プロメテウスの炯眼-3
ギルバートが控え室らしき場所に辿り着いたころ、放送は五人目の選手の得点を告げている最中だった。ひどく失敗したのか、それまでで最も低い点数だった。
少年はまだ目を閉じていた。
ふと前方に出した手が鉄製の壁に触れた気がしたのでようやく目を開けると、相変わらず辺りは暗がりに包まれていた。指先でなぞった感触からするに、壁だと思ったものは引き戸のようだった。
取っ手に指をかけて開きそうな方向に引こうとしたそのとき、扉はガラリと大きな音を立てて開かれた。眩い光が漏れ出るどころではない規模で溢れ出し、闇に慣れきっていたギルバートの目に鋭い痛みが走る。
「おお。来れるもんなんだな」
知らない声だった。無論他の選手とは一切面識がないので知らなくて当然ではあったが、どこか聞き覚えがあるような気もした。
「明かりを消そうか? 眩しいだろ」
「いや……大丈夫です。あれ?」
控え室内の光に少年の目が慣れ始めると、目の前に自分よりもほんの少し背の高い男が立っているのが見えた。ギルバートは、その服を認めた瞬間、二、三歩ほどの距離を飛び退いた。
通りで見かけた、というよりも振り向かされた青年が着ていた外套だった。自他共に認める世間知らずのギルバートでさえ、手触りの良さそうな布で作られた上着だけでも、自分が一年間熱心に働いて買えるかどうかという値打ち物であることが分かった。
「なんだよ」
青年は不愉快そうな顔をして一歩分の距離を詰めると、相対する少年の顔をまじまじと見つめて目を丸くした。
「――あ、さっきの! そうだそうだ、ちょっと話したかったんだ。あんた、名前は? 歳は? どこ出身?」
彼は矢継ぎ早に質問を重ねる間、信じられないほど明るく、不愉快そうな表情の痕跡すら残さずに、朗らかに笑っていた。自分が確かに殺意に似たなにかを向けた相手に向かって。
ギルバートは、無理矢理警戒心を剥がされているような感覚に陥った。彼を信用してはいけないと直感が叫ぶ。狩りの習慣のせいかまた半歩ほど距離を取ろうとすると自分のかかとが壁に当たったので、廊下が狭くなったような錯覚もあった。
相変わらず明かりは消えている。光源は青年の背後にしかない。もはやその顔は逆光で見えず、変わらず笑みを浮かべているのか、それとも今は無表情のまま立っているのか、夜目の利くギルバートにも分かりようがなかった。
天井のどこかに設置されているのであろう放送用の機器が奇怪な音を発し、それから六人目の選手の入場を呼びかけた。直後、狼狽した声がその選手の名を繰り返す。「どこに」、「最初から」、「名前が」、など、断片的にしか聞き取れない音声では、なんらかの異常が発生したと察することしかできなかった。それにギルバートにとっては、目下の状況の方がよほど緊急性が高かった。
「ギルバート。ギルバート・ディオニー……先月、16になった」
背伸びをするにしても、鯖を読むにしても、感触が嘘に似ているものは全般的に苦手だった。だから年齢は正直に言った。実際の誕生日は半年も前だったが、手料理とともに師に祝ってもらったのは本当に先月のことだった。
「出身は――別に、興味ないんじゃない? 本当は」
世間知らずな上に地理に疎いので、山を二つ越えた先の村の名前も満足に言えたためしがなかった。どうせ挨拶代わりに訊いてみただけだろう、と卑屈に誤魔化したはいいものの、警戒心を隠す余裕はなかったことに、ギルバート自身も言ってから気付いた。
笑う気配がした。肯定を意味すると捉えて問題なさそうな、乾いた笑いだった。
「ああ、興味ないよ。社交辞令とか面倒なのは、じゃあ、やめよう。これだけ答えてくれたら、俺も自己紹介するからさ」
街中で味わった感覚がまたうなじに這い上がるのを感じて、ギルバートはつい片手で己の首筋を掴んだ。自分の首と胴体がきちんと繋がっているかどうかを確認したくなるのは人生で初めてのことだった。
「なんでカラミア・コキノを連れてる?」
一対の目が淡く光っていた。緑色の虹彩が、逆光のせいで見えないはずの顔に浮き上がっている。その色の目をした人間と出会うのもまた、初めてのことだった。
「なんで、って、なんで?」
なぜ彼女と分かったのか。彼女と一緒にいてはいけないとでも言うのか。なぜ師弟関係という至極個人的な事情を他人に話さなくてはいけないのか。話さなくてはいけないとして、なぜその相手が初対面のお前なのか。
ありとあらゆる意味を込めて訊き返すと、どの意味として捉えたのか青年は目を閉じ、心底落胆したかのような長い溜め息を吐いた。
緑色の瞳に宿っていた光が一瞬にして消える。
