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6.軍神

          軍     神


― コーケコッコォーォォォ

 青空に向け一番鶏の鳴き声が、天高く響き渡っている。夜が明けた。

時代を遡っても鶏の鳴き声は変わらぬものだ。とても闇の中で蠢いていた死人達の群れが、この集落の近くにいる事など思いも寄らぬ気持ち良さである。

 朝靄の棚引く屋敷の広大な敷地の森の中、小さなお堂が一つある。〝軍神〟のお堂だ。

―ゴトゴトゴト、ゴトゴトゴト…、ゴトゴトゴト、ゴトゴトゴト…

 どこまでも続く敷地の森の一本道、かなりのデコボコ道だ。もちろん舗装などされているわけがない。ひんやりとした空気の中、雑音が響いている。婆様が木で作られた小さな押し車に乗ってやってきた。押しているのは菟酉だ。

急作りの為なのか、かなりガタゴトと乗り心地はいかにも悪そうだが、風福は気にしていない様子だ。これが平然とした顔かどうかは判別が難しいが、いつもの皺くちゃの顔をしている。そしてその前には、キコがハルを先に歩かせ微笑んでいる。もちろんリードなど無い。一番後ろに彌織が静かに、雲に乗っているのかと思えるくらいに静かに滑らかに歩いている。

 昨夜の話の通りに、一同揃って軍神のお堂の前まで来た。周りの木々の香りが清清しい。

このお堂、一体いつの頃からあるのだろうか。

それは以前、死人に対して現われた軍神のその後、御印の力が及び地上の世界が穏やかとなり、軍神の力ももはや必要としない世となり、集落の者達が守ってくれた軍神への感謝の印として建てた物だ。故にかなり古い。建物自体は驚く程の大きさではないが、それでも屋根の高さは、周りに聳える杉の大木の半分よりは上にある。高いと言えば高い。幅はというと、通常のお寺に建つ五重塔よりは幅が広いが、金堂よりは狭いくらいだ。要するに、このお堂は軍神のための建物であるが故、それくらいの大きさなのである。

 菟酉が木車をお堂の真ん前で止めた。キコとハルはそのままお堂の周りで駆け回り、遊びだした。彌織が静かにお堂の扉の前、六段ほどの濃い緑に苔生した階段の前に来ると、風福の乗る木車の方に向き直った。

「それでは風福様、昨日私が申し上げました、勘違いなされている、という点なのですが」そう言って柔らかくニコッと微笑み、更に続けた。

「風福様は私が思いますところ、言い伝えによる軍神を呼び戻すための方法として、子孫の屋敷に伝わる風福様お持ちのその勾玉と、そして呼び戻すための音、この組み合わせを考えておられたのではないのかと」彌織、問い掛けの視線で婆様を見た。

「ふむふむ、彌織様、よくお分かりで、その通りですじゃ」

「さて、問題はその〝音〟なのですが…」

 彌織はそう言いながら徐に首だけを回し、お堂の周りでキャッキャと遊び回っているキコに視線を向けた。そしてその視線のまま話しを続けた。

「風福様はあのキコを、その〝音〟と考えられたのですね」顔を風福に向けた。

「ふむふむ、その通りですじゃ、彌織様、我らの言い伝えに寄れば、この勾玉はある音に共鳴し、その共鳴でこの軍神を呼び覚ます事ができると」

 婆様、懐から勾玉を取り出し片手に載せ持ち上げると、それを朝日に照らした。

「その音は、澄んだ音、濁りの無い音、そして天に届く音、と。この最後の天に届く音、というのが、わしには今一つ分からぬのじゃが、わしはあの子の声を聞いてそう思い、今の状況を重ね合わせると、偶然かも知れぬがあの子の声がその声なのかと、そう感じましたのじゃ」勾玉を持つ手を下ろし視線を彌織に合わせた。

「その〝音〟が違います」「何と、音が、違うとな?」

「はい、違います。その勾玉に共鳴する〝音〟は、キコではだめなのです」

 彌織は片手を肩の位置まで上げ、指先をピンッと伸ばし、遊び回る二人を指さした。

「…?」婆様、彌織が違うと言ったキコの方に向け指をさしたので、殆ど無いと言っても良い短い首を曲げ頭を傾げている。話しを黙って聞いていた菟酉も傾げている。

「み、彌織様、キコ、では…」「風福様、私が指をさし示したのは、あちらです」

 その指はキコではなく、一緒に駆け回っているハルの方であった。

「ハルが、そう、ハルがその〝音〟の主なのです」そう言ってまたニコッと微笑んだ。

 彌織はその場でクルッと振り返り、苔生した階段に足を乗せた。ギシッギシッと音がする。一歩一歩ゆっくりと階段を踏み締めながら登り、地面から見ると、肩の高さほどの位置にある踊り場まで上がった。そして開くのかどうかも分らない、いかにも古い、木の色が既に黒ずんでいる大きな扉の取手に手を掛けた。明らかに開けようとしている。

「あっ、彌織様」手伝うつもりで菟酉が木車から離れ、駆け足で階段を登りだしたが、菟酉が来る前に扉は、ギシギシギシ、と大きな音をたて、ゆっくりと開けられた。そして彌織は両手を思いっきり離し、扉を開け放った。

 早朝の爽やかな空気と、緑のそよ風、そして全てを清めてくれそうな透き通る陽光が、長年閉じられてきた狭い空間に一気に充満し堂内を照らした。古い臭いがする。とはいえ、堂の中は閉じられていた時間の長さを考えると、意外なほど綺麗だ。

「おお~ぅ」風福が階段の下、木車の上で唸った。

 菟酉が踊り場まできて立ち尽くしている。もちろん、お堂の中を見ての事だ。

 高さが七、八mほどもあろうか、朝日に照らされた像が二体、黒光りした艶やかな全身像で堂々と立っていた。

それは左右対称の立ち姿で、奈良は東大寺の南大門、裸ではないが、雰囲気としてはあの金剛力士像を思い浮かべると近いと言える。強烈な威圧感のあるその姿は〝軍神〟の名に相応しい威厳と荘厳さを兼ね備え、隆々として立っている。

 右側の像は不動明王が持つような重そうな剣を左手に、そして左側の像は右手に先が三股に分かれた長い槍を持ち、映画〝大魔神〟が纏う重そうな鎧ではなく、それぞれ動き易そうな薄い鎧を纏い、その恐ろしいほどの威圧感を与える大きな目が、長年の暗闇を破った者達を射すくめるように、今にも動き出しそうな眼光を持って、お堂に立ち入ろうとしている彼らをギロリと見据えている。

