第三十六章:動き出す影
十一は鋭く息を吐き、構えを維持したまま額から汗を滴らせた。周囲の大気は残熱と圧力で揺らめいている。それはサカタの容赦ない指導の下、彼が耐え抜いてきた過酷な修行の証左であった。通称「エロ師匠」は、九割方は道化のように振る舞う男だが、その戦闘訓練に関しては一切の冗談が通じない。
「もう一度だ!」
サカタの怒声が、山の空気の中を鞭のようにしなる。彼は数歩離れた場所に立ち、腕を組み、細められた値踏みするような瞳で十一の型を観察していた。
「実戦でお前が息を整えるまで待ってくれる敵がいると思うか? 原泉のエリートを相手にそれだけ躊躇してみろ。地面に倒れる前に、貴様は肥やしに変わっているぞ」
十一は歯を食いしばり、前方へ飛び出した。炎——未だ荒々しく、飢えた火が——彼の拳に宿り、防御魔法で強化された木製の訓練用人形へと叩き込まれる。人形が輝き、幾重もの防護壁が展開した。
だが、一撃が届くよりも早く、サカタは彼の背後にいた。
駆けたのではない。跳んだのでもない。ただそこに、あたかも空間そのものが彼の捻じ曲がった意志に従って屈曲したかのように、存在していた。足払いが十一の軸を刈る。視界が回転し、空、地面、そして空が交互に現れ、十一の背中が硬い大地に叩きつけられた。肺から空気が絞り出される。
「チッ」サカタは舌打ちし、芝居がかった失望を浮かべて見下ろした。「反応速度が便秘のナメクジより遅い。パワーはあるがな、それだけだ。洗練を欠いた力など、ただの生肉で相手をひっぱたくようなものだ。不潔で、臭くて、結局のところ、何の役にも立たん」
十一は呻きながら、震える腕で上体を起こした。筋肉が悲鳴を上げ、魔力残量は空に近い。全身の繊維が休息を求めていた。
だが、彼は止まらなかった。
胸の奥深くで、何かが蠢いた。それは疲労や興奮とは無関係の、もっと古く、深く、飢えた熱。
(……まただ。また来る)
内側の圧力が渦巻き、とぐろを巻いた力の蛇が、不可視の拘束を押し広げようとする。一瞬、周囲の世界が減衰した。訓練場が遠のき、サカタの声が届かなくなる。
そして、彼は聞いた。
囁き。言葉ではない、純粋な感覚——彼の意識の端に触れる「存在」の気配。
「……まだ早い。だが、近づいている」
何かが弾けた。大きな音ではない。巨大な綴織の糸が一筋切れたような感覚。彼の核に巻き付いていた霊的封印の鎖が一つ、罅割れて剥がれ落ちる。休眠していた強大な力の破片が蠢き、欠伸をし、そして再び微睡みの中へと沈んでいった。
十一は激しく身震いし、視界が開けた。彼は膝を突き、片手を胸に当てて、その残響を噛み締める。
拳を握りしめる。(あと少しだ……あと少しでいい)
サカタは、十一には読み取れない表情で彼を見つめていた。その血走った瞳の奥で何かが揺らめく。やがて老僧は、微かな、ほとんど気づかぬほど小さな頷きを見せた。
「……よし、休憩だ。お前のような向こう見ずな馬鹿でも、たまには呼吸が必要だろうからな」
彼は大仰な呻きと共に背を伸ばし、背骨をボキボキと鳴らした。
「この腰は連続した『格好良さ』に耐えられるようには出来ておらんのだ。ワシはちょっと……小便に行ってくる。ワシがおらん間に山を焼き払うなよ。それは来週のレッスンだ」
「待てよ——」十一は瞬きし、心の隅に不穏な予感を覚えた。
遠ざかるサカタの背中を見る。歩き方は合っている。禿げ頭も、ボロボロの法衣も、間違いなくサカタだ。
だが、何かが……「ズレて」いる。
十一は頭を振り、その考えを打ち消した。「……チッ、勝手にしろ」
一方、その頃……(訓練場から遥か遠くにて)
影に覆われた森の端にある人里離れた茂みで、本物のサカタ・ブッダが身を潜めていた。その手には望遠鏡。単なる道具ではない。魔法を付与された竹と精密な鏡で作られた、超長距離を視認できる傑作だ。
正確に言えば、彼は覗きをしていた。
苔むした岩の上に開かれた手帳には、びっしりと熱のこもった文字が書き込まれている。
> 【魔王軍・尻ショット監視記録:極秘任務】
> ターゲット:サキュバス精鋭小隊、夕刻の入浴タイム
> 場所:東部支流・隠れ湯
> 時刻:18:40(現地薄明時)
