第一章 前年 一
『花の戦記』 吼狼国図
『花の戦記』 周辺国図
吼狼国物語シリーズ 第四部
花の戦記 巻の一
第一章 前年
一
「本当にこれでよかったのだな」
「はい」
厳しい表情の父梅枝時繁の問いに、華姫はきっぱりと答えた。
「決して後悔など致しません。自分で選んだ道ですもの、途中で逃げ出したりせず、最後まで歩き通します」
絶好の出航日和の初夏の空。田美国の青い海と穂雲港の長い木の桟橋。そこにつながれた巨船。それらを背に、華姫は言い切った。そして、隣に立つ新婚の夫を見上げてすぐに視線を戻すと、きりっとした美貌を急にゆるめて、いかにもうれしげに微笑んだ。
「私は自分の選択を信じます。絶対に泰太郎さんと幸せになってみせます」
それは、春の陽光を浴びた白梅のつぼみが、あふれ出す喜びを抑え切れずに一斉にほころんだような、実に華やかな笑みだった。時繁は思わず目を見張り、親子を遠巻きにしていた人々はそろって息を呑んで、次の瞬間大きくどよめいた。
「なんと気高くお美しい……」
「まさに手の国一の美姫でいらっしゃる」
人垣のあちらこちらから感嘆のささやきが聞こえてくる。そのざわめきの中心で、橙色の小袖姿の華姫は、すらっとした体をしゃんと伸ばして、嫣然たる笑みを浮かべていた。
「華姉様、本当に幸せそうね」
姉の笑顔はあまりに誇らしげだったので、父の横で一歩下がって立っていた光姫はつい見入ってしまった。
「後悔しないと断言するなんて、いかにもお姉様らしいわ。……うらやましい」
つぶやいてから、光姫は自分の言葉の意味に気が付いて顔を赤らめた。
妹が姉の幸福をうらやむだなんて。私はこの結婚を後押ししたのに。
誰かに聞かれたかしらと慌てて辺りを見回したが、人々の注意は華姫に向いていて、妹の漏らした小さな声に反応したのはそばに控える大きな灰色の狼だけだった。
ほっとした光姫は、問うように主人を仰ぐ銀炎丸の首を撫でてやると、鎧のような硬い毛並みに手を置いたまま、確認するようにもう一度小さく口にした。
「……でも、やっぱりうらやましい」
港中の視線を集める姉を、光姫はまぶしげに見やった。今年二十歳になった華姫は、四つ年上の夫を見上げて親しげに微笑み合っていた。
二ヶ月前に華姫が幟屋泰太郎に嫁ぎたいと言い出した時、周囲は驚愕して猛反対した。梅枝家は武門の名家で、三ヶ国八十七万貫という天下第三位の封土を持つ大封主家だ。その姫君が、商家の地方支店の番頭の妻になりたいと望んだのだ。幟屋はこの吼狼国の皇城玉都に本店を持ち、百家商連にも加盟する豪商とはいえ、身分があまりに違い過ぎた。しかし、三年も前から誓い合っていた二人の意志は固く、とうとう昨夜の仮祝言に漕ぎ着けて、新居を構える墨浦に船で旅立つことになったのだ。
今、華姫の笑顔には、その自信と喜びがあふれていた。華姫はもともと都まで評判が届くほどの美女なのだが、昨日からの輝きは特別だった。町家の女房風の髷に旅装という質素な形さえ、いつもより格段に艶やかに見える。実直そうな顔をほころばせた泰太郎の商人らしい腰の低さを見習って、かけられる祝福の言葉にお辞儀を返しながら、常に身のこなしのきびきびした才媛が、珍しくこぼれるような笑みを振りまいている。
そんな姉の姿に光姫はずっと目を引き付けられていた。そこへ、乗船間際になって父が港に馬で駆け込んできて、いきなり先程の問いを投げたのだ。
父に堂々と返答した華姫を見て、光姫は改めて姉を包む幸福感と誇りの大きさに胸を打たれた。そして、その驚きがいつの間にか「うらやましい」という感情に変化していたことに、口を衝いて出た言葉で初めて気が付いたのだった。
光姫は最初からこの結婚に賛成だったし、美しい姉を誇りに思い、仲の良い妹として華姫の幸福を素直に喜んでいた。それでも、姉の姿に羨望を覚えずにはいられなかった。
「……私もあんな風に笑えるようになりたい」
光姫の胸をざわめかせるこの感情は、もしかしたら、三つ年上という以上の差をいつも感じさせられる聡明な姉への対抗心なのかも知れなかった。
小さく溜め息を吐いた光姫は、父の横顔をそっとうかがった。
華姉様はこんなにうれしそうなのに、お父様はいつまで意地を張るおつもりなのかしら。
時繁はただ一人難しい顔で腕組みをして立っていた。身分の差もだが、華姫に婿を迎えて跡継ぎにという話が駄目になって、候補に挙がっていた複数の封主家に対して面目を失ったため、二人の結婚が決まってからのこの二ヶ月余り、その表情を崩さなかったのだ。
時繁は不機嫌そうに華姫の笑みを眺めていたが、一つ咳払いすると、大封主家の当主らしい厳しい口調で再び娘に語りかけた。
「華子。お前の考えはよく分かった。では、旅立つ前に言っておくことがある」
