表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花の戦記  作者: 花和郁
10/38

第四章 狐ヶ原 一

  第四章 きつね()(はら)


   一


「まさか恵国が本当に攻めてくるとは」

 財務裁事(さいじ)はまだ信じられないという顔で言った。

「梅枝家の軍勢が壊滅し、時繁公が自害されたというのは間違いないのか。今朝都の噂を聞いた時はひどい流言(りゅうげん)もあったものだと立腹したのだが」

 御前評定に参加している幾人かが頷いた。皆同じ思いだったのだ。

「残念ながら、両方とも事実です」

 伝馬(てんま)奉行が沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちで答えた。彼の仕事は遠国(おんごく)・北国・中国・東国・西国(さいごく)・南国・旭国(きょくこく)六国(りっこく)の吼狼国八街道など主要な街道と宿場の管理及び飛脚と駅馬(えきば)制度の運営だが、密かに諸国の情報を集めて封主達を監視する役目を兼ねていることは誰もが知っていた。

「五日前、一万三千の梅枝勢は田美国に上陸した恵国軍に完敗し、死傷者は三割に上ったとのことです。恵国軍は穂雲港を占領すると、数百隻の艦隊を集結させて残りの兵士を降ろしました。結果、敵軍の総数は五万に達しています」

「ううむ……」

 所務(しょむ)裁事が(うな)った。

「田美国と椎柴国を落とした恵国軍は、現在は田美国の奥にあるもう一つの国、蔦茂国(つたしげのくに)を攻撃しております。恐らく高稲半島を完全に制圧して根拠地にするつもりに違いありません。また、先月二十七日、別働隊と思われる恵国軍が長斜峰(なはすね)半島の南の文島(ふみじま)を占領しました。兵力は二万五千程度ですので、艦隊の補給基地を作って恵国本土との連絡を確保することが目的でしょうが、対岸の大門国(おおとのくに)に上陸して墨浦へ侵攻してくる可能性もあり、足の国と(かかと)の国の諸侯は配下の武者を招集して警戒しています」

「華子姫が恵国軍と共に戻ってきて穂雲城を降伏させたというのも、まことのことなのだな?」

 財務裁事が尋ねると、人々は一段高いところに座っている芳姫の真っ青な顔を盗み見て慌てて目を背けた。

「それも確認済みです。穂雲城下から今朝早く届いた報告書に記してありました。鳴沼(なきぬま)在村(ありむら)の処刑も自分の目で見たそうです」

 仕置総監の粟津(あわづ)広範(ひろのり)が座を見渡した。

「華子姫は、鳴沼家をそそのかして夫を誘拐させたのは大灘屋と玉都の高官だと主張しているそうだな。統国府に調査と夫の救出及び関係者の処罰を要求する文書(もんじょ)を各所に貼り出していると聞いた。望天城内に密貿易に関わっている者がいて、商人と結託(けったく)して梅枝家を標的にしたという話だが、心当たりのある者はいるのか」

 執武執印官達は互いに顔を見合わせて困惑した表情になり、視線を浴びた治都(ちと)裁事が答えた。

「その件は華子姫の勘違いではないかと思いますな。そうした不正の情報があれば私の耳に入るはずですが、現在のところ、どこからも報告は上がってきておりませぬ。今朝急いで点検させましたが、銀も減っていないようですぞ」

 都の治政を預かる裁事の言葉に、その背後にいた下役(したやく)検断(けんだん)奉行と公事(くじ)奉行も頷いた。

「売国奴の言うことなど当てになるものか。嘘に決まっておる。全く馬鹿馬鹿しい!」

 武者総監の杏葉直照(あんばなおてる)が腹立たしげに言ったが、広範は意見が違うらしかった。

「信じ(がた)いことだが、言いがかりにしては具体的過ぎるとわしは思う。海国丸という船が行方不明になったのは事実だ。恐らく黒幕はどこかの封主家で、大灘屋と結託して密貿易をしていたに違いない。それを華子姫の夫に知られて妻共々始末しようとした際、統国府の高官の手先を名乗ったのだろう」

 仕置総監はしゃがれた声で言って、不審のまなざしを同僚に向けた。

「そういえば、宝瀬国(たからせのくに)には銀山があったな」

「わしを疑うのか!」

 直照は目をむいた。彼の領する宝瀬国(たからせのくに)は古来金銀を産し、河原で砂金が見付かったことが国名の由来だ。直照の放蕩(ほうとう)を支えているのは統国府に管理を委託されている鉱山から出る銀だった。

「わしは武者総監だぞ! 取り締まる立場で密貿易などするはずがあるまい!」

「直照殿自身は無実でも、家臣が関与している可能性はある」

「なんだと!」

「直照殿の浪費は有名だ。この物価高では、五十三万貫の大封主家といえど財政は楽ではなかろう。主君の要求に応えるために、家臣が密かに不正に手を染めているかも知れぬ」

「家臣に悪行があれば気付かぬはずがあるまい! わしはそんなに阿呆(あほう)ではないぞ!」

「さて、それは調べてみれば分かるだろう」

「わしは潔白(けっぱく)だ。いくらでも調べるがいい! そういうお主こそ、配下の身辺を洗えば、不正がぼろぼろ出てくるに決まっておる!」

「まあまあ、粟津公も本気で杏葉公を疑っていらっしゃるわけではありますまい」

 治都(ちと)裁事が急いで割り込んだ。

「華子姫の主張は敵への寝返りを正当化するための言い訳に過ぎないでしょう。自分は被害者だと言い立てて同情を誘い、我等を互いに疑わせて結束を邪魔するのが目的に違いありませぬ。慌てて調査などすれば敵の思う壺ですぞ」

「私も同じ意見です」

 すかさず礼務(れいむ)裁事が応じた。

「どなたも後ろ暗いところはないはずです。まともに取り合えばかえって疑いを肯定することになります。きっぱりと否定し、要求を拒絶しましょう」 

 皆が頷き、両総監が黙り込むと、治都裁事はほっとした表情になって言った。

「ですが、民に広がった噂はどうにかせねばなりませぬな。統国府の威信にかかわりますぞ」

 この発言に、武守家の御料地(ごりょうち)の仕置き担当の所務(しょむ)裁事が顔をしかめて賛成した。

「その通りですな。昨夜から玉都は恵国軍侵攻の噂で持ち切りですぞ。諸国にもすぐに伝わるでしょう。これ以上民に動揺が広がらぬよう、何か手を打たねばなりませぬ。都を逃げ出そうとする者まで現れる始末ですからな」

「民に落ち着いて行動するよう布告を出せばよいのではないか。都は安全だ、敵の流す誤った噂に惑わされるなとな」

 財務裁事が言うと、礼務裁事が提案した。

「念のため、都に兵を上らせてはどうでしょうか。多くの武者がいるところを見れば民も安心するに違いありません。国母様、よろしいですか」

 芳姫が頷くと、文武諸官は皆ほっとした顔になった。

「これで都の治安は守られるとして、問題は恵国軍にどう対処するかですが……」

 司会役の礼務裁事が言い終わらぬ内に、直照が怒鳴った。

「どうするも何も、戦うに決まっておる! これは統国府に対する挑戦だ! わし自ら大軍を率いて田美国へ(おもむ)き、武公様以来の兵法(ひょうほう)をもって蹴散らしてくれるわ!」

 直照の大声には怒りと同時に(うわ)ついた響きがあった。そのことに全員が気付き、何人かが嫌な顔をした。直照はこの機会に手柄を立てて、元狼公への道を一気に縮めようと考えているのだ。救国の英雄の求婚ならば国母様も無下(むげ)にはできまいと、すでに勝った後を想像して頬がゆるんでいる。

「いきなり軍勢を送ってくるなど、恵国は我等をなめておるのだ! このまま黙っておれるか! 国母様、今すぐに出陣のご許可を頂きたい!」

「まあ待て。そう(はや)るでない」

 広範がなだめた。直照の思惑など始めから見透(みす)かしていたらしく、牽制(けんせい)するような口ぶりだった。

「なぜ突然攻めてきたかを考えるのが先だ。理由によっては対処の仕方が変わるかも知れぬ」

 周囲の視線を受けて、他国との交渉を担当する墨浦奉行が口を開いた。

「墨浦からこれまでに届いた情報と百家商連に聞いた話を総合しますと、恵国のねらいは銀のようです。帝都永京(えいきょう)の大商人達が我が国で産出される銀を独占し、隆国への流入を止めるために、全ての鉱山を支配下に置こうとたくらんだものと思われます」

「ということは、その商人どもが宮廷を動かしたのか」

 財務裁事が尋ねた。

「今回の派兵についてはそのようですが、根本には恵国宮廷の我が国に対する強い不信感があるのです」

 墨浦奉行が説明した。

「まず、我が国との密貿易で隆国が(うるお)っているのは疑いようのない事実で、これが内乱を長引かせている面があります。恵国からすると我が国が隆国を支援しているように見えるのでしょう。

