表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/17

8.伽羅都

          伽   羅   都


 平原に比較的大きな川が流れている。何という川なのか、名前は分からない。どこから流れていてどこに注ぐのか、誰も知らない。誰知る事のない川でも、それでも水は流れている。悠久の時を越え、川の流れが土手を削る土でそしてその流れが土を運ぶ事で、古来よりその土地その土地を型造ってきた。

そしてこの時代、川にはもう一つの役割が追加された。川の流れは絶えずして清くせせらぎどこまでも澄み、そして、死人を近付けずだ。

 三人は川縁を歩いていた。二日二晩、河岸の窪地で火を焚いて夜を過ごした。川の流れのお陰なのか、それまで死人が襲ってくる事はなかった。幸い天気も良く、二日前に体力を使い果たした二人には優しい行程であった。公弐宮の友達の話では、グルの山を越えると平らな土地が続きそこを行くと川が流れている。確かにその通りの地形があった。そして彼らはその通りに歩きここまできた。ただ、ここにきて一つ問題が生じた。キコが公弐宮に訊いている。

「公弐宮様、この川をどこまで行けば、そのお友達のいる集落へと辿り着く事ができるのでしょうか?」三人はいつもの並びで歩いている。

「そうなのよぉ、そこが問題なのよねぇ」いつもそうだが、実に頼りない返答だ。

「その友達も一応国津神の仲間なんだけどね、余り頼りにならないからさぁ」

 この国津神が人の事をとやかく言うのもおかしいが、ハルが二人とは少し離れた前方から声を掛けた。

「川が大きく北に曲がっているぞ」ハルが足を止めた。

「公弐宮、その集落は西に向うはずだな?」「そうよ、それは間違いないわ!」

 ハルは河岸の土手を登り辺りを見回した。見回しながら臭いを嗅ぐように鼻先を空に向け、ブツブツ言っている。時々ブツブツ言うのを止め辺りを見回し、またブツブツ言っている。その行動を数回続け、他の二人は川岸でただ黙ってそれを見ていた。何か目的があっての行動だろうと分かっているからだ。そして数分後、ハルがブツブツ言うのを止め、空の一点を注視している。

「来たか」ハルの呟きに二人も顔をその方向に向けた。

 すると雲一つ無い真っ青な空のある一点に、小さな黒い点が見えてきた。それは遠く宇宙の果てまでも見えそうな美しい青空であるが故、遠近感がまるで無く、小さい点が大きい物なのか小さい物なのか遠い物なのか近い物なのか、殆ど区別が付かなかった。それでもその小さい点が見え出してから二、三分、その黒い点が、次第にはっきりとした形のある物へと変化してきたのが分かった。鳥のようだ。近寄ってきた。

 そう、カラスだ。あの公弐宮に会う前の森の中、森の主が去った後に現われた、その後上淨沼を後にする前に情報をくれた、あのカラスだ。

ハルはウタと言っていたそのカラスが、バタバタバタと河岸の土手の上、ハルの前に降り立った。

 近くに来るとこのカラス、意外に大きい。少し小型のタカか鷲かというほどの大きさだ。土手の下ではキコと公弐宮が見上げている。

「呼んだかい?」「ああ、呼んだ」カラスとハルの会話は実に簡潔だ。

 このカラスの言葉は、当たり前だがキコと公弐宮には、カァカァ、としか聞こえていない。この時代情報を運ぶ役割として鳥を使うのだが、その鳥と意思が通じるのはその雇い主だけなのだ。以前に公弐宮もカラスを使っていると言っていたが、ハルにとってのそれは、この〝友達〟と呼んでいるウタカラスの事だ。そしてこのカラスとハルのように、会話は雇い主との二者でしか成り立たないため、情報の秘匿性は高まるというわけだ。

「公弐宮、何という集落だ」ハルは鼻先を、土手下にいる公弐宮に向けた。

「そう、あの村はね、確かぁ…」公弐宮は考えながら歩き出した。

「えーと、あれ、あれ」中高年の方々によくある反応だ。

「ん?」カラスを見ている。「あ、そうそう」カラスを指さした。

「カラツ、ハハ、そうそう、カラツと言うのよ」

 香木の種類で高価な物だが、伽羅という物がある。〝キャラ〟と読むが、この場合は土地の発音的に〝カラ〟と言う音と、都の意味の〝ツ〟と合わせて〝カラツ〟と言う土地名になる。恐らくは伽羅のような香木の流通があるのか、以前にそうだったのか、とにかく由来としては、そこからきた名前なのだそうだ。公弐宮の話では、友達の国津神が以前その街のことを、そのように言っていたそうだ。千世の街のように、人口もそれなりに多く栄えている集落らしい。

 ハルはそうか、という顔でカラスに向き直った。

「〝カラツ〟と言うらしいが、その集落への距離と様子を見てきて欲しいんだ」

「分かった」ウタカラスは理由も何も聞かず、一言で直ぐにバタバタと飛び立っていった。

 この二人の間にしっかりとした信頼関係が成り立っているが故の、実に簡潔なやり取りだ。そしてハルは土手下に顔を向けると、

「とにかく西に向おう、川からは離れる事になるけどな」ハルは直ぐに歩き出した。

 ハルのこの一言に意味があるという事は、他の二人も充分承知している。しかし、行くしかないという事も充分承知している。故に二人はカラスのように何も言わず、河岸の土手から離れ直ぐに先を行くハルの後を追った。

 三人の目の前、どこまで続くか分からない背の高い草むらを掻き分けながら、彼らは歩き出した。背の低いハルは、草むらの中に隠れて見えなくなっている。それでも時折揺れる草の穂先が今どこに彼がいるのか、その存在を後ろの二人に知らせている。

 太陽の光を背に、後ろの二人は無言で歩き続けていた。日暮れに間に合うのかどうかは分からない。しかしその事が、二人に取って一つの心の重石になっている事は確かだ。それは前を行くハルでさえも同じだった。まだ日暮れまでには時間はあるが、それまでには何らかの対策を考えなければならない。三人はその事を考えているのかいないのか、誰も何も言わず、ただ黙して歩き続けた。



 川から離れ、最初の日暮れが近付いてきた。三人は分かってはいるのだが、誰も何も言わずに歩いていた。普段はうるさいな、というくらいに話し続ける公弐宮でさえも、この時は黙して歩き続けた。先を急いだ。

 永遠に続くのかと思えていた草むらは、次第に草の背が低くなり、時々何本かの細いブッシュと言っても良いくらいの、木々が集まって生えている箇所が現われてきた。高さは無いが、岩場の丘のような場所も現われてきた。太陽はもう顔を上に上げずとも、視線を真っ直ぐ前にした状態で目に入る位置まで降りてきている。草むらの平原に、そのような変化が見えてきた中で、一本、何の木か分からないが、目立って高い木が三人の前に登場した。かなり背が高い。三人はその木の下まできて、見上げている。

「高いですねぇ~」「大きいわねぇ~」キコと公弐宮が感心しながら見上げている。

「何の木なのかなぁ?」「さぁ、こんな大きな木は見た事ないわ」

「ここだな」ハルが一言言った。

「うん、分かった」「そうだわね」

 三人は暗黙の内にこの夜の寝床を決めたようだ。

この大平原で以前にあったような、奥の深い洞窟を探す事が困難なのは目に見えている。しかも既に時間的余裕も無くなってきている。とすれば考える事も無くこの木の上、サルのように太い枝に腰掛けるのかぶら下がるのか、そこが寝床となる。寝心地は良くないのは無論だが、少なくとも死人に木登りはできまい。安全と言えば安全だ。オレンジ色の太陽光が、繁茂した枝葉にキラキラ反射して美しい。この光の中で寝る事ができれば良いが、自然はそれを是としない。もう直ぐ闇が辺りを支配する。

 三人は、というかハルは犬であるがため、最初の枝までは二人の手を借りた。いくらハルでも垂直飛びには限度がある。ただ、人間型の二人もそのままでは登れず、持っていた縄を振り上げ、太い枝に掛けて登る等の努力は必要であった。そうこうしている内に日が暮れた。三人はそれぞれ太い枝の根元に座ったり、幹に寄り掛かったりして寝床を確保した。後は次の日の夜明けまで静かに寝るだけだ。静かに、そう、静かに寝ていたいのはやまやまであったが、この時の状況は〝静か〟とは言い難いだろう。

 三人が何とか寝入ってから、暫くして、

―ザワザワザワ、グゥ、ウゥー、ウゥー、ザワザワザワ、グゥ

 この音は、ある程度予想はしていたが、先ずはハルとキコが目を覚ました。小さい声でハルがキコに話し掛けた。

―キコ、火を点けてみるんだ

―えっ、火を!う、うん

 キコは持っている携帯的な火打ち石で、小さな火を熾した。

―カチッ、カチッ、カチッ、ポッ   小さな明かりが灯った。

 真っ暗な平原のど真ん中、一本の大木の上、小さな明かりがポツンと灯った。離れた場所から見ると、あれは何だろう?と暫し考えたくなる光景だ。闇夜の空間、ある程度の高さにそこだけポツンと、ユラユラとした光が見えている。大木その物は暗さで見えず、ましてやそこにいる生き物など見えるはずもなく、実に不思議な光景である事は間違い無い。但し、周りに見る者がいればの話だが。いや、いるにはいる。

―キャッ!ぅ、ぅぅ…   キコは自分の叫び声を手で押し戻し、飲み込んだ。

 小さな明かりで僅かな範囲だが、木の根元周辺が見える。もちろん見える範囲も薄明かりでけっしてクッキリと見えているわけではないが、そこにはウヨウヨと、その表現が最も正しい表現方法だと思われるが〝死人〟どもが、見える範囲でウヨウヨと無数に蠢いている。それはまるで死体に湧いた蛆のようだ。いや、この場合は逆だ。蛆のように死体がうようよ蠢いているのだ。

―こんなにも集まってきているのか   ハルでさえ驚いている。

―こんなに、…どこから現われたの?   小さな声で囁いた。

―地中さ   ハルは下に鼻先を向けた。

―ち、地中?地面の、下?  