 彌織は堂内に入る前に直立で立ち止まり、礼儀正しく一度お辞儀をした。そして胸の前で両手を合わせ何事か呟き出した。

―ブツブツ、…、御身の、…、かくしたまわんとて、…、ブツブツ、年ごろみえたまはざりける、…、なりけり、…、ブツブツ、…

 他の者には何を唱えているのか、全く分らない。唱える声が止まった。そして、足をお堂の中に片方ずつ、ゆっくりと踏み入れた。侵入する者に立ちはだかる如きに二体の像が聳え立ち、目の前の彌織を上から睨み付けている。

「み、彌織様」菟酉が像の迫力に怯えているのか、恐る恐る声を掛けた。

「だ、大丈夫ですか?」お堂の入り口からかなり離れた位置で、覗くようにしている。

 彌織は像の真ん前でもう一度小さく呟き、そしてその呟いていた口元を閉じるとクルッと振り返った。

「ええ、大丈夫ですよ、恐らく〝軍神〟は、応えてくれそうな、そんな気が致します」

そう言ったは良いが、微妙な顔付きをしている。

 彌織自身は確たる自信は無いのだろう。しかしその後、彌織はお堂の中から菟酉に向け、恐ろしくも威厳のある二体の像を後ろに、どこまでも柔らかく誰をも包み込むような笑顔を見せた。お堂の入口前で佇む菟酉から見ると、そのコントラストが不思議で異様な空間のようにも思え、自分の身震いを止めるためなのか、一息ゴクンと息を飲んだ。



 菟酉が木車から婆様を抱き抱え、よっこらしょ、と言って降ろしている。そして手を携え階段をゆっくりと上り、お堂の入り口まで来た。彌織が手招きをして、お堂の前で遊んでいたキコとハルを呼び寄せ、ここに来た全員が二体の〝軍神〟の像の前に揃った。

「風福様、先ほど申し上げました〝音〟に付いてなのですが」

 彌織はその場でしゃがみ、手を差し出して自分の足元にハルを呼び寄せた。

「この〝音〟を発する者は、天界の者に限られるのです」「天界、とな?」

「はい、風福様」風福の胸元に指をさした。

「その、お持ちの勾玉は、天界で作られた物です。故に、その勾玉は天界の者の声にしか共鳴しないのです」「そうじゃのぅ、これは天界からの伝わり物じゃ」「はい」

 婆様も菟酉も、話は聞いているが今一つ理解できないでいるようだ。

「彌織様、そうすると、キコは天界の者ではないので、違う、という事なのですね?」

 菟酉が確認のつもりで問うた。

「はい、そうです、違います」「それで、ハル、なのですか?」

「はい、そうなのです」「?」菟酉と婆様は半信半疑の顔でハルを見た。

「実は、このハルは、天界の犬なのです」彌織はハルを撫でながら微笑んだ。

「は、ハルが、天界の!」キコが驚いた。もちろん、共に菟酉と婆様も驚いている。

「そう、この犬は天界で生まれたのです、故に、キコではなく」

 彌織はキコを見て微笑み、そしてハルに視線を移した。

「その勾玉を共鳴させるのは、ハルでなくてはならないのです」

 そう言うと彌織は婆様に向って手を伸ばし勾玉を受け取った。そして菟酉と婆様の前でハルを連れて軍神の前まで行くと、二体の丁度中間に意味も無く置かれている、賽銭箱のようで全く違う木の台上に、勾玉を音を立てずに静かに置いた。

「さぁハル、お前の出番だよ、良いね」ハルを勾玉の前に座らせ頭を撫でた。

 そして彌織はまた両手を胸の前で合わせ、小さな声で何事か呟き出した。

―ブツブツ、…、御前におわします、…、申しそうらふ、…、ブツブツ、…、荒れ野らに世はあれども、…、ブツブツ、…

 彌織が暫く、何事か他の者には分らない言葉を唱えていると、その内大人しくその横で伏せていたハルが、突然前足を立て勾玉に向かい鼻先を上げた。そして目を閉じ口を尖らせ、小さく泣き声を発し出した。

―ォゥー、ォゥー、ォゥー   さして大きくはない、とても甲高い鳴き声だ。

―ブツブツ、ブツブツ…

 ハルの鳴き声に合わせ、彌織の唱える声は次第に小さくなっていき、やがて止まった。それとは逆にハルの鳴き声は次第に高く、長くなっていき、やがて他の者には聞き取れないほどの高い音域へと変っていった。彌織はその横で、静々とハルの後方へと下がると、その姿を黙って見詰めている。暫くこの状態が続いた。

 たった今この場に来た者がいるとしたならば、何も音のしないこの場で、犬が一匹、やや上を向いて口を尖らせている、としか思えない状況だ。ハルは鳴いている仕草は時折見せるが鳴き声が聞こえないため、後ろにいる三人はその白い小さい背中を、ただ黙って見詰めているしかない。その音域は人間の可聴域を超える高さなのだろう。

 チチチチ、と小鳥の囀りが聞こえる。朝靄は既に消え、時々鼠などの小動物が餌を探すために動き回るのか、カサコソ、ゴソゴソと、落ち葉や枯れ枝を動かす音が聞こえる。お堂の外では、屋敷の敷地内とはいえ広大な森の中、爽やかな朝の営みがあちこちで始まり出しているのが、お堂の中でも聞こえている。それほど静かに何かが進行しているのだが、そこに動きは殆ど無い。

 黒光りをしている威厳を示す大きな二体の像。その前で小さな白い犬が時折鼻先を上に向けるだけで、周りの他の者達は身動ぎもせず、ただ黙って立ち尽くしているだけだ。

 このまま何も起きないのか?と、言いたくなる光景だ。菟酉はそんな雰囲気の中、持っていた座布団を床に敷き婆様をそれに座らせると、自分はゆっくりと彌織の横へと移動した。そしてキコはと言うと、気になるのかハルの後ろへ、一歩ずつ一歩ずつ、極めてゆっくりと音を出さずに近寄っていった。そしてあと一歩というところでキコが何かを言おうとした時、彌織がサッと腕を斜め下に差し出し、それを瞬時に無言で制した。

―今は、黙って見ていて   キコはビクっとした。

 今キコの頭の中で声がした、ような気がした。キコは少しばかり驚いた目をして彌織を見上げると、彌織は、分っているわ、とでも言うように、実に優しい目でキコを見下ろしていた。それでキコは理解できたのか、コクっと頷きその場で黙って座った。

 さて、ハルはというと、相変わらず斜め上に鼻先を向けて、一見遠吼えのような雰囲気で何度か口先を上げている、が、何も聞こえない。既に二十分ほどもその形を続けているが、何も起こらない。とその時、やる事が無いためなのか、二体の像を見比べていた菟酉の視界の端で、何かが煌いた。

