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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第四章) 四

   四


「ということは、恵国軍は田美・椎柴・蔦茂の三国を完全に平定したのか」

「そのようでございます」

 月下の町にほど近い農家の離れの一室で、椎柴国へ潜入していた桑宮家の家臣は、小身武家に身をやつした道久に低い声で報告した。

「恵国軍占領地域は安定しつつあります。かねてより才女として知られ、恵国での苦労話によって同情を集める華姫が、自ら(おさ)達の陳情を聞き、敵司令官に取り次いで施策に反映させたことで民は安心したようです。特に、税が重かった椎柴国では、華姫が年貢を田美国と同率まで引き下げたことに加え、恵国軍が物資を適正な価格で買い上げ、不足分を工房に大量に発注したため、城下が活気付いております。領民達はすっかり喜び、鳴沼家が戻ってくることを恐れて進んで協力する始末で、反乱を起こすなど思いも寄らぬ様子でございます」

「蔦茂国はどうだ。毒を使ったことに民は怒っていないのか」

 道久は別な家臣に尋ねた。討伐軍に先行して街道を馬で飛ばしてきた道久一行は、この農家に宿をとり、家臣達を恵国軍の占領下にある三国へ送り込んで情勢を探らせていたのだ。

「蔦茂国でも旧来の統治方針を踏襲し、支配の実務を篩田家に任せたことで大きな混乱は起きておりません。恵国兵による略奪を恐れて逃げ出していた者達も安全と分かってほぼ家に戻りました。篩田家は先の戦で大打撃を受けていて、当面反乱を起こす力はありません。領民達も城に入った者達が大量に毒殺されたことで震え上がっており、反抗する意志はないようです」

「硬軟両面の安定化策が効いているわけか」

 はい、と答えたのは穂雲港と銀鉱山を見てきた家臣だった。

「田美国も華姫が父の政策の継承を約束し、商人達との取引を再開した結果、落ち着きを取り戻しています。とりわけ、略奪を働いた恵国兵の公開処刑が大きかったようです。華姫は被害者に謝罪した上で、領民の暮らしは必ず守ると約束したと聞きました」

「ふん、侵略者に荷担する者が民を守るとは馬鹿げた話だ」

 道久は鼻を鳴らしたが、すぐに真面目な顔に戻った。

「では、占領された国々で住民の反乱を煽動(せんどう)するのは無理か」

 三人の家臣は顔を見合わせ、穂雲へ行ってきた者が代表して答えた。

「恐らく難しいでしょう。恵国軍が戦で破れるか、強引な物資の徴発(ちょうはつ)でも行えば別でしょうが、現状では誘いに乗りそうもありません。試みに幾人かにほのめかしてみましたが、反応ははかばかしくありませんでした。どの国の民も、派遣されてくる軍勢との戦いの結果を待っているのだと思われます」

 他の二人も同感らしかった。

「となると、恵国軍を脅して和平に持ち込むには材料が足りんな。やはり一戦する必要があるわけか」

 道久は腕を組んで考えた。

「しかし、直照に手柄を立てさせるのは避けたいところだ。物資は遅れているのだな?」

 これには討伐軍の様子を探っていた家臣が答えた。

「はい。玉都からの小荷駄隊はまだしばらく到着しそうにありません。武者達は配られる米の量が少ないと不満をこぼしておりました。月下城を接収して倉庫にあった武器や食料を押さえ、近隣の諸侯から差し出させても、不足は深刻なようです」

「なるほど。やはり戦どころではないのだな。直照め、今頃慌てていよう」

 道久はにやりとしたが、すぐに笑みを収めた。

「ならば、停戦がまとまれば直照も受け入れざるを得まい。それは好都合だ。恵国軍の動きはどうだ」

「占領した三国に若干の兵を置き、残りと田美衆が月下城の南方、(きつね)()(はら)という野原の入口に陣を敷きました。噂では、敵軍司令官と華姫も昨日到着したようです」

「やはり恵国軍は戦うつもりか。当然だな。地方封主の領国三つでは取引材料として不十分だからな。ここで大戦果を上げて統国府から譲歩を引き出したいところだ。だが、もし負けると厳しいことになるから、戦わずに交渉を始められるのなら乗ってくるかも知れん。兵力ではこちらが大きく上回っているしな」