 その上、武公様の兵力削減令で浪人した者達が、天下統一で平和になった我が国を出て戦乱が絶えない大陸で一旗揚げようと、随分と海を渡りました。そういう者達は皆、将軍達の腐敗が進んだ恵国ではなく高い給金を出す隆国に向かったので、隆国には吼狼国人だけの軍勢が複数あり、恵国軍を随分と苦しめているようです。

 更に、我が国の商人達が銀の高騰(こうとう)を背景に珍しい産物を買いあさったり無茶な要求をしたりして、恵国の大商人や高官達の恨みを買っています。

 そこへ、二年前、隆国が暴波路国に同盟を結ぼうと使者を送るという事件がありました。慌てた恵国はかつて臣従していた暴波路国に再度の服属を要求しましたが、我が国も臣従していないことを理由に拒否されました。隆国との同盟も断ったようですが、恵国の面目は丸つぶれで、我が国に対する不快感は倍増したようです。

 こうしたことから、近年、恵国の宮廷では我が国を占領して密貿易を遮断し、隆国を側面から攻撃する足場にするべきだという声が高まっていました。その動きに銀を欲する大商人達が便乗したのでしょう。一部の若手官僚達は我が国との対立は長期的には利益にならないと友好関係の強化を主張して強硬策に反対していたようですが、愚昧(ぐまい)な皇帝を意のままに操っている宰相は大商人と癒着が深いため、それを押し切って侵攻を決めたのだろうと推測されます」

「つまりは欲と逆恨みと偏見(へんけん)の結果ではないか!」

 直照が呆れと怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。

「そんなことで大軍を派遣してきたのか。なんという国だ。隆国攻撃の拠点にしようとは、我が国を見下すにもほどがあるわ!」

「恐らく、恵国の宮廷は一向に隆国を平定できない理由を国外に求めたのだと思います。高官や将軍達の腐敗と無能から民の目を逸らしたいのでしょう。確かに、我が国の商人達には恵国の混乱に付け込んで利益を上げている面がありますから、それに統国府が加担していると疑っているのかも知れません」

 仕置総監は納得したように頷いた。

「我が国は隆国を支えて内乱を続けさせ、一人得をしているというわけか。なるほど、事情は分かった。では、襲来した恵国軍にどう対処するかだが……」

「だから言っておろう、戦うまでだと」

 広範の言葉を直照がさえぎった。

「事情はどうあれ、攻め込まれて大人しくしておれるか。大軍を送って蹴散らし、海に追い落とせ。武家の国へ(いくさ)を挑んだことを後悔させてやればよい」

 直照は芳姫に向き直ると、精一杯の笑みを作って猫撫で声で言った。

「わしにお任せ下され。一月(ひとつき)以内に討ち平らげてみせましょう。国母様の前に敵将の首を持って参りまする」

 直照の表情から手柄を欲する魂胆(こんたん)を察した芳姫が返事に困っていると、広範が口を挟んだ。

「わしは軍勢の派遣には反対だ」

「なんだと!」

 直照は驚いて勢いよく同僚を振り向いた。

「わしは使者を送り、停戦を申し込むのがよいと思う。向こうの主張を聞き、可能ならば争わずに撤退させるのだ」

「馬鹿を言うな!」

 一瞬呆気にとられた直照は意味を悟ると激怒した。

「この状況で敵と交渉すると言うのか! 攻め込まれたら迎撃して追い返すのが戦狼の世の習いだ。剣術でも問答無用で斬り付けてくるような相手にまで容赦(ようしゃ)しろとは教えぬ。お主は算盤(そろばん)ばかり(はじ)いておって武術ができぬからそのような世迷(よま)(ごと)を申すのだ。話にならん!」

「分かっておらぬのは直照殿の方だ」

 広範は冷ややかに言い返した。

「一口に戦うと言うが、簡単ではないぞ。五万の軍勢を相手にするとなるとこちらもよほどの大軍を派遣せねばならぬが、その軍費が馬鹿にならぬ。財政が火の車の統国府には大きな負担になる。封主達も三十年ぶりの出陣だ。戦の備えを常にしておくことになっているとはいえ、いざとなると相当の混乱が起きよう」

 直照は顔を真っ赤にして反論しようとしたが、仕置総監はそれを手で制した。

「まあ、待て。話を最後まで聞け。……よいか。天下の仕置きには金がかかる。貫高の小さな島国や離島の治政の費用、望天城と各地の城の維持費、玉都港や墨浦港、煙野(けぶりの)運河などの管理費、天宮(てんぐう)と都の警備費、宮中諸費の一部負担と桜祭など諸行事への援助、伝馬(てんま)制の維持費、金額の大きな支出だけでもこれだけある。頭が痛い話だが、それでもこれらの支出をやめるわけにはいかぬ。統国府を維持し、武家と民の暮らしを(やす)んずるためにはどうしても必要な出費なのだ。これ以上財政が悪化すればこれらの施策が行えなくなり、ご政道が成り立たなくなる」

 広範の口調は淡々としていたが、それが逆に天下の仕置きを長年取り仕切ってきた者の自負と責任の重さを感じさせた。

「それにだ。戦は水物、結果がどうなるか分からぬ。負けたらどうするのだ。考えてもみよ。軍勢を派遣するとしても、今から武者を集めて準備するとなると、田美国へ到着するまで半月はかかる。その間に恵国軍は充分戦の準備ができるのだ。恐らく厳しい戦いになるだろう。もし負ければ和平交渉はしにくくなる。それに、恵国とて本気で吼狼国を占領できるとは思っておるまい。恐らく、この遠征の目的は征服ではなく、我々を交渉の場へ引き出して譲歩を迫ることにあると考えるのが妥当だ。ならば、戦って対立が決定的になる前に敵のねらいを探り、場合によっては話に乗ってやるのも一つの方法ではないか」

 広範の声には、ただの戦への恐れとは違う固い決意が感じられた。

「我等の第一の目標は、武守家と統国府を守り、武公様がお築きになったこの国の平和を維持することだ。そのために必要ならば譲歩もやむを得ぬ。故国へ攻め込まれた怒りはわしも同じだが、何が最も重要かを見誤ってはならぬ」

「なるほど。その通りですな。さすがは粟津公、先々のことまでよく考えていらっしゃる。私も和平がよいと考えます」

 治都裁事の菅塚(すげづか)興種(おきたね)が賛同した。興種(おきたね)が次の仕置総監の地位をねらっていることは周知の事実だったので、上役におもねる発言に執武官達は皆露骨に顔をしかめた。

「冗談ではない!」

 直照は周囲の襖が震えるほどの声で()えた。

「そんな悠長なことをしていては、その間に都まで攻め込まれてしまうわ! 戦って敵を打ち破り、大将を捕虜にして吼狼国武家の力を見せ付けるのが先だ! 交渉はその後でゆっくりとすればよい!」

 直照の言葉に複数の執武官が大きく頷いた。最初に口を開いたのは九国(きゅうこく)総探題(そうたんだい)萩矢(はぎや)頼統(よりむね)だった。

「わしは杏葉公に賛成だ。いきなり交渉を始めるのは戦わずして降伏するに等しい。敵に甘く見られるだけだろう。封主達は軍役を果たすために領地を与えられて家臣を養っておるのだ。わしは国母様のご下命があれば、いつでも軍勢を率いて戦場に赴く覚悟ができておる」

 頼統(よりむね)は首の国から(からす)の国までの九つの州で諸侯を監視しまとめている探題達の(おさ)だ。その重職を永年勤めてきた彼の発言には、誠実な人柄と五十七という年齢、そして岸根国(きしねのくに)一国四十一万貫と、この場の文武諸官の中で直照に次ぐ大封(たいほう)(あるじ)であることも加わって、思わず背筋が伸びるような重みがあった。

「俺もまずは一戦すべきと考えます」

 次いで、水軍頭(すいぐんがしら)楠島(くすじま)運昌(かずまさ)が主戦論に加担した。玉都の南方の双島(ふたじま)に拠点を置く水軍百二十隻の大将は、三十歳にしては若々しい顔に精一杯(いか)めしい表情を作って自説を述べた。

「冷静に考えて、戦いでは我々が圧倒的に有利です。恵国軍は遠い海の彼方から渡ってきており、兵力を損耗(そんもう)すれば補うことは難しいでしょう。それに比べて我々はいつでも援軍を送れますし、仮に負けたとしても、また兵を集めればよいのです。いずれは恵国と交渉することになるでしょうが、まずは戦って勝つのが先と考えます。我が楠島(くすじま)家の水軍は、いつでも軍勢を田美国へ輸送し上陸させる準備が整っています。海流に逆らって大船団を送るのは賭けですが、当家の誇りに賭けて何とかやってみせますよ」

