置いて行かれたので自立しました「いまさらそんな顔しないでください」
石板に炎の文字で書かれたように、心に刻まれている人がいる。
「お前の生は俺が譲り受けた。神に身をささげるな」
あの日、廃神殿の未来の見えない闇の底にいた私は、光あふれる世界に連れ出された。
だが、「我が手を取れ」といって私を救い出してくれた人は、その手を放して私を置いていった。
神にゆだねることもできなくなった命を抱えて、私は取り残された。
§§§
私に家族はいない。
物心ついたときには、聖なる斎女として神殿にいた。神殿で私の世話をしてくれた女達はあまり世俗のことを私に教えようとはしなかったので、私は父母という言葉の正しい意味すらろくに知らずに育った。
灰白色の石でできた神殿の高い壁の内側が私の全世界で、生涯をそこで過ごすのだと思っていた。
神殿の内庭に面した一室が私の部屋だった。私はそこで寝起きし、祈り、朝にはその夜見た夢を語り、昼には神の理を学び、夕べには楽の調べと古い物語に耳を傾けた。
内庭には様々な草木が植えられていて、私はそれらの生育と空の色で一日と一年の移り変わりを知った。庭の草木は観賞用ではなく、私は教えられるままにそれらの葉や根を干して薬を作ったり、花や果実で香料を作ったりするのを手伝った。
「匂菫は咲き始めの蕾を摘むようにしてくださいまし」
「花が開いてからではいけないの?」
「大きく花開く前の蕾が、一番その内に香りを蓄えており、良き素材となります」
咲いたところが見たいと頼んで摘まなかった小さな花は、濃い紫色をしていた。
庭仕事を教えてくれる使女は、私の目の色と似ていると言った。
内庭にある草木以外にも、季節に応じて様々な素材を扱うことができたので、私は薬仕事が好きだった。微かにリンゴのような香りがする地林檎草を煎じるときは、目にしたことのない広がる"草原"というものを想像できたし、月の根を洗うときは、行ったことのない"森"というものを想うことができた。
「月の根は、細い根があなたの髪と同じぐらい白くなるまで、よく洗うのですよ」
「根がもつれていて土を落とすのが大変ね」
「ブラシをお使いなさい」
「私の髪と同じ?」
「その月光を紡いだ銀の細糸のような御髪を傷つけずに洗う方がずっと大変ですよ」
「これからは髪を洗う水が冷たいと、わがままは言わないわ」
洗った月の根を暖かいところでよく乾かすと芳香が立ち昇るようになる。
これを香水薄荷や迷迭香と一緒に煎じたお茶は、気持ちを安らかにする。怖い夢を見てしまって眠れなくなった時や、新月の日に行われる儀式のときなどに、少量だけ服用すると、心が和らいで痛みや不安が遠のき、安らかに眠ることができた。
新月の儀式は神殿の重要な祭事だったようだが、幼いころの私にはひどく恐ろしい時間だった。
刺繍がたくさん入った重い祭服を着て、もっと重い金銀の護符と鈴の付いた腕輪や足環を着けて、黒い布を目に巻いた上から長いベールをかぶる。
輿に乗せられて行く聖堂には大勢の人の気配があるが、何者かが朗々と誓文を読み上げる野太く恐ろしい声以外には微かなしわぶきしか聞こえない。半分眠ったような私は、ただ教えられたとおりのタイミングで教えられたとおりに「ヨキコト」「サイワイとシュクフクを」と繰り返すだけでよかったが、それがたまらなく嫌だった。
幸いなことに、しばらくすると新月の儀は行われなくなった。
私が東の地で青い星が輝き始めた夢を見たばかりの頃だった。
「王が代わったのです」
新しい王は神を敬わない野蛮なならず者だと、使女達は噂した。
王とは何かよくわからなかったが、新月の儀に出なくてよくなったのは単純に嬉しかった。
それでも、青い星は凶兆だと思われて喜ばれないのでは、と思った私は、以後、星の夢を見ても口に出さないことにした。
夢の中で青い星が暗雲に隠されたときも、その暗雲から出でてまた一際強く輝きだしたときも、神殿の日々は変わらなかった。
ただ、ならず者の王が神殿をないがしろにしたためか、神殿は次第に困窮していたらしい。
使女の幾人かは姿を見なくなった。中には神殿を立ち去るときに儀式用の護符や装身具を持ち出した者もいたようだが、重くて苦しいばかりのそれらをもう身につける必要がなくなったのかと思うと気持ちが軽くなった。
私は灰白色の石の壁で仕切られた空を見上げ、花を摘み、種をより分け、一人書を読んで日々を過ごした。
夏の盛りに積んだ黄色い悪霊狩りの花のオイル漬けがすっかり琥珀色になったある日、恐ろしい侵略軍が東からやって来て、何もかもが破壊し尽くされるという噂が入った。神殿に残っていた者の大半が出て行き、残ったのは足腰の弱った年寄りばかりとなったが、そのころになると私の周りにいたのはそのような者ばかりだったので、特に苦にはならなかった。
雨がいつもより長く続き、激しい嵐があった。
キラキラと天頂で輝く青い星から、真っ黒な怪物が降りてきて神殿ごと私を飲み込む夢を見た翌朝。
私は薬師の長である老女から、聖堂の離れの地下に身を隠すように言われた。
地下の部屋は、元の私の部屋とさして大きさは変わらなかった。
この部屋は隠し部屋らしく、炉の煙がまっすぐに上がらないように煙出しの煙突も曲がって造られているから、むやみに火は焚かないようにと注意された。石の冷気を防げるようにと、神殿に残っていた厚手の織物の壁掛けや敷物を入れてくれたおかげで、最初に見た時ほど寒々しくはなくなった。
地下の部屋は暗かったが、部屋の奥の一角だけは昼間のわずかな間だけは明り取りの窓から光が入った。
私は光井戸の底で神殿に残っていた古い書を読んだ。