―ピカッ!   微かに何かが一瞬光ったと思われた。

―ん?   菟酉は彌織を見た。彌織は真っ直ぐに前を見て微笑んでいる。そして再び、

―ピカッ!   菟酉は瞬間的に、光の発した方向に顔を向けた。

 勾玉の中心に、小さく赤く燃えているような光が瞬いている。

「あ、あれは?」「菟酉様、見ていて下さい」彌織が静かに言った。

 勾玉の中心に小さく、マッチで火を点けたようにポッポッと、無論、炎ではないのだろうが、赤く燃えているような光の塊が見えている。キコもそれに気付いたのか、座ったまま興味深く顔を勾玉に向けている。婆様は起きているのか寝ているのか分らない。目は閉じているようだ。そしてその勾玉は短い間隔でブルブルブルっと、周期的に細かく振動しているように見える。中心の燃えているような光の塊も、次第に大きくなってきているのか、勾玉全体の色が赤くなってきた。

ハルは未だに遠吼えの形で、口を斜め上に向けて尖がらせている。それに呼応しているのか勾玉が赤く赤く、そしてブルブル、ブルブルを繰り返しだした、と思った時、突然、彌織が振り返った。

「風福様!軍神が目覚めます!」彌織とは思えぬほどの大きな声で、叫ぶように言った。

「良いですか!願いを一気に伝えて下さい、声には出さずとも、心の中で強く念じれば通じます!但し!一度しか聞いてはもらえませぬ。ただ一度限りです!機会を逃さぬよう!この機会を逃せば、次の機会がいつ訪れるかは分かりませぬ故、良いですか!」

 と一気に言うと、また直ぐに向き直り、今度は両手を胸の位置で合わせブツブツと、また何事かを唱えだした。彌織の横で菟酉は圧倒されていた。何も言えない。また言う場面でもない。キコも同じだ。彌織の声にも圧倒されたが、それよりもキコの視線は今、軍神の像その物に釘付けになっている。

―ピキッ、ピキッ、ピキッ!

 軍神像の黒光りしている艶やかな肌が、音をたてながらひびが入りだした。

―ピキッ!ピキッ!ピキッ!   ひびは次第に広がっていく。

 孵化する時の卵の殻を内から雛が突いてひびが入るように、凍った池の上でドンドンと飛び跳ねると、氷の面に放射線状に次第にひびが広がっていくように、一つの線が二本三本と二股三股に次第に分れ、その不規則な線は線路のように延びていき、次第に軍神像の身体ほぼ全体に行き渡っていった。

「皆の者!軍神が蘇る!心して出迎えようぞ!」

 彌織とも思えぬ太く大きな声が、堂内から周囲の広大な敷地全体に響き渡った。

 彌織は目をみはり、何かにとり憑かれたかのような形相で軍神像を凝視している。そして突然両手を大きく頭の上に広げた。更に軍神像に話し掛けているのか、ううぅ~、ううぅ~、と唸り声を出し始めた。その横で菟酉は圧倒されつつ恐ろしさのためなのか、いつの間にか一歩二歩と後退している。キコは既に恐ろしさの余り身体が硬直し、ただジッと視線を軍神像から離す事ができずにいる。そして婆様だが、何と皺皺の瞼が上がり、普段は開いているのかどうかさえ分かりづらい小さな眼を、パッと見開き軍神像を見詰めている。しかもいつも座ったまま一歩も動く気配すら全く感じさせない弱弱しい足を、この時自ら立てて、立ち上がっていた。

「おお~う」婆様、他の二人とは違い慄いているどころか、逆に興奮している様子だ。

―ピキッ!ピキッ!ピキッ!パカッ!パカッ! 

 軍神像の身体全体のひびは更に進み、一枚一枚欠片となって剥がれ落ち出した。

―パカッ!パカッ! カシャカシャカシャ

 それはどんどん落ち出した。二体とも同時に殻が全て剥げ落ち、黒光りしていた肌が、やはり黒いが光ってはいない青み掛かった薄黒い肌へと変貌していく。それは蝶が蛹から羽化するのとは違う、またお玉じゃくしが蛙になるのとも違い、海老カニが脱皮をするのとも違った。これが精気が宿り人口的な像ではない、天から蘇った本来の軍神の姿なのか。生きている神がそこにいる、そう感じ得る姿だ。

 神に対しての言葉としてはそぐわないのだろうが〝生身〟の身体がそこに立っている。少なくとも軍神を目の当たりにしている菟酉やキコ、婆様はそう感じていた。

今にも動きだしそうな肌の質感、吐息の音が聞こえそうな口元、そしてジロっと強烈に心の中までも見通されそうな大きな眼、どれもが〝生身〟の神と言って良い。

 と、その時だ!

―我々を呼んだのは、だ、れ、ぞ!  お堂全体が地震の時のように大きく揺れた。

「おおぉぉ~ぅ!」婆様が唸った。

 その声は何とも図太く、周りの空気を全て震わし、全方向から聞こえてくるような、音響効果室の中で出力全開でバリトンの声を聞いた時よりも、もっと迫力のある声だ。菟酉は恐怖の余りしゃがみ込んだ。キコはとっさに床に伏せ、頭を腕で抱え込んで猫のように丸まった。彌織はそのままの姿、両手を上げ微笑みすら浮かべている。ハルは、何と、大人しく目をしっかりと開け、舌を出し、ハァハァハァ、と散歩の帰りなのかというくらいに尻尾すら振っている。まるで道端で知り合いにでも会ったような雰囲気だ。

―我々を呼んだのは、誰かと、訊いている!   二体が揃って再度空気を震わせた。

 婆様は唸るだけだ。代わりに彌織が応えた。

「軍神よ!今こそ我らの願いを叶え給う!」両手を上げたまま叫んだ。

 彌織が叫んだその時、二体の像が同時に、いわゆる金剛力士像のような〝阿、吽〟の像形で立っていた二体が、ゆっくりと、ピキッ!ピキッ!ミシッ!ミシッ!と音をたて、片足ずつ動きだし、オリンピックの水泳選手がスタート台の前で立つように、胸を張り背筋を伸ばした普通の立ち姿へと変った。

―そなたは、何者ぞ!何故、我らを呼んだ!   その図太い声でまた堂内全体が震えた。

「我は天の巫女の子孫!軍神へ願いさせ給ふため、この地に呼び戻し奉らん!」

 何と、彌織は自分の出自が分らぬと言っていたが、この時、別人のような目をして自分の出自を叫んだ。

―ウズメの子孫か!ならば申せ!しかし我らには約定がある事、承知か!

