プロメテウスの炯眼-8
エルヴェは自分の話をするのが苦手であった。苦手だから嫌いなのか嫌いだから苦手なのかが、本人にも説明できないほど昔から。
だから、常に待つことにしている。自分のことを一目で理解するだけの能力を持つ人間が現れるのを。その人間が自分の要求を大まかにでも予測して交渉してくるのを。そのためなら、ついでにどんな弱点を見抜かれようが構うことはない。
大会直前に出会った同年代の天才は、求められたことの逆――というのは、彼自身の求めるものよりも先に、弱点のみを突き止めたことに関して――を、してみせた。それは初めてのことだった。
打算なしにエルヴェ・ペリドという青年に近付くことは難しい。それは彼が成長するとともに周囲の人間が形成した雰囲気と印象であって、そういった空気を感じたことがない他者になら、いとも簡単にその殻は破られてしまうのだと。エルヴェは初めて気付いた。
金銭的であれ技術的であれ、なんの援助も求めずに接触してくる相手がいなかったので、彼は無邪気な友人作りをした経験がなかった。土産物には常に相手と同じか少し劣る程度の価値が宿っていなければ挨拶のひとつも成り立たないはずである、という法則を、青年が疑ったことはない。
カラミアの杖はその条件に完璧に当てはまっていた。選手としての彼女が使うことのなかった、それでも彼女の人生の半分ないしは全てを表すに足る、この世でたった一本の杖。
偶然にも自分の手の中に転がってきたその遺物の使い道として、本人に贈る以上に良い機会など今後訪れるわけがなかった。
初めて見る客人の存在を全身――あるいは全霊で拒否していたカラミアの家が、主人が杖を持った瞬間、それまでのあらゆる一瞬よりもはるかに暖かく穏やかな空気に包まれた。まるで、願わくば全ての人間の意識の中にある、懐かしき我が家のように。
ギルバートは生まれてずっと同じ村で過ごしているから、懐かしいと感じるものはまだ見つかっていない。エルヴェにとって家は温もりを象徴するような場所ではない。それでも二人には、突如として自分の心に込み上げた、涙が出るほど熱い未知の感情の名前が分かった。
肝心のカラミア本人だけが、杖を弱く握ったまま、今にも凍えそうな顔色で震えていた。
「師匠?」
ギルバートはつい立ち上がって、彼女のそばまでふらふらと歩いた。無意識のうちに。
ほとんど七年にもなる付き合いの間、彼は尊敬する女性が体調を崩している姿を見たことがなかった。彼女自身が自分のことを特別に身体の強い人間と言っていたから、極寒の冬にも心配をしたことはない。
その経験論が現状と矛盾しないと気付くまでに、たっぷり十秒はかかった。自分のものと同じく、ある師の手によって作られたであろう杖が、持ち主の人生の三分の一以上もの間、彼女の手元になかったということは。
「……すみません。あなたほどの魔法使いが、自分のために作られた杖を手元に置いていない意味をもっと考えるべきでした」
「師匠、大丈夫ですか。預かりましょうか」
エルヴェは魔術に対するカラミアの決意を知らない。
ギルバートは、師が魔術を使わない理由を知らない。
使わないのか、それとも使えないのかも。
「いや……いい」
カラミアは杖を箱に戻すと、それを丁寧に客人の手に戻した。杖が主人の手を離れた途端、天井から舞う埃に現れていた柔らかな輝きが、霧のように散っていった。
「それをどこから手に入れたか、私は訊かない。それを元に君がしようとしていたお願いも、聞かない」
震えているようにも聞こえる声は、怒りでも悲しみでもないものを含んでいた。それは感情よりも肉体的な、おそらくは疲労に近い要素だった。
「これは君のせいというわけではなくて――説明が難しい。とにかく、持ち帰ってほしい。可能なら、元々持っていた人に返してくれると大いに助かる」
「そうしましょう。申し訳ない」
師が動揺している姿を見ていられず、ギルバートは自分の隣を見た。
青年の緑色の目は、ちっとも申し訳なさそうにしていなかった。やはり命の息吹が感じられないその眼差しはじっと、ただ興味深いものを観察するように、杖と同じ色をしたカラミアの瞳を見つめている。
博士、と、彼女は言った。ペリド博士、と。
彼の感情のない目は、冷徹な研究者のそれだった。おそらくは。
「では、今回は失礼します――ああ、ディオニーくんをお借りしても?」
カラミアは軽い溜め息をついて、頷いた。彼女はエルヴェに返した箱を一瞥すると、机の上に置かれたままだった杖と本を弟子に渡し、やや俯きながら玄関口を指差した。
