プロメテウスの炯眼-1
人と獣を分けるものは一体なんだろうか。獣が人と認められるのにはどんな条件があって、人が獣へと堕ちるのにはどんな原因があるのだろうか。
少年にとって、一人で森を駆け回り、獲物を狩っている間は、その境目は曖昧だった。
ウサギにシカに、クマにオオカミ。喰えるものから、喰えなくはないものまで。追えば反応は逃げるか、向かってくるかのどちらか。
言葉を必要としない。対話が発生しない。
ギルバート・ディオニーにとって、それは想像しうる限り至高に近い時間だった。
建てつけられたころから全く外観の変わらない木製の扉を、三回、一回、そしてまた三回叩く。本来ならばきちんと指の関節でそうするところを、手が塞がっているので爪先で再現する。
すると、遅くとも十秒以内には戸が開く。少年の覚えている限り、三十秒以上待たされたことはない。
「一昨日ぶりかな、ギル。今日は大収穫といったところか」
呆れた様子で戸の向こうから顔を覗かせてきた人こそ、少年の憧れの人であり、日々の獲物の捧げ先である女性だった。ついでに師匠でもあるのだが、それは本人が認めてくれないので、ギルバートが勝手にそう主張しているだけの状態が続いている。
「はい、師匠。見てください、このシカの肉!」
両手で抱えた肉を覆う布を少しめくってみせると、すぐにでも火にかけて調理したくなるような色が出てくる。間違いなく極上であろう味を、白い斑点模様が示す脂の載り方が保証しているように思えた。
ところが、師匠の反応はあまり芳しくなかった。
「――私は遠慮する。というか、君も食べない方がいいと思う」
供物を断られるのは初めてではない。少年にはどうも運と観察眼がないのか、キノコを採れば猛毒、山菜を摘めば虫喰い、水を汲めば雑菌、という具合に、ことごとく欠点しかないものばかりを持ち帰ってしまう癖があった。今回も似たようなことが起きてしまったのだろう、という落胆が、近隣の村にまで伝播しそうなほど濃く少年の顔に映っていた。
師匠が片手を出すのでそこに肉塊を預けると、彼女はもう一度布をめくって顔を顰めた。
「さては霜降り肉と勘違いしたな。白い部分は全部寄生虫だ。やけに狩りやすかったんじゃないか?」
「あれっ。そういえば、動きが鈍かったような――でも、すごい魔力で!」
学校での授業で教わるに、魔力はあらゆる生命体に宿っているらしかった。ヒトが動植物と一線を画す部分はそれを意のままに扱う能力であるが、その特徴を除けばヒトだって動物だった。ギルバートの認識では、魔力が強ければ生命力も強く、つまり健康で上質な肉が取れるはずだった。
だって、人間がそうだから。
「魔力ね。ツノを持ち帰っていないということはメスだったんだろう。メスのシカはほとんど魔力を持たない。大量に持っているなら、それは寄生虫の方だ」
「あっ。そうでした……」
種別は関係なく、有角類のツノにはなぜか魔力がみなぎっていることが多く、各地でお守りなどに加工されるのが常だった。もっとも、本体の動物が死んでしまった時点で魔力は緩やかに散り始めるので、ただの心の支えに過ぎないが。
寄生虫という言葉を聞いて、少年はまたやってしまった、と自分の額を叩いた。魔力と生命力が相関関係にあるのは人間だけらしい、と経験上何度も結論づけているのに、相変わらずその理屈に沿って考えてしまう癖が抜けていない。
師が眉尻を下げて笑う。
「君の場合、魔法以前に観察眼と記憶力を鍛えないとお話にならないな。いや、足りないのは判断力か」
とりあえず上がりなさい、と彼女が顎で示すので、ギルバートは素直に従った。持ってきた報せの重大さに見合う獲物をと思ったのに、幸先の悪い失敗だった。
通い始めて三年が経つ家の内装は一度も変わったことがない。いつの間にか自分専用になっていた椅子に座りながら、少年は呻いた。
「来月の地区大会に出られることになったんですよ。その報告に来ようと思って」
なにを育てているのか定かではない巨大な鉢植えに肉を埋めると、師は振り返って心底意外そうな顔を見せた。
「地区大会! おめでとう。資格はもう取れたのか」
少年は笑った。彼の言っている大会への出場には、そもそも資格が必要とされない。むしろ出場者の中には、地区大会での好成績を利用して、難度の高い資格試験の免除対象になろうとする者が多くいる。
ギルバートもその一人である。ただし、試験を受けたくないわけではなく、受験費用が支払えないという身も蓋もない理由だった。
