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4.古都と神話

          古 都 と 神 話


 黄緑色の美しい草むらが、どこまで続くのか果てしなくと思えるほど、辺り一面毛の長い絨毯のように広がっている。草原の横をサラサラと、実に心地良いBGMのような音を奏でながら、ゆったりとした川の流れが横たわっている。時折、直線的な真夏の太陽光をキラキラと反射し、辺りの情景との兼ね合いが絵もいわれぬ美しさを作り出している。

 一方、遥か遠くに古の都を思い出させる五重塔や、街並みの屋根のおうとつが、言われないと気が付かない程度に、地平線ギリギリの辺りで僅かに見えている。雄大な美しい自然とその奥に見える古都の街並み、そのコントラスト、この景色、世界遺産にでもしたいくらいの美しい景色だ。

 そんな美しい景色を背景に、二本の笹の葉状の白い物体がユラユラと、風も無いのに揺れている。一つのぼんぼり状の白い丸い玉がピクピクと、思い出したように時折上下する。絵画のような背景に決して溶け込まず調和を乱す二つの物体、いや一匹と一人、いや単に二人と言っても良いのだが、何やら話し声がする。

「ねぇ、ウサギさん、あの屋敷って一体何だったの?」

 都の前をスタスタ進んでいく白い毛の塊、都の言葉に何も反応せず、余計な話などする気は毛頭無いとばかりに全く振り向きもせず、ひたすら四つ足でピョコンピョコンと進んでいく。まったく可愛げのないウサギだ。

「ねぇ、ウサギさん、あの薄暗い大きな部屋って、結局何だったんだろうねぇ」

 ウサギは広大な黄緑色の草原を、指針となる目印も何も無しに、どこをどう歩いているのか分っているのだろうか。黄緑の草の海を南極海の砕氷船の如く、頭でグイグイっと掻き分けながら、後ろにいる者の事などまるで眼中に無い様子でどんどん進んでいく。そんなウサギの黙々とした歩きなど、これまたお構いなく、後ろを歩く都は次々と返事の無い会話を一人続けている。

「ねぇ、ウサギさん、あのままでいたら、私やっぱり食べられちゃっていたよね」

 都は黙々と進むウサギに比べ一人話しながら、時折思い出しをしながら、そしてちょっと立ち止まって考え事をしたりしながら歩いているからなのか、やはりウサギとの距離が次第に離れていく。そしてそれに気付くと、ハッとして、そそくさと駆け出し追い着き、そしてまた離されてを繰り返していた。

どこに向かっているのか、まったく意思の噛み合わないそんな二人の道中、都が無意識に放った一言でウサギの足が止まった。

「ねぇウサギさん、あの何か分からない呪文で、あの時、怪物の目の前で私を殻から出してくれたんでしょ、本当にありがとうございました。あれが無きゃ、私確実に、絶対に食べられていたもんね、助かったわぁ~」

 都は返事の無いウサギに向かって、やはり返事を期待せずに言った一言なのだろう、この時もどこか思い出しをしながら、斜め上を見ながら言ったのだが、ふと気付くと、ウサギが都の五mほど手前で立ち止まり、また例の、手?を腰に当て、実に偉そうに黄緑色の草むらの中で立ち上がり、立ち上がると言ってもウサギの胸の辺りまでは草で覆われ、草の湯船に浸っているようにも見えるのだが、その格好で後ろの都を睨んでいた。

「呪文?何の事だ?俺はお前を助けた覚えは無いからな、ったく、何でお前なんかを助けなきゃならないんだ、アホか、ったく!」

 相変わらずぶっきら棒、偉そう、無愛想、を地でいっている。そんなウサギの言葉と態度に、ウサギから三mほど手前で都も立ち止まった。

「えっ、そうなの?だって、あの時何度も、何か呪文のように意味の分らない言葉が聞こえてきて、…そうよ、峰峰がどうした、小船がどうしたって」

 都はウサギとの話の食い違いに、戸惑いを隠せない表情で立ち尽くしている。ウサギはというと、そんな話の食い違いなど知るか、という顔でその一言だけを言うとプイッと前に向き直り、立ち尽くす都をその場に置いたまま、再び四足になるとさっさと歩き出した。

 都は今の話の食い違いを考えているのか、自分からとっとと離れていくウサギの白い背中を見ながら、暫くの間立ち尽したまま動かなかった。

―でも、そうよ、確かに聞こえていたわ、あの峰峰って声が、それに、あ、そうそうあの時も聞こえていたわよねぇ

 その二人から離れた場所で遥か五十m以上後方、かなりの距離を開けて何か動く物が一つある。それはウサギよりは大きいが都よりは小さい。要するにあの子供だ。少し前まで都の背で死んだように背負われていた子供だ。頭を少し下げ下を向いたまま面白くなさそうに、うな垂れたようにも見える姿でトボトボと、都達の歩いてきた草原の海に残る轍を電池で動く小さなロボットのように、その両足を右左右左と、ただ動かしているだけ、という感じで歩いている。

 都は立ち尽くしていた姿で、ハッ、とし、思い出したように顔を上げると、上半身だけを反転させ両手を頬の横に当てた。

「ねえー、遅いよー! 早くおいでよー! おいてっちゃうよー!」

―そうよ、あの子を助け出した時も、あの時も聞こえていたんだわ

―でも、あの子、一体どこの子なの?

―そういえば、あの子の名前、何て言うんだろ?

 都は暫く二人から遅れてとぼとぼと歩いているその子を、纏まらない頭のままじっと見詰めていた。



 その後、先行する二人は五mほどの距離を保ったまま各々黙々と、暫くの間何も言わず歩き続けた。真夏の炎天下、暑くて当然なのだが不思議と汗は掻いていなかった。吹き渡る風が気持ち良いといえばそうなのだが、湿度も高くはないからなのだろう。見渡す限りの黄緑色の草原もそよ風にユラユラと揺れ、見た目からでも気持ちが良い。

 都の五mほど前で、ウサギがピョコンピョコンと飛ぶように歩いていたその四足を、突然ピタっと止めた。そして草原の中でスックと立ち上がるとやはり偉そうに手を腰に当て、ウサギとも思えぬいつもと変わらぬ格好で、実に偉そうに都の方を向いた。

「おい、お前!俺の役目はここまでだ」

 唐突に言い放ったウサギのこの言葉に都も立ち止まり、突然立ち上がるなりこのウサギ何を言っているの、と目が点になった。

「一つだけお前に聞きたい事がある。何でお前はあの屋敷にいたんだ、答えろ!」

 都はウサギが何を言っているのか分からないでいた。都自身は草原の中を歩きながら一人頭の中で、あの屋敷は何だったのだろう?あの化け物は何だったのだろう?とずっと考え続けていた。どうせウサギにまた聞いたところで、何も返事が返ってこないに決まっているから、と。しかし今、突然ウサギが、自分の役目はここまでだ、と言い出した。

―〝役目〟?何の役目?

 しかも今まで何も返事をしてくれなかったウサギが、今度は逆に、一つの〝問〟を都にしてきたのだ。

―何で?屋敷に、…何でいたかって?

―今ここで、…何でそんな事を訊いてくるの?

 お互いいつも話の噛み合わない二人だが、気付くと草原を突き進んでいた二人は、いつの間にか勾配のある斜面に立っていた。ここは丘のようだ。二人のいる場所からもう少し先に行くと、恐らくこの丘の頂上であると思われる地点が見えている。

振り返って二人の通ってきた道を見てみると、永遠と続く草原の中、二人が踏み締めてきた歩跡が黄緑色の絨毯の上に、一本の糸を引いたように草々がそこだけ倒れ、ずっと遠くからほぼ直線的な線が引かれているのがよく分かる。その糸の途中、時折吹く風に直線の糸の脇にある草々が揺れ、所々糸の線が消えてはまた見えるを繰り返している。そしてその途中に黒い点がポツンと一つ見える。あの子供だ。前に見た時より遥か後方でダラダラと歩いているのが見える。

 一面の草原の横には清らかな流れが横たわり、その流れの更に遠い向こう側には、既に薄い灰色の影のようにしか見えない、あの古都の輪郭が目を凝らせば微かだが見えている。

 この丘に立っていると景色が良く、心地良い柔らかな風が頬を撫ぜ、そのまま眠りに就いてしまいたくなる、が、ウサギの尖った声がその良い気分を壊す。

「おい、お前!聞いてんのかよ!ったく!俺の質問に答えろ!」

 あいも変らず何とも偉そうな言い回しに、頭の中で自分自身で会話をしていた都は、ハッと我に帰りウサギの方に目を移した。

「えっ、そうね、うん、えーとぉ…」しどろもどろだ。

「チッ!」ウサギ、舌を鳴らして横を向いた。

「何だっけ、えーと、そうね、何であの屋敷にいたか、でしたっけ?」

 都は言いながら体半分くらい振り返ると、薄く影のように見える古都の方角に目を向けた。ウサギは仁王像のように、威圧的に立ったままでいる。

「何でって言われてもねぇ、ウサギさんがいなくなってからあの街並みが見えて、う~ん、そう、橋が見えたから、そうね、渡ったのよ、多分?」

 都、言いながら右腕を上げ、その方角に向けて指をさした。

「そして橋を渡ったら、う~ん、そうそう、古い街並みが続いていたから…」

 都は遠景に薄く見える古都の輪郭を見ては、またウサギを見て、少しずつ記憶を辿りながら話しているのだが、その話の腰をボキっ!と、ウサギはおもいっきり折った。

「おい、お前! ちょっと待て! お前、なに嘘を言っている!」

「えっ、嘘って、嘘なんか言ってないよ、私!」

 都はまた突然ウサギがわけの分らない事言い出す、何でなの?と内心思ったが、顔には出さなかった。

「何言ってんだ、嘘言いやがって、橋なんか無いぞ!どこに橋があるんだ、ったく!」

「えっ、橋が無いって、そんな事言われても」

 都はかなり不思議顔で、何言ってるのこのウサギ、頭おかしいんじゃない、と内心思ったが、顔には出さなかった。

「お前、後ろを見てみろ、どこに橋があるんだ!」

 ウサギは言いながら指をさし、と普通はそうなるのだが、ウサギの指は丸くて短いため、偉そうに腰に手を当てた格好のまま言葉だけで言った。都はウサギのその言葉にクルッと振り返り、永遠と続いてきた黄緑色の草原の横、清らかな流れがゆったりと流れるせせらぎの上流、古都の方角を流れに沿って少しずつ目を凝らしていった。かなり薄くではあるが、更に靄が掛かっているようにも見えるが、その方角の景色を見る事に関しては全く問題が無い。都は暫く目を凝らしていた。

―う~ん、無いと言えば、無いわね、ほんとだ、でもあったのよ

 確かに、いくら古都から遠く離れたこの場所まで歩いてきたとはいえ、まだ古都の輪郭が薄くでも見えるという事は、運河のように流れがほぼ一直線に続くこのせせらぎの上に、掛かる橋がもし一つでもあれば、小さくとも見えるはずだ。その事は都も感じた。

―確かに変よね、私が渡った橋ってどこ行っちゃったの、変ねぇ、あるはずなのに?

「良いか良く聞け、この川自体はな、元々こっちの世界とあっちの世界を繋ぐ重要な川なんだ、良いか!」「えっ、重要な川?あっちの世界と、こっちの世界、って?」

「だから、あっちとこっちの違う世界を繋ぐ重要な川なんだ、良いな!分かるか!」

―分るか、っていきなり言われても、何言っているの?

「だから普通の人間が行き来はできないから橋は無い。橋は無いし、川の横は真っ直ぐで、お前を連れてきた道の途中からこの辺りまでは何も無いんだ。だから誰でも簡単に来る事のできる場所なんだ、分かるか!だからいくらお前でも分かるだろうと思って一人にしたんだ。良いか、俺もいろいろやる事が詰まっていて忙しいんだぞ!お前みたいに暇じゃないんだ、分かるか!それなのにフラフラわけの分らない屋敷に入り込んで、何であんなところに行っていたんだ、ったく!わけの分らない奴だ、ったく!」

 ウサギはほぼ一方的に捲くし立てた。余程不満が溜まっていたのだろう。その不満を一方的に聞かされた都も、自分は何も悪い事はしていないのにと、ささやかな抵抗を試みた。

「そんな事言ったって、貴方が突然いなくなるのが悪いんじゃなくって、フンっだ!」

「何言ってんだ!だから今言っただろ、ここは真っ直ぐな道だ、誰もいなくたって分る道なんだ、いくらお前が方向音痴でも何でも分るんだ、良いか!橋も何も無いんだ、だから向こう側との行き来は無いんだ、だから一人にしたんだ、分かったか!」

「そんな事言ったって、実際に橋はあったのよ、何言ってるのか意味が分からないわ!」

 都は次第にウサギの言い分に押され、次第に声が小さくなっていったが、確かに都の言う事も最もな事で、ウサギの説明は余りにも一方的で説得力が無いように思える。ウサギは橋は無いと言うが、都は実際に渡っている。しかしウサギは、都のそんな小さくなった言葉を殆ど無視して、更に話しを続けた。

「行き来はできないって事は元々橋なんか無いんだ、分かるか、これくらい、いくら頭が悪くても分かる事だろ、ったく!」

―い、いくら、頭が悪くてもですってぇ!あ、頭が悪くて、わ、悪かったわねぇ、確かに頭はそんなに良くは無いわよ、でもそんな言い方無いわよね、フンッだ!

 この時都は、言葉にはしなかったが小学生のように口を尖らせ、思いっきり顔に不満を表しウサギを睨んだ。しかしウサギは都の不満顔も全く無視した。

「橋が無いって事は向こう側には行けないんだ、分るか!なのにお前は向こう側の屋敷にいた、だから訊いているんだ、何でお前はあの屋敷にいたんだ!早く答えろ!」

 都は何てイラつくような事を言うウサギなんだろう、と思いつつ、でも彼が言っている事、あっちとこっちの世界がどうの、という事と、自分が渡った橋が何故見えないんだろう、という事と、頭の中が不思議で一杯になってきた。その時、ふと彼女の頭の中に一つの反論が思い浮かんだ。

「あ、そうそうウサギさん、私達あの屋敷からこっち側、貴方の言うこっち側にこうして、今私達は来ているんじゃないかしら、私は、何故かあまり覚えていないけど、どうやって来たのかしらねぇ?」

 都自身にとっては恐怖と逃げる事で頭が一杯で、実際にどう逃げてきたのか経路は覚えていないらしい。確かに二人はあの屋敷から見て川の対岸、ウサギの言うこっち側に今来ているのだ。それを思い出し、得意そうな顔付きで少々顎を上げ気味で、ウサギのように腰に手を当てて言った。ウサギはやはり腰に手を当てたままの同じ格好で、数秒の間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。

「お前は、覚えていないのか、ったく、本当にバカだな」

―バ、バ、バカですってぇ!

