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第2章 5.四方津国

          四  方  津  国


 さて、話は都のいる空から遠く離れ、別の色合いの空の下、ここにも地の世界で何かと思い悩み、行動を起こそうとしている者たちがいる。



 今の世なら千の世と書き〝千世(チセ)〟となるだろう。そういう土地がここにある

語感の響きは大そう縁起が良さそうだ。集落の片方が海で片方が山で、山海の恵みが豊富で人々も活気に溢れている。

 ここ千世に限らずそういった自然の恵豊かな土地は、自然と他の地方との物資の交流も盛んとなり、街の市場にも様々な珍しい物が並び、その活気のある空気を感じて様々な場所から色々な人々が集まり、街全体が生き生きとして見える。その結果、その集落に限らず、辺り周辺一帯にも、その生き生きとした気風が吹くようになってくる。建物も一様ではなく色とりどりで形も様々、豊かな土地では個性的な家も多くなり、必然的にその集落一円全体が華やかな装いとなるものだ。

 しかしながら、繁栄する都市や国というのは、良い事ばかりとは限らない。歴史上繁栄を謳歌する都市や地方を占領し取り込み、国を大きくする試みは幾度となく起きている。

 例えば戦国時代の堺、ルネッサンス期のフィレンツェ、ベネチア、十四世紀頃の北ヨーロッパに於けるハンザ同盟各都市、等々だ。

そして決まったようにこれら繁栄した街を支配しようと、強力な君主、リーダーが台頭してくる事も必然だ。堺に対しての信長然り、フィレンツェのメディチ家然りである。

そのような強大な力に対してこのような都市、都市国家と言っても良いのだが、凡そどこからか自治の気風が起き始め、これらの支配に対抗しようとする。元々商人の行き来が盛んで繁栄してきた都市では、その都市の政治的運営は、そこは独裁的首長ではなく、都市の何人かの有力者が集まり共同統治を行うか、もしくは大商人の家が首長的立場となり市民にその役を託されるか、それらのどちらかであろう。これも堺やベネチア、ハンザ各都市などが良い例である。

 ところで、この千世という集落はこれに当てはまらない。この集落は確かに繁栄はしている、が、その主役は商人ではない。商人ではないが役人でもない。もちろん農民でもなく、ここの住民の核となるのは天津国の子孫である。つまり神々の末裔が、この繁栄している集落の基礎を造ってきた。少々奇異な感じはするが、実際にそうだから仕方がない。

 近い例では、江戸期の門前町がこれに相当するだろうか。ヨーロッパの教会を中心とする街造りはえてしてその逆で、人々が何がしかの理由で集まり、街化したところに必要性から教会ができた場合が多い。

 千世の場合、何故この地に神々の子孫が住み着いたのかは定かではないが、その昔、天津国の神が地の世界に秩序をもたらそうとした際、下りてきた偉い神の、その同伴の神々がここに住み着き、そこに地の人々がいつの間にか集い集落ができた、とされているらしい。つまり商業地としてこの集落が繁栄したのではなく、あくまでも神々に寄り縋る人々がいつの間にか自然と集まり、更にまた、その話しを伝え伝えに聞き付けた様々な人々が、様々な地方から集まり街化してきた、というのがこの集落の起源である。

 この神々の子孫達は、住み着き当初は天津国の命ずるように、無秩序が支配していたこの地の世界に、新たに秩序を植え付けようと尽力していたのだが、その内世代交代が重なり、次第にその力が弱まってしまった。そのため、一度は収まり掛けた地の世界の秩序の乱れが再度広がり出し、各地で繁栄をしていた集落を、力ずくで自国の物にしようとする勢力が現われたり、他の国の人々をさらっては怪物の餌にしたりと、好き勝手が横行する事態がそこかしこで、当たり前のように行われるようになってしまった。

 この繁栄をしている千世の集落もまた、格好の餌食となろうとしている。

周辺の力を付けた豪族や、または諸々の貧しい人々が無秩序に集まり、街とまでは言えない烏合の衆の集落やらがあちこちにできると、それら集まった輩が、少しでも豊かな臭いのする場を求めて、蟻が甘い餌に群がるように動きだし、次第にこの千世の周辺にも忍び寄ってきていた。それに対し千世の神々の子孫達の力は既に弱く、この集落一つを守るだけで精一杯で、この時既に、他の地方の秩序回復という天命を引き継ぐ事など、程遠い状況にあった。

 そればかりかここにきて、悪党どころか更に上の難題が降り掛かってきていた。



「また襲われたわ、何とかしなきゃ、多分、ここにも直ぐ来るわよ」

「それにしてものぅ、どうしたら良いものか、何か策を考えねばのぅ」

「っふう~、また、お願いするしかないのでは?」

「まてまて、そう何度もお手を煩わせては、…のぅ」

「では、どうすれば良いのでしょうか?」

 海沿いに広がる千世の集落。背後に集落の住人が主彌尖と呼ぶ、山頂が異様に尖った山が見える。北アルプスの槍ヶ岳山頂をもっと大きくしたような山容だ。その山の麓、海沿いの平らな土地はさほど広くはない。ここの海は海と言っても開けた海ではなく、何本かの入り江の一つであり狭い海だ。集落はと言えば、背後の山に向かって盆栽の苔のように、一見無秩序に集落の市街地が広がっている。そのような土地故、土地全体が緩やかな傾斜を伴っている。

 その市街地の一番奥、海沿いから何十mか標高が高くなっているところからは、苔のような集落と美しい海岸線を一望する事ができる。その眺めの良い山麓の途中、小高いコブになった部分があり、そこから更に上へと登坂し、山林奥まったところに小さな庵が一つ、ポツンと建っている。

 その庵は部屋が二つあるか無いかの小さい建物で、茅葺で何の装飾もされていない実に質素な造りの建物だ。この小さな庵がいつからここにあるのか、いや、その存在自体を千世の集落の住人は、知る者もほとんどいなかった。そしてこの庵に一人の女性が住んでいる、という事など知る由もない。

「実際のところ、彌織様のお力添え無しでは、今の我々にあ奴らを抑える事など、到底できるものではないと思うが、どうなのじゃ」

「う~ん、恐らく、我々だけで奴らを止めようとしても、恐らくは、直ぐに…」

「しかし、いつもいつも、お手を煩わせておってはのぅ、今更かもしれないが、我々の役割とは一体なんなのじゃ、のぅ、それを今一度、考えなくてはならなくなってしまったのではないかの」

「役割、う~ん、それは確かにそうかもしれませんけれど、でもとにかく今、この時の事は考えなくてはならないと思うのですが、そう思いませんか?」

「まぁ、それはそうじゃ。確かに、あ奴らがこうして襲ってきそうな事を考えると、何がしかの対策はせんと、この千世の集落に迷惑が掛かる事は、それだけは避けねばならんからのぅ、ふ~む」

 千世の集落では街の部分と、この集落が栄える前にこの街の核となった、天系の子孫達の住む館の敷地部分がコの字型で分かれている。つまり後に集まりだした民衆の住居地区がコの字の部分で、山に向かってコが上を向き海を背にしている。そして子孫達の住む館の敷地がコの字の開いている部分を、緑色に埋める形で広がっている。その形がこの集落が栄える度に少しずついびつになり、今ではへの字といっても良くなった。

この時代まだガラス窓は無いが、館のガラスの無い窓からは、そのへの字の集落が一望できる。その窓から見渡せる絶景の景色を見ながら、何人かの天系の子孫達が話し合っていた。

「それでは、今回はわしが行ってくるかの」

 ここにいる数名の子孫の中、一番の長老の婆様が腰を浮かせた。

「いえいえ、風福様が行く必要はございません。今回は私が行きますかね」

 老婆を手で制してその横に座る別の老婆が、古びた長椅子、今で言うソファーのような椅子から腰を上げ掛けたが、立ち上がる前にまた別の声が掛かった。

「そんなそんな、婆々様方お待ち下さい。婆々様方が登場せずとも、さっさと私が行って参ります」

 この中では中間の年の頃と思われる、それでも二十代後半くらいか、その一人が言いながら既に足を出口に向けている。

「そうですか、では、菟酉様お願い致します。私達はできるだけ彌織様の手助けになる事、何がしか考えております故」

 この中では一番若いと思われる者が殆ど事務的に、出口へ向う菟酉と呼ばれる女性にそう言った。いつも大体このような状況になるのだろう。何かが起きると年寄り連中が先ず心配し動こうとするが、結局それを制して若い者が動く、よくある事だ。

そしてこの時も一番若い女性はそれが当たり前という顔で、チラっと出口近くのその女性の方を見やると、また直ぐに前方に顔を戻し忙しなく何か手を動かしていた。

 そして窓の外、早速出て行った菟酉と呼ばれた女性が歩いて行くのが見える。

 どこに向かったのか、この広大な屋敷の裏手、主彌尖の方角に向かって上り坂を上がって行くようだ。その一本の細道は木々の中を曲がりくねって続き、途中振り返れば千世の集落がなだらかな斜面を、海に向かって張り付いているのが見えている。

この道、歩き出し始めは大した勾配ではなく、スタスタとテンポ良く歩いて行けるが、暫く進むと息が途切れ途切れになるくらいの、結構しんどい勾配となってくる。

「ハァハァ、彌織様、居らっしゃるのだろうか、ハァハァ」

 この菟酉という女性、細身で背は低く、まるで絵本から出て来たような笑顔の可愛い、活動的な女性のようだ。天系の子孫の屋敷で何か事が起こると、先のやり取りを見れば分るが、凡そ誰も何も言わずにこの女性が出張る事が多い。実際にそうなのだろう。お年寄りとは、自らは行けぬと分かっていながら、一応そういう素振りはするものだ。

 ところで今菟酉が向う先にいる〝彌織〟とは、一体どんな人物なのだろうか。子孫達の話から考えると、この人物は余程屋敷の者達に頼りにされているのだろう。いつも大事な場面での頼み事がよくあるらしく、今回はかなり遠慮した感があったが、どうなのか。

 その後山に入った菟酉は、太陽が角度にして三十度ほど天空を移動する間、ただ黙して歩いた。そして程なくして彼女は、主彌尖を仰ぎ見る事のできる小高い丘の上に到着した。

 彼女が足を止めたこの細い一本道の道端、千世の集落を眼下にできる小さな空き地に、丁度大人が一人腰を下ろせるほどの岩が一つ、デン、と鎮座している。彼女はその岩に近寄ると、この若さに不釣合いなほど大きな声で、よっこらしょ、と言って腰を下ろした。

彌織という女性に会う前に、一旦休憩を取り呼吸を整えるようすだ。

―っふぅ~、今更だけどこの道、私の足では辛いなぁ   独り呟いた。

 菟酉は海からの風に吹かれながら、一枚の布切れを懐から取り出し汗を拭った。

―でも、彌織様、居らっしゃるかなぁ

―いつもお一人で、何をされておるのだろう?