わからない言葉も多かったが、明かりの下で文字を追っていると、周囲から迫ってくる闇を忘れることができた。
「ハイペリカムは魔除けになるから、気鬱にはよろしゅうございますよ」
地下の隠し部屋に飲食物を差し入れてくれる老女が、沸かした湯に赤いエキスを垂らすと、緩やかに香りが立ち昇った。
未来の見えない闇の底で、私は摘まれる前の匂菫の蕾のように丸まって、半ば眠って日々を過ごした。
§§§
その人は、私の小さな世界に突然、乱入してきた。
ハイペリカムの5枚の花弁を模した魔除けの文様が織り込まれた美しい壁掛けを、勢いよくはねのけて踏み込んできたその人物は、私がこれまで見たことのない恐ろしい姿をしていた。
髪も目も夜よりも黒く、浅黒い肌をしている。彫りの深い顔は険しく、眉だけではなく口元にまで毛が生えていた。背は高く、肩も広い。こんなに大きく猛々しい人間を見たことがなかった私は、ただ茫然と彼……私が初めて目にした男という種族を見上げた。
「お前は何者だ」
異質な響きが混ざるが意味の分かる言葉を投げかけられて、私は動転した。
それはまるで目の前の怪物が、自分の心を読んで言葉にして発したかのように思われた。
いや、違う。この低く傲慢だが品格を備えた声は怪物の声ではない。
「私はオリオールの斎女です。貴方様はどなたでしょうか。王よ」
自分は王ではなく、お前を連れ出しに来たのだと、その黒い男は私に手を差し出した。
「我が手を取れ」
恐る恐る手を差し出した私を、男は一息に引き寄せて抱え上げた。
「お前は俺のものになった」
と宣言して、彼は私を抱えたまま地上に連れ出した。
まばゆい光の中で見る異国の黒い怪物は、あまりに精悍で力強く、燃えさかる炎のようだった。
一飲みに吞まれたようにその輝きに燃やし尽くされた私は、そのまま気を失った。
§§§
気が付いたときには、私は男が手綱を握る馬に乗せられて、神殿の外にいた。
馬の大きな頭部は恐ろしく、周囲の広々と際限なく広がる大地と空はもっと恐ろしかった。
私はあまりの恐ろしさに、一番手近で一番しっかりしているものに縋り付いた。
「目覚めたか」
抱き着いたのが人間……しかも私を連れ出したあの男だと気づいて、私は息をのんだ。
こんなにがっしりしているものが人だとは思わなかった。そういえば温かい。肩から掛けられていた布がすっかりずり落ちてしまって、荒野の冷気にあてられた私は、男のことも恐ろしいのに、その確かな温もりにすがるのをやめられなかった。
「風が寒いか。つかまっていろ」
男は、左肩に跳ね上げていたマントを降ろすと、小さく震える私を包むように抱え直してくれた。
そうやってすっぽり包まれると、壁のない広すぎる光景が多少怖くなくなった。
草で覆われた大地には緩やかな起伏があった。私を抱えた男が乗る馬は一番低いところには下りず、かといって高く上がることもせず、だいたい同じぐらいの高さのところを繋ぐように、うねうねとした経路で進んでいた。
「なぜ、登りも降りもしないのですか?」
「低いところには水が溜まっていて悪い虫がいる。丘に上がると敵に見つかりやすい」
敵は大方掃討したが、どこにどう隠れているかわからんから、分かれて行動するときは気を付けるに越したことはない。と、男は語った。
「丘というのは、あの盛り上がったところですか?」
「なに? ……そうか、この辺りでは別の言葉があるのか」
「いいえ。言葉は知っていましたが、初めて見たので」
「お前のいた神殿は丘の上にあったが……そのように何もかも知らぬまま育ったのか」
男は大きく息を吸い込んだ。私がぴったりと身を寄せていたその胸元は、怒りが中に詰め込まれたかのように膨らんだ。私は引き結ばれた男の口元を見上げながら、自分の無知をわびた。
「ものを知らぬ身で、申し訳ありません」
「謝るな」
男はしばらく黙っていたが、やがて行く手に見えるものを指して、ぽつりと言った。
「あれが川だ」
それは大きな蛇のように丘の間を流れる信じられないほど大量の水だった。
「あんなにも沢山の水が」
「大雨があったからな。これでも随分水かさは引いた方だ」
彼は、この川は小さな支流で、中央平原を流れるルードという川はもっと大きくて川幅も広いのだと語った。
「ならば中央平原というのは、よほど大きいのですね。これよりも大きな川が流れることができるというのですから。でもそんなにたくさんの水はどこに行くのでしょう? 低いところに溜まるばかりでは中央平原は水びたしになってしまいます」
私のモノ知らずな問いを聞いて、男は不機嫌そうに引き結んでいた口元を少し緩めた。
「川は、海に流れ込む」
「海……海は溢れないのですか?」
「海は大きい」
「この川よりも大きいルード川が流れる中央平原よりも?」
「中央平原の先の西の山岳地帯全部と、俺が来た東の国のその先の山々を全部まとめたよりも大きい」
それは神々の物語のようで、私には全く想像ができなかった。
「途方もない話です」
「俺は見て、越えてきた。そしてこれからその先に行く」
男は馬に坂を少し登らせて「ほら」と彼方を指さした。
「お前も見ることになる。あれが、海だ」
丘の向こうに見えた海は、陽光にキラキラと輝いていた。
§§§
連れられて着いたところは、海に面した町で、信じられないほど大勢の人がいた。
と言っても、それは当時の何も知らなかった私の基準であって、後から考えれば、そこは攻め込まれ荒れ果てた辺鄙な集落に過ぎなかった。
灰色の石と日干しレンガでできたゴツゴツした家に活気はなく、道を行き交う人の身なりは粗末で、目つきは険しかった。
