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第三十四章:紅蓮の衝突 — 後編

異次元の闘技場に漂う空気は変貌していた。もはや単なる魔力の圧力ではない。それは粘りつくように重く、喘ぐ十一ジューイチの肺を容赦なく圧迫する。彼の胸は激しく上下し、煤と汗が顔に黒い筋を刻んでいた。ひび割れた石盤の向こう側で、原泉 レンジは遠くの尖峰のごとく不動のまま立ち尽くしている。紅蓮の剣を傍らに、その呼吸は静謐で、乱れ一つない。

彼は、汗一つかいていなかった。

闘技場の端では、サカタが柱への気怠いもたれかかりをやめていた。腕を組み、その表情は読み取れないが、いつもの嘲弄めいた瞳の輝きは影を潜めている。

「やれやれ……」サカタが呟く。その声は不自然な静寂の中を容易に通り抜けた。「向こう見ずな弟子の前に、拳じゃどうにもならない『壁』が立ち塞がっちまったか。それもただの壁じゃない。古臭くて、最高に鍛え上げられた、最高に厄介な壁だ」

煙を上げる十一の拳が、さらに固く握りしめられる。「……黙ってろ、エロ師匠。まだ終わっちゃいねえ」

「否」レンジが遮る。その声は平坦で、絶対的だった。「終わりだ」

彼は攻撃的な動きを見せない。ただそこに立つだけで、「確定した未来」そのものを体現していた。

「貴様にここに居る資格はない。血筋の正当性も、政治的立場も、先祖伝来の権利も……貴様は何も持たぬ。サクラは原泉の者だ。彼女は原泉へと戻る。五年に及ぶ独りよがりの放浪は、今この時を以て終焉を迎える」

彼の背後には、沈黙を守る一族の従者たちに囲まれたサクラが立っていた。彼女の手首には魔力を封じるかせが填められ、青い光が彼女のチャクラと身体能力を奪っている。普段は鋭く、警戒心の強い彼女の紫の瞳は伏せられていた。だが、レンジが言葉を発した瞬間、彼女はその瞳を上げた。

たった一度だけ。一瞬の邂逅。

彼女の視線が十一と重なる。

そこには拒絶も冷たさもなかった。ただ、静かで、疼くような哀しみ。そしてその奥底にある、恐怖に似た何か。

彼を、想うがゆえの恐怖。

「……もう、あなたの手に負えることじゃないの、十一」サクラの声は低く、いつもの毒気が抜けていた。「レンジはただの兄じゃない。彼は原泉の『意志』そのもの。その意志に逆らって、無事でいられた者はいないわ」

十一の心臓が肋骨を叩く。必死で、猛烈なリズム。彼はサカタに課された限界をすべて超えてきた。炎を解き放ち、風を飼い慣らし、虚無の縁にさえ触れた。精鋭の戦士たちを相手に、一度も膝を屈さなかった。

それなのに、今目の前にいる男は、奥義を出すまでもなく自分を完全に圧倒している。

それでも。

それでもだ。

「アンタらの『一族の意志』なんて知るかよ!」

十一の喉から叫びが迸る。洗練された戦士の自信とは程遠い、剥き出しの言葉。それはただの「十一」という男の、頑固で無謀で、呆れるほどに執念深い叫びだった。

「サクラは俺の仲間だ! 仲間を……そんな風に連れて行かせてたまるかよ!」

レンジの琥珀色の瞳が細められる。それは怒りではなく、より冷徹な「品定め」だった。

「その愚かな信念が、貴様の死を招く」

彼は動いた。

予兆はない。重心の移動も、筋肉の弛緩もない。一瞬前まで十歩先にいたレンジが、次の瞬間には十一の背後に立ち、風が悲鳴を上げて通り過ぎる。その手は鞘に収まった刀の柄に、軽く添えられているだけだった。

「ああ、出た。相手の背後に瞬時に回るってやつ。定番だけど盛り上がるよねぇ」

サカタの乾いた解説が響く。声は軽いが、組んだ腕の裏で彼の指先は微かに痙攣していた。

レンジの声が、十一の耳元で直接囁かれる。熱を奪い去るような冷気と共に。

「貴様は弱い。中村 十一。無謀とは強さではない。それはただ、畏れるべきを知らぬ無知に過ぎん」

間を置いて。

「……だが、もし貴様が真に宿命に抗えると思っているのなら……証明してみせろ」

十一は動かなかった。

動けなかったのではない。彼の体は「振り向け」「撃て」と叫んでいた。だが、本能や恐怖のさらに奥深くで、別の何かが芽生えていた。

「理解」だ。

かつての十一なら——計画もなしにゴブリンの巣へ突っ込み、路地裏で無頼漢相手に喧嘩を売り、「もっと頑張ればいい」としか思っていなかった頃の彼なら、ここで闇雲に飛びかかっていただろう。そして、再び敗北していただろう。