 思案する道久の前で、五人の部下は邪魔しないように黙って控えていた。

「ここで味方が勝てば直照の手柄、負ければ交渉はしにくくなる。どちらにしても俺には得がない。やはり戦う前に少しでも交渉を進めておくのがよさそうだ。一度和平を打診し、反応をみるか。駄目なら次の手を考えればよい。とにかく俺のことを重要人物として印象付けておくことだ。そうすれば、いくらでも後から交渉に口を出せる。何せ国母様の直命(じきめい)を受けているのだからな」

 一人言ちた道久は、芳姫の顔を思い出しながら尋ねた。

「華姫が禎傑とかいう司令官の妾になっているのは間違いないのだな」

「はい。恵国で見初(みそ)められて司令官の情婦になり、通訳と相談役を兼ねているようです」

「絞り吹きとかいう技術の噂は集まったか」

「穂雲で幟屋泰太郎の近所に住んでいた者に話を聞きましたが、恵国語が堪能(たんのう)で何度も海を渡っていて、相当いろいろな書物を読み、様々なことを研究していたようです。商家の手代風の者が時々人目を忍ぶように尋ねてきていたらしいですが、恐らくそれが大灘屋だったのでしょう」

「やはり絞り吹きという精錬(せいれん)術は本当にあるのだな。これは俺の貿易改革計画に大きな追い風になる。もし、その技術の詳細を泰太郎と幟屋以外に知っている者がいるとすれば、それは華姫に違いない」

 道久は顎に手を当てて考えた。

「となると、やはり売国奴として殺してしまうのは惜しい。芳姫様によい報告をするためにも、投降させて味方に引き入れたい。予定通り、司令官に会う際には華姫を手蔓(てづる)にするのがよさそうだ。和平交渉の仲介の手柄は助命の理由になる。だが、華姫という女、それほどの働きをしているとなると、想像していたより手強いかも知れんな。霞之介(かすみのすけ)の見立てはどうだ」

 横であぐらをかいている五十代半ばのごま塩ひげの男に尋ねると、道久達のやり取りを聞きながら一人だけずっと黙っていた桑宮家の陰同心(かげどうしん)は、低いかすれた声で答えた。

「評判通り、頭の切れるおなごのようで。華姫の打った手と伝わるものは全て理にかなっております。一筋縄ではいかぬ相手かと」

「お前もそう思うか」

 道久は考え込んだ。霞之介(かすみのすけ)は数年前まで隆国で恵国軍と戦っていた老兵だ。道久は戦場経験の豊富さと鉄砲の名人という特殊な技能を評価して、正式な家臣には不向きな陰の仕事をさせる手駒の一人として使っていた。

「確かに、あの芳姫様の妹にしてはなかなかの知恵者らしいな。だが、いくら漂流して異国で苦労したとはいえ、身を売って助けを()うような女なら大したことはあるまい。玉都で聞いた噂はやはり事実だったのだな?」

「へえ、何でも働かされていた鉱山でひどい扱いを受けていたところへ司令官がやって来たので、取り入って妾にしてもらったそうで」

「そして、助けてくれた男に忠実に仕えているというわけか」

 道久は冷笑した。

「だが、死にそうなところを救ってもらった恩はもう十分に返したろう。これまでの罪は問わぬ、姉が帰りを待っていると言えば心が動くかも知れんな」

「かも知れませぬ」

「よし、では、今夜その女に会うことにしよう」

 道久は立ち上がった。

「俺は少し休む。夕方になったら起こしてくれ。日が暮れてから恵国軍の陣を訪ねる」

「はっ」

 五人の部下は頭を下げて退出した。


 夕食後、恵国軍が本陣にしている狐ヶ原の南端の大きな古い寺院を訪れた道久は、統国府の使者と名乗り、芳姫自筆の紹介状を渡して華姫に面会を申し込んだ。驚いて引っ込んでいった兵士はしばらくすると武官を一人連れて戻ってきて、道久を中へ通した。

 連れて行かれたのは寺院の本堂だった。中央の壁際に大きな狼神の像が飾られている板張りの広い部屋は、隅に兵士が数人見張りに立っているだけでがらんとしていた。案内役の武官は道久達に円い(わら)の敷物を勧めると、恵国語で何か言い、一礼して兵士達の隣に並んだ。