私は、物乞いをする気力すらなく呆然と道端に座り込む人や行き倒れ、放置された死体というものをそのとき初めて見た。
「あの者たちはなぜ外で横たわっているのですか?」
「生きる力もなく、弔おうという者もおらぬからだ」
野犬やもっと厄介な獣が集まる前に片付けた方がよいが、手が回っていないな。と、呟きながら、男は私を包んでいるマントを、私の頭の上まで引き上げた。
「あれらは私が見てはならないものなのでしょうか?」
「戦と貧困と老病死はいかなるものか知っておくことは重要だが今でなくてよい。これはお前に目をそらさせるための覆いではなく、悪意のあるものがお前に目を付けることを防ぐための覆いだ」
知らない光景にさらされ続けて、随分と精神がまいっていた私にとって、昏くて暖かいマントの中は居心地がよかった。路地のぬかるみや死体が放つ異臭が遮られたのもありがたかった。
マントの中は、革や土埃の匂いに混ざって、微かにシダーやジュニパー、オークモスのような深い森を思わせる香りと、麝香に似た獣的などこか甘い香りがした。
それは神殿の香木を想わせて、私は少しほっとした。
§§§
私が馬から降ろされたのは、石造りの砦だった。
元々はこの国の王が住んでいたらしいが、灰色の石を積み重ねた砦は、人が暮らす場のようには見えなかった。それでもその無骨な砦には、沢山の人がいた。
私は見知らぬ者達が怖くて、男が砦の内庭の小屋の前にいる者に馬を預けて、一言二言、指示を出している間もずっと彼のマントの端を握っていた。
「"黒龍"、戻っていたのか」
「これは、"樹頭鹿"殿。貴殿がこちらに来ているということは、本隊で何か?」
「大丈夫。些細な用だ。それよりも……」
森の王の鹿の名で呼ばれたその人物は、白樫の木のような色の髪を長く垂らしていて、穏やかで整った顔をしていたが、女のようには見えなかった。背が高いその"鹿"は、私を見て「これはどこの姫だ?」と尋ねた。
「姫ではない。神殿にいた子供だ」
「それを黒龍が自ら連れてきたのか」
「"鷹"が神殿に行けと言い、神殿に行ったらこの子を授けられた。それだけだ」
"鹿"は「ふむ」と独り言ちると、マントの端をギュッと握っている私の方に身を屈めた。
「黒龍は恐ろしくないか」
「私は龍を知りません。龍とは恐ろしいものなのでしょうか」
「天と大地を覇する力ある怪物……だったかな?」
「黒龍は聖なる火の山の守護者だ。そこいらのトカゲと一緒にするな」
"黒龍"と呼ばれた男は不愉快そうに乱暴な口調で文句をつけた。"鹿"は、ふふふと笑って「それは失敬」と、あまり謝罪する気がなさそうな口調で軽く流した。私はよく分からなくなって、背の高い二人を見上げた。
「貴方がたは精霊で人間ではないのでしょうか?」
"鹿"ははじけるように笑い出し、"黒龍"はしかめっ面をさらにしかめた。
「いやいや、我々は只人だ」
「でも、"樹頭鹿"は森の王ですし、"黒龍"は火の山の守護者だと」
「あだ名だ。家名や役職で呼ぶのも味気ないから、互いに大げさで分かりやすい名をつけて呼んでおる」
「名とは伝承の英雄にしか授けられないものなのではないのですか」
「おい、黒龍!」と、"樹頭鹿"とあだ名された男は、困惑した様子で私のことを指さした。
「どこからこんな子供を連れてきたのだ。人に名があることを知らぬだと?」
「神殿の奥に囲われていた」
私はうつむいて身を縮めた。
自分が愚かな物知らずであると言われていることは分かったし、それはたまらなく恥ずかしいことだった。ずっとマントの端を握っているのも、愚か者の振る舞いだと気付いたが、震える手は強張ってしまって、マントを離すことができなかった。
つ……とマントが引かれて、私はハッとして顔を上げた。
マントを離してしまい、半端に宙に残った私の手を、大きな手が上からしっかりと掴んだ。
「言ってやるな、樹頭鹿殿。世を知らぬのは、コレの責任ではない。コレは賢い」
「なるほど。お主が言うならそうなのだろう」
伝承の鹿の王のような男は、改めて私に向き直ると、重大な世界の秘密をこっそり教えるような口調で囁いた。
「銀月の娘よ。良い助言をしてやろう。ここな男がその手を離したら、足にしがみついてやれ」
「わかったな」と言われて私は、何と答えてよいかわからずただ黙って頷いた。
「ろくでもないことを吹き込むな。そして、勝手に名を付けるな」
「"銀月"は良い呼び名だとは思わぬか?」
「思わぬ。そして名が必要になれば俺がつける」
「良かったな、銀月。黒龍がお主に名を与えてくれるそうだ」
「必要になれば、だ!」
「わかった、わかった。そう怒るな」
どちらにせよ、まずは青鷹殿に報告してこい。神殿に行けと言ったのは、鷹殿なのだろうと言われて、黒龍は忌々しそうに「そうだ」と返した。二人の口ぶりからすると、その鷹というもう一人は、この二人よりも上位の者らしい。
一体どのように恐ろしい存在かと思っていたのだが、砦の奥の一室にいた"鷹"は、"鹿"や"龍"よりも若そうな……これもまた当たり前のように男だった。この砦に入ってから女をまったく見かけないので、私は神殿の外の世界には男ばかりがいるのかと思った。
乳香のように白い肌で金色の髪のその青年は、黒龍の報告を一通り聞いてから、私に目を向けた。
彼の目はとても印象的な青い青い目で、私は彼こそが、あの何度も夢で視た青い星なのだとわかった。
存在を射抜いてくるようなその青い目が恐ろしくて、私は半歩下がって自分の安全地帯であるマントの後ろに隠れた。私の様子を奇異に思ったのだろうか。"鷹"は"龍"に何やら小声で告げて、"龍"はそれに対して激高した。砦中が震えるかと思うほどの大音声の怒鳴り声に私は身をすくめた。
