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7.国津神

          国   津   神


 朝早くに旅に出た。屋敷の森に朝靄が棚引いている。

 未だ薄暗い空には、主彌尖から、カラスが何羽ずつかの群れで舞い戻ってきているのが見える。その主彌尖の頂が夜空の名残の空間にくっきりと、まるで観光写真のように浮かび上がっている。アルプスのマッターホルンを思わすような美しい光景だ。その尖がりの遥か斜め後方に、申し訳なさそうに薄白い半月が、切り抜き絵のようにまだぼんやりと浮かんでいる。これがまた日本絵画のようで美しい。

 キコはあそこの尖がりの下辺りに、彌織様がいるんだね、と思いながら、ハルと共に足を進めていた。足を進めながらこの旅は、彌織様が大丈夫よ、と言ってくれたのだから大丈夫なんだ、とも思っていた。まだ若いキコにとって未だ見えぬこの旅の先は、もちろん不安は大きいが、しかし心の中では期待とまでは言わないが、ハルが一緒なら何とかなるだろう、とこの時にはしっかりとした思いで歩き出していた。

 屋敷を出る際、一人菟酉が見送っただけで婆様も他の誰も起きてはいなかった。別にキコにはそれはそれで何も感じる事は無かった。例えこれがこの繁栄の集落、千世の将来を担う重要な旅であるとしてもだ。キコは誰もそこにいなくて良いとも思っていた。何故なら、これは楽しみを得るための旅ではない。それぞれに役割を持って事を進めなくてはならない状況下で、自分はハルと共に御印を探すという、身に余る程の大事な役割を与えられたのだ、と充分に自覚をしての旅だ。感傷的になどなっていられないのは当たり前。必ずこの集落のために御印を探し出す、その強い意思があれば充分で、他の事は菟酉達屋敷の者達に任せておけば良かった。それ故キコは、では行って参ります、と一言だけ菟酉に告げて、隣の集落にでも行くような雰囲気でこの朝屋敷を後にしたのだ。

 身形はこれからの長旅の割には実に軽装だ。足元はいつもよりしっかりとした履物にしているが、服装はいつもと何ら変らない、ちょっとそこまで行ってくる、と言っても、あぁそうかい、とだけ言えそうなそんな雰囲気の身形で歩いている。持ち物も現代のリュックこそ無いが、背中に一つの麻袋、腰にポシェットのような小さな麻袋、小さな身体のキコにとっては長旅を歩くのに、多くの荷物を持つのは負担が大きいのでこれで充分なのだろう。

 実際のところこの千世周辺の状況下で集落を出れば、昼間は良いが日が暮れると共に危険がやってくる事は、キコ自身充分承知をしている。それにしては武器も持たず、ましてや女の子が一人、いやハルも一緒だが、これで旅をするというのは普通に考えるとおかしな話だ。

 婆様は旅立つ前日キコを呼び寄せ、御印探しの注意点と期待、そして大事なアイテムである勾玉を彌織の説明の通りに、改めてその意味とハルとの関係に於いての必要性などを話した。そしてその時、勾玉と共に国津神のいるであろう集落までの道筋を、かなり大雑把な図として、少なからず地図とは言い難い程度の略図を一枚渡していた。

 それに由ると、千世の集落から北に向かえば、それほど掛からずに千世とは別の海岸線に出る事ができる。そして、その理由は何故なのかはっきりとした事は分らないが、今までの少ない情報からは、四方津国の死人達は水のあるところには現れない、という事実があるようだ。それ故、婆様はキコに先ずは海岸線を北に向うように指示していた。危険な夜間も海岸線なら恐らく大丈夫であろう、と推測の域は出ないが致し方ない、というところなのだろう。

 今の千世周辺の状況下で誰もこのような長旅をした事はなく、得られる情報は数少ないばかりか、確実な事はほぼ無いに等しかった。それは殆ど賭けに近い指示でしかなかったのだ。その後は、暫くして一本の川に出くわすが、それに沿って足を西に向ける。そうすれば先に言っていた辺りに集落のある沼が現れると、その手書きの略図には示されているようだ。

「ねぇ、ハル、先ずは御婆様の言う、国津神様に会わなきゃね」

 キコの口から声と共に、少しだけ白い息が吐き出されるのが見える。気温は結構低いようだ。そんな寒さなど関係無いとばかりに、キコの前を行くハルはスタスタ進んでいく。

「でもさぁ、ねぇハル、あの、カミノ何とかっていう国津神様って、どんな神様なんだろうね、ハハ。ちょっと会いたいような、恐いような、かな」

 一応これはキコの独り言といっても良いのか、楽しそうに話している。

「私、国津神様ってさ、初めてなんだよねぇ、会うのがさ、ハハ」

 キコは大きく手を振り、未だ寒い早朝の空気を思いっきり吸って元気に先を急いだ。



 この旅はキコにとっては生まれて初めての旅である。生まれて初めての旅が、日帰りバスツアーでもなく海外旅行でもない。自分の住む集落の将来を託された重要な役目を負った、孤独な旅。江戸時代なら未だしも、現代の若者からは想像もできない状況だ。

そしてこのような状況で、生きて目的地へと辿り着けるのかどうかも分らない、言わば死出の旅といっても良い旅である。悲しいかな、それがこのうら若き少女の運命なのか。

 しかしキコ自身はこの時、そこまでの重責を負っているとは思ってはいない風だ。それが証拠にこの時の彼女はあくまでも明るく、楽しそうにハルと会話?をしながら元気に歩いている。いくら自分から名乗り出たとは言え、以前の彼女ならとてもこの明るい笑顔で、この危険な旅に出る覚悟は生まれなかっただろう。これはハルの影響なのか。あのお堂で、あの軍神の激しい蘇りの影響で明らかにハルは変った。それは彌織の微笑がそれを言わずもがな物語っている。そのハルの変化が、軍神に恐れ慄いていたこの少女も変えたのか。はっきりした事は本人ですら分らない。しかし現に彼女は変った。

 集落の周辺にはどこに死人が出るのか、他に何がいるのか、詳しい事など殆ど分らない状況下で実に元気良く歩いている。武器も何の防御策も無しに。しかし旅はまだ始まったばかりで、この先何が待ち構えているのかは、それこそ神のみぞ知る、であった。

 さて、キコは集落を出て二日目の昼間に、婆様の略図の表す通りに千世とは別の海岸線へと出る事ができた。キコにとっては生まれて初めて見る風景〝外海〟だ。

 もちろん千世に海はある。魚介類の水揚げも多い。しかしながら、実は千世の海は内海であり、細長い入り江の中に千世という集落があり、地理的に遠く広い海原を望むという港町ではないのである。キコは〝海〟と言う概念は知っていても〝世界に広がる海原〟という景色を目にした事は無かった。故にこの時、彼女にとっては生まれて初めて目にする、水平線まで広がる海の景色だった。

「ぅ、わぁ~っ!」キコはこの感情をどう表現して良いのか、直ぐには分からなかった。

「ぅわぁ~っ、空と海が一つになってるぅ~」これが率直な感想なのだろう。

「ハルぅ、ねぇ、ハルぅ~」ハルは興奮しているのか、遠くを一人はしゃぎ回っている。

―へぇ~、これが本当の、う、み、なんだぁ~、広いのねぇ~

さながら現代の感覚で言えば、瀬戸内のしまなみ海道辺りで育った若者が、初めて高知沖の太平洋を目の当たりにしたような、そんなものだろうか。

 彼女は砂浜の感触を足で確かめながら、ゆっくりと歩いた。千世の海に砂浜は無い。ハルはキコのいるところと遠く霞んで見えるほどの位置とを、行ったり来たりを繰り返している。ハルもやはり犬だ。

 キコは波打ち際に腰を下ろして、しばらく海を眺めた。太陽は既に上にある。初めての遠くから流れ打ち寄せてくる波の連続。砂浜で大きく白波を立てる波を見る事自体が初めての経験だ。

―良い音ねぇ~   音を聞きながら辺りを眺めた。

 黒い砂浜がずっと続いている。ハルが遠くを走っているのが見える。砂浜の背後には海岸段丘が連なり、何の木々が生えているのか背の低い雑木林が続いている。近くにまだ川らしき水辺は見えてはいない。昼間、死人はうろついてはいないが、何がいるかは分からない。例えば野犬の群れやオオカミ、野蛮な獣に近い人間すらこの時代存在している。危険を探せば幾らでも出くわす可能性はあるのだ。

 確かに今この時は穏やかな海、誰もいない砂浜、初めて水平線を見て和んでいるキコにとって、そんな状況を把握せよという方が無理な注文なのかも知れないが、良い音ねぇ、と言っていられる状況には余りないとは思える。

 暫く和んでキコは立ち上がり、一応〝地図〟を見ながら歩き出した。波打ち際を北に向った。暫くそのまま波に平行して歩き、太陽が角度にして三十度ほど移動しただろうか、キコの視力の限度に近い遠いところに、砂浜の端らしきところがはるか遠くだが見えてきた。草地と岩場が混ざり合っているのか、砂ではない場所だ。

そこまで来たキコは足を止め、婆様から渡された図を再度見ている。ハルはどこに行ったのか、ついさっきまでそこにいたはずなのに、近くにはいないようだ。

―多分、もう少しで川が、あるはずなんだけど…   顔を上げ、砂浜の先を見た。

 左手には未だ砂浜と平行して雑木林が続いている。と、その林の中で何かが動いた。何かの動物か?キコは何も気付いてはいない様子だ。

―あれっ、ハルはどこに行ったんだろ?   辺りを見ながらまた歩き出した。

 林の上でバタバタバタと、何羽かの中型の鳥の群れが飛び立った。カラスではないようだが何かに驚いた様子だ。また何かが林の中で動いた。

―あれはぁ、川、かな?   砂浜の端が、目視で確認できるほどに見えてきた。

と、その時だ、

―グルゥ、グルゥ、グルルルゥ、ワオーゥ!   野犬だ。それも群れだ。

 海岸段丘の背の低い林の中から、突然野犬の群れが飛び出してきた。何匹だ?かなりの数がいる。黒い背中の犬や、斑やら灰色、白、様々な雑多な犬の群れが林から現われると、直ぐに一人の少女を取り囲んだ。取り囲んだと言っても後ろは波打ち際のため、半円形で取り囲みその真ん中にキコがいる。まるでローマの円形劇場を思わせる位置関係だ。この時、形としては野犬がその観客でヒロインはキコである。

「キャアー!」キコは後退りして、波間に足を濡らした。

「キャアー!ハ、ハルぅー」更に後退りして、膝まで波に浸かった。

―グルグルグルゥゥー、ワオーゥ   総数十匹以上はいる。

 十匹以上対一人。明らかに卑怯な対戦だ。野犬に卑怯も何もないが、しかしそんな事を考える間もなく、奴等は半円の形を狭めてきた。久々の獲物、という感じだ。

「ハルぅー、ハルぅー、キャアー!」確かに、こんな時にハルはどこへ行ったのか。

 一匹が水の中にジャバジャバと入り込んできた。さしずめ特攻隊といったところか。それに続き二匹目三匹目がジャバジャバと入り込んできた。しかし水の中だけにいくら身軽な野犬といえども、そこは犬の足、長くはないため動きは鈍くなった。一匹一匹の大きさは中型犬といったところか。シェパードほど大きくはないが、柴犬よりは大きい。牙を剥き出している。

―グルル、グルル、グルル

 既に半円形の形は乱れ、我先に獲物を得ようとしているのか、隊列はバラバラとなり、ボス犬らしいこの群れの一番大型の犬が、元の半円形の一番奥に動かずにジッと隊の動きを見ている。バラバラだと思ったこの犬ども、一応統制が取れているようだ。

獲物まであと三mほどか。〝獲物〟にされたキコは、もう腰より上まで海水に浸かっている。もう声を出す余裕も無くなり、ただ迫りくる野犬達と視線を合わせ、心は逃げながら形としては睨み合っている。

 その時、野犬達の一番後ろ、ボスらしき犬が、クゥーン、と鳴いてバタッと突然倒れた。何故かは分らない。そして周りにいた取り巻きの犬達も、次々と、バタッ、バタッ、バタッと倒れ出した。何故だ?驚いたのは既に水に入っていた犬達と、キコ本人だ。

 何が起きたのか、水の中の最前線では直ぐには状況が掴めなかった。が、キコの目の前数mにいた犬達が背後の分からぬ気配か何かを察知して、それぞれ散り散りにあらぬ方向に文字通りの犬掻きで逃げだした。キコを取り囲んだのも早かったが逃げるのもまた早い。キコの目の前は大きくうねる波だけとなった。

 犬達が逃げ去った後、驚くキコの視線の真っ直ぐ先に赤い目をした白い犬が、キコと同じように逆に真っ直ぐキコの方を見ていた。これは野犬の中の一匹なのか、いや、この犬は、ハルだ。ハルが赤い目をして立っていた。キコがそれに気が付いた。

「ハ、ハルぅー」キコは泣き顔で水の中を、ジャバジャバと岸辺に移動した。

「ハルぅー、どこに行ってたのよぉ~、っもう、恐かったんだよぉ~!」

 陸に上がったキコは半泣きでしゃがみ込み、ハルに抱き付いた。二人の周りに何匹かの野犬が横たわっていたが、恐ろしさから開放されたばかりのキコには、ホッとした気持ちの中で何が起きたのかはまだ知る由も無いし、気にも留めていなかった。抱き付かれたハルは犬にも係らず、この状況で何となく微笑んでいるような顔でキコを見ている。

 そして、

「悪かった、ちょっと先に、気になった事があったんだ」

「…、…」キコの目が半泣きの目から、一気に点となった。

「…、…」声が出ない。ハルを点となった目で直視している。そしてまた、

「ハハハ、驚いたかい、キコ」何と、ハルが言葉を発した!