 軍神の言う約定とは、もちろん古の言い伝え、この集落の長の願いを一つだけしか聞き入れないという、その事に他ならない。

「心得そうらへ、聞こえさす!」   昔の言葉だ。分っている、という意味だ。

 彌織は直ぐ様振り向き、恐れ慄いている、いや、興奮している婆様に向け、今こそ願いを更に強く念じるよう促した。婆様、理解したのかどうか、いきなり床に土下座のように伏せると、伏せたまま唸り出した。

「うぅ~ぅ、うぅ~ぅ…」

 彌織は軍神に向き直るとその場でひざまずき、頭を垂れて動かなくなった。その後ろで菟酉とキコは蹲ったままピクリとも動かない。二人の場合、只々恐れ慄いているのだろう。

ハルはと言うと、先ほどから尻尾を振ったまま、渋谷の忠犬ハチ公像のように姿勢正しく座り、ハァハァハァ、と舌を出して軍神を見上げたままでいる。右側の軍神の像が一度だけ目を、ジロッ、と動かし、舌を出しているハルを睨み付けた。

 その後、軍神は暫くの間黙っていた。二体とも、承知か!と言った後、また像に戻ったのかと思えるほど、ピクリとも動かない。それでもお堂の中の空気が震え、何故か薄白い靄で霞んでいるように見える。これが軍神の〝気〟というものなのか。激しい〝気〟の力、波動が、全く動かずとも軍神の身体全体から、辺り構わずオーラの如く発せられている。

 その〝気〟の力で小さなお堂の古木の壁や天井はミシッミシッ、ビキッビキッ、と今にも崩れてしまいそうな音を発し、床の小さな木っ端や砂粒は、カタカタカタ、コトコトコト、と小刻みに揺れ、抽象絵画のような模様を自然と描き出し、たまたまそこにいた蟻んこは、上手く歩けず踊りを踊ったように右往左往している。

 「うぅ~ぅ、うぅ~ぅ…」 婆様は未だひれ伏したまま唸っている。

 菟酉とキコが、もう恐ろしさで我慢できない、と思い出した、その時、

―その事、しかと心得た!   突然、雷のような図太い声が堂内全体を揺るがせた。

 その声がするや否や、

―シューゥッ、ズゥオーッ! ッシュゥーゥ、シュパッ!  

 聳え立っていた二体の軍神が激しい気の流れと音を伴い、彌織達の目の前から一瞬で消え去った。その巨体が跡形も無く、幻のように消え去った。それと共に二体の軍神の中間に置かれていた勾玉が、ストン!と木の台から転げ落ち、その中心で光っていた怪しい赤い炎のような光も、いつの間にか消えていた。

―チチチチチ、カサカサ、コソコソ…

 小鳥の囀りが聞こえる。小動物の動く音が聞こえる。しかしお堂の中の空気は微妙にまだ震え、靄が掛かったようにまだ薄白い。

 彌織はゆっくりと顔を上げた。婆様はひれ伏したまま動かない。ぅぅぅ、小さな呻き声がまだ聞こえている。菟酉とキコは未だ頭を抱えたまま蹲っていたが、先に菟酉が春を待ちわびたモグラのようにゆっくりと動き出した。もう何事も起きないかと探るような顔付きで、ゆっくりと辺りを見回している。キコにはまだ春が来ない。

「み、彌織様」菟酉、身体がまだ小刻みに震えているようだ。

 彌織は菟酉の方を向き、ニコッ、と微笑んだ。そして婆様の方へと顔を向けた。

「風福様、願いは伝えられましたのでしょうか?」

 彌織の声を受け、婆様ここでゆっくりとナマケモノのような動きで、実にゆっくりと上体を起こし何とか自力で起き上がると、座布団の上へと身体を移動し元の位置で座った。

「っふぅ~、っふぅ~」息を整え話をする準備をしているのか、小さな目を開けた。

「彌織様、っふぅ~、っふぅ~、わしは、少々、疲れましたぞ」

 婆様そう言った後、座ったままの状態で直ぐに瞼を閉じてしまった。何と念じたのですか、と聞きたいところであったが、聞く前に寝息をたて出してしまった。彌織は一言、

「さぞや、お疲れになった事でしょう」彌織は理解しているようだ。

 キコがやっと上体を起した。目だけで辺りを見回し、暫しボー然としている。菟酉がここで漸く落ち着いたのか、改めて彌織に話し掛けた。

「っふぅ~、彌織様、軍神は帰ってしまわれたのですか?」彌織は首を横に振った。

「いいえ、菟酉様、彼らは恐らく、風福様の願いを聞き入れたのかと思います」

 彌織は膝をついた体勢からゆっくりと立ち上がると、振り返り、まだ朝早い明るい日差しで照らされているお堂の外の景色を眼にしながら、やんわりと口端で微笑んだ。

「風福様がしっかりと願いを伝えたなら、彼らはどこにいようとも、何か事が起きると必ず現われます。それが、軍神の使命だからです」

 そう言うと、大丈夫、という意味なのだろう、一度コクっと大きく頷き菟酉を見ると、また元の優しい誰をも包み込むような大きな笑顔を見せた。

「我々はそれを信じるしかありません、…そう、信じるのです」

 お堂の中の白っぽい空気がやっと晴れてきた。微かな震えも既に感じられない。

 彌織はゆっくりと歩いて外に出た。彌織の後を追うように早くこの場を去りたいのか、まだ笑顔の無いキコが弱弱しく外に出た。余程恐かったのだろう、まだ身体が寒さを堪えているかのように、小刻みに震えている。菟酉は無表情でゆっくりと立ち上がり、お堂の真ん中で転がっていた、今はもう赤く怪しげな光も発していない勾玉を懐に入れると、座ったまま眠りに就いた婆様の元へと寄り添った。そして枯葉のような体重の婆様を座っている形のまま抱き抱えると、日差しの下へと歩き出て、お堂の前に置いたままとなっている木作りの台車へと運んでいった。

 この一連の出来事、実際には短い時間であったが、彼らにとっては数時間にも思える極めて重い出来事であった。いや、重いというより重要な、絶対的に必要な出来事であった。彌織はこれは当然の、今のこの事態には通らざるを得ない事なのだと、もちろん納得という顔をしている。ただ、いくら天系の子孫とは言え、疲れて寝てしまった婆様や恐れ慄いていた菟酉にしてみれば、このような事態はそうそう起きる事ではないし、このような経験はもちろん彼女等にとっては初めての出来事で、ましてや普通の住人であるキコにとっては、この生身の神に出会うという〝現象〟と言ってもよい事態は、大きく彼女の胸に刻み込まれた。

この重い経験がこの先、キコを取り巻く複雑な状況に対して、否応なく関係してくるのである。



 ゴトゴトゴト…、ゴトゴトゴト…   遠くから木車の車輪の音が聞こえてくる。

 まだ時間的には早朝の、屋敷の敷地内の広大な森の中、静かな一本道を無言で歩く一団がいる。

木車の上で揺られ、枯れ葉のように寝ている婆様とそれを押す菟酉、その先を力なく歩くキコと尻尾をフリフリ歩くハル、そして菟酉の後ろを滑るように歩く彌織。もちろんお堂に行く前と同じメンバーが揃っている。違うと言えば違うのは、婆様が木車の上で死んだように寝ている事くらいか。