 そう言って、運昌(かずまさ)は期待を籠めた目を隣に座る京師(けいし)守護(しゅご)泉代(いずしろ)成保(なりやす)に向けた。この寡黙(かもく)な四十がらみの封主は皇城(おうじょう)の守り手として、市中と都の東西の門の警備兵合わせて五千を握っている。玉都のある祉原国(よしはらのくに)の北隣の栄木国(さかえぎのくに)で半国二十三万貫を領していることもあって、この場にいる者の中ですぐに動かせる兵力は最大だった。

「私も戦うべきと考える」

 運昌の視線を受けて、成保(なりやす)は重い口を開いた。

「敵は上陸したばかりで、まだ足元が固まっていない。攻撃するなら今の内だ。敵軍が高稲半島を完全に制圧してしまえば叩くのは難しくなる。できるだけ早く軍勢を派遣し、手の国の諸侯に後方を襲わせて恵国軍の兵力を分散させた上で、一気に主力を打ち破るのが最良の策だ」

「まさに泉代(いずしろ)公のおっしゃる通りです」

 運昌はうれしそうに頷いた。楠島家は御使島(みつかいじま)揺帆国(ゆれほのくに)一国二十七万貫なので、半国国主(こくしゅ)成保(なりやす)より同じ譜代家でも家格が上だが、運昌はこの年長の友人を何かと頼りにしていた。それに、成保の祖父は武公の覇業を助けた名臣で、萩矢頼統の父など五人と共に天下六翼(てんかりくよく)と呼ばれているので、泉代家の発言力は大きかった。

「しかし、やはり軍費が問題です」

 財務裁事が言った。

「試算してみたのですが、仮にこちらも五万の軍勢を一月(ひとつき)に渡って派遣した場合、約五十万両がかかります。戦が長引けば百万両を軽く越えますぞ」

「考えるだに恐ろしいですな」

 背後に控える行李(こうり)奉行の滝堂(たきどう)永兼(ながかね)が小声で同意した。財務奉行の下役(したやく)で、武守家の御料地の城と備蓄してある武器や食料を管理し、戦時は小荷駄(こにだ)隊を指揮するのが彼の役目だった。

「馬鹿者! 国の存亡の危機なのだぞ! けちけちしておる場合か!」

 直照が怒鳴った。

「資金は都の商人達に出させればよい。渋るなら構わぬ、無理矢理徴収しろ。放っておけば都も危ないのだ。そう脅せば協力するはずだ」

 広載は首を振った。

「統国府が民を脅してどうする。彼等を保護するのが我々の仕事ではないか。それに、全額はとても無理だ。半分以上は借りることになろう。戦に勝っても莫大な借金が残っては後で困ることになる。煙野(けぶりの)運河開削(かいさく)のために百家商連(ひゃっかしょうれん)から借りた金の返済は、今も大きな負担になっておるのだ。借りるのは簡単でも返すのは難しいのだぞ。やはり、まずは使者を送るべきだ」

「私も同意見です。交渉による和平が現実的ですな」

 菅塚(すげづか)興種(おきたね)がすかさず感心してみせると、「腰巾着(こしぎんちゃく)め!」と楠島運昌が小声で吐き捨てるように言った。

「そんな先のことは目の前の敵に勝ってから考えればよいのだ! 金がないから戦えないと恵国に知られてみろ、いい笑い者だ!」

 直照が苛立(いらだ)たしげに叫んだが、広範は嫌味なほど平坦な口調で言い返した。

「財政は(まつりごと)の基本だ。戦の後のことを考えれば無茶はできぬ」

「金勘定ばかり得意になりおって。それでも武家か!」

「直照殿こそ(いのしし)武者のようなことを申されるな」

「臆病者よりましだ!」

「わしは大局を見て判断せよと言っておるだけだ」

「せこいことを考えている暇があったら、戦う準備をするのが武家ではないか!」

「まあまあ、お二人とも落ち着きなされ」

 いつもの(ののし)り合いになりかけたところへ、内宰(ないさい)雉田(きじた)元潔(もときよ)が割って入った。

「我々が争っても敵を()するばかりじゃ。ここは国母様のご意見をうかがうとしよう」

 一座の者は一斉に芳姫に目を向けた。芳姫は青い顔で何か考え込んでいたが、周囲の視線が注がれていることに気が付き、顔を上げた。

「国母様は、軍勢の派遣と和平交渉のどちらがよいとお考えですかな」

 元潔が代表して尋ねた。

 芳姫は自分が大きな決断を迫られていることを悟って、顔を強張らせた。

 全員が息を呑んで返事を待っている。

 芳姫は迷っているのか、紅色の扇をぎゅっと握って、答えを求めるように部屋の中をぐるりと眺めた。

 文武諸官の上を滑った視線は、桑宮道久の深いまなざしとぶつかった。道久は芳姫の目を見つめて小さく頷いた。それを見た芳姫はほっとした顔になり、視線を戻して二人の総監に告げた。

「重大な問題ですから、少し考えさせて下さい」

 文武諸官は顔を見合わせたが、仕方がないという表情になった。

「かしこまりました。では、一旦休憩に致します。半刻後、またここへお集まり下さい」

 司会役の礼務裁事が解散を宣言すると、芳姫は立ち上がり、自室へ戻っていった。それを見送った三柱老と文武諸官も座を離れ、ばらばらと部屋を後にした。

「どこへ行く」

 立ち上がった道久へパシクが声をかけた。

「俺も少し考えをまとめたい。その辺りを散歩してくる」

 道久は答えて、足早に廊下を歩み去った。パシクはその背中を不安そうに見送っていたが、一つ溜め息を吐くと、部屋を出て衛門所(えもんじょ)衛士(えいし)詰め所の方へ歩いていった。


「失礼致します」

 道久が芳姫の自室に入っていくと、部屋の真ん中をうろうろしていた芳姫が駆け寄ってきて尋ねた。

「道久殿。華子が敵に寝返ったというのは本当でしょうか」

 芳姫は道久を牽制(けんせい)するいつもの主君ぶった雰囲気を捨てていた。

「あの華子がまさか……。私には到底信じられません」

「残念ですが、事実のようです」

 道久は一歩下がり、かしこまって答えた。

御廻組(おまわりぐみ)の筋からも同じ報告が入っております。間違いございますまい」

「船の上で襲われて夫をさらわれ、漂流して蛮族に捕まって恵国へ売られていったという話を聞きましたが、本当にそのような体験を……。その上、敵に助力をするなんて。ああ、道久殿、私はどうすればよいのでしょうか」

 芳姫は更に道久に近付き、胸にすがるようにして尋ねた。閉じた紅色の扇を握る手がかすかに震えている。

 部屋には他に誰もいなかった。帰国する光姫と別れた日の出来事以来、芳姫は執務の時間は直孝に隣室でお(きぬ)に付き添わせて手習いをさせ、間の襖を開けておくようにしたのだが、今回は侍女に別室へ連れて行かせたようだった。

 お絹は道久が芳姫に迫ったことを知っている。侍女にそう告げられて、道久が「それを聞いて、なぜ俺との執務をやめさせようとしないのだ」と尋ねると、お絹はこう答えた。

「国母様に、『そんなことがあっても、まだあの方をおそばにお置きになるのですか』とお尋ねしましたら、『もちろんです。私には道久殿が必要です』とお答えになりました。『桑宮様に幻滅なさらなかったのですね』と確認致しますと、『どういうことかしら』と首を傾げられました。ですから、国母様のご意志に従います」

 そういうわけで、あれ以後も秘密の執務は続いていた。直孝は師範と話す機会が増えたことを喜んでいて、執務内容に興味を持って質問してくることもあったので道久も丁寧に相手をしてやったが、内心では芳姫との関係が崩れなかったことに安堵しつつ、二度目の機会が来そうにないことにじりじりしていた。

 今日は久しぶりに部屋で二人きりだった。しかも芳姫自身がそう計らったのだ。本来なら喜ぶべき状況だが、芳姫はそれどころではなく、道久も今迫るつもりはなかった。もっと重要なことがあったのだ。

「芳姫様」

 道久は片膝を突いて言上した。

「お願いがございます。どうか私を恵国軍討伐に派遣する軍勢の総大将にお命じ下さい」

「道久殿……」

 目を見開いて絶句する芳姫に構わず、道久は言葉を続けた。

「私が芳姫様の名代として軍勢を率いて田美国へ向かい、恵国軍を打ち破って参ります。そして、敵の大将を交渉の場に引っ張り出し、我が国に有利な条件で和平を結ばせます。それが父祖(ふそ)以来の譜代であり、御廻組頭である私の役目です。出陣のご許可を頂ければ、必ずや勝利してご覧に入れましょう」

