乱れ、ゆっくりとした後退は早足の敗走になり、黒い鎧の兵士達は雪崩(なだれ)を打って逃げ出し始めた。恵国軍の指揮官達はそれをとめるどころか真っ先に馬首を返して本陣に駆け込んでいく。統制を失っていない一部の部隊は鉄砲を乱射しながら防御を固めて少しずつ退却し、空堀の前に並べられた盾の陰から射撃して味方の退却を援護したが、功に逸る封主達は執拗に追いかけ、包囲して弓を射かけ、盾を並べて迫ったので、最後まで抵抗した部隊も戦意を失い、ばらばらと空堀を渡って逃げていった。合戦開始から半刻ほどで二万七千の軍勢は完全に潰走(かいそう)し、陣地へ入って門を閉じてしまった。

「何をしておる。突っ込め!」

 恵国軍の本陣の前で立ち止まった武者達に武者頭が叫んだ。木の柵は大人の背の高さの倍くらいあって板を張ってあるので中の様子が分からず、武者達は警戒したのだが、武者頭は空堀の向こうを指差して命じた。

「ここで止まってはならん。敵は逃げ腰になっておるぞ。一気に本陣を落とすのだ!」

 武者頭はにやりと笑った。

「さあ、敵陣一番乗りは誰だ! その者が最も手柄が大きいぞ!」

 おおう、と大喊声(かんせい)が上がった。勝ちに気が大きくなった武者達は、盾を持った一人が大声で叫びながら走り出すと、他の者達も一斉に空堀を越えられる二本の細い道に群がり、我先にと渡り始めた。部将格の者や封主達まで遅れじと続く。急ごしらえの門の扉はたちまち破られ、先鋒の三万の武者達は奔流(ほんりゅう)のように恵国軍の本陣へ雪崩れ込んでいった。


「おお、やったぞ!」

 丘の上の田美衆の隊列の前で戦いの様子を眺めていた内厩(うちまや)謙古(のりもと)は、喜びの声を上げた。

「討伐軍が恵国軍を押し返したぞ。本陣まで陥落させるとは!」

「勝負は付きましたな」

 夜橋(よのはし)幽月(ゆうげつ)の声も(はず)んでいた。

「やはり内応しておいてよかったではありませぬか。もしあのまま恵国軍に味方していたらと思うと身が震えますぞ」

「幽月殿の知謀(ちぼう)には頭が下がるわい」

 謙古は(おど)り上がらんばかりだったが、帆室(ほむろ)治業(はるなり)は首を傾げた。

「ううむ、本当に勝ったのだろうか。あまりに呆気なさ過ぎるが」

 幽月は何を言うのかという顔をした。

「帆室様もご覧になったではありませぬか。敵兵は算を乱して潰走(かいそう)、大将格の者達まで戦場を放棄して逃げ出したのですぞ。陣地内で立て直すつもりなのかも知れませぬが、そんな余裕を与えるほど我が軍の武将達は愚かではありませぬ。ご覧なされ。既にほとんどの武者が中に突入しておりますぞ」

 幽月は討伐軍を「我が軍」と呼んだが、他の二人もそれを訂正しなかった。謙古がうれしげに言った。

「あとは陣地を占領し、撤退する敵を追撃して戦果を拡大するだけですな。中軍や後軍もすぐにそれに加わりましょう。そうなれば、多少の抵抗はあっても、もはや組織だった反撃はできますまい。いや、よかったよかった」

 戦場を眺めて状況を確認していた治業もようやく頷いた。

「どうやらそのようだな。勝ってくれたようでほっとしたわい」

 兜の内側に手を入れて額の汗をぬぐった治業に、幽月が言った。

「安心している場合ではありませぬぞ。戦はここからが本番です」

「なんだと? 味方の勝ちが決まったと言ったのはそなたではないか」

 治業が驚くと、幽月は首を振った。

「我々はまだ戦っておりませぬ。ここで働かずにどうします」

「戦うだと? 誰とだ?」

 治業が聞き返すと、幽月は背後を指差して声をひそめた。

「そこにいる恵国軍とです」

 治業と謙古は思わず後ろを振り返り、黒い鎧の軍勢と、その手前で白い扇子をひらひらと動かしながら戦場を眺めている華姫の様子をうかがって、小声で幽月に尋ねた。

「一体どういうことだ」

「そうだ。詳しく説明してもらおうか」

 二人が迫ると、幽月はにんまりと笑みを浮かべた。

「簡単なことです。討伐軍にお味方するのですよ」

 驚いて顔を見合わせ、意味を確認するまなざしを向けてくる両家老に、幽月は大きく頷いた。

「恵国軍本隊は破れ、背後のお目付役の部隊は孤立しております。今、我等が一斉に向きを変えて攻撃すれば、味方の敗北を見て震え上がっている彼等の不意を()けましょう。内応して八千の恵国軍をこの丘に釘付けにしていただけでは功績として十分とは申せませぬ。ここははっきりした武功を立て、討伐軍の味方として行動してみせてこそ、統国府の勘気(かんき)も薄れるというものです。幸い、隣の暴波路国人どもは華姫様の言いなりに動きます。加勢してくれれば上出来、そうでなくても邪魔さえされなければ充分です。いずれにしろ、我等は全力で恵国軍を攻撃できます」

 始めからそのつもりだったという顔の幽月の説明に、治業と謙古の口から唸り声が漏れた。

「ぐずぐずしていては背後の敵が撤退を始めます。そうなっては、梅枝家は勝負が完全に決まってから慌てて寝返ったように見えましょう。今ここで我等が敵を追い払い、討伐軍の中軍や後軍が背後を襲われる心配をせずに恵国軍主力の追撃に加われる状況を作ってこそ、勝利の確定に大きく貢献することができるのです。さあ、すぐに華姫様を説得して攻撃致しましょう。もし姫様がいやだとおっしゃれば」

 幽月は声を一段と小さくしたので、治業と謙古は更に顔を寄せた。

「拘束申し上げて指揮権を奪いましょう」

「しかし……」

 言いかけた治業を幽月は制止した。

「梅枝家の存続のためです。そのために姫様の指示を逆手(さかて)にとって内応の約束をしてきたのではありませぬか」

「それはそうだが……」

 治業は渋ったが、謙古は賛成した。

「幽月殿の言う通りですぞ。減封(げんぽう)を免れるためには手段を選んではおれませぬ。これは華姫様のお命をお救いするためでもあるのだから、一時(いっとき)はお怒りになっても、いずれは我々に感謝なさるはず」

「今動かねば功績を立てる機会を(のが)します。帆室様、ご決断を」

「治業殿、ここは幽月殿の策に乗りましょうぞ」

 あまり気が進まないという顔で首をひねっていた筆頭家老も、二人の朋輩(ほうばい)に迫られて遂に頷いた。

「分かった。華姫様へ申し上げてみよう。確かに当家を守るには手柄が必要だからな。拒否なさった場合はやむを得ん。指揮権を取り上げさせて頂き、わしが代理を務める。それでよいな?」

「他の者達も帆室様ならば納得致しましょう」

「よくぞご決断なさった。これで当家も姫様も救われますぞ」

 幽月と謙古はすぐに賛同した。

「では、早速参りましょう」

 三人の家老は頷き合うと、田美衆の隊列を迂回して後方へ向かった。

「華姫様」

 田美衆と暴波路兵の境目の後ろに立っていた華姫に、三人の家老は歩み寄って声をかけた。かたわらに控えていた景隣は一瞬彼等に探るようなまなざしを向けたが、一歩下がって場所を譲った。

