9.闇の手先
闇 の 手 先
何故囚われているのだろうか。ここにいる各々はそれを考えていた。
何のため?理由が分からない。怪物に食われてしまった者も大勢いる。少人数ながら連れていかれた者もいる。では、我々は何のためにここにいるのだ。何故殺されもせず、只々、何日もここに囚われ生かされているのだ。
部屋は薄暗かった。〝独活〟と言う野菜があるが、その野菜の栽培所のように、自分の手の平が見えるかどうかの微かな光だけがさす、暗いジメジメした部屋だ。こんなところに何日もいたら、どんな健康な若者でも病気になってしまうだろう。
「クゥ、クゥクゥ」クゥの声だ。どこからか薄暗い中、小さく聞こえる。
「クゥ、クゥクゥ」これは白い通訳の声だ。という事は、
「貴方方はどこから来られたのかね?」名前の分らぬ声がした。
「ん、その声は、藤ノ宮?」「ん?どこかで、聞いた事のある声だな」
「私よ!わ、た、し!」「ん?わたし?はて?誰だ?」
「何言ってんのよ!公弐宮よ!上淨沼の公弐宮、忘れたの!」
何とも長閑な会話だ。街中で久々に会ったお年寄りの会話のようだ。
「公弐宮?はて、何で公弐宮がここにいるのだ?」この老人、一応、国津神である。
「貴方達を助けに、来、た、の、分る?」暗い中、公弐宮は藤ノ宮に近付いた。
公弐宮は腰を曲げ、地べたに座っている藤ノ宮の顔に自分の顔を近付けていった。そして息が臭いと言われるくらいに顔を近付けた時、
「おお~ぅ、公弐宮じゃないか!久し振りだのぅ、…何しとる?」
「何しとる、じゃないわよ、あんたこそ何でこんなところに囚われているのよ、呑気ねぇ、全く!」公弐宮が決して人の事を呑気と言えるはずがない。
この薄暗い部屋に現われた一行は、この二人の長閑な会話が続く中、クゥは会いたかったのか藤ノ宮の膝のところで寄り添っていた。そしてハルは暗い中、この部屋の隅々をチェックしている。ハルはどこにいても冷静だ。キコはほのぼのとした会話を、暗い中、公弐宮の後ろで笑顔で聞いていた。
結局、あの香木の木の虚の中で行った公弐宮の呪文が成功して、一行は無事に、いやこの部屋に来た事が無事かどうかはさて置き、とりあえず全員が移動を完了したわけだ。
公弐宮の呪文も満更ではなかったようだ。
「それがのう、我々も何故ここに囚われておるのか、理由が分からないのだよ」
この国津神の横を見ると、何人かが同じように地べたに座り込んでいた。顔を見るとその誰もが老人のようだ。
「藤ノ宮、ここに来るまでの話しを聞かせてくれ」ハルがチェックを終え寄ってきた。
「ん?今誰がわしを呼んだのだ?」ハルの事を知らない藤宮が声を掛けられ不思議顔だ。
「あぁ、あのね、この方…」公弐宮はハルを紹介した。
「ん?」藤ノ宮は公弐宮が示した方を見たが?マークの顔付きでいる。
もちろん公弐宮の横にいるのはハルだ。〝犬〟を前にしての当然の反応だろう。
「ハル殿は天系の犬なのよ、そう、天界から来た犬なのよ、分る、意味が?」
「ん?」藤ノ宮は暗い中をよ~く目を凝らし、顔を近づけ暫しハルを見た。
「おお~ぅ、何と、初めてお目に掛かる、これはこれは凛々しいお姿だ、うん」
藤ノ宮は少しは驚いたようだが国津神である故、さほど違和感無く公弐宮の言う〝天系〟という意味を直ぐに理解したのだろう、ハルを前に姿勢を正し語り出した。
「わしは以前に聞いた事があるのだが、どこか我々の世界に天系の村があるとな。そこには力の木があると言う。そういう言い伝えを、…そうなのか、貴方はそこから来なすったのかね?」藤ノ宮、更にハルに顔を寄せた。
藤ノ宮の言う言い伝えとはどこからの話なのか定かではないが、公弐宮が更に説明を加えた。
「藤ノ宮、ちょっとその村とは違うと思うけど、ハル殿は千世の集落から来た天系の犬なのよ」「千世には天系の子孫が住んでおります」横からキコが公弐宮の説明を補足した。
「ん?そうなのかね、お嬢さん」藤ノ宮は今度はキコに顔を近付けた。
この会話を聞いていたこの部屋にいる他の面々が、死んだような顔をしながら近寄ってきた。暗くてよく分からなかったが、部屋の奥にも何人かがいたようだ。彼らの中には一般人もいるため、ハルが言葉を話している事にはもちろん驚き、恐れているような顔付きで暫し近寄れずにいるようだ。しかし国津神同士の話しを聞きながら興味が出てきたのか、次第にハルを囲むように集まってきた。結局、藤ノ宮以外に十人ほどがこの部屋にいたようだ。
この部屋に突然現われた新参者の一行は、やがて目が慣れてきたのか、この部屋の住人達が集まってきたところで、自分達が何故ここにやってきたのか、今までの経緯を言って聞かせた。公弐宮とキコがこの部屋に来る前に伽羅都に行った事も伝えた。するとこの部屋の何人かは伽羅都の指導者であったようで、今はどうなっているのか、残った人々はどうしているのかを訊いてきた。
「あの集落はめちゃめちゃね、ひどいものだわぁ、骨の山もあったわよ」
「それでも数人が小さな家の地下の部屋に潜んでいて、私達に事の次第を話してくれたのです。でも集落全体でどのくらいの人が残っているのかは、分りませんでした」
指導者達は顔をしかめ、言葉が無かった。その後、藤ノ宮もハルが問うた、ここに囚われる事となった経緯を話した。
藤ノ宮の話しに由ると、やはり五年ほど前から死人が現われ、その後、影と空飛ぶ怪物によって伽羅都の集落が破壊されだし、次第に人々が食われ囚われ、集落を時々手助けしていた藤ノ宮の他、他の集落の国津神も囚われるようになったのだそうだ。
「我らは始め抵抗したのだよ。塀を作り死人が集落に入れなくようにして、更に空の怪物へも何とか抵抗したのだが、あの〝影〟には、わしらの力を奪う力があってな、結局はこうして囚われてしまったのだよ」藤ノ宮は力無く言って下を向いた。
そしてここに囚われてから、藤ノ宮が最後の力でクゥを逃した事が知られた後は、一切の呪文が効かなくなり、その後はただここに座っているしかなくなった、という事らしい。やはりクゥは藤ノ宮の呪文で逃れてきていたのだ。
「何のために囚われている?」ハルが再度訊いた。
「分らないのです、もう何日も経っているのですが」
藤ノ宮が話す途中で、横から他の集落の国津神と思われる者が言葉を入れた。
「あのぅ、それがですね、私の友達の国津神が二人ほど、私が囚われる以前にやはりここに囚われていたらしいのですが、それがまた別の国津神に聞いた話では…」
国津神の話の途中でハルが突然クイっと、鼻先を別の方へと向けた。
「ちょっと待て」声を鎮めさせた。
「何かが近寄ってくる」「影の仲間だと思います」藤ノ宮が小声で言った。
ハルは小声でキコと公弐宮を部屋の隅へ行くように告げ、藤ノ宮にクゥを隠すように指示した。自身は部屋の別の隅で蹲った。
この部屋は薄暗くて作りが良く分らないが、周りが全て石造りで窓は無い。石と石の組み方は荒く、その隙間からほんの少しの明かりが漏れている。扉も石で作られ蝶番は無く、部屋の外でゴロゴロと横に転がすようになっているのか、内側からは開けられない大石の扉だ。まるでエジプトのピラミッド内部の、盗掘者除けのような作りだ。凡そ生きている者を入れて置く場所とは到底思えない。その石の扉?と言えるのか、入り口には、真ん中より少し上に細い割れ目が一本横に入っている。それは多分監視用の割れ目なのだろう。そうとしか思えない割れ目だ。
「一日に一度だけ、何かが近寄ってくる気配がするのです」藤ノ宮が小声で言う。
ハルは伏せた状態で顔だけ上げて入り口を見ている。部屋の隅にいるキコと公弐宮の姿は、この暗さの中では先ず見える事は無いだろう。気配さえ悟られなければの話しだが。
暫くの間、部屋の中の〝住民〟は全員押し黙っていた。部屋の外の音は何もしない。もし音がしたとしても、この厚さの岩の部屋では何も聞こえないとは思うが、それでも裂け目や隙間から何かが聞こえるのだろうか。この時も、何も聞こえはしなかった。が、ハルや国津神達には何らかの気配は感じられていたのだ。
ハルがスッと立ち上がった。気配が去ったらしい。
「藤ノ宮、先に言っていた天系の村の話しをしてくれ」言いながらまた近寄ってきた。
ハルが声を出した事で、外の何かが去った事が分ったのか、キコと公弐宮が暗闇の中から揃って現われた。
「そうよね、その村の話って、どういう言い伝えなの?」公弐宮が藤ノ宮の前に座った。
キコもハルの近くに座り、クゥが藤ノ宮の膝元に出てきて、クゥと一鳴きした。藤ノ宮はクゥの背中を撫でながら話し始めた。他の国津神や伽羅都の指導者達も寄ってきた。
「その話は、わしの先祖の代から受け継がれてきた話なのだが、どこにその村があるのか誰も知らんようでの、何故ならその村は、普段は我らの世界では見えてはいないそうなのだよ」「見えない、村、…なの?」公弐宮が呟いた。
「私も、その村の話は聞いた事がありますな」横から他の集落の国津神が言った。
何でもこの国津神の話では、その昔、世が乱れてきた時に天界から投げ入れられた大きく長い柱が木となり、世の中を収める力が放たれた、という。そしてそれは乱れた世に蔓延っていた、化け物や穢れた者共をも駆逐するのだという事らしい。
その話は、今まで千世で婆様達天系の子孫に言い継がれてきた〝御印〟の話と、殆ど違い無い話と思われる。その話が藤ノ宮や他の集落の国津神達にも、言い伝えとして受け継がれていた事に、ハルとキコは自分達の旅の目的に自信を深めた。必ずその木は存在するのだと。もちろん今ここで、藤ノ宮の口から聞いた話とキコ達が捜し求めて旅に出た〝御印〟が、同一物なのかどうかは分からない。しかし、
―世の中を収めるために天から降ろされた物がある
こんな伝説的な話がそこら中にそんなにありもしない、という事も確かだろう。それが〝木〟であるかどうかは別として。
キコにとっては今まで婆様に聞いた話で、その存在すら定かでない〝御印〟を目的として旅立ってきたのは良いが、本当にそれはあるのか、言い伝えだけの話なのではないのか、という考えは自分自身で何度も振り払ってはきたものの、いつも頭の隅に残る染みのように消えないものであった。それが今ここで、それが同一の物なのかは分らないが極めて似た話が、一人ではない複数の者の話として言い継がれているという。この事実は、キコ達の探す〝御印〟が、確信を持ってそれは存在する、と言えるだけの力となる事であった。
「そうか、分った」「ハル、私達の旅は、間違っていなかったわね!その〝力の木〟が〝御印〟と思っても、良いわよね!」キコはハルと互いに見合わせ、力強く言った。
「恐らくな」ハルも確信とまでは言わずとも、ある程度の期待を込めた目でキコに視線を合わせた。
「あのぅ、ここに囚われている理由と思われる事なんですがぁ…」
キコとハルが高揚している中、その後ろから、何かの気配が見回りに来る前に囚われの理由を言い掛けた国津神が、いかにも申し訳なさそうに声を出した。
「そうそう、忘れていたけど、囚われている理由の事も気になるわね、その理由って、何なの?」公弐宮も高揚している二人の後ろから、ヌーっと顔を出した。