―あー、風が気持ち良いわぁー

 暫しの休憩の後、菟酉は風で解けた髪を整え服装を整え、丘の上へと更に足を進めた。

 この一本道は、その彌織なる者が住む庵のためだけにある細道らしい。今、菟酉が休んだ海の見える小さな空き地から先は、山側に向かい深い森の中に入る。一見この先には何があるのか、と疑いたくなるようなかなり鬱蒼とした深い森だ。菟酉自身もそう思っているのか、顔付きが少々暗い。

―昼間でも嫌だわね、この森

―ほんと、何度来ても嫌だわ

―婆々様方が登って来られるわけないじゃない   歩きながら小さな愚痴をこぼした。

 何度もこの森に入っている彼女でも、この森はいつも不安な気持ちにさせるのか、それほど深いこの森に女性が一人で住んでいるという。彌織という者、何者なのか。

 菟酉は先を急いだ。暗くなる前に用事を済ませ山を下りたいからだ。しかし息が切れ、なかなか足が速く進まない。

「ハァハァ、本当に、ハァハァ、よく、こんなところに、住んでいるわね」

 呟きながら何とか足を動かしてはいたが、時々木の根や少し大きめの石、段差に足を取られたりもした。そしてこの時、思い掛けず目の前を小動物が横切った。

ハッ、と思ったと同時に彼女の足が木の根に引っ掛かり、頭から転倒してしまった。

「あっ、きゃあっ!」 ―ゴン!

 彼女の叫び声が深い森の中に、木霊とならずに染み込んでいく。彼女の叫び声に驚いて、数羽の名も知らない鳥達がバタバタと飛び立ち、風の無い深い森の木々の枝葉がユラユラと揺れた。

―あ、頭が、痛い!

 菟酉は薄れていく意識の中で、私は何をしているの、大事な用事があるのよ、こんなところで倒れている場合じゃないの、と自分の思いに手を伸ばしながら、その一つ一つの言葉がゆっくりと頭の中で消えていった。

 

 

 暖かい日差しが顔を照らし、閉じていた瞼を自然と開けさせた。

「ぅう~ん、ま、眩しい!」手の平で日差しを避け上体を起した。

「あ、…私」空ろな眼で辺りを見回した。

―ここは、どこ?

―私、どうしてここに?

「痛っ!」首を回した時に頭の前部がズキズキした。大きなコブができている。

「あ、そっかぁ~」思い出したようだ。

 菟酉は見知らぬ部屋にいた。見回すと家具も無く装飾など全く無い、小さな窓が一つの実に殺風景な部屋の中、自分が横になっていた足の無いベッドのような、この寝床だけが唯一の家具だ。小さな窓から柔らかな日差しが真っ直ぐに差し込んでいる。

―もしかして、庵の中?   菟酉はふと思った。

 何度かここを訪れている菟酉も意図せずとはいえ、この庵に入る事はこれが初めてだった。そして、実はこの庵の主にも会った事は無かったのだ。

 いつも集落での願い事がある際は、この庵の少し手前、今で言うレターボックス、つまりポストのような木箱に、下界の者達の願い事などを入れて置き、暫く経つと返事がその時々の違った形で返される、という手続きを踏んでいたのだ。故に、この庵自体を見た事も、ましてや彌織なる者と直に会った事など無かったのである。

 実際、天系の子孫達の中で彌織に直に会った事があるのは、婆々様方の長老風福だけであった。その昔、数十年も前に風福がまだ今ほど皺の溝が少ない頃、この集落に初めて危機が訪れた時、どこからか現われた若い娘が争いの中にスーっと入り込み、いつの間にかその争いが終わっていた。誰もが不思議に思いその娘は誰なのか、皆々互いに話してみたが誰も分らない。そこで風福がその娘に直接会い聞いてみたところ、ただ一言その娘が言った。

「私は争いは好まないのです」

 その後、天系の子孫達は彼女を屋敷に招き、色々話しを聞こうとした。どうやって争いを鎮めたのか、どんな能力が彼女にあるのか、等々、聞きたいことが山ほどあったのだが、彼女は話す事を好まず、主彌尖の庵に居りますので何かあればお伝え下さい、力になれる事があるかもしれません、とだけ言い残し去ってしまった。

 それ以降、願い事があると度々、菟酉のような者が山を登り伝え、すると返事がある時と無い時があるのだが、いつの間にかその願いが叶えられている。そんな事が続いた。それ故、天系の子孫達は申し訳なさと自分達の力の無さを実感する事もあってか、できるだけ集落の者達の願いは自分達で何とかしてきた。しかし他国からの侵略など大きな事態に対しては、自分達は余りに無力であった。実際のところどうにもならなかった。そして結局は時々こうして山を登り、願いを伝える事になってしまっていたのだ。

 それが何十年と続いている。続いてはいるが、未だにこの女性の事を誰もよく知らないという。何とも不思議な話だ。

故に、この庵に主人以外の者が足を踏み入れたのは、恐らくこれが初めての事なのではないだろうか。

 足の無いベッドの上で菟酉は、一つ一つ順を追って目が覚める前の事を思い出そうとしていた。

―私、あそこで、…何かが私の目の前を

―そして、そうなのよ、足が何かに引っ掛かってしまったのよね、多分

―う~ん、それから先がぁ、う~ん、よく思い出せないわぁ

「痛っ」おでこを摩りながら顔をしかめた。と、そこへ、

「起きられましたか」一人の若い女性が部屋に入ってきた。

「あのぅ、私…」菟酉、少し腰を浮かせ、申し訳なさを顔に浮かべた。

「大丈夫ですか、横になられていて宜しいですよ」

 その女性、上下とも麻でできた質素な身形に、結った長い髪を背に垂らし実ににこやかに、柔らかな透き通る声を掛けながら、菟酉の横にスーと近寄ってきた。

「何かをお伝えに来られたのでしょうね、山道の途中で倒れられていたので、ここにお運びさせて頂きました」

 細身でスラッとしなやかそうな体つきで、年の頃は三十代前半というところか、色白で聡明な感じのする女性だ。

「ありがとうございます、実はそうなんです。集落で問題が起きまして、彌織様にお伝えしようと思いまして登って参りましたところ、足を何かに取られ転倒したようです。それ以降の事は、ちょっと、今、思い出せないでいたんです、あ、痛っ!」

 菟酉は言いながらおでこのコブを触ると、まだ腫れている様子だ。

「あのぅ、失礼します、これを塗らさせて下さい」

 女性は小さなお盆に何かを載せて持ってきていた。そして菟酉の座る横に並んで座ると、お盆を自分の身体の横に置いた。菟酉は黙ってそのお盆に載っている何かを見ている。

「これはある種の木の葉をすり潰した物です。腫れにはすごく効くんですよ」

「ありがとうございます。私達も似たような物はありますが、色が違いますね」

 話しながら女性はすり鉢のような入れ物に入っている、その生薬と言ってよい緑色の物を良く捏ね、透き通るような色白の細い指先で少量をすくい取った。

「塗りますよ」「う…」「痛いですか?」「冷たい」

 女性は終始笑顔で、初めて会う菟酉に対しても優しく応対していた。

「山道、大変だったでしょう」

「えぇまぁ、何度も来てはいますけど、やはりいつも少々苦労はしますね」

「そうですよねぇ、分かります」笑顔で頷いた。

「それでもこの辺りは、色々動物もいますし、野草も取れますし、山奥とはいえ、ここの暮らしに慣れるとそれなりに良いところなんですよ、フフ」

「はぁ、そうなんですか」

 二人は他愛も無い話しをしながら、数分の間笑顔で相対していた。

 このような時、別に何が切っ掛けとはなしに、フッと何かを思い出す事がある。菟酉もおでこに薬を塗られながら、それこそフッと大事な事を思い出した。

「あっ!」突然大きな声を出したので、頭が動いた。

「あらっ、すいません」塗り薬が鼻の頭に付いてしまった。

「いいえ、大丈夫です。それより大事な事を」

 女性は幾分慌てる菟酉に対して全く静かに笑顔を絶やさず、ゆっくりと鼻の頭に付いた緑色の薬を、白い布で拭き取ってくれていた。

「私、集落の大事な用件を彌織様にお伝えしなくては」

 隣で優しく生薬を菟酉の鼻から拭き取っていた女性が、きちんと後片付けをしながら立ち上がり、改めて菟酉の方を見た。

「そうでしたね、そのためにいらっしゃったのでしたね、分りました」

 彼女は小さくコクっと頷き、お盆を持って部屋を後にした。

女性が部屋を出ると、後には静けさだけがこの空間を支配した。山間に於ける一軒家、おかしな事に小鳥の囀りすら聞こえてこない。風が吹き抜ける音も無い。ましてやこの二人の他に人の気配など全く無い。静か過ぎるくらいに静かだ。菟酉はそんな事より自分の用件の事を気にしている。

―あの方、優しい方ね

―彌織様、いらっしゃるのかな

―早くお伝えして、帰らなきゃ

 五分ほど、時間がゆっくりと過ぎた。もちろん、時計など存在しない。

―ガタ、ギギー   部屋の扉が開いた。

 余りの静けさのために、足無しベッドの上で一人寝そうになっていた菟酉は、その音でクッと顔を上げた。

「あっ!」とろんとした両目の瞼をパっと開いた。

「主は主彌尖のお堂に行っておりますので」

 扉を開けて入ってきたのは、先ほどの女性だ。菟酉は彌織がきたと思い、気を引き締めていたのが入ってきたのが同じ女性だったので、逆に驚きの声が出てしまった。

「主彌尖の、お堂?」

「はい、この建物の更に山を登った先に、古からのお堂があるのです」

 女性は身体の前で両手を組み、姿勢正しくスッと真っ直ぐに立ち、はるか遠くから聞こえてくるような、良く通った澄んだ声で話した。

「主は一日一回は、そのお堂へと登っておいでになるのです」

「そうですかぁ、えーと…」菟酉は懐に手を入れた。

 他の子孫達から託された彌織への願い状を、懐の中でゴソゴソと掴みながら、どうしたら良いか考えあぐねている。それを見ていた女性が笑顔で、

「あのぅ、もし何か渡す物がおありでしたら、お渡し致しますが?」

 菟酉はゴソゴソしていた手を止め、女性の目を見てニコっとした。

「はい、お願い致します」

 懐に書状以外何が入っているというのだろうか、ゴソゴソしていた手を出すと、一枚の紙くずのような物を握っている。この時代まだしっかりとした真っ白な〝紙〟と呼べる紙は存在していなかった。しかし製法は分らないが、エジプトのパピルスのような一応紙らしき〝紙〟は存在し、しかしそれで充分に意思を伝える事はできていた。故に菟酉が懐から出した〝紙〟は、かなり粗雑な物だったが、女性も別に嫌な顔一つせず、にこやかにそれを受け取った。

「それには私達の集落の大事が託されています。どうか宜しくお伝え下さい」

 菟酉は集落の大事を握る事柄が、今この時自分に託されているのだ、という事を十分に認識していたため、切に懇願するような真剣な表情でその女性に伝えた。

「分りました、必ずに」

 その女性はにこやかな笑顔から一転して、表情をキュっと引き締め小さくコクっと一度頷くと、またにこやかな笑顔に戻った。菟酉は間接的ではあるが、一つの大事な役目を果たし一応安堵の表情を浮かべた。その後役目を終えた開放感からなのか、お互い初めて会ったにしては驚くほどに仲良く、その後、普段の生活の事や山の話、里の話、等々、面白おかしく長々と話しをし、打ち解けた。そして、ここに時計があるとすれば短針が一つ進んだ頃、

「あっ、もう戻らなきゃ!」

 時間を忘れて話をしていた菟酉が、楽しかったという顔と、どれくらいの時が過ぎたのだろう、という少々不安げな顔で勢いよく立ち上がった。

 それから程なくして菟酉は庵を後にした。菟酉が庵を出ると、幸いにも黄色い太陽はまだ天頂より僅かに傾いたところにあった。それでも山道は長い。菟酉は足早に山道を下りていった。そしてその途中、菟酉は何度も振り返っては庵を見た。

―楽しかったわぁ、だけど、あの方誰なんだろ?