§§§
「まったくもって腹の立つ。度し難い愚か者だな、あ奴は」
「出てきてしまって、よろしかったのですか?」
「かまわん」
ずかずかと通路を大股に歩く黒龍が速すぎて、手を引かれている私は小走りになってもついていけず足をもつれさせてしまった。転ぶ! と思ったところで、手がぐいっと引かれて、私は軽々と抱え上げられた。
「申し訳ありません」
「よい。気にするな」
黒龍は私の足を見て「ふむ。お前の足では俺についてくるのは厳しいな」と独り言ちた。
この場で下ろされて置いて行かれるかと思ったら、彼は私を抱えたまま歩き出した。
小さな女の子供というのはここでは相当に場違いだったらしい。通路ですれ違う者達は、私を見るとぎょっとした顔をして、黒龍の形相を見ると青ざめて目をそらした。
次に連れてこられたのは、さっきよりも大きな部屋で、そこでは何人もの男女がなにやら書き物をしていた。私は見慣れない服装だが女のように思われる人がいることにほっとした。
部屋の者達は私を抱えたままやってきた黒龍を見てもぎょっとした顔はせず、ただ軽く目礼しただけで仕事に戻った。うちの一人だけが「あっ」と言ってこちらにやって来たが、その者も私のことはさっぱり眼中にない様子だった。
「これは隊長殿。ちょうどよかった。何とかしてくださいよ。こう次から次から、書き物とみればなんでも我々に仕事をふられてはたまったもんじゃありません。我々、地足員は天部院の所属で、観測と測量が本分なんですよ。便宜上従ってはいますが、そもそも軍の指揮系統には入っていないんですから」
私は、その者は背も低く肩幅も狭くて見慣れた感じの体形だったから女だと最初は思っていたのだが、近くで見るとあごにうっすらと毛が生えていて、声は思ったより低かった。黒龍や先ほどの青鷹のような堂々たる体躯の者と、自分が今まで神殿で接していた老女達の間に、色々な種類の人間がいるのだなと思いながら、私はここで交わされている会話に耳を傾け、あたりをよく観察することにした。
聞きかじりの推測ではあったものの多少は状況がわかった。この砦は現在、戦でこの国を破った彼らの軍が占拠しており、倒された元々の王と、逃げたその臣下の代わりに、混乱したこの町をなんとか治めようとしているらしい。だが、戦をすることが専門の軍の兵士では統治のことがわからず、軍に同行していた学者のような者達が、頭が良いというだけで、専門外の仕事を押し付けられているのだという。
「本国からの支援部隊が補給船で到着すれば引き継げる。それまでしのいでくれ」
「しかし……」
「軍付きの書記官でできる仕事はこちらに回すなと掛け合ってやる。さっき樹頭鹿殿がこちらに来ていたから、野営中の本隊の大隊長付き書記官も寄こせと言ってやろう」
「ありがとうございます」
「では、これからすぐに行ってくる。この娘はここで預かってくれ」
思いがけず自分が話題に出て、私は驚いた。
「可愛らしい子供ですね。どこの姫様です?」
「神殿にいた子供だ。世界の広さの話をしてやってくれ」
「えっ? いいんですか。天部院の測量部の話は部外秘ですが」
「軍事機密を話せということではない。神殿の中しか知らぬこの娘に、世界とはいかなる大きさでどのような広がりがあるのかを、できるだけわかりやすく教えてやって欲しい」
「承知しました! そういうことならお任せください」
その場に下ろされた私は、ずっと一緒にいた黒龍と離れるのが不安で、彼の腕を放したくなかったが、黒龍はそんな私の気持ちを汲んではくれなかった。
「ここは安全だ。この部屋の者は羊一匹屠れんような奴ばかりだが部屋の外には警備がいるし、砦に不審者は入れん。お前がこちらで生活できるように諸々の手配もしてくるから、まずはここにいろ」
「……はい」
「何かわからないことがあったらここの者に聞け。いいな」
「はい」
「良い子だ」
黒龍は一つ肯くと、私をそこに残して部屋を出て行った。
「さて……」
世界というものがいかに広いかという話を私にしてくれるはずの者は、私をその辺にあった木箱の一つに座らせると、一つ咳払いをしてから、妙に偉そうな整えた声で話をきり出した。
「君は世界の大地というものが有限であるということを知っているかね」
子供に対して"わかりやすい話"がどんなものか知らない学者は、とてつもないところから語り始めた。
§§§
「測量と観測の示すところによれば、我々の立つこの大地は曲率のある閉じた世界であり、十分な時間と手段があれば、我々はこの世界中の大地をすべて調べ尽くすことができる」
私は使い込まれたオンボロの木箱にきちんと座って、冴えない風貌の小男をまっすぐに見上げた。
「もう、おおまかには一通り調べたのですか?」
「とんでもない! 君は世界の大きさを知らない」
「はい、私は神殿の内庭しか知らずに育ちました。世界の大きさが知りたいです」
「いいとも。私はここからずーっと東にある国から来たが、それでも私が知っている世界は世界全部と比べれば、君の庭の広さと大して変わらない。世界の広大さの前に私と君は等しく無力だが、同時に世界は我々の前に等しく開かれている。人の知は世界の理を照らし出す光なのだ」
世界のすべてを視ているように目を輝かせて語る学者は、唐突に私に指を突き付けた。
「君は数をどのくらい数えられる?」
「同じ拍で正確に数を数え続ける修養はしましたが、まだ三千を超すとズレが大きくなります」
「お……おぉん?」