「そうね、話の途中だったわね」キコが相槌を打った。
「それがですね、私の友達の国津神はここに、少なくとも半年ほど囚われていたらしいのですが、どうやってその話しが伝わってきたのか分かりませんが、その話しに寄れば、その間何人もの他の地方の国津神やら村の長やら、次第にその数が増えていってですね、ある時纏めて外に連れ出され、魂を抜き取られたらしいのです」
「えっ!魂を?」キコと公弐宮が同時に息を呑んだ。
「えぇ、そうらしいのです。あの〝影〟は、ある程度の力のある者や高齢の者らを集めてきては魂を抜き取り、それらを食べているらしいのです。魂が影の餌なのです。そして集落の若い者らは、あの、空の怪物の餌となって食われているのです」
「…、…」皆の動きが止まった。
この名もない集落の国津神が言い終わると、誰も言葉を発しなかった。皆どこか薄暗い空間を見詰めているだけで、言葉にならなかった。ただでさえ薄暗くジメジメしたこの部屋の空気が、二段階くらい更に重くなった気がする。もちろんこんな部屋に閉じ込められるという事自体、これから良い事が起きるわけが無い事は誰もが分ってはいたが、長い間ここに囚われているというその本当の理由をいざ知ると、何も言えなくなった。
〝御印〟もしくは〝力の木〟そして見えない村の言い伝えの事は重要だ、嬉しい新事実だ。しかしそれより以前に、今のこの状況がそんな重要な事だったとは、藤ノ宮始め誰も思ってはいなかった様子だ。今のこの状況こそ差し迫った、何とかしなければならない状況であった。
〝御印〟探しの前に、ここで野垂れ死んでは、いや、食われ死んでは元も子もない。要するに人数がまだ少ないために、まだこうして囚われていたという事だ。餌として、それが囚われた理由だった。
そんな重苦しい雰囲気の中、ハルが鼻先を上げた。
「よし、ここを出よう!」ハルが突然言った。いつもハルは冷静だ。
「えっ!」公弐宮が驚いた。いや、他の者全員が驚いた。
いつもハルが行動をすれば、必ず物事は前進してきたのは、キコと公弐宮が一番よく分っているはずなのだが、この時、唐突にこの状況下でハルの言ったシンプルな言葉に、その二人でさえ些か驚いた様子でハルを見た。
「ハル、どうやってここから出るの?」キコが皆を代表して訊いた、と言って良いだろう。
「国津神はここでは呪文が効かないんだったな」鼻先を他の国津神の方に向けた。
「そうなんです、ここに入れられてから全く」「外に出られれば効くのか?」
ハルは藤ノ宮に向き直って訊いた。その時クゥが、クゥクゥクゥ、と鳴いた。
「そうか」「クゥは何て言ったの?」キコが訊いた。
「昼間、ここの上には怪物が、何匹も飛び回っているみたいだ」
クゥは言葉が分ったのか、先ず外の状況を伝えた。しかし外に出るという以前に、この状況でこの石の部屋から出る事などできるのだろうか。ハルは一言、出るぞ、とは言ったものの、他の国津神や指導者、今までハルと一緒にいたキコや公弐宮でさえも、この時点でできるのだろうか?と半信半疑の気持ちでいた。しかしそこは天系の犬、ハルである。何か目算があってのことなのだろう。
「外へ、出て見ないと、何ともぉ…」藤ノ宮、首を傾げている。
「公弐宮、お前も呪文が効かないのか?」鼻先を後ろへ向けた。
「分らないわ、ここに来てから使っていないから」「試してみろ」
「え、えぇ、わ、分かったわ」公弐宮は皆から少し離れた位置で、直立不動となった。
「モゴモゴモゴ…、示せよ、我、内なるものの…」
恐らく簡単な呪文なのだろう、一分くらい呪文を唱えると、それは直ぐに終わった。
「使えそうだけど、…でもねぇ」「えっ、もう終ったのですか? …で、何か?」
キコがいつもの呪文を掛ける時と違い、余りに早くて驚いたが、続きがあるようだ。
「ええ、ほら、あそこを見て」公弐宮は部屋の片隅を指さした。
公弐宮が指さした先、この薄暗い部屋の中の更に片隅に、小さな虫が転がっていた。言われなければ誰もそんな小さな虫の事など気が付かない。
「虫だわ」 キコが近寄り摘み上げた。「これが、何か?」
「その虫はね、本当はわらじ虫だったのよ、でも違うでしょ」
「本当ですね」確かに、キコが持つのは小さな甲虫だった。
この呪文に一体何の意味があるのか疑問だが、とりあえずは公弐宮の呪文に何か起きている様子だ。
「どうもねぇ、恐らくこの場所に何かの力が働いているのね、私が今掛けたのはその虫を大きな犬に変えようとしたのよぉ、これ、簡単な呪文なのよ」
「分った、来た時のように、呪文で皆を移動する事はできないという事だな」
「えぇ、そのようね」
「よし!」ハルは公弐宮の呪文の変化の意味を直ぐに悟ったようだ。
ハルはこの暗い部屋の中心に、部屋の住民全員を集めた。国津神が四人、地方の集落の長や指導者が三人、そして普通の住民が四名いた。そしてキコと公弐宮とクゥだ。
「我らは夜になってからここを出る」「えっ、夜、なの?」キコが驚いた。
キコが驚くのは当然の事だろう。夜はもちろん闇の世界、死人がうろついているのは分っている。それなのにわざわざ夜を待ってからここを出るとは、どういう意味なのだ。
「クゥの話では昼間は空の怪物が飛んでいるようだ。しかも何匹もいるみたいだ」「そうね、そうらしいわね」公弐宮が大きく頷く。
「それを俺と今の公弐宮で相手をするのは少し無理がある。だから死人はうろついてはいるが、夜ここを出て、死人を蹴散らしてある程度の場所まで行ってから、お前達国津神の呪文を使ってみる」
「そう、そうね、外なら私達も呪文が使えるかも知れないわね」
つまり、怪物相手よりも死人の方が数は多くても相手をし易い、という意味だ。
「分ったわ、やってみるしかないわね」公弐宮が言うと皆も頷いた。
この会話から数時間、暗い部屋でこの部屋の住民全員殆ど何も言わずに過ごした。そして石の壁の隙間から、僅かに差し込む光がその力を失っていき、部屋全体が暗闇となるとキコが小さな明かりを灯した。灯されたその明かりを中心に、誰の何の指示が無くともこの部屋の〝住民〟が自然と集まり出した。
「でも、先ずここからどうやって出るの?」キコが明かりをハルに向け訊いた。
ハルはキコの問に答える前に動き出し、石の入り口の前に歩み出ていた。
―フゥーゥー ハルはゆっくりと、太く低い声と共に気を吐き出した。
周りの者達は黙して、ジッとその様子を注視している。
―フウゥーゥー 低い声がずっと続いている。
―ズズ ん?皆が、何だろう?という顔で更に注視している。
―ズズ 「おおお…」皆が一斉に大きくはないが、声を上げた。
―ゴロ、ゴロ、ゴロ 入り口の扉としての大きな石が、僅かに動き始めた。
ハルは更に気を大きく吐き出した。
―フウーウーウー
―ゴロゴロゴロ、ズズ、ゴロゴロゴロ 石は動き出した。
そして人が一人通れるくらいになった時、ハルは気を吐くのを止め直ぐに動き出した。
「行くぞ!」皆はジッと見ている状態から、直ぐには動けなかった。
「はい!」キコが先ず反応した。
「そうね、みんな、行くわよ!」公弐宮が周りの他の者を促した。
「お、おぉ~ぅ」反応がかなり遅い。
他の国津神や指導者らが何とか腰を上げ動き出したが、その動きはかなり遅い。この部屋に長い間囚われ、毎日を地べたに座る日々を過ごしていた者達に突然、行くぞ!と言っても、そう簡単に身体は動かないのは仕方のない事だ。運動不足の極みだ。
「よっこらしょ、ほら、皆々行こうぞ」藤ノ宮が何とか歩き出した。
更には、言わずもがなここに囚われていたのは年寄りの集まりだ。キコや公弐宮、若い者達とは違う。そう直ぐには動き出せない。
「ほら、ほら、遅れると食われちまうぞ、ほら、動け!」
藤ノ宮の掛け声が冗談とも本気とも付かないが、それでも年寄り連中は、どっこらしょ、と言いながらも、狭い入り口を抜けて部屋の外に出た。クゥがしんがりだ。
出てみると石の通路が続いていた。中世ヨーロッパの地下墓地に続く穴倉の通路のように暗く、石の壁はジメジメとそこら中湿っぽい。部屋の中と同じく空気全体がかび臭く息苦しさを覚える。そんな中、部屋からゾロゾロ出てきた年寄り一行はどっちへ行くのか迷っている。キコ達の姿は既にそこには無かった。最初に出てきた藤ノ宮がキョロキョロしていると、「こっちよ!」キコが呼びにきた。付いて来るのが遅いので呼びにきたのだ。
キコは小さな明かりを手で分けると、その一つを藤ノ宮に手渡した。
「向こうに行くのよ!」と言ってキコは直ぐに駆けていった。
「おお~ぅ、向こうか」年寄り達は藤ノ宮を先頭に、あっちだあっちだと動き出した。
実際のところ、彼らがあの狭い部屋から出てきた時、通路にはもちろん通路の先にいっても、影どころかそこに動く物は何も無かった。彼らを監視している者など誰一人いない。先を行くキコやハルも、誰一人怪しい者に会わずに進んで行っている。
―〝影〟はどこだ、影の仲間はどこだ キコやハル、年寄り連中もそれを思った。
石の通路は意味も無く右へ左へと曲がりくねり、その途中何も無かった。彼らが囚われていた部屋以外に、他の部屋も無かった。これは何のための通路なのか、それはただ、あの狭い石の部屋のためだけの通路なのか、それならば何故こんなに長く、そしてクネクネと曲がりくねって作られているのか、意味が分らない。
「ねぇ、ハル、何かおかしくない?何でこんな通路しか無いんだろう」
「うん、確かにな、他に何も無いな」「本当に、そうよねぇ~、ハァ、ハァ」
先行組みの三人は駆け足に近い足を止めずに話した。公弐宮はもう息が上がっている。
「ん?キコ、見てみろ」「何?」突然足を止めたハルの前にキコが出た。
「ああぁ~!」「な、何、何、ハァ、ハァ、ハァ」一足遅れて公弐宮がきた。
「どうしたの?ハァ、ハァ」「公弐宮様ぁ、あれを見て下さいよ~」
キコが前方に小さな明かりを差し出して指をさした。薄暗い通路の先、公弐宮がその指先の延長上、暗がりの中を目を凝らしてみると、大きな石が見えている。
「ん?ん?あれってぇ~」「そうですよぉ、あれはさっきまで私達が入っていた部屋の入り口の石ですよぉ~」キコがうな垂れて振り向き、ガッカリ顔でハルを見た。
「そういう事だな」ハルはいつも冷静だ。
ハルの言葉から一拍間が空いた。
「えぇー!そうなのぉ~!何よそれぇ~」公弐宮、いつもながら反応が遅い。
薄暗く湿った通路がどこまでも続いている、と一行は感じていた。年寄り組みだ。
「どこまで続くんだ、この通路は?」地方の国津神が言った。
「さぁ~な、ハル殿達はまだ見えてこないかね」藤ノ宮の呑気な応えだ。
「クゥ、クゥ」年寄り組みの先頭を歩いていたクゥが鳴いた。
彼ら年寄り組みの先、数十mくらいに小さな明かりがほんのり見えている。クゥはその小さな明かりに反応したようだ。
「おお~ぅ、ハル殿達じゃないか」藤ノ宮が自分の手の小さな明かりを掲げた。
クゥは小さな身体をヒョコヒョコと上下させて、その明かり目指して駆け出した。
「皆々、彼らにやっと追い付いたようだよ、っふぅ~」「そうかね、っふぅ~」
