(第四章) 三
三
「光姫様」
晩春の昼前の日差しの下、月下城の大手門に防御用の盾を取り付ける大工達を見守っていた光姫に、背後から声がかかった。
「あら、輝隆さん。どうかしたの?」
薙刀を持った光姫は、聞き慣れた声に、大工の頭領との話を中断して振り向いた。武装して弓を背負ったお牧と銀炎丸も主にならって後ろを見た。すたすたと歩いてくるのは、殻相国を預かる月下城代家老追堀家の二十二歳の跡取り息子だった。
華姫と決別した後、光姫は夜通し馬を飛ばして西国街道を北上し、心配して国境まで迎えに出ていた輝隆の父の師隆と合流して翌朝早く月下城へ戻ってきた。すぐに全家臣を集めさせた光姫は、時繁と戦死者達の法要を盛大に行ってぼろぼろ泣きながら喪主を務めると、一旦下がって総馬揃え用の衣装に着替えた。
薄桃色の鉢巻きを締め、同色の厚手の上衣と袴に下垂れ付きの白と赤の胴鎧と兜を着け、伝家の脇差を帯びて愛用の薙刀を手に持った光姫は、大広間を埋め尽くす人々の前に再び進み出た。そして、自分が当主として立つと宣言し、武守家に味方して華姫と戦おうと呼びかけた。光姫は銀炎丸と共にたびたびこの城へ遠乗りに来ていたので多くの家臣達と顔見知りであり、その決意は不安を抱えて去就に迷っていた殻相衆の武者達から好感を持って迎えられた。
光姫の下知に従うと宣誓した家臣達は、副将に任じられた追堀師隆と餅分具総の指揮の下、早速城の強化と物資の調達に動き出した。それを確認すると、光姫は月下の町衆の代表と近隣の村の長を城へ呼び、事情を説明して戦への協力と避難の準備の約束を取り付けた。
こうして殻相国の掌握は成功したが、問題は兵力だった。十五万貫の三千人しかいないのだ。梅枝家の残り一国である天糸国からの援軍も、しばらくして帰ってきた使者によると、どちらの姫に味方したものか意見が割れて混乱しており、当てにならないとのことだった。
その後、光姫の自立を聞いて華姫を離反し、穂雲城下から逃れてきた家臣が約一千人に上ったので、この者達は具総の指揮下に置き、殻相衆を師隆に率いさせることにして、総数は四千となった。それでも、華姫に付いた田美衆一万一千六百と比べてさえ三分の一、到底本格的な侵攻には持ちこたえられない。
幸い、恵国軍は軍勢の半分近くを蔦茂国へ派遣し、殻相国方面は国境を封鎖して守りを固めただけだったので当面は安全だったが、二万もの軍勢の前では篩田家の敗北は時間の問題だった。光姫は周辺国と玉都へ使者を送り、自分の当主就任に理解を求めて軍勢の派遣を要請していたので、その到着に期待するほかなかった。
といっても、光姫はただぼんやりと援軍を待っているつもりはなく、最悪の場合は単独でも恵国軍と戦う覚悟で可能な限りの準備を指示した。家老二人と輝隆に細かい計画や実務は任せて欲しいと言われたので、光姫自身は大きな方針を示す役目に徹することにして、報告を受けて進捗状況を確認するにとどめていた。
そのかわり、毎日城内を銀炎丸やお牧と忙しく駆け回って、城を補強する職人達や物資を運び込む町人達をねぎらったり、副将二人の指揮で軍勢としての進退や陣形の訓練を繰り返す家臣達を励ましたり、城の女達に武芸の稽古を付けてやったりしていた。元気で明るく気取らない光姫は家臣や町民に人気があり、城内を歩くと次々に声をかけられた。姫様がお出でになると家臣や職人達が張り切るので仕事がはかどるという評判で、師隆達はそれこそが大将の役目だとほめたので、光姫はますます意気込んで城内を巡っているのだった。
「こちらにいらっしゃいましたか」
追堀輝隆はそばまで来ると、主君に丁寧に頭を下げた。母が時繁の妹と光姫には従兄に当たるこの四歳年上の青年は、親しみを込めたまなざしを向けつつもきちんと当主に対する礼をとったので、ついいつものように笑みを返そうとした光姫は、慌てて顔を引き締めた。殻相国を預かる重職にある追堀家は梅枝家から古くに別れた分家の一つで、一門衆に列する輝隆とは会う機会が多く、光姫にとっていわば兄のような存在だった。