「一つ進言がございます」

 治業が主君への礼をとると、華姫は微笑みを向けた。

「何かしら?」

「背後の恵国軍を攻撃する命令をお出し下さい」

「攻撃ですって?」

 華姫は驚いて聞き返した。

「ご覧の通り、恵国軍は負けました。ほぼ勝負が付いた今、我々も手柄を立てて統国府のお許しを請うべきです。どうかご決断下さい」

 治業が真剣な面持ちで言上すると、華姫は少し考えて尋ねた。

「つまり、討伐軍に味方するということかしら?」

「その通りでございます」

 三人の家老は素早く視線を交わし合い、治業が代表して説明した。

「実は、私どもは本当に内応の約束をして参ったのでございます」

「本当にとは、どういうこと?」

「杏葉公にお会いして、我等田美衆一同は統国府に盾突くつもりがないことを記した血判状(けっぱんじょう)を差し出し、決して討伐軍を攻撃しないと誓ったのでございます。そのかわりに、梅枝家の存続を許すというお言葉を頂いて参りました」

「あなた達……」

 華姫は絶句した。

「華姫様をだますようなことを致しまして誠に申し訳ございませぬ。ですが、これもお家のためを思えばこそでございます」

 治業は謝罪したが、頭はあまり下げなかった。自分のしたことは間違っていないと思っていたからだ。

「討伐軍が勝った以上、内応していた我等は許され、お家の存続も認められましょう。しかし、一時とはいえ恵国軍に加担したことは事実でございますれば、このままでは罰として減封(げんぽう)され、姫様は処刑されるに違いございませぬ。それを避けるには、恵国軍を攻撃し、討伐軍の味方として働いて武功を上げる必要がございます」

 治業の押し殺した声を、華姫は黙って聞いていた。

「夫を連れ去られた姫様のお怒りはよく存じておりますし、我等も同じ家中の仲間を殺害し苦しめた者達を許すつもりはございません。ですが、鳴沼家は既に討ち、その罪を明らかにすることができました。取り逃がした者達も、統国府に訴えればきっと報いを受けさせることができましょう。姫様のお命をお助けし、泰太郎様の捜索に協力してもらうためにも、統国府の覚えをよくしておくことは不可欠です。今はどうかお家のため田美衆一同のために、討伐軍にお味方して頂けませぬか」 

 治業は禿(はげ)かかった頭を深々と下げた。謙古と幽月もそれにならった。華姫は三人の頭を眺めてしばらく考えていたが、大きな溜め息を吐いた。

「分かったわ。あなた達の言う通りにしましょう」

「おお!」

 三家老は喜びの声を上げた。

「お分かり頂けましたか。ありがとうございます」

 治業は思わず頬をゆるめてもう一度深く頭を下げ、謙古は「華姫様の助命は必ずかなえてみせますぞ」と約束した。

「では、早速、恵国軍に知られぬよう、密かに陣形を組み直さねば」

 幽月が言い、三人が武者達に指示を伝えるために歩き出そうとすると、華姫が声をかけた。

「待って。まだ早いわ。命令を出すのはもう少し後にしましょう」

「なぜでございますか」

 立ち止まって振り返った三家老に華姫は言った。

「あなた達の考えに賛成はしたけれど、合戦の勝敗はまだ分からないと思うの。陣地内に突入した先鋒がどうなったか不明だもの。攻撃するのは勝利が確定してからでも遅くないはずよ」

「ですが……」

 反論しようとした幽月を華姫は手で制した。

「もし万が一先鋒が負けたらどうするの。私達は後ろの軍勢と戦いながら、背中を勝ちに乗って戻ってきた恵国軍本隊にさらすことになるのよ。彼等にしてみれば、本陣を攻撃する時に私達が横にいては目障りだわ。安全を考えて、一隊をこちらに差し向けて来るでしょうね。そうなったら挟み撃ちにされる。全滅もあり得るわ。その危険を避けるためにも、恵国軍の敗北を確かめたいの」

「しかし……」

 顔を見合わせる謙古と治業に華姫は重ねて言った。

「攻撃はいつでもできるわ。まずは討伐軍が本当に勝ったことを確認しましょう」

「何をおっしゃいますか! 我々の勝利は確定しておるではありませぬか!」

 幽月が苛立って言った。

「お願い。もう少しだけ待って欲しいの。どちらが勝ったか、すぐにはっきりするわ」

「華姫様、この()に及んで()気付(げづ)かれたのですか! 今を逃せば機会はございませぬ! これ以上反対なさるのならば、我々にも考えがございますぞ!」

 幽月は語気を強めて詰め寄り、戸惑っている他の二人に目配せした。謙古と治業はやむを得ないという顔になった。

「仕方ありませぬ。姫様にはしばらく不自由な思いをして頂きますぞ」

「これもお家のためでございます。どうかお許し下され」

「何をするつもりなの?」

 三人が驚く華姫を取り抑えにかかろうとした時、突然、大地を揺るがすような恐ろしい轟音が辺りに響き渡った。

 それは三家老が思わず首をすくめて立ち止まり、田美衆の武者達が耳を押さえたほど大きな音だった。同時に周囲の山々から数万の鳥が一斉に叫びながら飛び立った。一瞬空を暗くしたほどの鳥の群は、狐ヶ原の上空を大きく旋回すると、ばたばたという激しい羽音(はおと)を残して北の山の方へ飛び去っていった。

「な、何事だ!」

 慌てて振り返った幽月は、恵国軍の陣地から黒煙がもうもうと立ち(のぼ)っているのを見付けて愕然とした。

「一体何が起こったのだ!」

 (あご)が外れそうな顔をした謙古が叫んだ時、恵国軍の本陣付近で数千丁の鉄砲が次々に放たれる爆音が鳴り響いて、天が割れるような(とき)の声と無数の人馬の悲鳴が沸き起こり、更に人々を震え上がらせたのだった。


 その少し前、門を破って恵国軍の本陣へ突入した三万の武者は戸惑っていた。恵国兵の姿はどこにもなかったからだ。恐れていた伏兵も、戦場に出てこなかった無傷の敵もいないようだった。陣地の西側は大きな寺院の高い土塀で、東側も防御用に土を見上げるほどの高さに盛り上げて固めてあるのでその先の林へは入れない。背後は今通ってきた木の柵と空堀だから、敵は唯一開いている南へ去ったに違いなかった。

「どうやら()気付(げづ)いて逃げ出したらしいな。ふん、臆病者どもめ」

 封主の一人がつぶやいたほど、陣内は雑然としていた。寝泊まりしていたらしい天幕には衣類や生活道具が置き去りにされ、煮炊きに使っていた薪が散乱し、あちらこちらに食料品の入った箱や酒樽が放り出されていた。兵士達はいくつかの箱を空けたり天幕をのぞいたりして戦利品を探したが、めぼしいものはなかった。

 吼狼国武者で覆い尽くされた陣地を見回して、封主達はそれぞれ集合命令を出した。

「全員、自隊の武者頭の元へ集まれ。陣形を組み直して追撃に移る。一気に連中を追い散らすぞ。穂雲城に逃げ込ませてはならん」

 方々で武者を呼び集める陣太鼓が聞こえ、武者頭達が大声で叫んでいる。武者達はその音や声を頼りに自家の大将のところへ向かい、隊列を作り始めた。

 合戦で戦果を拡大したり敵の名のある将を討ち取ったりするのは大抵追撃戦だ。恐怖に取り付かれて逃げ(まど)う敵を追う時こそ最もうまみがある。武者達は皆そのことを知っていたので、いよいよ武功を上げる時が来たと目をぎらつかせ、追撃の許可を求めて本陣の直照に送った使者の帰りを待っていた。