年寄り組みは各々皆、それぞれに安堵感と思える息を漏らし、これでやっと外に出られるのだな、と思いを巡らしたのだろう、この先の状況を知らずに皆笑顔になっていた。
「あらっ、クゥ、やっと来たのね」キコがクゥを笑顔で迎え優しく頭を撫でた。
しかしその前でハルが何かを考えながら、鼻先を上に向けたまま彫刻のように微動だにせずに立っていた。公弐宮はハルの後ろで、ああでも無いこうでも無いと呟いているが、その実、何をしているというわけではない。クゥが来てから暫くして、藤ノ宮とその他の年寄り組みがやっとやってきた。藤ノ宮が声をかけた。
「どうなすったのかね、外への入り口はぁ…」と言いながら、自分達のもといた石の入り口を目にし、声が止まった。
先に来ていた三人が石の入り口の前で、何かを考えながら黙っている姿を見て、情況を察したようだ。そして何も言わずに明かりを掲げ、後ろの年寄り達に向け顔を横に振った。
「余り良い状況ではないようだのぉ」
後ろの者達はどれどれ、どうしたこうしたと前に詰め寄り、それぞれが石の入り口を見ると状況を把握し、各々がっかりとした顔で肩を落とし、また後ろに戻った。
「この通路は意味が無かった、という事なのかね?」藤ノ宮が誰とは無しに訊いた。
「そういう事になるようですね」キコが原稿棒読み状態の単調な言い方で応えた。
「それでは、この後はどうしますかの?」藤ノ宮はある意味冷静だ。
ハルが鼻先を下に向け、クルッと振り向き藤ノ宮の近くへ歩み寄ってきた。
「藤ノ宮、訊いていなかったが、お前達がここへ入れられた時、どうやって入れられたんだ?」出るのはその逆を考えると分かるはず、という意味だろう。
「ん、入れられた時?そう言えば、そうですのぅ…」考えながら後ろを見た。
「どうだったのか、皆は覚えているかい?」何とも自信の無い事を言う。
訊かれた他の国津神や指導者達は、何故だかそれぞれ首を捻っている。どういう事かここへ入れられた者達皆が、入れられた時の事を思い出せないでいる様子だ。藤ノ宮も首を捻りながらハルの方に向き直り、答えに窮している。
「それが、そのぅ、おかしな事に何故か思い出せないのですよ」
「その時の記憶を奪われたか、記憶に残らない方法で入れられたか、だな」
あくまでもハルは冷静にこの者達の今の状況を分析した。そしてまた鼻先を石の入り口の方へと向けると、何か言い方法を思い付いたのか、クゥを呼んだ。
「クゥ、クゥ、クゥ」クゥはキコの手を離れ、ハルの鼻先のところへきてクゥクゥ鳴いた。
何度かクゥとのやり取りをした後、ハルは向き直り皆に言った。
「よし、皆、部屋に戻ろう。そして少し待つんだ」言うと直ぐに自ら部屋に戻った。
キコを始め他の者が、一呼吸、というか、年寄り組みは二呼吸か三呼吸くらいしてから、えっ!とハルの言った事に反応した。キコと公弐宮はとにかくハルが言う事だから、と直ぐに部屋に戻った。年寄り組みは、えっ!という顔からお互い顔を見合わせ、今何て言ったのだ、という顔をしながら、キコ達が部屋に入るのを見てゆっくりと動き出した。
部屋に全員が戻ると藤ノ宮が年寄り代表で、部屋に戻った理由をハルに訊こうと口を開いた。他の者達はまた出る前と同じ位置で地べたに座り込んだ。
「ハル殿、少々お聞きしたいのですが…」と藤ノ宮が言うと同時にハルが口を開いた。
「良いか皆、今皆が見てきたようにこの通路は意味が無いようだ。でもどこかに外との通路があるはずだ。それを確かめる」
「それはどうやって?」キコは待っていたように直ぐ質問をした。ここにいる皆の疑問だ。
「昼間、この入り口の外で一度だけ、必ずあの何かの気配が来るんだったな?」
ハルが藤ノ宮を見て言った。「はい、来ます」
「この入り口を一旦閉め、クゥを、通路の奥へ置いておく」
ハルが鼻先を入り口の外へと向けた。見るとクゥだけが部屋の中へ入らずに、大きな石の横でチョコンとお座りしている。先にハルとクゥが犬語会話をしていた意味は、その意味だったのだ。クゥが皆の注目を集め、クゥ、と一鳴きした。
「そうか、あの何かの気配が出入りしているところをクゥが見届ける、というわけね」
公弐宮が皆を代表してハルの考えを言った。皆はウンウン、と土産物屋で売っている首振り人形ように、皆一斉に頷いた。藤ノ宮はクゥを見て声を掛けた。
「大丈夫かい、気を付けてな、皆のためだ」何とも哀愁漂う雰囲気だ。
クゥは犬語ではなくとも飼い主の言葉が分るのか、一言、クゥ、と鳴いた。そしてその後直ぐにハルが気を吐き、ゴロゴロとまた大きな石の入り口が閉まった。
その日の夜が過ぎ、石の壁の隙間から細い光が漏れ出した。昼間、いつ何時にその気配が来るのかは分らない。その気配はいつの間にか来て、ん、何かがきたのか?と思っている間に通り過ぎている。一人薄暗い通路で、いや通路は殆ど光が無いだろう、暗闇でクゥが大人しく座っていられるのだろうか。そんな心配はこの時、誰もしていなかった。この部屋にいる皆が皆、ひたすらその時を待った。そして石の壁の隙間の光が少しずつ移動して、時が刻々と過ぎていく。このまま一日が過ぎてしまうのではないか、皆がいつもよりあの気配が来るのが遅いのではないか、と思い出したその時だ。
「皆、静まれ!」ハルは何かの雑談をしていた者達を制した。
皆ハルの声に直ぐに静まった。そして、各々耳を石の入り口の方へと向けた。もちろんいつも音など何も聞こえないが、その気配が来る時には何故か耳を傾けてしまう。
「来たぞ!」ハルが小さく言った。皆は更に注意して聞き入っている。
何も音はしない、が、確かに何かがいるような、そんな気配がする。皆、耳は注意してはいるが顔は入り口を見ずに、ややわざとらしくどこか違うところを見ているようにしている。相手から見られているかどうかも分らない。しかし各々が頭の中でクゥは大丈夫なのか、とか、他の事を考えているのか、寝ている振りをしていたり小さな会話をわざとしたり、何気なくしているように装っている。一分が一時間にも思えた。ここに時計があれば秒針の動く音が、カチ、カチ、と一秒刻みで聞こえる事だろう。
「よし、もう良いぞ」伏せていたハルは立ち上がり、石の入り口へと向った。
ハルはやや暫く立ったまま石に向かって、更に部屋の外の気配を伺っている。そして徐に石の入り口に気を吐き出した。他の者は全員固唾を呑んでハルを、入り口を見ている。
―フオーフゥー、フオォー 石が少しずつ動き出した。
ほんの小さな隙間ができると、スゥっと小さな白い塊が抜けてきた。
「クゥ、クゥクゥ」クゥが入るや否や直ぐに、ハルに向けて鳴き出した。
「クゥ、クゥクゥ」ハルも応える。
藤ノ宮が犬語会話の最中、運動会でがんばった孫の姿を見ている爺さんのような目をして、横から労いの声を掛けた。
「おお~ぅ、何ともがんばったのぅ、長い時間、辛かったろう、のぅ」
しかしその声は、犬語会話をしている二人の横を通り過ぎて流れていった。まだクゥ、クゥ、と犬語会話は続いている。
「クゥ、クゥ、そうか、分った」ハルはクゥから話しを聞いた後、何かを考えている。
クゥは犬ながら、自分の役割を無事終えた事に安堵しているのか、話し終えると飼い主の膝元へとトコトコと戻り、行儀良くチョコンとお座りした。藤ノ宮は膝元へきたクゥの背中を、今度は優しく撫でて労った。そしてハルに質問をした。
「ハル殿、ハクは何と言っておりましたのかな?」ハク?藤ノ宮の元でのクゥの名前か。
「あら、そうなの、この子はハクと言うの?」キコが母親のような目でハクを見た。
「そうか、ハクと言うのか、うん、では皆、良いか、ハクが言うには…」
ハルは鼻先を皆に向け、この後の計画を説明した。
「外の石の通路はどこも開かなかったようだ」エッ!一同皆、同じ顔付きになった。
「その影の仲間らしきその者は、形が無く〝靄〟のようで、この入り口の直ぐ向かいの石の壁からフワッと現われて、暫くその場でモヤモヤとしていると、いつの間にかまた石の壁にスゥー、と消えていったそうだ」ハルはハクの顔を確認するように見た。
ハクは人間の言葉は分からなくても、ハルの言っている意味が分ったのか、クゥ、と一鳴きして応えた。
「そ、それじゃあ、私達のぉ…」「そうよね、出て行ける出口が、無いって事なわけ?」
キコと公弐宮が同じような疑問符を並べてハルを見た。
「影はやっぱり影で、影の仲間が靄とはなぁ」藤ノ宮が冗談のように呟いた。
「いや、何か、方法はあるはずだ」ハルはもちろん冷静で前向きだ。
ハルは考えながら入り口に足を向けると、また気を吐き出した。
―フオー、フオー 少しだけ開いていた入り口がゴロゴロと更に開き出した。
人が通れるだけ開いて大きな石は止まった。ハルはゆっくりとそこを通り抜け通路に出ると、そのまま部屋と反対側の石の壁の真ん前まで行き、ジッと睨み、止まったまま動かなくなった。殆ど大理石の彫刻のように動かない。何か方策を考えているのだろう。
―考えている ハルはどんな無理だと思う事柄も一度は考えてみる。今正にその状態でいるわけだ。部屋の中から他の全員が地べたに座り、押し黙ったまま目だけをハルに向けている。そこにいる全員が、ハルなら何か良いアイデアを引き出してくれる、と淡い期待を込めて見守っているのだろうか。その状態が暫く続いた。
ジメっとした空気が更に重く、地べたに向って落ちてきそうな気がする。この空間全体が寒天かシロップの液体で埋められたような感覚だ。そんな重たい空気の底、地べたに近いところでハクがクゥと一鳴きした。それが合図となったのかは分らないが、ハルが動き出した。
―フューーー、 と、今度は細く長い息をゆっくりと吐き出した。
―フューーー、 吐く息が石の壁に当る。
―フューーー、 ハルは暫くそれを続けた。
「ハルぅ」キコが立ち上がり、近付いていった。
ハルは息を吐き続けながら、石の壁にゆっくりと顔を近付けていった。
「ハル、その壁に、何かあるの?」キコがハルの直ぐ後ろまできた。
ハルはキコの問に答えず、更に息を壁に吹き掛け続けながら、そのまま顔を壁の本当に間直まで近付けていった。そしてキコが後ろで見守るその時、ハルは壁に鼻先を付けた、かと思うと、スゥー、と石の壁の中に鼻先が入り込んだ。
「えっ!」キコが息を呑んだ。
後ろにいる他の者達はキコとハルの後姿で、うす暗い中、そこで何が起きているのか良く分らないでいる。ただ、キコの、えっ!という息を呑んだ声に公弐宮が反応した。
「キコ、どうしたの?何かあったの?」そう言って立ち上がり、二人に近寄っていった。
公弐宮が二人の直ぐ後ろにきた時には、ハルはその身体を、既に壁の中に半分以上入れていた。焦げ茶色の壁から白い体の腰と後ろ足と尻尾が見えているだけだ。
「あら、何?これ、ハル殿?」公弐宮も目が点になっている。
そうしている間に、スゥー、と白い体の残りも全て壁の中へと消えていった。キコと公弐宮は言葉も無く立ち尽くしている。
「何かあったのかね?」今度は老人代表、藤ノ宮が二人の背中に向って訊いた。
「えぇ、あのですね、ハルが、消えたんです」キコが振り向かずに言った。
「ん?消えた?」それを聞いただけでは状況が良く分らない。
