プロメテウスの炯眼-6
エルヴェ・ペリド。
その名は瞬く間に有名になった。あのギルバート・ディオニーをも凌ぐ異常性を見せたからである。
彼は完璧な出来の魔術を見せ、歴代最高得点を獲得し、堂々の一位に輝いたにもかかわらず、その栄光を自ら手放すと宣言した。そして宣言通りに他選手の順位を繰り上がらせると、引き止められる暇も与えずに颯爽と会場から去っていった。
以後、彼の居所が超一流の迷惑記者にも探し当てられないまま、数日が経った。
「よく来たね、ギルバート。ちょっとした祝いの品を用意してあるから上がりなさい」
いくら息子が魔術競技に出ることに反対していても、優勝されては祝わないわけにもいかない。両親が大急ぎで用意した宴に村中の人間が参加したせいで、ギルバートは故郷に帰って二日ほど眠れていなかった。
彼がカラミアの元へ挨拶に向かえたのは三日目の朝のことだった。とりあえず睡眠はとった程度で、体力が回復したとは言えなかった。
「おはようございます、師匠。遅くなってすみません、親がはしゃいじゃって。まあ、ついでにこれからの大会にも出場していいことになりましたけど」
「さては酒の力を借りたな。親御さんの酔いが醒めたらもう一度約束してきた方がいい」
素面のままだった村人を証人として取り付けた約束なので、なかったことにされる可能性は低い。
いつもの調子で師匠宅に上がり、自分用の椅子に座って台所へ消えるカラミアを目で追う。するとギルバートは、部屋が異様に広くなっている気がした。
鉢植えがなかった。
「ギル、まずはこれを。わざわざ包まなかったのは大目に見てくれると嬉しい」
戻ってきたカラミアに手渡されたのは、分厚い本だった。ざらりとした手触りの革製の表紙に、ところどころほつれた糸が走っている。背にいくつかある窪みには、かつて美しい色の石が埋まっていたものと思われた。
題は、『魔法とその歴史』。今では全く使われなくなった字体で書かれているので、ギルバートがあと三歳ほど若ければ読めなかったはずである。
「古い本だから、かなり大きな書店に行かないと並んでいなくてね。色んなことを知りたいならこの本がいいと思うんだ。私も昔、持っていたよ――失くしてしまったけれど」
言葉に一瞬詰まったのを隠そうとする様子はない。師は表情豊かではないものの、言葉尻に感情が滲むことがよくあって、多くの場合、それは物悲しげな響きをしていた。
「ありがとうございます。重たい本ですね」
ギルバートはその本の重量感に感動を覚えていた。これほど分厚い本は読んだことも見たこともなかった。
なにより、当然、嬉しいことこの上なかった。彼の表明した目標に沿って、わざわざ大きな書店のある都市部まで出かけて、自分が愛読していた本を贈ってくれるなんて。勝手に弟子を名乗っているつもりだったので、大した祝いの品を期待していたわけではなかったのに。
「大事に読みます。大事に読んで、これからも頑張ります」
意気込みを聞いたカラミアが安心したように頷く。そして、少し待っていなさいと手で示すと、再度台所の方へ消えた。
改めて観察すると、渡された本は想像以上に古そうだった。黄ばんだ最初の頁をめくると、著者の名前と、捧げ先と、出版された年号が書かれていた。
「ヘレネー・テッサリア──人類に魔法を与えた神に捧ぐ。えっと……うわ、百六十年前?」
古書といってもせいぜい自分の祖父母の世代と思っていたので、少年は素直に飛び上がった。それから文字列を読み直して、神、という単語を繰り返す。
人類に魔法を与えた神。そんな話を聞いた覚えはなかった。地元でもっぱら信仰されているのは狩猟の女神で、その女神に付随する神話にも、そのような神は登場しないはずである。
とはいえ、ギルバートにも自分に知識と教養が足りていない自覚はある。だからこそ目の前の本を読むべきなのだし、きっとどこかでその神についても触れられているだろうと思うことにした。
それにしても世の中は知らないことばかりだ、と悶々としていると、師が奇妙な箱を持って戻ってきた。
「で──祝いの品はもうひとつある。軍隊式で悪いが」
少年の目の前に出されたのは、まるで何重にも絡み合った枯れ枝のような見た目の棒だった。長さは彼の肘から手首までと同じくらいで、色は限りなく黒に近い。光の当たる角度によっては、若干、紫がかっているように見えた。
「ええと。これは?」
「杖だ。競技の世界では現代でも素手で魔術を──君の場合は魔法を操るのが当たり前だが、それはただの伝統で、裏にはなんの理屈も利益もない。競技外で魔術を使うときは、たとえば魔術試験でさえ、大体の人間が魔術を補助する道具を駆使する。ちょっとした縛りになるので、君は苦手かもしれないが」