時繁の声に気が付いた華姫は笑みを収めて父を見た。ざわめいていた周囲の人々は静まり返り、泰太郎も義父の方を振り向きながら妻の表情をうかがってわずかに眉を曇らせたので、光姫は向かい合う父と姉を見比べてはらはらした。
まさか、勘当を宣言するつもりかしら。
ただでさえ、華姫と泰太郎は、このままでは二度と穂雲城の門をくぐれない。時繁の顔に泥を塗るようなまねをし、複数の封主家の若君に恥をかかせたからだ。絶縁の言葉を述べてしまえば、仲直りは一層困難になる。
もう姉夫婦と会えないと思うと光姫はとても寂しかった。それ以上に、父と姉が対立したまま別れることが悲しかった。父が娘達を名門梅枝家の名に恥じぬよう厳しく躾けた一方で、とても大切にしてくれたことをよく分かっていたからだ。仮祝言は出席を拒んだ父が港へやってきた時は、姉を許す気になったのかと喜んだのにと、光姫は気が気でなかった。
「お前はわしに逆らったことを後悔せぬと言うのだな。ならば、もはや止めはせぬ。勝手に家を出て行くがよい」
時繁は突き放すように言った。
「ただし、わしは援助は一切せぬ。この先どのようなことが起ころうと、その道を選んだのはお前自身なのだから、幸せも不幸せもお前の責任だ。自分の幸せは自分の力でつかみ取れ。たとえ困窮しても助けは当てにするなよ」
「はい、お父様。覚悟はできています。お怒りが解けなかったことは残念ですが、二人で力を合わせて生きていくつもりです」
華姫は落ち着いた声で答えたが、さすがに顔が強張っていた。
時繁に勘気を解く意志がなさそうなことに、見送りにきていた梅枝家の家臣や幟屋の手代達はがっかりした様子だった。光姫も、嫁いでいく娘に最後にかける言葉とはとても思えぬ内容に、止めに入った方がよいのかしら、勘当だけは阻止しなくてはと、銀炎丸の首をぎゅっと抱き寄せて、次の言葉を待っていた。
「ならば、華子に命じる。見事添い遂げてみせよ」
光姫の心中など気付かぬ様子の時繁は、険しい顔で重々しく申し渡した。まるで家臣に軍役を課す時のような口ぶりだった。
「結婚したからには、必ず泰太郎と幸せになれ。これが幸福な結婚であったことを自分自身で証明するのだ。さすれば、世間も、さすがは梅枝家の娘、よい夫を選んだものだと納得するだろう。その近道は心から夫に仕えることだ。常に泰太郎の妻としてふさわしく振る舞うようにせよ。それさえ忘れなければ、どんな困難も乗り越えられよう。意志の強いお前ならできるはずだな」
「そのご命令、お受けします」
華姫も真剣な口調で返答した。
「自分で決めた夫ですもの、誠心誠意、最後まで全力で尽くします。決して後悔など致しません。必ず泰太郎さんと幸せになってみせます」
「その言葉、忘れるなよ」
華姫がしっかりと頷くと、娘をにらみ付けていた時繁は急に視線を外した。そして、少しためらってから、心を決めたように再び顔を向けた。
「泰太郎は真面目で賢い。お前にはお似合いだ。きっとよい夫婦になるだろう。そうしていつか、町方の暮らしにも馴染み、商家の女主人が板に付いたら、孫を連れて遊びに来なさい。梅枝家を出て行っても、お前はわしの娘なのだからな。二人の幸せを願っておる」
「えっ?」
思わず父を見上げた光姫の向かいで、華姫が小さく叫び声を上げた。
「お父様……!」
驚きに目を見開いた華姫は、父の顔を見つめて言葉を失った。と、決意に満ちた表情が揺らぎ、激情に耐えるように伏せられた白い頬を涙が一筋こぼれ落ちた。泰太郎がそっと肩に手を置くと、華姫は小さく嗚咽を漏らした。
「はい、必ず参ります。幸せになった姿をきっとお見せ致します」
華姫の声は震えていた。この結婚にずっと反対していた父がようやくかけてくれた祝福の言葉が胸に沁みたのだ。
「よかったね、華姉様。本当によかった……」
光姫も涙をこぼしながら姉のために喜んだ。別れの前に二人が和解したことに心の底からほっとした途端、涙もろい光姫は、滅多に弱さを見せない姉の涙についもらい泣きをしてしまったのだ。
華姫はあふれる涙をぬぐいながらいかにもうれしそうな笑みを浮かべていた。泰太郎も心からの笑顔になって何度も時繁に頭を下げている。
「やっぱり、やっぱりうらやましいわ……」
父に向かって必ず幸福になると言い切った姉の誇り高さに光姫は心を揺さぶられ、その姉夫婦がもうすぐ遠くへ去ってしまうことが急に胸に迫って、ますます涙が止まらなくなった。
落ちてくる滴に気が付いた銀炎丸が、主人を案じたのか鼻先を腕に押し付けてきたので、光姫は微笑んで太い首を撫でてやった。周囲の人々もほっとした顔になって笑い合い、渋面を解いた時繁は、夫に寄り添って涙をこぼす娘をやや寂しそうに眺めていた。