「全員そろったか」

 異変が起こったのは、ある若い封主が点呼の報告に来た家老にこう尋ねた瞬間だった。

 返事をしようとした家老が、耳をつんざく轟音と同時にいきなり吹き飛ばされて封主の馬にぶつかってきたのだ。封主はたまらず馬ごと横倒しになった。それほど激しい爆発が陣内各所で発生したのだ。

「一体何が起こった? どこからの攻撃だ?」

 驚愕と恐怖の悲鳴を上げる武者達の上に白い煙を吐きながら次々に落下してきたのは、特別に強力な大型の爆鉄弾だった。寺院の土塀と林側の盛土の向こうから、人の頭ほどもある黒く薄い鉄の玉が陣内に何百も投げ込まれたのだ。耳がおかしくなるほどの巨大な爆発音と共に武者達が次々に宙を舞い、騎馬の者達は驚いて暴れ出した馬から振り落とされ、徒歩(かち)の者達はその脚で蹴られ踏みにじられた。若い封主が乗っていた馬は後ろ脚で立ち上がり、彼を背から跳ね飛ばして狂ったように走り出したが、爆発に巻き込まれて激しく地面に叩き付けられ、悲鳴のように苦しげに高くいななくと、倒れて動かなくなった。

 あちらこちらで火災が起き、白煙が辺りを覆っている。散らばっていた薪や箱や樽の中に、油を塗ったり、詰めたりしたものが多数混じっていたのだ。

「敵は壁の向こうにひそんでいたのか。やってくれたな」

 起きあがった封主が頬に痛みを感じて撫でてみると、ざっくりと大きな傷ができていた。破片で切れたらしい。手甲(てっこう)で血をぬぐった彼の足下では、鎧の背中に木片を生やした家老が白目をむいて息絶えていた。

「殿、ご無事ですか!」

 武者頭の一人が叫びながら駆け寄ってきて家老の遺体を踏みそうになり、ぎょっとして立ち止った。

「どれくらいの被害が出ている」

 若い封主が尋ねると、武者頭は首を振った。

「分かりませんが、かなりの者がやられました。爆風とまき散らされた破片で大勢が怪我をしています」

「すぐに被害状況を調べよ!」

「はっ!」

 武者頭が背中を向けて走り出そうとした時、数千丁の鉄砲を放つ音が鳴り響き、周囲のあちらこちらでさらなる悲鳴とうめき声が上がった。

「敵が塀の向こうから鉄砲でねらっています!」

 寺院の方を見ると、高い土塀の上に無数の銃口が並んでいた。恐らく塀の後ろに足場を組んであるのだろう。振り返ると、林側の盛土(もりつち)の上にも黒い兜と鉄の筒が多数見えた。左右から鉄砲でねらわれていると気が付いた武者達が盾になるものを探して必死に辺りを見回しているが、陣内にあるのは布製の天幕ばかりで、木製のものは樽や箱しかなかった。

 恵国兵は塀や盛土に身を隠しながら連射してくる。方々で煙が上がっていることもあってねらいは適当だが、身を隠すもののない狭い場所に三万人が密集しているのだから、適当に撃てば当たる。爆鉄弾も次弾の準備ができたらしく、ひっきりなしに飛び込んでくる。

「このままでは全滅だ。脱出するぞ」

「しかし、どこへですか」

「北は今越えてきた空堀と木の柵だ。南へ逃げるほかあるまい。この陣を抜けて、塀の向こうの敵の更に後ろへ回るのだ」

 震え声の武者頭を叱り付けた若い封主は、全員南へ走れと叫ぼうとした。

 だが、その直前に、南方で大きな鬨の声が湧き起こった。恵国軍の逆襲だった。逃げたと見せかけて近くの林に隠れていたのだ。二万以上の黒い軍勢が黄金の鎧の戦士を先頭に槍先をそろえて突っ込んでくる。

(わな)にはめられた……」

 封主はつぶやくと、「すぐに皆を呼び集め、助け合いながら空堀を渡って北へ逃げよ」と退却の指示を出したが、この大混乱の中、組織的な抵抗も秩序だった後退もできそうにはなかった。


「なんということだ……」

 謙古はうめいた。圧倒的優勢に見えた討伐軍は、巨大な爆発音と銃声の後、反撃に出た恵国軍に陣地内で一方的に押しまくられているのだ。恐怖に駆られた三万の武者が二つしかない陣地の出口に殺到したため人の雪崩が起き、背の高さの数倍はある空堀に鎧武者達が次々と落下していく。味方に踏みつぶされる何百もの人間の断末魔の叫びが絶え間なく聞こえていた。

「こ、こんな馬鹿な……」

「陣内へ逃げ込んだのは演技だったのか」

 幽月と治業も顔色を失っている。

「助けないといけないわ!」

 最初に我に返ったのは華姫だった。

「私達は討伐軍に味方することにしたのだから、あの人達を救う方法を考えなければ」

「そ、そう申されましても」

 謙古の声は震えていたが、幽月は頷いた。

「そうですな。早く助けないと先鋒が壊滅しますぞ。その勢いに乗って恵国軍が攻勢に出れば、全体の四割の兵を失った討伐軍は苦戦し、まさかとは思いますが、負ける可能性も出てくるかも知れませぬ」

「しかし、どうやって助けるのだ」

 尋ねた治業の顔は青かった。滅多なことでは動じない主席家老もこの状況には冷静でいられないようだった。

「大丈夫よ。まだ手はあるわ」

 華姫は家老達を元気付けた。

「すぐに無傷の部隊を援護に向かわせて、恵国軍の進撃を食い止めればいいのだわ。秩序を保った軍勢が敵の陣地の手前で逃げ出してくる武者達を保護しつつ、恵国軍の攻撃を防ぐのよ。全員が脱出したら防御しながら少しずつ下がって後軍と合流するの」

「なるほど。それなら上手くいきましょう」

 幽月は頷いた。

「ですが、我々はここを動けませんぞ」

「分かっているわ。封主達はともかく、大部分の武者はあなた達の内応を知らないはずだもの。ここで田美衆が丘を駆け下ったら、退路を絶たれると思ってますます混乱するだけだわ。だから、動かすのは討伐軍の中軍よ。私達が背後の恵国軍を抑えていますから、至急先鋒を助けに向かって下さいと伝えるの。中軍は私達を牽制するためにあそこにいるのだから、こちらが動かないと知れば安心して先鋒を救いにいけるわ」

「確かにそうですな」

 治業と謙古も頷いた。

「でも、問題はそれを討伐軍の本陣に知らせる手段なの。使者を走らせていたら間に合わないし、後ろの恵国軍に気付かれるかも知れないわ」

「その方法ならございますぞ!」

 幽月が勢い込んで答えた。

「杏葉公といざという時の連絡方法を決めてあるのです。当家の馬印を円く動かせば、我々は動かない、前を横切っても構わないという意味になりますぞ」

「そんなやり方があったなんて!」

 華姫は喜んだ。

「では、すぐに実行して。きっと杏葉公もこちらの意図に気が付いて、中軍に救援の指示をお出しになるに違いないわ」

「なるほど」

 三家老は頷き合った。

「では、早速」

 幽月が旗持ちに歩み寄って指示すると、馬印が高く持ち上がり、大きく円を描くように動き始めた。それをしばらく続けると、本陣でも同じように杏葉家の馬印が振られるのが見えた。