―そうだ、地面の中から湧いて出てきたのさ

 そう、死人は昼間は地面の下に潜り混み、夜になると這い出てくる。吸血鬼というような奇麗なものではない。まるでミミズか地鼠のようにだ。しかもこの時のように、地を覆う程の数で集まって来ている。この先、昼間、自分が歩く地面の下にこいつ等が寝ているのか、と思うとぞっとする。キコはそう思った。

―キコ、余り見るな、気分が悪くなるぞ。奴等は上ってくる事はない、寝よう

―ぅ、うん  と、返事をしたのはいいが、キコでなくても、こんな情景を見た後に素直に寝付ける者はいるのだろうか。

 キコは明かりを消し、目は閉じた。しかしやはり寝る事はできず、奴らの蠢くザワザワという音を、気分が悪くなりそうになりながらも聞かざるを得なかった。明け方まで何と時間が長い事か。その蠢く音と一度見てしまった記憶が一晩中眠りを妨げた。

 キコにとって、今まで千世の集落で婆様や菟酉達と、何度も死人に関する話しを繰り返してきたが、実際に〝生〟の死人を目にするのはこの時が初めてであった。それもこんな場面である。キコにとってはかなり衝撃的な映像であり、おぞましい姿が脳裏に強く残り消す事ができずにいる。寝ようとして目を閉じる度に、奴らが瞼の裏に現われ気持ちが悪くなった。更にザワザワ、ウーウーという音は、実際にリアルタイムで途切れ無く聞こえてきている。普通の感覚を持つ者なら寝られるわけがない。

 そして木の上で寝付けぬまま、何度も何度も目を開け目を閉じを繰り返しながら、長く長く感じた夜が過ぎた。辺りが白んでくるまで何時間も。結局、キコは殆ど寝る事ができず、ぼんやりとした気分で白んだ朝を迎えた。

―何も、音がしていないわ   今何時なのか、当たり前だが時計など無い。

 キコはぼんやりとだが目を開けた。空が白んできたのが分かる。その後、ぼんやりしながらもゆっくりと下を見た。そこには何もいなかった。不思議といえば不思議な光景だ。

―昨日の、あれは…   キコはまだぼんやりとしている目で、辺りを見回した。

 遠くまで霞が掛かっている。平原がどこまでも続き、まだ明け切れていない白んだ地平線までの空間に、ポツンポツンと他の背の高い木が見えている。しかしその下、地面に動く物は何も無い。目を凝らしてよく見れば、いつ寝ているのかと思えるような、小さな虫けらくらいは動いているだろう。しかし、昨夜の地面を覆い尽すような蠢く死人はどこにもいない。あれは幻だったのか、と自分の記憶を疑いたくなる。

―いつの間に、どこに、消えてしまったの?

 キコは夜通し寝付けなかった意識と耳で、ザワザワという音はその間ずっと聞いていたような気がしていた。それなのに明け方となった今、いつの間にかあれだけの数の死人が、見える限りどこにも跡形も無く消えてしまっている。不思議というしかない。

―木の上で、良かったわぁ   この時の率直な気持ちだろう。

―集落が無くなってしまう理由が分かったわ   

 あのおぞましい姿の死人が波のように押し寄せてくれば、小さな集落など一溜まりもなく食い尽くされてしまう。

―皆食われてしまうのかなぁ?  キコは自問した。

 何故死人は四方津国から現われ、地中に潜り、何を目的に闇の中、この地を覆い尽すほど現われるのか。何のため?キコは自問し、そして、もちろん答えなど分からない。白んだ空を見上げながら一人枝の上でボーっとしていた。そこに聞き慣れた音が聞こえてきた。

―グーグーグー、むにゃむにゃ…   隣に一人いるのを忘れていた。

―幸せな、国津神様ねぇ   隣の枝の上、公弐宮の寝顔を見て微笑んだ。

 しかし公弐宮は枝の上、あのザワザワ音も全く気にならず寝ていた事になる。大した者だ、と言うべきかどうか迷うところだが、とりあえずキコはホッとした気分となった。そこへ下から声がする。

「キコ、先ずは腹ごしらえだ!」ハルが何か銜えている。

 気が付けば、ハルが枝の上にはいなかった。キコが目を覚ます以前から、いやキコも起きていたようなものだが、はっきりと起きる前から彼女が気付かぬうちに、既にハルはどこかへ朝食を取りに出掛けていたようだ。

「ハル、何を取ってきたの?」キコは枝から降りながら訊いた。

「雉と地鼠だ!」木の根元にポンとその獲物を置いた。さすがハルだ、行動が早い。

 程なくして良い香りが辺りに漂い出した。その臭いに誰かが反応した。

「っはぁ~、良く寝たぁ、ん?あらっ、良い匂いだわねぇ~」

 木の上で公弐宮が両手を挙げ、伸びをしている。その下ではキコとハルが、火を熾し獲物の肉を焼いている。煙が無風の空間を真っ直ぐにユラユラと立ち登っていき、その煙が木の上の公弐宮を燻すように包み込んでいる。差し詰め、国津神の燻製だ。

「良い香りだけど、ゴホッゴホッ、やけに煙たいわねぇ!」

「公弐宮、早くこないと無くなるぞ!」ハルがムシャムシャと雉の足を食べている。

「無くなる?朝ごはん?」下を見た。「今行くわ!」降り出した。

 公弐宮が木から降りてキコとハルの前に座った、それと時を同じくして、突然、バタバタバタという羽音が頭上からしてきた。

「良い匂いだな」木の枝から乾いた声がした。

 三人の座っている位置からだと、朝日が逆光となって姿が良く見えない。キコと公弐宮が手を額にかざして仰ぎ見ている。

「あぁ、美味いぞ、食べるか?」ハルには誰なのかは直ぐ分かったようだ。

「いや、いい、それより…」カラスだ。「伽羅都はどうだった?」

 カラスはこの大木の中くらいにある枝に留まり、時々手振りのように羽を広げ話した。

「あんたが言っていた集落は、ここから西へ八里ほどのところにある。だがなぁ…」

「何かあったのか?」ハルは食べ終えた雉の足の骨を、ポンッと横に捨てた。

「住民は僅かしか残っていない。建物はボロボロだ」「死人が来たのか?」

「そのようだ」「他に何かあるか?」

 カラスは少し間を置くと、朝日に木の影が長く伸びている、その先の地平線の方角に羽先を向けた。

「ここからその集落までは何も無い、問題無く行けるだろう。しかし一つだけ気に掛かる事があるのさ」「何だい、それは?」

 二人のやり取りの間、キコと公弐宮は黙って肉を食べている。ハルとカラスの会話はもちろん二人には分らない。ただ聞いているしかない。

「うん、昼間に、死人以外にも、何かがこの集落を襲ったようだ」

「何か?それは何だい?」「はっきりとは分からないが、死人だけではないようだ。集落の周りに気を付けた方が良い」「分かった、ありがとう」「じゃあな!」「うん」

 言い終わると直ぐに、バタバタバタとどこかへ飛んで行ってしまった。このカラス、普段はどこから来てどこに飛んで行くのかは、ハルでさえ知らない。ただ、ハルが呼ぶとどこにいようと直ぐに来てくれるのだ。ハルにとっては非常に助かる〝友達〟だ。

 カラスが飛んで行った後、ハルは通常よく見る犬のお座り姿で暫し何かを考えていた。キコが肉を食べ終えハルに話し掛けた。

「何か問題があったの?」公弐宮はまだ食べている。

「うん、まぁな、ただ、良く分からないのさ。先ずは集落に行ってみるしかない」

 ハルはそう言うと、行くぞ、と言ってさっさと歩き出した。キコもそそくさと荷物を纏め、その後に続いた。

「あー、待ってよ~、まだ食べているんだからさぁ~」いつもの光景だ。

「公弐宮様ぁ~、火は消してきて下さいよ~!」キコが歩きながら振り返り叫んだ。

 公弐宮はできるだけ肉を頬張り、足でサササッと火を消し後を追った。

「ねぇハル、何事も無ければ良いけどね」

「うん、そうだな」いつも冷静なハルも、この時は心無しかその顔が強張って見えた。

 三人は取り敢えず伽羅都への道を急いだ。太陽は地平線を登ってきたばかりだ、まだまだ時間はある。



 太陽が頭の真上に近い位置まで登ってきた。光の束は地上に満遍なく降り注ぎ、容赦なく大地を乾かし熱風を舞い上がらせる。この辺りは大きな木も無く草地もまばら、ブッシュが所々に見えるだけのメキシコか南米のどこかの高原のようで、動きの殆ど無いモヤっとした空気が辺りを包み込んでいる。歩き続ける三人に否応なくこの動かぬ空気の熱さが纏わりついてくる。

「ふぅ、ふぅ、全く、暑いわねぇ~」「はぁ、はぁ、どこかに水の場所は無いかなぁ~」

 遅れて歩いている二人が、もう殆ど出ない汗を拭いながら何とか足を動かしている。先を行くハルはいつもと変らず、二人との差が次第に開いてきた。弱弱しい二人の声が聞こえたのか、ハルが足を止め振り向いた。

「ちょっと待っていろ」言うや否やどこかへ走り出していった。

「どこへ行ったんだろう?」「ハル殿の事だから、何か見付けて来るかもよ、っふぅ~」

 二人が思考力の無い頭でヨタヨタと歩いていると、どこへ行っていたのか、ブッシュの続く辺りから突然ハルが現われた。

「集落まで後二里ほどだ、その前にこれを食べろ」ハルは何かを銜えていた。

 ハルは何個かの木の実を二人の前に放り投げた。サルナシの実のような、いかにもジューシーという感じのする、瑞々しい木の実だ。

 いつもそうなのだが、ハルは一体どこからこういう物を見付けてくるのか、何でそういった物のある場所が分かるのか、実に不思議だ。無論、今の二人にはそんな理屈はどうでも良い。ただ、喜んだ。

「ハル、ありがとう!美味しそう、喉乾いていたのよ!」「さすがハル殿!」

 二人は早速、それぞれ何個かを手に持ち、ジュージューチュルチュル言って頬張った。その二人を見ながら、ハルが顔をしかめている。

「確かに集落はあるみたいだ。けど、何か、良く分からないが嫌な臭いがするんだ」

「嫌な、って、何が?チュルチュル」キコが美味しい顔をして訊いた。

「うん、俺にも良く分からない。ただ、昼間にも拘らず、この辺りから既に死人の臭いがしているし、それ以上に、何か得体の知れない別の臭いを感じるのさ」

 ハルは言いながらその辺りをウロウロして、鼻先を地面に付けたりしている。キコの美味しい顔とは裏腹に、ハルはこの得体の知れない臭いがやけに気になるようだ。

「ハル殿、実はさっきから私も何か言いようのない、何か嫌な臭いがしているのよ」

 公弐宮も皮を向いていた手を止めると、いつにない真面目な顔をして辺りを見回している。キコ以外の二人が、この地で何かを感じ取っていたわけだ。

「それが何なのか分からないが、とにかく用心しながら行くしかないな」

「うん、分かったわ」「そうね」二人は食べながらも険しい表情で頷いた。

 その後少しの間、二人はこの木の実で喉を潤した。

暫くして、木の実で生き返った顔をしたキコと公弐宮は、ハルと共にまた歩き出した。

 三人はカラスの忠告を念頭に、歩きながら各自それぞれ周囲に意識を向け、何が起きても直ぐに対応できるようにして先に進んだ。一応、目指す集落はハルの見立てでは、今いる地点からは凡そ二里、約八km程の距離だ。しかしそれまでの間に何が起こるか分からない。