「改めて、おめでとう、ギル。これからも、君の成績を祝う機会はあると信じているよ。今日はもう帰って、しっかり寝なさい」
半ば追い出されているようだ、と感じたものの、ギルバートはなにも言わずに従った。扉を開けて振り返り、そっと「師匠、また明日」とだけ声をかける。すると、
「また来ます」
被せるように、エルヴェも挨拶をした。
驚いたのは少年だけだった。カラミアは、まるでその一言を待っていたかのように、硬い表情で応えた。
「ああ、また」
ペリド博士の顔で、エルヴェは満足げに、嫌味ったらしく微笑んだ。
数多く任される仕事の中でも、エレニは特定の個人について調査する任務がいっとう得意だった。人なら誰しもが持っている邪な好奇心を満たすことで評価と報酬が得られることなどそうそうない。
エルヴェという少年の行き先に心当たりがあるというのは決して嘘ではなかった。知っているだけで容易に辿り着ける場所であれば、素直に申告していたところである。
目的地となるはずのカラミア・コキノの自宅は、六年間の捜索では見つからなかった。それが万一始末書を書く羽目になった際に提出する予定の理由だった。
兄弟子でもあるまいし、自分の実力に絶対の自信があるわけではない。美しさを競う種目でも、強さを競う種目でも、エレニが大会の類で注目を集めたことは一度もない。小さいころの彼女はどこにでもいる、練習が苦にならない程度には魔術が好きなだけの子供であった。
だから、魔術を四六時中使っていなければ気でもおかしくしてしまいそうな兄弟子を見て、上を目指すことをきっぱりやめたのである。ワルターと同じような種類の人間に対する畏怖が優って以降、一度だって本気で魔術を行使したことはない。
六年前、絶好調の天才を制圧する必要があったときでさえ、彼女はまともな牽制ひとつしなかった。けれど、六年経った今、かつて取り調べをした相手の住処を見つけるにあたって、ただ人脈を駆使するだけでは足りるはずがなかった。
明確な目的のために師の元で得た知識と術を使うのは、実に十年ぶりだった。
ギルバート・ディオニーという選手の出身地の歴史を、まるで自分の目で見たように追体験する魔術。そこに現存する大きな魔力の塊を、現地まで移動せずに感知できる魔術。異常な魔力の密集地は、数年前の地図と照らし合わせる限り、険しい山々の中にあった。
そこまでを突き止める作業は、ワルターが魔術協会の本部に引き摺り出される前に済ませてあった。彼が任務を引き受けざるを得ないことは明白だった。
明らかに建築を生業としていない人間が建てたような家が、森の奥にぽつりと建っていた。家そのものからカラミアの魔力が漏れ出しているものだから、彼女の居場所は六年間も見つからなかったのではなくて、誰も本気で見つけようとしていなかっただけなのだろうとエレニは笑った。
彼女には逃げるつもりも隠れるつもりもない。大会の直後になんの罪に問われようと従ったはずで、実際、出場禁止のみで放免が決まったと聞いて最も驚いていたのは本人であったと師は言っていた。
「もし。カラミア・コキノさんはこちらにお住まいですね?」
扉を調子よく四度叩くと、エレニは懸命に愛想を込めた声で呼びかけた。よくもまあそんなにわざとらしい声が出せるものだとしばしば呆れられるのも、こういったときに便利なのだからまったく苦ではない。
歪んだ木片を無理に均したような風体の扉が、ゆっくりと開く。家の主は怯えた目をして立っていた。
「ペリド選手なら、つい先ほど出て行きました」
おや、と、エレニは思って、さっと扉の隙間に足を差し込んだ。尋問も逮捕もする必要のない人間に強引な真似をするのは憚られたが、彼女は過程の善し悪しよりも結果を重視する人間だった。
カラミアは視線を下げることもしなかった。
「……なにか?」
「どうして分かったのかだけお話しいただけますか? ご協力をお願いします」
師の期待とは反対に、エレニが上辺だけの言葉を嫌う実直で正直な保安隊員になることはついぞなかった。
じっとカラミアの黄色い目を見つめても、彼女を褒めるのと同じくらいにはなにも出ない。少なくとも最初に会った際はそうだった。では、今はどうか。
人は変わる。エレニはそれを知っている。
「彼が、私の杖を持っていたから」
彼女の報告を聞いて、ワルターが喜ぶかどうかは定かではなかった。
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