「五百以下であれば、薬の調合の加熱時間を計るためによく数えましたので、ほぼ正確に数えられます」
「んん、ちょっと待って。薬の調合?」
「はい。薬というのは大変正確さが大切なので、計量や工程で数を間違えてはいけないと教えられました」
「それはあれか? いつも儀式的に同じ分量、同じ時間で作るという話か?」
「いいえ。その時々で手に入る材料や状態の差異はありますので、一つの材料が多ければ他の材料や水の量も増やす必要があります。加熱時間もときどきの暑さ寒さがありますから、水の状態をよく見てそれから適切な状態になったところで数を数え始めることが必要です」
「ひょっとして、四則演算ができるのか?」
「はい。でも正確な理論は一通り習った程度で、日ごろは実用のためなので書き物も使わず、1より小さい数は一桁か二桁程度で丸めてしまうような大まかなことをしていました」
天部院の学者は私の話を聞いて、目を二三度瞬かせると、おもむろに部屋中の同僚に声をかけた。
「おーい! 全員ちょっとこっちに来い! 黒龍さんがとんでもない子を連れてきたぞ!!」
どやどやとやってきた大勢の人に囲まれて私はすっかり怖くなってしまったが、彼らが口々に尋ねてくることが、私の身の上ではなく、私が何を学んできたかに収束したあたりから答えるのが楽になった。
神殿に納められていて私がわからないなりに手当たり次第に読んでいた書物は、実はダロスという有名な知の都が陥落した時に散逸した文書の一部だったらしく、表題や内容を聞いた学者たちは頭を抱え「絶対読みたい……写本でもいい」と喉の奥から奇怪なうめき声をあげた。
「わかった。君は優秀だ。素晴らしい。だが君の知識はまだあまりに歪で偏っている」
「お前がそれを他人に言うことがあるとは思わなかったよ」
「うるさい、いい話をしようとしているんだから、まぜっかえすな」
小男の学者は私に手を差し出した。
「歓迎する。君にその気があるのならば、我々と共に世界をつまびらかにしよう。君が世界を知ることは世界がより多くの実りを得ることにつながるだろう」
こののち、私は多くの人と知り合うことになったけれど、この天部院の人々のように私の年齢や性別、外見に無頓着で、知の基盤で評価をしてくれる者というのは極めてまれだった。神殿を出て最初にこのような人達に預けられることになったのは、私にとっては極めて幸運だったと言えた。
§§§
驚いたことに、その日のうちに私専用の部屋が砦の中に確保され、翌日には神殿にあった私の愛用の品が整えられた。
「俺の部屋にいれたら、何を言われるかわかったものではない」
というのが黒龍の談だったが、私は戦争奴隷の扱いではなく丁寧に遇された。身の回りの世話役として、こちらの砦で雇われた若い女の使用人とは別に、神殿にいた顔なじみの老女まで二人連れてこられたので、生活については全く不便はなかった。
「小うるさくて、人を見れば無能とこき下ろす天部衆が絶賛していたぞ」
紅花柄の敷物の上に座って寝椅子に肘をついた黒龍は、食べそびれたという昼食の平焼きパンをかじりながら、私に何か足りないものや不満はないかと尋ねた。
「許可いただきたいことが二つと、お願いしたいことが一つあります」
「なんだ」
黒龍は、不満が出るとは思わなかったという顔をしたが、それでも身を起こして私に向かって座り直した。
「まず一つ目です。薬草を育てる場所と人手を用意していただきたいです。季節が移れば取れなくなる薬の元がございます」
神殿の薬草園はあるが、もともと人が減っているうえに私のために二人もこちらに来てもらっている。
「軍の負傷兵の治療や療養を神殿に任せようとしているという話を伺いました。それでしたら、これまでよりたくさんの薬草を育てる必要があります」
「わかった。早急に手配しよう。いかほどの大きさのどのような土地が必要かは別途確認する」
「はい。薬師の長様にご確認いただければと思います」
「うむ。お前自身の個人的なことかと思ったら意外に大ごとだな……他のもそういう類か?」
ちょっと苦笑気味に自分の首筋を揉む黒龍を見て、私はそれでなくても忙しい彼の仕事をまた増やしてしまったことに気づいて、身を縮めた。
「すみません。あとのことは私の我がままです。取り消します」
「そういうのがないかと尋ねたのだ。言ってみろ」
「えっと……」
私はどうしたものかと迷いながら恐る恐る二つ目の許可を願ってみた。
「髪をもう少し短くしてもよろしいでしょうか」
私の髪は下ろすと腰よりも長く伸びていたが、これは砦で暮らすにはいささか不便だった。
黒龍は「ふむ」と言って、向かいに座っている私の銀の髪を手ですくった。
「綺麗な髪だが、何か言われたか? つまらないことで心無い言葉をかける者があったのなら、今後の規律のために制裁を加えてやるぞ」
「いいえ、そういうことではありません。単に動きにくくて洗うのが面倒だからです」
「そういう発想をお前に与えたのは天部衆だな」
黒龍は唸ったが、手にしていた私の髪を手繰ってから、毛先が肩下あたりに来る程度の長さを指示して渋々許可を出した。
「お前に女であることを要求はしないが、女を捨てる真似はするな」
「はい」
「天部の奴らはちょっとおかしいからアレだが、この先、お前が女を捨てた気でいても、お前を女としてしか見ない者は多いだろう。そういう奴らを相手に十分に立ち回れるように、女であることの則をわきまえたうえで、出し抜いて上手く生きる方法を身につけろ」
「旦那様、そのようなお話をこんなお小さい姫様に、しかめっ面でお話しなさってどうなさるおつもりですか」と盆を持ってきた世話役の女にたしなめられて、黒龍は眉間の皴を深くした。