 キコは歩きながら、先刻のハルと公弐宮の話から昨日の事を思い出した。

「公弐宮様、死人の臭い、っていう事で思い出したんですけど、昨日の夜中の事なんですけれどね…」「ん?何かあったのかい?」

 やはり熟睡していた呑気な国津神は、木の下の状態を全く気付いていなかったようだ。

「私達の寝ていた木の下は、死人達で埋め尽くされていたんですよ、ウヨウヨと」

 キコは思い出すだけで吐きそうな気分になる、と思いながら話した。

「へー、そうなのぉ、…で、それが?」

「えぇ、それでなんですけど、あいつらは今ここにいるんですよ」

 キコは歩きながら、自分達の足元に向け指をさした。

「ん?ここって、どこ、どこ?」公弐宮は地面を見ながら頭を傾げている。

「あの無数の死人達は、今、この下で寝ているんですよ」

 公弐宮はキコの話す意味が分かっているのかいないのか、地面を見てはいるが、何も返事をする事も無く、ただそのまま歩き続けた。キコも別にその話しを続けたいとは思わず、その後はキコもただ歩き続けた。



 再度歩き出して凡そ二時間、地平線に建物らしき凹凸が微かに見えてきた。

三人は頭の真上から降り注ぐ、突き刺さるような太陽の直射日光を身体全身に浴びながら、その日差しを避けようにも、この辺りは全く木が生えていないため休む場も無く、ハルを除く二人は殆ど精気の無い状態で、惰性で足を進めていた。

「っふぅ、っふぅ、全く、熱過ぎるわねぇ~」公弐宮は真っ赤な顔だ。

「そうですね、私、もう、倒れそうです」キコも殆ど熟れた柿のような顔をしている。

 いつもと変らぬハルが何かが気になったのか、突然二人の数m手前で足を止めた。

「二人とも、気を付けろ!」とハルが鼻先を上に向けた、その時、

―ザザァー、ザザァー、ザザァー   突然青空が黒い幕で覆われた。

 大きな黒い物体が突然日光を遮断し、まるで日食のように辺りが暗くなった。三人は反射的に、火傷をするくらい熱された地面に手と膝を付き、慌てて伏せた。その三人の頭の直ぐ上を、逆光でただ黒い幕でしか見えない大きな物体が、ザザザァーー、という空気を切る大きな音と共に過ぎ去っていった。砂埃が激しく舞った。

「ゴホッ!ゴホッ! な、何なの?」「ゴホゴホゴホ、な、何、今のは?」

 ハル以外の二人は何が何だか分からなかった。

「あれが、ウタの言っていた、昼間に集落を襲った奴だろう、…恐らくな」

 今の大きな黒い物体が、何故今ここに現われたのかはハルにも分からなかった。しかしそいつが青空へと飛び去っていくと、ハルはある行動を取るように二人に指示した。

「良いか二人とも、直ぐに土を身体に塗るんだ、乾いているが擦り付けるんだ!」

「えっ、えっ?」「…土?身体に?」二人とも完全な?マークの顔だ。

 つい今し方、突然現われた大きな黒い物体に驚かされ、その直後にハルが意味不明な事を言い出し、二人の頭は混乱したまま動きが止まった。

「早くするんだ!またあの怪物が来るぞ!」

 ハルは伏せた格好で鼻先を空に向け叫んだ。ハル自身は既に地面を自ら転げ回り、白い身体が茶褐色と化している。

「わ、分かったわ」「う、うん」二人とも意味は分からないがその通りにした。

 そのやり取りの後、間を開けず、いつの間に現われたのか空がまた暗くなった。そしてまた、ザザザァーー、という大きな音と共に大きな黒い物体が、三人の伏せている真上を再度横切っていった。大きくて下からではそれが何なのかがよく分からない。ジャンボジェットの胴体の真下にいる感覚だ。そいつが通り過ぎた後、三人が空を仰いだ。

「ねぇハル、…あれは、何なの?」キコが慄いている。

「はっきりとは分からない。恐らく四方津国から来た化け物だろうな」

 ハルはいつも落ち着いている。伏せた体勢で静かに話している。

「四津国からの…、あ、そうだわ!」公弐宮が何かを思い出した。

「私の住んでいるところにも、四方津国の手先が何度かやってきたんだけど…」

「それって、前に言っていた」「そう、その手先よ、その手先が一度だけ、何だか分らない化け物を連れてきた事があってね、そのせいであそこの集落の民は、昼間でも無闇に外へ出なくなってしまったのよ」

 記憶を掘り起こすためなのか、目を細めて空を見ながら話している。

「今やってきたあの大きな黒いのはあの時と同じ、手先が連れてきた化け物なんだわ」

 三人はもう焼け付く地面の事や、辺り一面漂っている土埃は気にならなくなっているのだろうか、端から見ると、土を擦り付けた身体で地面と一体化している。

「その時、私はちょうど森の中に食べ物を探しに行っていたから、直接その姿は見ていないのだけど、民の話ではね、突然、そう今のように突然辺りが暗くなったかと思うと、大きな黒い物体が空から下りて来て、沼の畔で遊んでいた子供や犬や他の生き物を一気に食らって、また飛んで行ったそうなのよ」「何だったんですか、それは?」

 キコは恐ろしげな顔をして訊いた。ハルは片耳を立て話しは聞いてはいるが、鼻先は警戒して空を向いている。今のところ、空に黒い物体は見えてはいない。

「分からないわ、余りの突然の事だったらしいし、その黒い物が大きくて、誰もそれが何なのか、…そう、今と同じ状況だったのよ、何が何だか分からないのよ」

「臭いだ」ハルが警戒しながらも、ポツリと一言呟いた。

「そうそう、ハル殿が言うようにね、その時もその黒い物体が現われる前、私も森の中で何か嫌な臭いがしていたな、って思っていて」「臭いですか」

「そうなの、それで、後で民に話しを聞いた時に、黒い物体が現われる前、その嫌な臭いと共にユラユラした黒い影を見たって、そう言っていたのよね」「黒い、影?」

「手先だろ」「そうそう、そうなのよ、それが、四方津国の手先なのよ」

「手先ですか」「そうそいつが、あの黒い物体を連れてくるのよ、きっとね」

 三人は熱された地面に伏せたまま数分、揃って空を見ていた。

 青空がどこまでも、宇宙まで続いている事がはっきりと分かるくらいに澄んでいる。その中心で大きな存在感を示している太陽が、これでもかと熱している地面に、耐えて伏せている三人の真上で、どうだ熱いだろ、参ったか!と、あざ笑っているようにも見えてくる。それとも先を急げ!と先を促してでもいるのか、更にその熱さの力を強め、ジリジリと三人の背中を焦がし続けている。

「今の内だ、行こう!」ハルが四本の足でスクっと立つと、直ぐに歩き始めた。

「うん」キコも直ぐに続いた。「そうね」公弐宮もこの時はいつもと違い、何とか動き出した。

 歩き始めた三人の少し先、もう集落の建物の輪郭ははっきりと見えている。しかしそこに住民は何人生きているのか、それは行って見ないと分からない。先ほど現われた黒い怪物が昼間に襲い日暮れには死人がウヨウヨする地で、どれだけの民が生き残れるのか。

 しかし三人は行かないわけにはいかなかった。それはこの地の世界の、この状況を打開するために必要な力を得るため、彼らが目的とする〝御印〟を探し出すために必要な情報を得るため、それ故彼らはこの地に来たのだ。引き返す事はもちろん、この地を避けるわけにはいかないのだ。もしこの集落が死人の手に落ちていようとも、一度は足を踏み入れてみなければならない。三人は再度黙して歩き続けた。



 その集落は塀で囲まれていた。思っていたほど大きな集落ではなさそうだ。

 この時代に塀で囲まれた集落というのも珍しい。それは元々あったのか、死人が現われてから必要性からできたのか。いずれにせよ、しっかりとした指導者がいるに違いない。

集落の周りは何も無い。笹薮も林も丘も無い。言うなれば荒涼としている土地、という表現が最もしっくりくるだろう。風の流れに合わせて埃や砂粒が移動し、新たな風紋ができていく。見渡せばそんな土地柄だ。しかしこの時は無風で、天頂の太陽が元気に働き、乾き放題の空気で息をするだけで、身体の水分が吸い取られそうになる。

 二時半ほど歩いたのだろうか、その塀の前に茶褐色の三人がきた。モワッとした空気の中疲労した顔を隠しもせず、やっと辿り着いたという雰囲気丸出しでそこに立っている。

 幸いにもここに辿り着くまでに三人の空には、それ以上黒い影は現われなかった。体に塗っていた土が良かったのか分らないが、ただその身体に塗った土が乾き、少しの風が舞う度に埃となり、息を吸い込む度に口の中がジャリジャリいうのが煩わしかった。

「ペッペッペ、あー、うがいがしたいわねぇ~」「そうですね、ペッペッペ!」

 塀の前に人型の二人が立ったまま動かずにいる。高さが三mほどもあるその塀を見上げている。色が茶褐色の土色のため、塀の前に二人が立つと保護色となって、姿が消えてしまうように感じる。ハルの友達ウタカラスが、闇夜に現われた時と同じだ。

「ここが、伽羅都、なのねぇ」キコが力の無い声でボソッと言った。

「その、ようね」もっと力の無い声で公弐宮が呟いた。

 そう言えば、犬型の一人が二人の傍にいない。と思ったら、横から声がした。

「こっちだ!」二人とは違い、通常と変らぬハルは早速動いていた。

「こっちに入り口がある」二人はその声に反応してヨロヨロと横に移動した。

 ハルはその入り口に入る前に何かを感じたのか、入り口前で何やらブツブツ呟いている。

「ハル、何かあるの?」キコが訊いた。「いや、もう大丈夫だ、入るぞ」

 ハルはスッと入って行き、続いてキコが入った。その後、少し遅れて公弐宮がきた。見ると入り口は小さかった。標準的な大人の背丈よりやや低いくらいの高さで、幅は肩の幅より狭いくらいだ。高さは良いが、公弐宮にとって幅はかなり狭いようだ。

「あら、何よ、何でこんなに狭い作りなのよ」息を吸い込み、腹を窄めて通り抜けた。

 もちろんそれは、防御のためにできるだけ狭くしているのだろう。夜間は閉める事になるのだろうが、昼間は開け放しているらしい。しかしこの入り口とは関係の無いところで、大事な防御ができていなかったのか、その事は彼らが塀の中に入ると直ぐに分かった。

「うわっ、何!」キコが開口一番驚くと、その後の言葉が続かなかった。

「これはぁ、何が、起こったというの?」公弐宮も驚き、同じく言葉が続かなかった。

 塀の中の建物の上部が悉く破壊されていた。何が起きたのか。二人は声を無くしたまま塀の中へと足を進めた。

 二人が塀の中に入るとその入り口から真っ直ぐに、メインストリート思われる通りが続いている。そしてその通りの脇には同じ高さの、上部が破壊された家々が見えなくなるまで連なっている。途中少し行ったところに広場と思われる空き地と、その真ん中に何かは分からないが、記念碑なのか何かのモニュメントなのか、一つの大きな背の高い、何かの石碑のような物が立っているのが見えている。

 そして入り口を入って直ぐに、塀に沿って横にも通りが続いている。その通りの長さは見た目で左右それぞれ数百mくらい、塀の角が右にも左にも遠くに見えている。その塀の角で通りも折れ曲がっていくのが分かる。通り自体は幅のあるところで七、八mほどはあろうか、それが何十mか毎に細い路地があるのだろう。つまりこの塀で囲まれた集落は、全体で細長い長方形の形をしていると思われる。この形から言ってもかなり珍しい集落だ。

 人々が集まり自然とできた、という街ではなく、ここに作ると言って作ったような、完璧な計画集落、という感じがする。

 二人はメインストリート脇の壊された家々を、一軒一軒内部を見ながら歩き出した。暫く歩いていると、キコの頭に一つの疑問が湧いた。

―そういえば、ここの住民はどこに行ったの?