―風福様の話では、確か、彌織様お一人で暮らしているって

―でも古のお堂って、そんなお堂があったのねぇ

 あの女性の柔らかな面影を脳裏に残しながらも菟酉は、今度は転倒などしない、と変な気負いを持ちながら足元を見定め、一歩一歩しっかりと山道を下っていった。そしていつしか登る時に一息付いた、道の途中の小高い丘の岩のところまできた。

やはり良い風が吹いている。汗ばむ身体を心地良く冷ましてくれる。一息付くにはタイミングの良い実に良い場所だ。眼下には、海に向かい苔のように広がる千世の集落が見下ろせる。菟酉は登ってきた時と同様に、一旦その岩に腰を下ろし息を整えた。登りとは違うが下りもそれなりに身体に負担は掛かる。

「あぁ、気持ちが良いわぁ!」両手を上げて背を伸ばした。

―でも、こんな山の中にどうして、いつから住んでいるんだろぅ?

 岩に座りながら山の上の方を振り返ったが、鬱蒼とした森が山の輪郭を覆い隠し、庵どころか細道さえ、数メートル先で既に見えなくなっている。

既に夕刻だ。主彌尖の山頂の大きな影が、巨大な山法師のように不気味に次第に伸びて来ていた。



 太陽を背に、自分の影法師が先を行く。日暮れまでにはまだ時間があるとはいえ、それでも菟酉の足でも朝早くからこの時刻まで、昼間の時間いっぱいくらいは掛かってしまう。

―っふぅ~、婆々様達は最初から行く気も無いくせにさ、今日はわしが行くかのぉ、なんて言うんだから、っふぅ~、登って来られるわけないでしょ、こんな山道。嫌になっちゃうよねぇ、ほんと、っふぅ~、結局のところ、私が来るしかないじゃない

 歩きを再開した菟酉は、ブツブツと愚痴の塊を吐き続けながら歩き続け、漸く屋敷の敷地に足を踏み入れるところまで下りてきた。結局、夕暮れの時刻になってしまった。

その時、

―グェー、グェー、グェー

 何かの泣き声なのか音なのか、彼女の耳にはっきりと聞き取れたわけではないが、頭の中でははっきりと聞き取った気がして、何だろう? と思いながら徐に振り返った。

―あれは、…何?   目を少し細めた。

 彼女の目に映ったのは主彌尖の尖がった頂と、もう少しでその尖がりの裏に隠れてしまいそうな夕日に、熟れた柿の肌のように、濃いオレンジ色に染められポッカリと浮かぶ雲をバックに、何やら飛び回る黒いシルエットが一つ。

―何だろう?鳥?コウモリ?

 そのシルエットは、鳥のようでもあるしコウモリと言ってもそう見えるが、菟酉のいる場所からでは遠過ぎて小さく、しかも黒く見えるだけで、凡そ判別ができる物ではない。

 菟酉は意味も無く、その黒い小さなシルエットを暫くの間見ていた。

―グェー、グェー、グェー

 何故か声だけがはっきりと聞こえる、そのように彼女には思えた。次第に日が暮れていく。尖がりの向こうに丸い朱色の塊が消えていく。ボーっと突っ立ちそのシルエットを見ている彼女の周りに、既に影法師は無い。薄暮の世界で一人何かを呟きだした。

「かしこみ、かしこみ…」軽く目を閉じて口だけが動いている。

「かしこまりもうす、我、ふてんの下、いときちぎの力となりて…」

―えっ、私、今…   我に帰った。

 菟酉は何かに憑かれたように、無意識の状態で呟いていたのか、自分自身で今の状態に驚いている。黒いシルエットも既に飛んではいない。いや、薄暮の中に溶け込んだのか。

―今、私、何だったのかしら?

 彼女は自分自身の状態がよく分からず、しかめっ面をしてクルっと向きを変えると、帳の下りた広大な敷地の一本道を、眉間に皺を寄せたまま屋敷へと急いだ。

 屋敷の中では婆々様連中が、今で言うソファーのようなゆったりとした長椅子で、何やら意味の分らぬ話をしながら寛いでいた。部屋に入った菟酉は未だしかめっ面のままだ。それを長老の婆様、風福が気付いた。

「お~ぉ、お疲れじゃったのぅ、何事か良からぬ事でもありましたかの、そのお顔の様子では、…のぅ、菟酉様」

「えっ、あ、はい、い、いいえ、あのぅ、彌織様には会うことできなかったのですが…」

 菟酉はつい今し方起こった、その奇妙な事で顔をしかめていた事はさておき、慌てて顔を作り直すと、婆様の心配していた山で起きた事に付いて隠さずに話し始めた。

「そのぅ、私が少々怪我と言いますか、大事では無いのですが、庵に行く途中で頭を少し打ちまして、思いがけずあの庵で手当てをされたのです」

 菟酉は言いながら片手で前髪を上げ、まだ赤く盛り上がっている額のコブを、婆々様方に見えるようにした。

「おぉ~ぅぉぅ、これはこれは、難儀をされたようじゃのぅ」

「これこれ、見ていないで誰か、そうそう、野木の塗り物を持ってきておやりなさい」

「これはまたぁ、随分と大きな物を、ふむふむ、こしらえなすったものじゃ」

 婆々様方はそれぞれ言う事は言うが、座ったまま口だけを動かし、誰一人何一つ動いていない。これもいつもの事らしく、婆々様が言っている間に、既に一番若い者が塗り薬を持って菟酉の横に来ていた。

「ありがとう、でもね、その庵にいた女の人に塗り薬を塗ってもらって、今痛みは全く無いのよ、あの薬は本当に効くのよね」

「そうなんですか?」若い者は塗り薬を付けた指を立てたまま、戸惑っている。

「あ、じゃあ、せっかく薬を持ってきてくれたんだから、ちょっとだけ塗って貰おうかな、ハハ、ありがとうね」

 言いながら菟酉は、床の上の厚手の麻の坐布団に座った。そして片手で前髪を軽く上げた格好で、風福に山の上のお堂の事を話した。

「何でも、毎日彌織様はあの庵の、更に上にあるお堂に行かれるそうで、私はそのためお会いする事ができなかったのです」言いながら菟酉は何かを思い出し、指を立てた。

「ところで風福様、彌織様はお一人ではなかったのですね。風福様のお話しではお一人で暮らしているとばかり」

 菟酉が話す間若い女性は終始黙って、菟酉の微妙に動く額のコブに合わせながら塗り薬を塗っている。

「ん?そうじゃよ、彌織様はお一人のはずじゃがのぅ」

「そうですか、でも、私のこのコブに、塗り薬を塗ってくれた方がおりましたけど、お若い方でしたが、あの方はどなたなのでしょうか?」

 長椅子には三人の婆々様方が、座禅姿の仏像のようにほぼ同じ格好で横並びで座っており、それぞれ?マークの顔をしている。と言っても、彌織なる人物を直に見た事があるのは、この中の長老風福だけのはずだ。

「ふむふむ、確かにのぅ、わしはあの方を見た事はあるが、庵に出向いた事は無いからの、その実、その時々で何方か一緒におられたのかもしれんのぅ」

 風福は目があるのかどうか分らない皺皺の瞼の下から、ジロっと菟酉の方を一度見て更に続けた。

「じゃがのぅ、あの方をお見掛けしたのは、ふ~む、そうじゃのぅ、もうかれこれ八十年も前の事になるのかのぅ、凛として、たいそうお綺麗な方じゃったぁ」

 その風福の言葉に他の二人の婆様達も知っているのか知らぬのか、風福と同じように少し遠くを見るような顔をしながら、同時に頷いている。

「八十年前、ですか?」

 菟酉は婆々様方の前に座ったまま、時の長さに驚いている。確かに、この時の長さと同じだけ、この老婆の顔に皺が刻み込まれてきたのだろう。実際のところ、この婆様が何歳なのかは誰も知らない。本人も知らないのではないだろうか。

 この天系の子孫達は天系の血を引くというだけあり、元々、他の民衆とはやはり違うところがあった。それは寿命が長いという事、それと各々ある種の能力が僅かだが備わっている。故に本当にこの婆様、いつ生まれたのか何歳なのかは誰も知らない。もちろん天系の子孫とはいえ、寿命がある事も確かではある。菟酉も八十年前という年月の長さからいって、彌織なる者の容貌と風福の容貌を重ね合わせ変な想像をした。

「でも、風福様、彌織様という方はどのようなお方なのですか?いつも色々この千世の事を助けて頂いている事は分かっているのですが、一体、何者、と言っては失礼なのでしょうが、どのようなお人なのか」

 菟酉の言うように助けて貰っている割には、この人物の事を余りにも誰も何も知り得ていない、というのも実におかしな話だ。

「わしがお顔を拝見したのは、先ほど言うたが、八十年も前の事じゃったが、その間、彌織様ご自身ではの、千世の集落へ何度も下りて来られてはいるそうなのじゃよ」

「えっ、そうなんですか?」

「ふむふむ、それはの、集落の人々の間から、たまに漏れ聞こえてくるのじゃ」

「あっ、そういえば私もいつだったか、少し前に耳にした事があります。本当に時々の事、身形は質素ながらどこか品のある、美しいお方が人々の体の具合や様子を聞いては、何か呪文を唱えて去って行くと」

―でも、美しいお方と言っても、お歳はいくつなんだろ?

