(第四章) 五
五
「失礼致します」
翌二十八日のよく晴れた昼過ぎ、月下の町から少し離れた豪農の屋敷の門前で馬を下りた光姫は、槍を持って立っている武者に声をかけた。
「梅枝家当主の光子と申します。こちらが豊梨家のご本陣とうかがって参りました。ご当主様とご老公にお取り次ぎ頂けませんでしょうか」
歩み寄ってきた警備の武者の長らしい人物は、光姫と付き従う師隆と具総、輝隆と従寿らを検分するように見回してから、丁寧なお辞儀をして、「少々お待ち下さい」と返答した。
光姫は追い払われなかったことにまずはほっとしつつ、まさか会ってくれないなどということはないはずだけれど、と一抹の不安を覚えていた。
恵国軍討伐部隊の諸将の光姫達に対する扱いはひどく冷たいものだった。城を明け渡せという命令を持って帰った光姫は、不満を漏らす家臣達をなだめ、急いで必要なものを運び出すと、武者達まで駆り出して城内をきれいに掃除し、城門に立って出迎えた。だが、到着した直照と興種は、挨拶して「宴の用意がございます」と言った光姫達に汚いものでも見るような目を向け、「毒入りの酒が飲めるか」と吐き捨てるように言うと、さっさと出て行けとばかりに手をひらひらさせて、声さえかけずに城内へ入っていってしまった。後に続く諸将や配下の武者達まで見下すような態度でひそひそと悪口をささやきながら通っていくので、従寿などは怒りで顔を真っ赤にしていたが、師隆と具総は肩を落とす光姫を慰めて、仮の陣を張った近くの古城跡へ向かったのだった。
その体験を思うと、光姫は目の前の豊梨家の武者達の感情の見えぬまなざしに身が震える思いがしたが、おじいさまと実鏡さんならきっと大丈夫よと自分に言い聞かせて、不安を面に出さぬよう、頑張って儀礼用の微笑みを浮かべていた。
「おお、光姫殿」
待つほどもなく、実護が庭を足早に近付いてきた。
「よいところへ来た。丁度そなたの噂をしていたところだったのだ」
笑顔で現れた老将を見て光姫は目頭が熱くなった。ここのところ冷遇され通しだったので、わざわざ出迎えてくれた祖父の温情が身に沁みたのだ。
「どうかしたのか」
すたすたとそばまで歩いてきた実護は、つい顔を伏せて目をぬぐった光姫をのぞき込んだ。心配されていることに気が付いた光姫は、急いで首を持ち上げて胸を張り直すと微笑んだ。
「わざわざ出てきて頂かなくとも、こちらから参りましたのに」
光姫の表情と、その背後でやはりうれしそうにお辞儀をする家老達の様子から大体のことを察したらしい実護は、孫娘に大きな声で言い返した。
「なんの、わしはまだ矍鑠としておるわい。足腰もしっかりしたものだ。若い娘にいたわられるほど弱ってはおらん」
豪快に笑った実護は、きちんと礼をとった。
「ようこそおいで下された。歓迎致しましょう」
「これはご丁寧に」
光姫は慌てて返礼した。
「光姫殿は名門の大封主家のご当主でいらっしゃる。礼を尽くし過ぎるということはあるまい」
「ありがとうございます」
また泣きそうになりながら頭を下げた光姫に、実護はやさしく尋ねた。
「それで、今日は何の用かな」
「実は月下城の軍議の様子をうかがいに参りました」
「なるほど、そういうことか」
実護は得心したように頷いた。光姫は裏切り者の仲間として警戒され、一人だけ軍議に参加させてもらえなかったのだ。
「ならば丁度よい。こちらへ来なさい」
先に立って歩いていく実護に付いて建物の中に入った光姫達は、奥の大きな板敷の広間へ通された。
中央の囲炉裏端には数人が座布団に座って待っていた。光姫を見て顔をほころばせた実鏡の他に、一目で上級武家と分かる二十代半ばの青年が一人、背後に家臣らしい武人を二人従えてきちんと正座しており、その隣では浪人風の二十代前半の人物があぐらをかいている。
既に人数分の座布団が用意されていて、勧められて腰を下ろした光姫に、実護は向かいに座る人物を紹介してくれた。
「こちらは織藤家のご当主殿と連れの方々だ」
光姫が名乗ってお辞儀をすると、新しい客人の美貌に感嘆のまなざしを向けていた年上の方の武家は、丁寧に礼を返した。彼が隣を見やると、同じく目を見張っていた若い方の武家は気が付いてぷいと横を向き、視線を逸らしたままぞんざいに頭を下げた。それを横目に、年上の方が口を開いた。
「私は撫倉安漣と申します。父が織藤家の家老をしておりました。隣にいるのが恒誠と申しまして、織藤家の現在の当主でございます」
光姫は驚いた。礼儀正しい方が家老で、ぶっきらぼうな方が当主らしい。安漣は光姫の表情を見ておかしそうな顔をしたが、挨拶を続けた。
「光姫様のお噂はご老公からかねがね承っておりました。お会いできてうれしく存じます。同じ軍勢に属する者同士、以後よろしくお願い致します」
「討伐軍に参加していらっしゃるのですか」
織藤家という封主は記憶になかったので光姫が怪訝に思うと、それを察して実護が説明してくれた。
「光姫殿が知らぬのも無理はない。織藤家は六年前、隣国の封主家とのいさかいが原因でお取りつぶしになった家なのだ。争いの原因は隣国の村の一つが織藤家の領内にある池から勝手に水を引こうとしたことで、理は織藤家にあったのだが、村の若衆同士の喧嘩が両封主家の小競り合いに発展して、双方に死者が出る騒ぎとなってしまってな。平和を乱す不届き者と武公様のお怒りに触れたのだ。恒誠殿のお父君はその心労で先年亡くなられ、現在はこちらがご当主でいらっしゃる」
元七万貫の封主家の若い主従を実護老人が気に入っていることは、彼等に向けるまなざしを見れば分かった。
「織藤家はこたびの戦で手柄を立ててお家を再興しようと、旧臣を四百人ほど集めて参陣したのだが、杏葉公は浪人者がお嫌いでな。当家が陣を貸しておるのだ。二人ともまだ若いがなかなかのしっかり者で、よく配下をまとめておる。大叔父としてわしも鼻が高い」