「こういうことは本来、女親や女の親族が教えることなのだ。俺はよく知らん!」
黒龍は平焼きパンの残りをむしゃむしゃと口に押し込んだ。
「俺が伝えられるのは男の生き方だ。それがお前の人生を開くことになるのか、閉ざすことになるのか、俺にはわからん」
「旦那様はもっと簡単にお考えになればよろしいのでしょうに、頭の良いお方は大変でございますね」
「お前はもう下がれ」
「はい」
黒龍は、差し出された盆の上のカップを受け取ると、中身の香りをかいでそのまま飲まずに置いた。
「香水薄荷の香りは苦手ですか? 月の根と迷迭香も入っております。気持ちを安らかにしますよ」
「柑橘の香りや酸味は嫌いではない。だが、俺は己の不安や迷いを薬でごまかそうとは思わない」
黒龍はその名の通り黒い厳しい眼で私を見た。
「これがそうかはわからんが、この種の香草の中には習慣性のあるものがあると聞く。俺は薬草は用法次第でそのような方便で使われているだけで、基本は毒草だから気を付けろと言われて育った」
証拠はないが俺の父は毒で弱らされて死に、俺自身も毒で死にかけたことはある、と打ち明けられて、私は息をのんだ。
「髪を切ることも、薬草園を作ることも許可しよう。だが、お前は自らその道を選ぶなら、己がいかに希少で危ういものを扱うのかよく理解したうえで、慎重にそれを行え」
これまではお前はやらされていただけの責任のない人形でいられたが、この先、お前が俺に許可を願って自ら始めたのならば、その責任は……とそこで言葉を切って、黒龍はにやりと笑った。
「全部、許可を出した俺が負うことになるからな。気を付けてやってくれんと困る」
「は、はい。けしてご迷惑はおかけしません!」
「よいよい。そんなに気負うことはない。だが俺以外の誰かの思惑に利用されたり、陥れられたりすることはないように気を付けてくれ。俺も気にはかけておくが、ずっと一緒にいられるわけでもない」
「わかりました。では、次にお越しいただけたときには、ちゃんと飲んでいただけるように、お身体によい薬茶を私が自分で材料を選んで用意します」
「そういうことでもないのだが……まあよい。そこから始めてみようか」
少し休むと言って寝椅子にもたれて目を閉じた黒龍のために、私は窓の前のアザミ模様の織物を垂らした衝立の位置を変えた。
§§§
香水薄荷、健質亜那、茴香、生姜。
「躰の内の働きを整えて消化を助けます。お味はいかがですか?」
「最初に爽やかな香りがして飲みやすいが、その奥にほのかな甘みと大地の地味を感じる苦みもしっかりある。うむ、生姜の風味が良いな」
「次はもう少し生姜を効かせてみます」
「好きならば多く入れれば良いというものではない」
黒龍は笑って空のカップを置いた。
「明朝、出立する」
私はポットを取り落としかけたが、なんとか醜態を晒すことなく落ち着いて応えることができた。
「では、すぐに荷物をまとめます。最低限いるものは何ですか?」
「よい。お前はこのままここで暮らせ」
入りようなものは引き続き手に入るよう手配してあるし、神殿も含めて薬草園の土地を含む諸権利と収入はお前の権限が及ぶようにしたと言われ、私は驚いた。
「あの薬師のババアどもがあとどれぐらい生きるかわからんが、お前の方が長生きするだろう。養ってやれ」
黒龍は、軍団長の鷹の印が入った契約書を並べた。
「こんな……まさか」
「奴め、初日にひどい無礼を働いたことを気にしていたからな。貸しの取り立てだと言ったら、簡単に許可を出しよったぞ」
黒龍は契約書の細部を一つ一つ私に説明した。
厳密に言えば、神殿を含む薬草園全域及びその付属施設群は、遠征軍やこの国の所属ではなく、軍団長の青鷹が太守を務める領地の属領に準じた飛び地のような扱いになるらしい。
「かなり宗主側有利の契約だが、その分、国元はお前が生きてこの契約が守られ続けることを望むだろう」
黒龍は、この契約書を国元に送り付けたら、太守夫人は必ず薬草園を守ると言い切った。
「あれはなんというか……すごい女だからな」
黒龍のその口ぶりや遠くを想うようなまなざしに、私はこの時の自分では決して得られない感情を、彼がその太守夫人に抱いていることが察せられた。
「お前がよほど愚かなことをしなければ、良い後ろ盾となってくれるだろうよ」
「はい」の一言が素直に口から出てこなくて、私は契約書を見る風を装って視線を落とした。
その時、私は契約書の中に見慣れぬ語があるのに気づいた。
「あの、これは何でしょうか?」
「ああ、それはお前の名だ」
「名前……!」
「必要になったら付けると言っただろう」
サハル・セレスタ
「黎明の天の輝きだ。お前の瞳の色にふさわしい名だろう」
黒龍は、驚きのあまり目を見開いている私を抱え上げた。
「闇夜の月ではなく、暁の光となれ。お前はもう暗い地下から出たのだ。存分に輝け」
「はい」という言葉が今度は素直に口から出た。
だがそれ以上何をどう言っていいかわからず、私はただ「はい」だけを繰り返して何度も肯いた。
「そういえば、先日。お前は許可が二つ、お願いが一つと言ったのに、俺は許可二つの話しか聞かなかったな。願い事というのは何だったのだ。明日の出立までにできることであれば何とかしてやろう」
「いえ、それはもうよいのです」
「遠慮するな。お前は我儘を言うのが下手だぞ。それでは甘やかすこともできん。無理にでも言ってみろ」
私はもう、どんな顔をしていいのかすら、わからなくなった。
「名を……名を付けていただきたかったのです」
己でしっかりと生きていくために。