「華姫様は私が命にかえてもお守りします」
泰太郎が義父に約束した。
「銀の新たな製錬法の件もお任せ下さい。必ず実用化してみせます」
「頼んだぞ」
「はい」
もう一度深く頭を下げた泰太郎は、なだめるように妻の肩を抱いて軽く叩き、華姫が目に袖を押し当てながら頷くと、体を離して義妹に向き直った。
「光姫様もどうかお元気で。このたびは本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます。そして、光姫様のよい知らせも早くうかがえることを願っています。ご婚礼には参列できませんが、華姫様とご相談して、何か贈り物をさせて頂くつもりです」
「はい。泰太郎さんも、華姉様とお幸せに」
急いで目をぬぐってお辞儀を返した光姫は、ふと気が付いた。
「あら、いけない。仮祝言も済んだのですから、もうお義兄様とお呼びしなければいけないのでした」
光姫が笑うと、泰太郎も笑顔になり、「その呼び方のままで構いません」と言いながら、右手を伸ばして光姫の頭へ置こうとした。別れの時袖にすがり付いて泣く幼い姫君に、いつもそうしていたからだ。
が、泰太郎は急に腕を下ろした。
「これは失礼致しました。光姫様はもう十七になられたのでしたね。頭を撫でるお歳ではありませんでした。このような美しい姫君を子供扱いして誠に申し訳ございません」
謝った泰太郎は顔を上げると、今初めてその美貌に気が付いたように、義妹を見つめてまばたきした。普段は動きやすい格好で元気に馬で駆け回っている光姫だが、今は正装して薄桃色の打掛をまとっていた。光姫は泰太郎の驚きにほろ苦い気持ちになったが、それを隠してわざといたずらっぽく言い返した。
「今日はお互いにうっかりしていますね」
「本当に」
泰太郎が微笑むと、光姫はその手を両手で捕まえた。
「撫でて下さい。これで最後ですから」
手を頭上へ持って行くと、泰太郎は理解した顔で頷き、中央できれいに分けた長い髪を崩さないように、てっぺんをそっと撫でてくれた。そのやさしい重さを感じながら、光姫はまた泣きそうになった。光姫はかつてこの男性にあこがれていたのだ。
泰太郎との出会いは七年前、光姫が十、華姫が十三、泰太郎が十七の時だった。
梅枝家は千年以上続く武門の名家で、天下第三位の大封主だ。かつては吼狼国の九つの州ごとに置かれた探題という職に代々任じられ、地域の武家の統御と監視を任されていた。数百の群雄が全国各地に割拠した戦狼時代には、手の国の虎と恐れられた先代時錦が田美国を拠点に高稲半島の全七国を制圧し、領土が百八十万貫を越える大勢力となって天下を争ったこともある。だが、武公と尊称される武守直祥に破れて時錦は死に、十代半ばで後を継いだ時繁は、武守家に降伏してその覇業に協力することで家名の存続を許された。
武公によって天下が統一され、百七十年に渡った戦乱が収まって平和な世が訪れると、各地に封土を与えられた諸封主は競うように自領の開発を始めた。梅枝家も三ヶ国八十七万貫に減った領地の収益を上げようと田畑の開墾と産業の育成に乗り出し、資金と技術を求めて幟屋と手を組んだ。
古来の穀倉地帯である田美国の米に興味を持った老舗の豪商は、穂雲城下に支店を開設して積極的に協力した。領内で銀鉱山が発見されたこともあって梅枝家は莫大な利益を得、内福の家として国中に知られるまでになった。穂雲支店の店主は幟屋当主の弟で宗右衛門と言い、穂雲城に出入りする内に時繁と親しくなって友人として遇されていたが、その息子が泰太郎だった。
幟屋一族の若手の中で飛び抜けて優秀だった泰太郎は、将来の幹部候補として各地を回らされた後、穂雲支店の番頭となった。父と共に登城した際、時繁に簡にして要を得た受け答えと見聞の広さを気に入られ、華姫と光姫の学問の特別師範に任じられた。
忙しい泰太郎は一年の半分は旅に出ていたが、それ以来田美国に戻ってくると必ず穂雲城へ顔を出し、姉妹の勉強の進み具合を見てやって、旅先で見聞きしたことを話して聞かせるようになった。広い世間を教えるという自分の役割を泰太郎は心得ていて、吼狼国各地の風土や暮らしぶり、海の向こうの大恵寧帝国の町の様子などを詳しく語り、華姫と光姫は珍しい体験の数々に夢中になって聞き入った。
やさしく穏やかな人柄でいつも面白い話を聞かせてくれる泰太郎を、光姫はすぐに好きになった。泰太郎が来ると光姫はずっと後を付いて回って、遊んでくれと袖を引いてせがんだ。梅枝家の姉妹の母は光姫が生まれた直後に亡くなっていたし、母代わりだった長姉の芳姫も光姫が八歳の時に結婚して都へ行ってしまっていた。華姫は妹にやさしかったが芳姫のかわりにはなれず、甘える相手に飢えていた光姫は、時々一人で庭に出て、娘が生まれるたびに植えられた紅と白と薄桃色の三本の梅の木のそばをうろうろしていた。