「えっ、えっ…」まだ、声が出ない。

「とりあえず、この場から離れよう、なっ」キコは未だ声が出ない。

 ハルはまだ驚いて声の出ないキコから、ゆっくりと身体を離し、周りの倒れている野犬達を見回しながら、またキコに向い話した。赤かった目は元の黒目に戻っている。

「こいつらは、ちょっと眠らせただけさ、決して殺めたりはしていない。俺は天系の犬なんでな、無闇に殺生はしないさ、ハハ」そう言ってニコっとした。

 ニコっとされたキコは、未だ唖然としている。当然だ。

「さぁ、キコ、先を急ごう、こいつらの逃げた仲間が戻って来るかもしれないし、寝ている奴らもそう長くはこのままではいないからさ、なっ」ハルは人間の顔でそう言った。

「…、…」まだ声が出ない。

 キコは何事も無いようにスタスタと先を行くハルの後ろ姿を見ながら、やっと我に帰った。喉から搾り出すように声を出した。

「ハ、…、ハ、ハルぅー、ね、ねぇ~、ハ、ハルってばぁ~」走り出した。

 少し小走りでハルに追い付いたキコは、声を掛けハルの足を止めさせた。

「ねっ、ねっ、ねぇ、ハ、ハルってばぁ、ちょ、ちょっと待ってよ~ぅ」

 追い付いた後、ハルの前に出てしゃがみ込み、ハルを凝視した。

「っはぁ、っはぁ、ねっ、ねぇ、ハル、ねぇ、貴方、…は、話せる、の?」

「ハハハ、さっき話しただろう、聞いてなかったのか」

「聞いていたわよ、で、でもね、普通、犬って、話さないものなのよ、知ってる?」

 キコは実に真面目な顔で、真面目に真剣に訊いた。それに対してハルは、その辺の人間同志の立ち話のように、実に気軽に当たり前のように話した。

「ハハハ、普通はな、でもな、俺は普通の犬ではないのさ、知ってるかい?」

「もちろん知っているわよ、彌織様にも聞いたし、貴方もさっき自分でそう言ったじゃない、天系の、そうよ、天界で生まれたんでしょ、貴方、違う?」

 キコは少しフンっとした顔で言った。そして立ち上がると、パタパタと膝の砂を払った。

「でもね、今まで、…そう、子供の頃から貴方と一緒に暮らしていて、そんな事一切無かったじゃない、しゃべった事なんてさ、でしょ?」ハルを見た。

 キコはゆっくりと歩き出し、ハルも後に続いた。

「ハハ、それはそうさ、いくら俺が天界で生まれたからって言ったって、これは俺にも分からない事だけど、直ぐに人間世界で話せるわけではなかったんだよ」

 ハルは真っ直ぐ前を見て、キコの斜め後ろをスタスタ歩きながら話している。その顔は正に人間の顔だ。顔だけを取り出せば、これが犬の顔だとは誰も思わないだろう。

「ふ~ん、そうなんだ、じゃあ、元々話せたわけではないんだ」

 キコは不思議そうな顔で記憶を辿っているのか、どこか遠くを見ている。

「じゃあさ、ねぇハル、今思ったんだけど」キコは足を止めて振り返った。

「今、貴方、何をしたの?」言いながら先の野犬の方に目をやった。

「ん?何を、って、別に、眠らせただけさ」当たり前、という顔だ。

 ハルは斜め上のキコの視線をチラっと見やって、直ぐに前を向き、キコの横を通り過ぎて先に進んでいった。キコも直ぐに後を追った。

「別に?別にって事はないでしょ、眠らせたって言うけど、どうやって?」

「どうやって、って、そんな事、口で説明なんかできないさ、良いじゃないかそんな事、それより、キコ、あそこが川だ、恐らくな」と鼻先をクイっと動かした。

 キコは少々不満顔でいたが、ハルの鼻先の向かう先を見ると、その延長線上に砂浜の途切れた場所があり、透明な水が海に流れ込んでいる場所が見えた。彼らが歩いている場所から凡そ二百m先くらいなのか、海とその水が混じり合い少し濁っているのが見えている。

 キコは不満顔から、あれね、という顔に変り、歩きながら懐に手を入れゴソゴソと婆様の図を取り出した。見ながら歩いている。

「そうかもね、…多分、あの川なのかなぁ?あれを遡ればきっとこの集落に行けるんだと思うんだけど」確信の無い顔でハルを見た。そして、

「そう言えば貴方には分からないの?その方向で良いのかどうか。昔から、小さい頃から私を助けてくれたじゃない、何かを探す時に」またハルを見た。

「俺は犬だよ、天系とは言えさ、何か手掛かりになる物があれば良いけど、それに関しての物が何も無い場所を探し当てる事はできないさ、俺は祈祷師じゃないんでね」

 そう言って人間のような目をしてキコに視線を合わした。

「へー、そうなんだ。まぁそうね、御印探しは勾玉があるもんね」

 キコは自分の腰の麻袋に、下から手をトントンと当てがった。

二人はそんな会話をしながら暫く歩き、遠くから見ていたその川のところまできた。

 川は思ったほど大きな川ではなく、小川と言っても良いくらいの幅は三mくらいなのか、水は透き通り、海が濁っていたのは水の流入で砂が舞い上がっているためだった。

 その河口のところで砂浜は終わっていた。川の向こう側は草地と砂利に近い大きさの石ころの浜辺になっていて、その浜辺がもっと先にいくと完全な大きな岩場となり、更にその先はさほど高さの無い断崖が波打ち際まで迫り、人が歩くには足を濡らしても歩けるかどうかという感じだ。二人はその河口より先には行かず、婆様の図の通りに川から西へと向きを変え、そこから内陸へと向かった。ただ行き先がこれで良いのかどうかは、二人とも確信が無かった。

 海辺から離れると雑木林が暫く続く。海岸段丘に平行に見えていた雑木林が、実は奥行きもかなりな距離続いていた事になる。もちろん整備された道などあるわけがない。二人はできるだけブッシュの少ない箇所を、できるだけ川に沿った方向で歩いた。時々、いつの間にか川が見えなくなったりもしたが、それがいつの間にかまた川の側を歩いていたり、ほぼ適当に進んでいるようなものだ。

「ねぇハル、本当にこの川沿いで良いと思う?」暫く振りにキコが口を開いた。

 海から離れて数時間が経っている段階で、今更言うこの質問もおかしいが、既に日が暮れだしている。川沿いとは言え、もう木々の種類も分からないこの深い森の中では、陽光がほとんど差し込まず、日暮れがもっと早く感じられる。

「そうだなぁ、何とも言えないな、でも、そろそろ日が暮れるから、考えないとな」

 ハルが言うのはもちろん闇の世界の事だ。婆様の説明で水際には死人は現われないとは聞いていたが、昼間の野犬の群れの事もある、どこに何がいるかは分らない。婆様の言う沼が未だ現われない以上、この森の中、どこかで一晩を過ごさなくてはならないのだ。

 二人はその後も完全に日が暮れるまでは歩いた。そして、歩き疲れたキコがハルから数mほど遅れ出した頃、薄暮の中、先をいくハルの足が止まった。

「キコ、今日はここに泊まろう」ハルは数十m先の大きな木を鼻先で示した。

 そこには屋久杉を思わせるような大木が聳えていた。この川沿いの森に何でこんな大木が、と思わせるほど立派な姿だ。正に森の長老といった感じの巨木だ。その長老の足元に、ポッカリと空洞がある。古老の大木にはよくある虚だ。

 この木の虚の入り口は一mほどだが、その内部の広さは有に六畳間ほどの広さはあろうか。二人にとってはかなりな広さだ。友達でも呼んでパーティでもできるだろう。しかし今の二人にパーティは必要無い。これから訪れる闇の世界をどう乗り切るかが大事であり、ワイングラスより何かの防御策が欲しいくらいだ。少なくともスヤスヤと安心して眠れる状況に無い事だけは明らかだ。

 二人は大木の前まで来て立ち止まった。

「大きいねぇ」キコがほぼ九十度と言って良いくらいに首を曲げ、上を見ている。

「ここしか無いな」ハルが中に入っていった。

 とりあえず二人は中に入り、小さな火を焚いた。キコはそれくらいの用意はしていた。

「ねぇハル、この森ってやっぱり何かがいそうだよね」

「まぁな、どこに何がいるかは分らないさ、何が出てきてもおかしくはない」

 虚の外は既に真っ暗な闇夜となっている。それと時を合わすように何がしかの鳴き声や、何の音か判別のできない音が間をおかずに聞こえてきた。ピシッピシッ、とか、ウルルル、とか、ワォーゥ、これは昼間のような野犬の声か、それは動物でもあろうし木々の擦れる音でもあろうし、そして虫達の羽音でもあるのだろう。もしくはそれは闇の世界特有の音なのだろうか。ホーゥ、ホーゥ、これは明らかにフクロウだ。

 二人は暫く火に当ってから横になった。ハルは伏せた状態で目を閉じた。

「ねぇハル、…ハル、…寝たの?」「…」キコは目を閉じ上を見たまま話している。

「私ね、小さい頃に両親と死に別れたでしょ」

 キコは闇の音が気になり寝る事ができないのか、ハルが寝ていようがいまいが一人で話し始めた。ハルは一応見た目は寝ている様子だ。目は閉じている。

「だから、二人の顔を余りはっきりとは覚えていないのね、でもね、彌織様が色々私の面倒を見て下さったのは、はっきり覚えているのよ、フフ、不思議よね、両親よりもはっきりと覚えているなんてね」ハルは起きているのか、鼻を少しだけ動かした。

「でも、小さい頃から一人だったけど、ハル、貴方がいてくれた事が、本当に今思っても良かったんだと思うわ、…話ができなくてもね、フフ」

 ハルは寝た振りをしているのか、この時も鼻で少しだけフンっとさせた。

「だから、今更だけど感謝しているのよ、本当に、これは本当にね」

 キコは闇の恐さを紛らわす心と、昔からの思いとを合わせた気持ちで言っているのか、ハルの嘘か本当か分らない寝顔を、優しい眼差しで見ながら背中を撫でた。ハルはそれで起きはしなかったが、また少しだけ鼻でフンっとした。

その後、キコもさすがに昼間の疲れからか、いつの間にかハルの背中に手を乗せたままウトウトとしだした。その時虚の外でピキピキ、と不思議な音がした。その音にハルが瞬時に反応して耳をピンっと側立てた。キコはいつの間にか寝入ったようだ。ハルが耳を立てたまま虚の外部の音に注意を向けていると、次に何やら声のような誰かの会話のような音が聞こえてきた。

―あぶうーん、んじゃば、にいぃー、もじゃ、うぅー   これは言葉なのか?何かの音なのか?

―うがあぁ、ずぅずぅ、ぐあがぁーぶぅー   とても言葉とは思えない音だ。

 ハルはゆっくりと顔を上げた。そして立てた耳を更にクルクルっと回し、僅かな情報をも逃さないように気を配った。無論、闇夜の森の中、何が起きるか分らない。その事をハルは充分承知をしている。そして不可解な音は続く。

―わお、わお、うぅぅー、ずぅずぅ、ざざぁー、ぐぅじぃー

―ち、ち、ち、ち、ぴしゅっ、ずー

 暫くこのわけの分らない音が、この大木の虚を取り巻くように聞こえてきている。キコを起こすほどの大きな音ではないが、ハルはそれを黙って聞いていた。

少しして今までとは違う、かなり低い音が次第に近づいてきたように感じた。その音にハルが動いた。ハルは寝入っているキコの手を気付かせないようにそろりと外し、音をさせずに外に出た。

 外に出ると闇その物だ。闇が辺りを覆い隠し木々一本すら見分ける事はできない。奥深い森の中、人工的な明かりなどただの一つもあるわけもなく、蛍の柔らかい明かりでさえ、この漆黒の闇の中には存在していなかった。ただこの時は、虚の中の小さな残り火の明かりがわずかに揺らぎ、少しばかりの白さがそこにはあった。

 しかし数mも足を進めると、そこはほぼ漆黒の世界となる。その黒一色の中、ジッと真正面を見詰めるハルの目に僅かに動く物が映った。パッと見では分らないくらいの、闇の空間の一部が微かに動いているとしか感じないくらいの僅かな動きだ。ハルは凝視した。

―何かいる

 ハルは全く動ぜず落ち着いた人間のような顔付きで、その動く空間にゆっくりと近付いていった。ハルの目が赤い。背中の白い毛が盛り上がってきた。ハルが警戒の態勢を取った様子だ。すると何も無いただの黒い空間と思えたハルの目の前の空間が、しゃべった。

―お前らは何者だ   低音のゆっくりとした、お腹に重く響くような声だ。

―何しにここへ来た   別に敵意は感じられない。落ち着いた声だ。

「俺達は通りすがりの者だ、気にしないでくれ」ハルも落ち着いている。

―ここは我々の世界だ、森を乱す者は許さない   その声に強い意志を感じる。

 ハルの目の前の空間の他、この虚のある大木の周り全体の空間が僅かに動いている。大木を囲んで何かがいる様子だが、これもまたはっきりと見えてはいない。

「分っている、俺達はただある目的地へ行く途中なだけだ、朝になったら出て行く」

 闇の空間は暫く黙っていた。ハルの言葉に嘘が無いかを見定めでもしているかのように、ジッとハルを見ているのか、黒い空間故にこちらからは分らない。

―お前の言葉に嘘は感じられない、ここでは何もするな、朝になったら直ぐに立ち去れ

「分っている、その通りにする」

 そのやり取りをしている時、その音に気付いたのかキコがぼんやりと起きた。起きてみると目の前にハルはいなかった。そして何かの音が虚の外から聞こえている事に気が付き、ゆっくりと虚の入り口まできた。

―その言葉に嘘は無いな   「もちろんだ、嘘は言わない」

 キコは虚の内側からそろりと顔半分を出して外を見ると、背中の白い毛が盛り上がっているハルが、何やら暗闇に向って話しをしている。

―木の中にいるのは人間か   「そうだ」 

―人間は油断がならない   「この者は大丈夫だ。純粋その物だ」

 この闇の声に周りの小さな闇の者達が、ぉぅぉぅぉぅ、と同調するようにざわめき出した。キコのいる大木の周りからも、ざわざわとそのざわめきが聞こえた。

―え~、な、何なの、あれぇ、ハ、ハルぅ~

 キコは虚の入り口で身体を縮め、闇の声の不気味さに細かく震えしゃがみ込んだ。

―今まで何度も人間は森を荒らしてきた  「ならばおまえ自身で見通してみろ」

 ハルの言葉に、闇の声に少しの間が空いた。

―お前の言葉に嘘は無いらしい   何とかハルは信用されたようだ。

―良いか、もう一度言う、朝になったら直ぐに立ち去れ  「分った」

―ズズズー、ズズズズー、ズンズンズンズン

 低い音が動き出したようだ。見た目では分らないが音が離れていくのが分る。大きくはないが身体に響く重低音が次第に遠くなっていく。大木の周りも大きな音ではないが何か見えない存在が、ザワザワとしたその音が次第に小さくなっていき、その内聞こえなくなった。ハルの背中の白い毛がゆっくりと元に戻った。目も元の黒目に戻っている。