 菟酉はどうしても彌織なる者と風福の顔がダブってしまい、やはり変な想像をしてしまう。自分の中で少しおかしくなり、フフ、と小さく笑っている。

「〝彌織〟というお名前も、実はの、その民の声から聞いたに過ぎないのじゃよ」

 実際のところ、この話の中心人物、彌織という者に関しては、長老である風福の知る範囲と民衆から伝わる事以外には、誰も何も知られていないようだ。不思議というより他はない。それであっても、この千世という集落のその時々で、民衆を助けてきた事に疑いは無いようである。

故に今、天系の子孫達も集落の危機に際して頼っているのだ。〝呪文を唱えて去って行く〟という事からも、何がしかの力を備えた人物なのであろう。しかしその出自がどこなのか、どのような力があるのか、色々謎めいてはいるようだ。

「ところで、菟酉様、我々の願いはお伝えして頂いたのでありますかな?」

 風福が微笑み顔なのか、皺くちゃなだけなのか分らない顔で訊いた。

「はい、薬を塗って頂いたそのお若い方に、我々の願いをお伝え頂けるよう、しかと文をお渡し致しました。その方もしっかりとした人物とお見受けしましたので、大丈夫かと思います」菟酉はきちんとした正座で応えた。

「それはそれは、ご苦労でござった。では、ご返事をお待ちするかの」

 居並ぶ仏像のような他の婆様方も、風福と同じリズムでウンウンと頷いている。その横で一番若い者が一言言った。

「ただ、あの輩がいつ襲ってくるのやら、それだけは心配ですね」

 その一言で一同何も言葉が無く、黙ってしまった。実際、今回のこの天系の子孫達の慌ただしい動きは、この事から始まっている。話は元に戻った。

 ところでこの子孫達の言う〝輩〟であるが、どんな輩なのか。

元に戻った話しを振り返ると、この時、世の中で各地の栄えている集落を、力で我が物にしようとする勢力が横行していた。それに対し、時を遡る事数十年なのか数百年なのか、以前には影響力のあった神の力も、時を経る毎に次第に衰えていたため、各地で無法な暴力が当たり前のように広がり始め、そして天系の子孫達により栄えていた集落、この千世の集落へも最近は度々どこからか湧いて出てきたのか、繁栄の臭いを嗅ぎ付けてきたのか、様々な乱暴者どもが襲来していたのである。

 そんな危険な状況を、僅かでも天系の力の残る子孫達が退けていたのだが、ここにきて更に怪しく凶暴な者どもが襲ってくるようになり、子孫達の力では抑え切れなくなってきていた。故に、度々何がしかの力で危機を救ってきた、山の上の庵に住む〝彌織〟という人物に仕方なく助けを求めた、という次第だ。

 そしてその〝輩〟とは。これは、今まで度々来襲してきていた地方の無法者とは違い、いくら結界を張ろうが、何がしかの法で動きを封じようが、次から次へと湧いて出るが如く、死肉から蛆が湧いて出るように、異様な腐臭を纏い異様な形相で、この世の者とも思えない出で立ちでゾロゾロとやってくるのだ。ただ、その来襲も太陽の下では現れない。目の前にいた恐ろしい者どもが、夜明けと共にいつの間にかサーっと引いてしまう、そして日暮れと共にまた現われる。それを何度も繰り返しては徐々に徐々に、次第に千世の集落へと近付いてきている、という状況だ。

 皆がなにも言えずに黙っていると、一番若い者が聞えるか聞えないかの小声で、誰に言うとは無しに心配顔で呟いた。

「でも、あの恐ろしげな者どもは、一体何者なのでしょうか?どこからきたのでしょうか?何が目的なのでしょうか?」

 その小さな声に長老の風福が、遠い記憶をどこからか引き出すような目をして、

「そぅよのぅ…」子供に昔話をする婆様のように話し出した。

「その昔、わしがわしの親から、更にわしの親がその親からと、言い伝えられてきた話の中に、この地上世界が昔は花の咲き乱れる、それはそれは美しい世界じゃったと言う一説があっての」一息、フゥ、と息を吐き、横に置いてある飲み物を一口啜った。

「何でもその話は古の神代からの話での、我々の祖先の頃の話なのじゃが、その花の咲き乱れる更に以前に、この地は荒涼たる地が広がる何もない世界で、まだ国という枠組みも無く、国津神も秩序を知らず、他の民も争いばかりをしている有様だったらしいのじゃ」

 婆様は自分がその情景を今、正に見ているような目をしながら話をした。

「その有様を天上界から眺めていた我らの先祖、天津神が、この地上の世界にもそろそろ秩序を与えねばならん、と言うての、何かその標となる〝御印〟を、天界からブンっと投げ入れたんじゃそうな」と言って、軽く片手を振った。

「〝御印〟ですか?それは、何なのですか?」菟酉が訊いた。

「そう〝御印〟とは、それははっきりした事は伝わってはおらん。そして、それがどこに投げ入れられたのかも、これが誰にも分からんのじゃ」

 この話に先ほどまで菟酉の額に薬を塗っていた一番若い者も、いつの間にか菟酉の横にチョコンと座り、耳を傾けていた。その者が訊いた。

「その御印はその後、どうなったのですか?」

「これこれ、そう話しを急ぐでない」婆様、弱々しく片手を挙げて若者を制した。

「よいか、話はその御印が投げ入れられるはるか以前の事なのじゃが、その荒涼たる地には力のない国津神や…」

 婆様の話が進むに連れて、いつの間にかこの屋敷にいる天系の子孫全員と、下働きの者達の殆どがこの部屋に集まり、ちょっとした講演会さながらになってきた。

「秩序を持たぬ烏合の衆らがあちらこちらで集まり、国とは言えぬ小さな集落を作って纏ったかと思えば争い、破壊し、散り散りになったかと思うとまたこちらで集まり、また争う、そんな事を繰り返しておったそうな。いつからこのような世界ができ、そしていつまでこのままでいるのか、そんな事は誰も考えぬ、夢も希望も無い悲しい世界だったのだそうじゃ」

 風福の横で、自分では何も話してはいないはずの他の婆様方が、風福が身振り手振りをしながら話すと、同じように身振り手振りをして自ら頷いている。風福の目の前では菟酉と若い者が小さな姉妹のように、ウンウンとしきりに頷きながら、真剣な顔で聞いている。

 その若い者が、真剣な面持ちでまた訊いた。

「その時代、国津神様も全く力が無かったのですか?」

「そうさな、力のある国津神もそれはそれでいくらかはおったそうじゃ。しかしの、大部分は余り力の無い神だったそうじゃ、故に天津神が憂いたのであろうのぅ」

「風福様、そこにあのような輩が…」菟酉が言い掛けた。

「そうなのじゃ、こやつらが問題なのじゃが」

 婆様はこれからの話が大事なのだとばかりに、またズズっと一口、横に置いてある飲み物で喉を潤し、フゥ~、と一息吐いた。

「う~む、この時代はのぅ、国津神や烏合の衆の他、多くの怪しく恐ろしげな者どもがウヨウヨしておったらしくてのぅ、そやつらはある場所から夜になるとゾロゾロと這い出してきては、力の無い国津神を捕まえては引き千切りバラバラにしたり、烏合の衆の集まりなどを襲ってはそやつらを貪り食ってしまったりと、我々には想像もできないような残虐な事をしておったらしいのじゃ、ふむふむ」

―おおっ~、う~   恐ろしさの余り、居並ぶ聴衆は一同に声を上げた。

 菟酉が額に皺を寄せ息を呑んで聴いていたが、ふとある言葉が気になった。

「風福様、今の風福様のお話の中で、その恐ろしげな者どもが〝ある場所〟から出入りしていると言われましたが?」

「ほぅほぅ、そうなのじゃよ、そこが肝心なところでの、よう気付いたのぅ」

 菟酉に続いて若い者も訊いた。

「その恐ろしい者どもは餌として、食べるためにそんな残虐な事をしていたのですか?」

 周りの一同もそれぞれ顔を見合わせ、小声でそれぞれ何かを言い合っている。

「しかして、こやつらは元々目的など持たぬのだな、何のためにと言うのではなく、その行為自体がやつらの性なのじゃよ、誠に持って恐ろしい事なのじゃがのぅ」

 風福と並んで座る婆様方も、分っているのかいないのか、殆ど風福のコピーのようにウンウンと調子を合わせて頷いている。

「して、その問題の〝ある場所〟なのじゃが、一説ではの〝四方津国〟の入口なのではないかと言われておるのでな、ただ、実のところは定かではないのじゃ」

「四方津国?」一同殆どが、示し合わさずとも自然に揃って声にした。

「四方津国、って、どこにあるのですか?」

 今度は菟酉と若い者が、お互い顔を見合わせながら唱和した。

「分らんのじゃ、言い伝えではの、今までその入り口を見た事のある者は、誰一人としておらんという事じゃ」

「四方津国とは、どんな国なのですか?」今度は〝聴衆〟の後ろ側から声がした。

「四方津国、これはの、やはり古からの言い伝えでしかないのじゃが」

 一同、シーンと声を静め、婆様の小さな声を聞き漏らすまいと耳を傾けている。

「聞いた事のある者もおるじゃろうて、それは死者の国、黄泉の国の事なのじゃ」

―おぉ~ぅ、死者の国かぁ~、黄泉の国かぁ~   また一同が反応した。

「この世界の者どもは皆、既に死んでおる。故にじゃ、いくら倒しても蘇りまた立ち上がる。そして夜になるとゾロソロ這い出してきては、死肉を食い漁る。誠に持って恐ろしい、それが奴らの、死んでいるはずの奴らの性なのじゃ」

 ここで菟酉が確信を突く質問をする。

「では風福様、今、この千世の集落を襲ってきている、あの輩は、…もしかして、その恐ろしい奴らの、子孫、なのでしょうか?」

―おぉ~ぅ、そうか、そうなのか~、死者なのかぁ~   また一同がざわめいた。

「ふ~む、わしには確かな事は言えぬのじゃが、わしが思うに、あやつらは子孫ではなくての、その恐ろしげな者ども〝その者〟なのではないのかのぅ」

 婆様は下を向き、言う事自体が残念だ、という顔をして呟くように応えた。

「えっ、その者?という事は」菟酉は?マークの顔で若者と目を合わせた。

「ふむふむ、その者よ、その者」婆様、また、フゥ~、と一息吐いた。

「つまりはの、こやつ等は死人じゃ。故に子孫は残さんのじゃよ。ふむふむ、分るかの、という事はじゃ」婆様、小さな目でチラっと菟酉を見た。

「つまりは」菟酉は再度?マークの顔で若者の方を見た。そして若者が、

「つまりは、その時代その時代の死人が、今、襲ってきている。あの恐ろしげな輩は今、この時代の死人、その者、という事なのですか?」

―おぉ~う、この時代の死人、ぅ~、死人その者なのかぁ~ 

 一同の中あちこちで驚きの声、恐怖の声、諦めの声、小さな声大きな声が入り混じりざわめいた。婆様は、少しの間そのざわめきの中にいたが、ゆっくりと顔を上げると、そのざわめきに負けないいつもの婆様らしからぬ、少し大きめの声を出した。