「よかった。考えが伝わったみたいね」

「そのようですな」

 家老達はほっとした顔になった。やがて本陣から使者が走り、中軍がゆっくりと前進を始めた。

「上手くいくとよいが」

 三人の家老はのろのろと進んでいく一万二千の軍勢を不安そうに眺めていた。


「どうやら間に合いそうだな」

 杏葉直照は床机(しょうぎ)にどすんと腰を下ろした。

「これで先鋒は救われますな」

 副将の菅塚興種が機嫌を取るように言った。

一時(いちじ)はどうなることかと思いましたが、中軍が到着すれば混乱も収まりましょう」

「自軍の陣内に誘い込んで爆鉄弾と鉄砲をぶち込むとは非常識なまねをしおって! 恵国人は本陣を明け渡すことを恥と思わんのか!」

 地図を広げた低い机に、直照は苛立たしげに(こぶし)を叩き付けた。

「だが、中軍が敵を阻めばまだ盛り返せる。まずは先鋒を救い出し、陣形を立て直す。その後、再び攻撃するのだ。今度は先鋒と中軍合わせて四万二千だ。負けることはあるまい」

「ですが、敵が陣内に閉じ籠もってしまったらどうなさるおつもりですか」

 興種が尋ねると、直照は荒い呼吸をしながら、怒りを無理に抑えた声で答えた。

「それはそれで構わぬ。撃破は難しくなるが、敵を封じ込めることができるからな。恵国軍にこれ以上占領地を広げさせないことが今は最も肝要だ。傷付いた者達を国元へ帰せば物資もしばらくは持つだろう。一旦月下城へ引いて小荷駄隊と援軍の到着を待ち、十分な体制を整えた後に打ち破ればよい」

「その間に和平交渉をするという手もありますな」

 興種が言うと、直照がぎろりとにらんだので、興種は慌てて言い足した。

「も、もちろん、時間稼ぎという意味ですぞ。我々が体勢を立て直すまで交渉という名目で停戦するのです」

「そんな卑怯なことはせぬ。統国府の代表たるこのわしが、正面から堂々と打ち破ってくれる!」

「そ、そうですな。杏葉公の武勇を持ってすれば、恵国軍程度を相手に策略など無用ですな」

 急いで何度も首を縦に振る興種に、直照は軽侮(けいぶ)のまなざしを向けて鼻を鳴らすと唸るように言った。

「確かに、先鋒はまんまと罠にはめられて混乱しておる。だが、まだ戦に負けたわけではない。中軍が間に合えば充分勝てる。兵数はこちらが大きくまさっておるのだ。多少の損害は問題にならん」

「残念ながら梅枝家の家老達の考え通りですな。あの者どもがこれを功績として言い立てたらどうなさいますか」

「この程度は大した手柄でもない。わしとてすぐに気が付いたことなのだ。とても華姫の悪行(あくぎょう)を打ち消すことはできぬ。あの家老どもは敵国に下った上、助力までしたのだ。内応すれば処罰を免れることができると思っておるらしいが、そうはいかぬ。田美国を取り返した後で厳罰を下してやろう」

「それがよろしいですな」

 媚びるような笑みを浮かべた興種から不快げに顔を背けた直照は、机を囲んで床机に腰を下ろしている武将達の一人へ目を向けた。

「不満そうだな」

「そんなことはありませんぞ」

 豊梨実護は穏やかな口調で答えた。彼は中軍の前進に反対し、むしろ後軍と一体となって守りを固めるべきだと主張したのだ。祖父を尊敬している実鏡も同じ意見だった。

「無理をするな。顔に出ておるぞ」

 直照は実鏡のふくれっ面を見て笑った。

「ご老公の意見にも一理あることは認める。下がって守りを固めれば、確かにこれ以上の大敗は防げるだろう。だが、それでは用心が過ぎるとわしは思う。我等の目的は恵国軍の撃破なのだ。守ってばかりでは勝つことはできん。思い切って打って出てこそ、勝利をつかむことができるのだ」

 実護は何も言わなかったが、直照は首をすくめた。

「実鏡殿。ここはもうよい。中軍が先鋒を立て直せば我が軍の勝ちは間違いないのだ。お主は一旦戻って配下の武者達の様子を見てきたらどうだ」

 外で頭を冷やしてこいと言っているのだ。

「そうします」

 実鏡は逆らわなかった。立ち上がって総大将に一礼し、陣幕を出て行く。実護も会釈してそれに続いた。豊梨勢千五百の統率者二人を、本陣の諸将は子供と老人は戦場に不要と言わんばかりの表情で見送った。

 やれやれと苦笑した直照は、戦場へ目を戻した。

「そろそろ中軍が敵陣の前に着くな。無事な味方を見れば先鋒の武者どもも安心するに違いない。……なにっ!」

 直照は床机を蹴立てて立ち上がった。敵陣へ向かって進んでいた中軍の長い隊列がいきなり崩れたのだ。

「伏兵だ!」

 本陣の諸将は総立ちになった。

「海側の林の中に隠れていたのだ。かなりの数だぞ。五千、いや六千はいる!」

 行軍のために伸びた隊列の後部に多数の恵国兵の黒い鎧が突っ込んでかき乱していた。

「しまった!」

 直照は舌打ちした。

 敵陣地と丘の上の恵国軍や田美衆に気を取られて、海側の林への警戒がおろそかになっていたのだ。その隙を突いて奇襲をかけた恵国軍は、中軍の背後に回ることに成功し、まずは後ろ半分の部隊を東と北から突き崩しにかかっていた。

「このままでは中軍と先鋒は退路を絶たれます。敵陣からやがて出てくる敵本隊と挟み撃ちにされましょう。早く手を打たなければ全軍が崩壊しますぞ!」

 武将の一人が焦った口調で進言した。

「分かっておる! 分かっておるわ!」

 大柄な体を揺すって陣内を左右に歩き回りながら、直照は大声で吼えた。

「敵の指揮官は戦を何だと思っておるのだ! 次々と小賢しい手を使いおって! この手で叩き切ってやりたいわ!」

 直照が憎々しげに吐き捨てた呪詛(じゅそ)の言葉は、ただ本陣内の空気を重くしただけだった。


「これはどういうことだ……」

 三家老は眼下の光景に言葉を失っていた。先鋒を救いに向かったはずの中軍が恵国軍の伏兵に真っ二つにされて押しまくられている。

「まずい、まずいぞ。何とかして救わねば!」

 夜橋幽月はいつもの余裕を失っていた。いかにも怜悧(れいり)そうな容貌に常に浮かべている皮肉っぽい笑みが崩れてすっかり青ざめている。討伐軍が負ければ中軍の前進を進言した自分達も非難を免れない。それどころか、恵国軍と示し合わせて中軍を罠にはめたと思われるかも知れなかった。

「ど、どうすればいいのだ!」

 内厩謙古も思わず叫び、自家の武者達が一斉に振り向いたのを見て慌てて口を押さえた。

「なるほど、こういうことだったのね。やっと分かったわ」

 焦っている家老達に比べて華姫は落ち着いていた。

「恵国軍の数が少な過ぎたもの。見えている兵士は私達田美衆と暴波路兵を加えても四万三千だった。殻相国に来たのは四万九千だったのだから、残りはどこにいるのかしらと思っていたけれど、まさかあんなところに隠れていたなんて」