それに気が付いた泰太郎は、翌年の春、光姫に一匹の贈り物をした。
「都からこちらへ戻る途中、雲居国で猟師に譲ってもらったのです」
泰太郎は生まれてまだ一月にならないという狼の子を、布の寝床に包んで渡しながらそう語った。
「まあ、では、神雲山の神獣の子供ですの?」
華姫が妹の腕の中をのぞき込んで尋ねると、「そのようです」と泰太郎は頷いた。
吼狼国一の高峰にして霊山とされる神雲山は、麓に広大な森を抱えている。そこに棲む大きな狼達は、鋭い牙と厚い毛の鎧を備えた全ての獣の王者であり、吼狼国の守護獣として山と共に信仰の対象になっていた。
「親を失った幼い狼は一匹では生きられないと聞いて哀れに思い、引き取ってきました。ですが、私は旅に出ていることが多いですので、光姫様にお世話をお願いできないかと思いまして」
胸に抱いた灰色の固まりに目を丸くして見入っていた光姫は、思わず大声を出した。
「もらっていいの?」
「はい。差し上げますから、どうか立派な狼に育てて下さい」
「もちろん、そうするつもり! いいよね、華姉様?」
華姫が頷くと、光姫は狼の子を抱いたまま部屋の中を跳び回ったが、「怯えるわよ」と言われて慌てて座り込み、まだ柔らかい毛並みをそっと撫でてやった。
「名前は何にするの?」
姉に聞かれて、光姫は「銀色の火」と答えた。
「だって、灰色であったかいんだもん」
華姫から「よい名前だけれど、ちょっと呼びにくいわ」と異論が出たので、三人で辞書や事典をたくさん持ち出してあれこれ議論した末、銀炎丸という名前に落ち着いたのだった。
銀炎丸はすぐに光姫に懐いた。光姫もこの新しい友達を常にそばから離さなかった。馬で野山を駆け回る時や学問武術の修練の時はもちろん、風呂に入る時や寝る時まで二人は一緒だった。
光姫はよく銀炎丸に話しかけた。銀炎丸と向かい合っていると、泰太郎と話しているような気持ちになったのだ。光姫にはこの狼は泰太郎と自分を結ぶ使者のように思われ、銀炎丸との絆が深まれば深まるほど泰太郎のこともますます好きになっていった。
一方、華姫も、あまり態度には出さなかったが、師範役の若い商人の博識と人柄に好感を持っていたらしかった。泰太郎の方も華姫の才女ぶりには感心して熱心に教えていた。実際、華姫の学問の進歩は泰太郎も舌を巻くほどだった。華姫と泰太郎の話題はかなり専門的な内容に及び、二人はしばしば夢中になって光姫には分からないような難しい話をしていた。そういう時、光姫はちょっぴりつまらないと感じる一方、大好きな姉と兄のように思う泰太郎の学識の深さを尊敬するのだった。
そうして更に三年が過ぎた。銀炎丸は一人前の狼に、それも光姫を乗せて走れそうなほどの大きさになった。光姫も美しいとささやかれる十四歳の姫君に成長し、十七歳の華姫の才知と美貌は近隣国に轟いていた。
春の初めの寒い日、半年ぶりに泰太郎が訪ねてきた。光姫は姉と共に喜んで出迎え、その間の学問の成果を見せて大いにほめてもらった。
久しぶりに泰太郎に会えたことに浮き浮きしていた光姫は、次は武芸の腕前を見せようと、道具を取りに部屋へ戻った。馬術と薙刀と騎射は師範が手放しでほめるほどの上達ぶりだったので、きっと泰太郎も驚くだろうと、稽古着に着替えて薙刀を持ち、銀炎丸と一緒に白い息を吐きながら廊下を走って、姉妹の学問部屋へ向かった。
建物同士を結ぶ渡り廊下を突っ切り、角を曲がって部屋に飛び込もうとした時、光姫の足がつと止まった。閉じた障子の向こうから、ただならぬ雰囲気の話し声が聞こえてきたのだ。華姫が何かを泰太郎に訴えているらしいのだが、こんなに悲しげで必死な姉の声を光姫は聞いたことがなかった。
「お願いです。泰太郎さんの気持ちを教えて下さい。本当は私のことを愛していらっしゃるのでしょう?」
「先程からそんなことはあり得ないと何度も申し上げているではありませんか。あなたは封主家の姫君、私はただの商人です。あなたをそのような対象として見ることは許されません」
「それが本心とは思えませんわ。どうか本当の気持ちをおっしゃって」
「ですから、私があなたを恋するなどと、そのようなことが起こってよいはずがないのです。仮に、仮にですが、もしそんなことがあったとしても、私は口にできません」
「どうして正直に話して下さいませんの。私はあなたをこれほどお慕いしておりますのに」
「どうかこれ以上はお許し下さい。私には何も申し上げられないのです」
その会話の意味を理解した瞬間、光姫は顔中の血が一時に引いたような気がした。心臓ががんがんと鳴り響き、脈が激しく渦を巻いて流れているというのに、全身が震えるほどの寒気を覚えた。胸の中心辺りが張り裂けそうに痛かった。