「恐ろしい事じゃがのぉ! ふ~む、恐らくはの、そういう事なのじゃろぅのぅ」

 一同、この言葉を改めて聞くと、シーンとなった。

 蟻が床の上を列を成して歩いている。その足音さえも聞こえそうなくらいの静けさが、この屋敷全体を包み込んだ。誰も何も言えなかった。それぞれがそれぞれに何かを思っている。それは、相手は死人である、その事を長老の婆様から告げられ、では死人に対して自分達はどう対処すれば良いのか、どんな手を打って食い止めれば良いのか、そして、襲われればどうなるのか、等々、その言葉を聞いた一人一人が思い思いに、今後の事に思考を巡らせているのだと、各人の表情が言わずもがなそれを物語っていた。

 上を向いたり横を向いたり、眉間に皺を寄せたり、口が開いたままになっていたりと、一同一人一人の頭の中の混乱振りが、小さな婆様の目でもよく見えていた。そして一早く顔を上げた菟酉が、シーンという横断幕が張られているようなこの空間の静けさを破った。

「では、風福様、その古からの死人に、我々は、どうすれば良いのですか!」

 その端的な問に婆様は、また横に置いてある飲み物を一度啜り、そしてまた息をフッと軽く吐いてから、直接の答えではなく、また古からの言い伝えを話し出した。

「ふむふむ、その恐ろしげな死人がウロウロしていた、悲しい恐怖の時代は長らく続いたようじゃ。我々がそんな恐ろしい時代に生きておらんで、誠に幸せな事なんだと思わんといかんのぅ。しかしながらじゃ、長かったその時代も、やがて終わりを向かえる事となった。それはの、先に言うた〝御印〟が投げ込まれるまでの事だったのじゃ」

 そこで婆様、皺皺の瞼をグッと上げ一同を見回した。その見回した視線と菟酉の疑問の視線が直線となり合わさった。

「風福様、という事は、御印は、何か、その時代を変える事のできる、恐怖の時代を終わらせる事のできる、何て言うのでしょうか、何がしかの〝力〟を持っていた、という事なのですか?」

 菟酉のこの言葉に一同が、まるで真夏の咲き誇るひまわりの群れが太陽に向けてそうするように、揃って顔を風福に向けた。

「そうなのじゃ」婆様、また自分が今、正に眼にしているような顔で話し始めた。

「これもまた、先に言うたようにの、わしの親から、また、そのまた親から言い伝えられてきたように、その時代、この世は色取り取りの花々が咲き乱れ、小鳥があちこちで囀り、清らかな水の流れる小川があり、緑豊かな山々が連なり、どこまでも見渡す限りの美しい世界が続いていたそうなのじゃ」

 誰も何も言わない。唾を飲み込む音さえさせずに耳を澄ましている。

「それは、その前の恐怖の時代を終わらせ、その時代の記憶さえも消し去るように、何もかもを変えた、という事なのじゃよ」

「それが〝御印〟の、力」菟酉が誰に言うので無しに呟いた。

「そうなのじゃ、御印が天津国より投げ入れられてから、全てが変った。恐怖の時代から花々咲き乱れる、美しい時代へとな。それが〝御印〟の力なのじゃよ」

 シーン、空間にこの言葉が浮いている。その言葉の下で、水溜りに張った薄氷を割る最初の一突きのように、また一同の中から誰かが一言呟いた。

―〝御印〟の力は何で、今は…

「そうよ、そうなのよ!何で今、その御印の力が働いていないの!」

 菟酉と若い者が同時に顔を見合わせ、殆ど叫ぶように言った。

「それは、分らん。確かにの、御印の力がどういうわけか今は働いておらん。それ故に、奴らの出入り口〝四方津国〟の入り口が再び開いておるのじゃろぅ、恐らくはのぅ」

 婆様、他の婆様達と並んでウンウンと頷いた。一同がまたざわめき出した。今まで溜まっていたそれぞれの言いたい事、思った事を、ああでもないこうでもないと、二人、三人と小さな塊となって話し合っている。叫んだ後黙っていた菟酉が、真っ直ぐ風福を見ながら口を開いた。

「風福様!という事は、逆にその御印がまた力を出してくれさえすれば、あの恐ろしい輩を四方津国へと封じ込める事ができる、という事なのですね!」

―おお~ぅ、そうじゃ、そうじゃ、おお~っ!

 それぞれに小さな会合をしていた一同が、菟酉のこの一言で気付いたように、再度揃って声を上げ大きな声の塊となった。

「菟酉様、そうなのじゃ。ふ~む、その通りなのじゃが、しかしのぅ、問題はの」

「どこに〝御印〟があるのか」菟酉が言った。

「どうやって、その〝力〟を出させるのか、ですよね」若い者が続けた。

―どうやってかぁ、どこにあるか、なんてねぇ   顔の見えない声があちこちでする。

 凡そ大衆というものは、一つ一つの状況にシーンとなったり、ざわついたりと忙しいものだが、自分の意見を言う者は殆どいない。集まりの中では小さな声を上げるが、決して自分が表に出たりはしない。大衆とはそんなものだ。

「そうなのじゃよ、そこが問題での。先ずは〝御印〟自体が本当に存在するのかどうかさえ、これ自体が確かな事ではないのじゃ。あくまでも今までの話は言い伝えじゃ。それを見た者も確かめた者も、誰もいないのじゃ。しかしじゃ、あの死人の輩が襲ってきている事は紛れもない事実じゃ。故にじゃ、その言い伝えの〝力〟それが最も有効な、あやつらへの対処の方法である事も確かなのじゃよ」

 婆様は小さな目に力を込めて、改めて一同をゆっくりと見回した。各人それぞれが、何かを考えている。一人として妙案が出てこない。それも当然の事だろう。婆様の言い伝えと、恐ろしい輩が襲ってきている現実が混ざり合い、その解決方法が、これもまた言い伝えの中の〝御印〟の力を借りるという、誰もがそんな事を信じて良いのか、それで本当に解決できるのだろうかと、疑心暗鬼になっていても不思議はない。しかしこの時、他に何か方法があるのか、誰もそれを思い浮かべる事はできずにいた。長老の婆様が分らない事を誰が分かるというのか、皆がそう思っていた。

 この集落の命運を握ると思われる解決方法が、言い伝えの力に頼らなければならないのか。それは誰もが迷い、決定のできない事だった。そうして皆が一同に考えあぐねている間に、日暮れが近付いてきた。それは闇の者どもが動き出す合図でもあるのだ。ここに居る誰もが、その事を忘れているわけでもあるまい。



 重たい空気が屋敷に充満している。誰も声を発しない。屋敷の外ではカラスが何羽か、カァーカァーと鳴きながら主彌尖の頂上に向けて飛んでいった。菟酉が戻ってから数刻が経った。もう日暮れだ。夜の帳が誰の手も借りずに次第に下りてきた。

 一同の塊の中、誰とも知らぬ者がかなり控えめに、最後尾から極々小さく声を上げた。

「ぁ、あのぅ、お願いがぁ…」姿が見えない。誰の声だ。

「ん?誰じゃ、何か言いおったかの?」婆様が辛うじてその声を聞き取った。

「ぁ、あのぅ、わたしぃ…」まだ姿が見えない。

「どなたじゃね、おっ、そこ、そこを開けておくれでないかい」

 婆様、一同の中、人々の一番奥の方に向けてミイラのような指をさした。

「ん?そなたはぁ?」小さな目を、更に凝らして見ている。

「ぁ、は、はい、ぁのぅ、私、その〝御印〟を探しに行きたいと、思うのですが」

 その小さな声に一同の目が、一同の塊の最後尾、ポツンと立つ小さな女性に集中した。

「ん?な、何と申されたかの?皆少し静かにしておくれでないかい」

 婆様の耳にはザワザワとした一同の驚きの声で、その小さな声が届かなかった。

「ぁのぅ、私、その〝御印〟を探しに行きたいと、思うのですけど」

 この小さな女性、婆様に訊かれ全く同じ返答をした。身体も小さいが声も小さい。

「おぉ~う、何と、御印を探しに行きたいのじゃと、そう、そなたは言うのかね?」

「は、はぃ」周りで聞いている者がいらいらするくらいに声が小さい。

 この女性の周りの衆がいつの間にか前を開け、婆様から直接その小さな女性の身体全体が見えるようになった。背丈は隣に立つ女性の頭一つ以上は小さいだろう、身体の線も細く、かなり華奢な女性だ。ただ、天系の子孫ではないようで、婆様もよく知らない様子だ。

「ほ~ぅ、そなたは、名は何と申すのかね?」

「はい、私、キコ、と申します」この時は、はっきりとした声で応えた。

「キコ、かの?」「はい、キコと申します」ペコッと頭を下げた。

「そうか、キコ殿か、ふむふむ」婆様はにこやかに顔の皺を揺らしている。

 一同の中あちこちで、大きく小さく色んな声が聞こえる。

―何だあの子、御印を探しに行くってぇ、どうやってだよ!

―あの子、何で突然しゃしゃり出てくるわけ

―無理無理、あんな子に何ができる、できるわけないだろ!

 婆様、片手をゆっくりと上げると、色んな声を纏めて制した。

「これこれこれ、良いかの、皆々、先ずは聞いてみようではないかの、キコ殿がどのように思うておるのか、良いかの」

 一同この婆様の声で口を閉じ、またひまわりのように揃ってこの小さな娘の方に顔を向けた。キコという娘はこの時、こんな多数の顔の中心にいる事が初めてなのか、小さい身体を更に縮込ませ、無くなってしまうのかと思えるほど小さくなっていた。そんな事はお構いなく、婆様が大事な質問を始めた。

「のぅキコ殿、そなたは〝御印〟を探しに行きたいと申すが、先ずは何故、自分が探したい、と思うたのかね?」これは当然の問いだろう。

「はい、そのぅ、私は千世の集落の者なのですが、両親とは早くに死に別れ、今は一匹の犬と暮らしております」「ほぅ、そうなのかね、一人とな」

「はい、でも以前から何度か彌織様に色々お助け頂きまして、そのお陰で何とか暮らしてこられたのです」「何と、そなた、彌織様を知っておるのかね?」

 その言葉に菟酉や隣の若者も、俯いて話しを聞いていた顔をクッと上げた。

「はい、存じております。何故かは知りませんが、両親が彌織様と親しかったのだと思います」「ほっほ~ぅ、そうなのかねぇ、ふ~む」

「それに、私は一人になりましてからも、何故か縁ありまして、このお屋敷で働かせて頂いております。どうか、御婆様、私の願いをお聞き下さい。私は今まで色々とお助け頂いた彌織様、そしてこのお屋敷の方々から頂いた御恩を、何とかお返ししたいと、切に思っておりました。それを…」「この場で返したいと」「はい!」

 この時、キコは大きく見えた。少なくともキコ自身の心を表したこの時は。

「そうなのかね、ふ~む」婆様、暫し俯いた。

 一同の中でまたざわめきが始まった。

―あの子の両親って見た事あるかい?

―何故、彌織様の事、そんなに知っているの?

―一体、あの子は、誰なのさ?