ボー然と立ち尽くす二人の前の壁はハルを飲み込んだ後、元の焦げ茶色の壁に戻っていた。そこにあるのは荒削りでゴツゴツとした、ただの石の壁だ。
公弐宮がやっと我に帰ったのか、一度顔をブルブルッ、と振るとゆっくりと顔を石の壁に近付けていった。壁に何か秘密があるのかを確かめるつもりなのか、とその時、近付けた公弐宮の顔のほんの間近に、いきなり壁からヌゥー、とハルの鼻先が現われた。
「うわっ!」思わず公弐宮は仰け反り、後ずさった。
「公弐宮、驚くな、こっちに通路がある」ハルはいつでも冷静だ。
ハルが壁から剥製の鹿のように顔だけ出し、鼻先をキコに向けた。
「キコ、皆をこの壁の前へ連れてきてくれ。この壁は通り抜けられる」
「うん、分ったわ」
キコは顔だけのハルと話す違和感をそこそこに、先ずは石の部屋へと戻った。そして、現状説明もできずに、とにかく来てくれと皆に言うと、腰の重い年寄り組みを引き連れ、また顔だけのハルの前へと戻ってきた。
「おお~、これはまたりっぱなお顔ですのぅ、ハッハッハッ」
藤ノ宮は皆より一歩近付き、ハルの鼻先の間近に顔を近付けた。
「藤ノ宮、俺の顔と一緒にお前の顔で、この壁を通り抜けてみろ」
と言うと、藤ノ宮の返事を待たずに、ハルはスゥー、と顔を壁の向こう側へと消していった。藤ノ宮、目が点になっている。
「ん?何ですと?」一息遅れで、今言われた事が何だったのか頭の中で反復している。
「通り、抜ける?…確か、そう言われたような」
そしてやっと理解できたのか、ゆっくりと鼻先ではなく額から壁に近付けていった。
―ス、スゥー 額が壁に吸い込まれていく。
「おお~ぅ」黙って成り行きを見守っていた後ろの全員が、揃って声を出した。
藤ノ宮の顔が壁に消え、身体が消え、そして右足左足と消え、いなくなった。と同時にヌゥー、とハルの顔が再び現われた。
「良いか皆、この壁は元々通路だったんだ。恐らくこの通路に影が何か呪文を掛けたのか、今は壁となって見え、触っても石に感じる。その呪文をある程度解いたから、ゆっくりとなら石と感じないで通り抜けられるようになった。一人ずつ通ってみてくれ」
そう言うとまた顔を壁の向こう側へと引っ込めた。
「そうなんだ、へぇー」キコが感心して頷き、後ろを振り返った。
「さぁ、皆、行こう!」と言うと、先ずは自らゆっくりと壁に近付いた。
「フン!」キコは息を止め目を瞑り額を壁に付けると、スゥー、と入っていった。
「じゃあ、私も行くわね」公弐宮が一歩前へ出た。
―スゥー キコのようにゆっくりと、顔、腕、胴体、足の順で通り抜けた。
それからは順次、残りの老人達が壁を通り抜けていった。そして最後にクゥ、ではなくハクが、地べたに近い場所からゆっくりと、小さな頭を壁に入れていった。
ハクが通り抜け、部屋にいた全員が壁の逆側に行くと、ハルが逆に壁の裏側からまた通路へと戻ってきた。そして開いたままとなっていた大きな石の入り口を、フォー、と気を吐き、閉めると再度壁に入り込み、そしてその壁も、フュー、と吐息を掛け元の通れない壁に戻した。
もちろんこれで、影の仲間が騙されるとも思ってはいなかったが、少なくとも長い事囚われていた藤ノ宮一行が、部屋からいなくなっているその事実を、気付かれるのが少しくらいは遅れるだろう、それくらいの意味である。
ハルが戻り、通路の石の壁の裏側に今全員が立っている。
「これは、…つ、通路と言えるのかね?」藤ノ宮が自分達が進む先を見て呟いた。
「確かに、ここを我等が行けますのかね?」地方の国津神がやはり残念な顔で呟いた。
彼らが言うようにこの時一行がいる、いわゆる〝通路〟には、大きな岩、小さな石、ゴツゴツした岩、形の危ないような石、様々な形の石や岩が行く手を遮っていた。凡そ〝通路〟というような綺麗な場所ではない事は確かだ。つい今し方、ここで落盤事故があったばかりの炭鉱の坑道だ、と言われても誰でも信じる事だろう。しかし彼らにとっては今、この〝通路〟を行くしか選択の余地は無かった。
「行くぞ!」一行が溜息を付いている間にも、ハルは気にせず気合を入れた。
「そうね、行くしかないわよね」「うん、そう、行くしかね、さぁ、皆、行こう!」
公弐宮とキコも気合を入れ、他の者を促し前へと進んだ。
犬型のハルとハクは、何事も無いようにトントン、ピョンピョン、と親子のように二人連れだって、岩と岩の間を次々に跳ねたり潜ったりしながらどんどん進んでいく。しかし当たり前と言えば当たり前だが、人型のキコや公弐宮その他の者達は、かなりな悪戦苦闘を余儀なくされる事は明白だ。特に老人組みにはかなりな作業だ。ある者は大きな岩を何とかよじ登り、ある者は岩と岩の合間を無理やり潜り抜け、そして年寄りには危険と思われる、岩と岩との間隔のある場所では、それこそ死ぬ気で、でき得る限りのジャンプをして、各人バラバラとなりながらも何とか先に進んでいった。
この〝通路〟は光が全く無かった。キコは小さな明かりを分けて、藤ノ宮にも持たして通路を進んだ。ハルやハクには光は必要ないだろう。しかし、ただでさえインディジョーンズの探検のような行程で、キコ達の持つほんの小さな明かりだけでは、各々行く手に何があるのか把握できず慎重にならざるを得ない。故に少し進むだけでも余計に時間が掛かってしまう。先の部屋の中で影の仲間が現われた時刻を考えると、もし一行がこの通路を無事に出られた時には、恐らくは夜となっているはずである。この通路の中も暗いが、外に出ても闇の世界、死人のうろつく世界であろう。それはハルが計画した死人を蹴散らして進み、国津神の術で空間移送をするという計画の中の状況に他ならない。
「ねぇハルぅー、この通路、出口はあるのかなぁ~」キコが先を行くハルに叫んだ。
ハルは声を出さずに一つの大きな岩の上で足を止め、振り返ると鼻先を一回大きく上下させた。ある、という意味だろう。ハルの足元でハクが頷くようにクゥクゥと鳴いている。犬型の二人は直ぐにピョンピョンと岩と岩の上を跳ねながら、更に先へと姿を消した。
「公弐宮様、でも、あの影とその仲間というのは、どういう奴等なんでしょうねぇ?」
「そうね、ハァ、ハァ、何か闇の魔術師、ハァ、ハァ、って感じじゃないかしらね、ハァ、ハァ、でも、早く、フゥ、この通路から、フゥ、出たいわね、フゥフゥ」
やはり人型の二人、特に公弐宮にはこの悪路は堪えるようだ。
その二人の先、かなり前に進んだハルとハク、そしてキコ達二人からかなり遅れている藤ノ宮達年寄り組み、その差がかなり開いた。年寄り組みはハァハァ言いながらも、時には岩の上で休み、時には岩の下で寄り掛かりしながら何とか進んではいるが、彼らの体力がどこまで続くのか不安が大きい。
暫くして悪戦苦闘している第二グループ、キコと公弐宮のところにハクがきた。
―クゥ、クゥ 犬語で何かを言いながら思いっきり尻尾を振っている。
「あぁ、ハク、迎えに来たの?」キコが足を止め、しゃがみ込んで腕を伸ばした。
「フゥフゥフゥ、ハクが来たって事は、フゥフゥ、何かがあるって事よね、…多分」
「あ、そうか、出口?」「…が見付かったぁ、フゥフゥ、かな、ハハ」
二人は期待の笑顔でハクを前に再度進み出した。
暫く行くと通路に岩は無くなり、その代わりというか、お決まりのパターンだが、通路自体が細く低くなってきた。犬型には問題無いが人型には中腰で歩かざるを得ず、少々難儀な体勢となる。
「やっと岩が無くなったというのに、ちょっと、しんどいわね」
「そう、ですねぇ、あ、でも、あれ」キコが中腰のまま前方を指さした。
二人の歩く前、ハクがトコトコ早足となり、その前方にハクを一回り大きくした白い犬が凜として立っている、が、少し様子がおかしい。
「ハルぅー、やっと出口なのね!」中腰の二人は漸く腰を伸ばせる状態となった。
腰を伸ばしながら歩き出てきた二人の前方に岩の壁は無く、暗闇の空間からはやや強い風が、二人の顔に正面からビュービューと吹いてくる。喜び勇んで少しの早足でハルの近くまできた二人、俄かに表情が変わった。
「えっ!」「あー、これはぁー」二人はハルの立つ位置にきて息を呑んだ。
ハルは息を呑む二人に何も応えず、鼻先を黒い空間に向け黙って何かを考えている。
―ビューゥー 闇夜の空間に風が舞う。
―ビューゥー 寒くは無いが、かなり強い風だ。
犬型二人と人型二人が、強い風に吹かれながら立ち尽くしている。四人とも何も語らず前方を見たまま、ただ黙している。ハルは鼻先を上に向けジッと何かを見詰めているのか、どこか地方の木彫りの土産物のようにピクリとも動かない。その足元でハクが伏せている。キコと公弐宮は、ハルが何かを考えている事を把握しているのだろう、やはり何も言わずにハルの後ろで立ったまま前方を見据えている。
今、彼らの目の前には何も無い。今まで彼らが苦労しながら通ってきた、岩ゴロゴロの通路は、ある位置でプツリと切れ無くなった。そして目の前には闇の空間が広がっている。
―ビューゥー 今、彼らの目の前には断崖絶壁が立ちはだかっている。
詰まりあの石の部屋、石の通路、石の壁を越えたところから始まるこの岩ゴロゴロ通路は、今彼らの目の前に立ちはだかる断崖絶壁に、その出口が通じていたのだ。
「じゃあ、何、壁から出てきた、あの影の仲間というか靄みたいな奴は、ここから入って来たっていうわけなの?」公弐宮が小さな声で、誰に言うとは無しに言った。
「そういう事になりますよね、…多分」キコが相槌の意味で応えた。
二人とも前を見たまま口だけ動かし無表情で、現状認識だけの意味で言った。
この通路の入り口?出口?は、目の前が暗闇のため、絶壁の高さがどのくらいなのかがよく分らない。足元の岩の地べたが目の前で途切れ、絶壁であるという事だけは分るが、そして風が下から湧き上がるように吹き付けてくる事からも、その先には地べたは無いという事だけは認識できるのだが、ただ、ここから先をどうすれば良いのか、それが問題だ。
ハルはそれを考えているのか、ここに来てから四足でしっかりと立ったままピクリとも動かず、鼻先を暗闇に向けている。上を見ると真っ暗な天の空間に、小さな光の粒々が見えるだけだ。ハルの白い艶やかな毛並みも、吹き上がる風に掻き乱され、羊のようになっている。痺れを切らしたのか、キコがハルを見た。
「ねぇハル、この後どうするの?」キコの言葉に公弐宮が続けた。
「そうよねぇ、これじゃあ、岩伝いに行けそうな箇所って言ったって、どこをどう伝って行けるかも、全く見えないしねぇ」二人の問に一言だけ、ハルの口が開いた。
「少し待ってくれ」ハルは何かを考えているのか、ジッと暗闇を見たままで言った。
暗闇の先、漆黒の黒の中にも色の違いが見える。水墨画のように濃淡があるようだ。が、このパターン、以前にもあった気がする。黒い中に更に真っ黒な物体が突然現われた。
―バタバタバタ、バタバタ
「呼んだかい?」「あぁ、呼んだ」ウタカラス参上。
キコと公弐宮が、あぁそうか、という顔をして二人顔を見合わせた。
「この絶壁、高いのか?」「かなりある。でも壁伝いに下りられる道はあるにはある」
