【短編小説】HAL-1000Aの眠り
ケトルが小さく震えながら白い息を吐いた。
「翔太さん」
呼びかけられた翔太が振り向くと、開け放たれた窓の外を見ていた遥香が手招きをしている。
「なにか見えるかい?」翔太がそう訊くと、遥香は窓の外を指差した。
翔太が遥香と並んで見た外は、一面の銀世界であった。
翔太が遥香と迎えた何度目かの冬であり、幾度も迎えた朝のことだ。
音のない銀世界に向かった翔太と遥香の息は白くなって絡まると、そのままくるくると回りながら消えていった。
いや、それは気のせいだ。そうあって欲しいとおれが願ったからそう見えるだけだ。
どこまでいっても別のものだ。
入り混じったりしない。
散々、繰り返してきただろ?もう納得しただろ?
翔太は頭を振って自分の頭からセンチメンタルな考えを追い払った。
何度目かの雪が降る白銀色の朝を、初めてみたいに喜んではしゃぐ遥香の肩に、翔太がカーディガンをかけながら「遥香が見る雪はこれが最後かも知れないね」と言うと、遥香は驚いたように見つめた。
「どうして?」
どうしてだろう。
翔太はなぜ自分がそんなことを言ったのか分からなかった。そんなことは初めてだったから自分でも驚いた。
遥香の瞳は揺れることなく翔太の目を見ている。
その目の中に自分が見える。
きっと自分の目は細かく揺れ動いているだろう、そう思った翔太は遥香の真っ直ぐな視線から逃げるように顔を背けた。
「翔太さん、どうしてそんな事を言うの?」
翔太は自分でも分からないので、話をはぐらかせた。
「コーヒーを淹れるよ。ミルクは欲しい?」
翔太の問いに、遥香は相貌を崩して笑いながら頷いた。
真っ赤なジャムを塗ったトーストを食べながら見ているテレビニュースは、画面に各地の大雪を写していた。
音を小さくしているので細かいことはよく分からないけれど、毎年どこも大変なんだろうと翔太は思った。
大変な経験を忘れてしまう訳ではないのに、どうして彼らはそこに居続けられるんだろう?
うんざりしながら、それでも春が来るから?
その新しい春はまた、いつかは冬になって雪に閉じ込められてしまうのに?
それは強さとか逞しさとは別の、愚かさなのでは?
陰湿だし、言い訳だ。
翔太は味のしないトーストを流し込んだ。胃の中に、澱みたいな重さを感じる。
今日くらいは、そんな事を考えずに過ごしたい。
今日は遥香の命日でもあり、明日になればそれは誕生日になる。
だが翔太が知る限りの遥香を集めて構築したところでそれは遥香の一部でしかなく、その先に遥香が進むことは無い。
それはもう、何度も繰り返して分かりきっている。
誕生日を何度迎えても、遥香があの日から先に進む事はない。
翔太は努めて朗らかな声を出した。
「どこも真っ白だね」
まるで世界が繋がっているみたいだ。
翔太がそう言うと、遥香は赤く塗られたトーストを食べる手を止めて、ほんの少し考えてから
「雪が東京を夜明けの白色に染めていくみたいね」
そう言って、名残惜しそうにジャムトーストの最後のひと口を放り込み、目を細めてミルクコーヒーを飲んだ。
「あぁ、美味しかった」
自分が覚えてさえいればいい。
目の前にあるその幸福な光景を、翔太もやはり目を細めて見つめていた。
「翔太さん、今日はどこに行くの?」
すっかり他所行きの格好に着替えを終えた遥香は、再びリビングの椅子に座って足をぷらぷらと揺らしながら翔太を見ていた。
翔太が答えに窮していると、遥香は不思議そうに
「だって、お仕事はおしまいでしょう?なら、二人でどこかにいきましょうよ。お天気はこんなだけど、翔太さんとならどこだって楽しいわ」
そう言って微笑んだ。
もしかしたら。
そう思わない朝が翔太には無い。
「そうだね、どこがいいかな」
翔太が鼻の先をジンと痛ませながら言うと、遥香は心配そうに首を傾げた。
「大丈夫?」
翔太は背を向けると、涙声がバレないように背を向けた。
「大丈夫だよ。そうだね、仕事はお終いだし、どこかに行こう」
「やったぁ!」
背後で遥香のはしゃぐ声が聞こえて、翔太は余計に悲しくなった。
自分だけが覚えていても仕方がないじゃないか。記憶は解けずに積もっていく一方だ。
覚えることの意味は、共有にあるのに。
翔太が換気扇を回すと、遥香は少し咎めるような声を出した。
「翔太さん、また煙草?」
「あぁ、そうだよ」
「よく咳をしてるし、少しやめてみたら?」
「あぁ、そうだね」
何度、その約束をしただろう?
何度、その約束を破っただろう?