光姫の頭の中をこの四年の月日がぐるぐると回った。親しげに語り合う姉と泰太郎の姿と、それを笑って見ていた自分が思い出された。
部屋の中のやり取りはいつまでも続いている。薙刀を握り締めて立ちつくしていた光姫は、くるりと向きを変え、黙って廊下を戻っていった。銀炎丸が不思議そうな様子で付いてきた。
光姫は姉妹の居室の前までくると、足が汚れるのも気にせず庭へ降りた。薙刀を両手で持ち、高く構えると、大きなかけ声と共に思い切り振り下ろした。
「やあっ!」
銀炎丸が驚いて飛び下がった。
「やあっ! やあっ! えいやあっ!」
光姫は何度も何度も薙刀を振るった。大声を上げ、全力で棒を振り回した。光姫の目に涙が浮かんできた。それは豆ができそうな手の痛みのためでも、硬い石を踏む凍える足のためでも、降り始めたその冬最後の冷たい雪のためでもなかった。光姫は涙がこぼれ落ちるのをぬぐおうともせず、ひたすら薙刀を振り続けた。
そうして十数回も振るった頃、光姫はとうとうこらえ切れなくなって薙刀を放り出し、庭の三本の梅の木の陰に走っていって、一番小さな木にすがって大声で泣いた。涙は後から後からあふれてきた。光姫は悟ったのだ。自分が泰太郎に恋をしていたこと、そしてその恋が破れたことを。
銀炎丸は光姫に近付いて困ったように周囲を回っていたが、やがて頬を流れる涙をなめ取り始めた。光姫は銀炎丸の太い首に抱き付き、温かな毛並みに顔をうずめて泣き続けた。
雪雲に覆われた薄暗い空の下、泣きじゃくる光姫と、涙に濡れながら主人に寄り添う銀炎丸を、細い枝に積もった雪から顔を出した薄桃色の八重の梅の花だけが、ただ静かに見守っていた。
しばらくして泰太郎は帰っていった。大手門まで見送って戻ってきた華姫の頬は誇らしげに上気し、いつになく興奮気味だった。それを物陰から見ていた光姫は一層切なくなったが、同時に納得し、どこかでほっとしていた。
「ねえ、これでよかったんだよね」
びしょ濡れになって熱を出した光姫は、同じ布団の中に寝そべる銀炎丸の温もりを背中に感じながら、うずく胸に手を当てて、華姫が一枝ずつ切ってきて生けた紅と白と薄桃色の梅の花を、いつまでも眺めていたのだった。
それから華姫と泰太郎は非常な努力をした。泰太郎は早く一人前と認めてもらうために今まで以上に熱心に働き、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。華姫も学問に打ち込み、将来泰太郎の商売の助けになれるようにと各地の地理や歴史や産物を学び、その熱意と知識欲で師範達を喜ばせ、驚愕させ、ついには降参させた。
華姫がとりわけ興味を持ったものの一つは医術だった。泰太郎が仕事の疲れと軽い風邪を訴えたのをきっかけに薬種学などの書物を熱心に読んだ結果、素人としてはなかなかだと梅枝家の侍医も認めるほどの腕になった。華姫は時々山へ薬草を摘みに行って薬を作り、家臣や城下の貧しい人々に配った。駆け回ってばかりで生傷の絶えない光姫は随分と世話になり、泰太郎は旅に出る時、いつもお守りがわりに華姫の調合した薬を持たされていた。
華姫は、泰太郎の夢が海の彼方の大恵寧帝国との貿易で、現地に支店を作って自在に切り盛りすることだと聞くと、大陸の言葉まで学び出した。恵国は現王朝だけで五百年の歴史を持ち、吼狼国とも古くから交流がある老大国だ。近年は弱体化が著しく、十五年前に将軍の一人が自立して隆徳天授国を称し、北部の三分の一ほどを占領している。内乱の続く恵国では様々なものが高値で売れたので、吼狼国の商人にとって大陸との貿易はあこがれだった。
泰太郎の影響でかねてから恵国の文物に興味を持っていた華姫は、思い立つや恵国語の猛勉強を始めた。努力家の華姫はたちまち上達し、会うたびに進歩して泰太郎を驚かせ、ついには恵国語で議論ができるまでになった。二人は光姫がいる時に秘密の話がしたくなると恵国語に変わったので、自分には打ち明けてくれてもよいのではないかと、仲間外れの妹はちょっぴり不満に思ったものだ。
学問をする内にもっと世の中を知りたいと思うようになった華姫は、父に願い出て旅行までした。封主家の姫君が気ままに旅するなど異例のことだが、玉都に姉の芳姫を訪ねるだけという条件で特別に許可が出た。時繁は見聞を広めることに反対せず、旅を許すかわりにと持ち出した結婚話を華姫が断っても、仕方がないと笑っていた。
一年後、恵国から帰ってきた泰太郎は、興奮した様子で見慣れぬ文字が並ぶ一冊の書物を華姫に見せた。遠い東の果てにある大陸の冶金術の研究書で、鉱山で製錬される銅に含まれる金銀を硫黄を用いて分離する方法が書かれているという。