「か、感心している場合ではございませぬ! このままでは討伐軍は大敗、我々も破滅ですぞ! 一体どうなさるのですか!」

 この状況を作ったのはあなたの提案だということを忘れてもらっては困ると言いたげな表情で幽月が振り返ると、華姫は眼下の光景を見つめて言った。

「私達が動くしかないわね」

「と申されますと?」

 謙古が首を傾げて尋ねた。

「攻撃するのよ」

「攻撃ですと?」

「そうよ。今こそ好機だわ。私達の存在を印象付けるのにね」

「恵国軍の伏兵を横から攻撃するのですな」

 幽月が言うと、謙古は顔色を取り戻した。

「な、なるほど。それなら中軍を救えますな。手柄も立てられますぞ」

「では、私が指揮をとります」

 治業がいよいよ戦うと知って進み出たが、華姫は首を振った。

「違うわ。私の部下にやらせるのよ。私達はまだここにいる必要があるわ」

 華姫が手にした扇子で背後を示すと、幽月は(いま)(いま)しそうに監視役の八千の黒い軍勢を見やった。

「確かに、ここを動いては丘を下る道を空けてやるようなものですからな。それに背後を突かれては我々まで危機に陥るでしょう」

 幽月は次いで暴波路兵へ不審も露わな視線を向けた。

「しかし、あの連中ですか。一千しかおらぬではありませぬか」

「わしも不安ですな。六千の敵にぶつけるには少な過ぎますぞ。やはり我々が行くべきです」

 謙古も暴波路兵の文身(いれずみ)の浮き出ている顔や手足を気味悪そうに見やった。次席家老は彼等が梅紋の旗を立てていることが気に入らないのだ。あの旗は華姫の命令で田美衆が貸し与えたものだった。

「見ていれば分かるわ」

 華姫はそばに立ったままずっと黙っていた腹心に声をかけた。

「政資さん」

「はっ」

 吼狼国風の鎧兜に身を固めた初老の家老は、胸に右腕を当てて命令を受ける体勢を取った。

「今すぐ暴波路兵一千を率いて敵を攻撃なさい」

「かしこまりました」

 頭を下げた政資は、ちらりと三家老へ目を向けると、茶色い甲冑(かっちゅう)の一団の方へ歩いていった。前に立った政資が暴波路国語で何かを大声で指示すると、元奴隷の兵士達は足並みをそろえて一斉に丘を駆け下っていった。

「あんな者どもに手柄を立てさせるとは」

 不満顔で戦場を見下ろしていた三家老は、次の瞬間、驚きのあまり絶叫した。

「な、なに!」

「ば、馬鹿な!」

「そっちは違うぞ! やめてくれ!」

 大声で意味不明な叫び声を上げる一千の軍勢は、一気に麓まで駆け下りると、そのままの勢いで槍先をそろえて、伏兵部隊と必死で戦っている中軍の後ろ半分の側面へ突撃したのだ。

 海側に現れた敵との戦闘中にいきなり反対の方角から攻撃されて、中軍の後部約六千は大混乱に陥った。奇襲の衝撃に加えて、東と北と西から半包囲されたことで退路を断たれる恐怖に武者達は襲われたのだ。政資は恵国軍の伏兵と息を合わせて最も弱そうな封主家の部隊を攻撃したため、一瞬で統率を失った武者達が他の封主家の隊列に雪崩込み、それが中軍前半分の部隊にまで波及して混乱を一層大きくしていた。

「さすがは政資さんね。的確な攻撃だわ」

 感心したようにつぶやいた華姫に、愕然としていた幽月が食ってかかった。

「こ、これは一体どういうことですか! 味方を攻撃してどうします!」

 振り向いた華姫は笑みを浮かべて答えた。

「味方ですって? 何を言っているのかしら。討伐軍は敵のはずよ」

 華姫の笑みのあまりの美しさに三家老は寒気がした。その恐ろしいほど冷たく華やかな微笑から、自分達が思うままに踊らされていたことを悟ったのだ。

「さあ、次は私達の番よ。治業、謙古、幽月!」

 華姫は三家老の名を呼んだ。

「田美衆七千を率いて討伐軍の本陣を攻撃なさい!」

 その口調の厳しさは八千の軍勢を指揮する大将にふさわしいものだった。三家老は思わず背筋が伸びる思いがした。

「し、しかし、我々は杏葉公と不戦の約束がありますぞ。それを破れとおっしゃるのですか!」

 幽月が何とか言い返した。

「そうよ」

 華姫は頷いた。

「その約束があるからこそ、不意を()けるわ」

「ま、まさか、そのためにあの命令を?」

 謙古が震える声で尋ねたが、華姫の笑みを見れば答えは明らかだった。

「我々が寝返ることを見越して利用したのですか!」

 思わず叫んだ法体(ほったい)の家老へ、華姫は冷ややかなまなざしを向けた。

「あなただって私をだまそうとしたでしょう」

「そ、それはお家を思えばこその……」

「では、あなたはこの状況で討伐軍に味方するのが梅枝家のためになると言うの? どう見ても負けは確定しているではないの!」

 華姫は閉じた白い扇子で戦場を示した。

 恵国軍の本隊は陣内で討伐軍の先鋒三万を既に壊滅させていた。その勢いに乗って、門から次々に出てきて空堀の手前で隊列を組み、背に赤い布を翻した黄金の鎧の戦士を先頭に中軍に襲いかかり始めている。中軍は六千の伏兵や暴波路兵と禎傑達に前後から挟撃されて完全に崩壊し、もはや軍勢の(てい)をなしていなかった。

「討伐軍の先鋒は破れたわ。中軍も四方から攻撃されたらあっと言う間に押しつぶされるわね。その次は後軍よ。先鋒と中軍の運命を()の当たりにした彼等が、勝利の勢いに乗った合計三万四千の軍勢に襲われたらどうなるか、誰でも分かるわね」

 謙古ののどが音がしそうなほど大きく動いた。

「私達は獲物が逃げる前に敵の本陣を叩くのよ。でないと手柄が立てられないもの」

 華姫は扇子を今度は後方へ向けた。

「あなた達がこの命令を拒否することは許されない。後ろをご覧なさい」

 三家老が慌てて振り向くと、監視役の恵国軍八千が槍を構えて彼等をにらんでいた。

「私の指示を拒むのなら仕方がないわ。あなた達も武者達も、恵国軍に攻撃されることになる」

「我々を脅す気ですか!」

 謙古が叫ぶと、華姫は(あで)やかな笑みを浮かべた。

「逆らえばの話よ。あなた達はまだ使えるわ。私も家臣を殺したくない。さあ、後軍攻撃の指揮をとると約束なさい」

「さすがは才女と名高い華姫様です。よくぞ我々を(たばか)り上手く操ったものですな!」

 幽月が見せかけの敬意をかなぐり捨てて叫んだ。

「ですが、拙僧も吼狼国武家の端くれ、国を売ることはできませぬ。敵国に味方するくらいなら、戦って滅びる方が名を(けが)さずに済むというもの。ここで討伐軍に味方すれば、せめて梅枝家の名誉だけは守ることができましょう」