「ん?」ハルがクイっと鼻先を上げた。

 すると少し上の黒い空間が、バタバタバタッ、とはっきりと認識できるくらいの大きさで動いた。暗闇にまた何かが現われた。

「来てたのか」今度はその黒い空間にハルから何かを話し掛けた。

「今のは森の主か?」暗闇がまた話した。

「そうみたいだ」ハルはこの暗闇の声と知り合いのようだ。

 今まで闇の声とハルのやり取りを身を縮こませ、震えながら聞いていたキコが、何とか気を取り直し虚から声を出した。

「ねぇ、ハルぅ~」「ん?キコ、起きていたのか?」

 虚の中の焚いていた火がまだ小さく揺らいでいる。キコがそろりと出てきた。その小さな火の明かりで、虚の入り口に出てきたキコの影が数mだけ闇の中へと伸びた。その影の先が被さった空間で黒い物体がまた、バタバタバタッ、と音を立てた。

「えっ、何!まだ何かいるの!」キコは驚いた。この闇の存在は見えていなかったようだ。

「うん、友達さ」ハルは向きを変え、キコの方を向いた。

「友達って、こんなところに?こんな闇の中に?」

「うん、カラスさ、闇の中でも関係ない」「カラス?」

「そう、カラスさ。こいつは色々な事を教えてくれる。今も周りの事を聞いていたところなのさ」「そんな友達がいるの?」

 この闇の主はカラス、闇の中では見えないはずだ。ハルはいつの間にそんな便利な友達を作っていたのか、これは天系の犬であるという以外に知る術はないが、キコに取ってはそんな事はどうでも良かった。それよりもこの闇の中、今ここは安全なのか、このままここにいて大丈夫なのかが知りたかった。そんなキコの気持ちを知ってか知らずか、ハルは黒い友達と何やら話している。

―うん、そうか、分かった   キコには何を話しているのか分からない。

 暫くして話が終わった。ハルが、じゃあ、と言うと、バタバタバタ、とその黒い友達は飛び去っていった。こんな闇の中を、どうやって飛んでいくの?とキコは思った。

「キコ、先ずは寝よう、とりあえず今この周辺に危険は無いようだ、明日の朝に詳しい事は話すよ」安全を確認したハルの顔が少し緩んでいる気がする。

 二人は虚の中に戻った。ハルは戻るとさっさと蹲り眠りの体勢に入った。そしてものの一分かそれくらいでスヤスヤと寝息を立て出した。今度は本当の眠りだ。何とも早業だ。

「ねぇ、ハル?」キコは何かを訊きたかったのだろうがハルは既に寝ている。

 寝てしまったハルの顔を見ながらキコは思った。今まで一緒に暮らしてきたあの小さかったハルが、今は何とも頼もしく頼りになると、ハルの寝顔を見ながらそう感じていた。キコも目を閉じた。そしてこの旅に出る前に、彌織が自分に言った事を改めて思い出した。あの時には、半信半疑で聞いていた彌織の言葉、

―何かあったらハルを頼りなさい   その意味が、この時少し分かった気がした。

 ハルが成長している。それがあの時点で彌織には既に分かっていたのだ。半信半疑であったあの言葉が、今は実感を持って感じる事ができる。ハルが成長している。これはあの時、あの軍神の、あの物凄い気の力のせいなのか。あの強烈な気の力によりハルが目覚めたのか、そんな事を考える間もなくキコの意識は睡魔に引き込まれていった。

―彌織様の言う通りですね



 朝だ。森の朝だ。木々の中、虚の中、柔らかな明るさが広がっていく。しかしまだ薄暗い。焚いていた小さな火種からは、細く白い煙が僅かに立ち上っている。その内、爽やかな朝の臭いが虚の中にも次第に広がってきた。

 キコが目を開けると、そこにハルはいなかった。が、キコに慌てる様子はない。眠い目を擦りながらゆっくりと身体を起すと、大きく腕を上げ伸びをした。

「もう、朝ね」立ち上がり、外に出た。

 キコが外に出ると同時くらいに、日の出の時刻がやってきた。とはいえここは森の中、両腕を広げて伸びをしながら自分の真上を見ているキコのように、空を見上げれば明るさは分るが、辺りは未だ薄暗さが抜けていない。昇ったばかりの朝日がこの森の木々の合間を縫って細い光線となり、あちらこちらを部分的に照らし出している。あそこは明るいがこちらは未だ暗い、という感じだ。

「ハルぅ~、どこぉ~」ハルの姿は無いが、焦りはない。

―ガサゴソ、ガサゴソ   木々の間の笹が動いた。

「ハルなの?」「っふぅ~、キコ、先ずは腹ごしらえだ」

 木々の合間、笹薮の中から突然ハルが何かを引きずって現われた。

「ハル、何か、取ってきたの?」「木の実さ」目の前に、ドサッ、と置いた。

 ハルは何の葉なのか、沢山の木の実を大きな葉で包み銜えてきたようだ。しかしこんなところでバナナの葉でもあるまい、何の葉なのかよく銜えてくる事ができたものだ。

「うわぁ、すごいね、どこからこんなに取ってきたの?」「あっち」

 キコは大木の足元に転がる小さな倒木に腰掛け、ハルは当たり前だが四足で立ったままボリボリ、カリカリと森の恵を食べ出した。食べながらハルは昨日の出来事と、これからの行動に付いて話しをした。

「昨日闇の中から来ていたのは、この森の主だよ」「森の主?」「そうさ、森の主だ」

 ハルは器用にも、ボリボリと木の実を牙で砕きながら、キコを横目に話しをしている。キコも両手にスモモのような実を持ち、皮もむかずにムシャムシャと頬張りながら話している。二人とも余程お腹が空いていたのだろう。

「あいつ等は決して悪い奴らではない、ただこの森を守るために存在しているのさ、ボリボリ、カリカリ」「ふ~ん、そういうのがいるんだ、ムシャムシャ、モグモグ」

「だから、こっちが何もしなければ、あっちも何もしてこない、カリカリ」

「モグモグ、そうなんだ、じゃぁ、あのカラスは? ムシャムシャ」

 キコはスモモに加え、それが何なのか名前も知らない木の実を頬張った。

「うん、あいつは便利な奴でさ、カリカリ、ペッペッ」

 ハルはよく口だけで木の実の殻を取り除く事ができるものだ、実に器用だ。

「この先の事、周りの事、色々伝えてくれる、ボリボリ、その内、御印の事も調べてくれるはずさ、カリカリ」「そう、良い友達ね」

「あ、そういえば…」ハルは木の実を噛むのを一度止めた。

「キコ、この川は違う川らしい、俺達の目指す沼があるのは違う川の上流なんだよ」

「えーっ!違うのぉ~!という事はさ、ムシャムシャ、また海岸に戻らなきゃならないって事なの?ムシャムシャ」種をぺッと吐き出した。

「いや、別に戻らずにこの先を登っていって、川幅が狭いところを渡って向こう側へ行けば良いのさ」ハルは、あっちだ、という感じでこの違う川の上流に鼻先を向けた。

「御婆様が言っていた沼って、ここからまだ遠いのかな?う~何これ、美味しくなぃ~、ぺっぺっぺっ、変な物食べちゃった」

 二人の朝食が終わり、それから程なくして、森の中は隅々までとはいえないが明るくなってきた。

変な物も含め腹一杯になるまで木の実を食べた二人は、昨晩森の主に約束した通りに早々に大木の虚から離れ、森の中を歩き出した。またいつ森の何かが現われるか分らないし、昨日のような危険な獣もいるかも分らない。その意味でも早くにもっと開けたところへと移動する必要があった。それと目的地である沼の畔の集落に、できるだけ早く明るい内に行き着きたい、という事もあったからだ。

 二人は木の実を食べながら話していた通り、この川に沿って上流に向って遡り、何とか岩伝いに渡れると思われる箇所を見付け渡った。そして越えたその先は、木々の中の笹藪を掻き分け掻き分け、キコは腕や足の何箇所も藪蚊に刺され、背の低いハルは時々飛び上がるようにして倒木をのり越え、何度も休んでは歩き休んでは歩きを繰り返した。そしてほぼ一日を費やし、太陽が既に赤みを帯び水平線に掛かるくらいの高さまできた時、キコが音を上げそうに、まだかなぁ、と言い出した頃、やっと森が途切れ視界が開けた。

二人は新たな川が横たわっているところへ、やっと辿り着いた。

「川だわぁ~!この川だよね、その川というのはさ、ね、ハル!」ハルを見た。

 ハルは鼻先を上げ、何かの臭いを嗅ぐようにクンクンとしている。

「うん、多分な、この川の上流だと思う」確信は無いようだ。

「あなた、川の臭いで分るの?」キコはかなりな不思議顔だ。

「ん?いや、はっきりとは分らないけど、…多分な」

 二人は上流に向けて歩き出した。もう日暮れは近い。早く婆様の言う沼の畔の集落に行き着かなければならない。キコも既に足は棒のようになっていたが、そんな事より早くその集落を見付けなければと焦っていた。故に足に意識を向けて必死で動かしていた。ハルは普段と全く変らぬ動きだ。時々後ろのキコを見やっては、二人の距離を確認しながらスタスタと歩いている。

 熟れたトマトのような赤い太陽が、木々の合間を縫って僅かに見えている。もう、その姿の半分を地球の陰に隠している。そんな美しい太陽を見ている余裕など、この時の二人には全く無かった。二人は急いだ。暗くなればいくら川沿いとはいえ、また泊まるところも探さなくてはならないし、それにまた何が現われるか分かったもんじゃない。会話は無くても二人の頭の中はその事で一致している。ハルにはそれなりの対処する力はあっても、面倒な事はできるだけ避けたいと思うのは当然だろう。故に、道無き道を二人は急いだ。

 ただでさえ森の中は暗い。この時代、月が顔を出していなければ辺りは漆黒の闇となる。ほどなくして熟れたトマトは姿を消した。幸いにもこの夜は満月とは言えないまでも、半月よりは少し大き目の月が二人を見守ってくれていた。ハルにとっては暗さは問題の無い事であったが、キコにはこの月は実に有難かった。アスファルトの歩道があるわけでもないし、オレンジ色の街灯があるわけでもない。半分ほどであろうがまだ薄白い月明かりは、キコにとってはまさに天の助けであった。しかしこの時の二人は、天への感謝も無いほど余裕が無く、何も語らず、ひたすら前に進むだけだった。



 日が完全に暮れ、辺りは既に黒一色だ。

 二人は間に合わなかったらしい。まだ必死で、いやキコだけは必死で歩いている。が、二人の先、まだかなり遠くだがよく見ると、小さくポツンポツンと明かりのような物が見え出した。先を行くハルがその小さな明かりに気が付いた。力なく歩くキコは下を向いていて気付いていないようだ。

「キコ、集落だ、多分あれだろう」淡々と歩きながら振り向かずに言った。

「…、…」キコは疲れ切っているのか、ハルの言葉に反応が無い。

「キコ、おい、キコ!」ハルは足を止め、少し後ろのキコの方を向いた。

「えっ、何、ハル?」キコも足を止めた。

「あれを見ろ、明かりだ」鼻先をその小さな明かりの方に向けた。

 キコは空ろな目をして、言われるままハルの鼻先の向く方に顔を向けた。海岸から沖あいに浮かぶ遠くの漁り火を見ているような感覚で、小さな明かりがぼんやりとキコの目に映った。

「あれってぇ…」「集落の明かりだ」

 ハルは言いながら向きを変え、足を前に進めた。キコは立ち尽くしたままボーっとしている。ハルはとっとと進んでいく。

「あ、ハル~、待ってよ~」

「恐らく、あの明かりの向こう側に、風福様が言っていた沼があるんだろう」

 辺りはもう真っ暗だが、集落らしき明かりの場所から少し離れたところに、ユラユラ揺れる小さな明かりが、ほんの僅かだが見えている。近くに水辺があり、その明かりが映っているようだ。ハルとキコは重い足を急がせた。

 その集落は小さな茅葺き屋根の家が数軒を連ねるだけの、〝村〟とも言えないほどの本当に小さな〝集落〟であった。

辺りは既に暗いためか人影は全く無い。ハルが思った通り、数個の小さな家が建ち並ぶ先に沼らしき水面が見える。暗いためその奥行きは分らないが、家々の前に小さな広場があり、その先の水際なのか風が殆ど無いにも係らず、チャプンチャプン、と極々小さな音を立てているのが、ハルの鋭敏な耳にかろうじて聞こえている。

「キコ、ここだ、風福様が言っていた集落に間違いない」

 闇の中、白いハルの顔が家々の小さな明かりを受けて、ほんのり赤く染まって見えている。キコが殆ど精気の無い顔でハルを見た。

「ねぇ、ハル、どこかに泊めてもらいたいよね」

 キコは婆様の言った集落が、ここであるのか違うとかはもうどうでも良かった。とにかく足を休めたかったし、横になりたかった。そしてお腹がペコペコだ。

「そうだな、キコ、俺が話すのもおかしいだろうから、キコが聞いてみてくれ」

「うん、そうね、分ったわ」キコ自身は気はのらないが、この場合は仕方がない。

 二人は数軒の並ぶ家の、手前から一番端の家の前で足を止めた。

「すいません、旅の者です、一晩泊めて貰えませんでしょうか」

 戸板の隙間からは小さな明かりが漏れている。確かに人は居そうだ。しかし返事が無い。

「すいません、旅の途中で日が暮れてしまいました、泊めて頂けないでしょうか」

 キコはかなり大きな声で言ったが、人が出てくる気配が全く無い。

「ハル、全然反応が無いわ」「うん、無いな」

 二人はその家を諦め隣の家の前に移動した。そして同じように声を掛けた。

「…頂けないでしょうかぁ~」やはり反応は無い。

「ハル、誰も、出て来ないよ」「…、…」

 二人は少し間を置いてから、次の家、そしてまた次の家と声を掛けていった。しかしどの家も小さな明かりは見えるのに誰も出てはこない。同じように何も反応が無かった。ここに建ち並ぶ全ての家、と言っても数件だが、二人は声を掛け終えた。反応が無い。

キコは悲しげな表情でハルを見た。ハルは普段と変らぬ表情で何かを考えている。考えながら体の向きを変え、沼のある方へと目をやった。キコはまだ諦め切れないのか最後の家の前で、腰をやや屈めて戸板の隙間を覗き込んでいる。ハルが少し歩き出し沼の向こう側に目をやると、小さな明かりが目に入った。

「キコ、おい、キコ!」「ん?何?どうしたの?」

「あれを見てみろ」鼻先をあっちだ、と言うようにその明かりの方向へと向けた。

「ん?あれって、…向こう側にも、家があるってこと?」「そのようだな」

 この時二人はとにかく身体を休めたかった。ここで明かりがあるのにも係らず全ての家で反応が無かった事に、通常なら違和感とか疑問とかが頭の中に浮かぶはずであったが、それ以前に早く横になりたい休みたい、という疲れによる感情が勝っていた。故に二人は新たな可能性を求めて、その少し遠くの明かりに足を向けた。