 都はまた言葉には出さなかったが、口をこれ以上できるかというくらいに思いっきり尖らせると、フンっ、という感じで首を横に向けた。もちろんウサギは、そんな都の行動などお構いなしで話しを続けた。

「あのな、よぉっく聞け、もう一度だけ言ってやる、いいかこの川はな、お前達よそからきた者にはただの川にしか見えないだろうが、ここは空間を繋ぐ道になっているんだ。だからお前達には、容易にこの間を行き来する事はできないんだ、分るか!」

「分るか、って言ったって、何の事?」

 もちろん都は全く理解できていない。しかし話は続く。

「しかしな、俺達は特別なんだ!この空間を繋ぐ道を簡単に通る事ができるんだ、お前には何の事か分らないだろうけどな!」

「ええ、分らないわよ、全、然、分らないわよ!何言ってんの、フンっだ!」

 そしてウサギは都が何もわけが分らない状態で、レモンを口にした後のように口をきゅっと尖らせている事も全く無視して、さっさと自ら動き出し、この丘の上までピョコンピョコンと四足で行くと、またスックと立ち上がり丘の向こう側へ指?をさし、偉そうに何か指示をし始めた。

「おい、お前!お前はここからあそこに見える大きな木の下まで行くんだ、良いな!そこに穴があるからそこに入れ、良いな!その穴に入ればお前の行きたいところへ勝手に行けるはずだ、分かったか!俺は伝えたぞ、後はお前の責任だ、良いな、分かったな!」

 都は口を尖らせ横を向いたまま、話しを聞くとは無しに聞いていたが、ウサギの言う話が、何やら自分にとって大事な事なんだと何となく理解し、ウサギのいる丘の上に向けいつの間にか足を向けていた。が、そこはそれ、体力無しの都である。大した傾斜の坂ではないのにウサギの前に来るまでには、

「ハアー、ハアー、ゼエー、ゼエー、…で、な、何だってぇ」

「ったく、お前は、いったい何なんだ! いいか、良く聞け!もう一回だけ言ってやる、後一回だけだぞ!これが最後だ!」

 都は中腰姿で両膝に手を当て、まだゼーゼー言いながら肩で息をしている。そしてウサギの言葉に顔を少しだけ斜め上に向けると、半分死んだような目をしてウサギの指さす丘の向こう側を見た。そこにはウサギの言うように、非常に大きな、樹高二十mはあろうかと思われる楠の大木が一本生い茂っていた。黄緑色の草原に聳え立つ老獪な番人というところか。その番人を、二人が全く違う目でそれぞれ眺めている。都の死んだような目に映るそれは、一幅の風景画のようであった。

 背後を流れる清らかなせせらぎの、何とも涼しい空気を含んだ柔らかな風が、丘の周りを包むように優しく吹き流れ、その繁茂している大木のこずえを僅かに揺らしているのが見えている。この地で一人静かにこの風景を描けば、にわか印象派の趣に浸れる気分にもなれる気がしていた都だが、もう一人の目にはただの大木でしかないようだ。都の絵画気分をあっさり打ち壊す大声が響く。

「良いか、よく聞け!お前はこれからあの見えている大きな木の下まで行くんだ、良いなっ!」白い耳が怒っているせいなのかピンク色に変っている。

「木の下まで行くとそこに穴があるからその穴にお前は入るんだ、良いなっ!穴に入ればお前の望むところに行けるんだ、分かったか!、確実に俺は伝えたぞ、もう言わないぞ、良いなっ!」ウサギはやはり偉そうな格好そのままで、かなり一方的に用件を伝えた。

「へー、あの木の下に穴があるの?ふぅ~ん、それで、その穴に私が入るのね、でも、行きたいところって、それって元の世界って事だよね。本当に大丈夫なの、あんなところに入って?」

 都はウサギの言う事が半信半疑に思えて、懐疑的な表情をして振り返った。

―ん?   振り返ったそこは、どこか今までと景色が違った。

 振り返った都の目に今映るのは、丘の上から見える果てしない黄緑色の草原と、その中に糸のように引かれた一本の轍とその横を流れる清流、そして遥か遠景に薄く輪郭だけが見える古都の影。

―でも何かが違う

―あらっ?ウサギさん、どこに行ったの?  またこのパターンだ。

「ウサギさ~ん!」   都の声が美しい景色の中に消えていく。

 都にとってあのウサギは態度こそいつも偉そうで無愛想で、親しい間柄というわけではなかったが、何故か都のピンチに姿を現し、別に何をしてくれたという事はなかったが、それでもどこか頼りにしていた気がしていた。この時も橋の事、屋敷の事、殆ど答えが出ないまま、それでも都のこの後の行く方向を指し示してくれ、その後に姿を消したわけであるから、ある意味事務的に、あのウサギにとっては予定通りの別れだったのだろう。

 しかし都としては、行く方向は分かった事は分かったが、やはりこの世界に一人残されたという現実に、一抹の不安と心細さを感じた。いや、考えてみると彼女は一人ではない。ウサギが消えたその後、無意識にボーっと、どことはなしに眺めていた都の視界に、何か小さい黒い点が動き入ってきた。

―この後、私、…どうすればいいの?

―あっ! あの子!   顔を上げた。

 そう、あの屋敷で救い出したあの子供が、都達の後ろをかなりの距離を空けて歩いていたのだった。都はウサギが消えてしまった今、不安と不思議の頭のまま、そして何かを考えるという能動的な意識の無いまま、その黒い点が近付いてくるのを、ただ黙って見ているしかなかった。



 そういえば、あの子供の名前をまだ知らなかった。

 今、都がボーっと立っている丘から見渡す風景は、パステルカラーの似合う印象派の絵画のようだ。草原の香りを載せたそよ風の中、時折背丈の長い草に頭を擦られながら、あの子供は次第に近付いてきた。

―あの子、男の子だよね、名前、何て言うのかなぁ?

 確かにあの不思議な屋敷から抜け出した後、都は無我夢中でウサギの後に付いてきただけで、どこをどう通ってきたのかさえまるで覚えていなかった。そして背負っていたあの子供が途中で目を覚ました後は、話もろくに聞かずに背中から下ろすと、とっとと先をいくウサギに追い付こうと必死で歩いてきたため、その存在すら頭から消えていた。ただでさえ体力無しの都である、四つ足でピョコンピョコンと進んでいくウサギとは、少し気を抜いただけで、いつの間にか何十mもの差が開いてしまう。

 そして今、そのウサギが消え去り、その代わりといっては何だが一人身の都にとって、あの子供の存在が僅かながらも愛おしく感じ、自然と目に入ってきた。

「ねぇ、こっちだよ!聞こえるぅ~! ねえー、ねぇったらぁ!」

 都は子供が気付くようにと思いっきり手を振った。しかし子供はうなだれたように頭を下げて歩いているので、都の方を全く見ていない。自分の足元を見ながらトボトボと、単に右、左と、足を前に動かしているだけ、という歩き方だ。

 この子供、背丈はウサギよりは高く都よりは低い。何歳くらいなのだろうか、八、九歳くらいの小学生高学年、というところだろうか。見た目はシンプルな上下とも白い麻地の服装で、髪の毛を後ろに短く束ね、現代人が思い浮かべる、いわゆる古代の日本の服装だ。

顔立ちはというと、男の子か女の子か曖昧なユニセックス的な顔付きで、顎がやや角ばっているところが、辛うじて男の子であるといえるのかもしれない。

「ねぇ、だいじょうぶぅ~!どこか具合悪いのぉ~!」

 都は両手を顔の横に添え大きな声で言ってみたが、子供は下を向いたままだ。その子供は、既に肉眼で顔のパーツ一つ一つの確認ができるほどに近寄ってきた。そのパーツの一つ、口元が何やら動いている。独り言を言っているようだ。

―何で、こんなところに、う~ん、でもなぁ…

 その幼い呟きはまだ都には聞こえてはいない。都は学校からの帰宅路で迎い出た母親のように、少々心配気味の顔で子供が近付いてくるのを見守っていた。そして都の立っている小高い丘の麓まで子供が近寄ってきた時、その子の足が止まった。足を止めてやや暫くそのままの格好で立ち尽くしている。丘の上から見ている都は声を掛けようかどうか、子供を見詰めたまま迷っていた。そして小さな声で、

「ねぇねぇ、ねぇ」聞こえていないのか子供は黙ったままだ。

 都は意識しないまま、足が一歩二歩と子供のいる下に向かって歩み出ていた。

「ねぇ、キミ、名前…」と言った時、

「あー! そっかあ!」と、子供が突然顔を上げて大声を出した。

 都は突然の声に驚いて足がもつれた。

「きゃあー!」都は転げて子供のいる麓までゴロゴロと、そして子供の足元で俯いた形で止まった。今度は逆に子供が驚いた。

「おばさん!どうしたの!」

 都は体が痛いとか転げた事へのショックとか、そんな事より、今の子供の言葉に敏感に反応した。地面に伏せた姿のまま低い声を出した。

「あのねぇ、キミ、お、ば、さ、ん、ではないでしょう」

 彼女はゆっくりと上体を起こし始めた。

「よっこらしょっと、っふぅ~」

 立ち上がるとポンポンっと身体に付いた草を払い落とし、以前のウサギのように腰に両手を当てた姿で子供に笑顔を向けると、その顔付きとは裏腹に諭すような口調で、やや低めのトーンで言い始めた。

「あのね、良~い、私は、お、ば、さ、ん、ではないの、良い事、お、ね、え、さ、ん、分ったぁ、お姉さんよぅ、分ったわねぇ、良い子ねぇ、ハハハ」

 子供は黙ったまま目を点にしている。

「あ、ところでキミ、名前、何て言うの?」

 都は高笑いした後、七変化とでもいうべきか、一転して優しい母親のような笑顔となり、子供の前でしゃがみ込み、彼と目線を合わせた。

「ねぇ、名前、何て言うの?」「タケハヤト」「タケ、ハヤト、君」「うぅうん」

 子供は顔を横に振った。

「タケ、ハヤト君、じゃないの?」「切らないよ」

「切らない?」「そう、切らない、タケハヤトだよ」

「そっか、名前がタケハヤト君なんだ」「そうだよ、タケハヤトだよ」「へー」

 都は意味も分らず、妙に感心しながら頭をしきりに上下させた。

「それで、タケハヤト君はどこからきたの? キミは一人なの?」

「うん、そうみたい、…でも、それがさ」

 タケハヤトはその小さな頭を右手でポリポリと掻いた。そして今まで、ここに来るまでの間、都達に遅れ一人歩いている時から何かを思い出そうとしていたが、なかなか思い出せないでいたらしい。それがつい先程思い出したので、つい大きな声が出たようだ。

「僕ね、みんなと遊んでいる時に何だろう、どこか穴みたいなところに落ちたんだよね、多分、う~ん、その辺りからあんまり記憶が無いんだけど、その後は、目を覚ましたらおばさんの背中に乗っていたんだ」

 タケハヤトは小さな顔をしかめ頭をポリポリ掻きながら、何故自分が今ここにいるのか、理由を探し出そうとしていた。が、その目の前で全く違う意味で反応している者がいる。

「チッチッチ、あ、の、ね、良い事、タケハヤト君、お、ば、さ、ん、ではないのよ~ぅ、お、ね、え、さ、ん、ねっ、お姉さん、分るよねぇ」

 言いながら腰を屈め、自分の顔に指をさし、タケハヤトの顔の目の前で無理やり笑顔を作って見せた。

「でもさぁ」都の話が耳に入っていないのか、彼は下を向いたまま自分の話を続けた。

「今思えばさ、いつも遊んでいるところなのに、何でだろ? う~ん、何であそこに穴があったんだろう、おかしいよね、ね、おばさん」と不思議顔で都を見た。

 今度はタケハヤトの話が耳に入っていないのか、都は腰に左手を当て、右手をタケハヤトの前に再度突き出し人差し指を立て、その指を小刻みに振りながら、

「チッチッチ、何度も言わせないで、お、ば…」

 タケハヤトはこれもまた都の話の途中で、何かに気付いたように声を上げた。

「あーそうだぁ!」と言うや否や、いきなり振り向きざま、駆け出した。

 指を突き出したまま、話の腰をボッキリと折られた都は、口を開けた瞬間〝ば〟の口の形のままで固まっている。

 駆け出したタケハヤトはというと、一本の道も無い黄緑色の草原の中、丘の横を流れる清流に向かって一目散に駆け下りていった。行く宛が有るのか無いのか、丘から下ると草むらの丈が次第に高くなっていく。まだ子供のタケハヤトの姿は、既にその深い草むらに埋もれ見えなくなってしまった。しかし何かの動物が茂みに隠れながら移動する時のように、タケハヤトの上に繁る草々の頭が右へ左へと揺れ動く様が見え、彼が今どこを分け入っているのかは、丘の上からだと手に取るように見えている。

―ハッ!  固まっていた都が我に帰った。

「タケハヤトく~ん!どこ~!」

 遠くに見える草の穂が揺れている。都はタケハヤトがどこなのか頭を左右に振り、居場所を探していたが、清流沿いの穂の揺れにやっと気が付いた。同時に彼女もその方向に足を向けた。そして丘を下り始めて直ぐにチラッとだけ後ろを振り返ると、ウサギが消える前に示していった、丘の向こう側に巨人のように聳え立ち、その小山のように繁茂する楠の大木に目を向け、小さく呟いた。

―戻って来るからね、待っていてよ

 次に都は巨人の足元にポッカリと口を開け、遠目でもはっきりと見えている大きな穴に目をやった。

―あれだわ、ウサギさんが言っていた穴は

 それは、ウサギの言っていた、都が行きたいところへどこへでも行く事のできるという、その穴であった。都は必ず戻ってきて、その穴から自分のいた元の世界へ帰るんだ、という希望を胸に、再度顔を清流の流れる方向へと戻した。

「ねぇ~!タケハヤト、く~ん!ちょっと、待ってぇ~!」

 もちろん揺れる穂の中から返事は無かった。



 タケハヤトはどこに向かっているのか。丘を下った後、草むらを抜け、清流沿いの短い草が生える土手となっている部分を息も切らさず、そして一度も振り返らずに一目散に駆けている。当たり前とも思えるが、体力無しの都が追い付くどころか、その差はどんどんと広がっている。都自身、心の中では追い付く事は既に諦めているようで、ヨタヨタと走りながら届かぬと分っている声を何度か上げた。