だが、今の十一は違う。あの黄昏の異空間で、水のように動き、雪崩のように重い一撃を放つ「ハゲの飲んだくれ」に、叩かれ、罵られ、鍛え抜かれた日々があった。

彼は学んでいたのだ。

ゆっくりと、慎重に、十一は腕を下ろした。構えを解く。それは敗北ではなく、別の何か——「受容」と「決意」への移行だった。

「……今は、アンタとは戦わない」

声は掠れていたが、足取りは確かだった。

「今は……な」

十一は肩越しにレンジの視線を受け止める。臆することなく。虚勢を張ることもなく。ただ、誠実に。

「今の俺じゃ、アンタに勝てない。それは分かってる。強さってのは、ただ突っ込むことじゃない。いつ待つべきか、いつ鍛えるべきかを知ることだ。……もっと強くなって戻ってくるために」

彼は完全に向き直り、一族の継承者と正対した。拳は握られたままだが、それは自然に傍らに置かれている。

「必ず彼女を連れ戻しに行く。その時は……」

レンジの瞳を射抜くように見つめる。

「……俺が勝つ」

沈黙が二人の間に引き伸ばされる。薄氷のように脆く、広大な静寂。レンジは何も言わず、その表情からも何も読み取れない。

だが、確かにそこにあった。冷徹な琥珀色の瞳の奥底に、一瞬の揺らぎが。

それはまだ、敬意ではない。だが、確かな「認識」だった。

「……ならば、時を無駄にするな」ようやくレンジが口を開く。「次に相見あいまみえる時、躊躇いは死に直結すると知れ」

彼は背を向けた。一瞥の合図で、従者たちが一斉に動き出す。

サクラが促されるように歩き出す。手首の枷が紅蓮の光の中で鈍く輝く。彼女の足取りは静かで、規則正しい。抵抗は鎖を食い込ませるだけだと、ずっと昔に学んだ者の歩み。

十一の横を通り過ぎる際、彼女の歩みが僅かに緩んだ。視線が石畳から上がり、彼の顔を捉える。

その眼差しには、千の言葉が込められていた。

『私のことなんて、忘れてって言ったのに』

『来ないでって、言ったのに』

『友達じゃないって、言ったのに』

『……ありがとう』

『ごめんなさい』

『死なないで』

『待ってるから』

彼女は通り過ぎた。従者たちが列を閉じ、レンジの広い背中が遠ざかっていく。

次元の門が、静かな終焉を告げる音と共に閉じられた。

十一は、空っぽになった闘技場に一人立ち尽くしていた。

拳が小刻みに震えている。胸が焼けるようだ。それは自身の属性である炎ではなく、もっと生々しく、飢えた何かが、彼の骨に約束を刻みつけている熱だった。

サカタの手が、十一の肩に置かれた。その手は力強く、彼を現実へと繋ぎ止める。

老僧の声に、もはや揶揄の色はなかった。乾いた冗談も。ただ、静かな肯定だけがあった。

「悪くない。……クソ馬鹿弟子」

十一は振り向かない。その瞳はサクラが消えた場所を見つめたままだ。

「勝てはしなかった。だが死なず、折れず、そして無謀な特攻の前に『思考』した。……ま、進歩って呼んでやってもいいかな」

長く、震えるような吐息が十一から漏れる。

「……うるせえよ、エロ師匠」

サカタの口角が、いつもの忌々しいニヤけ面に歪む。

「根性だけはあるようだけどね。だが、あんな一族の化け物相手に根性だけじゃ話にならない」

肩を掴む力が強まった。

「本気であの娘を奪い返すつもりなら——遊びは終わりだ。冒険者ごっこも、中途半端な覚悟も、全部捨てな」

十一がようやく顔を上げた。煤と汗に汚れ、充血した瞳には、しかし静かな火が灯っていた。

「分かってる」

サカタはその瞳を見て、一度だけ頷いた。

「よし。なら、次の段階フェーズだ。……いいか?」

彼の笑みが、鋭く危険に深まる。

「これまでの『地獄の特訓』が、バカンスに思えるくらいの地獄を見せてやるよ」

周囲の次元闘技場が崩壊を始める。紅蓮の雲は消え、見慣れた灰色の山嶺へと戻っていく。日は既に沈み、世界は冷たく暗い。

だが、十一の胸の内には、灯火が灯っていた。

それは以前のような、野蛮で無謀な火ではない。

もっと静かで、深く、忍耐強い火だ。

戦い(バトル)には敗れた。

だが、戦争ウォーズは——

まだ、始まったばかりだ。

つづく


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