 その明かりは沼の畔を半周ほど周ったところに、一軒だけポツンとあった。それだけでもどこかおかしい気がするが、二人にはそんな事はどうでも良かった。ハルでさえもさすがにこの時は疲れが勝っていたのか、その離れた一軒に向けてひたすら急いだ。

 足元が暗い。当たり前だが街灯などあるわけもなく、キコは持ち歩いていた手持ち用の小さな火種を頼りに歩いた。現代で言うなら簡易携帯ランプというところか。もちろんハルにはそんな物は必要無い。暗闇でも見えるのか、テクテクといつものテンポでキコの先を行く。沼の畔に沿った形でこの集落の民が歩いてできたのか、二人は踏み固められている道らしきところを、およそ沼の半周ほど歩いた。

 そこには先に数件並んでいた家々よりも一回り大きな家が、ポツンと一軒だけ建っていた。豪華なわけではないが、こんなところにしては幾分場違いと思えるような、千世の集落にでもあるようなしっかりとした家だ。屋根も茅葺ではなく、戸口は意外に小さい。その小さな戸口の前に、今二人は立っている。

「ハル、ここの家、何かりっぱね、長老様か何かの家なのかな?」

「ん、う~ん…」ハルは何かを感じているのか、少し顔をしかめている。

「ごめん下さ~い!」ハルの表情はさて置き、キコの甲高い声が闇夜に響いた。

「すいません、旅の途中で日が暮れたのです、泊めて頂けないでしょうか!」

 キコは早く休みたいという一心で、淡い期待を込め大きな声を張り上げた。

―ガタ、ゴト   中から何やら音がした。誰かいるようだ。

「申し訳ないですが、泊めて…」キコの言葉の途中で誰かが出てきた。

「何だね!」小さな引き戸がギギギー、と嫌な気分にさせられる音を出しながら開いた。

 一人の老婆が、苦虫を潰したような渋い顔をして出てきた。と同時にハルがピクっと何かに反応して、背中の毛が少しだけ盛り上がった。

「すいませんが、旅の途中で日が暮れてしまったのです。一晩だけ泊めて頂けないでしょうか?」キコはハルの反応には全く気付かず、話し始めた。

「…、…」その老婆は黙ってキコの顔、そしてハルの顔を見た。

 まるで二人の品定めをするようにジッと見ている。そして暫く見た後、

「一晩だけじゃよ、食べ物は何も無いからね!」ぶっきら棒に言った。

「はい、もちろんです。あの、私達は…」「入んっな!」

 またキコの言葉の途中でその老婆は、一言だけ吐き捨てるように更にぶっきら棒に言うと、直ぐに家の奥へと入って行ってしまった。キコはハルを見た。ハルは目は赤くはなっていなかったが、背中はまだ少しだけ盛り上がっている。

「ハル、入ろう」そんなハルの変化をキコはまだ気付いていない。

 ハルは少しの警戒レベルのためなのか、この時キコには何も言わず、また肯定的な言葉も言わずに、既に家の中に入ってしまったキコに少し遅れて、気になるがしょうがないな、という感じでキコの後を追って中に入った。辺りは既に真っ暗闇、キコの疲れや気力を考えるとここで、いや待て何かがおかしいぞ、と言ってもしょうがない、少々の気になる事なら何とかなるだろう、という意味も含め、ハル自身が警戒していれば対処できると判断したようだ。

 二人が中に入ると、外から見る家の大きさからは不釣合いなくらいに、簡素で狭く何も無い空間だった。二人は一つの部屋に通された。キコは部屋の中をグルっと見回して、

「何も無いね、ハハ、でも贅沢言うもんじゃないよね、ねぇハル、先ずは泊まれて良かったね」「ん?うん、そうだな」ハルは警戒を解いてはいない。

 そこに先程の老婆が、いつの間にかスゥーっと入ってきた。小さな明かりを持ってきたようだ。部屋がほんのり明るくなり、この老婆の影が壁にユラユラと影絵のように映し出された。しかし幻想的とは、とても言えない。

「そこの奥で寝な!朝起きたらさっさと出て行っておくれよ!」

「はい、ありが…」

 老人はキコがお礼を言い終わる前に、またスゥーっと部屋を出て行った。

「なんだか歓迎されていないね、当たり前かな、ハハ」

 二人は何も無い部屋の片隅に寄り添い、寒さを堪えながら横になった。そして持っていた少しばかりの干し肉をそれぞれ齧り、空腹を幾分和らげると、まだ時間的には早いが眠りに付いた。よほど疲れていたと見え、横になるとキコは直ぐに寝息を立てだした。ハルはというと、背中の毛は元に収まってはいたが注意は怠ってはいない。

―スゥー、スゥー   短い時間でキコはぐっすり寝入ったようだ。

 ハルはキコの前で前足を畳み臥せた姿勢を取ってはいるが、耳はしっかりと立っている。目を閉じてはいても、依然警戒は解いていないようだ。

 そして、一時間ほど経った頃か、

―ガタガタ…、何々、云々…   家の前で誰かの声がする。

 ハルは臥せったままその声に反応して瞬時に目を開けると、耳をその声の方に向けた。

―もごもご、もごもご   言葉ははっきりとは聞こえない。

―ガタ、何じゃね!   あのぶっきら棒な声がした。

 ハルがキコを起さないようにゆっくりと身体を起した。背中がまた盛り上がってきている。目も赤い。この新しい訪問者に何か危険を感じているのだろうか、完全に警戒態勢に入ったようだ。キコはスゥースゥーと、赤子のように全く動ぜず寝入っている。ハルが警戒態勢に入ってから少し間が空いた。そして、

―ガタガタ…、グオーゥ…、オーゥ、オーゥ   何か異様な音がした。

―ゥゥゥゥー…、ガタガタガタ…、グァー   何か得体の知れない音だ。

 この建物の外で何かが起きている。音だけでは良く分らないが、ハルが背中の毛を逆立て目を真っ赤に染め、四本足でしっかりと立ち部屋の入り口に神経を集中している。キコは依然ぐっすりと寝ている。

―シュウシュウ…、シューゥッ、ッシュバッ!   大きな音がした。

 何が起きたのか。部屋の小さい明かりが消え掛かり薄い靄が立ち込めている。気付くと、部屋の入り口に向ってしっかりと立つハルと、スヤスヤ寝ているキコの周りが、その音と共にいつの間にか変化していた。簡素であっても部屋の中にいたはずの二人の周りの壁や床が、いつの間にかゴツゴツとした岩肌になっている。辺りが建物の中ではなく、何故だか突然、山中の洞窟のような薄暗いジメジメしたところへと変ってしまっていた。

 ハルはそのままの姿で、背中の毛はヤマアラシの如くに逆立ち、目はウサギのように真っ赤だ。いつでも直ぐに何が起きても対処できる完全警戒態勢だ。キコはさすがにこの変化の中では寝ていられなかったのか、いつの間にか目をパチッと開け、何事が起きたの?という顔をして状態を起し驚いている。

「ハルぅ~、何が、あったの?」「…」ハルは黙っていた。

 ハルはこの変化が何なのか、状況を把握しようとしているのか、耳をピンっと立てて身じろぎもせずにキコの前に立っている。キコは一呼吸置くと、辺りの様子が変っているのに気が付いた。改めて驚き、見開いたその目でゆっくりと辺りを見回した。

「何なの、…ここは、どこなの?」「洞窟だな」落ち着いた声でハルが応えた。

「洞窟?何で、…何で、私達洞窟にいるの?」

 その疑問はもっともだが、ハルはその答えを求めるために全神経を集中している。

「キコ、もう少し待つんだ、あの家の主がやってくる」ハルは既に分っているのか。

「家の、主?あの、お婆さんの事?」

 キコは突然の辺りの変化で、恐怖心と不安で心臓がドキドキ脈打っていたが、ハルが言うのだから大丈夫なんだ、と落ち着くために何とか自分に言い聞かせていた。

 そうしている間に〝洞窟〟の入り口と思われる方から、ペタ、ペタ、ペタ、と小さな足音が聞こえてきた。ハルは耳をその足音の方に向け、更に意識を集中した。こちらに向って来るのがこの家の、いや、変化する前の家の主人とは限らない。今、何かが起きている。

「いやいや、ごめんなさいね、驚いたでしょう、フフフ」

 何とも穏やかな声で、一人の小さな女性がおっとりとした笑顔で姿を現した。

「この頃はね、変な輩が多くてね、私も色々警戒しているのよ、フフフ」

 現れたのはあの老婆ではなかった。奥にいる二人は何とも言葉が無く黙っている。

この女性、背はキコと同じくらいのまだ比較的若そうな丸っこい体付きの体型で、そしてかなり人懐っこい性格なのか顔全体が笑顔で、見ている方も頬が緩んでくる。

「いやね、貴方達が来た時はまた森の妖怪の類か、時々やって来る四方津国の手先か何かかと思ってね、こうやって建物を繕って様子を見ていたのよ、ごめんなさいね。あ、婆さんの姿も、あれは私なのよ、なかなか良かったでしょ、ハハハ」

 言われている二人は逆の突然の変化に、まだ警戒心が解けずに黙っている。ハルの背中は話しを聞きながら徐々に元に戻ってはきたが、目がまだ赤い。キコは口を開けたまま状況が飲み込めない、という感じだ。

この女性が二人に更に近付き、自己紹介をした。

「私はね、この上淨沼に昔から住んでいる、上埜淨明之沼端公弐宮、という者なの、ハハ、宜しくね」

聞いていた二人は互いに目を合わせた。キコが顔を戻し、

「あのぅ、あなた様はここの国津神様、なのでしょうか?」「そうなの、フフフ」

 何と、二人の会う目的の国津神が目の前にいた。ハルの背中がスゥーっと元の背中に戻り、目の色が普通に戻った。

「貴方、私の事知っているみたいね」「はい、私達、貴方に会うためにここに来たんです」「へーそうなの、変っているわねぇ、フフフ」

キコは少し前の老婆と、今こうしてフランクに話している国津神が、同一人物だとは直ぐに頭の中で結びつかずに、幾分困惑している。

自己紹介の後この国津神は、実は本当の自分の住居はこちらだ、と言って二人に移動する旨を伝えた。洞窟から出ると暗いためその存在が全く分らなかったのだが、消えてしまった大きな建物から少し離れた笹薮の中に、埋もれるようにして茅葺き屋根の小さな庵があった。

「あのね、貴方達が来た時、貴方達はおかしな連中でないと直ぐに分ったのよ。やっぱりさっき後から来たような変な輩は、臭いで分るというか、あいつ等は独特な臭いを発するから直ぐ分るのよね、そう思わない、フフ」やはり何かが来ていたようだ。

 三人は国津神の庵に入り、先ず暖を取った。庵の中は小ざっぱりとして、つい先ほど消えてしまった、繕ったと言われる建物の中と何ら変わりが無かった。調度品らしき物も殆ど無く、小さな囲炉裏が部屋の真ん中にあるだけで、実に殺風景な部屋だ。

「あのぅ、国津神様」「あぁ、公弐宮と呼んで良いわよ」

「そうですか、では、公弐宮様」

 キコは戸惑いながらも、なんて感じの良い神様なのだろうと思った。

「私達は先ほども言いましたが、ある目的で貴方に会うために、千世の集落からやって来たのです」キコは座布団も無い床に、きちんと正座をして話している。

 キコは偶然なのか、会うべき神に突然会えたのを嬉しく思ってはいたが、それよりもこれからの取るべき行動を考えると、先ずはこの目の前にいる国津神に、自分達がここに来た事情を早く話そうと思った。

「あらっ、そうなの、…ちせ、ちせねぇ、…千世って、私、知っているわね、えーと…」

 国津神は頭を少々傾げ、思い出そうとしている。

「あのぅ、私達、風福様に言われてここに来たのです」キコはしっかりと言った。

「あらっ、風福の婆様、あっ、そうそう、千世の婆様、ハハ、そうだわよ、婆様よ」

 国津神はキコを指さして、思い出したとばかりに満面の笑顔で大きく笑った。

「あの婆様から数日前に、何か文が来ていたんだわ、…そうそう、カラスが持ってきていたわね、忘れていたわ、ハハハ」

 先日ハルと会話をしていたカラスのように、通信手段としてカラスを使っているみたいだ。確かに、道路も無い時代に空を飛ぶ術があるなら、それは非常に便利でもあるし早い。

 国津神は言いながら、ちょっと待っていて、と言って一度奥に引っ込むと、暫くして何かを持って出てきた。

「ごめんなさいね、客なんて滅多に来ないものだから、来るって言ったらさっきみたいな物の怪の類でしょ、客を歓迎するって心も失せてしまっているのよね、フフフ。これでも食べてみる?」二人の前に何かの干物を差し出した。

「い、いえ、大丈夫です、ここに来る前に食べてきましたから」

 出された物が、ローラーで潰された後の手足を伸ばしてペシャンコになった、何か得体の知れない動物の干物のようで、それを見たキコはやんわりと断った。

「あら、そうなの」国津神は持っていた干物をそこらにポイっと放り投げると、次の話に移った。

「それでね、婆様の言う事には、えーと、そうそう、今世の中に溢れ出てきている四方津国の死人達を何とかせねば、な~んて言っていたかしらね」

 言いながら、確かめるようにキコの顔色を伺っている。

「そのために、古からの言い伝えの〝御印〟の力を復活せねば、な~んて言っていたかしらね」また同じように、言い終わった後にキコの顔色を伺っている。

「それで、娘が一人、犬と共に旅に出たので共に行ってくれ、なんて事、言っていたかしら、ハハ」また顔色を見た。

 この神、分かって言っているのかキコを試しているのか、よく分からない。黙って話しを聞いていたキコが、国津神の話しが終るのを待って口を開いた。

「そうなんです、御婆様の言う事は、その通りなんです。死人達を駆逐するにはどうしても〝御印〟を復活させる必要があるんです。そのために私達は来ました!」

 キコは強い信念をはっきりと表す眼差しで、国津神を真っ直ぐに見て言った。国津神はやや気圧され気味に応えた。

「あぁ、そ、そうなの、それで私に、…どうしろと婆様は申される?」

 キコはここぞとばかりに身を乗り出し、両手を前に付いて更に言葉に力を入れた。

「公弐宮様、どうか御同行して頂けないでしょうか、私達だけではどこにあるか分らない御印を探すのは、本当に砂粒の中の塩を探すようなものなのです。貴方様の力をお貸し頂けないでしょうか!」キコは今にも飛び掛りそうな勢いで、一気に話した。