「ここで待てと申しております」

 霞之介が教えてくれた。恵国側を警戒させぬため、連れてきたのはこの男だけだった。

「芳姫様の使者だと信じてもらえたらしいな」

 藁の敷物に腰を下ろした道久は、部屋の中を見回して霞之介にささやいた。

「そのようで」

 どうにか最初の関門は突破できたらしいと考えて、道久はほっとした。いくら紹介状があっても門前払いされては話にならないからだ。とはいえ、本当の勝負はこの先だ。まずは華姫を口説き落とし、更に恵国軍の司令官を攻略しなくてはならない。この交渉に俺の出世と吼狼国の命運がかかっているのだと、道久は気を引き締めた。

 廊下を歩いてくる複数の足音が聞こえた。きびきびした軽い音が華姫だろう。それに従う複数の重い音は兵士か、と思っていると、ばん、と音を立てて本堂の扉が開いた。

「ほう、これはなかなか……」

 振り向いた道久は入ってきた人物を見て内心驚き、小さくつぶやいた。華姫が美貌の持ち主であることは知っていたが、これほどとは思わなかったのだ。顔立ちは姉や妹と似ているが、芳姫の(しと)やかな中に隠しきれぬ色香が匂い立つ艶やかさとも、光姫の明るく元気で可愛らしい雰囲気とも違う種類の美しさだった。知的できりっとしているのに何とも言えぬ華がある。玉都で噂になったのも頷けると道久は思った。禎傑とかいう司令官が惚れたのも無理はない。

 そんな心中には気付かぬ様子で、華姫は座っている道久を回り込んで目の前に立ち、見下ろして言った。

「あなたの名前は知っているわ。直信公の側近だったわね。今も御廻組頭というのは本当なのかしら」

 いきなり厳しい声で尋ねられて道久は戸惑ったが、丁寧にお辞儀をした。もっとも、統国府の使者として対等な交渉をするつもりなので、卑屈に見えないように頭はあまり低くしなかった

「はい。わたくしは御廻組頭を拝命しております桑宮道久でございます。この刀をご覧下さい」

 道久は宿所で湯に()かって礼装に着替えていた。腰に差した大小の立派な刀の内、長い方は直信に拝領したもので、桑宮家の家紋が入っている。脇差は御廻組頭が代々帯びてきた刀で、鞘と柄に桜の花と二本の刀を組み合わせた意匠が刻まれていた。

 華姫はそれを見て頷いた。

「お姉様の使いということだけれど、どのような用件かしら」

「国母様から華姫様へ手紙をお預かりして参りました。どうかお読み下さい」

 書簡を二通差し出すと、華姫はそれを取り上げて封を破り、素早く目を通した。

「なるほど。お姉様らしいわ」

 つぶやいた華姫は、値踏みするように道久の全身を再度上から見回した。

「つまり、あなたは和平の使者なのね」

 華姫のまなざしの鋭さに驚きながら道久は肯定した。

「はい。合わせて、華姫様を恵国軍からお助けせよと仰せつかっております」

 道久はできるだけ誠実に見えるように表情を作って、穏やかな口調で用意していた口上を述べた。

「妹の華姫様ならば、おやさしい国母様がどれほどあなたのことをご心配なさっていらっしゃるかよくお分かりでございましょう。華姫様が恵国で大変なご苦労をなさったとお聞きになった国母様は涙をこぼされ、わたくしに妹を連れて戻るようにとお命じになりました。あなたは侵略者へ協力するという過ちを犯されましたが、芳姫様はそれをお許しになり、罪を償う援助もなさるそうです。もし、華姫様を買い戻すのに金銭が必要ならば支払う用意がございます。その他の条件につきましてもできる限り譲歩するつもりでおります。また、わたくしは華姫様を通じて恵国軍の司令官と和平の話し合いを持つようにとも命じられております。これ以上の侵攻をやめて兵を引き上げて下さるのなら、我々は輸出する銀を倍に増やし、交易を一層盛んにするとお約束するつもりです。幟屋泰太郎殿の絞り吹きの技術と銀貿易を武守家の管理下におけば、不正な取引や密貿易をなくし、両国にとって利のある貿易が実現できるでしょう。華姫様には、恵国軍の司令官や諸将の説得と、絞り吹きの技術の完成にご協力をお願い致します。あなたの仲介で和平がなり、貿易が活発になって国が潤えば、反逆の罪を追及しようとは誰も思わないでしょう。是非芳姫様のお心をお()み頂き、投降して和平のためにお力をお貸し下さい」