「取ってませんよ、いりませんから。師匠って国内大会の決勝まで行ったのに、ほとんどなにも知らないですよね」
奇妙なことに、国中を熱狂させる大会で優勝目前まで行ったというのに、彼女は競技魔術に関する常識をほぼ全く持ち合わせていないのである。だから、少年が彼女を師匠と呼んでいるのは本当に形だけで、知識に関しても実践に関しても、目標や進捗は彼自身が設定して練習に励んでいた。
「私は国内大会への出方しか教わらなかったからな。他は知らない。ギルバート、これに火を」
目の前に差し出されたのはマッチだった。頂点の黒い火薬部分は幼児の小指の爪ほどの大きさしかない。
ギルバート、と呼ばれて背筋を伸ばした少年が二度ほど瞬きをすると、ちょうど火薬部分だけを覆うように火が発生した。
「うん、悪くない。その歳にしてはかなり精度が高いんじゃないか」
マッチはすぐに暖炉に投げ込まれた。パチパチと弾けるような音がして、重なり合った薪が徐々に赤くなる。その上にやかんを置くと、師は自分の髪と同じ色をした――燃えるような赤色の――椅子に、腰掛けた。
「ありがとうございます……師匠って僕がいないときも本当に全然魔術を使ってないんですか?」
炎を発生させる術は失敗すると命取りなので、魔術が大衆化してからもマッチは現役である。が、まさか彼女がそんな失敗を恐れるわけもない。師は常々、魔術はもう使わないと断言していて、だから師匠などと呼ばれる筋合いはない、というのが彼女の主張だった。
「使ってない。習慣になると案外困らないものだ。で、話はそれだけか?」
「それだけかって……応援には来てくれますよね?」
「無理だな」
ギルバート以外の人間と会話をする機会がないせいか普段は鷹揚に話す師にしては、類稀なる速度での即答だった。
弟子がいかにも傷付きましたという顔をしたせいか、彼女は大きな溜め息をひとつ漏らして、あのね、とこぼした。
「私と関わっていることが公になったら、いいことなんてひとつも起きない。君だって、私のところに通っていることをご両親には黙っているだろうに」
「だって……前に師匠の名前を出したら、怒っちゃって。理由も教えてくれないで、もう大会に出たいとか言うなって」
何年経っても憶えている。まさに目の前の女性が、圧倒的な技量でもって優勝めがけて突き進んでいく、その姿を。
何年経っても憶えている。決勝戦を観ることが叶わなかった幼い自分が、自分も将来は競技選手になりたいと言ったときの、両親――特に母の反応を。
カラミア・コキノ。その名を出したときの、父の表情を。
「今回地区大会に出るのだって、猛反対されたんです。資格を取るとき優遇されるかもしれないからとか、頑張って丸め込みました」
「嘘を吐くときは本当のことを少し混ぜなさいと言った手前、説教はしない。が、苦手な嘘を吐いて、親を丸め込んでまで出たいのか? どうして?」
どうして、というのであれば、ギルバートだって訊きたかった。どうして大人たちは、カラミア・コキノという人間を嫌うのか。どうしてあんなにも魔術の扱いに長けていたカラミアが、二度と使わないと言い切るまでに至ってしまったのか。
少年はなにも知らされていない。なにか、自分で道を切り拓かない限り、欲しい知識は一向に手に入らない。
「知りたいんです――色んなことを、もっと」
嘘ではない、と自分に言い聞かせる。そうでなければ、なにからなにまで筒抜けにしてしまう表情筋がまた勝手に口を滑らせるに決まっていた。
師が笑うような仕草をする。
「曖昧だな。誤魔化すなら誤魔化すで、もう少し細かいことを喋りなさい」
まるで相槌でも打つかのように、やかんが笛に似た甲高い音を出す。
熱くもなんともなさそうにやかんを持ち上げると、カラミアはいつの間にやら茶葉の入れてあった二人分の平たい杯に、交互に湯を注し始めた。
「ですからたとえば、魔術について知りたいんです。ほら、学校で習うようなものじゃなくて――」
「別に言い直せとは言ってない。で、大会の具体的な日付と会場は?」
自分の嘘が上達しないのは、どんなに下手なことを言っても騙されたふりをしてくれるこの人のせいではないか、と。踊る心を隠さずに、ギルバートは苦笑した。
手に取った杯からは、春に咲く花の香りがした。
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