 しかし各自の表情は、それぞれ来た時とは大きく違うようにも思える。菟酉のそれはやややつれた感じで下を向き加減でトボトボと、重い足をやっと動かし歩いているという感じだ。キコはいまだに能面のように表情が硬い。婆様はミイラのように寝ている。彌織はいつもと同じく雲に乗っているかのような、滑るように滑らかに歩いてはいるが目元はキリッとして、逆に来た時よりも幾分引き締まっているようにも感じる。それはこの短い間の出来事、軍神を蘇らせ、御印を見付けるための道中を守ってもらうという、大事な願いを託し得た事への満足感からなのだろうか。

 この中ではハルが一番元気と言える。尻尾をフリフリ、ハァハァハァ、と言いながら舌を出して、キコの前を自分が先導するんだ、みたいな勢いで歩いている。が、どこか違う。

ハルの見た目が少しばかり大きくなったのか、パッと見では分からないほどに、お堂に向かって行った時と比べると、一回り大きくなったようだ。身体的に大きくなったというよりも、その纏う雰囲気というべきなのか。犬の顔というのは変化がよく分らないものだが、ハルの顔が来た時とは明らかに違っている。大人の犬になったという表現が良いのか、犬に対して凛々しくなったというのもおかしいが、パーツの一つ一つがはっきりとして、何故だか人の顔に近づいたような印象を受ける。

 元々この犬は、彌織が言うように天系の生まれ、天の犬だ。そのためなのか、先の軍神が蘇った時も嬉しそうに尻尾をフリフリ、菟酉とキコが恐れ慄いている時も全く怯えず、逆に喜んですらいた。つまりは今のハルが本来の姿のハルであり、俄かに成長したと考えてもおかしくはない。または軍神の激しい気の流れの中で、幾ばかりかその〝気〟を貰い受けたのではないだろうか。今、キコの前で歩く姿にその〝気〟が、感じられている。颯爽と歩くハルに、今までとは逆に、キコが連れられて歩いているようだ。

 その後、各自それぞれの面持ちで無言のまま、葬式の後の行列のように静かに、ただひたすら屋敷へと足を進めて行った。



〝軍神〟を蘇らすという一つの大きな、そして重要な仕事を終えた後、各自、関係者にとってこの日は慌しく時間が過ぎていった。

 屋敷に着いて直ぐに菟酉は木車の婆様を、元の長椅子にそのままの姿で座らせた。もちろん婆様は死んだように寝たままだ。まるで生まれたままの赤子が、周りのどんな騒音にもお構いなくスヤスヤ寝ているのにも等しい。いや、この場合は古寺に昔から置かれている木彫りの婆様像がそこにある、という印象ではあるのだが。

 彌織は実際のところ婆様がどんな願いを軍神に託したのか、詳細を知りたかったのだが、当の本人が木彫りになっている以上、今はそれは叶わない。婆様も今回の出来事は余程精神的に疲れたのだろう。あの激しい軍神の気の流れの中、心の中でこの千世を守るため必要なそして重要な願い事を託すために、集中力を極限まで高めなければならなかったはずだ。実際の歳は分り得ないが、高齢の婆様に取っては余程の心の負担であったに違いない。故に生きているのか死んでいるのか分らないくらいに、今は泥のように静かに寝ている。

 それから程なくして、他の婆様連中がいつものように〝雛壇〟に集まり出した。長椅子の端に木彫りのように寝ている長老の婆様を見ても、いつもと何ら変らずに、不思議とも思わず横に並び座りだした。そして、屋敷の他の者達も広間に集まり出すと、菟酉がこの日の早朝に、あの軍神のお堂で起きた出来事を早速伝えた。そして各自それぞれにこれからの、この千世の集落を死人から守るために行動する事を、寝ている婆様に成り代わり説明をした。そして彌織が助力してくれる旨も含め、改めて皆に確認の意味で伝えると、他の者達に取ってはそれが大きな安心を与える事となった。

―良かった、良かった!

―彌織様がおられる、これで安心だ!

―良かった、良かった、彌織様がおられるんだ   あちこちで声が上がった。

 この時彌織は屋敷の事は菟酉達に任せ、自分にはまだ大事な仕事が残っていると感じていた。それは実際に〝御印〟を探しに行くキコの事だ。

キコは軍神の蘇りに立会い、心の動揺が相当あったようだ。菟酉達が次の仕事で色々立ち回っている時でも、未だ顔色がさえないままでいた。お座り姿でニコニコ顔のハルの横で一緒に床に座り、能面のような表情のままボーっとしている。

「キコ、大丈夫?」そんなキコに彌織が優しく声を掛けた。

 キコは声を掛けられても上の空という感じで、真っ直ぐどこか中空を見詰めたまま動かなかった。その代わりにハルが反応して尻尾を激しく振っている。

「ねぇ、キコ…」彌織はキコの横に座り、優しく肩を抱き、話した。

「ねぇ、これからの事、大事な事なの、だから聞いて欲しいのよ、ね」

「えっ、は、はい」キコは少しだけ彌織の顔を見て、また下を向いた。

 彌織は先ずこれから千世に起こる事、そして自分が助力をする事、菟酉達ができるだけの事をする事、等々、既にキコも聞いてはいる内容を改めて、確認の意味でゆっくりと、そしてキコが理解しているか否か顔を見ながら説明をした。そして一番重要な事、キコがこれから御印を探しに行くために必要な事、心得なければならぬ事を話した。

「キコ、あの軍神の〝気〟の力、分るでしょ、あの気の力が貴方達を守ってくれるのです。だからもし何か大変な事が起きても大丈夫なの、分るわね」

 キコは自分で御印を探しに行く、と言い出したのは良いが、実際に行くと決ったその後は、不安で不安で堪らなかった。それは至極当前な反応だ。その存在があるのかどうかさえ、古の言い伝えの中にある目的のために、死人が徘徊する中を行く旅である、不安に思わない者などいない。しかも仮に、御印が本当に存在していたとしても、本当にその伝説の力が発揮されるのかどうかも分らない。もちろん今のキコにはそこ迄の事など、ほとんど頭に浮かんでさえいないと思える。