 道久は深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。

「どうして……」

 芳姫は道久の顔をまじまじと見つめて驚きに固まっていたが、止めていた息を吐き出すと、理解できないというように首を大きく振った。

「どうしてそのようなことを言うのですか。あなたにはこの城と私達を守ってもらわなくてはなりません。遠くへ行かせるなど……」

「芳姫様と直孝様の御為(おんため)です」

 道久はきっぱりと言った。

「以前お話し申し上げました通り、私は直信様の墓前で、ご恩をお返しするため芳姫様と直孝様を絶対にお守りすると誓いました。今がその時です。他国の侵攻という武守家始まって以来の危機に私が御廻組頭を務めていたことが偶然のはずはありません。恵国との戦いは天が私に課した試練なのです。お二人をお守りし、武守家をお救いするためならば、この命、戦場で失おうとも悔いはありません」

 道久は瞳に力を籠めて芳姫の切れ長の目をじっと見上げた。

「私は芳姫様をお守りしたいのです。これが心からの願いであることは、私の密かな想いをご存じの芳姫様ならお分かりのはずです」

 思わず頷いてしまってから、芳姫は気が付いて頬を赤くした。道久はかすかに微笑んだが、すぐに顔を引き締めて訴えた。

「これは男としての誇りの問題でもあるのです。どうか、私が誓いを果たし、芳姫様と直孝様へ忠誠を示す機会をお与え下さい」

「ですが……」

 芳姫は言い返そうとして言葉を切り、考え込んだ。細い眉を寄せて目をつぶった芳姫は、薄目を開けて足元に控える道久を見下ろし、目が合うと慌ててまた閉じた。

 迷っているな。だが、すぐに頷くだろう。

 道久は芳姫の美しい顔を見上げながら説得の成功を確信していた。

 さあ、早く決断し、俺に武功を立てる機会をよこせ。

 道久は芳姫を手に入れようとねらう一方で、手柄を立てる機会を待ち望んでいた。統国府の中で出世するには、芳姫を落とすという(から)()からの攻略のほかに、大きな功績を挙げて地位と権力を固めることも大切だということを分かっていたからだ。

 恵国の侵攻は道久にはまたとない好機に思われた。先頭に立って戦って勝利に貢献すれば、道久の実力を誰もが認めざるを得ないだろうし、武守家の直臣から国持ち封主の仲間入りをすることも夢ではない。それには派遣されるであろう軍勢の総大将になるのが最も手っ取り早かった。実際のところ、近隣国の封主の配置と兵力を考えれば、田美国へ送られる討伐軍の中で御廻組が最大の割合を占めることは明らかだったので、別段おかしな申し出ではなかった。

 一万貫の道久では大将として重しがきかないのであれば、誰かを飾りとして(かつ)げばよい。その場合、道久は内宰(ないさい)雉田(きじた)元潔(もときよ)を考えていた。三柱老の一人で二十万貫の国主だから大将の資格は十分だが、六十六と高齢の上、武公の側近上がりで戦は苦手と聞いていたので操りやすそうに思われたのだ。だが、まずは芳姫の許可が先で、細部は後から提案するつもりだった。

「どうか、私に出陣をお命じ下さい。必ずや恵国軍を打ち破り、芳姫様の故郷を解放して参ります」

 道久は片手を差し伸べた。

 目を開いた芳姫は立ったまま唇を振るわせてその手を見つめていたが、両手を伸ばして道久の手を取ろうとして、腕を降ろした。

「いいえ、その許可は与えられません」

 芳姫は首を振った。

「道久殿は私にとっても直孝様にとっても大切なお方。あなたを失うわけにはいきません」

「なんと……」

 道久は思わぬ返事に驚いたが、芳姫は真剣な口調で更に言った。

「あなたを危険にさらすことはできません。道久殿にもしものことがあれば息子は悲しむでしょう。私も寂しく思います」

「芳姫様……」

「あなたはそばにいて私を助けてくれなくてはなりませんよ」

「ですが……」

 道久は言い返そうとして、芳姫の表情から本当に心配していることを知り、この国難の時に助言者を手放したくないのだと悟った。

 これを説得するのは無理だな。さて、どうするか。

 道久は下を向いて表情を隠しながら考えた。

 芳姫は困っている。それは道久もよく分かっていた。芳姫の穏やかで争いを好まぬ人柄からして、他国に攻め込まれるという非常事態への対応など、どう考えても手に余る。だからこそ道久は自分の出番だと思ったのだが、芳姫は補佐役に死なれることを恐れているらしい。

 芳姫様に心配されるとは、俺は果報者だ。

 道久は内心苦笑しつつ、うれしくもあった。自分が想像以上に芳姫にとって重要な存在になっていることが分かったからだ。

 確かに芳姫様にこの事態は重過ぎる。誰かがそばにいて助けて差し上げる必要があるだろう。だが、俺の出世を考えるとこの機会は逃せない。

 片膝を突いたまま忙しく頭を巡らせた道久は、先程評定で青い顔をしていた芳姫を思い出した。

 そういえば、敵側には華姫がいるんだったな。先日故郷へ帰った光姫も、今頃向こうに着いているはずだ。そして、父の時繁公は戦死した。

 ちらりと視線を上げて様子をうかがうと、芳姫は心細げに道久を見つめていた。

 どうやら親しい者を失うことに弱いらしいな。ならば……!

 道久は決心すると、立ち上がった。

「芳姫様」

 道久は吼狼国の女性にしては背の高い芳姫を見下ろして言った。

「では、私に田美国への使者をお命じ下さい」

「使者、ですか」

 芳姫は戸惑ったように聞き返した。道久は頷いた。

「はい。恵国軍の陣へ行って、華姫様を連れ戻して参ります」

 評定での芳姫の(うれ)い顔の原因が妹達にあることを道久は見抜いていた。

「私が芳姫様のお手紙をお預かりして華姫様にお会いし、帰順するように説得して参りましょう。同時に恵国軍に密かに和平を打診して反応を見て参ります」

「そのようなことが可能なのですか」

 期待と不安が入り交じった表情の芳姫に、道久は自分の考えを披露した。

「私の予想では、恵国のねらいは銀です。以前から銀の輸出量を増やせと要求してきておりましたし、銀山のある田美国を襲ったことからも明らかです。ですから、銀の提供量を倍に増やすと提案すれば、和平に応じるかも知れません。大量の銀が必要になりますが、国母様のご実家の梅枝家や杏葉家などに増産を命じ、鷲松家領などにある閉山した銀山を再開させ、密貿易の取り締まりを強化して隆国へ流れているものを押さえることで調達は可能でしょう」

 恵国軍と戦うのが無理ならば、和平を自分の手で結ぼうと道久は考えたのだ。停戦に成功すれば大手柄が立てられ、以後の恵国との交渉の中心になれるから出世間違いなしだ。たとえ上手くいかなくても、自分を芳姫の側近の重要人物として恵国に印象付けられる。それは、道久が権力を握った後に実行しようとしている大陸との貿易の改革に必ず役立つはずだった。

 俺の目的は吼狼国の立て直しだ。武家の誇りなどというつまらぬ理由で戦をしたがる連中とは違う。

 出世して改革を実行できる権力を握れるのなら、道久は戦でも交渉でも構わなかった。和平には諸侯から反対が出るだろうが、貿易が盛んになってその利益を手にすれば、不満も消えるに違いない。銀の輸出量の増加も、道久はもともと恵国経済への吼狼国の影響力を拡大することが貿易交渉での立場の強化につながると考えていたから、むしろ好都合だった。

 そして、そのためには銀の増産が欠かせない。海国丸襲撃の原因が絞り吹きという技術だと聞いて道久は興味を持っていたので、その詳細を知っているであろう華姫の身柄をどうにかして確保したいと考えていたのだ。

「この交渉に成功すれば、戦わずに争いを終わらせることができるかも知れません。田美国へ赴く途中で月下城へ立ち寄り、光姫様のご様子もうかがって参ります」

「上手く行くでしょうか」

 芳姫は道久が妹達を気にかけてくれていると知ってうれしそうな顔をしたが、返事はためらった。

「お任せ下さい。身命を()してことに当たります」

 道久は真面目な口調で言ってから、やさしく笑ってみせた。

「といっても、使者ですから命の危険はありませんが」

「……そう、ですね」

 芳姫は釣られて微笑んだ。

「本当に危険はないのですね」

「はい、大丈夫ですとも。絶対に華姫様を説得して参ります」

 芳姫様や光姫の姉妹ならば説得は容易(たやす)いはずだ。

 道久は華姫と面識がなかったが、才女という評判は知っていた。

 恐らく小知恵の回る小娘が、美貌と少々の学問を鼻にかけているだけだろう。光姫とよく似た生意気なじゃじゃ馬に違いない。穂雲城を陥落させた手腕は(あなど)れないが、説得できぬことはあるまい。妾になっているという華姫が落ちれば、敵軍の司令官を動かすことはさほど難しくないはずだ。