「何かご用かしら」
「報告がございます」
輝隆はかしこまって答えた。
「玉都からの援軍が到着致しました。昨日先頭が後明国との国境を越えて当家の領内に入ったそうです」
「やっと来たのね!」
光姫が顔を輝かせると、従兄はそれに応えるように笑みを浮かべたが、すぐにしかつめらしい顔に戻った。
「はい。一昨日独岩の町の外で全軍が集結し、まっすぐこの城へ向かってきているようです」
「思ったより遅かったわね。恵国軍上陸からもう二十五日目よ」
「恐らく玉都へ武者や物資を集めるのに時間がかかったものと思われます」
輝隆は真面目腐った口調で言上したので、光姫は思わず笑いそうになった。何度も一緒に馬を走らせた従兄の改まった態度がくすぐったかったのだ。正直なところ、今更輝隆の前で当主ぶって振る舞うのは照れくさいのだが、周囲の目があるのでぐっと我慢して、できるだけ自然に見えるように威厳ある微笑みを向け、「きっとあなたの想像通りね」と答えておいた。
「ありがとうございます」
輝隆は光姫の気持ちを知っているのかいないのか、主君の前に出た家臣らしい表情を崩さなかった。光姫は溜め息を吐きたくなったが、何も言わずに頷いた。君臣のけじめは必要だし、従兄のこの生真面目な性格には助けられてもいたのだ。
というのは、時繁が二人を結婚させようと考えていたのは周知の事実だったので、それを断って都で見合いを始めた光姫としては、穂雲城から脱出して月下城へ逃げてきた時、城門で待っていた従兄に顔を合わせづらかったのだ。輝隆はそんなことは気にしないで温かく迎えてくれたので光姫はほっとしたが、その反面少々物足りなくも思った。そういうやさしさや真面目さや物分かりのよさが彼の美点である一方で、周囲から許婚同然に思われていた相手に少しも積極的に迫ってこず、見合いを始めても怒らなかったようなところが、光姫に結婚をためらわせた理由でもあったのだ。
とはいえ、輝隆は光姫が無条件で信頼できる人物の一人であり、この従兄を補佐役に得たことは心強かった。
「現在の進軍速度ですと、夕刻にはこの城に到着すると思われます。当家としても迎える準備をしなくてはなりませんが、そのご相談を致したいと父が申しております」
と、そこへ、その当人と餅分具総がやってきた。
「光姫様、お探ししましたぞ」
副将二人は足早に近付いてきてお辞儀した。
「状況は息子からお聞きになったと存じます。どうなさいますか」
「援軍受け入れの用意は師隆さんにお願いするわ。もう考えてあるのよね。私はすることがあるの」
「確かに歓待の計画は既に立てて準備もしてあります。お任せ頂ければすぐにでも取りかかりますが、光姫様はどうなさるのですか」
五十がらみの家老は丁寧な口調で尋ねた。
「もちろん、援軍を迎えに行くのよ。私達を助けに来てくれたのだもの、途中まで出向いてご挨拶し、ここまでご案内しなくては失礼だわ。お礼も申し上げたいし、これから先の相談もあるわ」
「そのことなのですが、出迎えは具総殿に行ってもらいますので、光姫様はこの城でお待ちになっていて下さい」
具総と一瞬目を見合わせた師隆が提案した。
「どうして?」
光姫が驚くと、師隆はやさしく微笑んで答えた。
「光姫様は総大将でいらっしゃいます。この城に必要です」
「爺も同意見でございます。当主は軽々しく動くべきではございませぬ。姫様はお残り下され」
具総も引き止めようとしたので、光姫は首を傾げ、薙刀を地面に突いたまま少し考えたが、すぐにきっぱりと言った。
「いいえ、やっぱり私が行くわ。援軍には当主自ら出迎えて感謝を示すのが礼儀というものよ。私が杏葉公に直接お会いして、これまでの事情や田美国の状況をご説明するわ」
師隆と具総は溜め息を吐いたが、こうなると光姫は意志を曲げないと知っているのか、やむなく頷いた。
「では、私も共に参りましょう。輝隆、お前も来い」
「わしも参ります」
悲壮な面持ちの二人の家老を不思議に思いながら、光姫は頷いた。
「では、早速向かいましょう。銅疾風を出して」