「もう遅いわ」

 華姫は憐れむような目をした。

「暴波路兵が梅紋の旗を持っていたことを忘れたのかしら。この戦場の全ての吼狼国人は、梅枝家の家紋を(かか)げた軍勢が討伐軍を攻撃したのを見たのよ。あれは当家の兵ではない、旗を貸しただけで我々は関係ないなどという言い訳が通用すると思うの。ましてやこの大敗、憎しみを向ける相手が必要だわ。それが私達になるのは避けられない。今近寄っていったら向こうから攻撃してくるに違いないわ。それに」

 華姫が閉じた扇子の先を家老達に向けると、景隣達帰国組の家臣七人が抜刀して三人を取り囲んだ。

「どうしても命令に逆らうと言うのなら、私が直接指揮を取るだけよ。さあ、どうするの!」

「くっ……!」

 幽月は唇を噛んだが、力なく(こぶし)を下ろした。謙古は呆然と立ちつくしている。

 と、突然、大きな笑い声が辺りに響き渡った。

「はっはっは、参りましたな。降参、降参ですぞ!」

 二人の一歩後ろで心底愉快そうに言ったのは治業だった。

「全ては華姫様の計画通りだったというわけですな。全くお見事です。我等の完敗でございますな」

「帆室様、どうなされました」

 呆気にとられて振り返った幽月に、治業は楽しげに言った。

「幽月殿、我等の負けだ。華姫様はこちらの行動を全てお見通しだったのだよ。今更抵抗してももう遅い。覚悟を決めるほかはない」

「しかし……」

「華姫様のおっしゃる通り、ここで我等が恵国軍を攻撃しても自滅するだけだ。すぐ後ろに八千、前に三万四千がいるのだぞ。どうしようもあるまい。それとも、この窮地を脱する上手い方法でもあるのか」

「そ、それは……」

 幽月は口籠もり、謙古はうなだれた。

 治業は左右に立つ二人の同輩の肩に手をのせた。

「ここは華姫様の策に乗せられて差し上げよう」

「帆室様……」

「これほどの知略、時繁様がご覧になったら大層喜ばれたに違いない。まさに、名将時錦(ときかね)様の血を引く(あかし)、名門梅枝家の当主にふさわしいお方ではないか」

 治業は両家老の間を通り抜けて華姫の前に進み出ると、片膝を突いた。

「華姫様。いえ、もう御屋形様とお呼びするべきでございましょう。わたくし帆室治業はあなたの()(ふく)し、ご命令に従うことをお誓い申し上げます」

「ありがとう」

 華姫の笑みが(やわ)らいだ。

「あなた達を犬死にさせるようなことはしないと約束するわ。梅枝家も家臣達も私には大切よ。必ず守ってみせるわ」

「その決断力と意志の強さは時繁様そっくりでいらっしゃいますな。昔、玉都郊外の合戦で時錦(ときかね)様が討ち死にされた時のことを思い出しました」

 治業は懐かしむような表情で華姫を見上げた。

「大将を失った我等は田美国への退路を断たれ、武守家の大軍を前に、陣内は悲嘆と絶望に覆われておりました。そんな中、まだ十六でいらっしゃった時繁様は我等を叱り付けられ、世子(せいし)である僕が敵の大将に会って降伏を申し出て助命を嘆願するとおっしゃいました。そして、引き留める家老達を振り切って武公様との会見に臨まれたのです。あの時、志願して決死の思いで同行したわたくしは、敵のただ中で(おく)せず堂々と話される時繁様を見て、このお方に終生お仕えし、全力でお尽くししようと心に決めました。政資殿があなたに忠誠を誓った理由が分かった気が致します」

 筆頭家老が深々と頭を下げると、残りの二人も渋々ながら片膝を突いてそれにならった。頷いた華姫は、扇子の先を討伐軍の本陣へ向けた。

「では、改めて命じます。あなた達は今から田美衆の全軍を率いて討伐軍の後軍を攻撃なさい。後ろの恵国軍も続くわ。二方向から挟み撃ちにすれば容易(たやす)く打ち破れるはずよ」

 華姫が振り返って扇子で円を描くと、恵国軍の別働隊を率いる厳威(げんい)将軍が馬の背に上って槍を構えた。

「では、出発なさい!」

「ははっ!」

 三人の家老はそろって頭を下げると立ち上がり、軍勢の前へ駆けていって大声で命令を伝えた。やがて、七千の軍勢が動き出した。続いて恵国軍も進み始めた。

「では、私達も行きましょう」

 華姫は景隣達に声をかけ、八人で固まって丘を下りていった。


『花の戦記』 狐ヶ原の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


「何ということだ……」

 総大将の直照は呆然としていた。

 救援に送り込んだはずの中軍一万二千は伏兵と丘を駆け下りた茶色い軍勢に襲われて見る間に崩壊、敵陣に乗り込んだ先鋒も壊滅したらしい。討伐軍の三分の二を打ち破った恵国軍は合流して隊列を組み直し、先鋒と中軍の残兵を蹴散らしながら本陣へ向かってきていた。

「た、大変です!」

 陣内に伝令が飛び込んできた。

「西の丘にいた恵国軍と梅枝勢が突然坂を下って襲いかかってきて……うわっ!」

 伝令の武者はいきなり前のめりに倒れた。首筋に流れ矢が当たったのだ。地面にうつぶせになった武者は数回苦しげにもがいて動かなくなった。

国主(こくしゅ)様、ご無事でいらっしゃいますか!」

 叫びながら杏葉家の家臣が五十名ほど本陣へ駆け込んできた。彼等は伝令武者の遺体にぎょっとし、よけて通って直照に近付いた。家老の棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)が主君の前に片膝を付き、慌ただしく頭を下げて言上(ごんじょう)した。

「敵はこの本陣を目指しております。ここはもう危険でございます。我等がお守り致しますゆえ、国主様はすぐにお引き下さいませ。他の方々はとうにお逃げになりました」

 直照が我に返って辺りを見回すと、本陣に詰めていた諸将は一人も残っていなかった。杏葉家の家臣だけが彼を守るように取り囲んでいる。陣幕の向こうから、多数の軍兵(ぐんぴょう)のわめく声や剣戟(けんげき)の音がひっきりなしに聞こえていた。

「国主様、どうかご決断を。早くお逃げにならないと、お命が危のうございます」

 重毅(しげかつ)は主君の沈黙を迷っているのだと思ったらしい。そのなだめるような口調に、直照は急に怒りがこみ上げてきた。

「わしは逃げん。逃げんぞ!」

 直照は大声で叫んだ。

「総大将がいなくなれば討伐軍はどうなる。ここで引いては芳姫様を妻に迎え、元狼公になるという夢が(つい)えるのだ。わしは最後まで諦めぬ。今から体勢を立て直して防戦するのだ!」

 直照の脳裏に父武公の顔が浮かんだ。父を裏切って逃亡した母を思い出すからか、武公は直照を前にすると自分の愚かさと罪を見せ付けられるような表情をしたものだった。直照はこの戦に勝って、自分にも英雄である父に劣らぬ力があることを証明したかった。そして、女のか弱さを集めたようなあの国母と、武公が苦労して築き上げた統国府を手に入れて、父を見返してやりたかったのだ。