「そうか、それを知りたかったのさ。ただ、年寄りが何人かいるんだ、行けそうか?」「そうだな、足元を間違えなければな」もちろんこの会話、この二人にしか分らない。
いつもそうだが、この二人の会話は簡潔だ。要点だけをお互い伝える。しかし、いつもハルはどのような方法で〝友達〟を呼んでいるのか、不思議は尽きない。
ハルは暫くの間、ウタカラスに壁伝いの行き方を教えてもらった。
「ありがとう」ハルが言う。「ただ一つ気になる事がある」カラスが言う。
「何かあったのか?」まだ話が続くようだ。
一方、ハルとカラスがこのやり取りをしている間、後ろの年寄り組みはどうしているのか、なかなか追いついてこない。キコと公弐宮がその事を思い出したようだ。
「公弐宮様、私ちょっと見てきます」「そうね、ちょっと遅いわよね」
キコはそう言うなり、直ぐに後ろの空間へと足を向けた。一方ハルはウタカラスの話の中で何事か心配な事がある様子で、大きく頷きながら話しを聞いている。
「そうか、分った、気を付ける」「じゃあ、また何かあったら呼んでくれ」
ウタカラスは用件を済ますと、直ぐにバタバタと漆黒の闇夜へ消えていった。黒い身体が闇に溶け込むのに一秒と掛からない。バサッバサッという、羽音だけが遠ざかっていく。
ハルはカラスが去った後、足元で伏せていたハクに何事かを囁いている。その間、公弐宮は後ろのキコ達が気になるようで、通路の中を覗き込んでいた。
その通路の奥へと戻って行ったキコが通路を進んで行くと、何やら呻き声が聞こえてきた。
―ぉぉぉ~、ぅぅぅ… 年寄り達のか細い声が、奥の方から弱弱しく聞こえている。
「藤ノ宮様ぁ~、どうかされましたかぁ~?」
キコは少し叫ぶように言って、奥に向かって手持ちの小さな明かりを前にかざした。
キコがもう一度、今度はもう少し大きな声で叫ぶと、声が少しの反響をしながら通路の奥へと響いていった。返事は無い。キコは更に奥へと進み、か細い声のする方を良く見ると、藤の宮に持たせた小さな明かりが、僅かに揺らいでいるのが見えた。老人組みが皆一カ所で寄り添っているようだ。
「おお~ぅ、キコ殿か、…あ、あれ、あれ!」藤ノ宮の声はするが姿が見えない。
「あれ、と言われても」キコは足場の悪い通路を、声の方へと更に進んだ。
キコが更に進んだ先で、やっと小さな明かりもはっきりと見えてきて、年寄り組みの姿も暗い中にもおぼろげに見えてきた。
「おお~ぅ、キコ殿キコ殿、あれじゃよ、あれ」藤ノ宮がどこかあらぬ方を指さしている。
キコはその指先の方を見ると、大して大きな空間ではないこの通路の岩の天井、おぼろげに見えている年寄り組みとキコの、そのちょうど中間地点ほどのところに、何やらモヤモヤした物がユラユラと動いている。それは時折、人型と言えるのかどうか分からないが長くなって人のように見えたり、短くなって犬の姿に見えたりもしている。
―靄?…あれが? キコの頭の中にはその言葉が浮かんだ。
キコが頭の中でそう思った瞬間、その靄はキコの方を振り返ったようにモヤモヤと動き、スーっと岩の天井伝いに移動し始めると、通路の出口の方へ、キコのいる直ぐ上を通って煙の塊のようになって、流れるようにその場から移動していった。キコは暗闇の中で目をしっかり開き、そのモヤモヤした物の動きを追った。
「公弐宮様ぁ~、聞こえますかぁ!そちらへ靄が行きましたぁ~!」
キコの声は通路のあちこちに反響して、次第にか細くはなっていったが、通路の出口へと何とか届いた。覗き込んでいた公弐宮の耳が、靄が来るより先にその声を捉えた。
―ん?キコの声ね、…靄? 公弐宮の頭の中で直ぐには〝靄〟の意味が理解されなかった。
「ハル殿、キコが、靄だか何だかが、来ると言っているんだけれど…」
ハルが鼻先を通路側へと向けた時、公弐宮の直ぐ上の岩の天井伝いに、今言っていた靄が流れる雲のように現われた。ハルは直ぐに反応した。
―フファッ! ハルは気を吐いたのか靄に当たり、塊が四方へ分散した。
文字通りとは言い難いが、霧散した靄は一瞬消えたのかと思ったが、またモヤァーと集まり出して、ハルの立っている位置の斜め前方、絶壁の向こう側の漆黒の空間で再度塊となると、そのまま暗闇の中へと何一つの音もせずに、スーっと消えていった。
「あいつが影の仲間の靄だ、俺達の事が伝わったな」ハルは冷静に言った。
「えっ!今のが?あの部屋を監視していた、靄なの?」
公弐宮、いつもながら気付くのが遅い。
「公弐宮、キコに早く戻るように伝えてくれ、俺達の事、影に知らされたぞ」
「えぇそうね、分ったわ」
公弐宮はやっと靄がいた事情を理解すると、直ぐに振り返り叫んだ。
「キコ!キコぉ!影に私達の事、知らされたみたいだわぁ!早く出ておいでぇ!」
公弐宮の声がか細くなって、キコ達のいる通路の奥へやっと届いた。
―影?そうかぁ 「分りましたぁー!」
キコは出口に向けて叫ぶなり、直ぐに振り向いた。
「藤ノ宮様、行きましょう!今の靄が、私達の事が影に知らされたみたいです」
藤ノ宮達老人組みは、何もしない靄に怯えて岩場の片隅で縮こまっていたが、キコの言葉に状況を理解したようだ。ぉぉ~、とそれぞれ小さな声を上げると、動きは遅いが各々何とか立ち上がり、ゆっくりとだが動き出した。
「さぁ皆々、行こうぞ、ハル殿やキコ殿が、きっと何とかして下さる」
藤ノ宮の持つ小さな明かりを先頭に、ゾロゾロと、いやノロノロと老人組みが動き出した。キコは老人組みがやっと動き出したのを確認すると、自身は先に出口へと急いだ。その出口では、ハルと公弐宮が通路の出口から見て右斜め下、絶壁の岩の壁沿いを見ていた。
その背後にキコが通路から出てきた。
「今、藤ノ宮様達がやっと出てくるわ」ハルの直ぐ後ろへと足を進めた。
キコが近寄ってきた時、ちょうど絶壁の壁の下の方から、ハクがトントントンと狭い岩場を登ってきたところだった。キコが不思議そうに見ている。
「ハクは、どうしたの?」「ハクに先に確認してもらったのさ」ハルが言う。
「確認?」「そうなの、カラスに教えてもらった壁際を下りる道があるのよ」
数分前にカラスが来た後に、ハルが何事かをハクに伝えていたのはこの事だったようだ。身体の小さなハクであれば、この狭い壁際の道でも楽に通る事ができる。しかしハク以外の者達は大丈夫なのだろうか。ハルは問題無いとしても、老人組みは行けるのだろうか、心配は残るがその点はカラスが〝足元を踏み間違えなければ〟と言っていた。老人達に暗闇の中、それが可能かどうかの問題だ。
それはともかく今は時間が無い。ハル達一行の行動は既に影に知らされているはずだ。この場で考えている余裕は無さそうだ。ハルはその事を充分承知で、先ずはハクに状況の確認だけをさせたわけだ。と言っている間に漸く老人組みが通路から出てきた。
「おお~、やっとでる事ができたぞ~!」藤ノ宮が後ろの老人組みに言った。
老人達は狭くて通ってくるのがやっとの岩の通路を出た事で、既に自由が得られたと思っているらしく、互いに肩を叩きあいながら喜んでいる。辺りが暗いために、目の前の絶壁がまだ視界に入っていないようだ。ハルが鼻先を彼らに向けた。
「藤ノ宮、俺達の行動が影に知らされた、直ぐにここから下りるぞ」
「おぉ~、そうですかぁ、…ん?下りる?」藤ノ宮、状況が理解できないでいる。
〝影に知らされた〟という言葉は既に頭に入っていたが〝下りる〟とは、何の意味だ、と藤ノ宮は?マークの顔をしている。それに構わず、続けざまにハルが言う。
「先ずはハクが先頭で下りていくから、その後を藤ノ宮と何人か下りていってくれ、その後を俺と更に何人かが下りていく。最後をキコと公弐宮が下りてきてくれ」
ハルが行動計画を言うや否やハクが壁伝いに下り出した。藤ノ宮は今ハルに言われた事が未だに頭の中で理解されていない様子で、ボーっとハクの動きを見ていた。
「藤ノ宮!続くんだ、急げ!」ハルの大きな声が、周囲の岩の壁に反響し響き渡った。
藤ノ宮は何が何だか分からないまま、ハルの声に身体を何とか反応させた。その後、ハルが続け!とボーっとしている後ろの何人かをけし掛け、先に行かせた。そしてキコと公弐宮が残りの老人組みを絶壁の端に誘導し、ハルの組が壁伝いにゆっくりと足を進めていった。他の老人達も何が何だか分からないまま、誘導されるがままに絶壁の壁際の細い道を下り出した。
―ヒューウーウー 寒くはないが、かなりの強風だ。
―ヒュウーウー、ヒューウーウー
「おおぉ~ぅ」 ハクの後に続く老人組みが岩の壁に張り付いている。
「皆、大丈夫かね?」藤ノ宮も一時足を止め、壁に身体をピッタリと付け後ろを向いた。
ハクには何でもないこの細い通路も、人型の者達にはかなり辛い通路だ。ましてや老人組みが歩くにはかなり辛い作業だろう。しかも直ぐ横は底の見えない絶壁、そこから強風が吹き上がっているとくれば足が竦んでも仕方がない。老人組みも何が何だか分からず足を進めたが、この壁に張り付いてから漸く状況が飲み込めてきたらしい。
「藤ノ宮、何とかがんばるんだ。ウタの話ではこの道に障害は無い。気を付けて歩けば下まで下りられる。がんばれ!」ハルが少し後ろから強い声で鼓舞した。
「おぉ~ぅ、今やっと意味が分りました。皆、がんばろうぞ、ぅぅ~」
ハルの声に応えたは良いが、藤ノ宮自身もかなり怯えながらの励ましだ。難儀をしているのは老人組みだけではない。一行の最後尾、キコと公弐宮もかなり難儀をしていた。
「あっ、危ない!っふ~ぅ、もう少しで落ちるところだったわよ」
「大丈夫ですか、公弐宮様、風が強いので気を付けて下さいよ!」
老人組み一行から少し遅れて、二人は二人で気遣いながら何とか足を進めていた。
それから暫く、どれくらいの時間が経過したのか靄が暗闇に消え、恐らくは影に一行の事が知らされたはずであるが、何一つ異変は起きなかった。その間も一行は強風に悩まされ、細い道に細心の気を使い壁に張り付き、何とか歩を進めていた。しばらく進む内、時間の経過が月を呼んだのか、この強風が雲を払ったのか、見事な満月が姿を現した。
黄金色の真円に近い、ゴールドディスクと言って良い完璧な姿の満月が、真っ暗な空間を全く別の世界へと変化させていく。手の感触だけだった絶壁の岩の壁が、一人一人の視界に薄明るく映し出された。ゴツゴツとした岩は黒ではなく、やや赤茶色をしている岩だった。その岩が見上げるとどこまで続いているのか、先ほどまでいた場所が遥かかなたの上遠くにあった事が、この時点でやっと認識できた。一行の足元も足先の感触だけではなく、一つ一つの石ころが分るくらいにクッキリと照らし出され、今までとは比べようも無いほどに歩き易くなった。
しかしながら細い岩の道は変らない、まだ先がある。相変わらずの強風には気を使わざるを得ないが、ただ、この明るさは一行にとってはかなり有り難かった。
「おおー、綺麗な月だのぅ~」藤ノ宮が足を止めると、老人組みが揃って足を止めた。
「おぉ~ぅ」一同揃って、壁に張り付いたまま上を見上げている。