織藤家の先々代、つまり恒誠の祖父の昭恒は、実護の姉を娶っているという。実護の娘を母とする光姫は、恒誠とはとこの関係ということになる。
「ご老公にそうまでおほめ頂くと面映ゆいですね」
今年二十七の若い家老はくすぐったそうに笑ったが、光姫の視線に気が付くと、丁寧な中にも年の近い者同士の親しさをにじませた口調で話しかけてきた。
「このたびは災難でしたね。疑われた上に城まで奪われるとは。今も、城を明け渡せとは随分理不尽な話だとお噂していたところでした。ですが、光姫様のこれまでのなさりようからすれば、内通が事実でないことは明らかです。いろいろとご不満はおありでしょうが、戦に勝つまではご辛抱されてご自重なさり、疑う者達に付け入る隙を与えぬよう、お気を付けて振る舞われることです。我々は陣借りの身で大してお力にはなれませんが、応援致しております」
そう言う安漣の笑みはやさしかった。光姫が問うように実護を見ると老将も頷いたので、光姫はこの人達を信じることにした。
「ありがとうございます。心強いお言葉を頂き、感謝致します」
「なあに、伝え聞く光姫殿の行動は、裏切っていながら味方のふりをしているにしては鈍過ぎるだけだ」
「えっ?」
「恒誠様!」
光姫が驚くと安漣が小声でたしなめたが、隣に座る若い当主は全く気にせずに言葉を続けた。
「俺が敵に味方だと言って取り入るなら、自分から城を差し出すだろうな。物資を満載した荷車の列を並べて国境で出迎え、ご馳走を用意して宴を催し、金品をばらまき諸将に女をあてがって歓待する。当主自ら酌をして回って機嫌を取り、従者のごとく働いて信用させる。光姫殿は高名な美女なのだから、そのまま総大将の枕席に侍ってしまうのが最も効果的だ」
「なっ……!」
「恒誠様、言葉が過ぎますぞ」
安漣は止めようとしたが、恒誠はしゃべるのをやめなかった。
「例えばの話だ。大体、冷静に考えて、光姫殿が敵に寝返っているはずがなかろう。敵の大将の色女の妹では疑われることは避けられまい。最初から疑われると分かっている人物を間者に使うなど馬鹿げている。よい間者とは敵に疑いを抱かせず、信用されて懐深く入り込むことができる者だ。そういう立場の人物が突然裏切るから敵は混乱するのだ。怪しんでいた者が寝返っても衝撃は小さいし、事前に対策が立てられるから成功率は低くなり、傷も浅くて済む。それにだ。そもそも、光姫殿の兵力は討伐軍の背後を襲うには少な過ぎる。六万五千の軍勢を攻撃するには少なくとも一万は必要だ。本陣の周りだけでも杏葉家七千、菅塚家二千、その他合わせて二万以上がいるはずだ。たった四千では手も足も出まい」
「はあ……」
「ならば、警戒しつつ正体を確かめ、万が一本当に寝返っているのなら逆に利用できないかと俺なら考える。そのために、むしろ信じ切っているふりをして、光姫殿を油断させようとするだろうな。重要な情報は隠し、嘘を吹き込んで敵の反応を見るのだ。ところが、呆れたことに杏葉公は月下城に入った。疑っている相手が直前まで使っていた城だぞ。罠でも伏兵でも秘密の通路でも準備し放題だ。不用心にもほどがある。総大将も副将の菅塚公も、疑う理由の少ない相手を遠ざけて、警戒すべきところに頭が回らないとは、自分の無能と器量の小ささを吹聴しているようなものだ。そう思わないか」
怒るのも忘れ、呆気にとられている光姫に、安漣が謝った。
「申し訳ありません。この人は言葉の選び方が悪いのが欠点なんです」
黙って聞いていた実鏡は笑いをこらえているが、当人は平気な顔をして瓢箪から木の碗に何かを注いで口に運んでいる。透明なので水かと思ったが、少し金色がかっているので首を傾げると、気付いた安漣が大社酒ですと教えてくれた。濁り酒のどぶろくを布で濾したもので、仰雲大社など諸寺院で儀式用に造っているが、普通の酒屋では扱っていない。昔参拝した時に飲んで気に入って以来、自分でどぶろくの不純物を取り除いているそうだ。
妙なところにこだわる人だわと光姫が思っていると、実護が言った。
「光姫殿は驚いただろう。これは変わった男でな」
老将も苦笑を浮かべていたが、口ぶりは好意的だった。
「恒誠殿は織藤家の長男でありながら封主屋敷の窮屈な暮らしを嫌い、都で町屋に住んで遊んでおったのだ。お家が取りつぶされた後、他家に養子に行った弟の恒寛殿が心配してわしに世話を頼んできてな。会ってみると、この男、変わり者ではあるが、万巻の書を読んで博学多識、殊に軍学の造詣はかなりのものと分かった。そこでわしは将来有望な若者に金銭的援助をし、生活の面倒を見てやってきたのだ」
「じいさまに養ってもらわんでも、俺は一人で生きていける」
恒誠は不満そうだったが、実護は笑って言い返した。
「よく言うわ。恒寛殿からの仕送りは十日と経たずに酒と書物に消えてしまうくせに」
「額が少な過ぎるのだ。もっと寄越せと言っているのだがな」
「諸侯は皆台所が苦しいのだぞ。恒寛殿のところも楽ではなかろう。お主も少しは倹約することを覚えた方がよい。でないと奥方が苦労することになるぞ」
「俺は結婚などしないから問題ない」
「お主はいつもその調子だからな。恒寛殿が心配するのも無理はない」
「あいつは昔から苦労性でな」
「誰のせいなのやら……」
実護は困ったものだというように笑って、光姫の方へ顔を戻した。
「こういう男なのだ。口ではぽんぽん言いたいことをしゃべり散らすのだが、これで全く悪気はない。もう二十四にもなるくせに、そういう辺りは妙に子供っぽいというか、せっかくの頭脳を人の気持ちを慮る方向には使おうとせぬ。おかげで随分損をしているはずだが、改めるつもりはないらしい。どうか笑って許してやってくれ」