「私がいない間のことは判断の指針を書き残しておきましょう。ですが、都を空けるのはそう長い期間ではありません」

 停戦に成功すれば細かい交渉は玉都ですることになる。使者を饗応(きょうおう)せねばならないし、恵国との連絡にも田美国では何かと不便なのだ。和平に失敗した場合もすぐに帰途に就くことになる。いずれにしても、せいぜい一月(ひとつき)程度で都に戻ってこられるはずだった。

「分かりました。道久殿にお願いしましょう」

 芳姫は遂に頷いた。

「ありがとうございます。必ずやご期待にお応え致します」

 頭を下げた道久は、芳姫に見えぬように一瞬にやりとすると、すぐに表情を整えて顔上げ、用意していた言葉を付け加えた。

「ですが、軍勢は派遣なさるべきでしょう」

「どういうことですか」

 芳姫は驚いた。

「道久殿が和平を結んできてくれるのではないのですか」

「もちろん、そのために全力を尽くします。しかし、ただ使者を送るだけでは和平はかないません」

 道久は政務に助言を与える時の口調になった。

「占領された田美国は大きな国ではありますが、失礼ながら所詮は都から遠い田舎の国で、しかも外様封主家の領国です。恵国とてそれだけの戦果では満足しないでしょう。少なくとも高稲半島を全て占領し、都をうかがう素振(そぶ)りくらいは見せると思われます。それに、彼等は緒戦(しょせん)の勝利の勢いに乗って強気になっているはずです。そういう相手に、言葉だけの説得では効果がありません。戦って勝つか、戦えば負けるのは確実と思わせる必要があります。それにはやはり軍勢を送るのが効果的です」

 その軍勢の威圧を背景に俺が交渉するのだと道久は思った。

「派遣する武者の数は最低でも恵国軍と同数の五万、できればそれ以上が望ましいでしょう。本当に戦うことになっても勝てるだけの大軍を都に集め、吼狼国武家の強さを誇示しながら堂々と田美国へ向かわせて敵を威圧するのです。派遣軍の大将は杏葉公がよろしいでしょう。武者総監でいらっしゃり、剣豪としても高名なあの方なら、誰もが納得するはずです。杏葉家の筆頭家老の棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)殿は、戦場経験の豊富さと実直さを買われて武公様から直照公のお目付役を命じられた人物ですので、安心して軍勢の指揮を任せられます。とは申しましても、軍勢はあくまで威圧のためです。恐らく戦にはなりませんから、杏葉公が手柄をお立てになることもないでしょう」

 俺の交渉が成立すれば戦闘は起こらない。軍勢に添えるだけの飾りなら、大将の地位は高い方が脅しになる。大軍を率いて行って頭越しに和平を結ばれれば、あの男の面目は丸つぶれ、望天城での影響力は低下するだろう。もし戦になったとしても問題はない。家老が優秀だろうと、あの愚か者が梅枝公を破った者達とまともに戦って勝てるはずがない。討ち死にでもしてくれれば儲けもの、万が一手柄を立てられても、都へ返さぬ方法などいくらでもある。芳姫様に近付こうとする不届き者には罰が下って当然だ。いずれにしろ、遠からず総監の座が一つ空くことになるだろう。

「なるほど……。そういうことなら確かに杏葉公が適任ですね」

 芳姫は感心して聞いている。

「私は恵国軍の様子を調べるため討伐軍に先行して現地に向かい、交渉に入りますが、そのことは他の方々にはお話にならないで下さい。もし軍勢を率いる者達が知れば、どうせ和平なのだと安心して気持ちがゆるみます。そうなれば、大将の心は武者達に伝わるもの、軍勢の士気は下がり、敵に(あなど)られることにもなりかねません。ですから、和平がなるまでは味方にも秘密にするのです」

 交渉を邪魔されたくないからな。

 道久は口の端だけで笑った。

 俺が停戦の知らせを持って陣へ乗り込めば直照は激怒するだろうが、芳姫様のご命令とあっては受け入れるほかあるまい。頑強(がんきょう)に反対する時は治天府(ちてんふ)に運動して勅許(ちょっきょ)を得ればよい。俺はこういう時のために公家の娘を妻にしたのだ。

「なるほど。分かりました」

 芳姫はすっかり安心した顔になって微笑んだ。

「妹達を頼みます。和平も期待していますよ」

「お任せ下さい」

 道久は頭を下げ、その美しい笑顔をじっと眺めると、もう一度お辞儀をして部屋を出て行った。

「心は決まりました」

 再開された御前評定の冒頭、芳姫は錦織の赤い座布団の上に立ち上がり、(あか)い扇を開いて宣言した。

「杏葉直照殿!」

「ははっ!」

 手を突いて頭を下げた武者総監に扇の先を向けて芳姫は命じた。

「そなたを手の国へ派遣する軍勢の総大将に任じます。六万の武者を率いて出陣し、恵国軍を撃破なさい!」

「お任せ下され!」

 直照は喜びの声を上げた。楠島運昌は思わず膝を打ち、萩矢頼統は低く唸り、泉代成保は大きく頷いた。広範や裁事達は顔を見合わせたが、平伏してその命に服した。

 同じく平伏しながら桑宮道久はにやりと笑った。その笑みに気が付いたパシクは、下げた頭を少し上げて段上で晴れやかに笑う芳姫を見やり、小さく溜め息を吐いた。


 芳姫の判断が下ると、評定は派遣する軍勢の規模と編成の検討に入った。一刻の熱い議論の後、背の国と中つ国と尾の国の一部の国、それに西国街道沿いの諸侯へ出陣を命じることが決まった。田美国へ派遣される討伐軍は総勢六万五千、まだ占領されていない高稲半島西部の三国の兵を合わせると七万に達する。この他に、玉都の警備のために五万の兵力を都へ集める。文島から別働隊が襲来する可能性のある墨浦や長斜峰半島方面の守備は桜舘直房に一任し、足の国と踵の国の全封主家をその指揮下に入れることになった。

 これに合わせて、道久も御廻組二万人を都へ呼ぶ。その内九千が田美国へ、残りの一万一千と京師守護所の武者五千が都に残る。長斜峰半島や沿海の諸国の警戒をゆるめるわけにはいかないので、武守家が動かせる兵力はこれが限界だった。

「では、我等はすぐに出陣の準備に入る故、玉都の治安維持及び動揺している民への対応は泉代殿にお願い致す」

 治都裁事菅塚興種の言葉を京師守護の成保が承諾したところで評定は終わった。興種は和平を諦めない広範達の主張で、執印官の代表として副大将に任じられたのだ。

 文武諸官は次々に評定の間を出て行く。それを座ったまま見送っていた道久は腕を組んで考えていたが、一つ頷くと、パシクを置いて廊下へ出た。

 去っていく執印官達を追った道久は、副大将の治都裁事菅塚興種と行李(こうり)奉行で小荷駄(こにだ)隊担当の滝堂(たきどう)永兼(ながかね)を呼び止めた。

「お二人にお話があります。こちらへおいで下さい」

 首を傾げる二人を小部屋に招き入れて襖を閉めると、道久は小声で切り出した。

「実は、先程奥向きへ行って、こたびの件について国母様のご意見をうかがって参りました。それに関してお二人にご相談があるのです」

 道久の言葉に興種は嫌な顔をした。

「君が最近国母様に取り入っていることは知っている。執務の手伝いをしているらしいこともだ。勝手なことをされては困るのだが、利己的な理由ではないらしいので口をつぐんできた。だが、図に乗って我等にまで指図しようというのなら、こちらにも考えがあるぞ」

「まったくだ」

 永兼も口をそろえた。

「桑宮殿のおかげで政務が(とどこお)りなく進んでいることは事実だが、我々としては正直(うと)ましく思っていたのだ。国母様に気に入られているからといって、いい気になられては困る」

 永兼は四千貫の直参衆であり、一万貫の桑宮家より家格が下なのだが、十四万貫の封主の興種と共にいるからか、この四十過ぎのでっぷりと太った奉行は、成り上がり者の道久に居丈高(いたけだか)な態度を取った。