「ねえー、ハヤトく~ん、どこ行くの~!」名前は既に省略形だ。

 遥か後ろをヨタヨタと、走っているのか歩いているのか、そんな都が追い掛けてきている事さえ全く意識の上に無い様子で、タケハヤトはひたすら走っている。そして都の姿が小さな点として、あれが都だよ、と言われなければ分からないくらいに距離が離れた時、突然タケハヤトの足が止まった。それは横を流れる清流が、今までほぼ真っ直ぐに流れていたその流れを、僅かに蛇行させ幅を半分ほどに狭めた場所だ。

 少し前まで都とウサギのいた丘も遥か遠くとなり、あの不思議な屋敷のあった古都の影など、既に微塵も見る事はできない。見える物はといえば、清流沿いの土手と遥か彼方まで続く黄緑色の草原。人工物は何一つ見当らない大自然真只中だ。

 タケハヤトはこの辺りの事情を知っているのか、一度止めた足を何の躊躇も無く清流側へと向け、一気に土手を下り、ほぼ水際まで来ると、人が一人歩けるほどの僅かな平坦な箇所に足を進ませた。そこから更に止まる事なく流れの向かう先に足を向かわせると、この先に何があるのか、いかにもある目的に向かっている、と、そう思わせる軽やかな足の運びで殆ど息も切らさず、石と石の上を飛び跳ねるように駆け続けた。

 この清流の流れが一度右に大きく蛇行し、暫くして今度は左に蛇行した。そしてまた暫く流れが進むと小さな滝が現れた。高さは小さいとはいえ、それでも二mくらいはありそうだ。鮭なら簡単に越せそうだが鮎ではきついくらいか。清流の脇には既に土手は無く、岩場と大袈裟に言うほどではないが、ゴツゴツとした石の壁と名前も分らないような雑草の群れが、交互に重なる小さな崖の様相を呈している。

 その崖の下、清流の脇の僅かな足場が続く水際を、とび職のような軽やかな足取りで、タケハヤトは一度も立ち止まらずに依然駆けていた。

 彼は一体どこを目指しているのだろうか?

既に小さな点としても分からないほどに、遠く離された都は、タケハヤトとは正反対にハーハーゼーゼーと、もしかしてここは標高の高い山の上なのか、空気が薄いのではないのか、と勘違いしそうなくらいに息を大いに切らしながら、しかし彼女も何故だか足を止める気はない様子で、一応まだ土手の上を駆けて?いた。

―ハヤト君、どこに行っちゃったんだろう

 風が無くなっている。しかし太陽は無慈悲にも、体力無しの都の頭を燦燦と照らし続けている。暑さと疲れで殆ど薄れそうな意識の中、都は何とか体の活動を維持させていたが、もう自分がどこに向かって、何を目的に走っているのかも感覚的に分らなくなっていた。今の彼女の朦朧とした目には、永遠と続く草原の黄緑色しか映ってはいない。足が右足左足と錘で動く人形のように、交互に勝手に動いているだけだ。

そこに少し高めの声がした。

「おばさん、こんなところで何しているの?」

 端から見ていると、殆ど静止しているかのような都の足取りを、完全に止める声が都の前方数mくらいから突然聞こえた。

「えっ!何?」「おばさん、何しているの?こんなところで」

 都の黄緑色しか映ってはいなかった目に、ある程度の大きさを持った黒い物体が、小刻みに動きながら入り込んできた。

「おばさん、大丈夫?何か、ひどい顔しているよ」

 もちろんタケハヤトだ。引き返してきたようだ。

「えっ、何?ひどい顔!」

 都はぼんやりとした意識の中、自分の意識の底で敏感に反応する単語が響き渡った。

「ひ、ひどい顔で、わ、悪かったわね!」

 確かに、彼女の顔は火照って真っ赤になった頬と、止めどなくダラダラと汗が顔中を流れまくり、見た目、冷蔵庫の中で数日経った腐り掛けのトマトを、数分外に出した時のようになっていた。それでも多少の怒りのお陰で、都の意識は正常に戻りつつある。目の前にタケハヤトが立っている事を、しっかりと認識できるようになってきた。

「あ、ハヤト君、っはぁ~」都は腰を折り曲げ膝に両手を付いた。

「ハ、ヤ、ト、く、ん、…」下を向いたまま話している。

「いったい、ど、こ、に、行っていた、のぉ、っふぅ~」

 エベレスト登頂を目指す途中の登山家の会話のように、都はゆっくり一つ一つの単語を発した。そして腰を折り曲げ両手を膝にしたままの姿で、顔だけを少し上げると、目の高さちょうどの位置にタケハヤトの顎があった。その顎が動いた。

「ねぇおばさん、この先にさ、この川が曲がったところがあってね」

 タケハヤトは都の言葉などお構いなしに、二人の立つ場所から先の方向に向けて指をさし、身振りを交えて早口で自分の言葉を並べた。

「そこの崖のちょっとしたところにへこんでいる場所があるんだよ。そこにさ、僕の船があるんだよね。その船でさ、僕の村に一緒に行こうよ! ね、おばさん!」

「へっ?」都は腰を折った姿のまま、ポカンと口を開けた。

「あのね、船で川を行けばそんなに遠くないんだよ、ここからはさ」

 と言うや否や、タケハヤトは都の返事も待たずに踵を返すと、また川の先の方角へ向けて走り出して行ってしまった。何とも忙しない子供だ。

 都は腰を曲げた姿で、口をポカンと開けたままで固まっている。福島県の伝統的張りぼてのおみやげに〝赤べこ〟という物があるが、その姿に近い。

 心地良い風が柔らかに都の頬を撫ぜている。草原の香りと清流のせせらぎ。瀟洒なあずまやの風通しの良い寝床にでも、ヘタっと横になっていたい気分にさせられる。が、今の情景はそれとは程遠い。目の前に赤べこが口を開けたまま固まり、少し離れた所を独楽鼠がタッタと駆けていく。

 腰が痛くなってきた。痛みで我に帰った。

「今、…何て言ったの?」今頃反応したようだ。

 既にタケハヤトは目の前にはいない。都からはどんどん遠くなっていく。

―ハヤト君、ったらぁ~、っも~う

 都はゆっくりと腰を伸ばし、右手でトントンと腰の辺りを叩いた。都の言葉とは裏腹に、明らかに〝お・ば・さ・ん〟的行動だ。

「っもう! ハァ、ヤァ、トォ、く~ん! ちょっとぉー、待ってよ~ぉ!」

 都は一息、っふぅ、と息を吐いてから、ゆっくりと足を右、左、と動くのかどうかを確認するように、一歩一歩歩き出した。古い車の一度止まったエンジンを、再度始動する時のように何とも微妙な面持ちで、そして何とか動く事が分るとまた一回息を、っふぅ、と吐き出した。今度は自ら意識を持ってなのか、一言、っよし!と言って、決して早くはないが、その足を右左、右左とテンポ良く、頭の中でリズムを取りながら駆けだした。

―よし!  都は笑顔ではないが、それなりにキリっとした顔となった。

「ハヤトく~ん!ちょっと、待ってよ~!」

 都にとって今は考える時ではないと感じてなのか、ウサギが消えてしまったことは頭の片隅に追いやり、まずはタケハヤトに追いつくことに頭を向けた。

 

 

 流れが少し急だ。時々小さな滝や岩場があったりもする。少し前の清流とは趣が違うようだ。

二人は今、小舟に揺られている。井の頭公園のボートのような小さな舟に二人。しかしボートの両脇にオールは無く、舟のとも尻に左右に横揺れさせながら舟を前に進ませる櫂が一本付いている。この舟自体も決して綺麗な舟ではなく、丸太を荒削りしたような粗雑な木材を組み合わせただけの、これで水漏れはしないの?と訝しく思ってもおかしくはない小舟で、かなり乗船する事に勇気のいる代物だ。もちろん水漏れはしていない。

 その小舟に乗船して、もう二時間くらいは揺れていただろうか。都は少々お尻が痛くなってきたのだろう、時々腰を浮かしてはお尻を撫でている。それにしてもタケハヤトは実に巧みに櫂を操っている。こんな小さな子供の時から実に慣れた手付きで、水の上を殆ど苦も無く自由自在といっても良いくらいに、櫂一本で操船している。

東北の最上川の川下りの舟や、静岡の天竜下りの筏を操る船頭のように、地元の民謡でも歌いながら操船を楽しんだとしても、何ら違和感は無さそうだ。

「ハヤト君、ほんと、舟の扱いが上手なのね」

 都は感心しながら川の流れの前方を見たまま、舟の動きを見ながらそう言った。

「僕の村はね、あと少しなんだ。あの大きな岩の横を通り過ぎて、もう少し先の細い川を下っていくと見えてくるんだよ」

タケハヤトは言いながら遠くに見えるその岩山を指さし、楽しくなるような笑顔で応えているが、この二人の会話はいつも噛み合っていない。

 その後暫くして、この小さな船頭の言う通り二人を乗せた小舟は、この辺りでは特に目立つ岩山の下を通り過ぎた。その岩山は、ドイツのライン川にあるローレライの岩山のようでもあるが、ここでは一つの大きな岩が川岸の上に壁のように聳えている。どちらかと言えば、アメリカのヨセミテ公園にある一枚岩、エルキャピタンのようだ。

都は折れそうなくらいに首を曲げ、岩を見上げている。

 その大岩の下で川は大きく右と左、二手に分かれていた。

タケハヤトはそこを迷いも無く右側へと進むように操船し、その先の支流に舟を進ませ、更に次の川の支流に進んでいくと風景が一変した。川幅は急に狭まり、小舟三艘ほどが通れるほどの狭さとなった。川の両岸も低く平坦となり、舟の上で立ち上がると、岸を越えた向こう側の遠景が望めるようになってきた。

 そして更にもう一本の支流へと進むと辺りも全て平坦となり、川の流れは狭まったせいか少しは速いが、水は澄み深さは無く、都会の中の大きな公園を流れる整備された小川、という感じがしてきた。既に周辺は、あのどこまでも続いていた黄緑色一色の草原とはまったく違い、濃い緑や茶色、黄色などの多色の世界となっている。

「ねぇ、ハヤト君、大分下ってきたけど、ここはどこなの?」

 確かに、乗船する前には見渡す限りの草原が永遠と続き、つい半時ほど前には山や崖が続いていたのに、ここは何とも穏やかな〝隠れ里〟とでも言えば良いのか、どこかに人の気配のする、そういった空気を感じるところだ。

「あっ、来た来たぁ!」タケハヤトがある方向へと指をさした。

 その指さす先を見ると、タケハヤトよりも小さな子供が三人、生まれたばかりの子犬が戯れるように、抜きつ抜かれつ、キャッキャ、キャッキャ、と騒ぎ?ながら、農道なのか平らな土地の一本の田舎道を、二人の乗る小舟目掛けて走って来るのが見える。

 タケハヤトは巧みな手さばきで櫂を操り、ある場所で小舟を右岸の小さな窪みに寄せていった。この辺り、都会の川岸のような整備された護岸であるはずもなく、ましてや舟を寄せる専用の船泊まりなどあるわけがない。岸の土壁が硬く固められただけの簡素で小さな船泊まりに、タケハヤトは実に器用に上手く操船をして小舟を泊めた。

「タケハヤトォー、どこ行ってたのぉー、ねぇねぇー」

「ねぇねぇ、誰だれ、その変なおばちゃん、ねぇ、誰なのぉー」

「タケハヤトー、長のおじいちゃんが呼んでたよー、きなさい、ってぇー」

 タケハヤトの小さな仲間達三人は、三者三様で、役割分担があるかのように順にタケハヤトに声を掛けた。が、タケハヤトと都はそれぞれ違う言葉に反応していた。

「へ、変な、お、おばちゃん、へ、変なって!」

「えっ、お、長がぁ、うぅ、や、やべぇ~!」

 二人は舟から降りると、階段整備もされていない黒土の低い河岸を登った。

纏わり付く三人の子供達を引き連れ歩き出すと、都の目の前に美しい農村風景が広がっていた。山が無いので山里ではないが、日本の昔の〝原風景〟とでもいうのだろうか、農業用機械のまだ無い手作業で作られた畑はもちろん、畑の隅にはスミレやタンポポ、規則性の無い曲線で続く農道、その所々に自然から切り取られたように、花は咲いてはいないが山桜やコブシ、クヌギやかしわの木々が所々に島のように固まり繁茂し、繁る葉でそこここに木陰を作っている。

どこまでも続く畑作景色の中にポツンポツンと、所々に小さな農民の小屋が見え、辻にちょこんと立つ小さな祠、雀やムクドリが、一つの大きなアメーバーのような群れで飛び立ったり、木々の葉陰で集団で囀ったりと、日本画家がそこに座り一日中でも描いていられそうな、おっとりとした空気がここには流れている。

 都もそんな気がしているのか、ぅわぁ~っ、とやや控えめな声を発すると、そのままの格好で突っ立ち、顔だけをゆっくりとパノラマカメラのように旋回させている。そんな都を置いてタケハヤトと子供達は、さっさと村の中心に向けて行ってしまった。

「あれっ!みんな、ちょっとぉー、待ってよ~ぅ!」

 この場所から、集落の入り口と思われる最初の建物までは、見た目一kmは無いだろうが、それでも五百m以上はありそうだ。炎天下のこの距離、体力無しの身体には少々きつい距離だ。

「ハァハァ、ゼーゼー、みんなぁ、どこ、に、ハァハァ、行った、のぉ~」

 都は般若のような顔付きでダラダラと汗を頬に滴らせ、夜には決して会いたくはない形相でヨタヨタと、とても走っているようには見えないが、彼女としては走っているのだろう、一応、前に進んではいる。その間、タケハヤト達は既にどこかの建物の中に入ってしまったのだろうか、その姿はとうに消えてしまった。

 この辺り、周辺はいかにも日本昔話にでも出てきそうな風景の広がるこの集落、タケハヤトが生まれ育った村と考えて良いのだろうが、どこか普通の集落とは雰囲気の違う趣がある。が、都はまだ息が荒く、そんな雰囲気を感ずるどころではないようだ。

 この集落には中心部に小さな広場がある。その広場の中心に何の木なのか、大木が一本立っている。〝仁王立ち〟という表現が適切と思えるほど、その高さはここに来る前に都が見たあの大楠の大木を超えるくらい、見た目三十mほどもあろうか。

 繁茂する枝葉が小さな広場を覆い尽すほどに広がり、この広場全体がこの大木の傘の下と言って良い。それほどの存在感でこの集落を見下ろすその木に対して、住民は敬意を払っているのか、この大木を中心に広場の縁から同心円状に、小さな家々が綺麗に放射状に連なって建ち並んでいる。

 結果この集落全体の形としては、ヨーロッパでよく見られるような街並みの一つ、例えばパリの凱旋門周辺の放射状の街の造りや、インドはニューデリーの大きなロータリーを中心にそこから広がる街並みを連想させる。

 そして都の目の前に連なる人々の家々は、それぞれがほぼ同じ形と色で統一されている。一種異様な雰囲気を醸し出しているが、例えばギリシャの島々の、エーゲ海を見下ろす斜面に建ち並ぶ真っ白な家々、街の形態としては違うがその光景に似ていなくもない。または中国の世界遺産の一つである、麗江の伝統的家屋の甍の続く、あの落ち着いた雰囲気に似ていなくもない。

ここの家々は皆平屋で、角度の殆ど無い茅葺きの屋根、白い土壁に窓は無く建物の入り口は小さく、その入り口の上には小さな庇、各々の家にはその庇の中に、宗教的な意味があるのか、それぞれ細い注連縄のような紐が張られている。この形式が色や材質こそ違え、ほぼ統一されているようでもある。

 個々の家というのは、形や色、大きさ高さ、それぞれ違うのが当たり前という感覚の現代人の都には、この集落に辿り着いた時、ここはテレビの中のどこか遠くの、異国の景色が突然目の前に現れたように感じられた。もちろん都にとってこの状況下では、ここは〝どこか遠くの異国〟といっても、それは間違いとも言えないだろう。

―何だろう、…この街?