 黙って聞いていた華姫は得心したように頷いた。

「あなたが何をしにここに来たのかよく分かったわ。あなたの真のねらいもね」

「では、協力して頂けますか」

 道久が尋ねると、華姫はそれには答えず、道久の後方に向かって恵国語で何かを告げた。すると、十人あまりの兵士が本堂の中になだれ込んできて、槍を構えて道久と霞之介の周囲を取り囲んだ。

「これはどういうことですか」

 さすがに道久も驚いて腰の刀に手をかけたが、すぐに離した。この人数差で相手が槍では勝ち目がない。道久も霞之介も武装は佩刀(はいとう)だけだった。

「どうせこんなことだろうと思ったけれど、案の定だわ」

 華姫は冷たい口調で言った。

「私の帰順はともかく、和平はお姉様の発案ではないわね。あなたが勧めたのかしら」

 顔の前に並んだ槍先を警戒しながら、道久は仕方なく頷いた。

「ということは、あなたはお姉様の名を使って和平を結び、自分の手柄にするつもりなのね。どうせあなたを使者にするように持ちかけたのでしょう」

「い、いえ、これは芳姫様のご意志でございまして……」

 言いながら道久の背筋を冷たい汗が伝った。この女はあっと言う間に全てを見抜いてしまったのだ。

「あなたがここへ来ることを、月下城の杏葉直照は知っているのかしら」

 道久は少し迷ったが、嘘を吐いても直照に問い合わせれば分かってしまうことなので、正直に首を振った。

「ということは、これはあなたの独断かしら。そうなの?」

 華姫の刺すような視線と厳しい声に、槍を向ける兵士達の表情も固くなる。道久はやむなく白状した。

「そうです。わたくしが考えたことです」

 華姫は呆れたと言わんばかりに大きく首を振った。

「とんだ忠臣ね。国母を利用して出世しようとは、随分な野心の持ち主だわ」

「だが、これは芳姫様のためでもある」

 道久は鄭重な態度を捨てた。

「芳姫様はご自分の命令で多くの武者が戦に倒れることを恐れ悲しんでいらっしゃる。また、あの方に戦の総指揮などとれようはずもない。だから、俺が和平をまとめると申し出たのだ」

 道久は必死に訴えた。

「これは芳姫様だけでなく、華姫殿のためにも、両国のためにもなることだ。これ以上の戦いに何の意味がある。どうか和平に協力してもらいたい。条件についてはできる限り譲歩しよう。統国府には武力での解決に反対する者も多い。戦いを望む者達も芳姫様のご命令ならば従うだろう。よく考えてもらいたい」

 深々と頭を下げた道久が顔を上げると、華姫の憐れむような視線が待っていた。

「私が戻ってきた理由をあなたは知らないのかしら」

「夫の奪還とか復讐とかいうあれか」

 道久はその噂を思い出した。

「そうよ。それが私の目的の全てよ」

 華姫の冷ややかな声に道久は驚いた。

「私の目の前で夫は連れ去られ、仲間は殺されたわ。私は泰太郎さんを救い出し、実行犯と黒幕に復讐するために敵国に味方し、父を討ち、妹と決別し、今度は姉を敵に回そうというの。その覚悟が分かるかしら」

 華姫は口元に()てつくような笑みを浮かべていた。

「私は目的を遂げるまで決して戦いをやめないわ。私を止めたいのなら、泰太郎さんを探し出して連れてきなさい。そして、玉都にいる鳴沼継村と頃田剛辰を引き渡しなさい。大灘屋仁兵衛と手代の長次、統国府にいる黒幕もよ」

 道久はようやく華姫の決意が本物であることを悟った。

「もっとも、この要求が全て通って目的を達したとしても、恵国軍を裏切るわけにはいかないわね。私をこの国に連れてきて夫の奪還と復讐を手伝ってもらうかわりにあの人を助けると約束したもの」