 彌織の声に、お堂から帰ってずっと無言であったキコが、やっと口を開いた。

「ぁのぅ、…み、彌織様」彌織がキコの顔を優しく覗き見た。

「わたし、…すごく、すごく恐かったんです」「軍神の事ね」

「そうなんです、私、あの、私を守ってくれるはずの軍神でさえ、恐かったんです。…すごく、すごく」と言って、また俯いてしまった。

「そうね、あの軍神の激しい〝気〟の力が周りを圧倒していたから。でもね、キコ、あの〝気〟の力が貴方を守ってくれるのよ、分るでしょ?」キコは控えめに頷いた。

「でも、そんな、恐がりの私が、こんな大事な役目を…」

 キコは彌織の話は聞いてはいるのだろうが、自分が弱い気持ちでいる事が、この先の大役をこなせるのかどうか不安で堪らなくなり、話が少々噛み合っていない。

「キコ、大丈夫よ、うん、大丈夫」彌織、グッとキコの肩を引き寄せた。

「キコ、これから私が言う事をしっかり聞いて欲しいの、これはすごく大事な事なのよ、ねっ、良いかしら、キコ?」俯いているキコの顔をもう一度覗き見た。

 彌織はこのか弱いキコに、この厳しい旅をさせなければならなくなった現状を憂い、またその事を、自分が付き添って行けない事も含め、もう一度優しく説明をした。そして最後に最も大事な事、旅の途中何か事が起こった際に軍神を呼び出すための術を、そして御印が見つかったとして、その後の事を話した。

「そして、次の事が一番重要な事だけど、よく聞いてね」

 彌織は菟酉を近くに呼び寄せ、持っていた勾玉を受け取った。菟酉もそのまま彌織の話しをキコの横で聞いた。

「この勾玉、前に比べて、少し小さくなったでしょ、分る?」キコに手渡した。

 確かに、キコに持たせた勾玉は、婆様がこの部屋で懐から取り出した時より、そして軍神のお堂で軍神の前に置かれていた時よりも一回りほど、見た目で小さくなっていた。今まで勾玉を持っていた菟酉も、言われてその事に今初めて気付いた、という感じで、不思議そうな顔をしてキコの手の上の勾玉に顔を近づけた。

「これはね、恐らくだけど、この勾玉の持つ効力の範囲が決められている、という事だと思うのよ」「それは、願いを託す、回数が、という事でしょうか?」

 菟酉がキコの手から勾玉を受け取り、勾玉をジッと見詰めながら訊いた。

「ええ、菟酉様、そういう事になると思います」キコも勾玉をジッと見ている。

「それでは、彌織様、一回でこのくらい小さくなるという事は?」

 菟酉は丸い勾玉を水晶占いのように撫でながら、思案顔をした。

「そうですね、恐らく後二回、というところでしょうか。もちろん、だからと言って勾玉自体が無くなってしまうほどに、小さくはならないのでしょうが」

 これはあくまでも彌織の推測でしかない。

「キコ、良いですか、今話したように軍神を呼び出す事のできる回数が決ってくる以上、無闇には呼び出せない事、分りましたね」キコ、無言で頷く。

「でもね、私は心配していません」キコを安心させるためか、自ら大きく頷いた。

「キコ、軍神がいない時は、その代わりにハルが色々な場面で助けてくれるはずです」

 彌織はキコに話しながら、その横で人のような顔をして座っているハルの頭を優しく撫でた。ハルが心なしか喜んだように、ウン、と頷いたようにも思える顔をした。

「そして、肝心の軍神を呼び出す方法は…」彌織、中空を見ている。

 一つ間を置くと自分の記憶を回想しているのだろうか、今度は小さく、ウン、と頷き、

「そう、あのお堂での事を思い出して欲しいの、この勾玉に向けハルに呼び出してもらうのです、あの時のように、分るわね」「は、はい」キコも思い出しているようだ。

「ですから、この勾玉は、貴方が肌身離さずに持ち歩かなくてはだめよ、分るわね」

 彌織は優しいながらも力のある視線でキコを見た。キコもその彌織の気持ちを受け止めるように視線を合わせ、大きく頷いた。

「それと、もう一つあります」彌織、ハルの頭を撫でながら、ジッとハルを見ている。

「良いですか、キコ、一緒に旅に出て下さる国津神様がどのような神なのかは、風福様にお伺いしなければ分りません。ですが、このハルは、軍神に出会ってから僅かに成長をしたのかと思われるのです」彌織には分っていた事らしい。

 彌織の言葉にキコと菟酉は、エッ、という顔で同時にハルを見た。その二人の反応にハルが反応したのか、人のような笑顔をして二人に交互に視線を合わせた。

「そして、良いですか、キコ」改めて彌織はキリッとした顔となり、

「先ほども言いましたが、もし何か事が起きて軍神のいない時には、ハルを頼りなさい」

 キコと菟酉は更に不思議な顔をしている。ハルを頼れ、と彌織は言うが、犬のハルを?

何故?二人は彌織の話の途中で頭の中が少々混乱してきたようだ。

「そしてその後、御印を見付ける事ができたなら、その後の事は…」ハルをまた撫でた。

「この、ハルに訊いて下さい、良いですね」

―良いですね   と言われてキコと菟酉の二人は目を見合わせた。

 もちろん二人は不思議に思った。再度、何故?の文字が頭に浮かぶ。何でその後の事を犬である、このハルに訊くのだろうか。明らかに、彌織様は何を言っているの?という疑問符の顔付きだ。その事に付いては、その後、彌織は何も説明はしなかった。何故だかにこやかにハルと視線を合わせ、ウンと軽く頷くと、その代わり別の話しを付け加えた。

「最後に、実は御印の場所に付いては、全く見当が付かないというわけではないのです」

 彌織はここで少し安心できる事が一つあるのよ、という顔をした。

「このハルは、前にも言いましたが天の犬です。故に天の物の臭いが分るのです」

 彌織は勾玉を菟酉から受け取ると、ハルの鼻先に持っていった。

「犬のハルには、同じ天の物でできている御印の臭いが分るはずです」

 彌織は、ねっ、という感じでハルを見た。ハルも、やはり心なしか、ウン、と頷いたような素振りで、鼻を勾玉に摺り寄せている。

「少なくとも、貴方が向かうその方向は、目指さなくてはならぬその方角は、はっきりとはせずとも、ハルが、連れて行ってくれるのですよ」ニコっとしてキコを見た。

 その後彌織は、今度は確信のある目をしてハルと視線を合わせた。ハルも今度は、任せろよ、という感じで軽く頭をコクっと動かした。この二人、不思議と意思が通じ合っているように思える。それもそのはず、元々ハルは 彌織の元にいた犬だ。

 この後、彌織は何度もキコの不安を取り除くように、優しい言葉で話し掛けた。そして菟酉も不安なのか、この後の千世に於いて起き得ると思われる、様々な困難な事柄に付いて彌織と何度も話し合った。もちろんそれで全てが払拭されるわけもないが、彌織自身、風福と計画した事柄全てが、そのまま上手くいくとは思ってもいないだろう。全てはこれから起きるその時その時の出来事、様々な困難な出来事一つ一つの行方次第だと、この時誰もが分ってはいるのだ。ただ各々心の不安を消せずにいる事は菟酉もキコも、そして彌織さえも、充分自分なりに認識はしているのだ。後は時の流れに任せるしかないのだと。