吼狼国では知られていないこの技術を実用化できれば銀の生産量が増え、恵国との貿易が一層盛んになって両国共に潤うと、泰太郎は熱心に語った。吼狼国で産出される銀の半分は恵国へ運ばれて貨幣に使われているが、輸出量の制限のために価格が跳ね上がり、恵国の経済を混乱させていた。隆国との戦と物価高に苦しむ恵国の民から、銀と交換に珍しい品々を山のように巻き上げて持ち帰る吼狼国の同業者達を、泰太郎は以前から苦々しく思っていたのだ。
泰太郎は時繁に面会し、この技術の価値を説明して開発の支援を求めたが、拒否されて研究を禁じられた。生産量が増えて銀の価格が下がれば収入が減るからだった。やむなく泰太郎は他に出資者を探し、大灘屋という新興の大商人の協力を取り付けて密かに研究を進め、二年後の秋、提供された銅から重さの九分の銀と一分の金を分離することに成功した。
泰太郎は大喜びし、この技術を絞り吹きと命名すると、大灘屋の援助を受けて駆け落ちの準備を始めた。華姫を奪い、銀価格を下げれば時繁の怒りは免れない。この技術があれば幟屋から独立してもやっていける。泰太郎は獣骨の灰の皿のかわりに松葉の灰を使うことで銀の製錬をより安く行う技術も時繁に献上するつもりだったが、それで許されるとは到底思えなかった。
だが、駆け落ちはなかなか実行できなかった。その年の冬、都に納めた銀の品質について統国府の高官から文句が付くという事件があったのだ。時繁は長姉芳姫の夫の武守直信に仲裁を依頼し、方々に運動して穏便に済ませようとしたが、結局十万両の銀を追加で納入することになり、その手配で泰太郎は駆け回ることになった。そして、そのどたばたが一段落した頃に、玉都にいた華姫と光姫の兄の時幹が二十三歳の若さで亡くなったのだ。
時幹は生まれつき体が弱く、一年の半分を寝床で過ごすような人物だった。本人も長くは生きられないことを自覚し、妻帯も断って静かな日々を送っていた。時繁は唯一の男児を常に心配して治療に手を尽くしていたが、時幹は冬の終わりに引いた風邪をこじらせ、数日寝込んだ後、雪が消えていくように静かに息を引き取ってしまった。
長男を失って時繁は非常に悲しんだが、すぐにかわりの後継者の選定に入った。梅枝家は上から順に、既に嫁いでいる二十六歳の芳姫、亡くなった時幹、二十歳の華姫、十七歳の光姫の四人兄弟だった。となれば、華姫が婿を取って後を継ぐのが筋だ。時繁はこの時を予想して次女の学問を援助してきたのだし、そろそろ行き遅れと見なされる年頃だったので、よい機会でもあった。時繁は葬儀を終えて国元へ戻ると次女を呼んで、結婚して後を継ぐように命じた。
婿の候補は三人とも比較的大きな譜代家の子弟だった。銀の品質に文句を付けられた件で時繁は外様の立場の弱さを痛感したので、有力な譜代家と縁戚になろうとしたのだ。
他にもう一人、田美国の南隣にある椎柴国の国主鳴沼家の次男継村が、華姫の結婚話を聞き付けて自ら婿に名乗りを上げた。継村は、あなたに惚れてしまった、絶対に幸せにするから愛を受け入れて欲しいと穂雲城に日参して話題になっていたが、時繁は反対だった。隣国だし、新興だが一応は譜代家だから粗略にはできんが、たった三万貫の貧しい国では話にならんと言って、楡本家の三男との結婚を娘に迫った。
華姫は兄の死を知った時からこの日が来ることを覚悟していたので、翌日泰太郎を城へ呼び出した。すぐに逃げようと泰太郎は言ったが、華姫は恋人を説得した。
「後継ぎの私が突然いなくなれば父に大きな心配と迷惑をかけることになるわ。悪いことをするわけではないのだから、きちんと話をして許可を得るべきだと思うの」
そして、一緒に時繁の前に出た。
時繁は松葉の灰の利用法の説明は上機嫌で聞いていたが、二人が結婚の許可を求めると驚愕し、次いで激怒した。
「そんな関係にさせるために泰太郎を付けたわけではない!」
娘を怒鳴り付けた時繁は、土下座する泰太郎を斬って捨てようとした。止めようとする華姫ともみ合いになり、父は娘を突き飛ばして刀を抜いた。泰太郎は覚悟を決めた顔でぎゅっと目をつぶり、畳に倒れた華姫は悲鳴を上げた。
「おやめ下さい!」
そこへ銀炎丸と共に飛び込んだのは光姫だった。
「私が婿を取りますから!」
三人は唖然としたが、光姫は構わず父と泰太郎の間に割り込むと、両手を広げてさえぎりながら決意を述べた。
「華姉様と泰太郎さんが好き合っていることは以前から知っていました。二人には幸せになって欲しいと思います。ですから私が後を継ぎます」
光姫はその場に正座し、畳に手を付いて深く頭を下げた。
「どうか二人の結婚を許してあげて下さい!」