 華姫の視線を追って振り返ると、真後ろの壁際にいかにも上級武官らしい豪華な衣服をまとった若い男が立っていて、驚く道久を面白そうな顔で眺めていた。

「それに、恵国軍は和平交渉には応じない。統国府を倒して玉都を占領するまで、あの人に止まるつもりはないわ」

 華姫は禎傑に向かって言った。

「私はこの男を捕らえるべきだと思うわ。木の(くい)にくくり付けて和平の使者だと言って敵陣へ見せ付け、目の前で殺してやるのよ。味方の士気を上げるにはうってつけね」

 隣にいる文官らしい人物に今までの会話同様この言葉も通訳させた禎傑は笑って頷き、肝の冷えた顔をしている道久を軽蔑するように見下ろして何か言った。

「好きにしろ、だそうで」

 霞之介が教えてくれた。華姫が恵国語で短く何か言うと、兵士達が一斉に槍を突き出した。

 首元に迫った多数の槍に思わず顎を上げてのけぞった道久を華姫は冷ややかに見下ろして、きっぱりと告げた。

「私は投降しないわ。恵国軍の味方もやめない。お姉様に伝えて。私はあなたに敵対するつもりだと。これは強制ではなく私の意志よ。私は禎傑氏に脅されたのでもすがったのでもなく、互いを認め合って対等な契約を結んだのよ。できることならお姉様にこそ降伏してもらいたいわ。でも、それは無理でしょうから、戦場で決着を付けましょう。これが私の答えよ」

 華姫が片手を挙げると、兵士達は槍を上げてさっと下がった。

「お姉様の腹心らしいから命は助けてあげるわ。殺したら悲しむでしょうからね。玉都へ戻って今私が言ったことをお姉様に伝えなさい」

 華姫は兵士達に命じた。

「この人を外までお送りして」

「かしこまりました」

 吼狼国語の返事が聞こえたので兵士の顔をよく見ると、梅枝家の家臣らしかった。

和尹(かずただ)さん、景隣さん、頼んだわ」

「はっ」

 二人は道久と霞之介を槍で促して立たせ、他の兵士達と一緒に取り囲んで歩かせた。本堂を出て渡り廊下を進みながら振り返ると、禎傑と華姫は扉の前で道久達を見送っていた。

 門の外に追い出された道久と霞之介は歩いて寺院を離れた。門衛の兵士達の視線が二人の背中をどこまでも無言で追いかけてきた。

 大きな伽藍(がらん)や高い塀がすっかり闇の向こうに消えると、道久は足を止めて大きく息を吐き出した。

「まったく、とんでもない女だ」

「ひどい目に遭いましたな」

 霞之介の返事に道久は顔をゆがめた。

「本当に芳姫様の妹なのか。確かに顔は似ているが、中身が全く違う。あれなら単純な光姫の方がまだ可愛げがある。俺はあんな女を妾にする気にはとてもなれん」

「これからどうなさるので」

「どうもこうもあるか。玉都に帰るしかあるまい。必ず夫を救い出してみせると言った時のあの女の表情を見ただろう。あれは地獄まで突き進む覚悟を決めた者の顔だ。到底男に保護を求めるような弱い女ではない。恐らく、言っていた通り、女を使って敵の司令官に取り入ったわけではないのだろう。あの頭のよい女がああまで心を固めているのでは説得など時間の無駄だ。姉妹の情も通用しない。止めるには力でねじ伏せるしかあるまい。和平で手柄を立てる計画は大失敗だ。畜生!」

 道久は大声で叫んだが、すぐに冷静な表情に戻った。

「よし、急いで宿へ帰るぞ。明日玉都へ出発する。次の戦場は都になる」

「どういうことで」

 霞之介が尋ねると、道久は「討伐軍が負けるからだ」と答えた。

「敵はあの女とあの司令官だぞ。そこに噂に聞く切れ者の軍師までいるのだ。杏葉直照などが勝てる相手ではない。恐らく、あの女がああまで強硬な態度を取ったのは何か策があるからに違いない。合戦に敗北する可能性を考えているのなら、交渉の余地ぐらいは残しておくだろうからな。となれば討伐軍は負ける。仮に大敗しなかったとしても、戦いが長びけば都で不満が高まり、直照は総大将を解任されるだろう。かわって全軍の指揮をとる者は誰だ。御廻組六万五千を動かせるこの俺以外に適任者がいるか。次こそ俺が総大将になって、都へ攻め上ってくる恵国軍を打ち破ってやる。それには芳姫様を説得し、事前に方々へ根回ししておく必要がある。敗報が届く前に都に戻らねばならん」