「でもそれはもう叶ってしまいました」
「なんだ、そうか。ではもう一つ何か考えろ」
「えええ?!」
「急げ、今すぐだ。なんでもいいぞ。ほら言え。言わないともう俺は行くぞ」
黒龍は抱え上げていた私を降ろそうとした。
自分の足が床に着き、大きな手が私を離そうとするのを感じて、鼓動で頭がガンガンした。
『銀月の娘よ。良い助言をしてやろう。ここな男がその手を離したら、足にしがみついてやれ』
唐突に、脳裏に樹頭鹿の声が甦って、私は目の前の黒龍に思いっきり抱き着いた。
「行かないで! ずっと一緒にいて!! 私を一人にしないで」
ずっと零したことのなかった言葉と涙があふれ出て、どうにも止まらなくなった。
黒龍は「そうか」と、どうしようもなく優しい声で言って、私をもう一度抱き上げた。
「では、今日はお前が眠るまで一緒にいてやろう」
あまりにも残酷な言葉を、あまりにも穏やかに私に投げかけて……。
黒い竜は泣きじゃくる私を、小さな子供として抱きかかえ、小さな子供の我儘になってしまった願いと一緒にすっぽりと包み込んだ。結局のところ、それまで小さな子供として満たされていなかった私は、それですっかり満たされてしまい、眠りたくなんかなかったのに、そのまま泣きつかれて眠ってしまった。
翌朝、私が目覚めた時には、軍団は出立していて、私は彼を見送ることもできなかった。
§§§
こうして私の幼年期は終わった。
私は占領軍が立ち去った後の混乱期を乗り切った。
天部地足員の大半は青い鷹の軍と共にこの地を去ったが、私は彼らが軍からは独立した人員であることを利用して、神殿の希少書の閲覧を餌に数名の慰留に成功した。私は薬草園のために用意された資金の中から、彼らのために神殿と港の町の双方に、資料の閲覧に専念できる場所を用意した。
植民都市を整備するために本国から来た天部院の測量士も、もちろんその施設は利用できるようにして歓迎した。
新たな港湾整備計画やインフラ整備の基本となる測量図面は、天部院が作成する。
薬草園の契約書における"神殿を含む薬草園全域及びその付属施設群"の"全域"と"付属施設群"の部分は、大いに拡大解釈された。
「なぜ新しい上水道計画で、薬草園専用の配水場がわざわざ設けられているんだ」
「薬草の生育と薬の製作には綺麗な水が欠かせません。ここは遠征軍の補給地として整備されるのでしょう? 遠征軍の支援は最優先の命題であり、薬の提供は私どもの使命です」
「天部院の観測所? 一体どこが薬草園なんだ」
「草木の生育は日々の天候や季節の気象に左右されます。天の日月を観測し雲と風をみて、正しく雨露の多寡を予測してこそ、十分な薬効がある素材が必要量確保できるのです。神殿では長年独自に太陽と月の観測を続けておりました。まだこの地での測量結果が十分に集まっていない天部院の皆様に、この神殿保有の資産である資料を参照し、観測で再検証いただくための施設がこの観測所です。これがどれほど重要な施設かもうお分かりですね。付属宿泊施設の増設許可をお願いします」
付属施設の拡大解釈に伴い、私達は薬草園全体を、天部院の名に倣って"薬方院"と名付けた。
薬方院の名義上の管理者となる太守夫人には、遠征軍に送る薬のサンプルとは別に、部屋や衣類に薫らせる香と、美容と健康に良い薬草茶を調合したものの詰め合わせを、季節ごとに送った。
彼女は大変それを喜び、私達の薬方院の拡張と整備のために大いに資産と人員を投入してくれた。
意外だったのは、太守夫人の興味の方向性とその追及手法が、高貴な身分の女性の趣味……というよりは、どちらかというとうちの神殿の薬師方や、天部衆の学者のそれだったことだ。
「染料になる草木?」
「はい、試料とこれまでの一次試作の結果をお送りするので、こちらでの第三者検証と別のアプローチがないかの試行を行っていただきたいとのご要望です」
追試の結果、有用であると選抜された細葉大青は、拡張された圃場で大量に栽培され、船で太守夫人の元に送られた。
「青は太守様の色ですので奥様はことのほかこだわりがあるようでして」
この度の薬方院の働きには、大変な感謝をなさっております。と、伝令の男に告げられて、私は複雑な気分になった。結局、青の染料はこちらでは安全に安定して作る製法を確立できなかったのだ。
「太守の象徴である青は、奥様のみがご存じで門外不出の方が価値が高うございますのでお気になさらず」
この理屈で、私は知識の専有による優位という概念を完全に理解した。
解毒、強壮の薬草の根を原材料として、鮮やかな赤から暗い赤までを染め分ける手法については、我が薬方院の秘伝とし、薬草の根を納品するのではなく、白い糸を指定通りの色合いの赤に染めて納品する形で仕事を得た。
もっとも、このような仕事の仕方は、職人の確保や現場の維持などで負荷が高く、とてもではないが多方面への展開は無理だった。我が薬方院の染料所は結局、最終的な染色まで行えるのは赤色だけで、後は染料かその原材料を供給する部署となった。
その点、太守夫人という方は、何もかもをとてつもない規模で同時に展開できるお方で、まさに"すごい女"だった。
彼女は次々に世界中の珍しい原材料と、どうやって確認したのかと聞きたくなるその薬効一覧を、うちに送り付けて、新たなる知識の探求と実利につながる成果物を要求した。彼女が送り付けてくるのはものだけではなく、ときどきとんでもない異才の学者や異能の職人を派遣してくることもあった。
私は太守夫人とのやり取りを重ねるたびに、新しい概念に目を開かされる思いだった。