時繁は思わぬ闖入者に怒るのも忘れて立ちつくしていたが、驚きが去ると、三女を見下ろして静かに問いかけた。
「本当にそれでよいのか」
「はい!」
顔を上げた光姫がしっかりと頷くと、時繁は深い息を吐いて刀を収めた。
「妹に感謝するのだな」
「では、結婚の許可を頂けるのですね?」
華姫が思わず声を上ずらせた。
「勝手にせい!」
そう言い捨てて、時繁は部屋を出て行った。
それを呆然と見送った華姫は、いきなり妹に抱き付いて泣き出した。泰太郎は畳に額をこすり付けて礼を述べると、慌てて時繁を追いかけていった。
光姫は涙を流して感謝の言葉を繰り返す姉をなだめながら、ほっとして、やはりこれでよかったのだと思った。光姫は二人が大好きだったし、いつも冷静な姉がこれほど感情を露わにして喜んでいることからも思いの深さが知れた。光姫はどこか虚脱したような気分で、自分もそんな気持ちを感じる相手に出会いたいと思ったのだった。
こうして時繁の許可を得ることはできたが、二人の結婚は人々に驚きを持って迎えられ、いくつかの騒ぎを引き起こした。
宗右衛門は華姫を連れて戻ってきた息子から話を聞いて卒倒したし、双方の親族は皆反対した。婿争いで商人に負けた鳴沼継村は嘲笑の的になってすごすごと自国へ帰っていった。華姫に岡惚れしていた梅枝家の家臣が泰太郎に斬りかかるという事件もあった。
だが、二人の意志は固く、周囲を説得しながら少しずつ準備が進められ、藤月の終わりに双方の親族だけを招いて仮祝言が行われた。袖にした封主家をはばかって、正式な婚儀は新居を構える墨浦で商人仲間だけで行うことになり、内輪のお披露目の席を設けたのだが、時繁は出席しなかった。
わがままで家を出て行く身で大げさなことはしたくないという華姫の希望で、宴は至って質素だった。花嫁衣装は母の形見が使われたが、細身で背が高い華姫が白い着物をまとうとまるで白百合の花のようで、親族一同は天下一の花嫁だとほめそやした。
結納のかわりに、泰太郎は華姫に贈り物をした。指輪と呼ばれる手の指にはめる異国の装身具で、銀の土台に梅花の形に白い金剛石を五つ並べたものだ。暴波路国の奥地の産というこの宝玉の欠片を知り合いの商人に見せられた泰太郎は華姫の木の白い花を思い出し、無理を言って譲ってもらって、穂雲城下の高名な職人に加工を依頼したのだという。銀に宝玉をはめ込んで欲しいという注文に職人は驚いていたらしいが、螺鈿や象嵌の技術を応用して苦心の末に作り上げてくれたそうだ。
大封主家の姫君と商人の組み合わせということで、双方の親族は随分緊張して会話は途切れがちだった。それでも、華姫は宴の間中、泰太郎にはめてもらった白く輝く指輪を眺めて実にうれしそうに頬を染めていた。そんな姉を光姫は心から祝福しつつ、二人が父の欠席を気にしていることに胸を痛めていたのだった。
そして、今、華姫夫婦は長斜峰半島の大都市墨浦へ向けて船出しようとしていた。泰太郎が結婚祝いにそこの支店の大番頭に任じられて、夫婦で赴任することになったのだ。
先程光姫の頭を撫でてくれた泰太郎は、父の宗右衛門や穂雲支店の仲間と別れを惜しんでいる。時繁は海国丸に同乗する家臣達と話をしていた。彼等の任務は墨浦の商人との取引拡大の交渉と輸送する銀の警護、それに、最近相次いでいる牙伐魔族による商船の襲撃への対処だ。南方の島々に住むこの蛮族は襲った船の荷を奪い、抵抗する者は殺し、降伏した者は連れ去って奴隷として売ってしまうのだ。だが、それは随分東の海域の話なので、海国丸が襲われる可能性は低い。光姫はむしろ華姫の護衛だろうと思っていた。知らない遠い土地へ赴く娘を父は心配しているのだ。
そう考えて、光姫は笑ってしまった。時繁が表向きは二人の結婚に怒っているふりをしながら、密かに仮祝言の支度に口を出していたことを光姫は知っていた。無理をして作っていたしかめっ面から解放されたためか、時繁は機嫌がよさそうだった。筆頭家老の「仲直りなさって、本当にようございました」という言葉に頷いている。
華姫が近付いてきた。
「光子」
華姫は妹の体に腕を回すとぎゅっと抱き寄せた。
「華姉様、何を……?」
光姫が驚くと、華姫は抱き締めたまま笑った。
「東の果ての遠い国々ではこうやって別れを惜しむそうよ。いいのではないかしら、女同士だもの」
華姫は光姫の耳に口を寄せた。
「ありがとう」
小さな声だったが、その言葉には深い思いが籠もっていた。
「私は今、信じられないくらい幸せよ。絶対に泰太郎さんと結婚するつもりだったけれど、正直なところ、お父様を説得するのは難しいと思っていたわ。いざとなったら駆け落ちしようと話していたのよ。でも、願いがかなったわ。あなたのおかげね。心からお礼を言うわ」