「まあ、腹は立ちませんけれど……」
光姫は目を丸くして恒誠という男を見つめた。副将の安漣は髷をきちんと結って立派な紫色の陣羽織をまとっているのに、恒誠は伸び放題の総髪を頭の後方へ流して首の後ろで紐でまとめ、玉都の商家の若旦那のような藍色で無地の地味な小袖を着流している。その上戦陣だというのに無腰で、刀のかわりに藤の家紋を金色で描いた大きな黒漆塗りの軍配を帯に差している。年より若く見える顔から突き出た顎に剃り残しの髭が数本生えているのは、安漣に当主らしくしろと言われて渋々剃刀を当てた結果らしいので、この男は身なりを整えることや、自分をすぐれた武将に見せる努力にはあまり興味がないようだ。だが、よく見ると、恒誠の瞳は高度な知性の持ち主らしい光を湛えていて、どことなく山猫を思わせる精悍さにはある種の魅力があり、安漣の君子らしく落ち着いたやさしげな風貌と好対照だった。
不思議な組み合わせだと光姫は思ったが、それでもこの二人が自分を信用してくれていることは分かったので、恒誠にも丁寧にお辞儀をした。
隣に座る師隆と具総の両家老と、背後に控えた輝隆と従寿を紹介し、安漣がやはり元家老だという警護役の名を告げたところで、実護が話を戻した。
「それで、光姫殿は軍議の様子を知りたいということだったな」
はい、と光姫は頷いた。
「できましたら、詳しくお聞かせ願えませんか」
「それは構わんが、どう話したものか」
実護が首をひねると、実鏡は困った表情になり、安漣も腕組みをして難しい顔をした。理由が分からない光姫が更に尋ねようとした時、恒誠が苦々しげに言い捨てた。
「はっきり言えばいいさ。混乱しているとな」
「混乱と申しますと?」
光姫が聞き返すと、実護が溜め息を吐いた。
「その言葉通りの状況なのだ」
今日も昼まで行われていたという軍議は、実鏡に付き添って参加した実護の話によると、かなり荒れているらしい。総勢三十五人に及ぶ諸将の意見は、ほぼ二つに分かれているという。
一つは若い封主達に代表される積極攻撃論だ。彼等の多くは中つ国から手輪峠を越えてやってきた小規模な外様封主だった。
戦狼時代、臥神島という巨大な狼の胸に当たる中つ国の諸国には、山間の狭い盆地ごとに五万貫以下の小封主が乱立した。彼等は周りを囲う暴払山脈によって世の中の流れから切り離され、延々と小競り合いを繰り返していたが、武公の大軍が侵入してくると驚愕し、雪崩を打ってその傘下に入ったため、結果として一国を四、五家で分け合う状態が残ってしまった。
貫高の少ない小封主達は皆財政が苦しく、近年の物価高と米価の下落に悲鳴を上げていたが、そこへこの大戦が起こった。ここ二十年ほどで代替わりした若い当主達は、出陣の命を受けると多額の出費に頭を抱えたが、同時に貧乏を抜け出す好機と張り切った。戦いで武功を挙げれば加増を受けて収入を増やせるからだ。だが、陣中の費用は抑えたい。最小の費用で功績を立てるために、彼等は今すぐ攻撃を始めるべきだと叫び、我先にと先鋒に名乗りを上げた。
これに対し、慎重論を唱えたのは比較的年齢が高く大きな領地を持つ譜代封主達だった。彼等は手柄を急ぐ者達を牽制し、対峙したまま補給に限界がある恵国軍の物資が尽きるのを待って、弱ったところを叩けばよいと主張した。無茶な戦をして大敗すれば取り返しが付かないから、確実に勝てる状況になるのを待つべきだと考えたのだ。
この二つの派閥に、敵を我が手で打ち破ってくれようと意気盛んな杏葉直照と、何やら考えがあるらしくしきりに自重を唱えて軍議を引き延ばそうとする菅塚興種が付いて、いつまでたっても結論が出ないのだという。
「つまりは、猪突したがる貧乏な若者と臆病になった裕福な老人の争いということだ。外様と譜代の間の溝がもろに出たのだな。司会を務める杏葉家の棉刈殿は戦場経験は豊富なのだろうが、家老の身分では諸将に重しが効かない。軍議が紛糾するのは当然だ」
恒誠がばっさりと切って捨てると、実護が頷いた。
「そういうことだな。おまけに、今日は恵国軍に和平の打診をした者がいるという噂が流れてな。主戦派の者達がそれは誰だと問いつめる騒ぎになって、結局一旦解散して明日仕切り直しということになったのだ」
「和平というのは本当なのですか」
光姫が驚くと、恒誠は「いかにもありそうなことだ」と言って実護を見た。
「敵に和平を持ちかけたのは誰だ。じいさまのことだ。見当は付いているのだろう」
「まあな。わしは副大将殿が怪しいと思う。和平の話を聞いた途端顔色を変えていたからな。ただ、交渉していた本人にしては、知られて慌てているというより驚愕している様子なのが気になったが」
実鏡も頷いている。
「自分が申し込むつもりだったのに誰かに先を越されたといった辺りか」
「かも知れぬな」
「では、和平になるのですか」
光姫が尋ねると、恒誠が首を振った。
「それはないな。明日にも合戦で結論が出るはずだ」
「どうして分かるのですか」
光姫の疑問に答えたのは実護だった。
「食糧が不足しておるのだ」
安漣が説明してくれた。
「このままでは七日と持たないそうです。杏葉公は物資を置いて先行してきましたし、中つ国から手輪峠を越えてきた部隊は荷車が通れないため、食料を武者自身と馬の背で運べる分しか用意していません。これも彼等が焦っていた理由の一つだったのです。昨日届いた連絡では、四日前の時点で小荷駄隊はまだ玉都にいたそうです。その後出発したとしても、この国に届くまで半月はかかりますから、戦って敵の物資を奪う必要があります」
「まったく、自国で飢えて侵略者から食料を得ようとはな。急ぐとはいえ、持ってきた食料が少な過ぎたのだ。杏葉公は贅沢に馴れて飢えた経験がないからか、物資の重要さを軽視し過ぎておられる」