ハクとハルも一時の休息と思い、老人組みに合わせて足を止めた。確かにみごとな満月だ。一行の中に変身する者がいるとしたら、ここで月を見たまま、大きな声でワオーンと叫んでオオカミにでもなる事だろう。しかしこの時はオオカミではなく、別の動く者が近くに来ていた。
―ゴソゴソゴソ、ぅぅぅぅ~、カサカサカサ、ザザザザ~、ぅぅぅぅぅ~
満月の明かりが照らす一行の下方から、何やら奇妙な音が聞こえてくる。ハルがその音に反応した。鼻先を下に向けた。
「皆、聞こえるか、奴らがいるぞ」ハルの言う奴らとは、
「ん?奴ら?」藤ノ宮が耳を澄ました。「もう下に着くのね」キコが後ろから言った。
「死人だわね」公弐宮でさえ直ぐに気が付いた。
まだまだ先が続くと思っていた一行は、既に絶壁のほぼ下辺まできていたようだ。その絶壁の下には無数の死人が、枯葉の下の虫けらのように蠢いていた。完璧な満月に照らし出されたその蠢く姿は、満月の美しさの対極にあると言ってよいほど、見事におぞましい光景だ。死人は何が目的かも分からず、どこに行くとは無しに、只々、草むらの中を徘徊し唸り、そして蠢いていた。
ハル達一行は足を止めたまま、月明かりに照らされた不気味な奴らを、眺めるとは無しに暫くの間眺めていた。
一行が足を止めているのは、地面から凡そ十mくらいの高さだろうか、もう直ぐ地面に辿り着くという高さだ。一行が蠢く死人を黙して眺めている間、ハルはその位置から月明かりの中で見える限りの周辺を見渡している。その中何百mか先に大きな一つの岩が見えている。何故かは分らないが死人はその岩の上には登ってはいないようだ。恐らく登れないのだ、とハルは推測した。
その大岩は遠目で見て人が何人か登っても、まだスペースがありそうな大きな岩だ。岩山と言って良いだろう。
「あそこへ行こう」ハルは鼻先をその岩に向けた。
「えっ!」「ん?」「あ、あそこ、…ど、どこ?」
皆が一斉に、ハルの鼻先の向く延長線上へと視線を向けた。月明かりに照らされた岩が茶褐色に光っていた。
「皆、もう少し下の位置で待っていてくれ。そして俺が呼んだ時に直ぐに降りてくるんだ。公弐宮、一番後ろにいて近寄る死人を追い払え。今でもそれくらいの力は出るだろう」
皆はハルの言葉を耳に入れると黙って頷いた。
「わ、分ったわ、…やってみるわ」公弐宮だけ応えた。
ハルは老人達の足元をスルスルっと抜け、一行の最前列へと進んだ。そしてハクに何事かクゥクゥと告げると、タタタタタっと走り出し、ポンッと一っ飛びして、死人の蠢く中へ躊躇無く自ら入り込んでいった。
「おお~ぅ!」皆が揃って唸った。キコが後ろから叫んだ。
「皆、さぁ、もう少し下まで行こう!ハルの合図で直ぐ動くのよ!」
キコの掛け声で老人組みも直ぐに動き出した。皆が皆、この状況をしっかりと理解しているようだ。動きが悪いなりに各自それぞれが、どう行動しなければならないかを理解していた。そして一行は地面から三mほどのところで待機していた。
この細い絶壁の道では、肩を揺らしながら動く死人の不安定な歩き方では、一歩も登って来る事はできないらしい。故に今まで地面に死人がいたとしても、この細道に登っては来なかったのだ。そして程なくして一行の下、何十mかの範囲で次々と死人がポーンと飛ばされ、シューと消滅され、バタバタとなぎ倒されていくのが見えた。
「良いぞ、今だ!降りろ!」どこからかハルの声がした。
月明かりがあるとは言え、薄暗い背丈の長い草むらにハルの姿は見えなかった。ハルの声だけが絶壁に跳ね返り、少しの木霊となって流れていった。
「さぁ、今よ、皆降りて!」キコが真っ先に反応した。
その声に老人組みが動き出した。ハクは小さな身体をポンポンとゴムボールのように弾ませ、直ぐに草むらへと消えた。その後を藤ノ宮を先頭に、次々と老人組みが草むらに足を踏み入れていった。さすがに人型の者達の姿は胸から上が草の上に出ている。そして直ぐに一列となってゾロゾロと、ハルの言っていた月明かりに照らされている大きな岩へと向った。
彼らは上から見ると、一匹の大きなムカデのように連なって進んでいった。その大きなムカデの先頭、藤ノ宮の更に前の草がモゴモゴと動いている。姿の見えていないハクが藤ノ宮を先導しているようだ。ハルに告げられたのはその事だった。草むらで足元が見えない故の先導役なのだろう。
ムカデが進む間、ハルはどこにいるのかは分らない。見えない。しかしムカデの周辺でひしめきあう死人が、次々とポーンと飛ばされシューと消滅したり、バタバタと倒されたりが続いている。その現象で姿こそ見えないが、そこにハルがいるのだと分る。そしてムカデの最後尾、公弐宮も何とか力の弱まっている呪文を使っているのか、ゾロゾロと死人が近寄ってくるとバタバタと倒れていくのが見える。しかしハルのように、豪快に飛ばしたり消滅させたりはできないようだ。
そんな死闘?見方によっては一方的な力の行使とも思えるが、草むらの中、綺麗な満月の下で繰り広げられているこの光景を、違う場所から眺めている者がいた。
その正体は誰も知らない。見た者が単に見たままの姿を言うだけで、しかしその力は明らかで、力を削がれる者もあれば囚われ動けなくなる者もいる。いつの間にか現われ、ユラーと移動してどこかへ消える。〝影〟は、光がある故〝影〟ができる。つまりハル達一行が絶壁を下りてくる際、暫くは完璧な満月は姿を現さなかった。下辺に近づいた時にやっとその姿を現し、黄金の光を周辺に放ち始めたのだ。そこに〝影〟ができる。このタイミングで現れたという事は、そういう事なのだろうか。しかし本当の事は誰も分らない。
その〝影〟が絶壁の上、ハル達がいた通路の出口の横穴より更に上の岩山の山頂から、この薄暗さで何が見えるのだ、と思える位置から、昼間でもほぼ点か糸のような線にしか見えないハル達一行を、しっかりと見定めていた。その影と共に必ず現われるのが空を飛ぶ怪物だ。真っ黒な身体で辺りを覆い尽すほどに大きく、そいつが現われると日食が始まったのか、と思えるほどにその周辺が暗くなる。この時も影のいる岩の山頂の更に上空、真っ暗な空間を一匹ではなく、何匹もの怪物が指図を待っているのか、グルグルと旋回していた。ウタカラスがハルに囁いていた〝気になる事〟が、この時現実に起きていた。
草むらの中の一行は次第に足が遅くなってきていた。やはり老人組みに取っては吹き上げる強風の中、絶壁の細道を恐怖で慄きながら下り、その後、足場の悪い草むらの中を歩き続ける事が相当に困難なのか、皆が皆、音を上げそうになっているのを必死で堪えて歩いている様子だ。
「もう少しだ!がんばれ!」ハルが死人を跳ね飛ばしながら励ました。
「おぉ~、もう少しだ、ふぅ、ふぅ、皆々、がんばろうぞぉ!」
自身もかなり疲れ切っているのか、藤ノ宮が弱弱しい声で他の老人組みに声を掛けた。
この時、彼らは遥か上空から見下ろされているとは、露ほどにも思ってはいないだろう。ハルでさえ、ウタカラスにその事は〝気になる事〟と告げられていたが、この時はそれどころではなく、死人の蠢く中で気を吐き続け、上空へと注意を向ける余裕など無く、只々、老人達一行を導くために必死で草むらの中、目の前に見えてきた大岩目指して足を進めるだけだった。
しかし影は何を待っているのだろうか。一行を襲うならいつでもできるはずだ。何もせず全く動かず、ただジッとハル達を見下ろしている。
その後ハル達一行は、何とか大岩の直ぐ側に辿り着いた。
岩に着くと同時に、ハルが一気に岩の周辺の蠢く死人どもを蹴散らし、その間キコと公弐宮は、他の一人一人を大岩の上に登らせた。皆が皆、岩の上に登るとヘナヘナと力無く腰を下ろし、それぞれが言葉も無く蹲った。キコと公弐宮も列の最後尾から岩に登ると、体力的には老人組みに比べまだある二人も、この時はさすがに疲れた表情で腰を下ろした。その岩の下で一人、まだハルが気を吐いていた。
「ハル~、皆登ったわぁ!ハルも早く登ってきてぇ!」キコは声を絞り出した。
「あらっ?」公弐宮が、一応メンバーが揃っているか確認をしていたが、
「どうかしましたか?」キコが訊く。
「ハクが、いないわよねぇ」公弐宮が岩の上を見回している。
その言葉に藤ノ宮が顔を上げ、同じく辺りを見回した。他の者達はその声すら耳に入らないのだろう、疲れ切って誰も反応すらしていない。
「ぉぉ~、ハクぅ、ハクぅ」藤ノ宮は疲れ切っているのか、身体を起したは良いが立ち上がれず、顔だけ回しながら声を出すのがやっとの状態だ。
確かに、岩の上にハクはいなかった。キコが下を見ながら言った。
「ハル!ハクがいないわぁ!その辺にいないかしらぁ!」
ある程度の範囲で死人を蹴散らし、やっと岩に近付いてきていたハルは、キコの声に足を止め、登る前に再度岩の周辺を歩き回ってみた。すると岩の下、地面と岩の接する一つの窪んだ場所で、ハクが縮こまった姿でチョコンと座っていた。
「クゥ、クゥクゥ、クゥ」「クゥ、クゥクゥ、クゥ」何事か、犬語会話だ。
ハルはハクが何故ここにいるのか訊くと、ハクが小さな鼻先を上に向け鳴いた。その鳴き声にハルも岩の上空を見上げた。すると真っ暗な夜空の遥か上、黒の中の黒というような真っ黒な色合いの、何個かの飛び回る物体が認識できた。それは一つや二つではない、何個もの〝黒〟が、グルグルと廻っている。
―まずいな ハルは直ぐにキコに告げた。
「キコ!直ぐに皆を岩から降ろしてくれ!真上に怪物が飛んできている!」
「えぇっ!」疲れながらもキコは真っ暗な夜空を見上げ、直ぐに何事かを理解した。
他の者達はこの時も、ハルとキコのやり取りが耳に入ってはいなかった。恐らく、これからの計画か何かを話しているのだろう、くらいの思いで単に音としてしか聞いていなかった。公弐宮もその一人だ。
キコは疲れた気持ちなど置き去り、自分達は直ぐに切迫した状況下にあると理解した。
「皆!起き上がってぇ!直ぐにここから降りるのよ!」キコは仁王立ちしていた。
「えっ!どうしたの!」公弐宮だけ直ぐに反応した。
「みんなぁ!早く!」キコは公弐宮の問に応えず、先ずは皆を動かす事に集中した。
「真上に怪物が飛んで来ているのよ!早く降りてぇ!」
キコは皆が殆ど動かない事に焦りを感じた。公弐宮を見た。
「公弐宮様、真上に怪物が来ているんです。早く皆を下に降ろさなければ!」
強い視線でそう言われた公弐宮は、やっと気が付き上を見た。
「あぁあぁあぁー!」その大きな声で、老人組みが皆、揃って上を見上げた。
「おおぉぉ~!」先ずは藤ノ宮の目が開いた。
藤ノ宮の声で老人組みが揃って、おぉぉ~、と声を上げやっと皆腰を上げた。
「さぁー、皆!急ぐのよ!」キコと公弐宮は一人一人手伝い、腰を支え腕を抱え、とにかく下に向って皆を誘導した。とその時、
―ザザザザー!ビューウー! 怪物が岩の直ぐ上を横切っていった。
キコと公弐宮以外の老人組みは間一髪、既に岩の側面にいたので、さらわれずに済んだ。岩の上にいたキコと公弐宮も、その近寄ってきた音に気付き、直ぐに身体を岩に伏せていたので無事でいられた、が、次の襲来は直ぐにきた。
今度は複数で岩の直ぐ横、側面にも飛んできた。
―ザザザザー、ビュウビュウビュウー、ガアーッ!