私は知こそ原資だと思っていたので、周辺地域に散逸していたダロスの古書を収集し続け、天部院を通じて本国の書物の写本も取り寄せ続けていた。集めた書物は、神殿の脇に大きな図書館を建ててそこに収めた。この図書館目当てで集まった天才、秀才の幾人かは、薬方院のために大いにその能力を発揮してくれた。
「俺から言わせてもらうと、貴女様も十分異能の天才ですよ」
太守夫人からの最も重要な案件を運んでくる伝令の男は、そういって肩をすくめた。
遠征軍がどうしているかについては、伝令や物資輸送の船団から断片的に話を聞くことができた。
それはまるで幼いころに聞いた寝物語の英雄譚のようで、私は心の中であの人の無事を喜びながら、ワクワクとその活躍を聞いた。
遠征が終了するとの知らせが届き、遠征軍を迎えに行く船団が通過していってしばらく経ったころ。
太守であり軍団長である青い鷹が消息不明になったとのうわさが流れた。
帰還してきた遠征軍には、黒龍もいなかった。
§§§
英雄の大遠征により多数の属領と植民都市を得て大帝国となった本国は、行方知れずになった太守の代わりに、その太守夫人を帝国南方全域を治める領主に任命した。それに伴い薬方院のあった旧王国全域が彼女の領地の飛び地扱いとなり、薬方院預かりとなった。これまでとは比べ物にならない規模で資本と人員の投下が行われた薬方院は、直轄の高度研究機関として、その名を大薬方院と改めた。
私は夫を失った女領主と文通を続け、彼女の革新的な試みを、医薬と産業用の薬品の開発と供給で支え続けた。
私も彼女も、いなくなった英雄については一度も話題に上げることはないままだったが、私は彼女のための青の染料の材料の圃場をずっと維持した。
ある夜、星の群れが夜空を明るく照らすほど煌めきながら流れていった。
そして、その夜、私はあの青い星が東の地で強く強く輝く夢を視た。
その青い星の強い輝きの奥に、私は確かに黒い影を感じた。
「細葉大青の発注?」
私は入港した船が運んできた今月の注文書の末尾に、ついでのように書き足された品に目を止めた。
それは長らく注文されていなかった品目だった。
「これからしばらくの私の全予定を取り消して調整してちょうだい」
私は、新しい染料と釉薬の打ち合わせのために領主邸を訪れるはずだった研究者の一団に自分も随行すると宣言し、荷物をまとめた。
§§§
西海の真珠と称えられる帝国第二の……ある意味では帝都よりも栄えているであろう大城塞都市に入港した私は、そのあまりの規模の壮大さに圧倒されてしまった。
「これは……西海の真珠っていうより大蛤では?」
大薬方院への投資など、この領の経済規模からすればほんのはした金だったのだと思わせる繫栄した大城塞都市の中央奥に領主邸はあった。
磨き上げられた白大理石とバラ色の大理石が美しく組み合わせられた広間を抜けて通された客間には、優美な曲線を描く椅子と小卓が置かれた一目見るだけでため息が出るような美しい部屋だった。
「皆と一緒に来ればよかった」
大勢で押し掛けるとご迷惑になるから、などと理由を付けて、他の職人たちを港の宿に残してきたのは失敗だったと思いながら、私は自分の服装や髪形は野暮ったく見えないだろうかと不安になった。地元では身内は皆、綺麗だ、可愛いとほめそやしてくれるが、あれもどこまでお世辞かわかったものではないし、こうも洗練された場所にいると、自分が果てしなく度し難い田舎者に思われて仕方がない。
落ち着かない気持ちで椅子に座っていた私は、ふと中庭に面した開口部の向こうから声がするのに気づいた。
「結局、奴らに付き合わされて徹夜する羽目になってしまった。こんな時間からで悪いが、寝室の用意をしてくれ。少し休む」
それはあまりにも懐かしい、低く落ち着いた声音で。
「まったく、今度、市長に会ったら、お前のところの職員に俺を便利屋扱いするなと良く言い聞かせてくれと、文句を言ってやる」
明るい陽射しに照らされた中庭の回廊を、ずかずかと大股に歩いてくるその人影を見て、私は弾かれたように椅子から立ち上がった。
どうしようもないほど愛おしい、あの不機嫌そうに眉根を寄せた浅黒い顔は、記憶にある通りで全く変わっていなかった。
私は中庭に駆けだした。
すぐにこちらに気づいた彼の眉間の皴がなくなり、その黒い目が大きく見開かれた。
「サハル……セレスタ」
私の中であの日からずっと身を丸めていた自分自身が、匂菫の蕾のように開いていくのを感じた。
私は、身分にふさわしい礼儀も、場所にふさわしい慎みも、何もかも一時忘れたことにして、ただひたすらまっすぐに彼の胸の中に飛び込んだ。
「なぜ」
それは、なぜ私がここにいるのかという問いなのか、なぜ自分の帰還を知ったのかという問いなのか、なぜ今こうして自分の腕の中にいるのかという問いなのか、私にはわからなかった。しかし、今の私にとって重要だったのは、相手から抱き上げられなくったって、相手の首元に縋り付いて相手をしっかり抱きしめることができるという、ただ一点だった。
「あなたのものがあなたの手の中に戻っただけです」
だから、いまさらそんな顔しないでください。
私は彼の頬に頬擦りした。想像していた通りかそれ以上に髭がチクチクした。
口髭のチクチクさ加減を知るのはもう少し後……。
お読みいただきありがとうございました。
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青い鷹は翼を休めたい「神殿の秘宝は白銀に煌めく」
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