実護は嘆いた。
「恵国軍は占領した田美国の蓄えと銀で潤っていると聞くが、こちらは月下城にあった食料や、近隣の諸侯が提供したものを合わせてもとても足りないというのだ。それではいやでも戦うほかあるまい」
「撤退を避けるにはそれしか方法がないのです。これだけの大軍を率いてやってきて戦わずに引き返したら、国中の笑い物になりますからね」
恒誠は呆れを隠さなかった。
「蔦茂国を落とされた時点で一気に打ち破るのは困難になったのだから、田美国へ敵を封じ込める作戦にさっさと切りかえるべきだったのだ。俺なら、月下城に守備の兵を置いて一旦引き上げ、都で万全の体制を整えてから、敵の物資が尽きた頃に再び戻ってくる。だが、総大将殿はそれは恥だと考えているらしい。武器すら満足にそろっていないというのにな」
「武器も足りないのですか」
光姫が尋ねると、安漣が答えた。
「矢の不足が深刻です。何万本と必要になる矢は保管に場所を取りますし、湿気で曲がるなど傷みやすいので、大抵の封主家では矢尻や矢羽などの部品だけをしまっておいて、使う時にそれを組み立てるようにしているのですが、今回は急な戦で矢竹の準備が間に合いませんでした。杏葉公は早く手の国へ入って篩田家を救うために諸侯を急かしたので、多くの封主家は出陣を命じる使者が着いた翌日には領国を出発しなければならず、統国府からの支給を当てにして規定通りの数の矢を用意してきた家は少なかったのです。慌てて調べたところ、槍や刀も総馬揃え用の美々しいばかりで非実用的な武具が多かったのですが、これも今から調達するのは難しいでしょうね」
「それでも戦うしかないのだ」
実鏡少年も不満そうながら頷いた。
「味方は勝てますか」
光姫が問うと、実護と安漣は顔を見合わせて困った表情になり、実鏡は眉を曇らせた。
「それを今話し合っていたのですが……」
「負けるだろうな」
恒誠が断言した。
「こら!」
安漣が止めようとしたが、恒誠は無視した。
「片や武将の多くが戦の経験がなく、意見がばらばらで収集がつかないというのに、武器と食料が足りないまま戦わざるを得なくなった寄せ集めの大軍。片や後背の憂いを取り除き、先に戦場に着いて準備万端整え、その上何やらたくらんでいるらしい名軍師と経験豊富な将軍達の率いる軍勢だ。どちらが勝つか、子供でも分かるさ」
「では、どうするのですか!」
思わず叫んだ光姫を、実護が制した。
「まあまあ、光姫殿、落ち着きなされ。これはあくまで仮定の話、そうなる可能性があるというだけだ。まだ負けると決まったわけではない」
「だが、用心するに越したことはない」
恒誠は言った。
「光姫殿も逃げ出す用意をしておいた方がいい。これは忠告だ」
「ご忠告には感謝しますけれど、私は逃げません」
光姫は即座に答えた。
「私はこの殻相国の国主ですもの。どこへも逃げられませんし、逃げるつもりもありません。私は絶対に華姉様を止めると誓ったのです!」
強気で言い切る光姫に、恒誠は首を振った。
「いやでも逃げ出すことになるさ。考えてもみろ。城がないのにあの大軍とどうやって戦うのだ」
光姫はぐっと詰まったが、引かなかった。
「それでも、戦う方法はあるはずです!」
恒誠は向かいに座る家老達の方へ顎をしゃくった。
「この人達は考えていたらしいな」
「師隆さん、本当ですか!」
光姫が驚いて振り向くと、城代家老はやむを得ないという顔で白状した。
「実は、万が一討伐軍が負けてしまった場合のことを皆で相談していたのです」
具総が頷いた。
「最悪の事態を想定して対策を講じておく必要がございますので。姫様のお耳にお入れすると心配なさると思い、黙っておりました。申し訳ございません」
「賢明な判断だな。光姫殿に話してしまっては、顔色から負ける可能性を考えていることが武者達に伝わってしまうかも知れないからな」
「そんなことは……!」
光姫は否定しようとしたが、具総と輝隆が目を逸らしたので、拳を下ろしてうなだれた。師隆は光姫に申し訳なさそうにしながら説明した。
「我々はいざとなったら空になった月下城に入って恵国軍を迎え撃つ計画でした。逃げるつもりはありません」
「覚悟は立派だが、それは無理だな。やめた方がいい」
恒誠は言った。
「なぜそうお思いになるのですか」
師隆が尋ねた。
「出てくる前に城の補強は済ませてあります。十分戦えるはずですが」
「籠城は簡単なことではないのだ」
恒誠は杯の中で透明な酒を回しながら説明した。
「城に籠もるにはかなりの準備がいる。城の補強も大切だが、何よりも物資が必要だ。補給がなくとも最低数ヶ月、できれば一年以上戦えるだけの武器と食料を用意しなければならない。それだけのものが月下城にあるか。ないはずだ。以前は殻相衆三千が籠もるには十分な量があったのだろうが、恐らく討伐軍によってほとんどの武器は持ち出され、食料は食べ尽くされてしまったとみるべきだ。それに、合戦に負ければこの国は恵国軍に占領され、補給物資を受け取ることは著しく困難になる。つまり、城に籠もってもすぐに矢が尽き飢えて、降伏せざるを得なくなるのだ」
「確かに……」
光姫は思わず頷いた。
「それだけではない。月下城は悪い城ではないが、単独で長期籠城するようには作られていない。田美国からの援軍を前提にした城なのだ」
追堀親子の驚いた顔から、恒誠の言葉が事実だと分かった。
「天下統一後、一封主一城の制が定められ、ニ国以上を領する封主家は一国につき一ヵ所だけ城を持つことを許された。その時、時繁公は西国街道の抑えとしてあの城を築かせたが、武守家に遠慮してあまり大きくしなかった。手の国の入口を遮断して自立するつもりではないかと野心を疑われるからな。それに、十五万貫三千人の殻相衆だけで大軍を防ぐことは不可能だ。本格的な侵攻は穂雲城で迎え撃つ想定なのだ」