 二人が塀の中に入ってから数十分経つが、昼間だというのに人っ子一人見当たらない。公弐宮の集落と同じだ。少し先に見えている集落の広場にも、熱風で砂埃が舞うのが見えるだけで、犬一匹も横切らない。生き物の気配が消えている。

 先に塀の中に入っていたハルが、少し離れたところで何かを見付けたようだ。猟犬が獲物を探し当てハンターにその場所を教えるように、何かに鼻先を向けジッと見詰めている。キコがそれに気が付き早足で近付いていった。そこは少し先の集落の広場の片隅、住民の家と家の連なりが途切れたところで、やや奥まっている場所だ。

「ハル、何か見付けたの?」「あれを見てみろ」キコが鼻先の向く方を見た。

 そこには人間の物と思われる何本もの細い骨太い骨、そして何個もの頭蓋骨が向きは不規則に小さな山を作っていた。

「うっ!」キコは思わず口を手で押さえた。

「どうしたの、何かあったの?」遅れて公弐宮がきた。キコの後ろから同じ場所を見た。

「これって、骨の集まり?」公弐宮は口を押さえなかった。

 ハルがゆっくりと近づいていき、クンクンと通常の犬の仕草で鼻を利かせた。

「これは、奴の仕業だな」と言って、その場で空に鼻先を向けた。

 この場合〝奴〟というのは、この集落に来る前に三人の頭の上をザザーと掠めていった、あの大きな黒い〝奴〟の事だろう。

 もしこれが死人の群れの仕業であったなら、こんな奥まった一カ所に人肉を貪り食った後で、骨をわざわざ集めたりはしないだろう。奴等はそんなにマナーは良くないはずだ。食い千切っては、その辺に食い散らかしていくはずだ。このお行儀の良い人肉の喰い方は、恐らくそれが四方津国の化け物であろうと、鳥等の動物的習性からくるものと思われる。少なくとも死人では有り得ない。

 この事を含めて、この捕食者は恐らく空から来たのだろうと思われる。その証拠にこの集落の住民の家々の破壊のされ方が、悉くに屋根からの破壊という事が容易に分かるし、そして塀が壊されていない。しかも入り口はあの小ささだ。死人がそこを通り抜けたとしたら、中に入るために一人一人ランチタイムの食事の席待ちのように、一列に並ばなくてはならなくなる。奴等がそんなにマナーが良いわけがない。死人が綺麗な列を作り肩を揺らしながら、ウーと唸りながらも大人しく並んでいる様子を、誰が想像できるだろうか、有り得ない。

 結局この集落は、死人からの防御には成功しているのにも拘らず、昼間の捕食者、これは恐らくだが、四方津国からの手先の連れてきたらしい空飛ぶ化け物、あの大きな黒い奴にこの集落は壊滅状態にされた事になる。

「そう言えば、藤ノ宮池之守命は大丈夫なのかしらねぇ」公弐宮の友達の名前だ。

「公弐宮様のお友達、藤ノ宮様と言うのですか?」「そうなの、良い名前でしょ、名前だけは綺麗なのよね、ハハ」「そのお友達を探さなくては、なりませんね」

 二人は話しながら骨の山から離れた。公弐宮は通りに並ぶ屋根が破壊された家々の中を、その友達の手掛かりを探しに一軒一軒入っていった。

 この集落の一つ一つの家は、外壁が通常の板張りではなく、エーゲ海の島々に見られるような真っ白い土壁の家で、入り口の扉は茶色の木でできていた。殆どの家が同じ造りで、コピーされたように屋根だけが壊され、土壁は綺麗にそのままだ。

「公弐宮様ぁ~、その方が住んでいた目印というか、どんな家に居られたのですかぁ?」

 キコも一緒に手分けをして、公弐宮の友達の痕跡探しを手伝い始めた。

「実はねぇ、私もあの人がどんな家に住んでいたのかは知らないのよぉ~」

「じゃあ、その方の特徴というかぁ、何か分かる物を持っていたとかぁ」

「それがね、何も無いのよぉ~、この集落にいるって事だけしか知らないのよねぇ~」

 二人は各自、壊された家々に入っては出てを繰り返しながら、集落の奥へと進んでいった。その間、やはり鼠一匹見掛ける事が無かった。住民や生き物全てが食われてしまったのだろうか。それにしては、あの骨が積まれた場所以外に骨は見当たらない。それもおかしな話だ。骨の量が少な過ぎる。二人が暫く公弐宮の友達探しを続ける内、公弐宮がある事を一つ思い出した。

「あっ、そういえば!」少し離れた家にいるキコに声を上げた。

「あのねぇ、あの人、一匹の白い犬と暮らしていたわぁ~」キコが別の家から顔を出した。

「白い犬ですかぁ~、分かりましたぁ、私も白い犬と暮らしていましたよ~、ハハ」

 そういえば先ほどからキコの言う白い犬はどこへ行ったのか、近くにはいなかった。

 この集落、さほど大きくはないといっても、塀の中の家の軒数にすればかなりな数は集まっている。その一つ一つを見て回るのはどれほど時間が掛かるのか。しかもその状況はといえば屋根は破壊され、その残骸が飛び散らかされ足場は極めて悪い。そんな中を一人の消息を探すために痕跡を見付ける事など、できるのだろうか。今の世なら差し詰め写真やパソコンなど、その人を特定する何かが残っていそうな物だが、この時代にある人を特定できる何かなど、残っているのかどうかは疑わしいところだ。

 この時そこにいた二人は、そんな事など余り深くは考えず、ひたすら真面目に、埃が舞い瓦礫が散乱する中、各々、黙々と作業を続けた。

 暫くして通りの先の方から、タッタッタッ、と歩く音がしてきた。キコの言う白い犬がお戻りだ。通り上に人型二人の姿は見えないが、立ち止まり少し大きな声を出した。

「一通り集落の中を見てきたが、見た目には誰もいないな!」

 ハルは通りの真ん中で声を響かせた。キコと公弐宮がその声を聞いて、別々の家からそれぞれ顔を出した。

「あ、ハル」キコが二軒離れた家から顔を出した。

「だけど、住民はどこかに居るようだ」「そうなの?どこに?」

「考えてみてくれ、先ずはこの集落の入り口だ」鼻先を入り口の方へと向けた。

「死人対策で小さく作ってあり、昼間に人が出入りする時に開け放ち、そして夜間はまた閉めるのだろう」「多分そうよねぇ」公弐宮も別の家から出てきた。

「私達が来た時は、入り口は開いていたわよねぇ~」「そう、開いていたのさ」

「あっ、そうか、誰かが開けたという事だわ!」キコが指を立てて言う。

 ハルはコクっと頷き、身体を反転させると通りの先へと足を進めた。

「一緒に来てくれ、向こうに人がいた形跡がある」

 キコと公弐宮も友達の痕跡探しは後にして、そのままハルの後に続いた。

 通りは真っ直ぐに続いている。家々は基本的に白を基調とした家が多いが、時々黄色掛かった壁があったり薄っすら赤味を帯びた壁があったり、破壊さえされていなければおしゃれな感じの街並みと言って良い。

暫く歩くと通りの真ん中に井戸があった。

「ここだ、水を汲んだ後があるのさ」鼻先を置いてある水桶に向けた。

「井戸ね、水、飲めるのかしら?」キコが桶を手にした。喉が渇いているのだろう。

「大丈夫なのかしらねぇ~」公弐宮も近寄ると、井戸の縁の石組みに手を掛けた。

 二人は並んで井戸の中、下を覗き込んだ。先ずはここの住民がどうとか、友達がどうとかはさて置き、とにかく先ずは水が飲みたかった。ここまでの状況を考えると当前といっても良い。乾いた大地を歩き通し、土埃を食べてきた二人だ。キコは手にしていたロープで繋がれた桶を井戸の中へと滑り落とした。

―ガラガラガラ、シューッ、バシャン!   音からすると水はしっかりとあるようだ。

―ズズー、ズズー、ズズー、ゴトッ!   桶を引き上げた。

 二人は水が何かで汚染されていないかどうか、チェックし出した。

「大丈夫かしら?」公弐宮が指先を濡らし、鼻先で嗅いでみた。

「大丈夫ですか?」「う~ん、大丈夫だと、思うけどぉ…」「そうですか」

 二人はやや半信半疑だったが、桶の中の水に映る、自分達の乾き切ったボサボサの髪の毛とカサカサの顔を見た時、身体の内側からどうしようもなく水分を欲しがっている感情を、もはや押さえ切れなくなっていた。例えそれが何かに汚染されていようとも、この瞬間、二人の頭にはそんな事はどうでも良く感じてしまっていた。

 二人は一度お互い顔を見合わせ、ウン、と同時に頷くと、目の前の桶に二人の手を同時にジャバ、と入れた。そして一すくい水を手ですくい上げると、飲むぞ、というお互いの確認の意味なのかまた顔を見合わせた。そしてウン、と再度頷きゆっくりとその手を口へと持っていった。と、その時、飲む寸前、水面がもう唇に届きそうな時だ、

「だめだよ!その水を飲んだら!」突然、聞き覚えの無い声が誰もいない通りに響いた。

「その水を飲んだら、死んでしまうわ!早く捨てて!」どこから聞こえているのだ?