 説明した道久は、突然にやりと笑った。

「お前は鉄砲が使えたな」

 道久は陰同心の男を見た。

「遠くで動くものをねらうことはできるか」

「へえ、そういうことならお手の物で」

 霞之介の腕前は道久も以前確認している。自分で改造したという二連発の鉄砲で、弓が届かぬ距離に置かれた二つの的の中心を見事に射抜いてみせたことをよく覚えていた。

「では、杏葉直照を殺せ」

 道久は鋭く命じた。

「やつは邪魔だ。総監の座を空けるためにも確実に排除しておきたい。できるか」

 霞之介は少し考えたが頷いた。

「近付けさえすればできやしょう」

「ここは戦場だ。きっと隙があるはずだ。上手くやってみせろ」

 霞之介が頭を下げると道久は歩き出した。陰同心の男は数歩後ろを足音を立てずに付いてくる。

 道久はすたすたと足を運びながら、腕組みをして明日の動きを考えた。

「出発前に討伐軍にいる簾形(すのがた)建澄(たけずみ)に使者を送るか。敗勢が濃くなったらすぐに撤退せよと命じるのだ。勝てぬと分かっている戦で俺の手足である御廻組を一部とはいえ失うことは避けたいからな」

 つぶやいた道久は、ふと足を止めた。

「そういえば、もう一つ仕事があったな」

 道久は懐を探って手紙を取り出した。

「帰る前に光姫に会わねばならん。確か月下城を追い出されて近くの丘にいるんだったな。場所は分かるか」

 振り返って尋ねると、陰同心の男が肯定した。

「へえ、町から遠くないようで」

「よし、では明日訪ねるとしよう」

 そうして再び歩き出した二人の男は、晩春の夜の暗闇の中へ溶けるように消えていった。


「和平は本気だと思うか」

 自室に戻った禎傑は、小卓の向かいに座った華姫に杯を差し出しながら尋ねた。

「本気だったと思うわ。お姉様はよく分かっていなかったに違いないけれど。あの男に戦いを避けられるかも知れないと言われて乗ってしまったのね」

 華姫は酒を断って寂しそうに笑った。これで姉ともはっきり決別したことになる。芳姫の現在の地位を知った時から分かっていたことだが、やはりつらかった。

 妹思いで争い事が嫌いな姉はあの男の報告を聞いて悲しむだろう。そう思うと胸が痛んだが、あんな提案に乗ることはあり得ないのだからと、首を振って嘆く姉の姿を頭から追い出すと、杯に酒を注いでいる禎傑へ提案した。

「和平の使者が来たことは敵と味方に漏らすべきよ」

「どうするのだ」

 杯を手に首を傾げる禎傑に、華姫は言った。

「大軍を派遣しておきながら和平を打診してくるということは、統国府内部には意見の対立があるに違いないわ。そこを利用するの。使者の名は伏せて情報を広めれば、月下城の武将達は疑心暗鬼に陥るはずよ。使者を送ったのは誰だと怒るかも知れないし、和平が結ばれる前に功を立てようと焦って攻撃してくるかも知れない。もし、他にも和平を考えていた者がいるとすればきっとどきりとするわね。いずれにしても、敵の足並みは乱れるわ。それに、味方の兵士達は敵が弱気になっていると思って勢い付く。どう考えても、黙っているより漏らした方が得ね」

「任せる。好きにしろ」

 禎傑は杯を一息にあおると満足そうに笑った。

「お前の知謀は大したものだ。お前を味方に付けたことは大正解だったな」

 華姫は小さく微笑んで立ち上がった。灯火に近付くと、手に持っていた芳姫の二通の手紙をかざし、炎を移して部屋の火鉢に投げ込んだ。禎傑は椅子を離れ、歩み寄って、背後から華姫を抱きしめた。

 華姫は振り向かず、胸に回された禎傑の腕に両手を置いて、次第に灰になっていく姉の手紙を黙ってじっと見つめていた。


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