「それは失礼致しました」

 道久は逆らわずに頭を下げた。

「国母様がお困りなのを見るに見かねてお手伝い申し上げていたのですが、裁事や奉行の方々からすれば不快なのは道理です。申し訳ありません」

「ふん、謝ればよいというものではないぞ。君は我々の職権(しょっけん)(おか)しているのだからな」

 永兼は文句を言ったが、道久は言い返さなかった。

「で、話というのは何だ」

 興種が尋ねると、道久は周囲をうかがって声をひそめた。

「先程の議題の件です」

「というと、田美国への派兵のことか」

「はい」

 道久は意味ありげに頷くと、更に声量を落とした。

「実は、国母様は戦には反対なのです」

「どういうことだ。つい先程国母様ご自身が軍勢の派遣をお命じになったではないか」

「国母様には苦渋のご決断だったのです」

 道久はささやくように言ったので、二人は思わず身をかがめて顔を近付けた。

「国母様は女人で、ご存じの通りお心がおやさしくていらっしゃいますから戦はお嫌いです。武者達を傷付けたくないと、本当は和平をお望みでした。ですが、武家の棟梁(とうりょう)の代理として断固たる処置をとるべきだろうとお考えになって、戦うとおっしゃいました。それでも、本心ではできるだけ流血を避けたいと思っておられます」

 ふむ、と興種は首をひねった。

「ありそうなことだが、それがどうした」

「戦になれば多くの武者が死にます。上手く恵国軍を追い払えたとしても、国母様は彼等の死は出陣を命じた自分の責任だとお苦しみになるでしょう。私はあの方がお嘆きになるところを見たくありません。できるだけ武者の死傷を減らし、国母様のご希望に沿った形で事態を収拾したいと望んでいます。そこでお二人にご協力をお願いしたいのです」

「どうしろというのだ」

 永兼が尋ねた。

「副大将でいらっしゃる菅塚公に、密かに和平交渉を行って頂きたいのです」

「なにっ!」

 興種は驚いた。

「しっ! 声が大きいですよ」

 道久が唇に指を当てた。

「……ああ、すまん」

 興種は首をすくめた。道久は辺りの物音に耳を澄ましてから、言葉を続けた。

「私の予想では、この戦は時間がかかります。どちらも大軍、そう簡単には動けません。恐らく、にらみ合いが延々と続くことになりましょう。海の彼方から遠征してきている恵国軍は長期戦になると困るはず。きっと動揺します。そこへ菅塚公が和平を申し込むのです。敵は恐らく乗ってきます。菅塚公は杏葉公が猪突(ちょとつ)するのを抑えつつ密かに交渉を進め、成立したら公表するのです。国母様はきっとお喜びになり、すぐにお許しになるでしょう。そうなれば、杏葉公や他の方々も従わざるを得ません。和平の功労者である菅塚公は確実に功績第一位です。玉都に残る粟津公もその手腕を高く評価されるに違いなく、次の仕置総監の座は約束されたも同然でしょう」

 ううむ、と興種は唸った。

「菅塚公が討伐軍に加えられたのは、杏葉公が無謀なことをなさらぬように牽制する役を期待されてのことと推察致します。それに、お二人は杏葉公の主張なさる総馬揃えの改革や法度の緩和に反対とお見受けしますので、あの方の権勢がこれ以上強まるのは困るのではありませんか。和平を結べば、杏葉公が手柄を立てるのを防ぐことができます」

 なるほど、と興種は頷いた。

「話は分かった。しかし、内密の和平交渉とは、杏葉公に知られたら怒鳴られるくらいでは済まぬぞ。(はや)る諸将を抑え切れるかどうかも分からぬ。確約はできぬな」

「そこで滝堂様の出番です。小荷駄隊の出発を遅らせて頂きたいのです」

「そんなことをすれば大変なことになるぞ。わしの責任は免れぬ」

 驚いて拒絶しようとする永兼に道久は分かっておりますという顔でささやいた。

「心配はいりません。急なことで矢や米が集まらなかったことにすればよいのです。六万五千の軍勢に必要な物資となると量は莫大、用意に時間がかかるのは仕方がないでしょう。国母様にも物資調達の難しさはお伝えしておきますので、お叱りを受けることはありますまい」

 渋い顔の永兼と興種に、道久は決意を促すように頷いてみせた。

「武器も食料も足りないとなれば、戦はできません。いやでもにらみ合いを続けるほかなくなるでしょう。その状態に両軍が疲れてきた頃に菅塚公が和平を提案するのです」

「しかし……」

「国母様の御為(おんため)です」

 道久は反論しようとする興種をさえぎって言葉に力を入れた。

「国母様のお望みを実現するのです。ほめられこそすれ、非難はされないでしょう。それに和平をまとめて恵国軍を撤退させれば菅塚公は救国の英雄です。異国の侵略に震え上がっていた諸国の民は皆喜び、こぞってお二人をほめ(たた)えるはず。その声の前では、主戦派の諸侯の怒りなど何ほどのものでしょうか」

「そう上手くいくだろうか」 

「大丈夫、成功は疑いありません。国母様の覚えもよくなりましょう。お二人の功績は私からもよくご説明申し上げるつもりです。ご出世とご加増は間違いございますまい」

「ううむ……」

 興種はまた唸った。他に言葉が出てこないらしい。一方の永兼は、露骨に顔をしかめていた。

「確かに国母様はお喜びになるかも知れないが、もし和平に失敗すればわしはどうなる。小荷駄隊の指揮の不手際をとがめられることになるのだぞ。そんな賭けには乗れぬな。わしは御免こうむる」

 永兼が断ろうとすると、道久が急に口調を変えた。

「となると、あの情報を国母様と粟津公のお耳にお入れすることになりますな」

「あの情報だと?」

「銀のことです」

「銀?」

 怪訝そうな永兼に、道久は冷ややかなまなざしを向けた。

「小耳に挟んだのですが、田美国など各地の鉱山から集められ、玉都港の倉で厳重に保管されているはずの公用銀の量が、最近かなり減っているそうです。不審に思って私に相談してきた警備担当の武者によりますと、何でも統国府のとある奉行の家臣が時々商人らしい者達を連れて深夜にやってくるようですな。その後で倉を開けると銀が減っているとか」

「何だと!」

 永兼は顔色を変えた。

「その者がそれを治都御番所(ごばんしょ)に訴え出たところ、数日後にとある裁事の家中の者がやってきて、命が惜しければ誰にも言うなときつく口止めされたそうです。その後、どうやらその件は握りつぶされたらしいと申しておりました」

「そんな話は聞いておらん。わしは知らんぞ」

 言いながら、興種は冷や汗をかいていた。

「お二人は密貿易の儲けを増やそうと梅枝家の銀の質に文句を付け、統国府へもっと多くの銀を献上させようと働きかけたが上手くいかなかった。それに腹を立て、大灘屋と組んで銀の輸送船を襲わせたのでしょうが、随分とまずいことをしたものですな。先程御前評定で銀は減っていないと報告しておられましたが、調べれば簡単に分かってしまうことですぞ」

 道久はにやりと笑った。

「そもそも、大灘屋は新興で百家商連(ひゃっかしょうれん)の一員ではないのに、武守家の米穀(べいこく)の取り扱いに参入を許されて急成長した商人です。一体いつから癒着していたのでしょうな」

「わ、わしを脅す気か!」

「そうだ。証拠はどこにある。そんな者の証言など信用できぬ!」

 興種と永兼は思わず叫んだ。

「大声を上げては気付かれますよ」

 慌てて口を閉じた二人に、道久は冷然と告げた。

「私は今のところこれを誰にも話すつもりはありませんが、お二人が国母様のご意志に逆らうとおっしゃるのであれば、しかるべき筋にお伝えするまでです。いえ、むしろ田美国にいる華姫に教えてやるべきかも知れませんな。きっと喜ぶことでしょうよ」

「き、貴様……!」

「今申し上げた提案は他の誰にも話しておりません。どうなさるか、お二人でよくお考えになって下さい」

 丁寧に頭を下げると、道久は部屋の襖を開いた。

「では、失礼致します」

 道久は廊下へ出て襖を閉めた。

「ちょ、ちょっと待ちたまえ」

 部屋の中から呼び止める声が聞こえたが、道久は無視して歩き出した。

「愚か者どもめ。存分に悩むがいい」

 誰もいない廊下を進みながら道久は一人言(ひとりご)ちた。

「これで杏葉直照はしばらく動けない。俺の交渉を邪魔する者はいなくなった」

 道久は口元に笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。

「だが、念のため、もう一つ手を打っておくか」

 つぶやいた道久は、立ち止まって少し考えた。

「そうだな。派遣する御廻組九千は建澄(たけずみ)に率いさせることにしよう。やつに、直照を勝たせるな、合戦に反対しろ、敵の挑発に決して乗るなと命じるのだ」

 二十五歳の簾形(すのがた)建澄(たけずみ)は御廻組の最年少の番頭(ばんがしら)だ。現在の地位に取り立ててくれた道久に心酔していた。

「興種め、俺が先に和平をまとめたと知ったら、ひっくり返るに違いない。だが、功績は俺のものだ。何せ芳姫様直々にご命令を頂いているのだからな」

 道久は廊下の脇の狭い中庭へ目をやった。高い木の塀の向こうは女の世界である奥向きだ。

「この使者に成功すれば、国持ち封主になって総監に任命されることも可能だろう。権力を手に入れたら貿易改革を断行し、この国を変えてやる」

 長い演説をして叱られたあの御前評定以降、吼狼国の現状を憂える奉行達と何度か会合を持ち、貿易改革の具体的な計画を話し合っている。自分が総監になれば、彼等は手足のように動いてくれるだろう。