恒誠は月下城の構造を熟知しているようだった。書物で読んだ知識だけではなさそうなので、自分で城内を歩き回って調べたらしい。
「討伐軍を破れば、恵国軍は全軍の五万を城攻めに投入できる。今、光姫殿の配下にいる軍勢は四千だ。勝利の勢いに乗った十倍の大軍を防ぎ切れるとは思えんな。しかも、敵には城の構造をよく知っている田美衆がいる。とても勝ち目はあるまい。なお、城の前を敵が素通りすることはあり得ない。この国を押さえなければ西高稲にも玉都にも行けないのだから、真っ先に攻撃してくるだろう」
「なるほど……」
師隆は考え込んだ。
「それにだ。そもそも籠城戦というのは敵の撤退を期待してするものだ。味方の軍勢が到着して敵軍の背後を脅かすか、敵が包囲を続けられない事情が生じれば助かるが、その見込みがなく城に籠もるのは自殺行為だ。現在恵国軍は背後を固めて準備は十分、撤退する可能性は非常に低い。また、もし討伐軍が負ければ、食料のない諸侯の軍勢は引き上げていくだろう。次に大軍が編成されて送り込まれてくるまでに、少なくとも二ヶ月はかかる。その間、守り切れるのか。裏切り者の仲間と疑われる者達を救うために息せき切って駆け付けてくる軍勢はないと思うが」
「……おっしゃる通りですね」
光姫のつぶやきは、静まりかえった室内に大きく響いた。と、恒誠の声が急に穏やかになった。
「聞けば、あなたの姉君は民を守っているらしい。敵兵による略奪も起こっていない。恵国軍に国を明け渡しても恐らく大丈夫だろう。というわけだから、光姫殿」
恒誠は笑みを浮かべた。野性味あふれる風貌の割にその笑顔は妙に爽やかで子供のように曇りがなかったので、光姫は驚いて思わずまじまじと見つめてしまった。
「あなたには今の内にこの国を逃げ出す準備をしておくことを勧める。幸いあなたにはまだ逃げる場所がある。天糸国へ行くか、玉都にいる国母様の元へ行くか、どちらにしろ、計画を立てておいた方がいい。戦の支度は必要ないから、そちらにすぐに取りかかるのだな」
「戦の準備がいらないとはどういうことですか」
光姫が首をひねると、安漣が教えてくれた。
「杏葉公や菅塚公が、あなた方を合戦に参加させるとお思いですか」
「あっ……!」
疑って軍議にさえ加えない者を戦いに投入するはずがない。
「どうせ光姫殿は戦には出られない。討伐軍が勝てばいくらでもやりようはあるから、負けた時のことを考えておくことだ」
「なるほど……。ありがとうございます。いろいろ参考になりました」
光姫は何やら狐に化かされたような気分で、恒誠にはこの野原に棲むという霊狐が取り憑いているのではないかと疑いたくなったが、自分のことを考えて言ってくれていることは分かるので、礼を述べた。この人達と会ったことで、今自分達がしなければならないことが見えてきたのは確かだった。
「そうと分かれば、すぐに戻って逃げる準備をしなくては」
光姫は家老達に言った。
「急いで帰りましょう」
光姫が挨拶をして席を立つと、実護達も腰を上げて見送ってくれた。
「光姫殿」
豪農屋敷の門の前で、恒誠が呼び止めた。
「物資は貴重だし道中も必要になるから、できるだけ持って逃げた方がよい。そのためには、すぐに運べるように前もって荷車に積んでおくことだ」
「そうですね。そうします」
「梅枝家の汚名はあなたが雪ぐしかありません。大変な道でしょうが、頑張って下さい」
安漣が励まし、実護が頷いた。
「陰口をきく連中は相手にするな。光姫殿の心が真っ直ぐなことはわしらがよく分かっておる。困難にくじけず、戦って乗り越えていきなさい。そうすれば、いずれ誰もがそなたを疑ったことを恥じることになるだろう」
「僕も応援しています」
実鏡も笑顔で言った。
光姫は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。皆様のご武運をお祈りしています」
騎乗して去る光姫一行を、実護や恒誠達は門の前でしばらく見送っていてくれた。
その四人を馬上で振り返って、光姫はうれしくなった。自分のことを信用し、心配して助言してくれる人達がいることが分かったからだ。考えてみれば、彼等は月下の家臣や民以外では初めての味方だった。
「さあ、銅疾風、行くわよ!」
光姫は馬腹を蹴った。
「光姫様!」
輝隆達が慌てて付いてくる。
光姫は馬を飛ばしながら、わずかではあるが、前途に希望が見え始めたような気がしていた。
宿所の寺院へ戻ってきた光姫は、出迎えた家臣に来客を告げられた。
部屋へ行ってみると、桑宮道久だった。
「なぜ、あなたがここにいるのですか。お姉様のそばにいなければならないはずではありませんか!」
光姫が驚いて叫ぶと、道久はいつもの愛想笑いを浮かべた。
「国母様のご指示なのです」
「お姉様の?」
「はい、内密で華子姫への使者を命じられました」
それだけで光姫は大体の事情を察した。
「華姉様にお会いになったのですね」
道久は頷いた。
「投降を勧めたのですが、断られました」
「そうでしょう。私も追い返されましたもの」
光姫は答えて、寂しげな顔になった。
「お姉様はがっかりなさるでしょうね」
「私の不徳の致すところです」
「いいえ。一度決心した華姉様を翻意させられる人はいませんわ」
光姫は首を振って、道久に尋ねた。
「それで、私に何のご用ですか」
道久は懐から封書を取り出した。
「国母様からお預かりした手紙です。お返事を頂きたく存じます」
「なるほど」
光姫は書簡を受け取ると、立ち上がった。
「すぐに書きますので、しばらくお待ち下さい」
