3.ウサギと古都
ウ サ ギ と 古 都
ウサギはそこにはいなかった。代わりに都の脳味噌の中の世界、いやもっと明確に言うなら、都の意識の枠外で、一本の鉛筆が勝手に描いた想像の世界の街と同じ風景の中に、今彼女は立っている。
―どういう事? 私って、今、寝ているの?
都は自問自答を繰り返した。立ったままその場を動けずに表情が歪んでいる。
頭の中で、美奈美と一緒に旅行を始めた時から、今、この時までの自分の行動を再現しながら、どうして自分は今ここにいるのか、この世界は一体何なのか、これから自分はどうしたら良いのか、等々一つ一つ答えの無い思考がグルグル巡り、頭の中が纏りの付かない状況になっている。その混乱が都の集中力を掻き消した。もうこの世界が夢なのか現実なのか、自分では判断が付かなくなっていた。
―美奈美は一体どこに行ったの?
―それより、この街は一体何なの、これって、私の頭の中?
―それに、あのウサギは、何だったの?何で私の前に現われたの?
―もう、何が何だか、分からないわ!
都はまたボーっとしてきた。余りの混乱に、まともに考える事ができなくなっている。すると何故だか、先ほど自分なりに丹念に見たはずの街並みが、この時、幾つかの建物がまるで砂漠の地平線に時折現れる蜃気楼のように、ブワアーっと浮き上がって見えるようになってきた。その中にあの、朱色の長い階段参道を持つ建物が頭一つ飛び出すように、一目でそれと分かるシルエットで現れてきた。都は意識が遠くなっていきそうな頭で、網膜に映ったその望楼を何となく認識した。
―あーっ! さっきは無かったのに
都は思考力の無い頭で、その朱色の望楼を暫くの間ただ眺めていた。
何が切掛けかは分からないが、恐らくカラスが視界を横切ったのか、もしくは川面を鯉が飛び跳ねたのか、何にせよ都の無意識の脳味噌に、何らかのちょっとした刺激が与えられ、それをきっかけに彼女の足が勝手に、自然に、前方に、この時、彼女の夢の中から出てきたような、しかし現実に今目の前にある、その街を目指して動き出した。
何川と言うのか、この川。
せせらぎが僅かに聞こえ、都の鼓膜を優しく刺激している。歩きながら次第に都は意識を正常に戻していった。一人言を言っている。
「もう、何なの、あのウサギったら、付いて来いって言ったくせに、ブツブツ」
都は一人文句を言いながら、取り敢えずはあの朱色の望楼を目指し歩き出した。それはこの理由の分からない自分の置かれた状況で、何らかの解決法を見付けられるかも、という淡い期待を込めて、そこだけ色の違う、視覚の範囲で一番目立つその望楼に向かう事しか手がなかった。と言うより、その他にまるで考えが浮かんでこなかった、と言った方が良いのだろう。
歩き出して半時ほどが経った。都は歩きながら、おかしな言い方だが、あの望楼までの道順は自分の足に任せ、自分の意識はずっと文句と疑問に向けていた。
―だってそうでしょ、あのウサギったらまるで何かを知っているような素振りで、突然私の前に現れたのよ! 普通なら、誰だって後を付いてきちゃうじゃない、でしょ!
―あれよね、おかしいのはあのバスの運転手なのよ。そうよ、絶対おかしいわよ、あの運転手! あの運転手が私達をこんな変な境遇に巻き込んだのよ、それしか無いわ!
―でも、どうして私の頭の中で見た街が、本当にここにあるの?
ブツブツ言いながらも都は既に木の橋を渡り、いつのまにか多くの木造家屋が立ち並ぶ、伝統的街並み保存地区のような、しっとりとした実に良い雰囲気の路地を歩き進んでいた。
路地を進むとそこは、いかにも〝日本の古都〟という言葉がピッタリくるような、かなり趣のある街並みで、ここに大勢の観光客がガヤガヤと歩いていれば、それこそ京都や奈良の街中にいるものと勘違いしても、何らおかしくはない街だ。そんなしっとりとした路地の途中、長々と言い続けた文句の数々も底を付いたのか、ずっと下を向いて歩いていた都は顔を上げた。そして殆ど自分の足任せになっていた行き先の方角に、ここで初めて意識を戻して前方へと目を向けた。
都の視線の先には薄い靄が掛かったような街の遠景に、鮮やかな朱色で、地面から何十mかの空中に浮かぶ立派な楼閣が、気高くも薄ぼんやりと見えていた。そしてあの長い真っ直ぐな階段参道も、路地に立つ都の視線の直線上にクッキリと、幾何学的な造形と神秘的な美しさを漂わせ、それでいてこの和風の代表と思えるような街並みに、実によく調和している。
都は路地の途中で暫し足を止めた。
―うわーっ!綺麗だわぁ~
―ところで私、今、どこにいるの?