 都は今、この集落の中心の広場に続く一本道の端にいる。この集落の街外れ、そこからでもその大木は大きな存在感を持って、背の低い家々の上に頭一つどころでないほどに突き出て見えている。奇麗に並ぶ家々の並びを見ていた都の視界に、嫌でも直ぐに、その飛び抜けて大きな大木が入ってきた。

―えーっ!あれって、一本の木、なの!

 少し歩きながら、まだかなり距離のある位置から、既に見上げている感覚になっている。

―なんて、大っきいのぉ!

―屋久杉?って、感じ~?

 一人そんな事を思いながら、彼女の脇を綺麗に並んでいる家々に全く目もくれず、真直ぐその大木を見ながら、バッキンガム宮殿の衛兵さながらに、手足を真っ直ぐ伸ばし一歩一歩しっかりと歩いている。先程までの体力無しの都とは思えない、実に美しい歩き姿だ。

 ところで一人美しい姿で歩く都のいるこの村、他の人影がまるで見当たらない。何故か、シーン、という音のするような、どこか作られた映画セットのような、そんな雰囲気のする実に静かな村だ。

 例えば神社やお寺の境内は、お正月や夏祭り等々、ある時期以外は静かな物だ。しかしそれでも、夏にはジージーというセミの声や、秋にはヒューヒュー、カサコソという木枯らしと共に枯葉の転がる音、春にはホーホケキョやチチチチなどの、暖かさを待ちわびた、何かしら生き物の息吹を感じる音を聞く事ができる。何も無いと思われる冬にでさえ、誰かが踏み締める、ギュッギュッ、という雪の感触の音や、ヒュゥ~ヒュゥ~、という寒さの演出音、等々、特別に静かな社寺の境内でさえ、何がしかの〝音〟は存在しているはずである。しかしこの集落にはそのような音が何もしない。都はそんな違いを気付いていない様子だが、不思議なくらいに音が無い。人の気配どころか生き物の存在が感じられない集落だ。

 その無音の世界を、都はまるで磁石で引き寄せられるように、真っ直ぐに大木に向かって進んでいる。周りの家々の事も意識の外にあるのかまったく脇目もふれず、都の視線は一直線にその大木に向けられているようだ。

 そして今、その大木の目の前で立ち止まった。そして見上げている。

「大きい木ねぇ~」見上げたまま、一人呟いた。

 この大木から何かが放出されているのか。微かな臭いとも言えぬ、ただの雰囲気ではない何かが感じられている。都はそれを意識の無いところで感じ取ったのか、無意識で身体が反応したのか、誰に何も言われず、ただ引き寄せられるように大木の前まで来た。

 無言で瞬きもせず、そして木を見詰めたまま固まってしまった。



 見上げると真っ白い雲の固まりが、真っ青な海を渡る小船のように青空を横切って行くのが見える。大木を仰ぎ見たまま動かない都の目には、この美しい空の景色が映っているのだろうか。ピクッとも動かず何かに取り憑かれたように、ただ立っている。

 ところで、姿を消したタケハヤトと三人の子供達はどうしたのだろうか。音の無い集落に、思い出したように可愛い声がする。

「タケハヤトー! あっち、あっち!」

「ほんとだ、あっちにいるよ!」

「いたいた!」

 姿を消していたタケハヤトと、三匹の子犬ならぬ子供達三人が、音の無い空間に戯れるように再び現われた。そして集落の中心に聳え立つ大木の前で、銅像のように突っ立ち、見上げたままの姿の都を見付けると、タケハヤトを真ん中にして三人が回転しながら、キャッキャキャッキャと駆け寄ってきた。

「ねぇねぇ、変なおばちゃん、何してんの?」先ず一人目が言う。

「ねぇおばちゃん、口開いたままだよ」二人目。

「ねぇねぇ、上に何かいるの?何見てんの?」そして三人目。

 この三人の子供達、口を開けると必ず三連発で何かを言う。

「えっ」都が我に帰った。「あっ、子供達」

 タケハヤトは子供達の後ろ、都からは幾分距離を置いて立っている。

「ねぇおばさん、長がねぇ、今までの事を話したら、おばさんに会いたいって言うんだ、だから一緒に来てよ、ねぇ」

 さすがにまだ幼いと思っていたタケハヤトも、この三人の子供達の中にいると大人びて見えるが、顔が子供達とは違い楽しそうではない。

「あ、ハヤト君、えっ、おさ?長って?」「ここの長だよ」

 ぶっきら棒に短く言うと、タケハヤトは大した説明も無しにクルッと向きを変え、さっさと歩き出してしまった。三人の子供達も真似をするように、それぞれクルッと向きを変ると、キャッキャキャッキャとしながら、タケハヤトの後を追うように付いていった。都は暫し呆然として彼らの後姿を見ていたが、フッと我に帰ると直ぐに後を追った。

「ねぇ、ちょっと待ってよ~」

 歩きながら都は、何も言わずスタスタ歩き続けるタケハヤトの背中に向かい、一つの疑問を投げ掛けた。

「ねぇ、ハヤト君、あの大きな木なんだけどね」

「御柱さんの事?」タケハヤトは真っ直ぐ前を見たまま返事をした。

「へー、御柱さん、って呼んでるんだ、あの木の事」

 都は歩きながらチラっと振り返り、横目でその大木をもう一度見た。

「あの木ね、何で幹の途中に柱のような部分が、…あっ!」

 都は自分で言いながら何かを気付いたのか、話しを止めた。

「そっか、名前が御柱、って事は、本当に柱に生えた木なのね、あの木」

 彼女は独り言のように呟いていると、

「おばさん、何? 御柱さんが、どうかしたの?」

 タケハヤトは都の前を歩きながら背中で話した。

「ん?あのね、あの大きな木の幹の途中が、人が作ったような柱になっているのが見えたから、何でかな?って思ったのよ」「何、それ?」

 タケハヤトは、都の言っている意味がよく分からない様子だ、頭を傾げている。

「えっ、あの木の幹よ、柱の部分があるでしょ、でも名前が〝御柱〟って言うんだったら、本当に柱に生え出した木なのかなって、そう思ったのよ、ねぇ、そうでしょ」

「…、…」タケハヤト、彼女の言っている意味が余計に分からなくなったみたいだ。

「ねぇ、そぅなんでしょ?」「そぅなんでしょ、って言われてもなぁ」

「まぁ良いわ、でもこの村の中心にあって、さん付けで呼ばれているって事は、それだけ大事にされている木なんだよね、あの木」

「…、…」タケハヤトは何も言わず、振り返らず、ただ黙々と歩き続けた。

 二人はそのまま何も言わずにひたすら歩き続け、途中で子供達は家に帰ったのか、いつの間にかいなくなっていた。二人の歩くこの通りの両脇には公園も公共施設も無く、只々同じ形状の家が並んでいるばかりだ。

 この集落の都が入ってきた場所と反対側の集落の外れまで、真ん中に大木を挟んで一本の大通りと言うべき通りが集落を貫いている。都がこの街外れにきた時、歩いて大木の近くまで通ってきたある程度の幅のあるこの道だ。

そのメインロードと思われる道の先、集落の逆側の端、集落から少し外れたところまで二人が来ると、タケハヤトが漸く口を開いた。二人はここに来るまで、木の話以降は黙ったまま歩き続けてきた。

「あれが長の屋敷だよ、後は一人で行ってよね」遠目で見えている一軒の屋敷を指さした。

 タケハヤトが言いながら振り返ると、直ぐ後ろにいると思っていた都が、かなり離れたところをヨタヨタと肩を落し気味でゆっくりと歩いていた。

「ハァハァ、ゼーゼー、何?長が、何だってぇ、ハァハァ」

 体力無しの本領発揮というところか、都は立ち止まり既に膝に手をしている。

「チェッ、っもう、おばさん!こんな距離で疲れちゃったの!」

「何も、疲れてなんか、ハァハァ、いないよ、ゼーゼー」

 都、何とか膝から手を離して身体を起したが、再度言葉とは裏腹に額に汗をダラダラさせて、般若顔でそう言っている。全く説得力が無い。

「あっそう、じゃあこの後、一人で長の家に行ってよね、良いかい!」

 タケハヤトは冴えない顔で言いながら、彼等から少し離れたところに見えている、その長の家と思われる屋敷をもう一度指さし、都の方へと歩き戻ってきた。

「私、一人で行くの? ハァハァ」都、自分の顔を指さした。

「うん、僕はさっきさ、も~ぅしこたま怒られたからね、もう行きたくないよ。おばさん一人で行ってよね!」と、言いながら、

 タケハヤトは既に都の横を通り過ぎ足も小走りとなって、どこにあるのか自分の家に向かってなのか、さっさと走り去ってしまった。後に残された都は未だ息が整わないまま、老婆が道端で、よっこらしょ、と言って腰を伸ばしながら休んでいるように、腰に手をして枯れ木の如くに立ったままでいた。何を考えていたのか、何も考えていなかったのか、都は一分ほどその体勢のままでいたが、一息、っふぅ~、と長めに息を吐くと徐に足を動かし出した。

―さてっと、長って、どんな人かなぁ

―ハヤト君かなり怒られたみたいだね、何か悪い事したのかな

―でもこの村、何か変っているよね

 一人ブツブツ言いながら、それでもゆっくりと、彼女の足で五分ほど歩き続けた。そしてやっと、その〝長〟なる人物の屋敷前に都は辿り着いた。着いたと同時に彼女の目の前に建つ屋敷を見渡している。そして、また独り言。

―この家、何だか大きな神社みたいね

 都の言う通りこの〝長〟の屋敷、この集落の他の一般人と思われる人々の家々と色はほぼ同じなのだが、その大きさは倍ほどもある。いや三倍くらいはあると思われるほど大きい。先ほど、都がタケハヤトと立ち止まっていた場所から見ている時には、それほど大きさが感じられなかった屋敷だが、近付いて見ると意外に大きい事に驚かされる。

 近付いてみても、屋敷の前面はやはりさほど大きくは感じられないのだが、しかしその奥行きと、この屋敷の建っている場所が後ろに向って傾斜地にあるためなのか、高さが感じられない。ゆえに錯覚にも似た視覚現象のために、屋敷間近に来て初めてその大きさに驚く事となる。

「あらぁ~、実は大きいのね、このお屋敷」

 都は屋敷の大きさに驚かされた後、辺りをぐるりと見渡した。そしてその感想としては、

―何か変よね、この家?   都は単純にそう感じた。

 どうもこの集落は人の住んでいるところと、そうでないところの境界線がはっきりしているようだ。集落の家々からこの屋敷までにはこの一本の道以外何も無い。そしてこの屋敷の周りにも何も無い。何も無い、というのは、建物やその他人工物が何も無いという事だ。小さな神社のような人々の家々が、御柱の木を中心に密集状態で一所に固まり、この集落の人の住む地域とそうで無い地域が通常考えられる〝街〟と比べ、はっきりと分かれているようだ。

 イメージとしては欧州の中世城郭都市のように、円を描いて一つの村がポツンポツンとあるのに似ている。しかしこの集落がそれと違うのは、城壁が無い。つまり、城郭都市の意味するように、守りを固めるという必要性が無いからだろう。

 この集落の周りには、都がここに来る前に永遠と続いていたような黄緑色の草原は無く、畑や時々野原、時々木々の塊、小さな池や沼、そこは一見田舎に見られる長閑な風景が広がっているとも思えるが、どこか違っている。都は何がどう違うのか理由が分っているわけではない。しかしどこか違う、という事は肌で感じられたのだろう、屋敷の前で首を捻り何かを呟いている。

―何だろうこの違和感、何か、どこか変よね

 都が一人屋敷の前で呟いていると、その屋敷の横から白装束の小柄な女性が現われた。その女性は、簡素だが純白の絹地で光沢のある上着に、襟から見える深紅の内着が鮮やかなコントラストを成した出で立ちに、真っ黒で長い髪を背中に束ね、いわゆる〝巫女〟の装いで顔は下に伏し気味にして静々と、滑るように歩いて都に近付いてきた。都も彼女に気付いてからは、思わずその何とも言いようの無い不思議な雰囲気に見入ってしまい、その女性が間近に来るまで言葉を失っていた。

「こちらへ、どうぞ」その女性は挨拶も無しに唐突に言った。

 しかし何とも良い響きだ。背丈は都より頭一つくらい低く優しそうな丸顔、そして俯き加減のままこの女性は何の説明もせず、一度軽くお辞儀をしてから片手を屋敷の方へと向け、透き通るような声で都を屋敷の方へと促した。

「えっ、私?良いんですか?」「はい、主が、お待ちです」

 江戸時代のからくり人形のように、身体を殆ど動かさずにその場でクルッと向きを変えると、その女性はまた静々とやってきた方向へと戻っていった。都は半信半疑でその動きに従い、できもしないのに静々とした動きを真似して、ぎこちなくその女性の後を追っていった。