道久は無言で頭を下げた。
お牧と二人で使っている小部屋に戻ると、光姫は早速封を開いた。
手紙の内容は光姫と華姫の身を案じ、華姫を救う方法を探していることを述べ、光姫にも命を大切にして欲しいと書かれていた。
涙を浮かべて読み終わった光姫は早速返事を書き始めた。華姫に会ったこと、投獄されたが逃がされたこと、戦う決意をしたことを述べ、自分が現在置かれている状況を説明して、お姉様も大変でしょうが頑張って下さい、私も頑張りますという言葉で筆を置いた。
光姫が戻ってくると、道久は師隆に光姫軍の様子を尋ねているところだった。
「お待たせしました」
光姫が返事の書簡を差し出すと、道久はそれを押し頂いて懐に入れ、辞去の言葉を述べて立ち上がろうとしたが、ふと思い返したように尋ねた。
「光姫様は、華子姫と戦うおつもりなのですな」
「はい。華姉様を救うと決めましたから」
光姫は頷いた。
「二人の妹君が争うとお聞きになれば、国母様はお悲しみになるでしょう」
「仕方ありません。これは私に課せられた使命ですもの」
光姫が答えると、道久は笑みを浮かべた。
「勇ましいですな。ご武運をお祈りしておりますよ」
光姫軍の陣所を離れた道久は、すぐに霞之介達と合流した。全員馬を引いていた。
討伐軍内の御廻組へ使いしていた者が進み出て首尾を報告した。
「簾形様に、敵陣を偵察された道久様はこの戦いに勝ち目はないと判断なさったので、戦闘では損害を極力避けて兵力の温存につとめ、敗勢が濃くなったら速やかに戦場を放棄して退却せよと伝えて参りました」
「建澄は何と言っていた」
「簾形様は道久様が近くにいらっしゃると聞いて驚いておられましたが、指示を了承されました。どの道先陣は手柄を欲する諸侯がつとめて我等九千は後詰になるだろうから、いつでも撤退できるように備えておくとのことでした」
「ならばよい。これで敗北しても御廻組は生き残れる。直照を守ってやる必要などないからな。ご苦労だった」
家臣をねぎらった道久は、そばに控えていた陰同心に命じた。
「霞之介。討伐軍の作戦と布陣が決まったら、建澄から紙にまとめたものが届く。お前はこの地にとどまり、それを受け取って恵国軍の陣地に投げ込め。そして、戦いの行方を見届けて、例の指示を実行せよ。直照に万が一にも勝たれると手柄を全て持っていかれてしまうからな。恵国軍討伐の功績を立てるのはこの俺でなくてはならん」
「かしこまりました」
道久はごま塩髭の男の返事に頷くと、騎乗した。
「さあ、都へ戻るぞ。戦の結果が届く前に帰りたい。馬が持つ限り飛ばすぞ」
猛然と走り出した道久に続いて家臣達も馬腹を蹴った。
西国街道を駆けながら、道久は後方を振り返った。
光姫は姉と戦うつもりらしいが、勝ち目はあるまい。
道久は昨夜の華姫とのやり取りを思い出した。
あれほど賢い女は他に知らん。光姫ごときがかなうはずもない。あの小娘の命も長くはないな。
妹の死を悲しむ芳姫の顔が目に浮かんで、道久は薄く笑った。
芳姫様は孤独に弱い。誰かを頼り、すがっていたい女なのだ。妹達を失えば更に気が弱くなるだろう。俺にとっては落としやすくなるから好都合だ。芳姫様にはもっともっと絶望してもらわねばなるまい。俺はあの方をやさしく慰め、支えになってやるのだ。そうすれば、あの方は必ずなびく。
芳姫のほっそりしていながら胸や腰の張った体を抱き締める自分を想像して、道久は甘美な思いにとらわれた。
そのためにも俺は芳姫様のそばにいなくてはならん。まずは帰ることだ。任務が不首尾に終わったのは残念だが、この動乱はしばらく続く。俺にもまだ出番があるはずだ。
望天城で自分の帰りを待っているはずの芳姫を思うと道久の帰心はいや増し、一層馬を煽るのだった。
「国母様、あの件はどうなりましたか」
執務の間で所務裁事に問われた芳姫はどきりとした。
「あの件とはなんですか」
紅色の扇でとっさに口元を隠し、できるだけ自然に聞こえるように言い返したので、文机の向かいに控える困った顔の裁事に、どうやら内心の動揺を知られずに済んだらしかった。
「群雀国の水争いに関する決裁です。そろそろ田植えが始まる時期なのですが、水の分配を巡る村同士の争いが収まらず、どちらの水路にも水を流せないままなのです。早く裁決をお下し頂かないと、領民が仕事に取りかかれません」
「ああ、その件ですか。その件でしたら国主代に任せたはずですが」
「その国主代が判断に困っているので国母様にお決め頂きたいのです。同じ川から取水している五十九の村に関わることですので急がなければなりません」
「そうですね……」
もちろんその案件は覚えていたし、急を要することも分かっていた。だが、その判断は芳姫の手に余ることだった。以前なら文机の上に置いておいて、道久の助言をもらったことだろう。
「もう少しだけ考えさせて下さい」
芳姫はなだめるように答えた。
「難しい問題ですので、慎重に判断したいのです」
「ですが、急がないと田植えが遅れ、秋の収穫に影響が出かねません。できましたら今この場で判断して頂けませんか」
「いいえ。もう少しだけ待って下さい。ね、お願いします」
芳姫が微笑んでみせると、所務裁事は開きかけた口を閉ざし、渋々頷いた。それを見て、部屋にいた他の裁事や奉行達が密かに溜め息を吐いたが、八人一斉だったので大きな音になった。驚いた奉行達は慌ててごまかし笑いを浮かべた。
それをにこやかに見返した芳姫は、自分も心の中で大きな溜め息を吐いた。
「では、今日の案件は以上でございます」
執印官達は頭を下げて、退出していった。
自分も奥へ戻ろうとした芳姫に、粟津広範が声をかけた。
「国母様」
腰を上げかけていた芳姫は、座り直して返事をした。
「何でしょう」