自分の状況を理解していないようだ。都の頭の中では、今自分がどこにいるのか何をしているのかよりも、その楼閣の美しさにただ目を奪われている。しかし頭とは別に彼女の〝足〟は、頭を無視して再度機械的に楼閣に向い動き出した。それは見えない糸によって引き寄せられてでもいるかのように、彼女の意思とは無関係に動き出した。
都は今、上を見ている。間近に来るとそれは、異常に高いのが嫌というほどに分かる。
―なんて高さなの?
彼女は楼閣の柱の脇に立ち、首が折れているのかと思うほど後ろに曲げ、口を開けたまま上を見上げている。目の前には階段参道の長い三角形の尖がった部分、階段の最初の一段目が見えている。その階段の上部は途中から靄が掛かり、一番上の楼閣本殿の部分は薄ぼんやりとしか見えていない。
この建物、その造りから言っても、まぎれもなく神社である。
斜めに続く階段の脇、欄干が鮮やかな朱色、本殿の周りにも同じような彩色が施されているようだ。恐らくこの色が、今まで遠くから美しく見えていた色だと思われる。
本殿の色は靄がかかってはいるが、全体的に朱色を纏っているのが薄いながらも見えている。そして時折、太陽光が反射して金色にキラッと光る部分が、建物の全体的な広がりの中で、部分的にあちこちに見る事ができる。しかし本殿の全体像は、下からでは明確につかむ事は容易にできそうもない。しかしこの楼閣、どのくらいの高さがあるのか。通常考えられる神社の建物の高さとは余りに違い過ぎ、全く比較にならない。一言で言うなら〝天空の楼閣〟だ。
―これ、何段あるんだろうね?
と、都は階段を登る気も無いくせに上の方を見ていると、都の立つ逆側、階段の向こう側でヒョイッと何かが動いた気がした。
―えっ、何? 都は視界の端に少しだけ映った、その何かの方へ顔を向けた。
するとその何かは欄干の向こう側で素早く動き、都の方を見たり隠れたりを繰り返している。それに合わせて都も顔を動かしながら、その何かに声を掛けた。
「ちょっと、ねぇねぇ!」
都の視線に合わせ、その何かがピタっと動きを止めた。欄干の棒と棒の間から顔を覗かせ、都をジッと見詰めている。
「ねぇ、あなたは…」都もその相手をジッと見た。
しかしその後の掛ける言葉が止まった。するとその何かがゆっくりと、欄干の間を通って階段を横切り都の目の前までやってきた。都は少し驚いている。
「なぁ、お前、誰?ここで何しているんだ?」
そいつは何か、というより人間だった。そいつは都の目の前の欄干の棒と棒の間も潜って、更に彼女の近くほんの三mくらい手前までやってきた。狐のような鋭い目つきで都を凝視しながら、また問うた。
「お前、話ができないのか?何とか言えよ!」
「は、話せるわよ、ちゃんと、ハハ」
都は作り笑いを浮かべたが、笑いに無理がある。頬が引きつっている。
「何だ、話せるんじゃないか。だからお前はここで何しているんだって訊いているんだ、答えろ!」かなりぶっきら棒な言い方だ。あのウサギのようだ。
「何してるって、それは、え~と、それは、それは私が知りたいわ!」
「何だと?お前は自分がここで何しているのか、分らないっていうのか!変な奴!」
そいつは都を変な奴扱いして、またサッと振り向き都に背を向けると、素早い動きで階段を横切り、欄干の向こう側に走り去ってしまった。
「ちょっとー、ちょっと待ってよー!」都の声が楼閣の柱の間を抜けて、響き渡った。
都は何が何だか分からないうちに、自分を変な奴扱いしたまま消えたあいつを直ぐに追い掛けた。それは、この良く分からない世界で、あのウサギ以外で唯一話のできる相手だったからでもあり、何かを知る手掛かりが欲しかったからでもある。
考えてみると都がここまで来る間に、あのウサギ以外、動きのあるものを見掛けていない事に気が付く。確かに、都の歩いて来た道程には猫一匹いなかったはずだ。しかし今はそんな事を再考している意味はない。あいつを追い掛けるため、都は階段の端を回り込んで向こう側へと急いだ。
〝天空の楼閣〟の足元、何本もの太い柱が並ぶ玉砂利の上、都は走った。シーンと音がするような静けさの中、ジャリジャリと都の走る足音だけが鳴り響いている。