 道久は壁の向こうにいる芳姫を思った。

「俺は一人の女を助けることで国を救うのだ。あの三柱老や裁事達の誰にこの国を導くことができるというのか。俺だけだ。俺しかいないのだ」

 そうつぶやくと、道久は長い廊下を玄関の方へ足早に歩いていった。


「ほう、やはり出兵するか」

 その日の夜、鷲松(わしまつ)巍山(ぎざん)は鷲松家玉都屋敷の居室で酒を飲みながら、家老の千坂(ちさか)規嘉(のりよし)に尋ねた。

「はい、本日の御前評定で決まりましてございます。六万を超える大軍を派遣するとのことで、それほどの軍勢の出現は三十年ぶりだと、都は戦の話で持ち切りでございます」

「では、出陣の支度をせねばのう」

 蒔絵(まきえ)の豪華な脇息(きょうそく)(ひじ)を預けたまま巍山が太った体で大儀そうに腕を伸ばすと、そばに控えたまだ二十歳にもならぬ若い妾がすぐに赤い杯を酒で満たした。

「いえ、当家に兵を出せとの命令は来ておりませぬ。それに、御屋形様(おやかたさま)は半年前の事件以来この屋敷で謹慎を命じられておりますれば、声はかからぬと存じますが」

 昨年の秋、直孝の元狼公就任に反対した直利(なおとし)と巍山と広芽(ひろめ)(かた)は、公開評定の名目でおびき出され、封主達の眼前で捕縛(ほばく)された。三人の処分は直孝の正式な継承の儀式の数日後、芳姫を(おさ)とする初めての御前評定で話し合われた。

 広芽の方は恐れ多くも国母様に暴言を吐いてつかみかかろうとしたこともあり、強制的に落飾(らくしょく)させて玉都郊外の尼寺法花寺(ほっけじ)で軟禁と決まり、直利は()(うみ)に浮かぶ鞍島(くらじま)へ流すことで全員が一致したが、問題は巍山の処分だった。直照や広範がこの際二、三ヶ国を没収して鷲松家を弱らせてしまえと主張したのに対し、内宰の雉田元潔達は、それでは大きな恨みを残すことになるし、大封主で縁戚の多い鷲松家を過剰に刺激しては乱の元だと寛大な扱いを求め、意見が対立したのだ。

 激論が交わされたが、結局、鷲松家と関係の深い封主家から多くの嘆願が寄せられたことと、事を荒立てたくなかった芳姫が穏便な処置を指示したことで、鷲松家は減封(げんぽう)を免れた。巍山は文武応諮(ぶんぶおうし)の職を解かれて隠居を命じられ、世子の勝弼(かつすけ)に家督を譲って玉都で謹慎の身となった。巍山を玉都に残したのは国元へ帰して反乱でも起こされては困るからで、武公以来の措置(そち)を引き継いだといえる。

「いまだ統国府は御屋形様を警戒しております。玉都守備の軍勢にも当家の名は見えませぬ。我等の出番はございますまい」

 規嘉(のりよし)の言葉に、巍山は膝元(ひざもと)の木皿からかちかちに干した小魚をつまんで奥歯で噛み千切り、大きな体を揺すってふっふっふと低く笑った。

「分からぬか。備えておくのよ」

「何に対する備えでございましょうか」

「決まっておろう。天下を取るための用意よ。これから世は大いに乱れるからのう」

 巍山は小魚の残りを口に放り込むと酒と共に飲み下し、赤い舌で唇をぐるりとなめた。

「恵国が攻めてきたのだぞ。これほどの大戦(おおいくさ)がそう簡単に収まるはずがあるまい」

「さようでございましょうか」

「聞けば恵国は田美国に五万の軍勢を送り込んできたそうではないか」

「はい。それに対して統国府は六万五千を派遣するのでございます」

「そこよ。連中はまだことの重大さを分かっておらぬ」

「と申されますと?」

 巍山が幼少の頃から仕えている六つ年上の腹心が禿()げた頭を(かし)げて聞き返すと、巍山は肉の盛り上がった顔を笑みに(ゆが)めた。

「考えてもみよ。吼狼国は決して小さな国ではない。五万は大軍とはいえ、この国と戦をするには少な過ぎるのよ。同程度の軍勢は統国府の命があればすぐにでも集められることくらい、恵国とて想像できよう。となれば五万は全軍ではない。後続軍があるに違いない。倍と考えても十万だ。文島(ふみじま)の二万五千を含めれば十五万かも知れぬ。それほどの軍勢を相手に、あの統国府の愚か者どもが勝てると思うか。総大将の杏葉直照などただ剣術が上手いだけのうつけ者、実戦経験がない上に、あの人柄では諸将が付いていかぬ。筆頭家老の棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)は戦上手と言われておるが、実際に戦場で率いたことがある数はせいぜい二千程度、とても大軍の指揮はとれまい。家老の身分では諸将をまとめることさえ苦労しよう。直照が討伐に失敗すれば、恐らく国中が大混乱に陥る。再び世が乱れた時こそわしの出番よ。もはや武公はおらぬ。女人の田美の方などにこの国難を乗り切れるはずがあるまい」

 巍山は酒をくいっと飲み干すと、杯をぐっと突き出した。侍女が慌てて酒を注いだ。

「ようやくわしにも運が(めぐ)ってきたのかも知れぬ。長生きはするものよのう」

「ですが、この都は国元から遠く離れております。監視も厳しく、自由になる手勢もございません。いかに御屋形様といえど、身動きがとれますまい」

「それゆえ兵を上らせるのよ。変事に備えてな」

「都に大兵を入れるには統国府の許可が必要でございますが」

「兵は近隣国に留めておくのだ。呼べばすぐに駆け付けられるところにな」

 巍山は杯を持ったまま、大きな頭を太い首にめり込ませるようにして考えた。

「そうだな、栄木国(さかえぎのくに)がよかろう。西半分が非木(ひき)持朝(もちとも)殿の領国だ。あそこならこの祉原国(よしはらのくに)の北隣、都へ一日もかからぬ。国元から五千の軍勢を商人などに変装させて少しずつ送り出し、見付からぬようにあの国へ隠せ。残りの全軍にも出陣の支度をさせよ。必要があればいつでも都へ上れるようにな」

非木(ひき)公が承知致しましょうか」

「恐らくはな。あやつは譜代封主家の三代目にしてはなかなか目端(めはし)()く。わしの娘婿になってから何かと接近して来おるし、直利の機嫌を取るのも上手い。さすがにこの半年は疎遠になっておったが、声をかければわしに味方しよう。すぐに連絡を取れ。兵を借りる交渉もしておけ」

「かしこまりました。非木家は玉都留守居役を命じられて兵を呼び寄せるそうでございます。都合がよろしゅうございますな」

「こたびのことで玉都の守備に兵を上らす縁戚の封主家には全て声をかけておけ。そうでない者にも屋敷の警備のためと称して玉都に置く武者の数を増やすように伝えよ。いざという時、兵は多い方がよいからのう」

「これは大事(おおごと)でございますな」

 戦に明け暮れた若い頃を思い出したのか、規嘉は声を興奮に上ずらせた。

「大事でなくては困るのよ」

 持ち上げた杯を口の前で止めると、巍山は目をぎらつかせた。

「わしももう六十だ。三十年武守家の隙をうかがってきたが、これが最後の機会かも知れぬ。この国があの総監どもに扱い切れぬほど大揺れに揺れることを期待しよう。さすれば、天下はわしの手の中に(おの)ずから転がり込んでこようて」

「そう上手く参りましょうか」

「それもこれも恵国軍の出方にかかっておる。手の国方面の情報収集に全力を挙げよ」

 しわがれた声で鋭く命じると、巍山は酒を一息にあおって空の杯を妾に放り投げ、「酒はもうよい。下がれ」と部屋から追い出した。

「家老達を広間に集めよ。軍議を開く。わしはこれから玉都におる封主達を味方に引き込む。こういう時のために直信への陳情を取り持って恩を売っておいたのだ。今こそ隆国との密貿易で溜め込んだ金の使い時よ。惜しみなくばらまいて、貧乏封主どもの目を黄金の輝きでくらませてくれよう。例の男とも話を進めよ。やつには役に立ってもらわねばならぬ。これは忙しくなりそうだのう」