六十三歳の仕置総監は、手に持っていた書簡を膝の前に置いて、芳姫に向き合った。
「近頃、執務の速度が落ちておりますな」
「そうでしょうか」
芳姫が笑みを浮かべたまま返すと、広範は大きく頷いた。
「はい。今日だけでも三件、大きな案件を国母様は保留なさいました。これで滞っている事案は三十にもなります。そろそろ配下の者達から不満が出始めております」
「そうですか」
「この頃の国母様はおかしいですな。以前でしたら数日でご裁決頂けた案件をそのままになさったり、簡単な判断を誤ったりなさいます」
芳姫は冷や汗が出る心地がしたが、何とか我慢して微笑んでいた。
「どこかお具合でもお悪いのですかな」
「はっ?」
芳姫は思わず問い返し、慌てて言い足した。
「具合とは体調のことですか」
「はい。この頃のご様子は、まるで半年前の、国母の座にお就きになったばかりの頃にそっくりですな。あの時分のことを、国母様は後に、重い役目を任されて緊張で体調が悪くなり頭が上手く回らなかったとおっしゃっておられましたが、今もそのようにお見受け致しますぞ。よくよく拝見すれば、お顔の色もすぐれぬご様子」
仕置総監は目が悪い者のようにやや首を伸ばして芳姫の顔をしげしげと眺めた。
「確かに、今は他国に攻め込まれるという統国府始まって以来の危機の最中、お心をお痛めになるのはもっともです。ですが、こういう時こそ吼狼国の主柱でいらっしゃる国母様がしっかりなさって、我等を導いて頂かねばなりませぬ。国母様が動揺なされば他の者達も不安に思うもの。執武執印官一同が全力でお助け致しますゆえ、国母様にはどうかお心を確かにお持ちになり、この国の全武家の棟梁にふさわしく、どっしりと構えていて頂きたいですな。重要な決断をなさる時に判断を誤らぬためにも、十分にお体をお休めになってご体調を整えておかれることも、国母様の大切なお役目ですぞ」
そう言って頭を下げると、広範は立ち上がって部屋を出て行った。
それを見送り、今度こそ大きな溜め息を吐いた芳姫は、執務の間を出て奥向きへと戻った。
長い廊下を歩いていくと、中庭の池のそばで直孝が剣術の修練をしているのが見えた。母に気が付いた九歳の元狼公は、木刀を振るのをやめてそばに駆け寄ってきた。付き添っていたお絹も後ろから歩いてきて芳姫にお辞儀をした。
「母上、道久先生はまだ帰ってこないのですか」
直孝が尋ねた。
「素振りばかりではつまりません。先生と稽古がしたいです。……もう直利殿はいませんし」
直孝が叔父を恋しがり、赦免を望んでいることを芳姫は知っていたが、済まなそうに目を伏せただけでそのことには触れなかった。
「道久殿はお役目で都を離れているのです。簡単な仕事ではありませんから時間がかかっていますが、それが終わったら戻ってきますよ。あの方は私と直孝様の護衛官ですもの、必ず帰ってきます」
一人ぼっちになって寂しいらしい直孝を芳姫は慰めた。
「いつ頃ですか」
「きっともうすぐですよ。直孝様がこれほど待ち焦がれているのです。道久殿も急いで帰ってくることでしょう。それまで直孝様はできることをしっかりしておきましょうね」
直孝は残念そうだったが、素直に頷いた。
「はい、頑張って稽古します。うんと強くなって道久先生をびっくりさせてやります」
「そうですね。早く帰ってくるといいですね」
微笑んだ芳姫は、板廊下に腰を下ろした。
本当に早く帰ってきて欲しい。一人ぼっちなのは私も同じだもの。
再び池のそばで木刀を振り始めた直孝から目を離して青空を見上げた芳姫は、道久の引き締まった容貌を思い浮かべて、寂しさを抑え切れなかった。
あの人がいないと、私は何もできないのだわ。
この十日ほどで、自分がいかに道久に寄りかかり、助けられてきたかを改めて思い知らされた。直孝の教育や書簡の処理だけではない。この非常時、軍事に疎い芳姫には報告されても状況がつかめないことが多かった。さすがに広範や諸官は芳姫に作戦の指示を求めはしなかったが、討伐軍の派遣を命じたのは自分であり、妹達も関わっている以上、高稲半島の戦の様子はとても気になった。こうした疑問や不安に丁寧に答えてくれるのは、身近には道久しかいなかった。
私にはあの人が必要なのだわ。こういう時こそそばにいて欲しい。
芳姫は自分の左手を見つめた。光姫と別れた日に迫られたことさえ懐かしく思われる。自室で書簡に目を通している時、気が付くと彼を探してしまう自分がいる。あの射るような情熱的なまなざしが目に浮かんで、芳姫は切なくなった。
あの人は今戦場にいる。もしものことがあったら……。
芳姫は最悪のことを想像して道久を送り出したことを悔やみそうになったが、慌ててその考えを振り払った。
「道久殿を信じましょう。あの方はきっと妹達を救ってくれるはず。その間、私はあの人のいない穴を少しでも埋めておかなくてはならないのだわ」
穴が空いているのは自分の胸のように感じながら、芳姫は立ち上がり、庭に降りて息子の方へ歩いていった。
「あなた達に命令があります」
恵国軍の本陣が置かれている大きな寺院で、華姫は田美衆の帆室治業・内厩謙古・夜橋幽月の三家老を自室に呼び付けて告げた。
「玉都から来た討伐軍に内応なさい」
「内応ですと?」
三人は一斉に驚きの声を上げた。
「そうよ。密かに使者を送って味方をすると約束するの。もちろんふりをするだけだけれど」
華姫はいつもの微笑みを口元に浮かべていた。それを見ながら帆室治業が首を傾げた。
「つまり、内応するといってだましてくるのでございますか」
華姫が頷くと、内厩謙古が尋ねた。
「ということは、安心させておいて不意を突くのですな」
「それがねらいよ」
華姫は次席家老の言葉を肯定した。
