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思い出して想い出して

作者: P4rn0s

あの人に会いたいと思ったのは、いつぶりだろう。


洗いかけの皿にぬるま湯をかけながら、ふと、心の奥に沈んでいた記憶が水面に浮かび上がってきた。

少し背を丸めて笑う彼の横顔。寒い日、手をつないだときの温度。別れた理由はとうに忘れてしまったのに、なぜかそのぬくもりだけは、まだ手のひらの奥に残っている。


今頃、何をしているのだろう。

誰かと笑っているだろうか。

どこかで幸せになっているのだろうか。

そう思うたび、私は自分の中にだけ残っている彼の姿を、ひっそりと撫でるように思い返す。思い出すのは、いつも決まって、夕暮れだった。街の輪郭がぼやける時間、歩道橋の上で話していた言葉の端々、くだらない冗談に笑ったこと、コーラの自販機がつり銭を吐き出さなかったことさえ、まだ覚えている。


けれど、そんなふうに思い出すとき、私は彼自身に会いたいわけじゃない。

本当は、わかっている。


私が会いたくなるのは、あの頃の私と彼がいた時間そのものだ。

気づかないふりをしていたけれど、それは「彼」に会いたいのではなく、「私の記憶の中の彼」に会いたいのだ。

何も知らず、明日がずっと続くと信じていた私たち。未来を語って笑っていた私たち。

その「二人」に、もう一度触れてみたくなるだけ。


でも、時間はとても残酷で、ちゃんと流れていく。

どんなに記憶の中でくっきり残っていても、実際の彼はもう、私が知らない場所で、私が知らない人と、私が知らない話をして生きている。


今、偶然すれ違っても、私はきっと気づかない。

もし彼が声をかけてきたとしても、「ああ」と少し驚いて、「久しぶり」と微笑むだけ。

それ以上、何かを期待したり、求めたりすることなんてきっとできない。いや、しない。


それでいいのだと思う。

だって、私がときどき思い出すのは「彼」じゃない。

その人の声や姿や、何かの香りにくるまれた「あの頃」そのものなのだから。


窓の外では風が吹いていて、隣のベランダに干されたシャツが揺れている。

あの日、あの風の中で彼と並んで歩いたことを、私はもう、夢の中みたいにしか思い出せない。


けれど、それでもいい。


記憶は、私の中にだけある風景。

それをときどき、こうしてひとりで撫でて、そっと胸の奥に戻してやればいい。

今の私にとって、あの人は「誰か」ではなく、「私の一部」なのだから。


もう会わなくていい。

会わないままで、いい。


今の私は、あの頃の彼と、あの頃の私と、穏やかに距離を保ちながら生きていける。

それが、大人になるということなのかもしれない。


洗い終えた皿を伏せて、私は少しだけ笑った。

そして、また今日を生きる。

何事もなかったように、静かに。

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