 大衆とはそんなものだ。自分ができない事を人がやろうとした時、またはやった時、あくまで自分は域外にいて、批評だけは多くするが、決っしてそこに自分を置かないものだ。

「ふむふむ、のぅ、各々、どう思うかね?」

 風福は先ず、自分の横でコピーのように頷く他の婆様方の方を見やった。それが答えなのか小さな目で相槌を受けると、次に自分の目の前で姉妹のように仲良く並んで頷く、菟酉と若者に顔を向け、それぞれ意見を求めた。菟酉が婆様と一度視線を合わせ、そしてキコの方を見てから尋ねた。

「キコ殿、一つお尋ねしたいのですが、宜しいでしょうか?」

「はい、何なりと」この時彼女はもう、縮込まってはいなかった。

「では、お尋ね致します。言い伝えによる、誰も見た事の無い〝御印〟をどうやって探すのですか?何を手掛かりに、どこをどうやって探すのですか?」

 この質問は至極当然と言える。この時、ここにいる誰もがそう思っていたと思える事を、菟酉が代表して訊いたにすぎない。婆様方三人もいつものように皺皺の顔でウンウンと並んで頷いている。キコはこの当然と思える質問に対して、全くといって良いほど物怖じせずにはっきりと応えた。

「はい、お応え致します」一同皆、この小さなキコに視線を向けた。

「私と一緒に暮らす一匹の犬は、小さな頃から不思議な力を持っているのです。それは、物を探す能力が異常に優れているのです。もちろん犬である以上、元々人より探す能力は優れているのですが、その能力が普通の犬の何倍も強いのです。そして危険を察知する能力も並外れて鋭いのです。私は今までその能力に何度も救われてきました」

「ほっほ~ぅ、そうなのかね、犬がのぅ、…今、ここに連れてきておるのかね?」

「はい、連れてきております」「どれどれ、会わせておくれでないかね」

 キコは一同が見守る中、部屋の片隅でスヤスヤ寝ている一匹の白色い犬の傍へと歩いていった。そして優しく背中を撫でながら話し掛けた。皆の多くの目が一斉に見ている。

「ねぇ、ハル、起きておくれ、御婆様がお会いしたいんだって、ね」

 その犬はキコの問い掛けに、やや小さなあくびと共にゆっくりと目を開けた。そして細い足を前足後足の順で立てると、一度ブルブルっと身体を震わせ、その後細い尻尾をプルプルと振った。そして顔を上げ、キコの目を円らな瞳で見詰め、おはよう、と言っているようだ。この雪のように真っ白な犬、大きさは秋田犬よりは小さく柴犬よりはやや大きい、日本の古い犬種の一つというところであろうか。

「おはよう、ハル、じゃあ、こっちへおいで、一緒に御婆様にご挨拶よ、ね」

 この二人、意思が完全に通じ合っているようだ。

「御婆様、ハルと言います」と言って犬を紹介した。

「お~ぅ、そうかね、ハルと言うのかね、なかなか凛々しい顔立ちをしておるではないか、のぅ」届きはしないが、ハルに向けて手を差し出した。

 そして婆様は居並ぶ他の婆様方と、目の前の二人に同意を求めるように視線を向けた。周りの皆々は、賛否両論というところか。笑顔の者もいれば、何だこいつ、というような顔付きをしている者もいる。それはそれで、意見は色々あって然るべきだ。

「ふむふむ、そうかね、この犬が、のぅ、ふ~む」

 婆様はこの千世の今後を決める重大な事を、この小さな娘と一匹の犬に任せても良いものか、考えあぐねている様子だ。いかに長老の婆様とて当然と言える。この小さな娘がいくら、この犬には不思議な能力がある、と言っても誰もそれを見た事はなく、この小さな娘自身の事も今まで誰も知らなかったのである。この重要な場面に於いて簡単に信じろ、という方が無理な話だ。が、しかしこのキコという娘、一言、重要な事を口にした。

「御婆様、この犬は彌織様が私に授けてくれたのです」

「何と!ほ~ぅ、そうなのかえ、彌織様がのぉ」婆様の小さな目が見開いた。

「はい、私の両親が亡くなった時に、一人で生きていくのに必ずや助けになるからと言って、まだ小さかったハルを、そしてまだ小さかった私に、授けてくれたのです」

 キコは言いながら、優しい目でハルの背中をゆっくりと撫でた。

「そうかえ、ふ~む」この一言は大きな意味を持った。

 婆様はふむふむと言いながら暫くの間俯き、何かを考えているようだった。そして、一度コクっと一人頷くと、皺くちゃの顔を上げた。

「各々方、良いかの、わしはこの千世の集落の命運を掛けて、この小さな女性に〝御印〟を探しに行って貰おうと思うのじゃが、どう思いなさる」一同を見回した。

 一同ざわめきが広がった。あちらこちらで、良いの悪いのそれぞれの声がする。そしてその中から一つ、聴衆の中から名も知れない下働きの女性が一言言った。

―彌織様にお力をお頼みするのに加え、更に御印の力が必要なのですか?

 確かに、一理ある意見だ。

「ふむふむ、まぁ、最もな意見じゃの、だがの、聞いておくれ」

 婆様、皺くちゃながらも既に迷いの無い、と思われる顔をしている。

「確かにの、この後、彌織様には力添えを願うつもりじゃ、それはの、我々だけの力では到底あの輩を抑える事などできぬのは明らか、だからなのじゃが」

 一同、物音一つ立てずに真剣に聞き耳を立てている。キコも優しくハルを撫でながら、しっかりと婆様の話しに耳を傾けている。

「しかしの、あの輩は四方津国の入り口が開いている以上、その数無限に這い出て来るのじゃよ、…分るかの、その意味が」

 一同シーンとしている。ハルが小さなあくびをしたのを、キコがそっと手で隠した。

「いくら彌織様の力がお強いと言われてもじゃ、のぅ、無限に続く輩に、いつまでもというわけにはいかぬじゃろう」コピーのように他の婆様方がウンウンと頷いている。

「それ故にじゃ、誰かが御印の力を呼び起こし、四方津国の入り口を閉じ、再びこの世を花咲き乱れる世にいつかはしなければならぬのじゃよ。それにじゃ、この問題は、ここ千世だけの事ではない、この地の世界全体の話なのじゃ、…分かるかのぉ」

 一同皆が皆、声はしないが首が立てにコクコクと動いている。

「その他、誰でも良いがの、何か他に良い案がおありの方がおいでか、どうかの、もしいるのなら、教えて欲しいものじゃが」

 もちろんこの時、他に案がある者などいるわけがなかった。いない事は婆様も分った上で、確認の意味も含めてわざわざそう言ったまでのことだ。ハルが大人しく床に伏せている。婆様がハルの顔を見ている。

「このハルという犬に願いを託すしか、無いようじゃのぅ」

 この時、風福の婆様はこの白い小さな犬に、言い知れぬ何かを感じたのかも知れない。ハルの小さな視線と、それよりも小さな婆様の視線が合わさった。

そしてまた、どこからか一つ匿名の声が聞こえた。

―その小さな方お一人で行かれるのでしょうか?  これもまたもっともな問い掛けだ。

「わしの知っておる国津神がおっての、この神は実に人が好きで、わしが頼めば一緒に付いて行ってくれるはずじゃ。わしは一度、いや何度かそやつに恩を売った事があっての、わしの頼みは断れんはずなのじゃよ、ホゥホゥホゥ」

 婆様の顔、笑っているのか皺くちゃなだけなのかが良く分からない。

「それにこやつ神と言うだけあっての、人一人守る力ぐらいは持っておるはずじゃ。更には国津神同士、他の国津神とも通じ合う事はできるようじゃ。何か御印の事、知っておる神もおるかも知れないでの、役に立つじゃろ」

 キコは何も言わずハルと共に床に腰を下ろし、ニコニコしている。

「それにじゃ、もう一つ…」この時婆様は視線を菟酉に合わせた。

「菟酉様、頼みが一つあるのじゃが」「はい、何でしょうか?」

 菟酉は暫くの間話しを聞く一方で、少しばかりぼーっとしていたのが、突然の自分の名指しで目が覚めた。

「我らの屋敷の敷地内に一つお堂があることは、存じておるかの?」

「はい、私は時々鳥達に餌をやりに出た時に、お堂の前で休む事があります」

「そうかね、ふむふむ、そのお堂に入った事は、あるのかね?」

「いえ、ございません」菟酉の顔に?マークが浮かんでいる。

「あのお堂はの、実は〝軍神〟のお堂なのじゃよ」

 一同がまたざわめき出した。〝軍神〟?誰もそんな事は知らぬ、という顔付きだ。あちこちから、ねぇお堂の事知っていたかい、そんなお堂なんかあったの、軍神だってさ、等々、大方は婆様の話は初耳らしい。

「明日一番でそのお堂に行きたいのじゃが、木車を一つ調達して欲しいのじゃ」

「木車ですか?」「そうじゃ。あそこまではわしの足じゃ無理なのでな」

菟酉との話を言い終えると、婆様は顔を皆に向けた。

「あれは古からの言い伝えでの、もしこの千世の集落に何か重大な事が起きた際には、この軍神が助けてくれるであろう、というのがあってな」

―助けて、くれる?軍神が?   どこからか声が聞こえる

「そうなのじゃ、助けてくれるのじゃ。わしはこの二人の道中の守りを、この軍神に願うつもりなのじゃが」

―道中の、守り?   今度は少し大きな声だ

「しかしのぉ、古より今まで、わしの知っておる限りでは、その軍神が動いたのはただの一度だけなのじゃ」「一度、…だけ?」これは菟酉の声

「そうじゃ、一度だけじゃ」

 一同まだざわついている。それぞれにその一度とは何だろう、軍神って何、等々言いたい事聞きたい事、小さな声で色々飛び交っている。婆様も少しの間を空け、その後また話しだした。

「もちろん、誰もその一度を知る者はいない、わしも知らぬ事じゃ。しかしの、これも言い伝えなのじゃが、前に話した花の咲き乱れる時代の以前、死人がうろついていた時代に一度、その一度とはの」

「あっ!」   菟酉の横で若者が、分った、という顔をした。

「今と、…お婆様、千世に今と同じような状況があった、その時なのでは?」

「楽しい話ではないがの、まぁそういう事なんじゃと思うがの」

 その会話を聞いていた誰かが、またどこからか一つの質問をした。

―あのぅ、それではその軍神にこの千世を助けてもらえば、そうすれば、有るのか無いのか分らない御印を探しに行かずとも、宜しいのではないのかと、そう思いますが

 顔の見えない質問に周りがざわついた。

―そうだよな、その通りだよ!