怪物が飛んでいった後には、物凄い風の圧力と埃や砂が舞い、目を開けていられなかった。キコ達は何とか岩の窪みや陰に張り付き、その大きな鉤爪に掛からずに済んだが、
―ああぁ~ 誰だか分らない、老人の内の一人が大きな鉤爪にさらわれた。
―おおぉ~ 他の者達がうろたえた。
「早く!早く降りて!」キコが叫んだ。
満を持していたのか、この大岩に一行が登る事を見越してそれを待っていたのか、もちろんこの怪物達は〝影〟の指示で襲ってきたのだろう。空を飛ぶとはいえ、その巨体は一匹と言えば良いのか一頭なのか一羽なのか、むしろ一機と言いたいくらいの大きな姿は、この大岩を覆い隠すに余りある大きさで、それも何回も襲来した。
キコや老人組みは岩の下へと降りた。降りてハルとハクのいる窪みへと移動し、さらわれた一人以外は、何とか飛行物体から逃れる事はできた。その一人は地方の長だった。他の助かった者皆が、岩の上を見ながら悲しむ間も無く恐れ慄いている。
岩の横で待機していたハルが公弐宮に鼻先を向けた。
「公弐宮、呪文を使ってみろ」そうだ、ハルの言う通り、そのためにここまできたのだ。
「あっ、そうよね、待ってよ」公弐宮は襲撃に慄いていたが、我に帰った。
公弐宮は二、三歩、皆から離れると、別人のように直立不動の美しい姿となった。今まで何回も見てきたが、この時ばかりは公弐宮が国津神であるのだと思える唯一の瞬間だ。
公弐宮が呪文を唱える間、ハルも二、三歩、皆から離れ辺りを警戒した。上からは怪物そして周辺には死人が蠢く、そんな状況下に今いる事に変わりは無いのだ。
―我に下りて、…、暫しの時を越え、…、何がし何がし、…
他の国津神もジッと公弐宮を見ている。公弐宮が呪文を掛ける事ができるなら、自分達もできるはずだ、そう思いながらジッと見ていた。皆が注視している中、時が過ぎる。ハルは上を見ながら、周辺を見ながらそして公弐宮を見た。しかし、何も起きない。いや、何か変な臭いがした。
「公弐宮!」ハルが声を掛けると、 ―バタン! 何と、公弐宮が倒れた。
「公弐宮様!」キコが直ぐに走り近寄った。
「おうぅぅ~!」他の老人組みが驚きとも、溜息とも付かない声で唸った。
公弐宮が呪文を掛けるどころか、何の力からなのか公弐宮自身の意識が無くなり、直立不動のまま、棒のように横倒しで倒れてしまったのだ。
「公弐宮様!公弐宮様!」キコが公弐宮の身体を揺すったが反応が無い。
死んだわけではなかった。しかし公弐宮の身体全体がダラっとして、今では棒の状態から大きなこんにゃくを持ち上げたような感触になっていた。
「ハルぅ~!」キコは悲しさを堪えながらハルを見た。
ハルは何が起きたのか把握しようと辺りを見回している。もちろん彼は冷静だ。ハルが鼻先をクンクンと動かした。何か臭いがする。その時、
―クゥ、クゥ、クゥ ハクが身を縮こませ小さく鳴いた。
―ギャアーギャアーギャアー 上からだ。
真っ暗な空から、突然もっと真っ黒な大きな物体がバサバサバサと降りてきた。岩の周辺全体に砂埃がブワーッと巻き上がり、ハル達一行は強い風の圧力を感じた。
―ギャアーギャアーギャアー 岩の上に大きな怪物が一匹舞い降りた。
ハルが見上げている。老人達一行は恐れを成して皆寄り添い、岩の窪みでハクのように縮こまっている。キコはこんにゃく状で意識の無い公弐宮を抱きながら、慄きながらも岩の上を見上げている。岩の上には大きな黒い怪物が、カラスが電線に留まるように翼を畳み二本足で立ち、スイカほどの大きさのある大きな目で、ハル達をジッと射すくめるように岩の上から睨んでいた。しかしこの怪物はこの時、ハル達を攻撃するわけでもなく威嚇するわけでもなく、ただ岩の上に立っていた。他の何匹もの怪物は上空を旋回したままだ。
ハルの目が燃え上がるように真っ赤だ。背中の毛も久々にヤマアラシのようになっている。ハルはこの怪物への警戒態勢と共に、怪物が何しに降りてきたのか、何故攻撃してこないのか見定めようと、更に辺りを見回し気を集中していた。すると怪物の足元に何かが立っている事に気が付いた。黒っぽい。
―影だ 影はハルを見ている。いや、見ているようだ。
影の姿は〝影〟と言うだけあって良く分らない。人型をしているのは分かる。が、顔があるのか腕があるのか、着ている物もよく分らない、足があるのかさえ認識できない。月明かりを背後に受け、大きな怪物と並んで、マントを羽織ったような人型のシルエットが大岩の上に立っている。それは言われるままの〝影〟と言うしかなかった。
ハルは相手の出方を伺っているのか、ただ黙って岩の上に集中している。あの臭いはこの〝影〟の臭いだった。
キコがハルの前で重い公弐宮の身体を引き摺り、何とか皆のいる岩の窪みへと入っていった。そこにいる老人組みは、只々縮こまっているだけで、誰も何も言わずキコを手助けする事さえもできずに固まっていた。そしてキコが公弐宮を引き摺りながらその窪みに完全に入ったと同時に、今度は警戒態勢をしているハルの後ろから、臭いではなく、ガサゴソ、ガサゴソと、何かの音が聞こえてきた。
―ぅぅぅ~、ぅぅぅ~、ぅぉ~ 死人の呻き声だ。
ハルが蹴散らしていた岩の周辺の死人が、またぞろ寄り付いてきたようだ。
彼らは元々死人な故、蹴散らされようと消滅されようと時間が経てばまた現われる。太陽の下にはいられないが、月夜の元では悲いかな死人のくせに元気なようだ。故に、ハルの今いる状況は、岩の上だけに集中できない状況になってきた。
「キコ!公弐宮は大丈夫なのか!」ハルが鼻先は岩の上に向けたまま、大きな声で言った。
「だめ!全然動かないわ!」「藤ノ宮!お前の呪文は使えないのか!」「…」
藤ノ宮は恐れ慄き、ハルの声が耳に入らないでいる。しかし影が現われたと同時に、公弐宮がこんにゃく状になった事を考えると、恐らく他の国津神の呪文も効くまい。ハルはこの状況を把握したのか、更に気を集中しだした。
―フオォー、ヒューゥー、フオォー ハルは気を吐く準備をしだした。
このハルの動きに対して、岩の上にいる影は全く動きが無かった。大きなシルエットの横でただ立っているだけだ。しかしハルも同じように黙っているわけにはいかなかった。それは公弐宮がこんにゃくになった事や怪物が何匹も上空を飛んでいる事、そして岩の周辺に死人がまた蠢き出した現状を合わせ考えると、今ハル達一行に黙っている猶予が無い事は明らかで、つまりハルからこの状況を打開しなければならなかったのだ。
―フオォー、ヒューゥー、フオォー 影は黙ってハルの動きを見ている?と思われる。
―バタン! 何か音がした。
「は、ハル~!」キコが走り出し、ハルの元へと向った。
何と、今度はハルが倒れた。ハルは気を吐く前に四足で立ったまま、そのままの姿で横倒しで突然倒れた。その横へキコがきた。
「ハル、ハル、ハルぅ、どうしたの、ハルぅ、ぅぅぅ…」もう泣き声になっている。
影に動きは無かった。しかし明らかにこれは影の力と思われる。藤ノ宮達が岩の部屋で言っていた。あいつは相手の力を削ぐ力を持っている。その力で天系の犬であるハルの力も削がれてしまったのではないか。藤ノ宮達老人組みは公弐宮に続き、ここでハルでさえも倒れた事で、影が力を行使した事を確信している様子で蹲っていた。
―キコぉ… ハルが消え入りそうな意識の中で、キコに話し掛けている。
―キ、キコぉ… 「な、何、ハル、何?」
「キコ、ま、まが…」「な、何?ハル、しっかりして、ハル、ぅぅぅ…」
この状況でも影に何の動きも無かった。逆に周りの死人はもう直ぐ近くまできていた。
―ぅぅぅ~、ぅぅぅ~、ぅぉ~、ぅぅぅ~ 不気味な声があちらこちらからする。
―ぉぉぉ~ぅ、ぅぅぅ~ これは老人組みの悲しい声だ。似ているが違う。
「キコぉ…」「な、何、ハル」「まが、…たま、…だ」
「何、何?」キコは周りはどうあれ、ハルが何を伝えたいかに集中した。
「キコ、勾玉を、出すんだぁ」「勾玉」ハルはそう言うとぐったりした。
キコは影が見ていようがいまいがこの状況下、とにかくハルを引き摺って何とか窪みに戻った。目の前にはハルと公弐宮が倒れている。その向こうに老人達が恐れ慄き、呻きながら蹲っている。今意識がはっきりしているのは自分だけ。キコはそれに気が付いた。
―嘆いてなどいられない キコはそう気付くと、ハルの言った言葉を再度頭に浮かべた。
―まが、たま、…勾玉、あっ、そうだ!
キコは自分の身に付けていた小さな荷物を身体から離した。直ぐにガサゴソと中から一つの包みを取り出した。勾玉だ。あの千世の集落で、風福の婆様から渡された水晶のような丸い勾玉。あの軍神を呼び覚ます時に使用した。今までキコはどんな時も、これだけは肌身離さず携えていた。
そう、キコは思い出した。
―今が、これを使う時だわ 勾玉を手にして見詰めた。
「軍神!」キコは一人叫んだ。
「そうよ、軍神だわ!軍神を呼ぶのよ!」キコは勾玉を持ち上げた。
「あっ!」また何か思い出したのか、勾玉を持ち上げた手を下ろした。
―は、ハルがぁ、あぁぁ~ 勾玉をハルの側に置いた。
勾玉を使って軍神を呼び起こすのは、ハルだ。今ハルは横倒しで倒れている。軍神を呼び起こす事ができない。キコはその事に気が付き悲しくなってきた。
「ハ~、ルぅぅぅ~、う~」ハルの横で頭を地面に付け泣き出した。その時、
「キ、キコぉ…」ハルが真っ赤な目を少しだけ開けた。
「お、俺の、目の前に、…ま、まが、たまを、…置いて、くれ」
ハルは最後の気力を搾り出した。キコは泣いていた目をハッと見開いた。
「う、うん」何も言わずに直ぐに、勾玉をハルの目の前に置いた。
「ハ、ルぅ、ぅぅぅ~」キコは泣きながら両手でハルの顔を勾玉に向けさせた。
ハルは残る力を込めカッと目を見開くと、呟き出した。
―我の願いを聞きたもう…、天の力ここに有りて…、何がし何がし…
ハルの身体はブルブル震え、もうそれ以上やると死んでしまいそうなくらいに、最後の気力を振り絞っていた。全身の毛が針の山のように毛羽立ち、目からは赤い涙が流れ、四本の足をピンと張り伸ばし、最後の最後まで力を使い果たし呟きが終った。そしてグッタリと身体を横たえると、静かに赤い目を閉じた。
「ハルぅ!死なないでぇ!ハルぅ!死なないでぇ、ううううー」
岩の周りは今、穏やかな風が吹いている。その風に乗って、死人の呻き声が四方八方から聞こえてくる。ここでこんな壮絶な出来事が起きている事など、誰も知る由もない。その穏やかな風に乗って、キコの悲しい泣き声が響き渡った。その悲しい声は直ぐに闇に消え入り、その代わりに何か別の音がし出した。
―ゴゴゴゴゴォォォー どことは言えない、空間全体が鳴り響いているのか。
―カタカタ、コロコロ、ガタガタガタ 周りの石ころがあちこちから転がってきた。
―ズンズンズン、ズォーォー、ズズズズー 地面全体が鳴り響き出した。
キコはハルの傍らで顔を伏せ、まだ泣いていた。藤ノ宮ら老人組みが辺りの変化に呻き声を止め、何事が起きているのかと様子を伺っている。
―カタカタカタ、ガタガタガタ、ピキッ! その時岩が、後ろの大岩にひびが入った。
「おぉぉ~ぅ」老人組みが肩を寄せ合い固まり、揃って更に恐れ慄いた。
―ズンズンズン、ブルブルブルブル 辺りの空気が震え出した。
岩の上にいた影が、スー、と空間に浮き上がり岩から離れていく。怪物は少しだけよろめきながらもそのまま立っている。
―ブルブルブル、ブルブルブル、ビリビリビリ 空気の振動が大きくなってきた。
ここにいる者が皆、何が起きているのか分らなかった。影は何かを察知したのか退散しようとしている。もちろん岩の下の老人組みは何事が起きているのか全く分らず、恐れながらもどうして良いのか分らず、皆固まってオロオロしているだけだ。
唯一人、キコだけはこれから何が起きるのか分っていた。しかし、ハルの姿を見ながらまだ泣いている。
―ドン!ドン!ドン!ズシーン!ピキッ!