「私が指揮をとる田美衆七千と暴波路兵一千は本隊から離れて布陣するわ。場所は狐ヶ原を横から見下ろす丘の上の予定よ。あなた達は敵の本陣へ行って、その八千は討伐軍に敵対しないと約束するの。私達を敵だと思わなければ、杏葉公は安心して大胆な攻撃をするはず。それを恵国軍が迎え撃つのよ」
「なるほど。つまりは計略に引っかけようというのですな」
夜橋幽月が確認した。
「そういうこと。行ってきてくれるわね」
田美衆の家老達は複雑な顔で目を見合わせて黙り込んだ。三人とも本心では恵国軍に味方することに反対だったからだ。華姫はそれを知っているのかいないのか、かすかな笑みを浮かべて家老達の返事を待っていた。
「分かりました。行って参ります」
やがて幽月が答えた。覚悟を決めたらしい。
「必ずやだまして参りましょう」
華姫は頷いた。
「頼んだわ。二人もいいわね」
「いや、しかし……」
謙古が口を挟もうとしたが、幽月はさえぎった。
「よいではありませぬか。なかなか面白い作戦だと拙僧は思いますぞ。さすがは華姫様、これなら我が方は快勝間違いなしでしょう。お二人もそう思いませぬか」
「幽月殿、わしはあまり気が進まんぞ」
「わしも反対だ!」
「まあまあ」
渋る治業と謙古に目配せすると、幽月は華姫にうやうやしく一礼した。
「華姫様、ご命令承知致しました。我等三人で相談して使者を送りましょう。それでよろしいですか」
「頼んだわ。後で報告を頂戴」
「かしこまりました」
幽月が促すので、治業と謙古も仕方なくお辞儀をし、華姫の元を退出した。
「幽月殿、お主は何を考えておる。わしは武守家に敵対するつもりはないぞ」
廊下に出た謙古は小声で詰め寄った。
「しっ、誰かに聞かれてはまずいですよ。私に考えがあります。こちらへ来て下さい」
幽月は庭に出ると、二人を大きな池の中程にある小島へ連れて行き、東屋に入って周囲に人がいないことを確認した。
「どういうことか話を聞かせてもらうぞ」
治業が尋ねると、幽月は低い声で説明した。
「分かりませぬか。だますのですよ」
「だから、討伐軍を謀るのはまずいというのだ!」
謙古は声を殺して怒鳴った。
「穂雲城を幾重にも囲まれて勝ち目がなかったゆえやむなく降参したが、わしは本気で国を売る気はないぞ。第一、討伐軍は光姫様を合わせれば七万四千、我々を除けば四万二千の恵国軍にまず勝ち目はない。我々が生き残るにはできるだけ大人しくして戦わず、勝負がつくのを待って討伐軍に降伏するしかあるまい。だというのに、杏葉公をだますようなまねをすれば、梅枝家は取り潰されるに違いないぞ」
治業も同意見だった。
「恵国軍に積極的に味方することにはわしも賛成できぬ。家中の者に裏切られて夫をかどわかされた上、異国で辛酸をなめられた華姫様の無念を思えばこそ、一旦は恵国軍に味方することに同意した。だが、時繁様を殺したのが恵国軍と華姫様であることを忘れてはおらぬ。わしが抜けてはただでさえ分裂し混乱しておる田美衆は完全に身動きがとれなくなってしまうと思い、こうして華姫様に従っておるが、本心ではわしも光姫様の元へ馳せ参じたいのだ。まして、梅枝家を危険にさらすようなたくらみには断じて荷担できぬ」
「分かっております。気持ちは拙僧とて同じです」
幽月は頷いた。
「だからこそ華姫様のご命令をお受けしたのです。梅枝家を救うにはこれしかありません」
「一体どういうことなのだ」
「納得できる説明をしてもらおう!」
筆頭と次席の両家老にひそめた声で迫られた幽月は、にやりとして言った。
「ですから、討伐軍に内応するのです」
「いい加減にせい! わしはさっきから討伐軍をだますのはまずいと言っておるだろうが!」
つい声を荒らげた謙古に、幽月は首を振った。
「いいえ、だますのではありませぬ。本当に味方するのです。討伐軍の陣へ出向いて、恵国軍に偽りの内応をしてこいと命じられたことを打ち明け、我等は決して討伐軍の邪魔はしない、敵対行動はとらないと約束してくるのですよ」
「なんと……!」
幽月は二人へ深く頷いた。
「華姫様にはだましてきたと報告します。そして討伐軍が勝った後、華姫様を説得して投降するのです」
「なるほど、華姫様の計略を逆手にとるわけか」
謙古がつぶやくと、幽月は大きく頷いた。
「そういうことです。討伐軍は我等七千に横から攻撃されることを心配せずに戦うことができる。これだけでも大きいでしょう。上手くいけば討伐軍と合流して恵国軍を攻撃することができるかも知れませぬ。いずれにしても、当家の功績は小さくなく、恐らくお家の存続は認められましょう。梅枝家は無抵抗で降伏したわけではありませぬ。合戦で多くの死傷者を出し、城を包囲されてやむなく恵国軍の軍門に下ったことを説明すれば、重い罰は受けずに済むはずです」
「華姫様をだますのは気が引けるが……」
治業は唸ったが、幽月は声を強めて説得した。
「これは華姫様のためでもあります。あの方は今のままでは国賊として処刑されましょう。手柄を立ててこそ助命の嘆願もかなうというもの。我等が動かなければ数に勝る討伐軍の勝利は疑いありませぬ。恵国軍に勝たれては困るのです。今は当家の存続を最優先に考えましょう。時繁様もそれをお望みのはずです」
「まったくそうに違いない。帆室殿、幽月殿の提案に乗りましょう」
「ううむ……」
治業はなおも首をひねっていたが、結局頷いた。
「分かった。お二人に全てを任せる」
主席家老の承諾を得た幽月はにんまりと笑った。
「では、まず主立った者達に武守家に敵対しないという趣旨の血判状に署名させましょう。それを持ってわしと謙古殿で杏葉公の元へ行って参ります」
「これで当家も安泰ですな」
三人の家老は頷き合って東屋を出ると、恵国軍の本陣を離れて田美衆の陣所に向かった。