恐る恐る手に取ってみると、その杖は妙に手に馴染んだ。幼いころ、いい具合の長さと形をした木の枝を何本も家に持ち帰って叱られたことを思い出して、少年はつい微笑んだ。
手首の動きで杖を数回振ってみてから、ギルバートは師の方を向いた。
「軍隊式、というのは?」
「ああ、まあ、噂程度に聞いた話だ。少し古めかしい儀式で、軍でももうやっていない」
茶杯の中を見つめているカラミアの目は、その実どこか遠くを見ていた。まるで、過去の思い出を語るような。
「杖というのは、今でこそ工業製品として世に出ていたりするけれど、昔は一人ひとりが手作りするものだった。伝統的には、教える側が教わる側の杖を育てて贈るんだ」
育てる、という言葉を聞いて、少年は鉢植えのあった部屋の隅を見た。そして、師がそこになにを埋めていたかを思い出した。
「結構、その……すごい製法だったりしますか?」
「よく憶えていると褒めるところだったのに、嫌な想像をしたね。養分は肉ではなくて魔力だよ」
ほっ、と肩を撫で下ろす仕草を見せると、カラミアは眉尻を下げた。生き物の血肉を集める人間に見えるのか、という無言の問いに、ギルバートは視線を逸らした。
「とにかく。これからは、それを使う練習もしてみるといい。今までと変わらず私からはあまり口出しをしないから、頑張って」
「はい、ありがとうございます。これで──」
少年の言葉は宙に浮いた。カラミアの家の、これまで彼以外が叩いたことのない扉を、叩く音がした。
魔術協会の本部内は常に慌ただしく動く人々で溢れかえっているが、久しぶりに顔を出すと前回訪れたときより一層忙しそうに見えて気が滅入るので、ワルター・シルバーノットが本部へ顔を出すのは数ヶ月に一度あるかないかというところだった。
現在協会長を務めているのは彼の師でもある。任意出席の会議があろうと、全体招集がかかろうと、名指しで呼び出されようと、それを知らせる書簡の署名が『協会長』である限り、ワルターは無視を貫いていた。それが今回、署名が『返事を遣さぬ弟子を日々案じるおまえの師』となっていたので、仕方なく馳せ参じた次第である。
「先生、ワルターです。入りますが、よろしいですか」
元より返事を待つつもりはなかった。が、彼が手を伸ばすよりも前に、会長室の扉は開かれた。
「──なぜここにいるんだ?」
「あら、いけませんか。私は真面目なので、呼ばれたら毎回来るんです。誰かさんと違って」
薄く笑って肩をすくめる仕草に嫌というほど見覚えがあったので、ワルターは今回も無視しておけばとうなだれた。
「ようやく、おっと、よく来たな、ワルター。元気そうでなにより、エレニとの仲も変わらないようでなにより」
嗄れつつある声が弾む。この人には一番弟子の目の下の隈が見えていないのかとか、隣にいる妹弟子とはそういう関係ではないのにとか、色々と言いたいことはあったが、ワルターはそれらを飲み込んだ。
書簡には、要件はその場で話す、と書かれていた。
「先生もお元気そうでなによりです。午後から弟子の入賞を祝いに行くので、手短にしていただけると助かります」
「そうだったな、私からも祝いの品を送っておこう。まさにその大会についてなんだが」
近寄りなさい、と手で示されるままに、ワルターは遠慮なく高級そうな椅子に腰掛けた。
隣でエレニが脚を丁寧に閉じて座ったので、居心地が悪くなって座り直す。それを見た彼女の生ぬるい視線が鬱陶しかった。
目線の応酬には反応せず、二人の師は話を続けた。白い髪も残り少なくなってきていて、それが気になるのか髪を撫で付ける仕草が頻繁に現れるようになっていた。
「おまえは応援に行けないと言っていたな。彼女が二位になった経緯は聞いているのか」
「ええ、一位を獲った選手が辞退したので、繰り上がって二位になったと。それがなにか?」
「いいや、負けず嫌いには悔しいだろうと思ったが、それ自体はいい。問題は、辞退した選手が行方不明になったことと──」
軽い咳払いの音が会長室に響く。師であり上司でもある男の言葉を遮ったエレニは、いつもと変わらない微笑みを見せた。
隠し事をするのが上手いのかそうでないのか、彼女はいつからか同じ表情を保ち続けている。嘘をついているときも、正直に全てを明かしているときも。
「過去に何度も、その選手に軍が接触していることです。弱冠十七の少年に」
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