 二人は何?と思いながらも条件反射的に手を開き、すくっていた水を桶にバシャッ、とこぼし入れた。声がしたのと同時に横にいたハルがスッと耳を立て、素早く鼻先を近くの家と家の間、この井戸を中心に十字路になっている一本の細い路地の奥の方へと向けた。

「誰、誰かいるの?」キコが路地に向かって呼んでみた。

 しかし水が危険だと言ったその声は、それ以上聞こえてこなかった。そしてその声を発した者の姿もどこにも見えない。ハルがゆっくりと、その声のした方へと歩き出した。僅かに警戒しているのか、背中の毛がやや盛り上がってきている。目はまだ赤くはない。

「こっちだ」「ハル、大丈夫?」「大丈夫だ」

 聞こえた声は少し甲高かった、思えば子供の声のようだった。ハルにはそれが分かっているのか一応警戒はしているが、大丈夫、と確信を持っている様子で歩いている。井戸の前にいる二人の顔はハルの向っている先、路地の奥の方を見てはいるが、身体は井戸の周りの石組みに隠れるように、少しばかり腰を屈めて立っている。

 ハルは路地の奥へと消えていった。その姿を黙って二人は見守った。

 ここに来る前にハルは誰か人がいる形跡があると言っていた。それにその前に話していたように、塀の入り口が開いていた事実もある。故に今更、姿が見えはしないが声がした事に別に驚く必要はないはずだ。確かに誰かがいるのだろう。それは昼間の空からの怪物来襲に備えて、どこか避難的に隠れているのだろうか、もしくは夜の死人に対する何か方策を考えているのだろうか。はっきりとした事は分からないが、いずれにしてもここに住んでいる住民である事に間違いはないと思われる。

「キコ、公弐宮、こっちへ来てみろ」ハルの落ち着いた声が、少し離れたところからした。

 それは路地の奥、一軒の白い小さな家から聞こえてきた。路地の突き当たりだ。二人は恐る恐るでもないが、ゆっくりと辺りを一応見回しながらその白い家に向った。

 その家は小さく、両脇が大きな家のためだったのか〝奇跡的〟と言って良いのか、屋根の破壊も無く、全くの無傷の家だった。

中に入るとハルが待っていた。

「地下があるんだ。住民がいるようだ」淡々と言うと、鼻先を地下の入り口へと向けた。

 二人はハルを先頭にして、家の地下へと降りていった。階下に降りると狭く薄暗い部屋に、かなり強くかび臭い臭いが漂っていた。地下の〝部屋〟というよりは、〝室〟もしくは〝地下倉庫〟といった感じがする。二人は思わず、ウッ、と声を漏らし口と鼻を手で覆った。そしてゆっくりと足を踏み入れ一分ほど黙っていたが、目が慣れて中の様子が見えてくると、手を口にしたまま今度は二人同時に、エッ、と声を漏らした。

 小さな明かりが部屋の隅で、申し訳無さそうに灯っていた。

その明かりを前にして、数名の住民と思われる男女が肩を寄せ合い、きちっと正座で床に座り二人の方をジッと見詰めていた。誰かが階段を下りてきたので手で明かりを覆っていたのか、始めは灯りが見えなかった。その明かりを囲んだ中には、一人の子供の姿もあった。女の子だ。恐らく数分前にあの、水は飲むな!と言った甲高い声の主だろう。小さいが鋭い目で二人をジッと見詰めている。そしてその子の横には、まだ子犬なのか小さい白い犬が、鳴き声も出さず大人しくチョコンと座っていた。

「あの水は飲めないのよ!」先ほど聞いた、あの声だ。

「そうなのぉ、知らなかったのよ」キコがしゃがんで顔を近付けた。

「貴方達は、この集落の住民よね?」公弐宮が他の者に訊いた。

 今で言う畳六畳間ほどの広さの部屋で、薄暗がりの中大人の男が三人と女が二人、そして女の子が一人と子犬が一匹、肩を寄せ合っていた。近付きよく見ると大人の男女はいずれも年寄りで、七十歳は越えているくらいなのだろうか、白髪が目立つ。

「そうだが、あんたらは、誰かね?」年寄りの中の一人が公弐宮の問に答えた。

 シャキッと背中を真っ直ぐにして座り、この中でのリーダーといった雰囲気だ。

「私は公弐宮という上淨沼の国津神、これはキコとハル、千世から来たのよ」

「私達、ここに藤ノ宮様に会いに来たの。公弐宮様はお友達なの」キコが言う。

 キコと公弐宮は一言でも会話をしたせいか気を緩ませ、この者達の前に並んで腰を下ろした。ハルは変に気を使わせない意味もあってか、口を開かなかった。

「おぉ~、藤ノ宮様のお友達なのですか、ふ~む、そうですかぁ~」

 そのシャキッとしている老人は公弐宮が藤ノ宮の友達と聞いて、一度目を大きく開き嬉しそうな顔をしたのだが、直ぐに顔色を曇らせ下を向いた。そして後ろにいる他の老人達の方を向くと、目で何やら相槌をした。

「それで、公弐宮様、藤ノ宮様には、何か御用事がおありでしたか?」

 友達に会いに来た、というだけで用事が必要なのか?と公弐宮が思ったが、この集落の状況から見て直ぐに何かわけがあるのだと察した。この集落の有様がどうしてこうなったと、普通なら先に状況を聞きたいところだが、ここに来るまでの黒い怪物や死人の事など、凡その事は説明が無くても分かっている。故に公弐宮は何も言わずキコの方に顔を向けた。

「キコ、この旅の意味を説明してあげてくれないかしら」よそ行きの口調だ。

「はい、分かりました」キコも公弐宮の意図を直ぐに理解したようだ。

 キコは三人がどうしてこの旅に出たのか、順を追って説明した。

千世の周りの危険な状況、死人が大挙して迫っている、そしてその他の集落の状況、そしてその原因である四方津国の事、そしてこの状況を打開するために〝御印〟を探しに出たのだ、等々、途中老人からの疑問にも答え、ゆっくりと話した。老人はキコが話し終えると大きく頷き、他の老人とも顔を見合わせ顔を綻ばせた。そして他の老人と共に頭を一度、コク、と下げた。

「ありがたい事です、我々の集落も御覧の有様で、この先どうしたら良いのか途方に暮れていたところです」老人、他の老人と見合わせ再度大きく相槌を打った。

 その後この老人、一息フッと息を吐くと、この集落の状況を自ら説明しだした。

「五年ほど前からなのです、死人が集落の前に現われ出したのは…」

 その説明によると、この集落に死人が現われて以降、それまで塀も柵も無かったこの集落に防御のため塀を作り、死人の侵入は防げるようになったのは良いが、今度は空から大きな黒い怪物が現われるようになり、ある時は住民が突き殺されまたある時はその場で食われ、住民が家から出なくなると次々と家の屋根を破壊され、鶏が餌を突くように手当たり次第に食われ出した。そして、ある時、フラっと黒い影のような者が現われたかと思うと、それまで何とか怪物の嘴から逃れていた集落の若者や長老など、集落を纏めていた者達が次々とさらわれていってしまった。

 更に夜の死人はその数を増し続け、この集落の外、見える範囲は全て死人で埋め尽くされるほどに、塀の周りは死人が蠢くようになってしまったそうだ。井戸の水が飲めない理由も、その黒い影が何かをしたせいらしい。

 三人がこの地にやってきた時に考えた通りの事態が起こっていた。公弐宮とキコが、やはり、という意味で顔を見合わせた。

「それで、藤ノ宮は、どうしたの?」一通りの説明を聞いてから公弐宮が訊いた。

「藤ノ宮様は元々この集落から少し離れた、大きな池之端に住んでおられたのです」

「あ、それで、池の守の命、という御名前なのね」キコが気付いたように言う。

 老人は藤ノ宮の事を話すのに合わせ、死人が現われる前の頃からの話しをした。

「貴方達もここに来られる際に見られたと思いますが、この辺りは今、荒涼とした土地となっております。しかし以前は、この集落の周りは美しい香木の林で囲まれていました」

「へー、そうなんだ」キコが頷く。「そうなのです。伽羅都の伽羅とは香木の名前なのです」「あら、そうなの」公弐宮が改めて頷く。「伽羅都、とは、伽羅の都、という意味なのです」老人の説明に、聞いている二人が同時にまた頷く。

「しかしその美しい林も、死人の群れが現われてから次第に枯れ始め、遂には何も無い、このような土埃の舞う荒涼とした土地となってしまったのです。悲しい限りです」

 実際に今でも伽羅という香木は存在している。沈香から作られ、特に東南アジアなどでは白檀等と共に、高値の取引がされている。

「そしてあの藤ノ宮様は、いつもこの伽羅都の集落のため何か事が起きると、色々手を尽して下されていました。そして今、このような事態になりましても、塀の周りに呪文をお掛けになりまして守って下さっていたのです」

「あ、それで、ハルがここの塀の入り口に入る時に、何かを感じたのね」

 キコはまた気付いたように指を立て、ハルと目を合わせた。ハルは黙っている。

「でも、あの影のような者が現われた時、藤ノ宮様の呪文が効かなかったのか、遂には連れて行かれてしまったのです」老人は済まなそうな顔をして下を向いた。

 その老人の後ろで、他の老人達もその説明に合わすようにして下を向いた。

「そうでしたかぁ」公弐宮とキコが見合わせ頷いた。

「他に生き残っている人はいないのですか?」キコが訊く。

「多分まだいるかとは思います。我々のように隠れた場所でお互いひっそりとしていますので、どこに何人いるのかは分かりませんが、この集落の塀の入り口は東西南北と四箇所あるので、その入り口が昼間に開いているなら、恐らく誰かいるのでしょう」

「そうね、この集落に入る時に入り口が開いていたので、誰かがいるという事は私達にも分りました。でも、その黒い影に何人がどこへ連れていかれたのか、心配ですね」

 キコが心配そうに老人と話していたその横で、ハルが伏せの体勢からゆっくりと四足で立ち上がった。耳をピンと立てている。

「その連れて行かれた者達、どこへ連れていかれたのか場所は分からないのか?」

 一瞬、老人達は息を呑み目を見張った。もちろん犬であるハルが言葉を発したためだ。予想された雰囲気だが、一呼吸空けてキコが気遣かい、直ぐに説明をした。

「あ、このハルは天系の犬なのです。千世の天津神様と共にこの地に下りてきた、天界の犬なのです」老人達はパチッと目を開け、互いに見合わせた。

「そう、…なのですか」「ハル殿は、頼りになるわよ~」公弐宮が笑顔で言う。

「そう、…ですか」リーダー格の老人は戸惑いの顔で、まだハルの顔を見ている。

 ハルはそんな老人達を他所に、キコと公弐宮の方に鼻先を向けた。

「公弐宮、友達を探しに行くしかないな」「えぇそうね、助けに行くしかないわね」

 リーダー格の老人は今の二人のやり取りで悟ったのか、我に返るとハルに向って言った。

「その、連れていかれた場所は私達には分からないのですが、この子は知っていると思うのです」と言って、あの水が危ないと言った女の子を指さした、のかと思ったが、

「この子は、あの藤ノ宮様が飼っていた子犬なのです」

 老人が指さしたのは、女の子の横にチョコンとお座りしていた白い子犬の方だった。

 キコと公弐宮が同時に、エッ、と声を出してその子犬を見た。ここに来る前、藤ノ宮の痕跡を探している際、何か目印になる物が無いかキコが公弐宮に聞いた時に言っていた、白い犬と一緒に暮らしている、という、その犬だった。

「この犬は藤ノ宮様が連れていかれた時に、一度は一緒に連れていかれたのですが、暫くしてから、何故か一人で戻ってきたのです。それがどこからなのか、どうやって戻ってきたのかは、全く分かりません」老人は子犬に手を差し出し、腕に抱え頭を優しく撫でた。