> 【観察メモ】
> ・金髪個体:曲線美が驚異的。判定:A++
> ・赤髪:戦闘向きの体躯。柔らかい外見に隠された筋肉美が素晴らしい。
> ・短髪:意外にもシャイ。常に背を向けている。攻略対象(保留)。
> ・揺動周波数:湯温の上昇と共に増加。科学的調査が必要。
>
サカタは鼻の下を伸ばし、片方の鼻の穴から一筋の血を流しながらニヤリと笑った。「あと数秒の『研究』で……よし、ビンゴじゃ」彼は猛烈な勢いで書き殴る。「揺動、確認。データ取得。これも歴史保存のため、やむを得ぬ犠牲じゃ」
だが、次の観察に移るよりも早く、数百年の修羅場を潜り抜けた僧侶の直感が警告を発した。
複数の気配。高速移動。敵意。
サカタの笑みは消えなかったが、その瞳は鋭く研ぎ澄まされた。「ああ、クソ。静かすぎると思ったわい」
周囲の影が爆発した。
闇の中から魔王軍の精鋭部隊が具現化した。既に武器は抜かれている。歪んだ刃、影から鍛造された槍、禍々しいエネルギーを放つチャクラ乱容器。黒曜石の甲冑に身を包んだ大男の隊長が、剣をサカタに向けた。
「……貴様か」言葉に毒が混じる。「三つの州を越えて、貴様の魔力特性を追ってきたぞ。我が一族の復活の儀式を邪魔し続けているのは、この坊主か。我らが主の降臨が遅れているのは貴様のせいだ」
サカタはゆっくりと立ち上がり、法衣に付いた見えない埃を払った。手慣れた様子で手帳を閉じ、袖の中に滑り込ませる。
「ふん」彼はポーズを決めた。片手を腰に当て、もう片方の手をドラマチックに差し出す。
「ただの男が……野外で『瞑想』を楽しんでおるだけじゃよ。森は平和、野生動物も豊富……」
「殺せ」
部隊が突撃する。
サカタの笑みが、より危険なものへと歪んだ。
「……秘技・千手覗き圧力掌!」
彼は淫らな竜巻のごとく回転しながら前方へ飛び出した。その掌には凝縮された気が宿り、殺すためではなく、外科的な精密さで無力化するために放たれる。最初の三人の兵士が吹き飛び、木々に激突して滑稽な音を立て、地面に落ちる前に意識を失った。それぞれから鼻血が噴き出しているのは、チャクラの経絡を無理やり再編されたことによる不幸な副作用だ。
槍の突きを縫うようにかわすサカタの動きは、酔拳と古代の武術が融合した奇妙な舞踏だった。彼は二本の指で槍の柄を掴んで捻り、武器を弾き飛ばす。
「チャクラが歪んでおるぞ」野生的な斬撃を潜り抜けながら彼は呟く。「よし、ワシが整えてやろう——」
彼の足が、兵士の顎を撃ち抜いた。
「——ワシの足でな!」
高台の崖の上から、タムはこの乱戦を灰色の瞳で見つめていた。隠蔽魔法の幾重もの層によって、彼の気配はサカタの鋭い感覚からさえも隠されている。
(……想定よりも強いな)タムの指が前腕を叩く。(あの忌々しい僧侶、ずっと真の実力を隠していたか。我々が奴の弱さを前提に計画を立てている間、道化を演じていたというわけだ)
眼下では、サカタが馬鹿げた、しかし効果的な破壊の舞を続けている。あらゆる動きが流麗で、滑稽で、それでいて致命的だ。
タムの唇が一直線に結ばれる。(……他には何を隠している、老いぼれが)
彼は報告書を脳内でまとめながら、再び影の中へと消えていった。
数時間前:魔王城
回収された装置が、重厚な防衛結界と解析陣に囲まれて作戦室の中央に置かれていた。金属の帯は紅蓮の光の中で鈍く光り、魔力核は例の忍耐強い、異質なリズムを刻んでいる。
タムはその横で屈み込み、蒼白な指で表面をなぞる。背後ではザンドロスが腕を組み、その苛立ちが部屋全体を圧迫していた。
「このアーティファクトは、」タムが静かに言った。「単に外部の干渉を遮断しているだけではない」
彼は装置の底部を囲むルーンを指差した。「これらは時間的指標だ。単に遅延を維持しているのではなく、封印周囲の時空を能動的に歪めている。我が主が微睡みの中で過ごす一瞬一秒が、引き延ばされ、薄められ、永劫のものへと変えられているのだ」
ザンドロスの顎が、音を立てて引き締まる。
「だが、それだけではない」タムの指が、主陣図の下に隠された、ほとんど不可視のルーンへと動いた。「これだ。これは『盗聴』の術式だ。極めて精緻で、装置の主機能と密接に編み込まれている。これを設置した者は……」