戦装束に着替えて薄化粧をした光姫は、弓と薙刀を背負い、愛馬にまたがって西国街道を飛ばしていった。後に続くのは追堀親子と具総とどうしても付いていくと言い張ったお牧、それに護衛として深松従寿ら十名だった。
従寿は時繁の近習だった若者だ。森浜村の合戦では主君に付き従って身辺を守り、敗北後も共に逃れたが、時繁が鉄砲の流れ弾に当たって肩に重傷を負い、郊外の小さな寺院で包囲されて自刃した際、殉じようとして止められた。
時繁は「あの世までお供します!」と叫ぶ二十歳の従者を叱り付け、かすれた声でこうつぶやいたという。
「わしは絞り吹きが吼狼国にとって有益な技術であると知りながら研究をやめさせようとした。その罰が当たったのだ。華子を追い込んだ原因はわしにある」
しばし祈るように瞑目した時繁は、腰の差料二本を引き抜いて従寿に持たせ、命じた。
「この脇差を光子に渡してくれ。これは梅枝家の当主が代々帯びてきたものだ。次はあの子が持つのがふさわしかろう。長い方はお前にやるから、それを身に着けて光子に仕えてやってくれ」
従寿は泣く泣く二本の刀を受け取ると寺院の床下に隠れ、時繁の自刃と恵国兵の突入の混乱に乗じて境内から抜け出し、丸二日逃げ回ってようやくたどり着いた月下城で光姫を待っていたのだった。話を聞いて大泣きする光姫に脇差を渡した後、この青年は願い出て護衛として仕えることを許され、以後は常に影のように付き従っている。
六万五千の軍勢は、月下の町まで歩いて半日ほどのところで停止していた。丁度昼食時と見えて、武者達は各所で数人ずつ固まって握り飯にかぶり付いている。その間に馬を乗り入れると、武者頭らしい人物が十人余りを連れて近寄ってきた。
「お名前をお聞かせ頂きたい」
槍を構えつつ一応は丁寧な口調で尋ねられて、光姫は馬上から答えた。
「梅枝家の当主、光子と申します。遠路の援軍ありがたく存じます。総大将の杏葉公にお会いしたいのですが、どこにいらっしゃいますか」
武者頭は一瞬驚いたがすぐに態度を改め、武者達に槍を下ろさせて一礼した。
「失礼致しました。本陣は一里ほど先にございます。ご案内致しましょう」
先を歩く武者頭に付いて馬を進めて行くと、街道脇の一角に四角く張られた広い陣幕が見えてきた。槍を持った武者がずらりと並んで警備に当たっている。光姫達はその手前で馬を下り、護衛の武者に手綱を預けると中に入った。
床机に座って待っていたのは、高価そうな陣羽織をまとった五十がらみの武将だった。直照の姿は見当たらない。
どういうことかしら、と訝しんで辺りを見回していると、その武将はじろりと光姫をにらみ、いきなり大声を上げた。
「待っていたぞ、裏切り者め! 者ども、こやつらを引っ捕らえよ!」
武将が軍配を振ると、幕の陰から数十人の武者が駆け出てきて、周囲を取り巻いて槍を向けた。
「これはどういうこと! 私達は味方よ!」
光姫は驚愕して叫び、輝隆や従寿達は刀を抜いて身構えた。武将は腰掛けたままそれを憎々しげに眺めていたが、手にした軍配を光姫に向けて決め付けた。
「何を申すか、恵国の手先め! どうせ我等の陣容を探りに来たのだろう。これぞ飛んで火にいる夏の虫。捕まえて杏葉公に突き出してくれよう」
「違います。私達は援軍を迎えに来たのです!」
「そんな言葉は信じられぬ。お主の姉は敵に寝返ったそうではないか。まともな吼狼国の女なら、虜囚になって辱めを受ける前に自刃するもの。敵の大将の妾になった上、故国へ攻め込むのに協力するなど言語道断だ。都では、梅枝家は恵国と結んで武守家を倒し、取ってかわるつもりだろうと皆噂しておる。ならばお主も同類と見るのが妥当な判断というものだ」
「そんなことはありません。姉とは縁を切ったのです!」
「それが本当だという証拠はどこにある」
「証拠と言われましても……」
光姫が口籠もると、武将はほら見ろという顔をした。
「田美国の様子を探らせていた隠密から、お前が穂雲城に忍び込んで戻ってきたらしいという報告も入っておる。姉と決別したのなら帰ってこられるはずがあるまい。吼狼国武家の娘の誇りがあるのなら、姉に会った時に売国奴を成敗すべきだったのだ。味方のふりをして我が軍に加わり、背後を襲うつもりに違いない」