「そうか」ハルは一言言った後、老人の抱える子犬に鼻先を近付けた。

 見た目はハルを二周りほど小さくしたような、砂糖のように白い小さな犬だ。

―クゥ、クゥ、グル、グル、グル   子犬がネコのように喉を鳴らした。

 ハルに何かを話し掛けているのか、子犬はハルの鼻先を舐め、そして小刻みに小さな声でクゥ、クゥ、と言うと、ハルも応えるようにクゥ、クゥ、と言った。

「キコ、公弐宮、行くぞ!」ハルは言うや否や動き出した。ハルの動きはいつも早い。

 ハルは子犬から目的の場所を聞いたのか、犬語なので他の誰も分かりはしない。

キコと公弐宮は慌てて立ち上がり、老人達は戸惑いの表情で三人の動きを、口を開けながら見ているしかなかった。キコがこの薄暗い部屋から出る間際に簡単に言い残した。

「連れ去られた人々を助けに行ってきます。どうなるか、分かりませんが」

 老人達はその説明にただ言葉も無く、同時にコクっと頷くしかなかった。

それにしても、キコはハルの後姿を追いながら、今更ながらに思う事があった。

―ハルが、どんどん大きくなっていくわ

 確かにキコが一人思うように、数日前まで千世の集落で一緒に暮らしていた時のような、子犬のハルは既にそこにはいなかった。大して時は経っていないにも係らず、あの軍神の蘇りの時から目覚めたように、ハルはどんどん成長を続けている。それは天系の犬である、という事だからなのか、それははっきりとは分からない。しかしキコが気付くその時その時、その場その場で、ハルは一つ一つ大きくなり才能を開花させていっている。

 キコは頼もしく思いながらも、あの子犬のハルが、と少々複雑な気持ちでハルの後ろを駆けていた。ハル自身はそんなキコの思いを知ってか知らずか、俺に任せろよ、と思っているのかいないのか、今の彼らの状況を表すように後ろを振り向く事も無く、どんどん先へと進んでいく。

 それはあたかも今のこの荒れた地の世界そのものが、それを望んでいるかのように、彼らはひたすら御印を求め足を進めていくだけだ。



 珍しく雨が降り出した。久々の湿り気だろうが、乾き切った大地は満足気に雨水を吸い取っていったかと思いきや、それを通り越してグチャグチャにぬかるんでいる。この辺りは香木の林も無く丘も無く、もちろん建物も一切無い土地故に雨宿りもできず、三人はずぶ濡れで、グチャグチャの道なき道を歩いている。しかし気温が高いためか駆け足に近い歩きのためなのか、身体は火照り決して寒いというわけではない。

「ねぇハル、あの子犬と何を話したの?」「ハァ、ハァ、私も、ハァ、知りたいわ」

 キコと公弐宮が早足で歩きながら、揃ってハルの後ろから訊いた。二人はどこからか見付けてきた大きな木葉を頭に載せている。この辺りに大きな木を見掛ける事はまず無いと言ってよい。時折、草花の小さな群れは見掛ける事はあるが、このような大きな葉の植物が、この荒涼とした土地に生えていたのだろうか、不思議だ。恐らくまたハルがどこからか調達してきたのだろう。二人はその木葉のお陰なのか、天気の事など殆ど気にしていない様子で、実際は陰鬱な気持ちにでもなりそうな天候で、意外に楽しそうに歩いている。

 ハルはというと、いつもと変らぬテンポで真っ直ぐ前を見たまま、足の速度を落とす事も無く二人の問に答えた。

「うん、あの子犬は公弐宮の友達が、囚われた先で上手く逃がしたらしい」

「という事は、あの子犬が戻ってきたわけだから、ハァハァ、そんなに、遠くではないって、ハァハァ、事よねぇ」公弐宮、歩いているだけなのにもう息が切れている。

「恐らくな。しかしそこまでどれくらい離れているのかは、はっきりとは分からない」

「そう、それは残念ね。それと、言っていた〝影〟っていうのは、なんだろうね?」

 キコはジョギングをしている感じでテンポ良く歩いている。話しをしていても、公弐宮だけが一人息を切らして、二人にやっと付いていっているという感じだ。

「あれは四方津国の手先なんだろうけど、どういう奴なのかは俺にも分からない」

 三人が会話をしながら歩いていると、何やら雨音以外の音が、微かな音だが三人の後ろから聞こえてきた。その音にハルの耳が敏感に反応し、足を止め振り返った、

―ピチャッピチャッピチャッ、ピチャッピチャッピチャッ

 小さい音だがテンポは速い。ハルが突然足を止め鼻先の向きを変えたため、それに合わせるように他の二人も同時に足を止め、揃って後ろを振り返った。

「あっ!」「あらっ!」「ん?」三人それぞれ驚いた。

―ピチャッピチャッピチャッ、ピチャッピチャッピチャッ

 その小さな足音は三人の数m手前で止まった。止まって三人を見ている。小さな目だ。

「貴方は、あの…」キコが声を掛けた。

「あらあら、ずぶ濡れじゃない」公弐宮がゆっくりと近付き、身体を撫でてあげた。

「…」ハルは黙って見ている。

 白い小さな身体は小刻みに震えていた。その小さな四足で、必死に三人の後を追い掛けてきたのだろう、小さな足が泥でグチャグチャになっている。追い掛けてきたのは、伽羅都の集落の無傷の家の地下にいた、あの小さな白い犬だ。

「何故ついてきたの?一緒に行こうと言うの?」キコが近付いて優しく声を掛けた。

 ハルは無言で見ている。公弐宮はゆっくりと抱き寄せ、更に持っていた布切れで身体を優しく拭いてあげた。

―クゥ、クゥ、クゥ   子犬はハルの方を見て小さな鳴き声を発した。

「クゥ、クゥ、クゥ」それに応えるように、ハルも小さく声を出した。

 キコと公弐宮は、犬同士の会話なので黙って見ている。

―クゥ、クゥ、クゥ 「クゥ、クゥ、クゥ」

 犬語会話が暫く続いた。その内、雨が小降りになってきた。そしてハルがコクっと一つ頷いて、犬語の会話は終ったらしい。ハルが鼻先を進行方向へと向け直した。

「この先、もう少し行くとまだ香木の林の残っているところに出るらしい。その林の中を暫く行くと、岩の砦のようなところがあるらしい」鼻先をまたこっちへ向け直した。

「そこに囚われた人達がいるの?」キコが訊いた。

「うん、そのようだな」「でも、この子、ついて行く気かしらねぇ」公弐宮が訊く。

「そのつもりらしい、自分が案内すると言っている」

 三人の目は揃って、その小さな白い犬へと向けられた。

 小さな犬は、クゥ、と一鳴きして公弐宮の手から離れ、自分が案内します、とばかりに、見守る三人の目を他所に一人先に歩き出した。三人は心配顔でその動きを目で追ってはいたが、別にそれを引き止めるわけでもなく黙って後に続いた。

 小さい犬は小さいながらも意志が強いのだろうか、ハルにはそれが分かったのか、別に付いてきても問題が無いと思ったのか、いずれにせよハルが何も言わないとなれば、他の二人は何も言う必要が無い。そんな三人の心情は、もちろんこの小さな犬の頭には思いも寄らない事だろうが、この小さな犬にはそれなりの考えがあって付いてきたのだろう。

 小さな犬を仲間に加え、四人の〝救出隊〟が濡れた大地を歩いていく。

 雨は既に上がっている。三人の向かう先が、雨の湿りっ気が水蒸気となって煙っている。それはこれから何が起きるか分からないが、この〝救出隊〟の暗雲なのか幸運なのか、それを暗示しているようにも思える。雲が速く動いている。その雲の群れの合間を縫って黄色い太陽の日差しが、定規で線を引いたように二本三本と、次第にその本数を増やしながら天空から真っ直ぐに、濡れた大地を照らしだしてきた。この光景も彼らが向かう先の暗示なのか、その内明るくなるぞ、とでも言っているようにも思える。



〝クゥ〟が言っていた、まだ残っているという香木の林は意外に遠かった。半日歩き通してもまだ陰すら見えないでいる。

〝クゥ〟とは、この白い小さい犬の事だ。三人はいつも、クゥクゥ、と鳴くので〝クゥ〟と名付けたようだ。

「そろそろ林が見えてこないと、日が暮れてしまうわねぇ」「そうですよねぇ」

 公弐宮とキコが呟いた。犬同士は先を歩いている。後ろから見ると大きさの違いがあるだけで、まるで親子のようだ。

〝日が暮れる〟それは単なる一つの言葉に過ぎないが、そう、公弐宮の言う日が暮れるとは言わずもがな闇の世界が来る、という事だ。

「ねぇ~、クゥ、林まではまだ遠いのぉ~」キコがクゥに大きな声で言った。

 その声の意味が分かったのか、歩きながらクゥがハルに鼻先を向けてクゥと鳴いた。

「あの大きな岩を越えると見えてくるらしい」ハルが鼻先を少し振った。

 見ると、距離にしてどのくらいなのか、比較する物が近くに無いので分かりずらいが、公弐宮とキコは目を細めて歩く先を遠目で見た。

「あぁ、あれね、遠くに大きな岩らしいのが見えるわ」

公弐宮が額に手を翳して目を細めている。

 歩きながらクゥがまた、クゥ、と一鳴きした。

「林の近くには沼もあるから、死人は来ないらしい」ハルが通訳のように言う。

「あら、そうなの、それなら良いわね」「飲み水もありそうね」

 それから程なくして、四人は大岩のところまできて並んで立った。

 大岩の横から先を見ると景色が一変していた。今まで歩いてきた道は、まるで別の国にいたのかと思えるくらいに、そこから先は見渡す限りの緑色だ。まだ林は見えてはいないが、この緑の中なら林だろうが森だろうが池だろうが、生命の溢れる土地である事は直ぐに理解できる。何という違いだ。砂漠の中のオアシス、そんな観のある景色を暫く一行は眺めていた。乾いた心が洗われていくようだ、と思っているのか、この先の苦難を前に一時の潤い、とでも思っているのか、それぞれの、っふぅ~、という呼吸が聞こえてきそうな、そんな顔付きをしている。

「これなら水の心配は無いわねぇ」「空気が綺麗に感じるぅ~」

 公弐宮が腰に付けていた水の入った筒を手に取り、残っていた少ない水を勢い良く口に流し込んだ。キコは、両手を広げて大きく息を吸い込んだ。

「あの、岩山の一つなのかな?」キコが遠くを指さしている。

 広大な緑の海に、視界の届く範囲で何箇所かの岩山らしき丘が、海原に浮かぶ小さな島々のようにポツンポツンと見えている。その最初に現われたのが、今この一行が立っている岩山だ。クゥが一鳴、クゥ、と鳴いた。

「あの一つの丘の岩の下に、闇の手先がいるらしい」白い通訳が鼻先を振った。

「岩の下?」キコがクゥを見た。「闇の手先らしいわね」公弐宮が呟いた。

 クゥが返事をするように、またクゥと鳴いた。その鳴き声に通訳がクゥ、と一言応えた。そして呟いた。

「厄介だな」「どうしたの?」キコが訊く。

「その場所は日が暮れて、闇の世界になってからでないとはっきりと分らないそうだ」

「そうなんだ、昼間には場所が分らないって事なのね」

「さすが闇の世界の手先だわねぇ」公弐宮は腕を組み、変なところで感心している。

「先ずは先を急ごう、日が暮れてしまう」ハルが二人を促すように鼻先を振った。

 一行が動き出した時、見渡すと雲のすっかり無い青空だ。子供の絵本に出てくるようなオレンジ色の太陽が、地平線の少し上から、時間が無いぞ急げ急げ、と一行を急かすように笑顔で言っているようにも見える。