 しかしキコはなかなかの話し振りだ。あのか弱かったキコも成長をしている。横にいるハルは黙って成り行きを見ている、という感じだ。

「…、…」国津神は目を見開いたまま、動けないでいる。キコは続けた。

「風福様は、国津神はわしが言う事は必ずや引き受けてくれる、と、そう申しておりました。私もそう願っております」ジッと国津神に視線を合わせ、力強く言った。

 国津神はやはり気圧されているのか、視線を合わせまいとしているのか、キコから少し離れたところを見て話しを聞いている。そして立ち上がり部屋の中を歩き出した。

「そうなのよねぇ~、あの婆様には昔、色々とお世話になっちゃってさ」

 何かその辺で世間話をしている、奥様連中のような話し振りだ。

「でもその話だってもう何十年も前の事だし、未だにその事を言われてもね」

 国津神の話の端々に、やんわりと断りたいような雰囲気が見え隠れしている。ゆっくりと歩きながら時々立ち止まり、キコの方をチラっと見てはまた歩き、そしてまた座った。

「あっ、そうそう、千世と言えば、あの頃、何て言ったかな」

 国津神はキコの話しの流れを避けるためなのか、作り笑顔で話題を変えた。

「貴方は若いから分らないでしょうけど、あ、私はね、こう見えても結構年はいっているのよ、フフフ、でも見た目は若いでしょ」何の話しをしているのか。

「そう何十年も前の事なんだけど、結構大変な騒乱があってね、その中で私も大変だったのよ、色々とね」キコは突然話を昔の事にされて、少々戸惑いの顔をしている。

「それでその時千世でね、大層力のある方が現われてその騒乱を鎮めてくれたのね、えーと、あ、そうそう、み、み…、え~と、そうそう、みおり、って言ったかな」

「えっ、彌織様?」突然彌織の名前が、この国津神の口から出てきた。

「そうそう、あらっ、貴方、あの方の名前を知っているの?」笑顔で言った。

 キコは何でここで彌織様の名前が出てきたのか不思議、という顔で国津神を見ている。

「はい、知っています」「そう、知っているの、ふ~ん」

 横で臥せっているハルは無表情で、彌織の名前が出ても何も反応せずに、普通の犬の顔で黙っていた。国津神は何の意味なのか分らないが、昔の思い出を無理やり引き出そうとしているのか、話の流れをその方へと向わせたいのか、彌織の話しを更に続けた。

「貴方も顔に似合わず、もしかして結構年なの?ハハハ」キコは笑っていない。

「それでね、その時に、あの彌織様、あの方はお美しい方だったわね、この集落もあの方に色々と面倒を見てもらったりしたのよ、ちょっと縁があってね」

「そうなんです、か?」キコは国津神が何を言いたいのか量りかねている。

「そうなのよ、フフ、彌織様には会いたいわね、…あらっ、何の話でしたっけ?」

 この国津神、真面目に話しているのかふざけているのか良く分らない。

「あのぅ公弐宮様、御印を見付ける事は彌織様の願いでもあるのです。そのためにも御同行願いたいのですけど」キコは話しを戻すべく、下から目線で国津神を見た。

「あ、そう、そうね、だから彌織様が言ったとしてもね、千世の婆様が今更昔の話しを出してもね…」国津神はうな垂れた素振りで、どうにも嫌々話しをしている感じだ。

 その時だ、今まで黙って伏せていたハルがムクッと身体を起した。そして国津神に鼻先を向けて唐突に口を開いた。この時のハルは警戒態勢ではないのだろうが、目が赤く、背中の毛が逆立っている。

「聞けい!そなた!彌織様の願いが聞けぬと申すか!天系の神の願いが聞けぬとあらば、その責めは受けざる負えぬと思うがよいぞ!よいなっ!」いつものハルの声ではない。

 部屋の中の空気が一気にピンっと張りつめた。バキバキと音がしそうだ。突然のハルの迫力ある声に、言われた国津神のみならず横にいたキコも驚いた。二人とも目をパチっと開け、余りの迫力に何も言えず息を呑んだ。言い放ったハルは尻尾と耳をピンっと立て、背中の毛はヤマアラシのように逆立ち、目は真っ赤に燃え上がり、今にも身体全身から炎が噴き出さんばかりの雰囲気だ。その迫力にキコも、ここにいるのは誰なの?という感じでハルを見ている。もちろんハルの事を知らない国津神は、その迫力、凄みに恐れさえ感じ、身体を後ろに引いた。

「あ、ぁ、貴方様はぁ?」国津神は気圧され、恐れ慄いている表情だ。

「我は天系の犬、彌織様と共にこの地の世界に下った者だ。この地の世界がどうこうなろうとしているこの時に、その憂いを感じての旅、その大いなる目的を愚弄する気かぁ!」

 ハルの声は更に迫力を増す。

「天系の者の願い、聞けぬと申すのか、答えいっ!」

 キコは今までハルがその都度変化していくのに驚いていたが、この時も自分の知らないハルがまた現われたと思った。ハルのこの変化、国津神が何とか二人との同行を避けようとしているのが見えたため、本来の姿がたまたまこの時に現われたのか、意識を持っての変化なのかは分らない。しかしこの変化は国津神に大きなインパクトを与えた。

「そ、そ、そのぅ、べ、べ、別に、…み、彌織、さ、様の願い、を、き、聞かないと言うわけでは、な、ないの、ですよ」しどろもどろだ。

「ならば、何故言い逃れをしようとする!我々と同行する事が、さほどに嫌だと申すのかぁ!」物凄い剣幕だ。キコも何も言えない。助け舟は出ない。

 この時のハルは何かが乗り移っているようで、警戒態勢の時とはまた違う形で毛が逆立ち、目の色もただ赤いというだけでなく、明らかにいつものハルの眼ではない。

「い、い、いえ、嫌な、わけでは、ご、ございません、ですよ、は、はい、ど、同行させて、頂き、ます、もちろんです、はい、はい」

 国津神はハルの迫力に負け、本意では無いにせよ同行を承諾した。まだ空気がビリビリと張り詰めている。キコもまだ何も言えないで目を見開いているままだ。そして言い放った後、国津神を睨み付けていたハルは国津神が同行を承諾したため、次第にその姿は元に戻ってきた。背中の毛は収まり目は通常の黒目に戻った。

 まだ硬めの部屋の空気を変えようとしてなのか、キコが口を開いた。

「は、ハルぅ、よ、良かったね、ハハ、公弐宮様が、御同行して下さるって、ハハ」

「ハハ、ハハ、はい、御同行、させて頂き、ますよ、ハハ」

 キコは少しだけ控えめにハルの背中を優しく撫でた。国津神はまだ顔が引き釣っている。二人の無理な笑い声が何も無い部屋に響くと、部屋の空気がやっと柔らかくなってきたようだ。ハルは言い放つ前の伏せた姿で床に横になった。しかしこの伏せているハルを見ると、先程の、国津神に今にも襲い掛かりそうなくらいの剣幕で言い放った時のハルと、いつものハルとしての意識が、同時に存在していたのかどうか不思議に思う。

 何故かただでさえ何も無い部屋が、更に何も無い空間に感じられる。国津神は引き釣った顔のまま、その後どう行動すれば良いのか分からず、目の前の囲炉裏に炭をくべたり、意味の無い咳をしたりしている。キコはそんな雰囲気を感じてか、今までの事そしてこれからの事を話しだした。もちろんこの時、これからの事は重要で必要な事ではある。

 ハルは言い放ったその後は黙っていた。そして御印をいかに見付けなければならないのか、どこをどうやって探せば良いのか、という大事な用件はキコが国津神に話した。国津神は直ぐに気持ちを入れ替えたのか、それから以降は雄弁にスラスラと話し、受け答えも滑らかとなった。自分に考えがある、先ずはこうしようああしようと、自分の力、繋がり、知識を存分に発揮し披露し出した。そこはそれ、国津〝神〟である。天系ではないが一応〝神〟なのであるが故、様々な力は有していた。その気になりさえすれば、風福の婆様が推薦するだけの力は持っているのだ。実に頼もしいとも思える。

 数分前までの、何とか同行を避けようとしていた〝弱腰の神〟は、もうここにはいなかった。日が暮れてからまだ時間は経っていない。まだまだ夜は長い。三人はこの後、御印探索の旅の準備のためこの場で早々に動き出した。



 旅の準備は丸々二日を費やした。意外に時間が掛かったが、実際にこの旅がどれだけの日数を要するのか、それは誰にも分らない。故に、逆に考えるとたった二日で準備が済んだのか、とも思える。

「でも、あちら側の集落の民は、毎日何かに怯えながら暮らしているのかしら?」

 キコは準備しながら、ふとそう思った。ここに来た日の事を思い出したのだろう。

「ん?そうねぇ、この上淨沼は水辺のせいか死人が現れる事はないのだけれど、手先が来るのよ、時々ね」「手先?」「そう、手先がいるのよ、四方津国のね」

 国津神も最後の準備に動き回りながら、口だけ動かしキコの疑問に答えた。

「だから集落の民は殆ど外には出てこないのよ、ほんと、しょうがないわね」

「あぁそれで私達がきた時も、誰も出てこなかったんだ」キコ、一人頷いている。

「あらっ、ハル殿は?どこかに行かれたの?」いつの間にか、ハル〝殿〟と呼んでいる。

「あぁ、ハルはね、今カラスと何か話していますよ」外に向けて指をさした。

「あらっ、ハル殿もカラスがいるの?そうよね、それくらいいるわよね、ハハ、私のは最近あんまり良くないのよ、もう歳なのよね、情報を届けるのが遅くなっちゃって、もうちょっと頑張ってくれなきゃさ」奥様連中の旦那話のようだ。

 と言っている間にハルが外から戻ってきた。カラスから何か情報を得た様子だ。

「キコ、まだはっきりとは言えないらしいが、ウタの話だと…」「ウタ?」

「あぁ、あいつさ、あのカラスの名前だよ、ウタ、と言うのさ。ウタガラスさ」

 ハルは鼻先をクイっと空に向け、飛んでいったカラスを指した。

「あいつの話だと、西の方へ三十里ほど行った集落で古から伝わる〝力の木〟があると言う、そんな話しを聞いた事があると言うのさ、これは何か関係があるんじゃないか」

「そうねぇ…」国津神がしゃしゃり出て、ハルとキコの間に入ってきた。

「私の友達がその方角に一人いるわね、名前、何て言ったかしら、久しく会ってはいないけど」「その方の居場所は分るのですか?」

「多分、分るとは思うけど、う~ん、何て言ったかなぁ」

 頼りなさそうだが一応この者〝国津神〟である。横の繋がりはあちらこちらに持っているようだ。頭や顎に手を当て思い出そうとしている。その横でハルがチラっと見やると、

「先ずはその方向へ行ってみよう。準備はもうできたんだろ」

 ハルは言いながら出口へと向った。国津神は顎に手をしたまま、考えながら部屋の中をウロウロし出した。キコも既に持ち物を背負い、旅に出る準備は整ったようだ。

「確かねぇ」「公弐宮様行きますよ~」キコが出口で、ハルはもう外にいる。

「ああっ!そうそう、そうだわぁ!」部屋の中で一人叫んだが二人は既に外だ。

「あらっ、誰もいないのね」国津神もそそくさと荷物を持って外に出た。

 この旅、三人が動き出す前は何も道標の無い旅が始まるのかと思いきや、カラスにより確実ではない情報にせよ、一つの情報がもたらされた事は幸先が良いのではないか。先ずはそこを目指して進む事ができる。しかし三十里先、現在の距離で凡そ百二十kmくらいか、車ならいざ知らず歩いてのこの距離はかなりある。時間的には一日四十km進んだとして、三日と言うところか。この時間的距離は長いのか短いのか分からないところだが、しかし三人にとっては先ずはそれが道標であり、当面の目的地となった。

 外に出た三人に太陽の日差しが眩しく降り注いでいる。沼の水面に白い太陽光が乱反射して美しい。その沼の向こう側、あの小さな集落が見えるが、この明るい日差しの中でも人影は無くひっそりとしている。この場所は水辺が近く、ある程度安全ではあるのだろうが、ここの民は何をして暮らしているのだろうか、不思議な集落だ。

 早速歩き出した三人。彼らはこの場所に戻って来る事ができるのか、そして国津神はこの家に戻ってこられるのか、この先の事など誰一人知る由もない。それでも一人一人の頭の中では、それぞれの思いは各々少しの違いはあっても、少なくても〝御印〟を探し出す、と言う点では形はどうあれ、今は同じ目的を頭に思い描いているはずだ。また、そうでなくては困る。恐らくこの旅は、思い描くより遥かに困難な事は目に見えている。



 三人は先ずは西に向った。目の前の上淨沼からそして川からも離れ、森の中に入って行く。つまり水辺から離れた事になる。必然的に、夜が来れば死人がうろつく世界に足を踏み出した、という事になる。もちろん三人は、いやキコ以外の二人はその事を充分に認識はしている、危険に対しての意識の備えはしっかりとしているはずだ。恐らく、そのはずなのだが。

 彼らは森の中、ブッシュを掻き分け掻き分け、道無き道を縦に一列になって歩いている。当然先頭を行くのはハルだ。少し遅れてキコ、後ろに公弐宮が余り軽快ではない足取りで続いた。歩きながら公弐宮がこの森の話しをしだした。

「この森はね、早めに通り過ぎた方が良いのよね、私も近くに住みながら、余り足を踏み入れた事は無かったのよ」「どうしてですか?」少し離れてキコが前から聞いた。

「何故ってね、ここには森の主が居るのよ、余り表立って現れはしないけど、下手に足を踏み入れると、森を荒らすなぁ!って言って襲って来るらしいの、私はまだお目に掛かった事は無いんだけどね、っふぅ~、ふぅ~」

「公弐宮様、それ、私達、既に会いましたよ」キコが立ち止まり振り返って公弐宮を見た。

「あら、そうなの?どこで?」「ここに来る前、森の中で、夜中に」

 ハルはそんな二人を気にも留めずに自分のぺースで、スタスタとさっさと前に進んで行っている。公弐宮と話しながらも、キコがそれに気が付いた。

「あっ、ハルぅ~、ちょっと待ってよ~」慌てて足を進めた。

「それで、何もお咎めは無かったの?」後ろから公弐宮が、少し大きな声を出した。

「はい、っふぅ~、ハルが話しを付けてくれたみたいで、っふぅ~、私は恐くて縮込まっていたので、よく分からないんですけどね、っふぅ~」振り返り振り返り言った。

「っそう、はぁ、はぁ、そうなの、やっぱり、ハル殿ねぇ、っふぅ、っふぅ」

 三人は、いや後ろ二人は初めは話しをしながらも足を進めていたが、五分もしない内に殆ど無口となり、ひたすら道なき道を、ハルが進む後をひたすら歩いた。彼らに取ってこの旅はまだ始まったばかりである。疲れただのしんどいだのは早過ぎる。