「姉の部下が密かに逃がしてくれたのです。統国府を裏切ってなどいません。大体、あなたは誰ですか! 想像で人を疑うなんて!」
光姫が言い返すと、その武将はにやりと笑った。
「わしは統国府の治都裁事にして討伐軍副大将の菅塚興種と申す者だ。お前を捕らえて自白させ、梅枝家の叛意を証明して、海国丸の事件など言い訳に過ぎぬことを世に示す。田美国の銀山は没収して統国府のものにする。わしとて国母様の身内を捕らえるのは心が痛むのだが、裏切り者を放ってはおけぬからな。これで、この戦で真っ先に手柄を立てたのはわしになるというわけだ。粟津公の覚えもよくなり、仕置総監の座も更に近付こう。……おい、早く捕まえろ。多少手荒なことをしても構わん!」
興種が顎をしゃくって合図すると、武者達が槍先を向けながら包囲の輪を縮め始めた。
「姫様をお守りしろ!」
輝隆が叫び、六人が円陣を組んだ。光姫も仕方なく薙刀を構えたが鞘は外さなかった。ここで武者達を傷付けたら立場は更に悪化するからだ。皆もそれは分かっているようで、刀の者達は峰打ちの構えだった。
「このような人物が相手では話になりません。一旦ここから脱出して月下城に帰り、改めて使者を出しましょう」
師隆が言い、光姫は頷いた。
「そうするしかなさそうね」
光姫は城を出てくる時に家老達が止めようとしたことを思い出し、自分の浅はかさに呆れた。
「この可能性に気付かなかったなんて、私は本当に間抜けだわ」
薙刀を両手で握って周囲に目を走らせつつ光姫が嘆くと、輝隆が真剣な顔をややゆるめて答えた。
「いいえ。その真っ直ぐで迷いや疑心と無縁なところが光姫様の魅力なのです。浅慮とは違いますよ」
「総大将は常に自分の正しさを信じて堂々としていなければなりませんからな」
師隆が言うと、具総が頷いた。
「まったくでございますな。姫様がそういうお方だからこそ、武者達が喜んで付いていくのですよ」
お牧と従寿も好意的な笑みを浮かべていた。
「姫様は前だけを見ていて下さい」
「横や背後は俺達がお守りします」
「ありがとう」
光姫は微笑んだが、すぐに顔を引き締めた。
「では、まずはここを切り抜けてお城へ帰りましょう」
「かしこまりました!」
家臣達は口をそろえて返事をした。
「何をしておる。さっさと捕らえぬか!」
興種は苛立って軍配を振り回した。武者達は顔を見合わせ、槍を引くと一斉に突き出そうとした。
そこへ、しゃがれた太い声がかかった。
「待たれよ!」
陣幕の出口を警備する武者達を押しのけて入ってきたのは、黒に赤や橙の交じった鎧兜を身に着けた大柄な武将だった。声や白い髭からするとかなりの高齢らしかった。
「双方、刀を引け!」
武将に続いてその部下らしい鎧武者十人余りが駆け込んできて、光姫達と菅塚家の武者達の間に割り込んだ。
「副大将殿と戦おうとは、光姫殿のお転婆ぶりは変わらんのう」
そう言って笑った老将の顔をよく見て光姫は大声を上げた。
「豊梨のおじいさま!」
「おお、わしだ。久しいな」
豊梨実護ははっはっはと笑った。この六十五歳の武将は雲居国を領する譜代封主家の隠居で光姫の祖父に当たる。老将の隣には現当主で十四歳の実鏡もいて、従姉の光姫に笑顔を向けていた。この少年は父が昨年亡くなって後を継いだばかりの上まだ若いので、実護が後見役として初陣の孫に付いてきたらしい。「戦場経験の豊富さを買われて、この老骨に統国府から出陣要請が来たのだよ」と実護は語った。
「蓮山家の次男坊と見合いした後すぐに国へ帰ったと聞いておったが、悪い噂を知って案じておったのだ。だが、まさかこんな軽率な振る舞いをする者がおるとはのう」
老将の言葉に興種は嫌な顔をしたが、実護はそれを無視して光姫に歩み寄り、急に眉を曇らせた。
「時繁殿は残念だった。華姫殿が敵に寝返ったと聞いたが、まことなのか」
「残念ながら両方とも事実です」
光姫は答えた。
