第9話:偉大なる一歩
十一は深く息を吸い込み、草原へと足を踏み出した。ブーツが柔らかい土に沈み込む。
脳裏には、父の物語、あの奇妙な竜、そして理解しがたい「予言」が渦巻いていた。
自分は英雄じゃない。……まだ。
だが、立ち止まっていても殺されるだけだ。この世界で生き残り、父の真実を突き止めるには、進むしかない。
黄金色の午後の光が平原を照らし、風が草を揺らす。一瞬、平和にさえ感じられた。だがその直後、悲鳴が響き渡った。
遠くで緑色の小さな影が跳ね回っている。ゴブリンだ。少なくとも六匹。逃げ惑う農民たちを追い回し、耳を刺すような鳴き声を上げている。村人たちは農具を振り回して抵抗しているが、多勢に無勢だった。
十一の身体が強張る。剣も鎧も魔法もない。あるのは胸に宿る熱い鼓動と、受け継いだばかりの「遺産」だけだ。
彼は拳を握りしめ、一歩前に出た。
「……おい! そいつらから離れろ!」
ゴブリンたちが一斉に振り返る。濁った黄色い瞳が十一を射抜いた。一際大きな個体が短剣を掲げ、嘲笑うような声を上げて突っ込んでくる。
十一は身構えた。最初の一匹が棍棒を振り下ろす。間一髪で屈んでかわし、がむしゃらにパンチを繰り出した。手応えはあったが、ゴブリンは怯まない。
鋭い斬撃が袖を切り裂き、腕をかすめた。十一は顔をしかめ、よろめきながら後退する。
「……ゲームじゃねえんだ。集中しろ」
次の一匹が跳びかかってきた。本能が動く。十一は低く身を沈めると、地面の石を掴み、渾身の力で投げつけた。石はゴブリンの脳天を直撃し、怪物はよろめく。
十一はその隙を逃さずタックルし、馬乗りになって拳を叩き込んだ。何度も、何度も。拳が痛み、返り血が袖を汚すが、止まらない。怪物の動きが止まるまで。
残りのゴブリンたちが、唸り声を上げてたじろいだ。十一は落ちていた鍬をひったくり、荒い息を吐きながら構える。
武器を振るうたび、肋骨を砕く鈍い音が響く。農民の助けもあり、最後のゴブリンが地面に沈んだ時、平原に静寂が戻った。
「……助けてくれたのか」農民の一人が囁いた。
十一は首を振った。「……ただ、逃げなかっただけだ」
目の前に、水晶のように鋭い青いウィンドウが浮かび上がった。
【レベルアップ!】 > 【新スキル習得:体術 Lv.1】
十一は呆然と瞬きし、やがて唇を綻ばせた。「……本当にレベルが上がるのか」
農民の一人が、光る小さな結晶を差し出した。「魔石だ。低級だが価値はある。礼だ、持って行ってくれ」
十一はそれを両手で受け取った。「ありがとう。大事に使うよ」
それからの十一は、止まらなかった。クリロード王国への道中、遭遇するゴブリンを片っ端から仕留めていった。一戦ごとに動きは鋭くなり、新スキルの「体術」が打撃の精度を上げていく。挫けそうになるたび、父の顔を思い出し、拳を振り抜いた。
【レベルアップ!】 > 【現在レベル:5】 > 【スキル:体術 Lv.3】
王都クリロードの巨大な門が見える頃には、彼は五十匹以上のゴブリンを討伐していた。入城の列に並び、ようやく十一の番が来た。
「身分証(ID)は?」衛兵が手を差し出す。
「……持ってません」
「またか。いいか、仮IDの発行には金貨1枚かかるぞ」
十一は絶望した。金なんて持っていない。必死な思いで、先ほどの魔石を差し出した。
衛兵はそれを検分し、頷いた。「……いいだろう。等価交換だ」
手渡されたのは一枚の羊皮紙。「ギルドか役所で本登録しろよ。ようこそ、新人さん」
門をくぐると、そこは色彩と喧騒、そして生命の嵐だった。商人の呼び声、鍛冶屋の槌音。傷跡だらけの冒険者たちが笑い合っている。
街の奥、スラムの入り口付近まで歩いた時、十一の足が止まった。十歳ほどの少女が、大人の男三人に追い詰められていた。男たちは下品な笑い声を上げ、彼女の袋を奪おうとしている。
十一に迷いはなかった。拳を握り、踏み出す。
「おい……その子から手を離せ!」
悪党たちが驚いて振り返る。十一の視線は、一歩も引かなかった。
相手が誰かも、勝てるかどうかも分からない。だが、もう逃げるのは終わりだ。