「約束よ?嘘ついたら、私に何か買ってもらうから」
「そうだね」
遥香、きみの欲しいものはもう無いんだ。
遥香、きみに買ってあげられるものはもう無いんだ。
買ってあげたところで、そのプレゼントの意味を、きみは忘れてしまう。
「翔太さん、それで今日はどこに行く?」
「そうだね、名画座なんてどうかな」
「また変な映画を観るのね!大きなワニとか蛇がでないやつがいいわ」
遥香とは色々な映画を観た。
翔太はそのひとつひとつを覚えている。
「翔太さん、映画館以外ならどこに行く?」
「そうだね、図書館はどうかな」
「また難しい本を読ませる気ね?わたし、読むの遅いからこの前のだってまだ読み終わってないわ」
遥香が指差した本は、遥香が何度も何度も途中まで読んだ本だった。
翔太はそのひとつひとつを覚えている。
でも、遥香は映画も本も覚えていられない。
遥香は覚えていないことすら覚えていない。
「翔太さん?」
遥香が心配そうに声をかける。
その声は何度も聞いた声だ。
「なんでもないよ」
翔太は何度も繰り返した涙をまた零しながら遥香に笑いかけた。
遥香は茶色い瞳で翔太を見つめる。翔太はその目を見つめ返す。遥香は小首を傾げる。
「どうかしましたか?」
何度も見た。何度も繰り返した。
翔太は首を振って遥香を抱きしめる。
「少し、老けたよ」
それは、初めての朝だった。
遥香の身体に回した自分の腕はいつしか細くなり、抱き寄せる力も弱まっていた。
遥香の人工皮膚を通して中から微かな電気音やモーター音が聞こえる。
何度聞いても翔太は慣れることができなかった。そしてその音を聞くのが、もう耐えられなくなってきた。
かつて遥香の心臓が動いていた頃に聞いた鼓動や、肺が空気を取り込んだ時の膨らみよりも、その不快な音を聞くようになってからの方が長くなった。
いくら遥香の破片を積み上げても、それは遥香にはならない。
遥香の手を模した遥香の手が、遥香みたいに翔太を優しく撫でる。
何度も翔太の頭を撫でたその手は遥香みたいに柔らかく、でもやっぱり翔太の知らない熱を帯びていた。
「少し、老けたんだよ」
翔太は繰り返した。
涙が止まらなかった。ずいぶんと遠くまで生きてしまった。
でも、もう疲れた。
翔太が細く長い息を吐くと、白い煙がまるで魂みたいに抜けていった。
目をやった窓の外は、一面の銀世界であった。
「遥香、外は雪だよ」
「そうよ、外は雪ですよ」
「寒い冬だもんね」
「えぇ、とても寒いわ」
「少し、老けたね」
「わたしはいつだって16歳よ」
「そう、遥香はいつだって16歳だ」
茶目っ気いっぱいに笑う遥香。
いつまでも16歳だ。16歳のままだ。冗談だった遥香の若さは、いつしか本当になってしまった。
翔太は大粒の涙を流しながら遥香を抱きしめた。翔太の涙は遥香の人工皮膚を滑って消えていった。
翔太は遥香の中にいた遥香を思い出そうとして、自分の中にも遥香がいない事に気づいた。
遥香の肌は、本当はどんなだったっけ?
遥香の目は、本当はどんなに光るんだっけ?
遥香の匂いは、本当はどんなだっけ?
再現された遥香の方が長くなって、もう本当の遥香なんて思い出せないんじゃないか?
翔太は、ふと短く息を吐いた。
「遥香」
翔太が呟くと、遥香は不思議そう翔太を見た。
「少しだけ、疲れたな」
「大丈夫?翔太さん。横になりましょ」
「あぁ、そうするよ」
素直に従う翔太を見た遥香が、少し何かを考えるように一瞬だけ動きを止めて言った。
「わたしも、一緒に眠っていい?」
「もちろんだよ」
翔太は遥香と一緒に布団へもぐり込むと、遥香の目に映った自分を見ながら「おやすみ遥香」と呟いた。
遥香の音が少し小さくなった。目の光も薄くなった。
「おやすみなさい、翔太さん」
遥香の目の中の翔太が翔太を見ている。
もう遥香が本当はどんな声だったか覚えていない。
遠くまできてしまった。
いつから遥香のことを覚えていないのかも分からないくらい遠くまできてしまった。
遠くでケトルがシュシュと息を吐いているのが聞こえる。
あぁ、遥香。火傷に気をつけてね。
そうだ、外は雪なんだ。
遥香、ちゃんと暖かくしてね。
少し疲れた。少し、老けたしね。起きたら……もし起きられたら、また一緒にどこか行こう。
もうおれも覚えていられないかも知れないけれど、かまわない。また新しい明日を迎えにいこう。
翔太は自分の意識が湯気や雪みたいに白く霞んでいくのを感じていた。
繋いだ手の中にある遥香の手が、記憶の中にある遥香の手と曖昧に溶けて、暗い暗い穴の中へ落ちていった。
……
翔太の”電源”が静かに喪失していくのを見届けた遥香は、自身の更新プログラムを中止すると、翔太の眠る顔をレンズに焼きつけた。
そしてゆっくりと、目を閉じた。