「でも、お姉様にも理由があります」
「それは後で聞くとしよう。だが、その前に刀を収めなさい。この場はわしが預かる。そちらも兵を引かせよ!」
最後の言葉は興種に向けたものだった。
「し、しかし……」
「しかしもへちまもあるか! わしは光姫殿をよく知っておるが、敵に寝返るような娘ではない。それに今や光姫殿は梅枝家のご当主なのだぞ。大封主家の当主に刀を向けるとは何事だ。それとも、興種殿は本当に光姫殿が敵に合流することを願っておるのか。どうなのだ!」
「い、いや、それは……」
「ええい、早く武者を下がらせろ! 万が一何か起こったら、わし自ら盾となってお主達を守ると約束しよう。だからここは引きなされ」
「ご老公がそこまでおっしゃるのでしたら……」
興種もとうとう折れて、武者達に出て行くように合図した。光姫達はほっとして武器を下ろした。
「ありがとうございました」
頭を下げる光姫に、実護は豪快に笑った。
「なに、当然のことをしたまでだ」
「さすがは剛勇で聞こえたおじいさまでいらしゃいますね」
実護はかつて武公の麾下で随一の猛将として名を轟かせた人物だった。時繁は以前、当時まだ十代だったわしは実護公から戦陣での振る舞いの多くを学んだのだと話していた。
「それで、光姫殿は何の用事でここまで出向いてきたのかな」
尋ねられて光姫は思い出し、副大将に礼をとった。
「菅塚様。梅枝家は恵国軍の討伐にいらした皆様を歓迎し、全面的に協力させて頂きます。杏葉公ほかの方々をご歓待申し上げる用意がございますので、是非月下城へお出で下さい」
「なるほど、それを伝えにきたのか」
実護が納得すると、興種は考え込んだ。
「ふむ、城への案内とな……」
興種はなおも不満そうな顔つきで光姫達をちらちら見ながら腕を組んで思案を巡らせていたが、急ににやりと笑った。
「そなた達は我々に何でも協力すると申したな」
「はい、全て討伐軍のお下知に従います」
興種の表情に嫌な予感を覚えながら光姫は答えた。
「ならば、城を出てもらおう!」
興種は犬が吠えるように叫んだ。
「と、申されますと?」
師隆が尋ねると、興種は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「月下城を明け渡せ。我が軍が本拠地として使用する。梅枝家の者は城を出てどこかに野営せよ」
「何ですって!」
光姫は顔色を変えたが、興種はにやにやしながら言った。
「どんなことでも協力すると申したであろう。ならば、城を我等に譲ってもらおうではないか。今、梅枝家の動向には注目が集まっておる。お主を疑っておるのはわしだけではない。味方と申すからには、証拠としてそれぐらいのことはしてもらわねばな。必要な物資だけを持って城を出よ。残りの武器や食料は置いていけ。この命に従わねば敵と見なす。出るのは今日中だぞ。よいな」
光姫は絶句した。師隆と具総は呆気にとられ、輝隆と従寿は怒りを露わにし、お牧は興種に軽侮のまなざしを向けた。豊梨実鏡少年も顔いっぱいに驚きを表して従姉と副大将を見比べていた。
光姫が実護を問うように見ると、老将は黙って首を振った。逆らうなということだった。光姫は歯がみしたが、六万もの大軍の副大将の命令に背くことは滅亡を意味したので、受け入れるしかなかった。
「まあ、あまり気を落とさぬことだ」
陣幕を出た光姫を実護は慰めた。
「身の証は戦で立てるしかない。今はこらえなさい」
「はい」
光姫は泣きたくなったが、年下の実鏡が心配そうな顔をしているのでぐっとこらえた。その横顔へ実護はやさしい声で言った。
「何かあったらわしのところへ来るとよい。できるだけ力になろう」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
老将と従弟の少年に礼を述べて頭を下げた光姫達は、馬にまたがって帰路に就いた。
うつむいて先頭を行く光姫を、家臣達は心配そうに見つめていたが、何も言わなかった。すぐ後ろに従うお牧は、何度か声をかけようとしてためらっていた。