 実際のところ日が暮れれば、緑の中でも死人は来るし他に何がいるか分からない。それにもちろん、今この時、この一行の目的はさらわれた人達と藤ノ宮の救出にある。故にゆっくりなどしているわけにはいかない。先ずはこの夜を過ごす場所を決め、明日に備えなくてはならない。幸いにもここには死人の登る事ができないような高い木が、視界の中に何本かの集まりで何箇所かは見えている。

 再び歩き始めて直ぐに日が暮れた。が、一行はまだ歩いていた。

「香木の林までは無理だな、どこかその辺の高い木に登るか」ハルが言う。

 ハルの言葉に合わせ各自それぞれ、薄暮の中別々の方角に目をやった。少なくとも見える範囲の近場には、水のある場所は無かった。故にある程度の高い木でなくては、死人から逃れる事はできない。

「あの木が良さそうじゃない、高いし太いし」公弐宮が少し遠くを指さした。

 一行からどれくらいの距離だろうか、既に日が沈んだ西の地平線、薄暮の中右斜め前方に、マッチ棒のように一際高い尖がりが一本見えている。

その木は周りの幾らかの範囲で黒い木々が集まりとなっている中、他の尖がりから頭二つほど高い。故に、この距離からでもかなり樹高のある木なのだろうと予想が付く。まだ明るさが西の空に残っている間、一行はその大木の下まで何とか辿り着いた。

 実際に近付いてみると、遠くから見ているのとは違いかなり迫力のある木だ。太くて高い。オアシスの巨人、緑の番人、とでも表現したくなるような、この地に於いて圧倒的な存在感のある巨木だ。とてもマッチ棒と言えるものではない。高さは優に五十mくらいはありそうでビルにして二十階くらいなのか、周りの何本もの木々の上更に高く聳えている。アメリカ西海岸に聳えるセコイアの巨木のようだ。

 これは一行が思っていたよりはるかに、登る事に一苦労しそうな高さだ。

「大きいわねぇ~」「どうやって登ろうかぁ~」

 公弐宮とキコが見上げている間、ハルは周りを色んな意味で確かめている。もちろん自分達の安全のために、この地の状況や地形を頭に入れているのだろうが、現時点での外敵の有無を含めての警戒だ。さすがにハルだ。

 しかし今差し当って必要な事はこの木に登る事なのだが、いくらハルのジャンプ力でも、この木の下枝までも届きはしない高さだ。ところでクゥはというと、一人トコトコと大木から離れた別の木に向かっていた。

 キコと公弐宮が見上げているこの巨木、幹の太さは直径で言うと三mほどはあろうか、根元から最初の枝までが八m以上はありそうだ。しかしその枝振りがすばらしく、一本一本の枝が普通の木の幹ほどもありそうな、太くそして長い。その枝にこんもりと団扇よりも大きな葉が繁り、あちこちにたわわに実がなっている。食べる事ができるのかは分らない。東南アジアでよく見掛ける、ゴツゴツとしたドリアンのような大きく丸い実だ。

 公弐宮とキコが驚きと感心の眼差しで仰ぎ見ている時間が過ぎ、さてどうやって登ろうかと思案している最中、クゥが巨木の周りに生える一本の木に、犬ながら登っていた。その木は高さが十五mほどの中くらいの木で、下枝が低く犬でもポンポンと、枝伝いに容易に登って行ける枝ぶりになっていた。しかし寝床としては枝が細すぎる。

その木の殆ど天辺の先の方にクゥがいる。

「あっ!」キコがその姿に気付いて指をさした。公弐宮もその声に釣られて顔を向けた。

「ああー!」二人が同時に大きく叫んだ時、

―ギシギシギシギシー   クゥが木の天辺の柔らかい部分に上り詰めている。

 背の高い木だ。軽いクゥでも曲がるくらい、柳の木のように細くしなやかな木だ。

―ギシギシギシギシー   どんどん曲がっていく。

 クゥを乗せるその木の先が、次第に公弐宮とキコの遥か上に曲がり折れてきて、目の前の巨木の枝に触れるところまで曲がってきた。

―ギシギシギシ、ポンッ、ギシッ、ギシッ、ギ、ギ、ギギギギー

 二人が注目している中、クゥは大きく折れ曲がったその細い木の先から、ヒョイッと巨木の一番下の枝に飛び移り、何食わぬ顔で巨木の幹の辺りまでトコトコと太い枝の上を歩いてきた。そして下を見た。

「クゥ、クゥ、クゥ」何か言っている。

「クゥ、クゥ、クゥ」下にいる通訳も何かを返した。犬後の会話だ、

 ハルが鼻先をあっちに向けたり、こっちに向けたりしてクゥクゥ言っている。当然だろうが、他の三人が登るのにどうするかを話しているようだ。その内、帳が完全に下りた。

 全くの闇の世界、空間に明かりがポッと浮かんでいる。巨木の下から三分の一ほどの高さに一行が休んでいる。

 結局、縄を掛けるなり、ああーだこうだ言いながら、どうにかして彼らは登ったのだろう。一行は寝てしまう前に、小さな明かりを頼りに次の日の作戦を考えている。それはかなり厄介な仕事になる事は明らかで、先に言っていたクゥの話では、日が暮れなければ、公弐宮の友達や他の人々の囚われている場所が現われてこないという、先ずはその事をどうするのか。詰まり、闇の世界で死人がうろつく中、どうやって彼らのいる場所を見付け出すのか、という事が一つ問題としてあった。

 クゥの話しでは、逃がされてきた時、気が付いた時には香木の林近くの岩山から少し離れた場所に、いつの間にか一人でいたらしく、どう逃がされたのかははっきりしないらしい。そしてもう一つは、影の存在だ。未だ影の姿がはっきりと分らない。誰もその実態をしっかりと確認した者がいない。話しを聞かない。一体どんな奴なのか、殆どその正体が分らないままなのだ。そんな奴にどう対処すれば良いのか。ハルでさえ考えあぐねている。クゥが岩山に連れてこられた時も、クゥはただ藤ノ宮に抱かれていただけで、影自体の姿を見ていないらしい。

 実際のところ、ハルが助けに行くと決めてここまで来たのは良いが、本当にこのメンバーで、闇の一味から彼らを救い出す事などできるものなのか。枝の上、それぞれが、う~ん、と唸っている、名案が浮かばない、皆そんな顔をしている。

「でもね、もう闇の世界になっているけど、まだ死人は現われてはいないじゃない、という事はよ、ある程度の時間的余裕はあるんじゃないかしらねぇ」

 公弐宮は助けるために必要な、時間的な可能性の事を話している。

「ですけど公弐宮様、日が暮れてから、先ずはその場所がどこなのかを見付け出さなくてはならないと思うんですよ。それからそこに突入するって事はぁ、時間的余裕はあまり無いって事じゃないですか?」キコが言う。

 キコの言うように日が暮れてその場所が現われたとして、そこを突き止めるためにどの位の時間を要するのか、しかもその間、死人が現われるのかどうかさえ定かではない。そしてもし現われなかったとしても、どうやって助け出すのか、相手の〝影〟がどの程度の奴なのか、その一つ一つが全く未知数なのだ。

「確かにねぇ、それじゃあ、一度夜になってから、香木の位置を確認しながらそれらしき岩山に近付いて、様子を見てみる。そしてそれらしきところが分ったら、昼間になってからその場所に行ってみる、っていうのは、どう?」

 公弐宮の提案は妥当な線だろう。しかしここはやはりクゥが逃がされてきた際、どこからどうやって逃げてきたのかをもう一度思い出してもらい、少しでもそのルートを探るという事が近道ではないか、と、その事をハルがクゥに訊いている。

「クゥ、クゥ、クゥ」もちろん犬語会話だ。

 三人から少し離れた枝の上でクゥはもう寝入っていたのか、ハルの呼び掛けに直ぐに反応せず、ハルが二度目に、クゥクゥ、と言うと、小さな瞳をゆっくりと半分開けた。

「クゥ…、クゥ…」いかにも眠そうだ。まだ子犬であるから仕方がない。

 ハルは明日からの行動のため、可愛そうだがやむを得ずクゥを起した。

「クゥ、クゥ、クゥ」「クゥ…、クゥ…、クゥ…」

 このやり取りを何回か続け、ハルが鼻先を上に向けたり下に向けたりを繰り返している。その内ハルがクゥ、と一鳴きして犬後会話が終了したようだ。と同時にハルがずっと下を向いたまま、暗闇の中、何かを見ている。

 それにキコが気付いた。何か音が聞こえる。

―サワサワサワ、クゥ、クゥ、ザワザワザワ、グゥグゥグゥ

 小さな明かりはキコの手元から、凡そ半径二mほどしか明るさが届かない。辛うじてぼんやりとだが、三mほどの距離のクゥの顔が見えるかどうかだ。キコも真っ暗な枝下を見たが、何も見えない。

「ハル、何かいたの?何か音がしたみたいだけど」

 この言葉に公弐宮も何かの異変に気付き、見えない枝下に顔を向けた。

「ん?あっ、…い、今!」「何かいました?」

「良く分らないけど、何か…」

 という会話の最中にも、微かに音がしている。

―サワサワサワ、クゥ、クゥ、ザワザワザワ、グゥグゥグゥ

「死人だ」ハルが呟いた。

 時折、草むらの中を一人二人と、集団ではなくバラバラに何を目的に歩いて行くのか、餌を捜し求めているのか分らないが、その速度は決して速くはない。無造作に草を掻き分け歩いて行く姿が暗闇の中、水墨画の濃淡ほどの色の違いでそこに何かがいると思わせている。いや、この場合、その姿がはっきりとは見えない、その方が良いとも思える。この時、草を掻き分ける音が無いとしたら、その存在は全く分らないだろう。ハルは犬故に、それは臭いで分ったのだ。

「多くは無いな、でもここにも奴らはいる、という事は確かだ」

 キコと公弐宮も見えずとも、顔をその方向に向けてハルの言葉に、ウン、と頷いた。

「クゥの話は明日する。先ずは寝よう」「そうだわね」「うん、寝ましょう」

 キコは手元の明かりを、フッと吹き消した。巨木の下から三分の一の高さから、ほんのりとした明かりがフッと消えると、辺り一面、黒一色の闇となった。どこからどこまでが夜空と大地なのか、境界線も見えない。しかし真上を見ると小さな白い光の粒が、何がしかの絵を描いているのが分る。どっちが前か後ろか右か左か、重力のお陰で自分の上下だけは認識できる。その下方向から、サワサワ、グゥグゥ、と不気味な音だけが暗闇の中で

聞こえている。それは明け方まで途切れ無く聞こえていた。



 キコは目を開けずに耳だけを起した。何も聞こえない、のかどうか、確かめるため耳を澄ましてみた。

―チチチチチ…、ピッピッピッ   小鳥の鳴き声だ。

―カサカサカサ…、コソコソコソ   何か小動物の動く音なのか。

「それで、どの変にそれはあるんだ」 ハルの声が耳に入ってきた。

「カァ、カカカ…」 クゥと話しをしているのか?