「ははっ、早速手配致します。すぐに皆を呼んで参りましょう」

 禿げ頭を下げてお辞儀をする家老から目を離した巍山は、望天城の方角を見上げて厚い唇に薄い笑みを浮かべた。


 藤月十五日、恵国軍に対する討伐軍は杏葉直照に率いられて玉都を後にした。

 この日望天城の門の前の広場に集まったのは、背の国と尾の国の封主家及び杏葉家の武者達と御廻組だった。手輪(たわ)峠を越えてくる中つ国の諸侯や西国街道沿いの雲居国(くもいのくに)後明国(あとあけのくに)の三封主家、高稲半島西部の三国三家の軍勢は、途中で合流することになっていた。

 御前評定で派兵が決定してから出発まで十日もかかったのは、小荷駄隊の準備の遅れが原因だった。行李奉行の滝堂永兼によると、初夏という穀物が最も不足する時期であることに加え、諸侯や民が恵国軍の侵攻に備えて食料や武器を買い求めたため品不足になって値が高騰し、買い付けが思うようにいかなかったらしい。そこで、やむなく背の国の御料地から輸送することになったが、それに手間取っているとのことだった。直照は永兼を怒鳴り付けて急がせ、軍勢が勢ぞろいしてから二日も待ったのだが、一向に集まらない物資に業を煮やして、とうとう当面必要な食料と矢を武者達に持たせただけで、小荷駄隊を置いて先発することにした。

 直照が出発を急いだのには理由があった。軍勢をすぐに派遣しなければ、現在攻められている蔦茂国(つたしげのくに)の国主篩田(ふるいだ)家が滅ぼされてしまう。そうなると、田美国の奥の二国を平定した恵国軍は殻相国(からあいのくに)方面へ軍勢を集中することが可能になり、兵力が分散しているところを攻撃するという計画が狂う。できるだけ早く現地に着いて恵国軍を牽制し、篩田(ふるいだ)家を救援する必要があった。楠島(くすじま)運昌(かずまさ)の提案で宿営予定地に先に使者を送り、軍勢の食事と宿所の準備をさせて一日に歩ける距離を増やすことにしたが、それでも十日はかかるはずで、間に合うかは厳しいところだった。

 出発していく大軍を、芳姫は大手門の(やぐら)の上から直孝と共に見送った。門前の広場に整列した武者達は、喪服は不吉だからと紅色の晴れ着をまとった芳姫と武者人形のような格好をした直孝に一斉に頭を下げ、足並みをそろえて大通りを行進していった。

 露台(ろだい)で手を振る直孝に、鎧をまとった武者達は槍を(かか)げて応えた。芳姫が深々とお辞儀をすると歓呼の声が上がり、自分達の美しい主君へ勝利を誓う叫び声が辺りを埋め尽くした。

 芳姫は息子と一緒に紅色の扇を持った手を振りながら、それを半ば心強く、半ば不安に思って眺めていた。

 勇敢に戦ってこの国を守って欲しい。でも、どうか全員無事に帰ってきて。

 矛盾していると思いながら、芳姫はそう願わずにはいられなかった。この数万の武者達を遠く懐かしい故郷へ送り出し、その幾人(いくたり)かを死に追いやろうとしているのは他でもないこの自分なのだという事実の重さを、芳姫は痛いほど噛みしめていた。戦いに犠牲は付き物と分かっていても、今ここにいる武者達の一部は帰ってこないかも知れないと思うと、体が震えるほど恐ろしかった。だからこそ、道久の提案した和平にはとても期待をかけていた。

 芳姫は都で結果を待つことしかできない自分がもどかしかった。だが、全軍の総大将である芳姫が悲しい顔をしていては、武者達の心も重くなるに違いない。せめて笑顔で見送ろうと決めた芳姫は、落ちそうになる肩を無理に上げて胸を張り、勝利を確信しているかのごとく笑みを浮かべていたのだった。

「芳姫様」

 振り返ると、旅装の道久が背後に立っていた。芳姫は直孝をお絹に預けて櫓の中に入った。

「私もこれから出発致します」

 道久は別れの挨拶にきたのだった。

 彼と知って気をゆるめ、不安そうな顔に戻った芳姫に、道久は安心するように笑ってみせた。芳姫は力なく微笑み返し、腰につるした小さな袋から封をした手紙を三つ取り出した。

「私から恵国軍司令官への親書です。こちらは華子と光子への手紙です。この国と妹達を頼みます」

「お任せ下さい。全力を尽くします」

 道久は進み出て三通の書簡を押し頂くと、一歩下がって(ふところ)に入れた。

「しばしのお別れです。お体を大切になさって下さい」

 道久は芳姫の顔を記憶に刻み付けるようにじっと見つめた。

「離れていても、私はいつでも芳姫様のことを思っております」

 芳姫は顔を赤らめて頷いた。

「私もあなたの無事を祈っています」

「ありがとうございます。そのお言葉があれば何でもできましょう」

 道久は笑った。

「道久先生、どこかに行くのですか」

 道久がいることに気が付いて、直孝が露台から戻ってきた。

「国母様のお使いで遠くへ行って参ります」

 道久が答えると、直孝は首をひねり、はっとした顔になった。

「道久先生も戦うのですか」

「さようでございます」

 道久は真面目な顔で頷いた。

「広場に並んだ武者達は皆、直孝様と国母様のために戦いに赴くのです。私もやり方は違いますが、お二人のために戦って参ります」

 道久は片膝を付いてしゃがみ込み、幼い元狼公に視線の高さを合わせた。

「今、吼狼国は大変な危機にあります。国母様はそれに立ち向かっていらっしゃいます。直孝様は元服を済ませた武家の男なのですから、私がいない間国母様を守って差し上げて下さい」

 直孝は少し考え、師範の顔を真剣なまなざしで見返すと、しっかりと頷いた。

「分かりました。母上は僕が守ります。何ができるか分からないですけれど、頑張ってみます」

「さすがは全武家の棟梁様です。これで私も安心して行ってこられます」

 道久はやさしく笑った。

「今のお言葉を聞けば武者達は皆勇気百倍でしょう。末頼もしいことです」

 道久がほめると、幼い元狼公はうれしさと恥ずかしさが入り交じった表情になったが、もう一度首を大きく縦に振って母を振り返った。芳姫は息子に微笑んで頷き返した。

「それでは、行って参ります」

 道久は立ち上がった。

 その男らしい端正な顔を見上げた芳姫は、不意に道久が広場の多くの武者達と重なって見え、これで彼とはもう二度と会えないような気がして急に胸が締め付けられた。巨大な不安と寂しさに思わず引き止める言葉が飛び出しそうになったが、芳姫は左手の閉じた扇をぎゅっと握ってそれに耐え、無二の腹心へ送り出す言葉をかけた。

「お気を付けて」

 芳姫はできるだけ平静な口調で言ったつもりだったが、声が震えてしまった。

「はっ」

 道久は深々と頭を下げると、一階へ続く階段を降りて櫓を出て行った。

 その背中が見えなくなった後も、芳姫はしばらく心細げに道久の消えていった階段を見つめていた。が、やがて小さく溜め息を吐き、心配そうに母を見上げていた直孝に頷くと、顔を上げて笑みを作り直し、息子の手を引いて再び露台へ出て行った。

「そんな格好でどこへ行く」

 外へ出た道久の前に、櫓門の入口を守っていたパシクが立ち塞がった。

「国母様の使いで遠出してくる。お二人の警備の実務は副頭(ふくがしら)に任せてある」

軒溝(のきみぞ)殿から話は聞いている。それは任せておけ。だが、お前は一体何をしにいくのだ」

「この国を救いにいくのさ」

「どういう意味だ」

「今に分かるさ」

 道久がにやりと笑うと、パシクは不審な顔をして詳しく尋ねようと口を開きかけたが、すぐに諦めた。パシクは困ったやつだと言いたげな様子だったが、それでも友人のために一言付け加えた。

「身の程をわきまえろよ。護衛官にできることなど限られていることを忘れるな。お前があまり目立てば国母様のためにもならないのだぞ」

「それはどうかな。いずれお前にも俺のなそうとすることの大きさが分かるはずだ」

 道久は言い返すと、表情を引き締めた。

「それより、頼みがある。恐らく二十日ほど留守にすることになるだろう。その間国母様を頼む。時々ご様子をうかがいにあがって、話し合い手になって差し上げてくれ。それだけでもあの方には随分心強いはずだ。こういうことはお前にしか頼めないからな」

 パシクは大きく頷いた。

「心得た。毎日一度は御前に参ることにしよう」

「助かるよ。では、行ってくる」

「ああ。気を付けて行ってこい。そして必ず無事に帰ってこい。お前に何かあれば、きっと国母様はお嘆きになるからな」

「分かっている。あの方を悲しませるようなことはしないさ」

 道久は笑って約束すると、パシクの横を通り抜けて、城の庭を裏門の方へ歩いていった。

 その背中をパシクはしばらく見送っていたが、深呼吸して気合いを入れると、櫓の階段を上っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