声が、冷酷で危険なトーンへと落ちる。
「……この一年間、我々のあらゆる動きを盗み聞きしていたということだ。あらゆる戦略会議、あらゆる密談、あらゆる計画をな」
戦慄の沈黙が、作戦室を支配した。
そして、ザンドロスが動いた。
籠手に包まれた拳が壁に叩きつけられ、岩が砕け、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。咆哮が部屋中に響き渡り、城の土台を揺らした。
「サカタァァァッ! あの腐れ外道の、無価値なエロ坊主がぁッ!」
彼はタムを振り返り、殺意に満ちた瞳で叫んだ。「奴を見つけ出し、鼻から背骨を引き抜いてやる! その後で——」
「落ち着け」タムの氷のような声が、ザンドロスの激昂を鎮める。「短気な行動こそが奴の思うツボだ。奴は常に我々の二歩先を行っていた。攻撃を仕掛ける前に、その差を埋める必要がある」
ザンドロスの胸が激しく上下する。彼は拳を固く握り、忌々しげに頷いた。
「……いいだろう。だが、次に仕掛ける時は——」
「貴様にチャンスをやろう」タムは再び装置へと向き直った。その灰色の瞳が、装置の柔らかな光を反射していた。「約束する」
修行場にて
十一は風化した岩の上に座り、山の風に汗を乾かしながら息を整えていた。魔力は徐々に回復し、筋肉の痛みも和らぎ始めている。
だが、やはり何かがおかしい。
彼は直前の数分間を頭の中でリプレイした。「サカタ」の話し方。下品なコメントの欠如。不適切な発言をする直前の、あの独特な瞳の輝きのなさ。
十一の目が細まる。
(……待てよ)
今、訓練用人形の横で格好良くポーズを決め、妙に左右対称に整った筋肉を誇示している「サカタ」は、一度も卑猥なジョークを言わなかった。「研究」の「け」の字も出さなかった。手帳を見ようともしなかった。
(……あいつ、本物じゃねえな)
十一の唇に、ニヤリとした笑みが浮かんだ。
(分身か。あのクソジジイ、一杯食わせやがったな。偽物を置いて、自分はどこかでエロいことでもしてやがるんだ。……全く、アイツらしいぜ)
彼は呆れて首を振ったが、その笑みは消えなかった。どこか安心感すら覚えたからだ。
(……で、何を目論んでるんだ、エロ師匠。それは……彼女を取り戻す助けになるのか?)
風が変わり、煙の匂いと遠い雷鳴を運んできた。胸の奥深くで、封印された力が再び蠢いた。荒ぶるのではなく、眠れる巨獣が寝返りを打つかのように。
(あと少しだ)
十一は立ち上がり、肩を回して、新しく得た技術が筋肉に馴染んでいくのを感じた。
(……準備は、出来てるぜ)
【ステータス更新:中村 十一】
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 名前 中村 十一 |
| クラス | 龍血の冒険者(Dragon-Blooded Adventurer) |
| 種族 | 人間(多属性龍共鳴体) |
| レベル | 20 |
| ランク | Cランク |
【属性適性】
* 風(Wind): 主属性
* 土(Earth): 副属性
* 虚無(Void): 部分的覚醒
* 火(Fire): 休眠中 / 封印状態
【新規習得スキル】
| スキル名 | 詳細 |
|---|---|
疾風螺旋 | 鋭い圧力で敵を切り裂く、旋回する風の斬撃。『紅蓮旋風』の進化形。 |
岩把 | 地中から尖った岩の柱を召喚し、敵を拘束・粉砕する。集中を欠くと不安定。 |
虚空歩 | 短距離の転移(瞬歩)。一時的な不可視化を伴うが、魔力消費が極めて激しい。 |
属性同調 | 風と土の属性を同期させることで、耐性とチャネリング効率を向上させる受動スキル。 |
龍の鼓動 | 感情や環境に応じ、風や土のエネルギーを爆発させる。不安定だが強力。 |
【受動的覚醒】
[封印の破片:1/5 破壊済み]
* 火属性: 休眠中
* 真のエレメンタル・コア: 変動中。被検体は「ハイブリッド・ドラゴン・フェーズ」に接近。
* 虚無属性: 感知されたが、アクセスは制限されている。
* 次段階の覚醒閾値: レベル25
つづく