 クゥなら、クゥクゥだろう。キコはまだ眠い目を開けた。横に視線を向けるとクゥクゥではなく、激しくグゥグゥと大いびきの国津神が見える。という事は、キコは目を擦ると、ハルが鼻先を上に向けて話しているのが見えた。キコも巨木の上を仰ぎ見た。巨木の太い幹が真っ青な空を突き抜けるように続いている。視界の横から朝日の白い光が、時折幅の広い枝葉に反射してキラキラと輝いているのが目に入った。

「カァ、カァ、カァ、カカカ、カァ」

―あっ、カラスだ!   久々の登場、ウタカラスが来ている。

 ハルがいつ呼んでいたのか友達のウタカラスが、岩山の辺りを偵察してくれたみたいだ。その話しを聞いていたらしい。

―そうかぁ、夜の間、カラスに彼らが囚われている場所を見付けて貰っていたんだ

―さすがハルね   確かにこれは良いアイデアだ。

 夜間地上では死人が徘徊しているが、カラスなら偵察飛行ができる。その場所を特定してもらい、昼間に近付けば良いというわけだが、何やら問題が一つある様子だ。

「あの怪物、どうにかなりそうなのか?」ハルが訊く。

「何とも言えないな、先ずはでかいからなぁ、俺なんか一羽ばたきで何キロも飛ばされちまうよ。それよりも問題なのが、あの影だ。あいつはあの怪物の近くに必ずいるだろうさ。あいつが曲者さ」「どう問題なんだ?」

「今まで時々上から見たけど、恐らくあいつに国津神等の術は効かないだろう。あんたの力はどうだか、はっきり言うと、分からないな」

「そうか」ハルも思案顔だ。

 もちろんこの会話、ハルとカラスにしか分らない。この二人の話はいつも簡潔に要点だけを話す。この時もいつの間にか来て余計な話はせずに、じゃあまた、と一言言って直ぐに飛び立っていった。ハルも、またな、と一言だけ言った。いつもながら実に役に立つ 〝友達〟だ。

「キコ」ハルが鼻先を向けた。ハルはキコが起きていた事を知っていたようだ。

「場所は分った」「でも、あの怪物の事よね」「そうだ」

「そこで先ず、香木の森に行こう。昨日のクゥの話しでは、そこから岩山にどうにか行けるらしい」「地下の道か何かが、あるのかなぁ」「分らない、クゥもそれは覚えていないみたいだ」ハルは鼻先をクゥに向けると、クゥは既に起きていた。

「クゥ、クゥ」クゥがハルと目が合うと、何か言いたいのか一言鳴いた。

「クゥ、クゥ」また鳴いた。「そうか、分った」

 クゥは余りはっきりとは覚えていない事を詫びたみたいだが、それはしょうがない。クゥはまだ子犬という事もあるが、藤ノ宮が何らかの術で逃したのかもしれない。その間の事は覚えていなくても当然の事だろう。その事をハルは充分承知している。

その後ハルは直ぐに動き出した。キコもクゥも動き出した。ただ一人だけ、

「公弐宮様ぁ~、行きますよぉ~!」キコ達は下に降りると西に足を向けた。

「ん?」巨木の枝の上、一人寝ぼけている。「あぁ、も、もう、行くのぉ」

 とにかく、いつものパターンで動き出した。



 朝日が背中を照らしている。四つの影が前方に伸びている。

一行は巨木の林を後にすると、二つの岩山を越えた。ウタカラスの話では、巨木の林から二つ岩山を越えると谷があり、その谷に一本の小川が流れ、その小川伝いに少し北に方向を変え進んで行くと、一つの大きな沼が現われる。そしてその沼の畔の対岸に、遠目で香木の森が見えてくるのだそうだ。

 一行は今、その谷にいる。カラスの言った通り小川が一本あった。澄んだ水だ。飲めそうだ。クゥが前に飲んだ事があり、大丈夫と言っている。

「っふぅ~、気持ち良いわねぇ~」公弐宮、丸太のような太い足を水に浸けている。

「美味しいわぁ~、この水ぅ~」キコはゴクゴク飲んでから水筒に水を汲んだ。

「向こうに沼が見えるな、あれだろう」ハルが川淵で鼻先を小川の先に向けた。

「あら、ハル殿、良く見えるわねぇ」公弐宮が足を水に浸けたまま目を凝らしている。

「俺は犬だよ、目も鼻も良いのさ」

 一行は一息入れた後、川淵を一列になって歩き出した。

それから大した時間を経ずに沼は現われた。大きな沼だ。湖といって良いくらいの沼だ。対岸に、目を凝らさずとも香木の林が見えている。そしてその向こう側、白く輝く丘がある。あれが目的の岩山だろう。

 沼の縁を歩き、それでも一時間ほどは歩いたのか、漸く香木の林の辺りまで一行は辿り着いた。香木の林とは言うが、別に何かの香りが漂っているわけではない。それはあくまでも自然の風化と時間、そして人が手を加え香木の品物となってからの香りだ。木自体は当たり前だが〝樹〟の臭いしかしない。一行が林の近くまで来ると一つの事実が分った。

「岩山までは結構距離があるんだな」林の木々の中に立ち、一行が岩山を見ている。

 ハルの言葉に皆それぞれ考える事は同じだろう。それはこの沼から離れるという事、水から離れるという事を、今自分達の目で確かめているという事だ。彼らが見ている香木の林と岩山の間には、背の低い木々だけが時折混じる背の高い草原が続いていた。

「そうなのね、この林には死人は来ないけど、岩山には死人が来る、という事なのね」

 キコががっかりした顔で確認するように言った。するとクゥが鼻先を林の中に向けて、クゥ、と一鳴きした。

「あの背の高い木の下に穴があり、そこで気が付いたらしい」白い通訳が言う。

 とりあえず一行は、クゥの言うその木の下へ移動した。木の下へ行ってみると、大きな虚が口を開けていて中に入る事ができた。中に入るとやはりどこの木の虚とも同じで、薄暗くジメジメしていて土や根の臭いで、決して気持ちの良い空間ではない。これもそうだが香木の虚だからと言って、良い香りがするものではない。

「クゥ、クゥ、クゥ」クゥが小さい身体を更に縮め蹲り、何かを言っている。

「クゥ、クゥ、クゥ」通訳が言葉を返した。

 クゥの話だと、他の人達とどこだか分らない部屋に入れられた時、藤ノ宮が自分を抱き抱え、そして自分は目を閉じるといつの間にか意識の無い内に、この場所でこの状態で、気が付いたらしいのだ。ハルはその時、通路を通った感覚があったかどうかを聞いたが、それは分らない。その話しを元にハルは虚の中を歩き出した。そう広くは無い虚の中を隅々までチェックしている。キコと公弐宮も触って分るのかどうか、木の虚の天井や土の盛り上がった部分をトントンと叩いたり、押したりしだした。三人の行動を見ながらまたクゥが鳴いた。

「クゥ、クゥクゥ」「クゥ、クゥクゥ、公弐宮!」

 ハルが突然、公弐宮の方を向いた。クゥが何か重要な事を思い出したようだ。

「国津神の持つ呪文の中に、物をどこかに移す事のできる呪文があるのか?」

「えっ!」腰を曲げて土を触っていた公弐宮が、首だけ曲げてハルを見た。

「う~ん、えーと、…そんな呪文、あったかしらねぇ」

「思い出せ! クゥはここで気付く前に、藤ノ宮が何かを呟きながら背中を撫でてくれていたと言っている。恐らく、通路を使ったのではなく、物を移動させる呪文でクゥを逃したんだろう」ハルは赤くなってはいないが、キッとした厳しい目付きで公弐宮を見た。

「そ、そう、わ、分ったわ、今、思い出すわ、ちょ、ちょっと待っててよ」

 公弐宮はハルの気迫に押され、ヨロヨロと虚の中心部に来ると、精神を統一するため直立不動となって黙した。いつもながらこの姿の時だけは公弐宮は何故だか美しい。普段の彼女を忘れてしまう。

 公弐宮は心を落ち着かせ暫く黙していると、その内口元が動き出した。何かの呪文を思い出したらしい。

「モゴモゴモゴ…、う~ん、ちょっと違うわねぇ」

「どうした、思い出せ!」

「ちょっと待ってよ、い、今、思い出しそうなのよ」

 ハルの声に一度目を開けたが、再度目を瞑りまた精神統一を始めた。

「空なり地なり…、狭間の力の明けし時…、モゴモゴモゴ」

 足元でクゥが目を閉じて公弐宮の声を聞いている。ハルももう何も言わず、キコも公弐宮がこうして唱える間は黙って聞いていた。虚の中の空気全体が締まっている感じがする。

 更に呪文が続くと、公弐宮が立つ目の前の空間に何やら変化が起きてきた。何も音はしないが、地べたに近い辺りの空間が少し歪み出したように見える。

「行き来し時は…、妨げあらず…、モゴモゴモゴ」と、その時、

 公弐宮の足元に蹲っていたクゥが、フッと、その歪んでいたような空間に吸い込まれるように消えた。

「あっ!」キコとハルは目を見張った。

「公弐宮!」ハルが言う。公弐宮は呪文を止め目を開けた。

「できたわ、ハハ」「クゥは、どこに行ったのですか?」キコが訊く。

「うん、その、元の部屋というところ、…のはず、なんだけど、ね、ハハ」

 どうもこの国津神の呪文はいつも信頼性が乏しい。

「公弐宮、俺達も行くぞ!」言いながらハルは、虚の中心部へと歩み出ていた。

 この場合ハルの言葉は当然の事だろう。公弐宮は驚いているが、この時、呪文の信頼性がどうとは言っていられない。通路が無いと思えばこの方法しか手は無いわけだ。

「え、え、あ、あらっ、そうなの」

 公弐宮一度休もうとしたのか、近くの土の盛り上がったところに腰を下ろし掛けている。ハルはそんな公弐宮の行動は無視して、何も言わずに中心部でジッとしている。

「わ、分ったわ、じゃあ、キコもこっちへきておくれ」公弐宮もまた立ち上がった。

 キコも直ぐに中心部に歩みきて、そして同じように呪文が始まった。

「狭間の力、…、妨げ、…」今度は一度行った後のせいか、効き目は早かった。

―フッ!   三人が纏めて消えた。

 この呪文が本当に有効だったのか、今は確かめようが無い。しかし遅かれ早かれ彼ら一行がこの呪文を使う他に、選択の余地が無いのも確かだ。

 彼らが消えた虚の外は、燦燦と眩しい太陽が真上に輝いている。斜め前方を見ると白い岩山が聳えているのが見える。あの場所に彼らは行き着いたのか、それはまだ分からない。しかしその岩山の上に、遠目でも分るくらいに大きな飛行物体が何体も飛んでいるのが分る。一体や二体ではない。餌を探す鳶の群れのように、グルグルと岩山の上を旋回している。恐らくその下には得体の知れない〝影〟がいるのだろう。彼らはこの光景を知らずに消えていったのだ。そこへと移動した事が幸なのか不幸なのか、それはまだ分らない。しかし彼らに、囚われの者達の救出という目的がある以上、幸だの不幸だのという言葉はこの時、およそ必要の無いという事も明らかである。前に進むしかないのだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