 それでも半日はとうに過ぎてはいたが、三人はやっと深い森から出る事ができた。

 日は天頂よりかなり傾いている。恐らく後二時間ほどで日暮れとなるくらいか。それでも昼間でさえ薄暗い深い森を出ると、ブッシュはまだまだ続くが、彼らの上には明るい空が広がった。天気は良い。

森を出ると、辺りは比較的岩場の多い地域となっていた。山でもないがやや標高が上がっているのか、アップダウンが多くなってきたようだ。

 公弐宮は自分の住む地域からは離れているが、この土地を理解しているようだ。先を行くハルに声を掛けた。

「ハル殿ぉ~、宜しいですかぁ~、ここの岩場にはちょっと厄介な者どもがおります故ぇ~、気を付けていて下さいよぉ~!」公弐宮は一度立ち止まり、一息付いてまた進んだ。

 ハルは返事のつもりなのか、足は止めずに尻尾を一度ピンっと真っ直ぐに立てた。そして中間にいるキコが、首だけ後ろに回しながら訊いた。

「公弐宮様ぁ~、何ですかぁ~、そのぉ、厄介な、者ども、ってぇ~?」

 公弐宮の足が少し遅れ出している。森の中で体力を使ったせいなのか、キコとの距離が次第に離れてきている。普段の運動不足がこういう時に出るものだ。

「っふぅ、っふぅ、あのねぇ、そいつらはぁ、獣とぉ、人間のぉ、中間くらいのぉ、っふぅ、やつらでねぇ~」息も絶え絶えだ。

「公弐宮様、大丈夫ですかぁ?」キコが足を止めて公弐宮の方を見ている。

「ハハハ、な~に、これくらい、っふぅ、大丈夫よ、ハハ」

 公弐宮は言っている事と身体の動きが全くシンクロしていない。見た目は明らかにヨレヨレという感じだ。キコは公弐宮が来るまで待っていた。

「一緒に行きましょ」言いながら公弐宮の腰に手を宛がった。

「ハハ、悪いわね」「いえいえ、ところで、さっきの話ですけど…」

 キコは公弐宮の言う厄介な者どもの事が気になった。まだ旅に出る前から〝森の主〟のようなやや恐ろしい物体?にも既にお目に掛かっている。この先行く先々で、どんな恐ろしい輩に出くわすかは分らないが、会わないに越した事はない。

「あいつらはね、この谷に迷い込んだ者や薪を拾いにきた者達を、集団で襲っては食っちまうのさ。一匹や二匹ではちょいと驚かせば逃げて行くくせにさ、集団になると途端に凶暴になりやがる。しかもどこにねぐらがあるのかも分らず、突然現われては襲ってくるから手に負えないのよねぇ」しかめっ面で話している。

「そうなんですか、そんなのがいるなんて、そんな所早く通り過ぎたいですね」

 二人はそんな奴らの話をしながら、小高いゴツゴツした岩場の丘に出た。かなり遠くを見渡せる場所だ。そこから見ると、近くには足元と同じゴツゴツした岩場の大なり小なり丘が連なり、その先にはさして深くはないが谷となり小川が見えている。その小川の先には、森とは言えない小さな木々の集まりが点々として、更に先を行くと大きな岩山が、両側を覆うように聳えている。そこまで行くともう先は見えない。

 二人がふと気付くとハルが近くにいない。早くに一人先を行き、二人からはとっくに離れてしまっていた。キコが気付くが今は一人ではないせいか、余り慌てた様子はない。

―ハル、どこに行ったんだろう?

 二人はその丘の上に転がるゴロンとした岩に腰掛け、小休憩を取った。暫く他愛もない話しをした後、公弐宮が先程の話の続きをし出した。

「キコが言うように、ここを早く過ぎてしまいたいのは山々なんだけどさ、日暮れが近いからその前にどこか寝床を確保しないとね。さっき言った奴等は、いつどこから襲って来るか分かったもんじゃないからさ」腰を上げゆっくりと歩き出した。

「そうですね、でも、ハルはどこに行ったんだろう?」キコも公弐宮に続いた。

 キコはハルがいないか周りを見ながら暫く歩くと、かなり遠くの岩陰からハルが顔を出してこっちを見ている。

―あ、ハルだ   キコが声を掛ける前にハルが声を掛けてきた。

「こっちへ来るんだ。洞穴がある。今日はここへ泊ろう」ハルは既に見付けていた。

「さすがね、ハル殿は分っているんだわ、あいつ等の事を」公弐宮、納得顔だ。

 三人はハルの見付けた洞窟で寝床や薪にするための枯葉や草木、木の実や自然の芋や虫の幼虫など簡単な食料、そして竹筒に入れた水も運び入れ、一晩過ごす準備をした。

 意外に時間の掛かった準備をやっと終えた頃、それを待ち兼ねたように太陽が丘の岩陰にその姿を消した。直ぐに暗くなる。と同時にそれはもちろん、呼ばれもしない輩に対する準備も必要となる事を意味する。

 この洞窟、入り口は小さいが奥行きがかなりありそうだ。こういう山の岩場には、風穴や鍾乳洞などが時々見受けられるが、ここには鍾乳石は見当たらない。風穴に近いのか、緩やかな空気の流れが奥に向かって感じられる。熾したばかりの焚き火の小さな炎が、僅かに奥に向かってなびいている。

三人は僅かな食事を摂ると直ぐに寝床に入った。電気の無い時代、日暮れは寝床に入る合図であり、夜明けは起床の時間である。三人は交代で睡眠を取った。いつ何時奴等が現われるか分らない。しかもここは水辺ではない。小川は少し離れたところを流れてはいるが、死人のうろつく事も有り得る場所ではある。

―ワォーゥ、ゥーー   オオカミの声だ。

 そう、変な輩の他、獣もいる事を忘れてはいけない。森は近くには無いから森の主はここにはいないだろうが、オオカミの他、野犬もいるだろうし、猪もいれば熊もいる。獣はどこにでもいる。

 この時〝当番〟で起きていたのはキコだ。少し不安な気持ちで薪をくべている。

―嫌だなぁー、何がきてもおかしくはないよね

―ホゥ、ホゥ、ホゥ   キコがビクっとしたがこれはフクロウ、問題無い。

 とは言え、ハルの耳はしっかりと音のする方向を向いている。彼はどんな時も、目を閉じてはいても警戒を怠る事はない。その隣で公弐宮は、グゥ~、グゥ~、しっかり寝ている。育つわけだ。身体が丸い理由がここにある。

 そして、当番交代で公弐宮が起きてキコが寝た。ハルの耳はしっかりと立っている。そして公弐宮が交代してから一時間程が過ぎた頃だ。この神が当番にも拘らず、ウトウトと頭を振り出した、その時、洞窟の外で何か音がした。ハルの耳が、ピクッ、とそれに素早く反応した。ハルは目を開け上体を起した。公弐宮はというと、

―グゥ、グゥ…

「起きろ、何かが来たぞ!」押し殺した声で二人に言った。

 ハルはスッと四足で立ち上がると、入り口から少し離れた場所に移動して身構えた。他の二人は心」構えだけはしていたにも係らず、一応目は覚ましたが、まだ顔がボヤーっとしている。目が空ろなままだ。公弐宮が、

「わ、私、…結界を、張るわ」目を擦りながら洞窟の入り口付近に向った。

―この地の精霊、帰し給え、…、御身の力、…、何がし何がし、…

 公弐宮は、この時はシャキッとしていた。両手を合わせ上へ下へと腕を激しく動かした。そしてその辺の枯れ枝を一本拾うと、地面にシャーっと線を引き、これが区切りの線なのかその線に向け指をさし、また何やら呪文を唱えた。呪文を唱え終わると、手の平を洞窟の外に向けて広げ黙して念じ、最後に、フン、と大きく気合を入れ儀式が終った。

「どんな奴等が来るのか分らないけど、私の結界の力は余り強くはないからさ、ちょっと覚悟しておいてよ」何とも頼り無い言葉だ。

 それを見越してなのか、ハルは既に背中の毛が立ってきている。目も赤い。

「キコ、下がっていた方が良い」ハルの低い声が洞窟の奥へと響いた。と、その時、

―ガサガサ、ザザザー   何かが一斉に動き出した。かなり多くの何かがいるようだ。

―ズザザザー、バタッ、バタッ   洞窟入り口の向こう側、何かが現れた。

 何かが現れたのは分ったが薪の明かりは小さく、洞窟の入り口からは少し離れたところにいるその何かの姿は、暗闇に紛れはっきりとは分からない。ただ、一つや二つではない事だけは確かだ。かなりの数が入り口付近に集まってきている。

―ズズズズー、ドゥン!バタッ、ドゥン!バタッ   何の音だろうか。

 公弐宮が声を落とし、暗闇を見詰めるようにして、

「あいつ等だわ、私達の臭いを嗅ぎ付け、集まってきたのよ」

「でも、あの音は、何なの?」キコが入り口の向こう側をジッと見ながら訊いた。

「あれはこの洞窟に入ろうとして、結界に弾かれているのよ、でも…」

 公弐宮はその先は言わなかったが、目の前の状況がそれを言わずもがな伝えている。

―ドゥン!バタッ、ドゥン!バタッ…   奴等は何回も何回も繰り返している。

―ドゥン!バタッ、ドゥン!バタッ…   同じ事を何回も何回も、執拗に。

―ズン!バタッ、ギュウー   音が変った。

―ズン!バタッ、ギュウー   目の前の空間が少し歪み出した。

―ズン!ズン!ズン!ギュウーギュウー、ズッシャ!   空間の一部に穴が開いた。

 結界の線を引いた箇所から内部に、一匹と言えば良いのか、サルのような人間のような生き物が洞窟の中へ、ハルの立っている真ん前へと転がり入ってきた。しかしかなりのダメージを受けている様子で、転がったままでいる。ハルがその生き物へと鼻先を向け、

―フー、ハッ!   気を吐いた。

―シュウーッ、ジュウゥー   蒸発?したように消えた。

「い、今のは、…何なの?」キコが消えた箇所をジッと見ながらやや慄いている。

「あいつ等よ、あれがここら辺一帯に住み着いている、グル、って言う奴らよ」

「グ、グル?」「そう、人間と猿の中間みたいな生き物さ」

 公弐宮の張った結界は、自身が言ったように余り強力ではなさそうだ。結界自体がどのように空間に張られているのかは分らないが、執拗に何度も何度も力付く体当りをされ続けている内、どこからか綻びが出るのか、今のように空間の裂け目なのか割れ目なのか、破られ入り込まれてしまった。ハルはそれを予想していたのだろう。

 ハルはその後、顔は洞窟の入り口へと向けたまま、後ろの二人へ声を掛けた。

「この洞窟の奥がどうなっているか分らないが、奥へ行った方が良さそうだ」

「うん、分ったわ」キコは真剣な面持ちで、言われたまま直ぐに荷物を背負った。

「ハル殿は?」公弐宮もハルを見ながら荷物を担いだ。

「大丈夫だ、先に行ってくれ」「分かったわ、では」二人は奥へと向かった。

―ギュウー、バタッ、シュウーッ、ジュウゥー、バタッ、ギュウー

 洞窟の入り口付近で音が大きくなってきた。奥へ向かった二人にその音は聞こえているが、奥へと進むに連れ聴こえなくなった。ハルの姿はまだ見えない。むろん、暗闇が辺りを覆っているせいもあるが、キコの持つ携帯的な明かりだけでは入り口側だけではなく、奥へ向うのもかなり気を付けなければならない。

「この先は、どうなっているんだろうねぇ」公弐宮が頼り無く言う。

「分りませんが、…それよりも、ハルが心配です」

 キコはハルの力を信じてはいるのだろうが、あの奇怪な生き物を見た後では、いくらハルでも何が起こるのか分からないと思った。

「う~ん、大丈夫よ、多分、ハル殿なら」全く説得力の無い言葉だ。

 それから二人は小さな明かりを頼りに、暗闇の中足元に気を配り、ハルの事を心配しつつも奥へ奥へと歩いた。

 二人の進む洞窟の岩肌はゴツゴツとして、黒い岩や茶色い岩が混じり合い、辺り一面湿っている。洞窟の直径は三mほどだろうか、その昔、ドロドロの溶岩が通り抜けた後にできた地下空間なのだろう。どこまで続くかは分からないが、時々ヒョロヒョロと細長いトカゲなのか蛇なのか、良く分からない生き物が二人の足元を通り過ぎる。そして二人は、この先に何があるのか分からない緊張感からか、暫くの間はお互い何も話さず、只々、足元やその先に注意を向け黙して歩いた。その時、突然、

「キャアー!アー、ァー、ァー、…」数歩先を行くキコが、公弐宮の前から消えた?

 暗闇でキコに何かが起きた。叫び声を上げながら、どこかに落ちたのか?

「ど、どうしたの?キコ!キコ!どうしたの?」公弐宮、もちろん慌てている。

 キコがいなくなり全くの暗闇となった。公弐宮は突然何が起きたのか分からない。暗闇の中でその場で動けず突っ立ったまま、キコの声が急激に小さくなっていくのを、耳だけで聞いているしかなかった。

「キコぉ~、キコぉ~」公弐宮は大きな声で叫んだ。が、返事が無い。

 公弐宮の声が、洞窟の奥へと木霊のように長く響き渡っている。という事は、ここに空間があるようだ。声が消えた後、シーンと少し間が空いた。すると小さな声が公弐宮の、かなり離れた下の方から聞こえてくる気がした。公弐宮はそう思った。暗闇で空間的な位置がよく分からない。

「キコぉ~、どこにいるのぉ~、いたら、返事をしておくれぇ~」

「公弐宮、様ぁ~」声がした。下?の方からなのか?