―彌織様を煩わせずに済むではないか

―何だ、そんな軍神がいたなんて知らなかったなぁ

 様々な声が上がったが、状況から言うとこの意見ももっともなところだ。しかしそれに対して婆様、少しも顔を綻ばせる事はなかった。

「皆々、聞いておくれでないかい」婆様、片手を軽く上げて、ざわめきを制した。

「わしもそう願いたいところなのじゃが、そう、事は簡単にいかぬのじゃよ」

 ここで一息吐くためか、横にある飲み物をまた一口、ググっと啜った。

「我々の世界は天津国のある天界、今我々のいる地上の世界、そして今問題にしとる四方津国のある黄泉の世界、と三つに大きく分かれとる。それは皆が知っておるところであろう」と言って、一呼吸空け一同を見回した。

「よいかの、この世が生まれ、始めの内、この三つは完全に分かれておったのじゃ。しかし先に話したようにある時、天界、そう天津国から秩序を作るために〝御印〟が投げ入れられ、そして我々のような子孫が地上界に降ろされたのじゃが」一同皆、同じリズムで頷いている。

「それ以前は、黄泉の世界の入り口が何故だか開かれ、死人がウロウロと出入りしていたのじゃ。それが花咲き乱れる世界以前の状況じゃ」

 皆ウンウンと頷くだけ。各自頭の中で順序を整理しているのだろう。

「そんな中で、この千世の集落が繁栄し人々が集まり始めていくうちに、その死人達も臭いを嗅ぎ付け襲って来るようになった。その時、我々の先祖は天界と繋がりを持つ力をまだその頃は有していたため、この千世を守る術を天界に求めたのじゃ」

「そして天界から降りて来たのが〝軍神〟」菟酉が後を続けた。

「その通りじゃ。しかしのぅ、軍神は神と言えども戦うのが専門の神、ましてやこの三界の枠組みを越える力など有しておらぬのじゃ、分るかの?」

 一同皆?マークが消えていないという顔をしている。菟酉が説明を試みた。

「要するに、天界からこの地上の世界へ力を直接は行使できない、同じように、地上の世界から黄泉の世界へ力を直接は行使できない、…とか、そんな感じなのでしょうか?」

首を少々傾げながらの試みであった。婆様少し微笑みながら、

「まぁのぅ、当らずとも近しかのぅ」

 ここで婆様突然、短い両腕を頭の上に万歳のように上げた。一同の視線が集まる。

「良いか皆々、この三界は天地創造の神がお作り成されたのじゃ、良いかな。故にじゃ、この三界の枠組みを越えて力を行使できるのは、唯一、この創造神のみなのじゃよ。詰まりはぁ、いくら軍神が天界の神であっても、他界である黄泉の世界の扉を閉める事あたわずなのじゃ。そして先に言うた〝御印〟を地上の世界へ投げ入れたのも、これ創造神たるべきなのじゃよ、分るかのぅ、ん?」上げた腕をゆっくりと下ろし、一同を見回した。

 一同皆、声が無い。シーンという横断幕が張られている。皆、分ったのか分らないでいるのか表情が固まっているため、良く分からない。ここでやはり菟酉の声が静けさを破る。

「という事は、〝軍神〟はこの千世を守る事はできてもぉ…」

「死人達を止める事は、できない、ですかね」若者が続けた。

「そういう事なのじゃよ、ふむふむ」婆様、ゆっくりと頷いた。

 またざわめきが始まる。そして婆様も暫くそのざわめきを聞いていた。ここで暫く黙っていたキコが、ハルを撫ぜる手を止め婆様を見た。

「御婆様、ではその軍神は一度動いた後、どのようになったのですか?」

―おぉ~、そうだよ、そうそう

―何故、今は、お堂の中なんだ?

―どうやって、また動かすの?

「そう、じゃからの、この軍神、一度動いた、というよりはの、始めに動いてその後、この地上世界が御印により、花咲き乱れる世界へと変って以降はその役割を終え、動きを止め、天界へと帰ってしまった、と、見るべきであろうのぅ」

 婆様はざわめきの中、静かに話しを続けた。

「そしてじゃ、古の千世の者は助けて頂いた感謝の印としてお堂を建て、そして像を造り、また事が起きた際に守ってもらうと願いを込めたのじゃ」

 キコは頷き、また質問をした。その声は、しっかりと聞き取れる大きさになっている。

「それでは、今のこの危機に際して、どのように〝軍神〟に戻って来て頂くのですか?」

―そうそう、そうだよ

―本当に、軍神っているの?

―この話は、言い伝えだよねぇ   皆々、勝手に思うまま呟いている。

 婆様は一同の思う事はもっともと、何度も頷きながらまた静かに話し出した。

「今までのわしの話の殆どが、古からの言い伝えじゃ、ふむふむ。じゃがの、皆々、よぉく考えておくれ、今、我々が面しておる危機に、何がしか他に良い手立てがあるのかの。〝御印〟を探す事〝軍神〟に願いをする事、含めて他に妙案があるのかのぅ」

 無論、この婆様の問に答えを持ち合わせる者など、誰一人としていない。

「皆々、よぉく心しておくれ、良いかの、わしは今、この古からの言い伝えに頼る他はないと思うのじゃ」またまたシーンという言葉が空間を漂っている。

「のぅ、一同皆々がそれで良いならば、この危機に際して、今我々がしなければならない事を順序立てるが、良いかの」ここで婆様顔を上げた。

 婆様の言葉を黙って聞いていた一同は、揃って姿勢を正し婆様に視線を向けた。

「良いかの、先ずは先に言うたように、この死人の群れを止めるためには四方津国の入り口を閉じなければならん。そのために〝御印〟の力を呼び起こす必要があるのじゃ、良いな。その御印を探しに、ここにおるキコ殿に行って頂く」

 ミイラの指をキコに向けると、キコは、はい、というように小さな顔を大きく頷かせた。

「そして、その守り手助けとしてわしの知っておる国津神、上埜淨明之沼端公弐宮に付き添うて貰う事とする」

―誰?今、何と言った?   皆?マークの顔だが、神々の名前などそんなものだ。

「更には、この二人を恐ろしい輩から、御印を探し出すまでの間守って貰うために先ほど言うた〝軍神〟を呼び覚ます、この事、良いかの」

 ここでまた一つ顔の無い質問がどこからかした。

―軍神にお願いするのは、お二人の守りなのですか?千世の守りではないのですか?

―そうだよなぁ、確かに

―そうだよ、二人より、千世の方じゃないのか?

 皆の意見は分かるが、それは先に説明したように、と婆様の顔は言っている。

「それはのぉ、国津神には道中戦い切るほど、そこまでの力は無い故、他に守りは必要なのじゃ、良いかの、では、誰が二人を守るか、あの輩から」

 もちろん誰からも答えは無い。

「いつまで掛かるか分らん旅路故、彌織様にそれは頼めんぞ、良いか、分るかね」

 婆様は諭すように言った。一同、その事は直ぐに頷いた。

「つまりはじゃ、一番大事な事はいかに早く御印を見付け、四方津国の入り口を閉じるかなのじゃ。それには何としても無事に、キコ殿には行き着いてもらわねばならぬ。我々の中で道中を守り通す事のできるものはおらなんだ。それは誰もが理解しておろう、のぅ。そのためにじゃ、軍神に願いを託す、それが最上の方法、それしか手が無いのじゃよ」

 婆様、今までに無いほどの強い目力で一同を見回し、これも強い口調ではっきりとそう言い放った。一同、納得するしかない。

「そしてじゃ、先ほどのキコ殿の問に、まだ答えておらんかったのぅ」

 今度は打って変わり優しくそう言うと、婆様、キコに視線を合わせた。

「わしの知っておる限りではの〝軍神〟は、代々の我々天系の子孫の長老の願いだけを、唯一つ、叶えてくれるのだそうな」婆様に合わせ、他の婆様達も大きく頷いた。

「そしてじゃ、キコ殿」ここで婆様また視線をキコに一度合わせた。

「この後、そなたの力を暫しわしに預けてくれんかの?」

 と言って、皺皺の顔をこれでもかというほど更に皺をよせ、いつもより大きく微笑んだ。その微笑に対し、キコは疑問の顔で返した。

「ええ、宜しいですけれど、私の力、…とは、何でしょうか?」

「ホゥホゥホゥ」婆様、変な笑いと共にごそごそと懐から何やら取り出した。

「これはの、これも古からの伝わり物での、勾玉なのじゃが」

 勾玉とは今で言うと、ある種の宝石の類と思えば良い。通常古代の勾玉は、ヒスイやメノウなどの鉱石からできた、ペイズリーのような形に加工されたペンダント大の物が普通で、さして大きな物ではないが、この時婆様が持つそれは大きさがかなりの物だ。ソフトボール大の丸い大きな、占いで使用する水晶と見紛う物だ。

「これとそなたが、あの〝軍神〟を呼び覚ますのじゃよ、ホゥホゥホゥ、それがそなたの問の答えとなろうぞ」

 その後、軍神を呼び覚ます具体的な方法は後に示すとだけ言って、婆様は、この長々と続いた、千世に取っての重要な話し合いの纏めに入った。婆様、片手を高く挙げた。

「良いか皆々、既に帳が下りた。闇の世界では我々は動けん。明日一番で行動せねばならんようじゃ、良いかの、これから先は厳しい時が暫く続くやも知れんが、皆心しておくれでないか!」皺皺の瞼の下、小さな目で一同を見回した。

 一同皆声は出さずとも、やらなければ、という決意はそれぞれ持っているのが分る顔付きで、揃って大きく頷いた。

「この地上の世界を、闇の世にしては、ならぬのじゃ!」

―そうじゃそうじゃ!

―婆様の言う通りじゃ!

―ならぬならぬ!