 だが、重毅は仁王立ちしている直照を仰ぎ見て絶望的な声を上げた。

「もう遅うございます。我々は負けたのです。負けたのでございます!」

「いいや、まだだ! まだ負けてはおらん!」

 直照は首を激しく振って虎のように咆吼(ほうこう)した。

「確かに押されてはおるが、まだ勝負が決まったわけではない! 後軍は二万三千もおるのだ。中軍でもいくつかの部隊はまだ持ちこたえておるし、敵の本隊は戦い通しで疲れておる。我等がここで敵を(はば)んで押し返せば、混乱して逃げ腰になっておる者達も息を吹き返すに違いない。そうなれば総数でまさる我が軍が負けるはずはないのだ。後軍の諸将に命じて武者どもに槍衾(やりぶすま)を作らせよ。あらん限りの矢を射て敵を追い払え。梅枝勢と敵の新手を何としても食い止めるのだ。そうだ、西方で街道を封鎖している西高稲勢五千を呼び寄せればよい。御廻組と当家の軍勢で敵の足を止めている間に側面を突かせるのだ」

「それは不可能でございます! 既に御廻組はおりませぬ!」

「何だと!」

 直照は慌てて戦場を見回したが、左翼に布陣していたはずの御廻組九千の姿はどこにもなかった。

「どういうことだ!」

「逃げたのでございます!」

 家老は叫んだ。

「御廻組は敵が向かって来ると知るや即座に陣を引き払い、一本の矢も放たぬまま戦場を離れていきました。あの素早さ、最初から逃げる用意をしていたに違いございませぬ。それを見たほとんどの封主家が退却を始めております」

「御廻組め、わしを裏切りおったな! 臆病者どもが!」

 怒りのあまり絶叫し、足を踏み鳴らす主君に家老は懇願(こんがん)した。

「本陣に残っているのはもはや当家の武者だけでございます。必死で防戦しておりますが、打ち破られるのは時間の問題、もはや撤退するほかございませぬ。今は生き残ることを第一にお考え下さいませ」

「撤退はせぬ! わしは総大将なのだぞ。わしが逃げたら負けが確定してしまうではないか! そうなればわしは破滅だ! 敵の(わな)にはまって大敗した愚将と嘲笑(あざわら)われるのは我慢ならん!」

「ですが、国主様が待避なされませんと、当家の他の者達が逃げられませぬ。どうかここはお引き下さい」

「ええい、うるさい! わしは絶対に逃げんぞ!」

 直照が怒鳴り付けると、重毅は素早く左右に目配(めくば)せした。

「やむを得ませぬ。力ずくでお逃がし致します」

 家老が「やれ!」と命じると、武者達が一斉に直照を取り囲み、腕や足をつかんで動きを封じた。

「何をする! やめい、やめぬか!」

「しばらくのご辛抱でございます」

 家老の指示に従って暴れる主君を肩の高さに担ぎ上げた武者達は、外に運び出そうとした。

 だが、本陣を出ようとした瞬間、いきなり先頭の武者が倒れた。槍が胸に突き刺さったのだ。同時に、陣幕を踏み倒して百人を越える恵国兵がなだれ込んできた。

「戻れ、後ろから出るぞ! 急げ!」

 重毅は声をひっくり返して叫び、武者達は慌てて方向転換しようとしたが、そこへ十人ほどの恵国兵が槍をそろえて突っ込んだ。

「うおっ!」

 数名が胸や腹から血を流して倒れ伏し、刀を抜こうとした武者達に放り出された直照は、地面にしたたかに打ち付けられてうめき声を上げた。

「国主様をお守りしろ!」

 たちまち頭上で激しい斬り合いが始まった。何度も踏み付けられながら頭を押さえて転げ回った末、やっとそこを抜け出して顔を上げると、目の前に黒い立派な鎧を着た髭面(ひげづら)の大男が巨大な剣を手に立っていた。

 慌てて痛む体を押して起き上がった直照は、数歩下がって相手を観察した。

「こやつは敵の将軍だな。わしをねらっておるのか。だが、そうやすやすとやられはせぬ。もはや勝利は望めぬが、敵将を討ち取って手柄を立てればまだ名誉は守られよう。負けたのは敵の卑怯な作戦と裏切り者の梅枝家のせいなのだからな。逃げる前にこの男を倒し、わしの実力を示してやる」

 周囲で恵国兵と激しい戦いを繰り広げている武者達に、「敵将を討ち取ったら逃げるぞ! それまで持ちこたえろ!」と叫び、直照が刀を抜いて身構えると、大男はにやりと笑って剣を向けた。

 たちまち激しい剣戟(けんげき)が始まった。直照は剣豪として知られた人物だ。放蕩(ほうとう)荒淫(こういん)の中でも鍛錬は欠かしていなかった。だが、三十がらみの敵将は恐ろしいほどの腕前だった。重い両刃剣を片手でぶんぶんと音がするほどの速さで振り回し、叩き付けるような斬撃を絶え間なく繰り出してくる。

 必死でよけ、逸らし、斬り返し合う、火花の散るような数十(ごう)の末、次第に押され始めたのは贅沢(ぜいたく)に慣れて体力に劣る直照の方だった。直照はじりじりと後退し、地図が広げてある低く広い机の前へ追い込まれた。

 勝ちを確信した敵将は勢い込んで攻め立ててくる。上段からの全力の一撃を直照はかろうじて受け止めたが、下がろうとして机に足を取られ、後ろへひっくり返ってしまった。

 敵将は勝ち誇った顔でにやりと笑うと思い切り剣を振り上げた。やられる、と思い、必死で刀を構えながら、直照はちらりと左右を見て、地図が風で飛ばぬように押さえている大きな石に目を()めた。

 太い叫び声と共に敵将の剣が落ちてきた。思い切り体をねじってどうにか左に避けた直照は、石を手でつかむと、素早く体を起こして相手の兜へ力任せに叩き付けた。

 敵将は意味不明のうめき声を上げて後退(あとずさ)った。激しい衝撃と金属の兜に反響した大きな音で目がくらんだのだ。

「今だ! 死ね!」

 直照は刀を両手で握って構えると、敵将の首元目がけて渾身(こんしん)の力で突き出した。直照はこれで勝ったと思った。

「ぐおっ!」

 だが、叫んだのは直照だった。刀の先端が敵ののどに届く直前、轟音が聞こえて背中に激痛が走ったのだ。更にもう一発銃声が響いて、今度は右の太ももを弾丸が貫いた。思わずよろけた直照が机に手を突いて足を踏ん張り、苦痛をこらえて振り返ると、陣幕の下から半身をのぞかせて鉄砲を構えている男と目が合った。

 雑兵の格好をした五十過ぎらしいごま塩髭の男は、無表情に直照を見返すと、その横へ目を向けた。はっとして振り返った瞬間、敵将の刀が直照の腹を貫いた。苦悶(くもん)のうめきを漏らして地面に(ひざ)を突いた直照の視線の先に、鉄砲の男は既にいなかった。

 髭面の敵将が直照の鎧の隙間に手を突っ込み、(えり)をつかんで引き起こした。直照はかろうじて足を踏ん張り、その手をはがそうとしたが、痛みで体に力が入らず、相手の太い腕はびくともしなかった。助けを求めて辺りを見回すと、家臣達は全員(あけ)に染まって倒れていた。

 敵将が後ろを向いて何か言った。

「そう、その男よ。鍾霆(しょうてい)将軍」

 高い凛とした声が聞こえて目を向けると、真っ白な着物を着た若く美しい女が立っていた。

「お久しぶりね、杏葉公。あなたには死んでもらうわ」

「なにっ!」

 陣幕や地面が血で染まったこの戦場に全く不釣り合いな格好と不穏(ふおん)な言葉に直照は驚き、その美貌をまじまじと眺めて、面影に見覚えがあることに気が付いた。よく知る人物と似ているように思われたが、直照はそれが誰だったかを考えるより先に大声で怒鳴った。