 慌しい一日が過ぎるのは何とも早いものだ。気が付けば空が朱色に染まっている。屋敷の森からカラスの群れがカァーカァーと、主彌尖へと飛んで行くのが見える。熟れた柿のような太陽が、その頭を隠すかどうかを迷っているようだ。

「それでは私は山に戻ります」彌織が屋敷の人々が動き回る中、菟酉とキコに告げた。

「彌織様ぁ~」キコが未だ不安顔で彌織に擦り寄った。

「大丈夫、貴方ならやれるわ、ハルもいる事だし、ね!」

「彌織様、もう直ぐ日が暮れます、今日はこちらでお泊りになった方が」

 菟酉がガラスの無い窓の外、朱色の空を見ながら言った。その誘いは当然と言うべきだろうが彌織は軽く目を閉じ、そしてゆっくりと首を横に振った。

「有難うございます。でも、菟酉様、既に死人達が蠢き出している今、私も早くにやらなくてはならぬ事が多々あります」そう言いながらキコを身体から離し、

「キコ、良いですね、もう一度言いますよ、厳しい状況になった時、無闇に軍神を呼べない時には、ハルを…」キコの足元に当たり前のように寄り添うハルを見て、

「このハルを頼るのですよ、良いですね」ニコっとして、キコの頭を撫でた。

「はい、そうします」キコは返事はしたが、頭の中では未だ半信半疑だ。

 それでは、と、その後の細かい事を菟酉に告げた後、二人に別れを告げて彌織は屋敷を後にした。暫くの間二人は見送り、その間にも空は朱色から暗いえんじ色へとその色合いを深めていった。

そして二人が屋敷の中へと戻った時、屋敷の外からバタバタと、何かの羽ばたくような音が聞こえた。キコはハルと共に直ぐに部屋の奥へと駆けて行ったが、菟酉がその羽ばたき音に気が付いた。

「ん?何だろう?」振り返って屋敷の外を見た。

 既に濃くなったえんじ色の空を見上げると、何かが空を飛んで行くのが見えている。

「あれは、あの時の…」次第に小さくなっていくその物に向け目を細めた。

 菟酉は彌織に今回の事態を告げに庵に赴き、戻ってきた時の事を思い出していた。

「あの時…」薄暮の空に鳥なのかコウモリなのか判別できずに見ていた、あの時の事だ。

―あれって、彌織様? と一瞬思ったが、顔を横に振った。

 菟酉は少しだけそこに立ったまま空を眺めていたが、直ぐにその思いを振り払うと部屋の奥へと足を向けた。彌織の言う通り、これからやる事は多々あるのだ。

 さて、彌織は去ったが、未だ婆様は木彫りの如くに座ったまま長椅子の端で寝ていた。誰もその事を気にしてはいない。いつもの事である。が、程なくして起きた。

「彌織様は帰られたのかね?」誰に言うのでもなく、呟くように言った。

 長椅子に雛壇の如く並んで座っている他の婆様の一人が、三拍ほど間を空け返事をした。

「あ~、戻られたようですのぅ」「ふむふむ、そうかの」

 婆様は再度目を閉じ、また寝たのか、と思えたが目を閉じたまま片手を挙げた。

「菟酉様はおいでか」弱弱しい声で菟酉を呼び寄せた。

 菟酉は忙しそうに動き回ってはいたが、直ぐに婆様の前にきた。

「彌織様は何と申されて、お帰りになったのかね?」

 菟酉は屋敷に戻ってからの事、彌織から色々と告げられたこの後のやるべき事など、細かく正確に婆様に伝えた。

「そうであったか、良い良い、分りましたぞ、ふむふむ」

 振り子人形のように首を何度もコクコクと振りながら、婆様はまた片手を挙げた。

「キコ殿はおるかのぅ」目を閉じたまま、またか細い声で言った。

 菟酉が部屋を見回し、既に元気になって不安など微塵も無いと思えるくらいに、部屋から部屋へとハルと走り回っているキコを見付け呼び寄せた。

「キコ殿、明日の朝、旅立つのかね?」婆様、皺皺瞼をチラっと開けた。

「はい、明日の朝早くに旅立ちます」しっかりとした口調で言った。

「そうかの、ふむふむ、キコ殿、わしはのぅ…」

 婆様はこの時、あのお堂で軍神の前でひれ伏し、ただ一つの願いを託した時の事をキコに話し出した。この願いの内容を彌織は確かめたかったのだ。菟酉も一緒に聞いた。

「あの軍神に願いを託したのじゃが、それはのぅ、っふぅ」

 婆様、一呼吸入れて呼吸を整えてからゆっくりと、一つ一つの記憶を引き出す作業をしているようで、皺皺瞼をまた閉じ、小さく頷きながら呟くような声で話しを始めた。

「先ず、第一にはの、もちろんキコ殿、そなたの命じゃ」

 小さな目を開け、キコの方を見た。

「それが一番に大事な事じゃからの」自分で言ってウンウンと頷いている。

「わしはあのお堂の中で、あの、軍神の強い気の流れの中でのぅ、自分の意識がもう少しで遠のいてしまいそうに何度もなりかけてのぅ」

 キコと菟酉もその時の事は理解しているが、何せ自分達は恐れ慄き、自分以外の事は殆ど何も目にしていないのと同じであったため、ただ頷くしかなかった。

「何とか大事な願いだけはしなければならぬと、キコ殿、そなたの命を、御印を探し出すまで守ってやって欲しい、…と、願ったのじゃよ」

 確かに婆様の言う通り、あの状況で婆様のような年寄りに、気を失わずに願い事をせよというのは酷な事ではある。しかしこの願い事、少し簡潔過ぎるようだが、菟酉がその事に気が付いたのか一言質問をした。