「なんにも知らないんだな、その様子だと。それもそれでどうかと思うけど。悪かったな、変なこと言って」
青年の、黒い手袋をした左手が、やや乱暴に開けられた扉をまるで労るように撫でた。
「ま、入りなって。着替えるんだろ、まさか?」
ギルバートは眉を顰めた。腹の立つ相手として認識されることを厭わない人間は昔から苦手だった。
「――うん、この服で舞台に立つわけじゃないよ。失礼だな、結局自己紹介はしないの?」
放送機が七人目の選手を呼び出す。ギルバートは、そういえば他の選手たちはどこにいるのだろうと考えた。入り口からの道は一本のはずだったし、いくら彼自身は最終盤に呼ばれる予定とはいえ、控え室に彼ら二人以外に誰もいないのはあまりに不自然だった。
目の前の青年はそんなことをつゆほども気にしていなさそうだった。むしろ、それをどこか喜んでいるような、楽しんでいるような。現に、拡声器越しの困惑した声が再度七人目の選手を呼ぶのを聞いて、彼は機嫌良く口角を上げた。
「質問に質問で返すのは答えるとは言わないだろ」
会場に着く直前のカラミアとは反対に、不思議なほど落ち着いている人間を目の前にしたせいか、ギルバートの緊張が戻ってきていた。鞄をベンチに置く手にじっとりと汗が滲む。
「あ、そう。いいよ、どうせそのうち呼ばれるんだし」
緊張を解くため、そして苛立ちを落ち着かせるために深呼吸をひとつ。それから上着を脱ぎつつ天井を見ると、廊下で師が見つめていたものと瓜二つのシミがあった。
自分の脳そのものがなにか理解するよりも先に、辻褄の合う答えを見つけた予感がして、その納得感が視界を鮮明にした。
真っ暗な廊下を目にしたときと同じようにギルバートは目を瞑る。自分の背後に座る人間の気配を探ると、隘路で振り向いて抱いた疑問が脳裏に蘇った。
「君の番がどれくらい先なのか知らないけどさ。そんなに魔力がなくて大丈夫なの? 間に合うように回復できる?」
他人の心配をしている場合でもないというのに、我ながら人が好すぎるな、というのが、言いながら持った感想だった。
数秒経っても反応がないので、ギルバートは恐る恐る青年の方を確認した。せめて顔色だけでも窺うことができれば、答えはあらかた察せる自信があった。
まっすぐに少年の顔を見つめる緑色の目は、いらついているようにも、怯えているようにも見えた。単なる驚きにも近い感情からは、有用な答えは得られそうになかった。
八人目の選手が呼び出される。今度は問題なく現れたのか、担当者は安堵の溜め息を隠すことすらしなかった。
「これまでの人たちはどうしたんだろ。迷子にでもなったのかな? ここの廊下、長いだけで道順はそんなに難しくなかったと思うけど……他の控え室は勝手が違うのかな。そもそも、控え室って他にもあるの?」
師は結局関係者席に向かえたのだろうか、という心配もあった。ギルバートの予想とも呼べないような想像が現実に近いものであれば、廊下の明るかった部分からはどう頑張ったとて(複数あるのであれば、いずれかの)控え室以外には辿り着けない。暗くなっていたところでさえ、単に明かりが切れているだけではなさそうだった。
青年は皮肉げに笑った。
「なにが言いたい? 時間ならあるとはいえ、喋ってばかりいないで着替えに集中しろよ」
強がりだ。触れてほしくない話題があるらしい。それくらいはギルバートにも分かった。
本番着のシャツに袖を通し、一番上だけ残して全てのボタンを留めると、少年は今度こそ体ごと振り返った。先ほどは眩しい気すらした緑色の目は、いっそ不気味なほどに、なんの光も宿してはいなかった。
「そっちはなにがしたいの。他の選手を妨害しなきゃ勝てる見込みがないわけ?」
聞き捨てならないことを、とでも言うように、青年が目を細める。
「妨害?」
「この控え室までの廊下に、なにかの魔術をかけたよね? ほとんど絶対にここに辿り着けないように。だから僕が来たとき、ちょっとびっくりしたんでしょう」
「あのな――」
青年の言葉が途切れる。ぴしゃりと大きな音がしたからだ。
ギルバートは、気に食わない話し相手が首筋を痛めそうな速度で振り向く様子を、ミミズクに似ていると思った。自分の場違いな思考の瞬発力には、毎度本人が驚かされる。
勢いよく開かれた引き戸の向こう、暗闇に融けそうな黒い髪をした少女が立っていた。言い争いを止めざるを得なかった男子たちの顔を明らかに不満げな表情で睨むと、彼女は大袈裟な溜め息をひとつ吐いた。
拡声器がかすかに悲鳴をあげていた。
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