「この裏切り者が! 貴様は敵軍に協力しているのか! 今すぐにここから出て行け……うぐっ!」

 直照の怒声は途中でうめき声に変わった。敵将が鎧に刺さっていた剣を引き抜いたのだ。背中と腹部の激痛に顔をゆがめて血を吐いた直照に、若い女は憐れむようなまなざしを向けた。

「私のことを忘れてしまったのね。玉都へ行った時、私に会わせろと屋敷に押しかけてきた上、気に入ったから妾に寄越せと持ちかけてお父様を随分怒らせたくせに」

 細身の若い女は言葉に呆れと共にどこか懐かしがる響きをにじませたが、すぐに元のきっぱりした口調に戻った。

「あなたを逃がすわけにはいかないわ。私達は総大将を討ち取って恵国軍の強さを示す必要があるの。そうすれば、今後の諸国の攻略が少しは楽になるはずよ。総監で武守家の一族でもあるあなたには、統国府の高官達の悪行(あくぎょう)を放置していた罪がある。それに、苫浜(とまはま)で捕まえた大灘屋の手代が、大きな銀山を持つ杏葉家との癒着(ゆちゃく)は深いと白状したわ。家臣を殺せばお姉様は悲しむでしょうけれど、これは戦だもの、諦めてもらうほかないわね」

 その言葉を聞いた瞬間、直照は似ている女というのが誰なのかを悟って絶叫した。

「お前が悪の元凶か! この恥知らずめ! 国母様の妹でありながら敵の手引きをするとは、それでも吼狼国人か!」

 傷口からあふれ出した自分の血に染まりながら直照は憎悪に震え、この女を殺してやりたいと心の底から思ったが、もう体が動かなかった。敵将が首に刀を当てた。

「大人しくあの世へ旅立ちなさい。罪を犯した者は報いを受けるべきなのよ」

 そう言った女の声はどこか寂しげに聞こえた。直照は俺には何の罪もないぞと叫ぼうとしたが、その前に、武者総監の意識は苦痛の内に途切れた。


「何をするつもりだ」

 織藤(おりふじ)恒誠(つねまさ)(くすのき)の大木に背を預けて座ったまま、口に運びかけた大社酒(たいしゃしゅ)の木の椀を下ろして尋ねた。立ち上がった実鏡は、豊梨勢の隊列の前にいる家臣に手招きするのをやめ、年上のはとこを振り返った。

「もちろん杏葉公を救いに行くのです。まだ間に合うはずです」

 直照に討伐軍の本陣を追い出された実鏡は、後方で待機していた自軍に戻り、恒誠と共に見晴らしのよい場所で日差しを避けながら戦況を見守っていたのだ。

「もう遅い」

 実鏡は走り寄ってきた近習頭の楢間(ならま)惟鎮(これしげ)に指示を出そうとしたが、恒誠は止めた。

「見ただろう。一万五千の軍勢が二手に分かれて本陣に突撃した。後軍には我等を含めて二万三千の兵がいるが、多くの封主家は既に逃げ腰だった。そこへ、先程御廻組が撤退を開始した。それを見た他の諸侯はこれ(さいわ)いと、人望がない総大将を見捨てて逃げ始めるに決まっている。不意を()かれた杏葉勢七千はいくらも持つまい。それに、敵は後方に回り込んで本陣を包囲しようとしている。今から行っても間に合わないさ。それどころか、こちらまで巻き込まれてひどい目に遭うことになる」

「放っておけと言うのですか!」

 実鏡は驚いた。

「仕方ないだろう。どうしようもないのだ。豊梨家の軍勢はたったの一千五百。我等織藤家の者を合わせても二千弱。到底勝ち目はない」

「そんな……」

 絶句して唇を噛みしめた実鏡に恒誠が尋ねた。

「悔しいか」

「悔しいですよ。当然でしょう!」

 実鏡は眉を寄せて(こぶし)を振るわせた。

「味方の敗北が悔しくないはずがありません」

「しかし、悔しがっても状況は好転するまい」

 恒誠は遠い国の噂をするような口調だった。負けたことを嘆くどころか面白がっている。敵の作戦の巧妙さに感心したらしい。

「ここで怒りに身を任せて圧倒的な敵と戦っても無駄死にするだけだ。敵のあの鮮やかな策略を見ただろう。まるで全ての経過を見通していたようではないか。特に梅枝勢の働きには目を見張るものがある。中軍を動かすようにそそのかし、わずか一千で十倍の軍勢を混乱させた。そして本陣を一気に襲った。光姫殿の姉君が指揮を取っていると聞いたが大したものだ。恐ろしい女がいたものだな」

「華姫様のことはどうでもいいんです」

 実鏡は聞きたくないというように首を振ったが、恒誠には年下のはとこは頭に浮かんだある女人の面影を無理に追い出そうとしたように見えて、月下城の方角へちらりと目を向けた。

 実鏡は未練そうに本陣の方を眺めたが、握っていた(こぶし)を下ろし、小さく溜め息を吐いた。

「仕方ありません。杏葉公を助けに行くのは諦めるしかなさそうですね。ですが、それでは僕達はどうするのですか」

「決まっているだろう。逃げるのさ」

 恒誠はこともなげに言った。

「合戦に勝った敵は全面的な追撃に出てくるはずだ。それを振り切って逃げ延びるだけでも相当な難事(なんじ)だ。急がないと勢いに乗った敵に包囲されて殲滅(せんめつ)されるぞ。お前には家臣を守る責任があるはずだ。俺もまだ死にたくない。それに、焦らずともいずれ恵国軍とは戦うことになる。手の国から玉都へ行くには必ず雲居国(くもいのくに)を通るのだからな。お前は領国を守るつもりなのだろう。ならば、その前に戦力を失ってどうする。助けようがない相手の心配をするより、まずは自分達が無事に逃げ切ることだ」

「逃げ切ることだ、ですか。この状況で簡単そうに言いますね」

 実鏡は深い溜め息を吐いたが、すぐに顔を上げた。

「分かりました。では、逃げましょう。できるだけ損害を出さずに撤退するには、やはりあの道ですか」

「そうだ」

 恒誠の助言で万が一の時の退路は調べてあった。

「裏通りは道が悪くてやや遠回りになる分、使う者が少ない。本街道ほど混雑しないだろう。上手く行けば今日中に後明国(あとあけのくに)へ抜けられるはずだ」

「なるほど。すぐに撤退命令を出します」

「光姫殿は恐らく大丈夫だから心配するな。逃げる準備はしてあるはずだし、この野原へ物見を出しているだろう。もう逃げ始めているかも知れんな」

「きっとそうですね」

 実鏡はほっとした顔になった。

 隊列の間から実護と撫倉(なでくら)安漣(やすなみ)が険しい顔で出てきて、急ぎ足でこちらへ向かってくる。実鏡少年はそばに控えていた惟鎮(これしげ)に頷くと、一緒に祖父の方へ駆けていった。

 その時、討伐軍の本陣の中で恵国軍の大きな鬨の声が湧き起こった。

「総大将が討たれたか……」

 恒誠は一瞬顔を曇らせたが、目をつむってそちらへ軽く頭を下げると、椀に残っていた大社酒(たいしゃしゅ)を一気にあおって手で口をぬぐった。そして、自分の配下にも撤退を命じるために、立ち上がってはとこの後を追っていった。


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