 屋敷の中へは正面の入り口からではなかった。その女性は大きな千鳥破風に注連縄の張られた屋敷の正面を、チラリとも見ずに通り過ぎると、少し傾斜のある建物の横の庭の方へと足を進めた。

この屋敷の周囲は畑でも荒地でもなく、草原でもない。一般的な神社のようにやや広い境内という感じで、ある程度の広がりの空間に玉砂利が敷き詰められている。その一面の玉砂利の上に、足を載せるための大きな平たい飛び石が蓮の葉のようにポンポンと連なり、その上を〝巫女〟のような女性は静々と歩を進めていった。そして進んでいったその先に、屋敷の裏というには意外に明るい空間がパッと開けた。

 都の目に美しい日本庭園が映し出された。一瞬、彼女の脳裏に少し前の出都での囚われた記憶が蘇り、嫌な気分が込み上がりそうになったが直ぐに頭を振り、その記憶を振り払い目の前の現実に意識を集中させた。

するとその空間の中央に、そんなに大きくはない、やや青み掛かった池があるのが見えた。池の中央には更に二周りほど小さい小島が浮かんでいる。まるでドーナツのように均整な形で二重の円を描き、都の目にはそれがいかにも人工的な臭いのする景色に思えた。

―出都宮のようだわ   大きな屋敷、日本庭園、そして静けさ、どれも似ている。

 その池の中央に向けて雨後の虹のように滑らかな半円を描いた、木造で鮮やかな朱色の太鼓橋が一本架かっている。それはその先にある小さな庵のためなのだと、都は景色を目で順に追っていき分かった。その庵に向かって女性は静々と、脇目も振れず太鼓橋を渡っている。

―綺麗だわねぇ

 庭の緑の背景に青み掛かった池、それ等を繋げる朱色の太鼓橋、その上を真っ白な装束の女性が静々と歩いて、と、都の頭の中では一遍の詩を朗読している感覚で、やや暫くその流れで景色を眺めていると、景色の一部がこっちを見ているのに気付いた。

―あ、手招きしている

 都は一幅の日本画を見ている気分でいたところ、その巫女のような女性が、早くこちらへ、と都を誘っていた。都も頭より先に無意識に手が反応して、手の平をヒラヒラさせていた。都は絵画の気分はそこに置き、今度は飛び石の上を静々どころか、ホップステップジャンプという感じで、いかにも〝はしたなく〟飛んでいった。その間女性は口端で、フフ、とも笑わず、姿勢正しく両手を身体の前に組み、頭をやや垂れ気味でピクリとも動かずに太鼓橋の袂で待っていた。

「すいません、遅れちゃって、余りにも貴方の歩いている景色が綺麗だったものですから、つい見とれてしまって、ハハ」

 都は照れ隠しで作り笑いを精一杯したが、女性は何も言わず伏した顔はそのままで、少しだけニコっと口元に笑みを浮かべた。そして、庵の方に身体を向けると片手を伸ばし、

「ここで主がお待ちです、私はここで」

 と言って軽くお辞儀をすると、ポカンと口を開けて庵の方を見ている都の横を、音も無く横切りまた太鼓橋を渡り静々と歩いていった。

「ここで、って、そう言われてもねぇ」

 そう呟いた後、それでも都は少しの躊躇した表情はしていても、ゆっくりと歩を目の前の小さな庵の入り口へと向かわせた。

 小さい庵だ。屋根の庇の高さは、都が両手を上に精一杯向けて伸ばしたより少しだけ高いくらいか。指先が届きそうだ。そして外観は見た目古びた作りだが、土壁や茅葺と思われる屋根は意外に新しく感じられ、どこにもカビやコケなど生えていない。つい先日できたばかりだよ、と言われても何ら違和感を覚えぬ作りだ。

都は腰を屈めないと入る事ができないような、そんな小さな入り口に手を掛けると、開ける前に一度深呼吸をした。

「っふぅ~」胸に手を当て、呼吸を整えている。

―どんな人なんだろう?

―長、って言うんだから、強そうな人なのかな

―ハヤト君、しこたま怒られたって言うしね

 ゆっくりと、その木作りの軽い戸を横に滑らした。

「失礼します」腰を屈めて中に入った。

 中に入ると、思っていたより広いな、と都は思った。竹で編んだ天井はかなり低く、壁は外から見るのと同じ土壁、そして十畳間ほどの広さの板張りの床に、一枚毛皮のような敷物が敷いてある。顔を動かさずに目だけで見回すと、部屋の奥中央に置物のような、何とも小さい、ある意味可愛いとも言えるような老人が一人、ちょこんと座っていた。

「どうも」都、反射的にペコっと頭を下げた。

―えっ、この人が長なの?

 その老人は床の上で毛皮を敷いてきちっと正座をし、皺皺の顔にまだ皺を増やすつもりなのか、満面の笑みを湛え都の方を向いている。そしてか細い腕を漸くという感じで上げると、都の前に敷いてある毛皮のような敷物を指さした。

「お座りください」天から降ってきたような声だ。

「はい」言われるままに都は一歩二歩三歩とゆっくりと移動し、敷物の上に正座をした。

―えっ、何だろ?

 都は座った瞬間、この老人を目の前にして何かを感じた。

この老人、長めの白髪を背中で束ね、先程の巫女のような女性と同じような、光沢のある絹地の綺麗な装束を纏い、顔はいかにも仙人然とした、年は百歳と言われても百五十歳と言われても、そう信じるしかない、という雰囲気で、小柄な割にどこからか圧力を感じる気配を全身から漂わせている。

 そんな独特の雰囲気を感じ取ったのか、都の目がいつもとは違っている。

「あのぉ」と口を開いたと同時に老人も口を開いた。

「貴方に、この村の子供がお世話になったそうじゃのぅ」声はかなり小さい。

「いえ、お世話だ何て」

「いやいや、あの子はとても良い子なのじゃが、ちょいとばかり新し物好きでしてな、いつもあちこち、色んな物を探しては楽しんでおるのじゃよ、ホッホッホッ」

 声は天から聞こえるように、何故か大きなホールで聞くような奥行きのあるエコーの掛かったような、しかし注意して聞いていないと詳細が聞き取れないくらいの、何十mか離れた位置から少し大きめの声を何とか聞いている、というような声だ。

「そうなんですか、ハハ」

 老人は笑顔を絶やさずに更に口を開いた。

「貴方はぁ、どこからおいでになったのかね?」「私ですか?」

 私ですか、と聞き直すのもおかしな事で、この老人の前には都しかいない。

「あのぅ、…そうなんです、そぅ」

 都はこの老人にどこから来たのか質問をされ、ハッと気が付いた。自分は何故この不思議な世界に迷い込んでしまったのか、自分でも分らない。そして、親友の美奈美がどこかへ行ってしまった事、その後の変な屋敷で囚われた事、タケハヤトと一緒にここまで来た事、それらが一遍に思い出され、頭の中が幾分混乱してきた。

 一呼吸置き、都は頭の中を整理しようとした。その都の思案顔を見詰めながら、老人は終止笑顔のまま黙って置物のように座り、その思案顔をまるで楽しむかのように、ミイラのような皺皺の笑顔で待っている。

「そうなんです、私よく分からないんです、ここはどこなんですか?私、何故ここにいるのか、何でこの世界に、…あの神社の中で何かが起きたんです。それから友達がいなくなっちゃって、そしてウサギさんに付いてきて、いつの間にかここにいるんです」

 都は一気にそう言うと、膝の上で両拳を硬く握り、下を向き黙り込んだ。

「ふ~む、色々、おありなようですのぅ」

 老人の笑みがやや小さくなり、都をジッと見ている。少しの間の後、

「貴方はぁ、…そうじゃのう、この世界に通じているお人かもしれないですのぅ」

「えっ?」都は、突然の老人の言った言葉の意味が分らなかった。

「貴方はぁ、そうじゃのぅ、わしにもよくは分らないのじゃがぁ、わしらの世界と同じ何かを持っているように思えるのじゃよ、ふむふむ」

 老人はそう言いながら、更に都をジッと見詰めている。都は正座の姿勢のまま、老人の見詰める目に自然と目を合わせた。すると何故だか身体がフッと軽くなった気がした。意識がゆっくりと遠のいていくのが、自分でも意識として感じ取れている。それでも目を逸らす事はなかった。そして意識がそのまま、スーっと何も無い空間に出たのが分った。分ると同時にその空間の中で老人のような白い衣服を纏い、目を瞑り横になり漂っている自分を見付けた。

―ここは、どこ?

―ん?あれって、わ、私?  少し離れたところに自分らしき人が横たわっている。

 不思議な気がしたが、考える間もなく、自然と足がその漂う自分らしき人に向かって歩いていた。そして近付くと、それは確かに自分だった。

―私の寝顔って、こんな感じなの?

 都は横から見る自分の姿に対し、非常に奇妙な感覚でいたが、何気なく摩るように腕に触れた時、スーっとその横たわる自分と一体となっていった。そして間もなく、その空間の中で目を覚まし起きると、とても良い気分で浮いている感じがしている。

―何だろう、ここ、すごく気持ちが良いわね

 周りには何も無い。何も無いというのは、この場合は本当に何も無い。空間だけが広がる説明のできない空間だ。色で言うなら全てが薄いグレーとでも言うのだろうか、縦も横も無く、どこからどこまでという距離感が全くなかった。しかし都自身この時、それがおかしいとは感じなかった。この空間にいる自分が何故か当たり前のように感じている。違和感ではなく、心地が良かった。

 そしてふと気が付くと向こうに一本の木が見えている。向こうに見えてはいるのだが、何も無い空間故に距離感がよく分からない。その木まで近いのか遠いのか、その木が大きいのか小さいのか。空間の色が単色のため、その木が浮いているようにも見えている。

―何故、木があるの?

 いつの間にか無意識の内に、都はその木に吸い寄せられるように足を向けていた。

 そこ迄、どれくらいの時間が掛かったのかは分らない。五分なのか三十分なのか、もしかしたら一時間以上を費やしたのかもしれない。この時、都に距離や時間的感覚はまるでなかった。その木を見てはいるのだが、近付いて行っている感覚がなかった。かといって止まっているわけでもなかった。

―あっ!  気が付くと、いつの間にか木を見上げている自分がいた。

―この木は?  胸の辺りが次第に暖かくなってくるのが分る。

―何だろう、この暖かさ

 何故だか分らない。この木の前で都は、母親の懐でスヤスヤと寝息を立てている、まだ幼い頃の自分を見ている気がした。ホッと安心するような、全てを任せて良いと思える気がしていた。

―何なの、…この、感覚?

―あ、ぁぁ、気持ちが良いわぁ   ゆっくりと自然に目が閉じていく

―暖かいわぁ

 都はこの木に抱かれたい、そう思った。何故だかは分らない。この時はただそう思った。この暖かい気持ちの中に身を任せていたい、ただそう思った。

 そして目を閉じたまま、腕をその木の幹に向かって伸ばしてみた。私を抱き上げて、とでも言うように。しかし伸ばした手が届かない。何故?と思いながらも更に手を伸ばしたが、届かない。更に、更に、と伸ばしながら次第にまた意識が遠のいていく。

―何て、気持ちが良いのぉ、ぉ、ぉ、…

―何だろうこの気分、ぁ、ぁ、…

―私は今、どこにいるのぉ、ぉ、ぉ、…

 この白なのかグレーなのか分からない世界で、都の意識がスーっとフェイドアウトしていった。



―あっ!  都の目の前に皺皺の老人が、ポツンと置物のように座っている。

「何か、見えましたかの?」置物が話し掛けた。

「え、…う~ん」一瞬目を合わした後、俯いた。

 都は尋ねられたが、頭の中で応えに窮している。何故か分らないが余り覚えていない。すごく気持ちが良かった事だけは覚えているが、その他の事がまるで浮かんでこないのだ。

―何でだろう? 私、どこかにいたような

―今のは、…夢だったのかな?

 老人は笑みを絶やさず、いくらでも時間はあるとばかりに、ただ黙って都の心を見透かすように、只々ジッと見詰めて続けている。

「あの~」「何か見えましたかの?」同じ問い掛けだ。

「それが、何かとても気持ちの良いところにいた事は覚えているんですけど、何故かその他の事が、まるで、…あっ!」

 言いながら何かを思い出したのか、都はクイッと顔を上げると老人の優しい視線に、今度は自ら視線を合わせた。

「一つだけ、木が」言いながら人差し指を立てた。

「ほぅ、木が」「そうなんです、一本、大きな木がありました」

 都は一つだけでも思い出した事にえらく満足感を覚え、先程よりいくらか強い視線で老人を見詰め返した。しかし、詳細を語ろうとすると、殆ど何も覚えていない事に気が付き、再度視線に強さが無くなった。

「でも、何だろう、ただ大きな木があって、気持ちが良かった気がするんです」

「ほぅ、大きな木ですか」

 都は目を閉じ、両手を重ね合わせて胸に当て、自分の胸が木の前で立っていた時と同じように、少しだけ暖かくなってくるのを感じていた。

「そう、暖かかったんです、すごく暖かい気持ちになれたんです」

「貴方はぁ、その木に、何を見られましたかのぅ?」

 老人の顔から笑みが消え、皺皺の瞼に殆ど覆われそうな小さな目で、ジッと都を見詰めながらか細い声でそう尋ねた。

 この時二人は確かに小さな庵の中にいた。しかし都は、その木を頭の中に思い浮かべた時、再度あの何も無い空間にいる気分になった。ただ今度は置物のような老人が目の前にいて、実際は庵の中にいる事も同時に認識はしていた。

「木は、そう、あの木は自然の木ではないのよね、きっと」

「ほぅ、何故、そう思われまする?」

「だってあの木、柱の上に木があるのよ、おかしいじゃない、だから御柱さんって言われているんでしょ、あっ、そうそう、それはこの村の広場にある木の事だわ、あっ、そっか、あの木に何故か親しみを感じると思ったら、あの御柱さんと同じような木だったからなのかな」