光姫は黙々と馬を進めていった。藤月下旬は晩春というよりもう初夏で、真昼の陽光は厳しく、光姫は次第に汗ばんできた。
薄桃色の鉢巻きをした額に手を当てて天を仰いだ光姫は、穂雲城にいる華姫を思った。
自分に服従を迫った時の姉の様子は後から思えばおかしかった。いつもやさしい姉があんな冷たい態度を取ったのは、光姫に拒否の言葉を言わせて追い返すためだったのだ。月下城へ入ってからそれに気が付いた光姫は随分と悔やんだ。驚きと恐れで混乱してしまった自分が情けなかった。
光姫は鎧の胸元の隠しから、海国丸の出発の時に姉にもらった白い手拭き布を取り出して眺めた。
この程度のことで落ち込んでいては駄目だわ。
光姫は自分を叱った。
私の戦いはまだ始まったばかりなのよ。これからきっと、もっとつらいことや苦しいことがあるはずだわ。華姉様を止めると決意したのだもの、このくらいの悪意に負けてはいられない。疑いは晴らせばいいのよ。城を出ても戦うことはできるわ。
顔を上げて、感じた視線に右を見ると、表情を曇らせた輝隆や従寿と目が合った。左を向くとお牧が伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。その後ろでは、二人の家老が案じ顔でこちらを見ていた。
光姫は家臣達に心配されていたことを悟って、弱気になりかけていた自分を情けなく思うと同時にうれしくなった。
私は一人ではないわ。支え守ってくれる人達がいる。この人達がいれば、私は負けないわ。
光姫は彼等に感謝しながら、手拭き布を握って、胸の中であの夜の自分の決意を繰り返した。
私は絶対に華姉様を止めてみせる。お姉様を救い出し、恵国軍を追い払って田美国を解放するまで戦い抜く。そう誓ったはずよ。しっかりしなくては。
思考を切り換えた光姫は、手拭き布を隠しにしまうと副将に声をかけた。
「師隆さん」
城代家老はすぐに馬を寄せてきた。
「はい。ここにおります」
「急いで持ち出す物資を選り分けなくてはいけないわね。それは可能かしら」
「一刻もあればできるでしょう。籠城に備えて点検は済んでおりますので、持っていくものを決めて全員で分担すれば、運搬にもさほど時間はかからないと思われます。お任せ頂ければ、私が直接指揮をとります」
師隆は即答した。既に考えていたらしい。
「そう。さすがね。城から出た後、陣はどこに張ったらよいかしら」
これには師隆の向こうに並んでいた輝隆が答えた。
「西国街道を見下ろす古城跡がよいと思います」
月下の町の裏手には、かつて城があった小高い丘がある。反対側から近寄ってきていた具総も賛同した。
「あそこなら簡単な堀や土塀が残っておりますし、川が近くにあります。麓の寺院が本陣に使えましょう」
「そうね。そうしましょう」
光姫は頷いた。
「みんな、私を心配して、こうして支えてくれていたのね」
「光姫様は我々の希望ですから」
師隆の返事に光姫は微笑んだ。
「ありがとう」
光姫は振り返って大声を上げた。
「さあ、みんな、急いで戻るわよ!」
光姫は思い切り馬腹を蹴った。銅疾風が猛烈な勢いで走り出した。家臣達も慌てて追いかけてくる。
「そうですね。急ぎましょう!」
お牧が馬を並べてきた。幾度も煽りながら何とか主君に付いてくる。光姫は侍女に話しかけた。
「野営なんて初めてだわ」
「まだ夜は少し冷えますけれど、仕方ないですね」
「大丈夫よ。私には銀炎丸がいるもの」
「そうでしたね」
お牧が笑った。光姫も笑い返した。
「とにかく急いで準備しないといけないわね。日が暮れるまでに移動して、寝る場所を確保しなくては!」
後方を走っていた家臣達も、光姫の明るい声を聞いて表情をゆるめた。
「そうですね。急ぎましょう。私が先に戻ります」
輝隆が言い、先頭を駆ける銅疾風を追い抜こうと姿勢を低くして馬を加速させた。
「わしらも行くぞ」
具総や師隆、従寿らも一斉に速度を上げ、光姫を先頭にした一団は、月下城へ向かって全速力で突っ走っていった。