「どこに、いるのぉ~」「分からないですぅ~、…ただ、私、どこかに落ちたみたいです~」落ちた、という事はやはり、公弐宮のいる位置から下にいるという事だ。

「落ちたぁ!じゃあ、身体はぁ、大丈夫なのぉ~」「はい、大丈夫ですぅ~」

 実際にはキコは、落ちた、と言うより、滑り落ちた、と言うべき状態であった。擦傷はあっても骨折などはしていない。そして彼女は何とか保持していた小さい火を、目印として頭の上に掲げた。

「ここですぅ~、ここにいますぅ~、見えますかぁ~」

 公弐宮は自分より地の下という感じで下の方に目をやると、かなり遠くに小さい明かりが灯っているのを、辛うじて見る事ができた。

「あっ、キコ、見えるわよぉ~、大丈夫なのねぇ~」「はいぃ~」

 キコは良く見えはしないが、何か無いかと自分の倒れ込んでいる周りを手で探った。何か木の棒のような物が手に当った。そして自分の衣服を少しだけ引き千切り棒に巻き付け、火を点けて篝火にした。その明かりを頭の上に掲げ振りながら、再度上に向けて叫んだ。

「公弐宮様ぁ~、ここですぅ~」と、その明かりでキコ自身が周りの景色に驚いた。

「こ、これはぁ~」「キコぉ~、ここはぁ、何か、大きな空間だわぁ~」

 辺りがある程度篝火で照らされると、その広さに二人は上と下で共に驚いた。その全ては大きすぎて明かりが届かず見えてはいないのだが、少なくともキコと公弐宮の位置関係では、高さのギャップが十m以上はあるだろう。キコの目の前に大理石のような、大きななだらかな一枚岩が見えている。ここをキコが滑り落ちてきたのだ。そして周りは、これも闇が続く先がどこまでなのかはよく分からないが、明かりの届く範囲では単に見えている範囲だけでも、この空間の容積は優に小学校の体育館くらいはあるのか、かなりな広さだ。その高い天井ほどの高さに、まだ公弐宮は立っている。キコが声を掛けた。

「公弐宮様ぁ~、滑って降りてきて下さいぃ~」「えーっ!」

 公弐宮の叫び声がこの空間に悲しく響き渡った。これはこの落差を知らずに落ちるのと、それを見てから落ちるのでは、どちらが幸せか不幸せかを問う場面だ。

 公弐宮が戸惑っている、その時だ、

―ガラガラガラ、ドドーン、ゴンゴン、ガラガラ、カランカランカラン

「な、何?何なの?」公弐宮の後ろで大音響が轟いた。

 公弐宮は何が起きたのか分からず振り返った。振り返ると洞窟の入り口側から、煙なのか砂埃なのか、モクモクと煙が出てきた。それを見ながら公弐宮は、何も言えず驚きでボー然としている。と同時にパタパタパタと足音が聞こえる。目が点になったままの無意識状態の公弐宮の耳に、その音だけが入ってきた。

「奴等、切りが無くやってきやがるから、入り口を塞いでやった。もう、この奥へ進むしかない」ボー然と立っている公弐宮の前にハルがきた。

 ハルは何も応えず棒と化している公弐宮の前を通り過ぎ、姿は見えないが、キコの持つ篝火で照らされたこの大空間を見て、ほぉー、と一言言うと直ぐに悟ったのか、大理石の一枚岩の上に立つと鼻先を下に向けた。「キコ、今行く」と言うや否や、キコが滑り落ちたこの大滑り台を何の迷いも無く、シャー、と即座に滑り降りた。そこは岩の上で何やら迷っている誰かとは違う。その誰かは、驚いてハルの動きを見詰めているだけで、ハルはとっくに下に降りてしまった。

「あっ、ハル、大丈夫だったのね!」キコは殆ど当たり前、という感じでハルを見た。

「キコ、入り口は塞いでしまったから、こっちへ行くしかない」

 ハルの簡潔な言葉にキコは何も聞かず、状況を直ぐに理解した。お互いを信頼し合っているからなのだろう、二人同時に、ウン、と頷くと共に直ぐに歩き出した。そして一人、大理石の上に残された者がいる。

「ちょっとぉ~、待ってよぉ~」悲しい声が空間に響き渡る。

 未だ戸惑う公弐宮を残し、大滑り台の上から見える篝火の明かりが、洞窟の奥へと次第に小さくなっていく。辺りはまた暗くなった。



 恐らくは、空間の明かりが次第に小さくなっていくに連れ、自分の意識を鞭で叩いたのだろう、いつの間にかキコとハルの後ろに、公弐宮がうな垂れたように歩いている。

「この空間はすごいな、見える範囲だけでもかなりな広さだろう」ハルが上を見ている。

「そうね、これだけの空間がよく崩れずに残っているものね」キコも上を見ている。

 三人の歩く洞窟の足元は比較的なだらかで、誰かが岩をどけて道を作ったのかと思わせるほど、実に歩き易かった。世界にはこのような大空間の洞窟が何箇所か存在するが、それらの何ヶ所かが世界遺産に指定されている。三人が歩くこの空間も、ユネスコに紹介すれば指定を受ける事だろう。ただ、彼らが歩いているこの洞窟は、若干一般的に言われる洞窟とは少し違う点があるようだ。

 先ずは、誰もが思う洞窟の住民であるコウモリ、何故だかここには一匹のコウモリも飛んでいない。凹凸の大きな岩の天井には、バットマンの元となる革のマントを纏った何百匹という黒い生き物が、ここでは全く見当たらない。その代わりというわけではないが、よく分からない白い平べったい生き物が、滑らかな凹凸の窪みに何匹もあちこちにくっついているのが見える。それがキコの持つ篝火の光が差した時だけ、ハタハタハタ、と蝶のようにその周辺だけを短い間舞い飛び、そしてまた違う窪みを見付けてはペタッと張り付く。この生き物、名前も素性も分からない不思議な生き物だ。別に下を歩く三人に危害を加えるわけでもなく、三人は天井の動きには気にも留めず先を進んだ。

 次に思うのは、通常洞窟は黒い岩がゴツゴツとしていて今にもどこかが崩れるのか、と思える岩肌が当たり前だが、ここは違う。先に現れた大滑り台のような白い、もしくは赤みを帯びた大理石でできた、岩肌が滑らかな洞窟なのである。故にキコの持つ篝火で白や時々赤が入り混じったりと、それらがキラキラと光輝き何とも美しい。そしてこの大理石の岩肌に、時折質の違う輝きを持つ岩がある。金色や緑や濃い赤で、それらが入り混じった岩肌が見られる。この時代、宝石という物がどの程度に価値があるのかは分からないが、エメラルドやルビー等の小さな鉱脈が、この洞窟内に露出しているのかもしれない。

 エジプトやインカ等、世界各地の古代文明に於ける金やヒスイ等の輝く宝石類は、それらの文明の主要な装飾品やシンボルなどになっていることが多いが、この洞窟のように鉱脈が露出しているというのも珍しい。ただこの時、歩く三人に取ってそれらは全く意味の無い、何の助けにもならない無用の長物、ただの色付きの石にすぎなかった。三人とも全く関心を示していない。

この洞窟の入り口は普通の洞窟のような黒い岩肌であったのが、中にこのような大理石と宝石らしき壁のある空間があるとは、不思議な地層の地底世界である。

 そんな空間を三人は奥へ奥へと進んだ。

進むにつれて、大空間は次第にその空間の幅を狭めてきた。幅を狭めて更に岩肌も変化してきた。先の大滑り台が登場する前に見られた、黒いゴツゴツとした岩肌の、いわゆる普通の洞窟に戻りつつある。そして更に先へと進んで行くと、その空間的広さがいよいよ狭く細くなってきた。

「この先はちょっと狭そうね」キコが篝火を持つ腕を前に出し、行く先を覗いている。

「俺は大丈夫だけど、二人は気を付けてくれ」ハルの歩くテンポは変らない。

「この先、行けるのかしら?」一番後ろで公弐宮が、やや腰を曲げ出した。

 更に進むと幅はどんどん狭まり、高さは大人が腰を屈めても辛いくらいになってきた。そして目の前に抱え切れないくらいの岩が、ゴロゴロと行き先を遮るように転がりだし、もう普通には歩けない。ここまで来たら、殆ど何々探検隊のように進むしかない。ハルが足を止め振り返り、腰を屈める二人に鼻先を向けた。

「この先は、先ず俺が行ってみる。篝火は必要無いから、ここで待っていてくれ」

 と言うや否や、二人がウン、と言う前にハルはサッと向きを変え、更に狭い空間にピョンピョンとカモシカが野山を跳ねるように、入って行ってしまった。素早い。

「…、…」二人は一言も言えずにハルの動きを見送った。

 そして数分後、そのまま黙って岩を見詰めている二人の前に、岩と岩の狭い空間からハルがヒョイと顔を出した。

「この先に何本かに洞窟が分かれた場所がある、先ずはそこまで行って考えよう」

 と言うや否や、またしてもハルはサッと奥へと引き返してしまった。二人にさっさと奥へ来い、という意味なのだろう。二人はまたしてもウン、という機会を逃した。

 そして人型をした二人は、二人とも渋々ながらも動き出し、ハルが飛び跳ねるように潜り抜けていったその狭い空間を、横になったり縦になったりヨガのような姿になったり腹ばいになったりで、何とかその狭い岩と岩との間を通り抜けていった。キコは体勢を変える度に篝火の持ち手を変え、時にやけどをしながら持ち続け、そしてやっとある程度の空間に出ると、そこでハルが置物のように微動だにせず、当たり前だが四足で立って待っていた。一度チラっと顔を動かし、二人が来たのを確認すると、

「ここだ。どの道に行くかを決めなければならない」鼻先を分かれた空間に振った。

 後から来た二人はあの狭い空間を、体勢を色々変えてのかなりな運動量でここまで来たためなのか、かなり息を切らせていた。ハルの言葉にまだ返事ができないでいる。

「っはぁ、っはぁ、っはぁ、…は、ハル、っはぁ、どの、道に、行けば、良いの?」

 キコは中腰になって膝に片手を付き、篝火を持つもう一方をやや掲げ、顔だけ上げてハルを見た。そして人型のもう一人は、ゼーゼー、と、言葉を発するまでに至っていない。

「分からない。俺にもどの道が外に通じているのかは、分からないよ」

 二人の後ろでしゃがみ込み、頭を垂れてゼーゼー言っている誰かが、ゆっくり、途切れ途切れにキコの問に答えた。

「ゼーゼー、あ、あのね、ゼーゼー、私、ゼーゼー、こういうの得意なのよね、っはぁ、っはぁ」得意?何が?という顔でキコが振り返った。公弐宮が続けた。

「私、っはぁ、っはぁ、こういうのを、っはぁ、選ぶのは、得意なのよ」

 と言うと、公弐宮は一息溜めてから、よいっしょ、と小さく気合の声を発して腰を上げた。そして腰を伸ばしながら片手でトントンっと軽く叩き、っふぅ、と息を整えると、その辺に落ちている長めの石を拾い、自分の周りの地べたに自分も回りながらシャー、と細く半円を描いた。その後、各分かれ道の見える箇所でチョンチョンチョンと線を描き入れ、その石をポンと投げ捨てた。

「っふぅ~、ちょっと、見ていてよ」と小さな声で言うと、何やら唱え出した。

―見紛うばかりの、草分けの印、…、己が選べし、正眼の心、…、何がし何がし、…

 公弐宮は、こういう時はシャキッとする。自ら描いた円の中でスッと真っ直ぐに立ち、両手を顔の前で拝む形で合わせて目を閉じている。そしてブツブツ唱えながら微動だにしない。端から見ていても、これが公弐宮?と思わせる、どこそこ寺の観音立像のように美しい姿だ。

 そして一、二分後、見ていると公弐宮の周りの地面の線が、部分的に自然と消えだした。

「へー、面白いわね」キコが篝火を持つ腕をその方に伸ばし、目を大きくさせた。

 線は次第に消えていく。公弐宮は続けてブツブツ唱え、線は残り僅かとなってきた。そしてある箇所を残し線の動きは止まった。始めにチョンチョンとした幾つかの線のうち一つだけを残し、他の線は全て消えた。当然その残った線のその方角に進め、という事なのだろう。公弐宮はブツブツ言うのを止めると目を開けた。

「こっちだわ!」その方向の洞窟に向け自信満々で指をさした、のは良いが何か変だ。

 キコとハルが揃ってその方向に顔を向けたが、この神が指を向けた方向は二本の洞窟の中間にある石の壁で、それらのどっちに行けば良いのか、かなり微妙だ。

「あ、あのぅ…」「公弐宮、どっちに行けば良いんだ」二人がほぼ同時に声を発した。

「あらっ?変ねぇ、私のこの呪文っていつも当たるのよ、ハハ」

 公弐宮は笑いながらそれら二つの洞窟の前に歩を進め、交互に奥を覗いている。

「よし、それじゃあ、三人で同時にどちらかを選ぶっていうのはどうだ」

 ハルが言うと、良いわ、キコも頷き、もちろん公弐宮は反対などできない。そして一、二の三、でそれぞれ指をさした。ハルはもちろん鼻先だ。そして結果はキコとハルが右側、公弐宮が左側だ。あっ、と小さく公弐宮が発したが、そんな声は無視してハルが、よし行こう、と即座に歩き出した。公弐宮、あ、の口を開けたままでいる。

いつもながら公弐宮が遅れて、さっさと先を行く二人の後を追いだした。

 三人が暫く歩いて行くと、やはりまた、この洞窟の幅が次第に狭まってきた。人間型の二人は既に中腰姿になっている。そして進む事は辛うじてできたが、再度ゴロゴロとした行く手を遮る大きな岩のある箇所にきた。

「ここで待っていてくれ」ハルが当然の如く、言うや否や岩と岩の合間を抜けていった。

「外に出られるかなぁ?」キコはハルが抜けて行った細い合間を覗いている。

「そうねぇ、私が…」公弐宮が何か言い掛けた時、

「少し先に空が見える穴がある、抜ける事ができそうだ」ハルが岩の合間から顔を出した。

「分かったわ、行きましょう!」キコは公弐宮にそう言うと、直ぐに動き出した。

 公弐宮は、私が選んだ道の方が良かったのかも、と言いたかったのか、人差し指を立てて何かを言いそうになった時、そこにはもう誰もいなかった。キコは岩と岩の間で既に格闘をしていた。いつもこの国津神は反応が遅い。この時もワンテンポ遅れ、いかにも仕方無くという感じでゆっくりと動き出し、キコの後に続いた。

 ハルはこの洞窟の少し先にある小さな穴を通り、一人外に出ていた。夜空に星が瞬いている。星のきらめきを、あー美しいなぁ、とハルは眺めているわけではない。それどころかハルの目が赤くなっている。背中の毛が逆立っている。何かが起きている。そこへ、