ひびの入っていた大きな岩が真ん中から真っ二つに割れた。岩の上にいた大きな怪物がその場から一瞬でシュッと消滅した。その代わりに割れた大岩の上、満月の光を背後から受けた大きなシルエットが現われた。凡そそのシルエットは十mほどもあり、真っ二つに割れた大岩の左右それぞれに足を掛け、岩の上で太い腕を組み仁王立ちしている。そしてその強烈な視線で辺りを見回している。
―ブルブルブル、ゴゴゴゴゴゴー 辺り全体の空間が震えている。
そこにいるのが辛いくらいに空間が震え、恐ろしいくらいの威圧感が辺り一帯を覆い、地鳴りが遠くまで鳴り響いている。
言うまでも無い〝軍神〟が現われたのだ。
千世の集落で復活を遂げた時は二体の軍神が現われたが、この時は何故だか一体だけであった。しかし一体だけでもその凄まじい存在感は、些かも減じる事は無い。今まで何に対しても反応していなかった影が、驚いているのか暗闇の空間で動きを止め、何もできずに浮いたままでいる。上空の怪物達はグルグル回ったままだ。死人は、周りで何が起ころうと関係無いのだろう、人間の足元へと寄ってくる蟻んこのように、岩の近くへゾロゾロと、少し前よりも夥しい数が近寄ってきている。
「我を呼んだは、汝等かあ!」ビリビリと大きく空気が震えた。
どこからしたのか低く太い、空間の奥底から聞こえてくるような、身体全体が潰されそうになるくらいの威圧感のある声だ。キコは泣いていた顔を上げた。ハルが最後の気力を絞り出して呼んでくれた軍神の声だ。キコは自分自身を奮い立たせ立ち上がり、キッとした目で軍神を仰ぎ見た。
「はい、私達です!私達がお呼び致しましたぁ!」キコはありっ丈の大声で叫んだ。
キコは涙を拭うと軍神に自分が見えるように、軍神に目を合わせながらゆっくりと岩の窪みから歩み出た。
「そちは天界の者ではないな!何故、我を呼ぶ!」ブルブルっと空気が震えた。
「呼んだのはここにいるハルです!貴方様を数日前に千世の集落で蘇らせた時にいた、あの犬です!」キコは横たわっているハルを指さした。
軍神は周辺の空気を震わせ仁王立ちしたまま、その大きな鋭い目を横たわっているハルに向けた。ゴゴゴゴーという地鳴りのような音は、辺り構わずどこからか鳴り続けている。
「その犬、天界の犬であろう!覚えておるわ!その犬の願いか!」
「そうです!私達は御印を探しに行く途中なのです!今、困難な状況に陥りました。お願いです、貴方様の助けが必要なのです!」
キコは気圧されないようしっかりと、軍神に向け強い視線を向け簡潔に応えた。
このやり取りの最中、闇の空間に浮かんでいる影は逃げる心算なのか、空間をスーっと音も無く、ゆっくりと遠ざかっていった。しかし、軍神はそれを見逃さず、キコの話が終わる前に片手を上げ手の平を影に向けると、その手の平から気を放った。
―ズオー、シュッ! 一瞬で影が消滅した。影の存在など取るに足らないというところなのか。
「この状況を逃れても、四方津国の扉が閉じなければまた死人は現われる、その事承知しておるか!」「はい!分っております!故に御印を探しに行くのです!」
「もう一つ、我らを呼び出す事、二度だけだ!すなわちあと一度だけという事、承知しておるか!」キコはこの事は知らなかった。
千世を出る時、風福の婆様からもこの事は聞いてはいなかった。しかし彌織が一度言っていた気がする。恐らくあと二度ではないかと。しかしこの事で、今ここで軍神と話し合う事などできるわけがない。一瞬だけ躊躇ったが直ぐに応えた。
「はい、承知しております!」強い意思を持った目で応えた。
「天孫との約定に、しかと相違ないな!」「はい、相違いございません!」
「ならば!」軍神はこのやりとりで承諾したのだろう。
―グオォォォー、ブルブルブル、ズォー この一帯の空間が更に大きく揺れ出した。
空間の揺れと共に地響きが鳴り響く。草木が揺れ岩が崩れ出し、そこにいる者皆、息苦しいほどの威圧感の中にいた。
軍神は満月の月明かりの中、両手を闇夜にグンッと突き上げ、フン!と大きく気を吐いた。するとこの岩を中心として激しい空気の流れが起き始めた。始めはゆっくりと次第にそれは渦を巻き、グオォーグオォーという凄まじい音と共に周りの物を吸い上げ出した。岩の窪みの老人組みは声も出せず、息をするのがやっとで飛ばされぬように互いに掴まりながら、藤ノ宮は横たわる公弐宮の上に覆い被さり、キコもハルを抱き締め地べたに伏せた。それはまるで海の中の渦潮目掛け放り投げ出されたように、息をするのも絶え絶えで、疲れ切った身体で飛ばされずにいるのが精一杯であった。
空気の渦は彼らの周り、動く物全てをその空間の奥へ、それがどこに通じているのかは分らないが次々と飲み込んでいった。地べたを蠢く無数の死人はもちろん、殆どそれは枯れた木の枝と何ら変わらない状態で、次から次へと吸い込まれていく。そして上空をグルグル旋回していた怪物達も、やはり次から次へと、栓を抜いたプールの水に浮いた木の葉のように、抵抗する間も無くグルグル回りながら飲み込まれていった。激しい風と地鳴りは暫く続いた。
―グオォー、グオォー、ズォォー、ズォォー その渦巻きはいつ終るのか。
―グオォー、グオォー、ズォォー、ズォォー 勢いがまだ続く。
身を寄せ合い、残った気力をもう使い果たしそうになっている老人組みが、皆もうだめだ、と諦めそうになったその時、それは突然終わりを告げた。
―シュオー、シュー、シュウー、シュパッ!
激しい風が止んだ。それは唐突に、轟く空間の震えも突然無くなった。既に地響きも聞こえていない。辺り一帯に感じていた恐ろしいほどの威圧感も、何もかも無くなった。辺りの変化と共に大岩の上の大きなシルエットも、いつの間にかいなくなった。闇夜を蠢く死人の群れ、夜空を飛び回る無数の怪物、闇の世界の者達が支配する時は終った。軍神は突然現われそして去った。今の今まで、何事も無かったかのように一気に静寂が訪れた。
この数分で起きた出来事は何だったのか。端から見ていた者は誰もいない。故に客観的な考察はできずとも、この現象の中にいた者達は自意識の中で、支配と自由の激しいせめぎ合い、それだけが、ただそれだけが脱力感の中で、フッ、と感じる唯一の思いなのであろうか。そんな気難しい事はこの時、誰一人として感じてはいなかった。只々、何も考える事はできずに疲れ果て、横たわっているだけだった。
軍神が去ってどれくらいの時間が過ぎたのか、真っ二つに割れた大岩の下、一つの塊となって激しい風や地響きに耐えていた老人組みは、それぞれが力を使い果たしのだろう、未だ皆、地べたに倒れこんでいる。その近くで公弐宮に覆い被さっていた藤ノ宮も力を使い果たしたのか、今は公弐宮の横で共に仰向けとなって倒れている。ハクがその横でチョコンとお座りして、ペロペロと藤ノ宮の顔を舐めていた。横倒しになっていたハルは、そしてキコも、気付くとそこに二人はいなかった。
静けさが戻ってきた。大岩の周りに動く物は何も無い。
あれだけの数、蠢いていた死人は見渡す限りの地上には、一人としてうろついてはいなかった。もちろん上空の怪物もその羽一枚すら舞ってはいなかった。軍神が去った今、ここには動く物が何も無い。全てが渦に飲み込まれていったのだ。とても数分前に、あれだけのエネルギーがこの空間を支配していたとは思えない。今は静けさが、ただ静けさだけがここにある。唯一そのパワーの痕跡があるとするならば、倒れこんでいる彼らの上で、見事に真っ二つとなった大岩の形だけがそれを表している。
今倒れこんでいる彼らにとってこの夜の出来事は、〝体験〟という一言で済まない強烈な記憶として残る事だろう。あれだけ苦労して、困難な状況を目の前にして、耐えて耐えてやっとの思いで進んできたのに力を削がれ倒れ、それが一瞬で世界が変ってしまった。
辺りは全くの静寂となった。危機は去った。今、彼らは、あぁ生きている、のだと、はぁ~、と一息入れ、誰も何も考えず、皆脱力感の中にいた。
ところで、ハルとキコはどこにいるのか。辺りが薄明るくなってきた。夜明けが近いのか、地平線が次第に赤く染まり出してきている。台風一過の爽やかさのようだ。そんな空気の中、どこからか長閑な雰囲気で声がする。
「ハル~、もう身体は大丈夫なのぉ?」「あぁ、気分爽快だ」
「あ、あそこにもあるわ!」「もうこれくらいで、そろそろ良いんじゃないか」
二人は木の実を拾っていた。一行の朝飯を準備しているようだ。あの激しい空気の渦が全てを飲み込んだのか、虫や小鳥さえも飲み込まれ、囀りの声一つも聞こえない。しかし二人に取っては良い事もあった。あの激しい空気の流れが、木々の実りを地上にばら撒いたのであろう、そこら中に木の実が散らばっている。今二人は木の実を拾いながら、何を思っているのだろうか。
この〝御印〟探しの旅を始めてから幾度かの困難な状況を、何とか潜り抜けてきた二人だが、自分達の力だけではどうにも動かす事のできない状況のある事も、軍神の圧倒的なパワーでその状況が一変する事も、目の当たりにした。しかしこの先、軍神に頼れるのは後一度だけ。これから先、この旅がどれくらいの期間を必要とするのかは、誰にも分からない。その中で自分達のでき得る事は何か、今経験した事は何を意味するのだろうか、考えなければならない事は多々あるはずだ。もちろん二人は充分にその事を承知していた。
今二人は、見た目は爽やかに微笑んでいる、が、まだまだこの苦難の旅は終ったわけではない。いや、更なる困難が待ち構えているかもしれない。ただ、今この時だけは、嵐の去った晴れ間のように、暫しのゆるりとした時間を持つ事くらいは許されるはずだ。ここまでひたすら前へ前へと進んできた二人だ。ここで一旦小休止をしても良いだろう。足を止め、頭を休め、まだ見えぬ〝御印〟までの道程をじっくりと考えてみても良いだろう。
今までハルの鼻だけを頼りにゴールを目指してきたが、ここで一つの灯火が見えた気がする。藤ノ宮の言っていた〝見えない村〟の存在だ。
藤ノ宮があの岩山の部屋で言っていた、国津神の言い伝えに由ると、天孫が住むというその〝見えない村〟は、普段は人々の目に触れず、しかしそこには〝力の木〟があるという。正にこれは〝御印〟に相違無い、と二人は確信は無いにせよそう感じていた。今軍神のパワーで、死人という障害が暫くは無くなった。先ずはそこを目指して進めば良い。
ただ一つだけ問題がある。その〝見えない村〟という村をどうやって探せば良いのか、どうやって見付け出せば良いのか、ということだ。その村は見えないのだ。
今二人はそんな状況を考えているのか、いないのか。ひたすら木の実拾いをしている。その現実はまだ後で考えれば良い。そう思っているのかいないのか。
「皆ぁ~、大丈夫かぁ~い!」キコが木の実を大量に抱えてやってきた。
ハルはもちろん木の実を持つ事はできない故、大きな葉に載せ引き摺りながらやってきた。その葉には木の実の他、何かの幼虫なのか白い大きな芋虫のような物やら、小さな土の中の生き物も載っている。
「公弐宮様、大丈夫ですか、起きられますかぁ?」
キコは一人一人を、労わり励ましながら元気に起していった。力を使い果たし、地べたに倒れこんでいた老人組みも、キコの嬉しくなるような元気な声に力を貰い受け、何とか目を覚ましていった。公弐宮も何とか起き上がり、ただボーっとしている。その間、ハルはと言うと、
「キコ、見てみろ、綺麗な空だ」ハルは真っ二つになった岩の上で鼻先を上に向けていた。
「ん?何、空?」皆を起し回っていたキコが、足を止めて振り向き空を仰いだ。
「あら、綺麗な朝焼けねぇ」ボーっとしていた公弐宮もこの空を見て目を覚ました。
「ほほぉ~、見事じゃのぉ~」藤ノ宮も元気を取り戻したようだ。立ち上がっていた。
ここにいる者全員が、皆々揃い同じ方向を見ている。彼らが見ているこの美しい朝焼けの空が、この一行の、いやこの地の世界の未来を映し出してでもいるのか、その明るさが次第に色鮮やかに、印象派の絵画のように広がっていく。
一般的な伝承として夕焼けは明日の天気は晴れるが、朝焼けは良くないと言う。今見ている朝焼けのこの空は、彼らにとっては美しいと言って見ているだけの明るい空なのか、実はその裏にある暗示を含めた空なのか、それは時の流れの中に答えがあるのだろう。