第19話:心の足枷
ブランヒルドの街の上に月が高く昇り、屋根々に銀色の光を投げかけていた。夜の重苦しい沈黙の中で、二つの心が裏切りの重みに耐えていた。
エドガー・ローランの慎ましい自宅。室内には張り詰めた緊張感が漂っていた。
サクラは短刀の柄に軽く手をかけ、静かに立っている。目の前でエドガーは震え、その瞳は虚ろだった。目に見えない重圧に、その肩は深く落胆している。
「なぜだ、エドガー」サクラの声は低く、鋭かった。「なぜ、俺たちを裏切った?」
エドガーは床を見つめたまま、唇を震わせた。
「……選択肢なんて、なかったんだ」
「誰にだって選択肢はあるはずだわ」サクラが突き放す。
エドガーの顔に自嘲気味な笑みが浮かんだ。「妻の命を握られている時でも、同じことが言えるのか?」
サクラの胸が痛んだ。直感は正しかったのだ。
「……ミラを脅されたのね」
エドガーはようやく顔を上げ、罪悪感で潤んだ瞳で彼女を見た。
「仮面の男たちだ。『闇の貴族』に繋がっている連中だよ。奴らはすべてを知っていた。あんたたちのことも、任務のことも、公爵のことも……断れば、ミラは殺されていた」
彼の声が震える。
「罠にかけるために、必要最低限の情報だけを流した……だが、誓って言う。あんたたちを守ろうとはしたんだ」
サクラは短刀を下げた。「……話してくれればよかったのに」
「できなかった。一歩でも間違えれば、ミラは死んでいたんだ」エドガーが囁いた。
その時、外で衝撃音が響いた。扉が勢いよく開き、十一が飛び込んできた。その腕には、必死にしがみつくミラの姿があった。
「エドガー!」彼女が叫ぶ。
商人はよろめきながら前へ進み、妻を激しく抱きしめた。ミラは彼の胸で声を上げて泣いた。
「あなた……もう会えないかと……」
サクラの表情が安堵で和らいだが、十一の表情は険しいままだった。
「休んでる暇はねえぞ」彼は言った。「まだ終わっちゃいない」
数分後、彼らはテーブルを囲んだ。
「公爵に近い誰かが『闇の貴族』と通じているわ。エドガーを脅したのもそいつね」サクラが言う。
十一が頷いた。「そして今夜、公爵のパーティーで、そいつは姿を現すはずだ」
エドガーが顔を拭った。「……だが、どうやって暴き出すんだ?」
十一がテーブルを叩いた。「奴らは監視しているはずだ。死んだはずの俺たちが生きて現れれば、必ずパニックを起こす」
サクラが身を乗り出した。「尻尾を掴ませるわよ」
彼女はエドガーを強い眼差しで見据えた。「あんたも来るのよ」
「俺が?」エドガーが強張る。
「あんたが壊しかけたものを、あんた自身の手で完結させるの。自分の汚名を晴らしなさい」
公爵邸の豪華な舞踏会。クリスタルのシャンデリアが輝く中、貴族や商人が入り乱れ、笑い声が危険な底流を覆い隠していた。
深紅のドレスで仮面をつけたサクラが、計算された優雅さで群衆を抜ける。その隣には、黒の礼服を纏い、静かな守護神となった十一がいた。商人に扮したエドガーも、冷静さを装ってそこにいた。
「計画通りに行くぞ」十一が囁いた。
エドガーの目が細くなる。「……いたぞ、あいつだ」
ホールの向こう側、黒いマントを羽織った背の高い男が公爵に近づいていた。その所作はあまりにも抑制され、計画的だった。
「あいつよ」サクラの声が冷たく響く。
「俺を脅した野郎だ……間違いねえ」エドガーが顔を歪めた。
十一が顎を引いた。「行くぞ」
公爵がグラスを掲げ、ホールが静まり返った。
「今夜は、繁栄と平和を祝おうではないか!」
ベルベットのカーテンの裏で、十一とエドガーはマントの商人を追い詰めた。
男は振り返り、冷酷に微笑んだ。「いつ来るかと待っていたぞ」
「なぜだ!」エドガーの声が怒りで震える。
「命令だ。個人的な恨みはない」男は淡々と言った。
「誰の命令だ?」十一が問い詰める。
男が答える前に、舞踏会場から悲鳴が上がった。
シャンデリアが点滅し、深紅の鎧を着た兵士たちが乱入。呆然とする客たちを切り裂き始めた。
「罠よ! 奴ら、俺たちが来るのを待ってたんだわ!」サクラの叫びが無線に入る。
商人は笑い、短刀を抜いた。「貴様らは我々の手の平の上で踊っていたに過ぎん」
「……もう、踊るのは飽きたんだよ」十一が低く唸った。
彼は踏み込んだ。暗闇の中で刃が閃く。
男の突きは速かったが、十一はさらに速かった。剣で短刀を弾き飛ばし、冷たい鋼を男の喉元に突きつけた。
「命令を下したのは誰だ?」
商人の瞳に嘲笑が浮かぶ。
「すぐに分かるさ……もうすぐにな」
十一が反応する前に、男は奥歯に隠した小瓶を噛み砕いた。口から泡を吹き、男は地面に崩れ落ちた。息絶えるまで一瞬だった。
「自殺用の毒か……」十一が毒づいた。
インカムからサクラの声が届く。「ホールは制圧したわ。刺客はすべて無力化した」
十一が振り返ると、エドガーがミラの傍らに跪き、安堵の表情を浮かべていた。
終わったのだ。ひとまずは。
だが、真の敵は未だに手の届かない場所に潜んでいることを、十一は知っていた。
最終幕は、まだ始まったばかりだ。




