第1話:降り出した予期せぬ雨
東京の街に、ネオンをぼかすような霧雨が降り始めていた。
クラクション、点滅する看板、浮かれるカップルの笑い声。街はいつも通り騒がしいが、十一の意識はそのどれにも向いていない。隣を歩く紗代の、どこか硬い横顔だけを見つめていた。
「……黙りこくって、どうした?」十一が低く問いかける。「何かあったか?」
紗代は微笑んだが、目は笑っていない。「……ううん。デートで少し疲れちゃっただけ。大丈夫」
嘘だ、と十一は思った。だが問い詰める隙を与えず、夜の静寂を切り裂くような声が響いた。
「おいおい。見ろよ、いい雰囲気のカップル様じゃねえか」
路地裏から五人の男たちが這い出してきた。ジャケットの背には唸るライオンの紋章。この界隈のクズ共、『ライオン・ファング』だ。リーダー格の男が、眉間の傷跡を歪ませながら拳を鳴らす。
「幸せそうなツラした奴らは気に食わねえんだよ。……ちょうど金も欲しかったところだ」
一人が、獣のような声で飛びかかってきた。
十一は即座に紗代を背後に突き飛ばした。大振りのパンチを屈んでかわし、軸足を一気に回転。相手の脇腹に、重い一撃を叩き込む。別の男ががむしゃらに突っ込んできたが、十一はその手首を掴み、問答無用でアスファルトに叩きつけた。
だが、リーダーは素人ではなかった。正確かつ鋭い一撃。十一は上段を弾き、下段を捌くと、一気に懐へ潜り込んだ。一発で沈める――その覚悟で拳を打ち込む。
「私も、ただ見てるだけなんて嫌よ」
紗代が十一の背後にピタリとついた。
二人は背中合わせになり、まるで呼吸を合わせるように動く。十一の圧倒的なスピード。そして、紗代の無駄のない打撃。背後から掴みかかってきた男を、紗代は鋭い肘打ちで引き剥がし、そのまま腹部への蹴りでトドメを刺した。
十一が最後の一人をコンボで沈めた時、すべては終わった。
リーダーがふらつきながら最後の一振りを繰り出そうとしたが、十一は独楽のように回転し、その顎を真横から蹴り抜いた。
静寂。
激しさを増した雨が、路地裏に転がる男たちを冷たく濡らしていく。
「……大丈夫か?」肩で息をしながら、十一が聞いた。
紗代は、ようやく本物の笑みを浮かべた。「何発か、助けてあげたでしょ?」
「ああ。いいチームだな、俺たちは」
だが、その温かな空気は、この後一瞬で凍りつくことになる。
――その頃、別の場所では。
アニメポスターとフィギュア、未開封のゲーム箱が積まれた部屋。中村海人は、モニターの前で完全に「自分(の世界)」に没頭していた。
「キタキタキター! 太郎くんの告白シーンだぁぁ!」
お気に入りのキャラが愛を囁く瞬間、海人は枕を抱きしめて叫んだ。
その時だ。低い地鳴りのような音が響き、空気が不自然に歪んだ。
「ん……?」
頭上に現れたのは、脈動する光の渦。ポータルだ。
「マジかよ、何だこれ……うわああああぁぁぁ!」
抵抗する術もなく、海人は光の中に飲み込まれた。
その夜遅く
十一が玄関の鍵を開けた。「親父? 帰ったぞ」
返事はない。
靴を脱ぎ、リビングに入る。ゲーム機は電源が入ったままだ。画面には先ほどの告白シーンが虚しく流れているが、椅子は空っぽ。テーブルの上には、父のスマホと財布が置かれたままだった。
「親父……?」
家中を探しても、気配すらない。
背筋に冷たい戦慄が走る。あの「アニメ・ゲームガチ勢」の親父が、攻略のクライマックスでゲームを放り出すはずがない。
何かが、決定的に狂い始めていた。
異世界
海人は、冷たい石畳の上で目を覚ました。身に纏っているのは、傍らに置かれた衣服とポーチだけ。その服のデザインは、どう見てもファンタジーRPGのそれだった。
ゆっくりと起き上がる。「……夢じゃねえよな? ここ、ゲームの中か?」
彼は自分の状況を察し、興奮に震えた。「……嘘だろ、俺、異世界転生しちゃったのか!?」
慌てて服を装備し、期待を込めて叫んだ。「ステータス、オープン!」
目の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。
【レベル:1】
【獲得加護:火竜】
【スキル:火属性魔法・移動強化】
「火竜!? マジかよ、最初から激レア職じゃねえか! よっしゃぁぁ、勝ち組だ!」
彼は『スピード・ファイア』を発動させた。全身を駆け抜ける熱い衝撃。足元に炎が渦巻く。海人は笑い声を上げながら、果てしなく広がる平原へと駆け出した。
遠くに見えるのは、巨大な城壁都市。看板には『クライロード王国』とある。
門に着くと、衛兵が不愛想に言った。「身分証を」
「あー……持ってないです」
「なら仮のIDを発行する。金貨1枚だ」
ぼったくりだと分かっていたが、ポーチから金貨を取り出し、手渡す。
「物分かりがいいな」衛兵がカードに判を押した。「楽しめよ、新人さん」
海人は興奮を抑えきれず、王国へと足を踏み入れた。
(……どのゲームよりもヤバい。最高すぎるだろ)
ステータス画面のマップには、『冒険者ギルド』のマーカーが緑色に点灯している。
「GPS内蔵かよ!? 至れり尽くせりだな!」
高鳴る鼓動を抑え、マーカーを追う。
ギルドに入ると、明るい受付嬢が迎えてくれた。「ようこそ! 冒険者登録ですか?」
海人は満面の笑みで答えた。「はい! 海人です!」
受付嬢が微笑む。「承知いたしました。では、手続きを始めましょうか」