「風福様、一つ宜しいでしょうか?」「ん、何じゃね」

「キコの命を御印を探し出すまで、というのは分りますが、その後の事はどうなるのでしょうか?」

「う~む、ふむふむ」婆様、その事が大事な事であると直ぐに理解した。

「それはのぅ、わしもあの状況の中で、とにかく気を失しなわずにいなければならぬと、頭の中ではその事ばかりでのぅ」婆様も分ってはいるようだ。

「では、帰途の事は…」菟酉は少し不安顔だが、質問の後尾を濁した。

「そうじゃのぅ、ふむふむ」婆様も後が続かなかった。

 しかしこの話しを聞いていた当事者のキコ本人はというと、さほど気にしてはいない様子だ。

「お婆様、私は大丈夫です、はい」実に元気だ、彌織がいた時とは別人のようだ。

 キコは横に座っているハルの頭を撫でながら笑顔で応えた。

「お婆様、ハルが一緒なのです、大丈夫です。彌織様もそう申しておりました。軍神がいない時に何か事が起きた時は、このハルを頼れと、ね」キコは笑顔でハルを見た。

「何と、彌織様がそう申されたのか?このハルに」婆様、驚きの目をハルに向けた。

 婆様の驚きは当然と言えば当然だろう。犬に頼れ、と、普通なら何をそんなばかげた事を、といっても不思議はない。事実ここにいる二人も既に驚いた事だ。菟酉はこの事を、キコと共に彌織の口から直接聞いていたので、この時は別に驚きはしなかった。ただこの時のキコが先ほどとはうって変わり、笑顔でその事を婆様に話していたのが、少々驚いていた。

「はい、彌織様が、そう申されたのです。私は…」言いながらハルを見た。

「その言葉を信じます。それに、今ハルと一緒にいて、何故かは分らないのですが、彌織様の言った事が理解できるというか、ハルと会話できたように、ハルが、任せておけ、って、そう言っているように思えたのです、ね」笑顔でもう一度ハルを見た。

 彌織が帰る前に、ハルに見せたのと同じような笑顔だ。キコもまた、彌織がそうであったように、お互い意思が通じているような顔でハルを見ている。何とも不思議だがそう感じさせる雰囲気が、今この二人の間に漂っている。これはやはり〝天系の犬〟という事だからなのか、その天性の持つ力がそうさせているのかは分らないが、彌織がハルに任せると良い、と言ったという事は、少なからずその事を見通しての事なのだろう。もちろんそんな事はキコには分らない。キコはただ、ハルに何かを感じているだけだ。

キコに頭を撫でられているハルが、何となく微笑んでいるようにも思える顔付きをしている。いや、何かを言いたそうな顔付き、と言った方が良いのか、犬の顔故にその辺はよく分からない。

「ふむふむ、彌織様がそう言うのなら、そうなのだろう、のぅ」

 婆様は彌織を信頼している。その顔で菟酉を見た。菟酉もこの事は疑問であった事なのだが、彌織がそう言う、そして今キコがそう言うのを聞いていて、いつの間にか不思議と自分もそう思えてきていた。そしてそう思いながらハルを見ると、ハルが自分に対してもニコっと微笑んだ気がした。

「風福様、私もそう思います。先ずは御印を見付け出す事が第一で、そして御印の力が復活すれば、そうすれば帰りの事は余り重要な事ではないと思います」

「ん? おお~ぅ、そうじゃのぅ、そうじゃそうじゃ、確かにのぅ、菟酉様の言う通りじゃ、ふむふむ」皺皺の顔が笑顔で更に皺皺となった。

「死人が徘徊する、この今の世が変ってしまえば、帰りの事は余り考えずにおっても、のぅ、それはそうじゃ菟酉様、ふむふむ」

 菟酉の言う通り、ハルに任すという事の前に世の中が平和になれば、キコの帰り道を守る必要も無くなるのは、その通りであった。ただ、彌織がハルを頼れ、と言った意味はその意味なのかどうか、菟酉や婆様はそこまで深くは考えてはいなかった。

「それとじゃ…」もう一つ大事な事が残っている。

「キコ殿、先に言っておった国津神の事じゃがの」キコも、あっ、という顔をしている。

「あやつの居場所なんじゃが、そうそう、確かぁ、千世から見て北の方角に住んでおったはずなのじゃがの」小さな目を、少し遠くを見るように開けた。

 これはかなり大雑把な情報だ。それだけで国津神のいる場所までは当然行けまい。

「あのぅ風福様、北の方角に、どのように行けば宜しいのですか?」

「そうじゃのぅ、北の方角に、かなり行ったところに沼がある。さして大きな沼ではないが、その沼の辺に小さな集落があったはずじゃ。ふ~む、ただ何十年も前の事じゃからのぅ、恐らく、まだその集落はあるとは思うのじゃが」

 婆様の話はいつもの事だが、何十年も前の話が多い。

「何と言う集落なのですか?」「ふ~む、何と言う集落だったかのぅ」

 実にあやふやだ。しかしこの時代に地図という物はあるわけもなく、場所の説明としては大方こんなところだろう。婆様、頭の中の古い記憶の引き出しを何とか開けようとしているが、錆びついているのかなかなか開かない。

 キコは質問の答えが直ぐには得られそうにないので、次の質問に移った。

「あのぅ、御婆様、その国津神様のお名前は、何と?」

「おぉ~ぅ、名前のぅ、前に一度言うたのじゃが、あやつの名前はの、良いか、上埜淨明之沼端公弐宮と言うのじゃ。良いかの、その集落でこの名前を出せば、恐らくは誰かに居場所をおしえて貰えるはずじゃ」

「カミノ、ジョウ、ハハ、なんですって?」

 キコでなくても、神様の名前という物は実に覚えづらいものだが、何故神様の名前というのは、このような分かりずらい名前が多いのだろうか。

 この後婆様は、キコに何点か国津神とのやり取りに関しての注意点と、旅の心得、そしてこの旅がいかに重要な役目なのか、それをキコに託すという、この難局に際してキコに千世の将来を託すという事に付いて、婆様ながらに申し訳ないという思いをゆっくりと伝えた。次いで菟酉には彌織と共に、キコの目的が果たされるまでの間、何としてもこの千世を守らねばならないという意思の再確認と、他の者への指示や役割を大雑把に話した。もちろん、これが長老としての婆様の本来の役割である事は間違いない。

 彌織が山に帰り屋敷の皆々がそれぞれの居場所に帰り、辺りは既に闇の中。この千世の外では死人達も蠢き出しているはずだ。皆がそれぞれ役割を果たし、この繁栄している集落を守る事ができるのか、それはまだ誰にも分からない。いくら屋敷の者が天系の子孫といえども、これから先の事は見通す事はできない。しかし、否が応でも事態は進んでいく。

 大事な役目を負ったキコとハル。今は彌織の優しい笑顔を信じるしかない。キコもハルも、何故か少し前の二人とは違う微笑をしている。不安というよりは、これから始まる御印探しの旅を楽しみにしている、そういう顔だ。

 婆様と菟酉も、これから千世の将来を決める事になると思われるこの旅立ちに際して、キコとハルの今までとは違う微笑に気付く事はなかった。その事より長老の婆様は、千世を守るという目の前の大きな仕事に、いくら長々と生き抜いてきた婆様とはいえ、その枯れ枝のような細い肩に責任の重さをずっしりと感じている、分りずらいがそういう顔をしている。




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