 目を閉じたまま顔を少し上げ、今目の前でそれを目にしているように話しをしている。

「ほぅ、貴方はあの木〝御柱さん〟に、本当の柱が見えておられるのかね?」

「えぇ見えますよ、…えっ、何故です?だって、そうじゃないですか?」

 都自身はその事が当たり前と思いながら話していたのに、老人が違う反応を示したので頭の中で幾分困惑した。そして目を開けた。

「そうそう、あの御柱さんと同じ木が、さっきのあの空間にあったのよ、あの空間って、一体、何だったのかしら、夢なの?」

 言いながら少し戸惑うような眼差しで、老人の小さな目を探し視線を合わせた。都の問に対して老人は返事を返すわけでもなしに、僅かに口元に笑みをこぼした。

「ふむ、わしには貴方の頭の中で起きた事は分りませんが、この村の、あの木に関する言い伝えを御教えする事はできますがの」

「言い伝え?」「そう、言い伝えじゃ」老人は柔らかい笑みで、コクっと頷いた。

「あの木にはの、昔から言い伝えがありましての、それはわしら一族の存在と、そしてこの村の始まりとも関係しておりましてなぁ」

 老人は一呼吸置いてから徐に、よっこらしょ、と小さく呟き立ち上がった。立ち上がったが、見た目、背の高さはさほど変らない。

「貴方は変に思うのかも知れんが、わしらにはあの木に柱は見えておらんのですぞ」

 この老人、座っている時は陶器の置物のように見えていたが、立ち上がると木彫りの人形のようにも見える。

「えっ!そうなの、あの柱が、見えていないんですか?誰も?どうして?」

「そう、貴方の他には誰も、あの木に柱は見えておらんのですぞ」

 老人は都から目を離すと、何も無いと思われたこの狭い部屋の、唯一小さな丸いはめ込み窓のある壁の方に足を向けた。

「そして古より伝わる、この村の言い伝えに由れば」

 窓枠のある壁の右側、窓と部屋の角との中間辺りの壁に、老人はミイラのような手を伸ばし、ペタっと手の平を壁に当てた。すると壁の一部がガタと外れ窪みができた。

「へー、そんな隠し扉? 扉じゃないか、隠し壁になっているんですね」

「この村は、遠い、遠い昔…」老人は都の話しに合わせず、昔話しを語り始めた。

「まだ、この地の世界に国という枠組みが無かった頃の話なのじゃが」

 老人は都に背を向けたまま、壁に付いた手を動かしつつ話しを進めた。

「天津国で、ある偉い神々、そう、天津神が何人かで話し合いをしておったそうじゃ。その話し合いというのは、この地の世界にもそろそろ一つ国を作ろうか、という事での、その頃の地の世界では国津神はいたにはいたのじゃが、国造りにまるで関心が無く、神々と人間どもがバラバラに雑居状態で蠢いていたそうじゃ。それを何とか纏め、秩序をこの地の世界にも作ろうかと、そういう事だったそうじゃ」

 老人は話しながら壁の窪みの奥まで手を入れ、何かを取り出した。一本の巻物のようだ。取り出すと、それを片手にまたゆっくりと元の位置に戻り腰を下ろすと、前と同じように陶器の置物のように座った。老人は座り直すと、にこやかなクシャクシャの皺だらけの顔をして、垂れ下がった瞼の下から、再度都の目に柔らかい視線を合わせてきた。

「では地の世界をどうやって纏めるのか。そこで、一人の天津神が近くの天の建物の柱を一本グイッと引き抜くと、天津国からヒョイと地の世界目掛けて投げおったそうじゃ」

 老人の話しを静かに聴いていた都は、首を傾げ何かを思い出そうとしている。

「あの~」首をかしげながら、老人の方ではない方向を見ている。

「そうすると、その柱、ヒュゥ~っと大きな音を立てながら、地の世界の空を暫くの間飛び続け、あるところへ、ズドーン、というけたたましい地鳴り音を伴い突き刺さったそうなんじゃ。それはそれは大きな音を立てたそうじゃ」

 この老人の話、いかにも自分が見てきたように、この時ばかりは皺くちゃの顔が実はそんなに動くのか、というくらいに色々な表情を作り、高座に上がる噺家のようでもある。

「その後じゃ、突き刺さった柱はグググッと、自ら垂直に立ち直ると光り始めたそうなんじゃ。そして辺りに何かは分からないが仄かな香りを放つと光は収まり、するとその柱の周りに次々と美しい花々や瑞々しい草木が生え出し、辺り一面どこまで続くのか分らないほどの花畑が、どんどん広がっていったそうなんじゃよ」

 都は老人の話しを聞いているのかいないのか、首を傾げたままニコリともせず、ただ老人とは違う方を見ながら、う~ん、と小さな唸り声を出している。老人は手振り身振りこそ一切無いが、その表情だけで充分なくらいに饒舌に話しを続けた。

「その広がりがどこまで続くのかは、誰にも分らないほど広がっていき、いつしか不毛の地の世界が、色取り取りの美しい世界に変ってしまったそうなんじゃ」

「あの~」唸っていた都が何かを思い出したように、口を開いた。

「そのお話しは、日本の神話の世界のお話なんですか?」

「それでの、その、ん?何じゃ? 何の神話と言いなすったかの?」

「日本、です。ニホンの神話」

 都は老人に向かって首を伸ばし、口元がしっかりと老人に見えるように、大きくゆっくりと動かしながら言った。

「ニ、ホ、ン、ですかの?」「はい、日本です」

「ニホン、とは、貴方のお国の事ですかな?いやいや、この話はこの国の話で、貴方のお国の話ではないのですぞ」老人の応えを聞いて、都の顔が少し曇った。

「そうですか、今、思い出したんですけど、どこか日本の神話に少し似ているな、って思ったものですから」

―そうなんだ、やっぱりここは日本じゃないんだ   心の中で呟いた。

 都としては、自分が彷徨っているのか、世界が変ったのか、出雲巡りをするはずだったのがいつの間にか知らぬ世界で、美奈美はどこかへ消えてしまうし、どこかにその答えを見付け出したかったのだ。故に問い掛けたが都は肩を少し落とした。

 しかし、都が思うように都が今いるその世界が〝日本〟ではないのか、というと、そうとも限らない。何故なら一つの国でも国の名前が変わる事は、歴史的にはよく起き得る事であり、ただ、この場合は時代が違うと言うべきであり、要するに今、都が彷徨っているこの時に〝日本〟という国名の概念がまだ無かった、という事だ。無論、老人はそんな時空を超えた話など頭の隅にも考えておらず、ここは〝日本〟という都のいた国ではない、と単純に言っただけで、これはこれで間違いというわけでもあるまい。縄文人に、あなたは日本人か?と聞けば、同じ答えが返ってくるはずだ。

 老人は瞼の下からチラッと都の表情を確かめると、再度話しを始めた。

「地の世界が美しく変り、暫くの間、それが何十年なのか何百年かは知れずじゃが、平穏な時が過ぎていったのじゃが、その内、蠢いていた人間どもや秩序を作るつもりもなかった国津神達が、揃って何かをしようと思い出したのか、各地で集まり出したそうな」

 都は聴いているのかいないのか、唸ってはいないがまだ俯いている。

「そしてその集まり出した烏合の衆の中から、その美しく変った地の世界を、我が物にしようと思い出した国津神や怪かし等が現われ、各地で勢力争いが起き始めたのじゃ。その争いの合い間合い間で、人間共は怪かしに飼われた怪物に食われたり、使用人となったりしながら細々と生きているという有様で、それ以降地の世界は、天津神が投げ入れた柱の落ちた以前より、ひどい状況になったのかも知れんのぅ」

〝怪物に食われた〟という件で、都は先に起きた自分の境遇を思い出したのか、顔を上げ目をパチッと開け、老人の話しにここで耳を傾けた。

「そんな地の世界となっても天津神は、柱を投げ入れたその後は何をするわけでもなしに、この状況はそのままにして、只々、時だけが過ぎてきたのじゃ」

「でも、この村はすごく静かですよねぇ、怪物もいないみたいだし」

「そうじゃ、ここは、他の村とは別なのじゃ」

「えっ、そうなんですか?別なんですか?どこか他の村と違うところがあるんですか?」

 都の目が更に開いて、瞳の中にキラキラとした物が見える。

「そう、この村にはの、結界が張られておるのじゃ」

「結界?」「そう、結界じゃ」都の頭の中で何かが巡っている。

「すいません結界って、よく悪魔や怨霊などからその場を守るために、何か呪文のような文言を唱えて張る、バリアーみたいなそんな感じの事、ですよね?」

 老人は都の言う意味がよく分からなかったのか、暫し小さな目を瞬いた。

「ば、ばり、あ、…まぁ、貴方の国での事は、わしはよく知りませんが、とにかくこの村には、ある種の守りがあるのじゃよ」

 都は自分の思った事がそうなのだと自分勝手に思い込み、これが映画やドラマの中で見て来た〝結界〟という物の本物なんだ、と、言い知れぬ嬉しさを感じているようで、老人の反応を無視して口元を僅かにニヤニヤさせている。そして、また訊いた。

「その結界、どこに行けば見れますか?」これは愚問でしかない。

「ど、どこに、じゃと」老人もこの質問には閉口した。

 確かに、結界とはある意味一つの魔術であるから、見えるわけがない。都にとってはそこに何か線が引かれている、目に見える違いがある物と勘違いをしているのだろうか。

「け、結界は…」老人は戸惑いながらも説明を続けた。

「実はの、先に話しをしていた昔からの言い伝えの続きなのじゃが、その天津神が天津国より投げ入れた柱というのが、この村にあるあの中心に聳えている〝御柱さん〟のことなのじゃよ、分りますかの?」

「あの、大きな木が、へーそうなんだ」

 話の流れで言うなら驚く事はないのだが、この国の神話の話と現実に見た物が繋がった事に、都はそれなりに驚きを感じた。

「あの木が天津神が投げ入れた、柱、あ、だから〝御柱さん〟、そっか、そのままなのね。じゃあ、私があの木に見た柱のような幹って」

「そうなのじゃよ、それは本当に、柱、なのじゃよ。但し、他の人には見えてはおらんがのぅ」老人はここが話の核心だという意味なのか、力強い視線で都を見詰めた。

「その柱が突き刺さった時にこの辺りに放ったのが、香りと共に結界の力なのじゃよ。その結界の力がある程度の範囲で広がり、そしてまだ結界の力が弱い時にあの木の周りにいつの間にか人間が集まり、できたのがこの村なのじゃよ。故にこの村は他の村とは別なのじゃ、お分りかの」小さい目が都を真っ直ぐに見ている。

「へ~そぅなんだぁ、そういう事なのね、うん、でもね」

 老人の力を込めた視線を受け止めていた都は、少々額に皺を寄せ疑問の表情をした。

「〝御柱さん〟って言われているのに、先ほどお爺さんは誰も柱が見えないって、そう言われていましたよね、何故なんですか? 最初は柱だったのだからその後に木が生え出したにせよ、まだ幹が柱のままの箇所があっても良さそうじゃない。私だけが見えているっていうのは おかしいと思わないですか?」

 老人は目の力を少し緩め、幾分温かい表情で都を見詰め返した。

「それはの、恐らくなのじゃが、わしが思うにこの村は、先に言ったように確かに特別な村なのじゃが、貴方が、何か特別な物をお持ちなのではないのかね、つまり、恐らくは貴方自身が特別なのですぞ。それは、実際にこの村の者誰一人としてあの木に柱は見えてはおらん、わしを含めましての、しかしながら、他の国から来なすった貴方には、こうしてあの木に古の柱が見えている、その事が全てを物語っていると思うのじゃがのぉ」

 老人は皺皺だがにこやかに笑みを湛えて、見えていない木を見るように少しだけ視線を横に向かせた。

「詰まりは貴方だけが〝御柱さん〟の真の姿が見えておるのじゃろうのぅ」

「えっ、私が、何か特別って、…何が?どこがです?」

 都は突然自分が特別と言われ、何の事か分らなかった。老人はやはり暖かい視線を都に注いでいる。そして膝に手をしてゆっくりと立ち上がると丸窓の方へと数歩足を進め、見るとは無しに窓から外を見ながら、いや、実際にこの丸窓からは外は見えないのだが、背中で話しを続けた。

「先程から続く話は、言ったようにあくまで言い伝えでの、誰もあの木が〝柱〟なのだとは思っていないのじゃ、いや、先程から言っておるが、見えんのじゃよ柱としてはの。ただの大きな一本の木でしかないのじゃ、御柱さんは。しかしこの村が特別という事は、この村の人間は皆充分に分っておるのじゃ。何故かと言うとの、他の村の者や国津神、そしてそいつ等の飼っている怪物は勝手に入ってくる事はできんのじゃ、この村にはの」

 都はまた驚いた。〝結界〟の力という目に見えない力の、しかも映画や小説でしか知らないこの言葉が、今ここで現実に起きているという事に、そしてこの老人が自分に面と向かってその事を、事実だと真面目に話しているのだと。

「そう、なんですか」と言うしかなかった。

「良いかの、ここで重要な事は、貴方はそういう村に、何も感ずる事無しに入ってきなすったであろう、タケハヤトと供にの」

 これは、問い掛けなのか、都はほんの少し戸惑ったが、応えた。

「え、えぇ、ハヤト君についてきた、だけなんですけど」

「ホッホッホッ、そのただついてきた、という事が、その事実が貴方が特別である証拠なのですぞ」老人は既に確信の目付きをして、コクコクと一人頷いている。

「えっ、何故、ですか?」都には老人の言っている意味がよく分からなかった。

 ハヤト君にただ付いてきただけなのに、何でそれが特別な事なの? そういう顔をしている。老人はから繰り人形のように、身体を曲げずにクルッと向きを反転させ、都の方を向いた。そして再度、力を込めた視線で都を見詰めた。

「この村の人間以外がこの村に入る事は、事実上無理なのですぞ。何故か、それはこの村は天界の者以外には見えないのです、…なのにじゃ」

「…、…」都は声が出なかった。

「しかし貴方は何の疑いも無く入ってこられた。この村の人間ではないにも拘らずにじゃ。タケハヤトは、ホッホッホッ、まだ幼い。その事を何も理解せずに貴方をお連れしたのじゃが、それを聞いた時、わしは驚きましたぞ。何故、他の国の人間が容易に入ってこられたのか、とな、ホッホッホッ」

 老人はそう言い終えた後、今度は座らずに先に自分の横に置いておいた、壁から取り出した巻物を拾い上げ都の横に立つと、その巻物の紐を解き出した。

「これはの、この村に代々伝わる、その言い伝えの書き記した物、と言えば良いかの」

 紐を解くと都の目の前の床の上に、その巻物をコロコロと転げ広げた。

「これに由るとじゃな、この世の中は先に天津神が生まれ出でて天津国を作り、秩序を整えていったとある。そして少し遅れて現われた地の世界に付いての記述は、概ねわしが先程貴方に伝えた事と違いは無いのじゃが、一つ、大事な記述があるのじゃよ」