「ねぇハル、この小さい穴から出なきゃいけないの」キコの声だ。

「キコ、出るのは少し待て、あいつ等がいる」押し殺した声でキコを制した。

「えっ!」「あいつ等って、…グルの事?」公弐宮も直ぐ後ろにきていた。

 ハルが穴の中に戻ってきた。まだ警戒の態勢でいるのか、目が赤いままだ。

「ここで少し待とう、夜明けはもう直ぐだろう。身体も休めたいだろうし」

「そうね、でも、ここにいて大丈夫なの?あいつ等が来るんじゃない?」

 キコは心配顔で言うが、公弐宮は意外にも心配していない顔だ。

「うん、多分大丈夫よ、奴らは結構鼻が効かないみたいなんだよね、目で見ないと判断できないようなのさ、だから、目の前にいなければ夜はそんなに警戒しなくても」

「そうなの、じゃあ、洞窟に入る時は見られていたってわけ?」

「恐らくな」ハルが短く応えた。

 そんな話しをしているうちに、ハルの目が元に戻ってきた。

「とりあえず、夜明けまでここにいて、明け方に様子を見る事にしよう」

「分かったわ」「そうだわね」二人は頷き、その場に腰を下ろした。

 ハルは穴の近くで伏せると直ぐに目を閉じた。いつものように目は閉じるが耳は立てている。キコと公弐宮もその場で腰を下ろし、一息付いた。

「でも、昼間はあいつ等がいて、夜は死人か、…面倒ですよね」

「全くだわね、でも、この辺りは死人はそんなにいないから、まだ良い方なのよ」

 キコと公弐宮の話しの通り、良い取り合わせなのか厄介なのか、昼間は死人には気を払わなくて良いが、グルという獣に気を付けなくてはならない、反対に夜間は死人がうろつくがグルは余り気にしなくても良い。どちらにしても気の疲れる事だ。

 三人はこの狭い洞窟内で夜明けを待った。ゴツゴツとした岩肌で地面の下、至る所がジメジメしている。しかも苔の臭いなのかカビの臭いなのか木の根の臭いなのか、土の中の臭い百%という臭いが充満している中、いくら疲れていると言っても、そんなに気持ち良く寝る事などできるわけがない。キコはそう思いながら目は閉じていた、が、隣から即座にグーグーという、大きな寝息が聞こえてきた。

―国津神様って、どこでも寝る事ができるのね、フフ

 気が大きいのか無神経なのか、こういう時は便利な性格だ。それはともかく、その後数時間も経たずして、小さな穴から望む空が次第に白んできたのが見えてきた。

「様子を見てくる」ハルは行動が早い。

 寝ていたのかと思いきや、いつの間にか起き上がると直ぐに行動に移った。ハルの声で目を覚ましたキコは、目を擦りながら、ウン、と寝ぼけながら軽く返事をした。お隣さんは何の迷いも無くグーグー言っている。ハルが外に出て程なくして戻ってきた。穴から早朝の爽やかな空気が入ってきた。

「キコ、とりあえず近くに奴等はいないみたいだ。さっさと出発しよう」

「うん、分かったわ!」まだ目を擦りながらも腰を上げた。

「公弐宮様、行きますよ」キコが熟睡している国津神を、ポンポンと軽く叩いた。

「ん、ん?むにゃ、あ、そう、行くのね」目を半分開けた。

 キコとハルは穴の外で一応警戒のため、その場でやや暫く動かずに様子を伺った。そのうち穴の中から、モグラが春の目覚めの中で土を盛り上げ、顔をちょっとだけ地上に出すように、公弐宮が顔だけ出した。いや、顔しか出せないと言った方が的を射ているのか。

「ああ、良い天気ねぇ」この場で何とも呑気な言葉を発する。

「公弐宮様、この辺りが、どの辺なのか、分かりますか?」

 キコがモグラのように顔だけ出している国津神に顔を向けた。呑気な顔の公弐宮は身体を出さず、顔だけ回して辺りを伺った。

「この山が続くうちは奴らの縄張りなのよね、でも、何かこの景色…」

 言いながら、よいっしょ、という掛け声と共に、公弐宮は土を掻き分け穴を壊しながら、身体を表に出してきた。そしてパタパタと身体の土を払いながら更に景色を見回した。

「う~ん、何か見覚え有るようなぁ~、無いようなぁ~」

 と言っている間に、ハルの背中の毛が逆立ってきた。

「おい、奴等が近づいて来ているぞ」目が赤くなってきた。

「う~ん」公弐宮がまだ考えている。キコは辺りをキョロキョロ見回している。

「良いか、走るぞ!」ハルが言うと、公弐宮が何かに気が付いた。

「ちょ、ちょっと待って、ハル殿!」ハルは走り出す寸前で足を止めた。

「この景色、私の友達が言っていたのよ」公弐宮は山の先を指さした。

「グルの山を越えると、平らな土地が続き、その先に大きな川があるって」

 公弐宮のさす指の先を辿ると、一つ二つ山の連なる先の霞の掛かる空間に、朝日に延びる山の影が遠くまで見える先、言われて初めて気付く程度に平坦な土地が僅かに見えている。そしてその先、ほんの微かだが、川があるのか色の違っている長い窪みらしき帯が細く見えている。そこを指さし自分でも目を細めている。

「この山の下の洞窟が近道になっていたんだわ!」国津神、今までいた穴を見た。

「分かった、走るぞ!」と言うや否やハルは走り出した。キコも何も言わず続いた。

 またしても、あっ、と公弐宮が言っている間に二人の背中がどんどん離れていく。

「ま、待ってよ~」遅ればせながら、重そうな丸い身体も走り出した。

 走り出して直ぐに、南米のジャングルを思わせるような奇妙な声が、森の中のあちこちから聞こえてきた。グルの群れだ。

―クェ、クェ、クェ、クゥィー、クゥィー、クゥィー

―クヮァ、クヮァ、クヮァ、グゥーィ、グゥーィ、グゥーィ、

―グルルル、グルルル、グルルル、

 三人は周りに注意を向けながら、そのまま全速力で走り続けた。奇妙な声が森の中、三人の動きと共に移動している気がする。しかしどこにも奴らの姿は見えてはいない。密林の中、樹上を集団で動くテナガザルや、素早く動き回るオマキザルのように、声だけはあちこちからしているが、なかなかその姿を現わさない。恐らく、奴等からは三人の動きは手に取るように見えているのだろう。いつ襲い出すのか、その機会を伺っているのかも知れない。そして三人が走り出して十五分ほど経った。

 距離にして半里ほどは走ったのだろうか、その間やつらは慎重なのか、意外に襲ってきてはいない。しかし走っている方はそろそろ息が切れてくる頃だ。という間に、キコと公弐宮はもう既に歩きに近い状態で肩で息をしている。全く息の切れていないハルが二人の少し先で足を止めると、周囲に目をやりながら警戒の態勢を取った。背中の毛が逆立っている。目は真っ赤だ。

「二人とも、注意しろ!そろそろ奴等が襲って来るぞ!」背中はもうヤマアラシの如くだ。

「っはぁ、はぁ、わ、分かったわ、はぁ、はぁ…」キコがしゃがみ込み頷いた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」もう一人は膝に手をして声すら出ない。

 三人が足を止め警戒の体勢を取ると、それに合わせたかのように周りの森のあちこちから何十匹というグルどもが、一斉に奇声を発しながら遂にその姿を現した。

獲物が弱るのを待っていたかのようだ。

―クェッ、クェッ、クェッ、クェッ

―グゥィ、グゥィ、グゥィ、ホッ、ホッ、ホッ

―グルルル、グルルルル、グルッ、グルッ、グルッ

 その姿や声はサルに近いが、しかし尻尾は無く、身体の毛はチンパンジーほど長くはない。色は全身焦げ茶色で立ち姿は人間と余り変りがない。二足歩行ができるようだ。人間の祖先、猿人か原人といった感じのする生き物だ。しかし見た目や性格は、我らの祖先に比べ遥かに凶暴で獣臭いと言わざるを得ない。やつらの奇声が続く。

―グルルル  この声が合図なのか、グルどもは先ずは三人の周囲を取り囲み、周囲を回り出した。一応集団の統制は取れているようだ。

―キュゥーィ、キュゥーィ、ウォッ、ウォッ、ウォッ

―グルル、グルル、グルル

 この声がまた違う合図なのだろう、奴等は飛び跳ねながら、三人に四方八方から一斉に襲い掛かってきた。ハルが身構えながら叫んだ。

「キコ!俺と公弐宮の間へ入れ!良いか、来たぞ!」キコは直ぐに動いた。

 ハルが、飛び跳ねながら正面から襲い掛かってきた奴らに先ず集中し、気を吐いた。

―シューッ、シューッ、シュバッ!シュバッ!シュバッ!

 ハルの前に来た奴等が、蒸発するように次々と消え去っていく。キコがハルの後ろで身動き一つせずしゃがみ込んでいる。キコはもうハルを信用しきっている。そしてそのキコの後ろでハルとは逆向きで、公弐宮が両手を顔の前で合わせ、何々寺の観音像のように真っ直ぐに立ち、ブツブツと呪文を唱えている。

―天地の力ここに集いて、我なす術に応え給え、御身の言葉…、何がし何がし

 公弐宮、この時ばかりはやはり美しい。ブツブツ言いながらキコの方に片手を伸ばした。

「キコ、地面の小石を拾い集めて渡しておくれ」呪文を唱える公弐宮は冷静だ。

「は、はい!」キコはハッとしながらも、直ぐに言われた通りにした。

「どうぞ」小石を何個か拾い渡した。

 公弐宮、渡された小石を口元に持っていき、フッと息を吹き掛けた。

「何がし何がし、地の精、山の精、守り給え、見え無きしもべ…」

 何かの呪文を小石に掛けると、エイ!という声と共に、その小石を綺麗に半円形になるように放り投げた。小石は丁度襲ってきたグルどもの手前に半円を描いて、ポトポトポト、と転がり落ちた。

―ドン!、ドンドンドン、ドン! ズシャ、ズシャ、ズシャ、

 何が起きているのか分からない。奴等がサルのように駆けながら三人に向ってくる途中、何かに当たっているように、いきなり体型が変ってしまうほどの衝撃で、ひしゃげて地面に崩れ落ち、後ろから次々と同じように倒れていく。キコは、何が起きているんだろう?と目を凝らしたが、分からないでいる。その間公弐宮はブツブツ言ったままだ。そして後ろではハルが、次々とグルどもを消滅させている。

 その時、僅かな隙ができたのか、ハルの気の届かない箇所から一匹のグルが、スゥーっと素早く三人に近付いたかと思いきや、キコの腕をグッと引っ張り三人の輪から引きずり出した。そしてギッギッギッ、と喜びの声なのか雄叫びなのか、大きな声を発しながら森に向ってどんどん引きずっていく。キコはキャー、キャー、と叫びながら抵抗を試みているが、この獣の力は強く全く歯が立たない。ハルが目の前の何匹ものグルどもを纏めて、気合を込め〝ハッ〟と一瞬で一網打尽にすると、その場から一足飛びに飛んで、キコを引きずるグルの目の前に立ちはだかった。そして赤い目で睨み付け、瞬間的に〝フッ〟と気を吐きそのグルを消し去った。その間十秒と掛からない。さすがだ。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハルぅ、ありがとう」「うん、行こう!」

 この状況を見るとさすがに獣でも注意をし出したのか、本能的に危険を察知したのか、奴らの動きが止まった。森の中から小さくなったグルグルグル、という声が聞こえてはいるが、それ以上奴等は姿を現さなくなった。それを見越してハルとキコは、その場から既に走り出していた。ハルが走りながら横を向き、呪文を掛けていた公弐宮に向って叫んだ。

「公弐宮!行くぞ!走れ!」キコも後に続いて走っている。

「わ、分かったわ! 直ぐ行くわ!」観音様の姿であった公弐宮も何とか続いた。

 三人が走り去る後には、公弐宮の掛けた呪文で倒れたままとなっている、何匹ものグルの山が残った。そして森の中から聞こえるグルどもの警戒音が、次第に小さくなっていく。それ以降三人を追って来るグルはいなかった。

 三人は後ろを振り向かずひたすら走った。キコと公弐宮もこの時持てる体力を極限まで振り絞り、無心で走り続けた。

 グルの山から走り出し二十分というところか。三人は既に歩きに変わっていた。

 グルの縄張りの山が低くなり、既に平地と言って良いところまで来た。もうグルの縄張りの外だろう。岩場も無く、背の低い草地が見える範囲でどこまでも続いている。

キコと公弐宮はもう体力が残っていない。二人は声も出せず、逃げて来た勢いそのままに、後は惰性で足を動かしている状態だ。もちろんハルだけはいつもと変わり無く、軽快なテンポでスタスタ歩き続けている。ハルと後ろ二人の距離が少し離れてきたようだ。

「もう少し先で休もう!そこまでがんばれ!」ハルが首だけ少し後ろに向け言った。

「っふぅ、っふぅ、わ、分かったわ」キコだけがか細い声で応えた。

 彼らが歩く先、平地に生える背の高い木が遠くに何本か見える。三人はその一本の木の下まで何とか辿り着き、身体を休ませる事にした。恐らくこのまま先へと進むと、公弐宮が先に話したような一本の大きな川があるのだろうが、今はそこまでの体力がキコと公弐宮には残っていなかった。先ずは動きを止めたかった。休みたかった。

 三人は木の根元、木陰の草むらで横になった。グルの山はある程度の距離を隔て、やや霞掛って向こうに見えている。もうグルが追って来る事はない。グルの声も聞えない。

キコと公弐宮は何も言わず何も考えず横になった途端、暫しの間眠りに付いた。ハルも目を閉じ伏せてはいるが、この場でもやはり耳は立てている。

 太陽の日差しが強くなってきた。しかしこの木陰では吹く風は気持ち良く、走り続けて火照った身体の熱を柔らかく冷ましてくれている。緑の香りも睡眠には程良い効果があるのだろう。この状況下で三人にとって、この〝オアシス〟は実にありがたい。

 平地に生える一本の大木の葉陰で、暫しの休養を取る三人。どこまでも見渡す事のできそうな平原。誰も見ているわけではないが、決してこの地が安全というわけでもない。日が暮れれば死人がうろつく地でもあるのだ。もちろんその事は、三人は充分に承知しているのだろうが、今はただ身体を休めたかった。まだ太陽は高い位置で輝いている。それくらいの時間はあるだろう。グルから逃れたばかりで死人の事はまだ考えたくはない、そんな思いでいるのかどうか、三人は只々寝ている。

 この先〝御印〟を探す旅はまだまだ続く。少しの休憩くらいは取らせてあげたい。それくらい、誰も文句を言う者はいないはずだ。




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