 何やら決起集会のようになってきたが、屋敷全体が異様な盛り上がりを見せているこの時、建物の外、暗闇の中、静かに訪れた一人の女性がいた。大きく盛り上がる屋敷の入り口で、黙って立ち止まっている。盛り上がる一同の中、人々の塊の最後尾にいた一人がそれに気付き、女性を中へと招き入れた。

「どなた様でしょうか?」「はい、私、彌織と申します」

「彌織様、ですか?」盛り上がりの中、他の者は気付いていない。

「どのようなご用件ですか?」対応した女性、名前を聞いても誰なのか気付かずにいる。

「私宛に届けられました、お便りのご返事に伺いました」

「それはそれは、ご丁寧に、では、少々お待ち下さい」

 実に丁寧な挨拶が交わされた。その女性は中へと取り次いだ。その女性が小さな声で菟酉へと囁いた。すると菟酉は大きく驚き、立ち上がり叫んだ。

「ええーっ!彌織様がぁ!」と言って振り返った。

 その大きな声に皆が一斉に振り返った。取り次いだ女性もその声でやっと気付いたようで、驚き振り向いた。

 そして一同の視線の先には、あの山の庵で菟酉のおでこに薬を塗ってくれた女性が、両手を前にして静かに微笑み佇んでいた。



 オーラがあると言えば良いのか、不思議な空気を纏った、ある種の気の流れを持つ人物なのだろう。そのようにしか表現の仕様がない、独特の雰囲気が辺りを包んだ。

 一同が意識せずとも自然にその女性の前に空間を作った。誰も何も言わず無意識で彼女の前から退いていた。この女性の前では自然とそうなるのか、不思議な雰囲気だ。

 菟酉はその開いた空間の先を真っ直ぐに見ていた。目を見開き〝彌織〟という名前と、昼間に山の庵で出会った女性の姿形が頭の中で一致しないのか、小さな混乱が起きているようで、少々困惑の表情をしている。そこへ皺枯れた声が菟酉の背後から響き渡った。

「おお~ぅ、何と!彌織様!何と、全く御変りもせずに、おお~ぅ!」

 長椅子に雛壇のように並んで座る婆様方の、その端にいた長老の風福が珍しく立ち上がっている。余程興奮しているのか、一歩二歩と夢遊病者のように両腕を肩の位置まで上げ、ゆっくりと前に歩き出していた。

「おお~ぅ、何と、彌織様!あの頃と何ら変らずお美しいままで、おお~ぅ、八十年前と寸分変らぬお姿で! 何と何と」

 菟酉も一度風福の驚くのを見て更に驚き、そして彌織を再度振り返り見て、また驚いた。

「あ、貴方が、み、彌織様、だったのですね!」

 ここで菟酉の頭の中で交差していた〝彌織〟という名前と、目の前の女性の姿がやっと一致したようだ。二人の周りで山の林のように突っ立つ一同は、暫し何が起きたのか理解できずにいた。皆が皆、空気が読めないでいる。

 この時、菟酉も風福も同じ名前を叫んだ気がした。〝彌織様〟と、ここにいる一同が頭の中でこの名前が消化されず、選挙時の候補者の連呼のように、只々、聞き流している状態になっていた。そしてもう一度菟酉がその名前を呼んだ時、

「彌織様、なのですか?そうだったんですね?貴方が彌織様、だったのですね!」

―おお~、おお~   ざわめきが怒涛のように起こった。

―彌織様だぁ~、この方が彌織様なんだ! おお~

―何故、ここに、彌織様がぁ~?

 皆が皆、同時に気が付いた。そしてやはりひまわりの如くに一同揃って、その静かに微笑み佇む女性に向け顔が、視線が動いた。

「突然お邪魔致しまして、申し訳ございません」軽く頭を下げお辞儀をした。

「いえいえ、何を申されます、とにかく、先ずはこちらへおいで下さい」

 菟酉は数歩前に出て手を差し出し、婆様の雛壇の方へと彌織を招いた。彌織は観音様のように優しく誰をも包み抱くような柔らかな微笑と、雲の上を滑るような滑らかな歩き方で、婆様方の座る雛壇のような長椅子の方へ、部屋の最奥へと移動した。そこでハルが突然大きく尻尾をフリフリ、彌織の足元にすり寄ってきた。

「あらっ!この子は?」ハルに向け、腰を折り顔を近づけた。

「彌織様!お久し振りです!」横から、もちろんキコだ。

「あらっ、キコ!貴方はキコね!あぁ~、久し振りねぇ、直ぐ分かったわ」

 彌織は両手を広げ、皆の前でキコをゆっくりと柔らかく抱き寄せた。

「貴方もこの屋敷にいたのですか、そうなの、良かったわ!」

 周りの一同、生き別れた親子の再会を見ているような顔をして微笑んでいる。

「あ、では、この子はハルなのね!大きくなったわねぇ!」

「おお~う、そうじゃったのぅ、お二人は既に知り合いであったのぅ、ふむふむ」

 婆様、長椅子に座り直すと小さな目を見えなくなるほど細くして、二人を暖かく見詰めている。そして尋ねた。

「彌織様、貴方は少しもお変らずにおいでで、…して、今日はどうなされたのです?」

 他の一同、婆様の言葉に反応できているのか、できている者いない者、小さな声であちこちざわめきが起きている。菟酉も婆様の八十年前に会った時の話を思い出し、そしてそのイメージのままに山の庵に赴き、この女性に会った事と全てが入り乱れ、彌織への不思議さと感動と、彼女を目の前にして暫しボーっとした心地になっている。

 そんな周りの混乱はさて置き、彌織自身はキコとの再会を喜び、そして姿勢を正して婆様の問に応えた。

「はい、私は集落で人々のお話を聞くため、時々集落にお伺いしたりもしておりましたが、この度のお手紙のお話では…」ここで彌織の顔も、微笑からキリッとした顔へと変った。

「かなりな難題が生じておる事、理解致しました。故に一度こちらのお屋敷にお伺いしようかと、そう思いまして山を下りたのですが、少し遅くなり暗くなってしまいました」

「おお~ぅ、そうでありましたか」婆様、少しの間を置き、何やら考えた。

 そして、ゆっくりと片手を挙げ、一同に向けて言った。

「それではの、既に外は闇夜となった。皆々、それぞれのところへ戻るが良いぞ。今は何が起こるか分らぬのでな、決して一人では歩かぬ事じゃ、良いかの」

 一同皆、状況を理解し頷きそれぞれ動き出した。暫し小さなざわめきが起きた。

「我々は彌織様と、この後の話を決めなければならぬ。良いか、皆々、何度も言うがの、心をしっかりと持ち、これからの千世を守ろうぞ!」

「はい!」あちこちバラバラに声がしていたのが、この時、一瞬で大きな声で揃った。

 今この時、ここに集う一同、それぞれに何を思いながら、そして何を話しながら各自退散していったのか、それぞれの思いはあるのだろうが、明日からのこの千世の集落がどうなるのかは、この時誰も予想はできなかった。少なくとも当分明るくはない未来なのだと、誰もがそう思っている事だろう。それは強ち的外れではない。そして皆が去ったこの広い部屋には、長老の風福、菟酉、キコとハル、そして彌織が残った。

 一同が去ってみると、この部屋はこんなにも広いのだと菟酉は改めて感じた。その横で暫くの間、彌織とキコが懐かしさを話し合っていた。それを見詰めていた婆様、

「それではの、菟酉様、彌織様に先ほど我々が話し合った事、今後どうやってこの千世の集落を守るべきか、説明をしておくれでないかね」「はい、分りました」

 菟酉は話し合いの事、順序良く全てを細かく説明をした。

 今この千世の集落が襲われそうな事態の元を断つため、いやこの地の世界全体の秩序を取り戻すためにも、伝説の〝御印〟を見付けなければならぬ事、そしてそれをキコに託した事、その守りに国津神、そして〝軍神〟を呼び戻す事、そして彌織に関する事として御印を見付けた後、その力が発揮されるまでのその間、この千世の守りを彼女に助けてもらう事、等々だ。

 彌織は静かに目を閉じ菟酉の説明を聞いていた。キコも隣でハルの背中を撫でながら、ウンウンとその都度小さく頷きながら聞いていた。婆様は相変わらず、微笑んでいるのかただ単に皺くちゃなだけなのか分からぬ顔で、やはりその都度ウンウンと頷いていた。

 そして彌織は一通りの説明を聞いた後、少し間を置き、そして目を開け口を開いた。

「お話、よく分りました。この非常時、私達が成すべき事、今の御説明のことで宜しいのかと思います」

 そう言うと、一度また静かに目を閉じ間を取り、そして話し出した。

「私が以前、この千世を守るために少しのお手伝いをさせて頂いた事、思い出します。しかし死人の歩き回っていた時代は遥か昔の事です。今度のこの事態に私の微力な力が、黄泉の者どもに対して、どの程度通用するのかは私にも全く分りません」

 静かに目を開け、他の者に目をやった。優しい目だ。その言葉に菟酉は首を横に振り、キコは何も反応せず彌織を見詰めたまま、婆様は一言、

「いえいえ彌織様、貴方様無くしてこの千世の集落は守れませんのじゃ」

 それに対して彌織は何も応えず、別の事を話した。

「私は、…実は私自身の事を良く知らないのです」

 唐突に彌織が自分の事を話しだした事に、婆様と菟酉は一瞬、ん?と、視線が止まった。

「私は実は、何故この地におり、そしてどこから来たのか、いえ、生まれさえ自分ではよく知らないのです」婆様、菟酉、ただ黙って聞いている。

「いつからあの庵にいるのか、私のこの微力な力は何なのか、全ては私の記憶には無い事なのです」キコは床に座ったまま静かにハルを撫でている。

「そして、この千世の集落に下りてきて、人々と話しをし、時にはこの小さな力で手助けもしましたが、…それでも私の出自は分りません。でも、ある時に気が付いたのです、私はこの集落のために生きる事ができれば、それで良いのではないのかと」

 顔を上げ微笑んだ。

「ですから、この、今のこの事態に対しても、私は千世を、ここの人々を、自分の成すべき事はこの千世の人々を守る事なのだと、それが私の出自を語る術なのだと思い、この微力な力を使いたいと常に思っているのです」ニコっとほほ笑み、婆様と菟酉を見た。

「そうでございますか、ふ~む」婆様、言える事は何も無かった。

「ところで風福様、一つだけ風福様が勘違いをなされている事がございます」

「?」婆様、小さな目を少し開いた。

「これは大事な事なのですが…」と言って彌織は、床に寝そべっているハルを見た。

「風福様は、あの軍神を呼び戻すために、ここにいるキコに…」

 今度は自分の横に座るキコを見て、軽く頭を撫でた。

「いえ、キコの〝声〟を使おうと、そう思いなのではないでしょうか?」

「おぉ~ぅ、彌織様、よくぞお分かりで、実はその通りなのですが、それが何か?」

「風福様、キコの声を使う、というのは、間違っております」

「ん?キコの声では、違うと申される?」婆様は少し開いた目を逆に細めた。

「実際に何が違うのかは明日、明るくなりましたら、私がその軍神のお堂に一緒に参りますので、その折、そのお手伝いをさせて頂きます、そこでお分かりになると思います、宜しいでしょうか?」彌織は言いながら、観音様のような微笑で婆様に軽く頭を下げた。

「おお~、そうして下さるか、ふむふむ」

 彌織と婆様のこのやり取り、菟酉とキコには何の事なのかさっぱり分らなかった。しかしながら、彌織のこの言葉は婆様に取って望むところであった。彌織は婆様に向って一度コクっと頷きお互いの意思の確認をした後、自分の傍らで佇むキコを抱き寄せた。母のいないキコは遠い記憶の母を思い出すかのように、嬉しそうに彌織の柔らかな胸に抱かれた。その幸せそうな二人の足元にハルが近寄り、ハルもまた安心した顔で蹲った。

 その後、彌織との話も落ち着くと、皆直ぐに明日に備えるため早めの床へと向い、この長かった日は暮れた。

 この日、明日から起きるだろう様々な出来事に関して皆で話し合い、そして決めた。それがこの千世の集落にとって、明るい未来になるかどうかは誰も分らない。婆様の考えた千世を守る方策が、それが本当に正解なのか?軍神は本当に蘇るのか?それにもまして最も大事な事、そして一番知りたい事は〝御印〟が、それがどこにあるにせよ本当に存在するのかどうか、それこそが今日この屋敷で集まった者達の、心の底に泥のように重く溜まった〝不安〟その物なのではないだろうか。




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