 老人は床に広げた巻物を都の膝の前に置いたまま、自分は元の位置へと戻り、また置物のように座った。都はその巻物を、正座のまま身を乗り出して端から順に見入っている。見入っている都に時間を与えるつもりなのか、老人は座ったまま口に笑みを湛え、黙ってその姿を見詰めていた。少しして都が呟いた。

「日本の神話と、変らないですね」

 都は以前に都の部屋で見せられた、日本の神話時代の巻物の事を思い出していた。そしてあの時も同じように、不思議な老人が傍にいたのを頭の片隅で思い出していた。

「貴方のお国の始まりの話と、似ておりますかの?」

「えぇ、似ています。同じと言っても良いくらいに、似ています」

「ほほ~ぅ」興味を示したのか嬉しいのか、老人は頭を小さく上下させた。

 老人は柔らかい笑みを絶やさず、また暫く都のために時間を取った。そして都が巻物の終わりの方に目を向けていると、やっと口を開いた。

「その最後の部分ですがの、この巻物の重要な意味を示す記述がありますじゃろ、ほれ、そこのところじゃ」言いながら短い指で、巻物のある部分をさし示した。

 その後老人は笑みを絶やし、静かに目を閉じた。目を閉じたまま少し間を置くと説明をしだした。

「巻物の天地開闢の話は、ある意味物語と思って頂いて良いのじゃ。しかしその最後の部分の記述にあるように、結界に関しての記述より後の部分、そこに貴方の事が関係していると思えますのじゃ。そうじゃのぅ、わしが思いますところ、貴方は…」

 言いながらゆっくりと目を開けると、顔を上げ背筋を伸ばして座っている都と、自然と視線が合わさった。気のせいか、幾分、都の顔付きが今までと違うようにも思える。老人は何かを感じたのか、一瞬、違う人物なのかと驚き小さな目を見開いた。

「あ、貴方は…」「はい、私は都と申します」

 都は僅かに微笑み、キリっとした口調で応えた。

「そ、そうですか、貴方は、みやこさん、と申されるのですか、ふ~む、では都さん、巻物の最後の部分を読みなさって、何かを感じましたかの?」

 老人は今、目の前にいる人物が、つい数秒前までここに座っていた人物と同じ人物とは思えなかった。もちろん姿、容貌に変わりはない。しかし、目付き、視線の強さ、受け応え、そしてこの目の前の人物から放たれる、何とも説明のしようのない気の力なのか、何かが違う。目を閉じた前と後とではどこかが違っている。このほんの僅かな時間で人の印象がこんなにも変わる事などあるものなのか、と驚いた。老人にはそれが何故なのかは、この時直ぐには分らないでいた。

「私は、…そうですね、この最後の章を読み始めた時に、心の中で、何か熱い物が込み上げてくる感覚を覚えたのです」

 確かに今、老人の問に答えている都は何かが違っていた。背筋を伸ばし座っているその姿が凛として、纏う周りの空気にピンっとした張りを感じる。

「貴方はぁ、…やはり、天の系譜のお人なのかも知れんのぅ」

 皺皺の瞼の下、小さな目をより細くして都を見詰めていた老人は、今この時の都が纏うその凜とした空気に、都が普通の人間界の者ではないと感じざるを得なかった。

「天の、系譜?私がですか?ハハハ、まさか?」

「いえいえ、その巻物の最後の章にありますじゃろ」

 老人の言う巻物最後の章、そこには〝結界〟の事から始まる一連の文の記述がある。

「結びの印し表し者、天系これを要すべし、解く者、これまた然りなりて、内に守るべく者、しかるべき所の外に抜けられる者無し、天系これに順ぜず、…とな」

「すいません、この文が何を言っているのか、私には分りません」

「要するにじゃ、天界の者だけが〝結界〟を張る事ができ、または解く事ができる、そして結界が張られた所への通り抜けは、守られる者の他は天系、つまりは天界の者だけがそれができる、とこの文は言っておるのじゃ」

「う~ん、でも、お爺様、だからと言って…」「それにじゃ」

 老人はミイラのような手を少しだけ上げ、都の言を制するようにして巻物を指し示した。

「大事なのは次の文じゃ」「次の?」

 そこには〝御柱〟の事が記されている。

「都さん、もう一度、読んでみなさると良い」

 老人はそう言うと、そこに答えがあるのだというようにゆっくりと頷いた。都は言われるままゆっくりと、もう一度巻物の最後の部分に目を向けた。

「天の印、力及びし所、善き所なれどもこの地、守る者有りや、栄える姿これまみえずなり、然れども天系の者来たれば指し示すなりて、地の善光広め善き事収める所なり」

 読み終えて、巻物を見詰めて黙っている。そして、目を上げた。

「ハハハハ!すいません、この文章の意味も、私にはさっぱり分りません!」

 静かな屋敷の日本庭園、その隅々にまで鳴り響くほど、そして、もしここに庭を眺める者がいて、心穏やかに庭園の風景を楽しんでいたとしたら、そんな心境をぶち壊してしまうほど大きな音量で、彼女の笑い声がこの小さな庵から外に放出された。

「ホッホッホッ、都さん、つまりはじゃ、良いかの、貴方もここにこられる前に見たあの大きな木、そう、先ほどから話しに出ておる、我々この村の者が〝御柱さん〟と呼び親しんでいる大木じゃが、その記述の最初〝天の印〟とは御柱さんの事なんじゃよ。そして、その次の記述は御柱さんが天より下された時に、地の世界が美しく移り変わっていった事を告げておる。わしが先ほど話したようにの」

 都は綺麗に背筋を伸ばし口元に仄かに笑みを浮かべ、ジッと老人の口元に集中して黙している。その目は綺麗に澄んでいる。

「良いかの、次の記述〝守る者〟とは、我々一族の事じゃ。我々はあの大木に守られてはいるのじゃが、その代わりに、日々、木の周りの手入れをしたりして代々お世話しているのじゃ。それが我々一族に課せられた、大事な役目なのじゃ」

 老人は都から一度目を外し、軽く目を閉じて一息吐いた。そして、再び目を開けると都を前より強い視線で見詰めた。

「そしての、その次の記述が恐らくは、貴方がここにこられる事を告げているのではないかと、わしは思うのじゃがの」

 二人の間にピンっと張り詰めた空気が横たわった。老人が巻物に目をやったのに合わせて、都も自分の膝元にある巻物の最後の部分に再度目をやった。

「そこにある記述〝栄える姿これまみえず〟とは、木として繁茂してはいるが本当の姿である〝御柱〟としての姿は、普段は見えない。しかしここに天系の者が来たれば、それを指し示すだろうと」

 言いながら顔を上げた。そして二人の視線がまた合わさる。

「それが、私だと、そう言われるのですか?」自分の顔に指をさした。

「貴方は、あの木に〝柱〟を見ました。我々には見えないその〝柱〟をじゃ」

 老人は僅かな笑みと、確信を持った視線で都を見詰めている。黙して貴方がその人なのだと言っている。都は黙ったまま、老人の視線をかわすように目を閉じた。

―都、この事態をどう思うの? 

―どう思う、って言ったって、よく分からないわ

―でも、貴方、少し変ったわよね

―そう、なのかなぁ、…でも、そうかも知れない

 都は短い間に自問自答を繰り返し、老人が言うように自身に何かは分からないが、どこか変化があった事を何となくではあるが、自ら感じ取っていた。そして目を開けた。

「でも、…もし、もしもですよ、仮に、そう、仮に私がその、天系の人物としたらですよ、何が、どうなるのですか?」確かに、その疑問はあるだろう。

 都の頭の中ではここまでこの国の中を歩いてきて、見てきた様々な事が短時間で思い出された。そして時々起きていた不思議な事柄も、瞬時に頭の中を過ぎっていった。その事も合わせ自分の中の変化が自分なりに、少しずつではあるが認識しつつあった。老人は嬉しいのか興味があるという意味なのか、口元に僅かに笑みを見せ、応えた。

「この地の世界は御柱が天より下されて以来、少なくとも美しくはなった。しかしながらじゃ、その巻物に記されておるようにそれ以降、国津神や、人間どもの縄張り争いや激しいいがみ合いが繰り返され、多くの花々は消え、単なる草地になってしまった」

―あ、それで、あの広大な草原ができたのね

「その内わしら一族の守る〝御柱〟さんも、わしらにもその本当の姿が分らぬような、ただの大きな〝木〟に、いつしか姿を変えてしまったのじゃよ」

「そうか、そうなんですか、それで、あの木が…」

「そうなのじゃ、しかし、もし貴方のような天系の方が現われ〝御柱〟の本当の姿を取り戻し、力をもう一度出させてもらえれば、恐らくなのじゃが、この地の世界も、争いの無い平和な世になる事と思われるのじゃ、…恐らくのぅ」

 老人は言いながら、小さな目でしっかりと都を見据えている。

 もちろん、今この時、老人は都を初めて会った数分前とは違い、天系の者であるとの確信を持って見詰めている。話をしている。それに対し都は、

「あの木を、私が、変える?元の、姿に?」老人、一拍置いてコクっと小さく頷いた。

「都さん、貴方は、おそらくはその選ばれた御方、その人なのですぞ」

老人の視線は更に強くなった。

 それと同時にその視線の力に引き寄せられるように、都の視線が合わさった、途端に都は先のようにまた、グレーの世界に入り込んだ。

―あぁこの空間、さっき来た空間だわ、…という事は

 と言って振り向くと、向こうに一本の大きな木が見えた。

―あれは、そう、御柱さんね

 以前と違い都は、この世界に入り込んでも既にここがどこなのかを認識していた。そして意識もせずに足は御柱の方に向いていた。そして近くまで来ると、やはり以前と同じく都の胸の辺りが暖かく感じられ、彼女は母の胎内にいるような気分になってきた。御柱の真ん前に立ち、都は暫くこの大木を見上げ黙っていた。そして、

―ねぇ、御柱さん、私は本当に天系の血を引いているの?

 都はこの時、理由は無いが、何故か御柱と話す事ができると感じていた。そしてジッと御柱を見詰め、別に応えてくれるとは思わず、只々、ジッと見詰めていた。もちろん御柱は応えはしない。都の心の中で何かが起きている。一人頷きながら小さく頭を上下させている。都の心の中で御柱が応えているのか、これは誰にも分からない。都と御柱だけの会話なのだ。

都は頷きながら御柱の方に向けてゆっくりと手を伸ばしていった。そしてその伸ばした手が御柱の木肌に触れると同時に、御柱に変化が起き始めた。御柱が自らその木の先端から順に、大きな枝葉を一枚一枚落とし始めたのだ。

 葉を落とし、枝を落とし、木皮がはらりと剥がれ落ちていき、次第に大木の姿から名前の通りの一本の太い大きな〝柱〟の姿へと、徐々に徐々に移り変っていった。人工的な、とも言えない、柔らかな温もりのある木肌の〝自然の柱〟という表現はおかしいが、不思議と暖かみのある〝柱〟へと変わっていった。これが御柱の本来の姿なのだろう。

 都は御柱が柱へと変化するその姿を見ながら、手を柱に触れたまま目を閉じ、その姿のまま動かなくなった。まるで長い年月を地中で過ごし、その後、地上に這い出て蛹となり動かなくなるセミのように。

 仄かに明るい竹の天井の下、ヒノキではないだろうが板張りの床と壁、木の香りが心地良い。ここはグレーの空間ではない。

都は静かに目を開けた。目の前にセミの抜け殻とも思える老人が、笑みを湛えながら座っている。皺皺の瞼の下、小さな目が何かを言いたげにしている。都と視線が合った。

「何を、見なすったのかね?」

 都は直ぐには声が出てこなかった。老人の視線から一度離れ、俯き加減で静かに呼吸を整え、自分の意識を取り戻す準備をした。そしてゆっくりと顔を上げた。

「長のお爺様、御柱さんに会いに行きましょう、御一緒に!」

 都はニコっと笑顔でそう応えた。



 一頭の大きな犬がのっしのっしと歩いている。綿雪のような白くフッサフッサの毛と、真っ赤な長い舌を左右に揺らしながら、のっしのっしと歩いている。

「移動する時にはこいつが一番なんじゃよ、ホッホッホッ」

 都は犬の傍らを一緒に歩いているが、この犬の背の高さが都の頭の位置より高い。鼻先から尻尾の先までは優に三mくらいはあるのか、パッと見ただけでは犬とは思えず、頭の毛の長い牛なのか?と思ったりもするくらいに立派だ。

「いつもこの犬で、出掛けるんですか?」「そうじゃよ」

 老人は犬の背で揺られている。犬の背中に一枚布を敷き、エジプトのピラミッド脇で商いをする、観光ラクダに乗っているかのようにユラユラと移動をしている。

「それにしても大きな犬ねぇ~」都は歩きながら、呆れ顔で犬の横顔を見ている。

「この村の動物はみな大きいのじゃよ。何故かの?わしらには分りはせぬが、古来よりここに住む人間はみな背が低いのじゃが、共に暮らす動物は皆大きいのじゃよ」

 と言っている間に一匹?一頭といっても良いくらいの、体長二mくらいはあろうかという大きな猫が、二人の前を僅かな反応も見せずに、清まし顔をして通り過ぎていった。

「い、今のは、ね、猫、ですか?」

 都、今通り過ぎていった猫の後ろ姿を、目を見開いて見ている。

―あれって、トラ、じゃないよね?  