華姫はもう一度妹をきつく抱き締めた。
「これでお別れだけれど、元気でね」
「お姉様……」
光姫はつい涙声になった。
「あなたは本当に泣き虫ね」
華姫は微笑んで体を離し、帯の間から白梅の花が縫い取られた白い手拭き布を取り出して、光姫の頬をそっとぬぐってくれた。
「光子には笑顔の方が似合うわ。あの人と結ばれるのは難しいのではないかと絶望しそうになった時、いつも明るいあなたを見て、私も落ち込んではいられない、頑張らなくてはと思ったものよ」
華姫の笑みはやさしかった。
「光子になら安心して梅枝家を任せられるわ。お父様を頼むわね」
涙で声が出ない光姫が何とか頷くと、華姫は妹の泣き笑いの顔を愛おしそうに眺めた。
「私はもう充分あなたに幸せをもらったわ。今度は光子が幸せになる番よ。あなたも早くいい人を見付けなさい。その人と一緒なら苦労が幸福に変わるという人を。かわりに後を継いでくれることには感謝しているけれど、そのせいで光子が変な相手と無理矢理結婚させられるなんて耐えられないわ。光子にも運命を感じる相手がきっといるはずよ」
華姫の笑みに真剣なものが混じった。
「私は必ず泰太郎さんと幸福な家庭を築いてみせる。あの二人の結婚は成功だったと言わせてみせるわ。だから光子にも本気で自分の幸せを探して欲しいの。あなたには笑顔でいてもらいたいのよ。私にできることは何でも協力するから」
華姫は光姫の手を取って手拭き布を握らせた。
「これはあなたにあげるわ」
「それなら、私はこれをお姉様に」
光姫も自分の桜色の手拭き布を取り出した。侍女のお牧に教わりながら薄桃色の梅の花を数輪自分で縫い取ったお気に入りだ。
「ありがとう。大事にするわ」
華姫はうれしそうに受け取った。
「遠く離れてしまうけれど、私はいつでもあなたの幸せを祈っているわ」
そうささやくと、華姫は光姫の髪を軽く整え、銀炎丸の頭を撫でて、夫の方へ歩いていった。光姫は湿った布を握ったまま、その背中をじっと見つめていた。
やがて、船が出る刻限になった。
出発の銅鑼が鳴り、海国丸が動き出した。大量の銀を乗せた巨船は、ぎぎい、ときしむ音を立てながら、次第に桟橋を離れていく。かけ声に合わせて十数本の櫂が漕がれるたびに船は少しずつ向きを変え、ゆっくりと沖の方へ進んでいった。
見送りの人々は口々に別れの言葉を叫びながら手を振っている。その騒ぎの中、桟橋の先端にいた光姫は、ただ一人黙って姉の姿を目で追っていた。
船の上で華姫と泰太郎がそろって頭を下げた。同行する家臣や手代達もそれにならい、顔を上げると一斉に手を振り返した。
光姫と目が合うと、華姫は華やかに微笑んだ。それは光姫が今まで見た中で間違いなく一番の笑顔だった。父と和解したためか先程より更に晴れやかなその笑みに、光姫は再び目を奪われた。姉のあの輝きは、自分の幸福を手に入れたと確信している者の放つ力なのだと光姫は思った。
「やっぱり、華姉様、とっても綺麗だわ。……ようし、決めたわ!」
光姫は急に大声を上げると、手を高く振った。姉の笑顔を見て決意したのだ。私も華姉様に負けないくらい幸せになってやろうと。自分の夫として、また梅枝家の当主としてふさわしい男性を見付けることが、先程姉が告げたことへの答えになるだろうと思ったのだ。
「お姉様、私も幸せになる! 絶対なる! なってみせる!」
大声で叫ぶ光姫に華姫が笑って頷き、手を振り返した。
「華姉様、泰太郎さん、末永くお幸せにね!」
光姫は何度も飛び上がって手を大きく振り回した。涙が頬をこぼれ落ちた。打掛の太い袖が風をはらんでばたばたと揺れ、驚いた銀炎丸が船に向かって長く遠吠えした。光姫達を見て笑う華姫と泰太郎の姿は、段々離れて小さくなっていった。
崩れた髪が海風に煽られてふわりと頬に張り付いた。それをさっと払った光姫は、手拭き布を握り締め、涙を吹き飛ばす風を顔に浴びながら誓った。
必ずこの手に幸せをつかんでみせる。お姉様と約束したのだもの、私も泰太郎さんと同じくらい、いいえ、あの人より、もっともっと素敵な結婚相手を絶対に見付けてやるんだから。それにはこんな田舎にいては駄目だわ。都へ行こう。玉都になら封主家の子弟がたくさんいる。その中にはきっと好きになれる人、運命を感じる人がいるはずよ。まずはお父様を説得して上京の許可をもらわないといけないわね。その方法をお城に帰ったら考えなくては。
沖に出た船は白く四角い帆をいっぱいに広げて遠ざかっていく。光姫は銀炎丸を抱き寄せて、消えていく船影に姉夫婦の幸福を祈った。
やがて、光姫は涙をぬぐって踵を返した。灰色の狼を連れ、風に薄桃色の打掛と長い髪をなびかせて、桟橋を戻る父を追いながら、光姫はまだ見ぬ花婿を想像し、遠い都のことを考えていた。