 と思っている横から、大きなにわ鶏のような二本足の鳥が駆けていった。背丈が一m以上はある。ここは巨大生物の島なの、恐竜時代なの、感覚がおかしくなりそう、と口をポカンと開けたまま、都は歩きながらもそう思った。

「都さん、タケハヤトを既に存じておろうがの、あの子はあの背からもう高くはならんのじゃよ」「そうなんですか?私の胸くらいの背丈ですよ」

「そうなのじゃ、あの子はまだまだ幼いが、しかしながらこの先、歳をとってもあの背丈はあれから変らんのじゃよ。理由は分らぬが、この村の人間は古来より代々小さく育つのじゃよ、動物達とは逆にの、わしを見れば分かるじゃろうて、ホッホッホ」

「そうなんだ、動物と人の大きさが違うなんて、不思議ですね」

 二人はゆっくりと、一分間で十mも進んでいるのだろうか、極めてゆっくりと歩いている。この時間たっぷりの歩き方をしながら、都は以前感じた事を老人に尋ねた。

「お爺様、一つお聞きしたいのですが」「なんじゃね」

「私がこの村に入った時にもそう思ったのですが、ここは物凄く静かですよね、そう、音がまるでしない、この村には誰も住んでいないみたいに、音が無いですよね」

「ふ~む、そうじゃのう、今まで気にした事はなかったが、言われて見れば確かにそうじゃのぅ」

 大きな犬の背で、年寄りの日向ぼっことでもいえるような、ユラユラと左右に揺れながら、見た目古ぼけた人形のように老人は座っている。

「ふむふむ、親達はこの時間は農作業に出ておるのじゃよ、そして子供達はの、この時間はある決められた場所で、色々学ばなければならぬ事を学んでおるのでな、皆、そこへ行っておるのじゃ」

「そうなんですか、だから昼間なのに誰もいないような、まったく音の無い世界になっているんですか、この村は」

 都は納得したようにウンウンと頷き、老人の言葉の内容を頭の中で想像し、その情景を思い浮かべながら歩き続けた。

 二人は村を貫く一本の大通りを歩いている。その大通りの先に村の広場があり、そこを中心として村が広がっている。この大通りを村の端から歩き始めれば、遠くからでも広場の中央に聳える大木〝御柱さん〟が見えてくる。都がこの村に来た時と御柱を中心にして通りの逆側を、二人は今進んでいるわけだ。故に二人はこの大通りを歩き出して直ぐに、御柱さんだ、と意識はせずともその堂々たる雄姿は目に入っていた。

その後二人は暫く歩き続け、今、空を覆うばかりに繁茂している、その巨木を目の前にするところまできた。

―そうね、私が見たのは…

「どうなのかの、貴方には何か違う物が見えておるのじゃろうか?」

 都はあのグレーの空間で見た、葉を落とし枝を落とした御柱本来の姿が、未だ鮮明に脳裏に焼き付いていたのだが、現実の御柱はそれとは違っていた。この村に入り、最初にこの木を目にした時と何ら変りはなかった。繁茂するいつもの御柱の姿そのままだ。しかし彼女は落胆はしていない。

「はい、今の御柱さんは、まだ、何も変りがありません、そのままですね。でも…」

「都さんは、この後の姿を見られたのじゃな」「はい、そう思います」

 都は犬の背中から老人を抱き抱えゆっくりと下ろすと、共に木の根元へと向った。

「私はあの空間で、御柱さんに触れたのです。そうしたら御柱さんは何かを私に告げてくれました」「ほ~ぅ、御柱さんが、お告げを下さったのかね?」

「はい、恐らく、はっきりとは分かりませんが、…私には、そう感じたのです」

 都は笑顔で、歩きながら御柱の枝葉を仰ぎ見て大きく頷いた。老人は訊く前から、そうなのだろう、と思いながらいたのか、都と同じテンポでやはり大きくウンウンと頷いている。この時の老人の顔は笑顔なのか、ただ単に皺くちゃな顔なのか表情がよく分からない。それに対して都は明らかな笑顔で、大木を慈しむように見詰めながら説明をしだした。

「あの空間で御柱さんは、多分こう言った、というか、伝わってきたのは」

 二人は木の根元に来て立ち止まった。都は一歩進んで御柱の木肌に手を触れ、そして静かに目を閉じた。

「天系の力宿し…」少しの間の後、呟き出した。

 都は考えて言葉にしているのではない。木肌に触れる事で御柱の意思が伝わり、口から自然と言葉が出てきている、そんな呟きだ。

「…、かの者来たり、地の世の乱れ収めしところ己がその主たる、再び現し天の印、地の世の風に華も至るあり」

 都は目を瞑ったまま次第に声は大きくなり、このお告げのような言葉をはっきりと唱え出した。老人も都の隣で黙ってその言葉に耳を傾けていた。

「…、平らかなる世の風に、天の印、ここに滅する」

 都の口が止まり、そのままやや暫く動かなかった。そして、ゆっくりと手が木肌から離され、ゆっくりと瞼が上がった。

「でも、その御柱さんのお言葉を感じる前に」言いながら老人に顔を向けた。

「私はあの空間で、御柱さんが葉を落とし枝を落とし、そして最後に木皮も自ら剥ぎ落として、本当の柱の姿になったのを見たのです。あれが御柱さんの本当の姿なんだと。この目の前にある大木の一部に見えている柱ではなくて、そのお姿、その物が〝御柱〟なんだと、そういう姿を見たのです」「ほ~ぅ、それはそれは」

「そして、今のように木肌に触れた時、何か私の心に直に誰かが話し掛けてきたように感じたのです」「ほっほ~ぅ」

「それが今のお言葉、なのですけれど」

 都は一度、御柱の方に目をやり、そしてまた老人の方に顔を向け直した。

「でも、この言葉は、私には殆ど意味が分らないのです」

「ホッホッホッ、そのままじゃよ」「えっ、そのまま?」

「そうじゃよ、そのままの意味じゃ、分らんかね」

 分らんかね、と言われて都はまた大木を仰ぎ見た。仰ぎ見て、そして考えた。

「天系の、力宿し…、って事は、…そうね、天系の力を持った、って事?」

「そうじゃ」「かの者、来たり、はそのままの意味で、その者が来た、そして、地の世の何々は、えーと、地の世界の乱れを治める、かな?己がその主、という事は、自分がその収める人、って事、なのかしら?」首を傾げている。

「大体はそういう事じゃの、間違っておりはせんの、…という事はじゃ」

 都は老人に負けないくらいの皺を眉間に寄らせて、斜め下にある老人の顔を見た。

「という事は、そうね、天系の者が来て、その力で地の世界を治める、という事かしら」そういう事でどうでしょう、という顔で老人を見た。

「まぁ、そういう事になるかの、それでじゃ」

「そう、その収められた後、印、って事は御柱さんの事だから、また御柱さんが姿を現して、華だから、花の咲く地の世界を作ってくれる、と思って良いのでしょうね」

「そうじゃろうな、そしてじゃ」

「そして、平らかなる…、って事は、世が平和になるって事で、う~ん、その後に、これは御柱さんが、滅するって事なの?つまり、御柱さんは平和になったら消えてしまうって、事?」疑問の表情で頭をまた少し傾げた。

「そうじゃの、恐らくはの、しかし、問題はこのお言葉全体の意味じゃよ、のぅ」

 老人は逆に、だからどういう事なのだ、と言わんばかりにその皺くちゃの顔を斜め上にクッと上げ、都を斜め下から小さな目で見た。その動きに合わせ、都も老人の方を見た時、視線が直線上になった。途端、都の脳裏にある風景が浮かび上がった。

―えっ!何?   都は意識をせずに瞼を閉じた。

 子供達が戯れ遊ぶ、賑やかな村の中心に枝葉の生い茂る大木が聳えている。自分はその大木のてっぺん近くの枝に座っている。見渡すと色取り取りの花々が、どこまでも咲き乱れる野原が永遠と続き、その遥か向こうに塔や甍の続く、美しい古都のシルエットが見えている。気持ちがすごく晴れやかだ。

 彼女の頭の中で、場面が本のページを捲るように変った。先に見た美しいシルエットの古都の街中、賑やかな通りに自分が立っている。周りの人々は自分の姿が目に入らない様子で、次々と目の前や横を擦り抜けていく。そんな街の中、耳に聞こえてくるのは他の村や集落の話、そして神々の名前だ。どうも祭りがあるらしい。

 ここでまた、ページが捲れた。自分が大きな山車の上、華やかに飾られ座っている。何台もの山車が後に続き、様々な神々がやはり都と同じ目線でそれぞれ座っている。通りを埋め尽くす人々が大いに喜び溢れ、街全体で祝っているようだ。一体、何を?

 ここで都は瞼を開けた。気付くといつの間にか、御柱の近くにある一つの大きな石に腰掛けていた。自分の横にちょこんと、ミイラのような皺皺の老人が座っている。老人がまた皺なのか笑顔なのか分らない表情で、都を斜め下から見上げている。

「何か、見えましたかの?」大体いつも同じ事を言う。

「えぇ、何故か賑やかな街で、…そうね、あれはお祭りじゃないかしら、とても楽しげで華やかで」遠くを見るような目で話している。

「貴方は、何をしておいでだったのか?」

「私? …そうねぇ、私はあそこにいたのかしら?」

 都は寝起きの目覚めの悪い娘という感じで、ぼんやりとした顔でいる。

「あ、でも、あの風景を見ていたのは、私よね、そうそう、私はいるんだわ」

「どこから、風景を見ていなすったのかね?」

「う~ん、そうねぇ、最初は木の上よね、あれは、そして、…街の中、これは確実だわ、それと、最後の場面が、よく分からないんだけど」

 都は立ち上がり、一歩二歩、ゆっくりと歩き出した。老人は石にちょこんと座ったまま、笑顔らしい顔をして黙っている。

「色々な神様の乗った山車が何台もあったわ」「ほっほぅ、神様かね?」

「そう、多分そうなのよ、周りの人々が大きな声で声を掛けていたような、…多分ね」

 都は老人の座る石から少し離れた場所で、クルッと振り返り、また一歩二歩とゆっくりと歩きながら、やはり遠くを見ているような目をして話している。

「貴方も、ホッホッホッ、その山車に、乗っておいでか?」

「う~ん、そうなのよ、だって、目線が同じ高さだったもの」

「ホッホッホッ、のぅ都さん、やはり貴方は天系のお方じゃよ、その記憶がそれを示しておるのじゃ、のぅ」

 老人は幾分満足そうな、恐らくそんな表情をして話しを続けた。

「何故かと言うとのぅ、ほれ、先に見せたあの巻物があるじゃろぅ、あの巻物は神話の時代から続く、歴史の長い言い伝えが書かれておるのじゃが、その中の記述の一つにの、世の中が乱れ淀んだ時には御柱の力が必要となる、とある。しかしその力は御柱が〝御柱〟としてのお姿にならなければならぬ、とあるのじゃよ」

 老人は都を見ずに、物語を話すように遠い記憶を呼び起こすような、囲炉裏の周りで子供に神話を聞かせるように、時々コクコクと一人頷きながら話しをしている。

「しかしじゃ、この御柱さんが〝御柱〟としてのお姿になるには、それなりの力を持ったお人が現われねばならん、とあるのじゃ、ホッホッホッ、そう言えばもうお分かりかの」

 老人は皺皺瞼の下からチラっと都を見上げた。

「貴方なのじゃよ、それは、ホッホッホッ、のぅ、神話がそう伝えておるのじゃ」

 その言葉に都は、ピタっと老人の目の前で足を止めた。そして、ぼんやりとした顔を一度、少しだけキリッとさせて老人を見ると、石にまた腰掛けた。そして、ホッホッホッ、と笑う老人の横で、また元のぼんやりとした顔に戻り話した。

「お爺様、そうなのでしょうか、…確かに私は神様達と同じ目線で、あれは山車の一つと思うんですけれど、その山車の一つに座って、皆で何かを祝っていたんでしょうね」

―ほんとに、そうなのかなぁ、私は天系の血を引いているのかな?

 都は、薄おぼろげな頭の中の映像と、老人の言葉で自分の出生に確信とまではいかないが、もしかしたらそうなのではないか、というぼんやりとした思いを抱き出した。

「ところでお爺様、さっきこの言葉全体の意味が重要なんだって、そう言われましたよね」「そうじゃの、重要じゃ」

 老人は都を見ずに、老人なりに何かを思い浮かべながらなのか、首だけ動かしてコクコクと頷いている。

「この言い伝え、いや、このお言葉としては、何を貴方に告げておるのか、そこが問題なのじゃよ、都さん、…分かるかの?」

 老人は意味ありげに、垂れ下がった瞼の下から都を見た。

「私に、告げている?何を?」

 都自身、天系の血を引く者なのかと、おぼろげにそんな気にはなってきてはいたが、このお告げが自分に向けられたものなんだ、と言われてもピンとこなかった。自分の顔に指をさしながら〝?〟マークが顔の前に浮かんでいる。

都にはまだ時間が必要なのだろう。

 今までごく普通に生きてきた女子大生にとって、貴方は神様の子孫ですよ、と突然言われても、えーっ!と驚く以外に反応する術は無いだろう。それが普通の人の感情である。しかし都はこう何度も貴方は天系の血を引く、と言われ続け、洗脳とまでは言わないが次第にそうなのかなぁ、という気持ちにはなってきていた。

都の気持ちの中では、今自分がこの日常ではない不思議な世界にいる事自体、自分をそういう気持ちにさせている一つの要因なのだと、そう自分自身で言い聞かせている、そんな気もしていることを、この時、自ら認識はしていた。

 ところでこの二人の会話はともかく、それにしてもこの村には人影がまったく見当たらない。実に静かだ。大木の前の石に座っているこの二人の他に、誰もいる気配が無い。老人の言葉にあるように、人々はそれぞれ何かをしに、村の外へと出掛けているのだとしてもである。

 老人を乗せてきた大きな犬も、いつの間にかどこかへ行ってしまった。当の老人はそんな事は気にも留めていない風で、二人の会話を楽しんでいる様子だ。目の前に聳え立つ御柱も、二人の会話をどこか楽しんでいるような、そんな気さえしてくる。葉振りが良いという表現が正しいのかどうか、生い茂った枝葉が楽しそうだ。

 一人都だけが、今の思いや考えがはっきりとしないぼんやりとした表情で、自分は一体何者なの?どうしてここにいるの?お言葉が伝えている事、それって、何なの? 等々、頭の中が分らない事だらけの状態でいる様子がありありとして、落ち着かないでいる。

 そんな都がゆっくりと顔を上げ、御柱に目を向けた。

「お爺様、私…」

 都は何かを心に決めた様子でスッと立ち上がると、両拳をギュッと握り、御柱を強い視線で見詰めながら何かを言い掛けた。言い掛けたは良いがそのまま何も言わず、ゆっくりとまた一歩二歩と大木に近付くと、腕を伸ばしゴツゴツとした木肌に手を触れた。

―御柱さん、私が、…本当に私がそうなの?

―御柱さん、私が、もしそうなら、…どうなるの?

 都は木の幹に片手を付いて頭をやや下げ、どこかの猿のような格好で御柱に話し掛けているのか、そのままの格好で暫く動かなかった。老人も何故だか楽しそうに、皺だか笑顔だか分らない表情で、大きな石に古ぼけた人形のようにチョコンと座ったまま黙っていた。

都を取り巻く状況が都の意思とは関係なく変化して行く。

音の無い村で、二人の時間だけが、やはり音も無く過ぎていく。

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