都が走り出して直ぐに、柱の並びから少し離れた向こう側に、境内と思われる広い空間が現れた。やはりここは神社なのだという事が分かる。上空にある本殿以外の厳かな建物や石でできた灯篭、それに狛犬らしき物等、そこには神社である事の〝証拠〟となる物が数多く並んでいた。誰もがそれと分かる、神社独特の空間がそこにはあった。
これだけ広い空間がここに存在している事を、この場に来るまで気付かなかった。それはこの横に聳え立つ本殿が目立ち過ぎていて、本殿の周囲の事は、遠くからでは気が付きにくかったからかもしれない。
都はその広い境内の、空間を形作っている周りの建物を見回していると、玉砂利の続く向こう側、境内の端をさっきのあいつが動いているのがチラッと見えた。体力無しの都は既にかなりハァハァ言ってはいたが、両手を口の脇に当て、肺の奥から息を思いっきり吐き出し、この時でき得る目一杯の声で叫んだ。
「ちょっとぉ~! 待ってぇ~!」言い終えると、またハァハァ言いながらも走り出した。
都の声が聞こえたのか、見ると、あいつは足を止めて都の方を振り返っていた。都を見ている、と思ったらまた直ぐに動き出し、一つの大きな屋敷の中へと素早く入っていってしまった。入って直ぐさま、また入り口から顔を少しだけ出した。そしてまた、サッと中に入ってしまった。その動きは都を誘っているようにも見える。
「ねぇ~、ねぇったらぁ~、待ってよぉ~」
そんなあいつの動きとは無関係に、都の声にはもう力が無くなっている。先ほどの大きな声でもう早力尽きたのか、やはり体力無しだ。都はよたよたした足取りで、あいつが入り込んだその建物に向けて、何とか足を進めた。足を進めながら、また何か一人言を呟いている。
―あいつ、何であんなに小さいの?
―あれって、人間なの?
都のこの呟きは、実は先ほど、彼女が最初にあいつに出会った時に感じた事だった。それは、あの素早い動きの者は信じられないほどの、そう、背丈が凡そ五十cmあるか無いかの極端な小人だったのだ。それは生まれて数ヶ月の赤ん坊が、そのまま大人になったような、明らかに子供ではない表情で、その小人が目の前で実際に話し掛けてきたので、それ故あの時都は驚き、つい言葉が出なくなっていたのだ。
そんな驚く現実を前にして都は気を引き締めていた。何故なら、白ウサギの時もそうであったが、何故、美奈美が突然消えてしまったのか、そして自分達が何故こんなわけの分からないところに来てしまったのか、それらの答えを探すため、ウサギや小人を追う事で直接答えが出ずとも、ヒントくらいは得る事ができるのではと、彼女は本能的にそう感じ足を進めてきたのだ。そしてそう感じるからこそ、ヒントの元を逃してはならないのだと、そう自分の心に言い聞かせ、自分の動かぬ足を無理やり動かしてきたのだ。故に驚いている暇など無い事は彼女が一番よく分かっていた。体力はまるで無いが、人間という動物としての本能は生きていた、というところか。
さて、彼女が小人の入っていった屋敷の前に来た。いや、やっと辿り着いた、という感じでヨロヨロしている。しかしここまで来たのは良いが、何をどう言えば良いのか、大きな扉の前で考えが纏らないようで、今度はウロウロしている。
―何よ、…何て言えば良いのよ、ハァハァ
下を向いたり上を向いたり、二、三歩、歩いて立ち止まって暫く、う~ん、と唸ったりを繰り返している。このような時は素直にそのままを伝える事が、相手に理解してもらえる一番の近道なのかな、などと都が考えあぐねていると、都が背にしていた屋敷の大扉がギギギギっと開いて、先ほどの小人が顔を見せた。
「おい、お前!そこで何やっているんだ!何で付いてきた!」
頭の中でどう言えば上手く伝わるか、あーでもないこーでもないとイメージトレーニングをしていた都は、背後で突然優しくない言葉で怒鳴られ、少し飛び上がるように驚いた。驚いて肩に力を入れ背を丸めた姿でゆっくりと後ろを振り返った。振り返ると屋敷の重そうな大扉を少しだけ開け、その隙間から小さな顔を半分だけ出し、あの小人が都を刺すような目で凝視しいていた。いかにも、こいつ何者だ、という目付きだ。
「あのー、貴方、ここの人?」恐る恐る訊いた。
「お前は誰だ。どこからきた!」小人の目が更にきつくなった。
「あのー、ちょっと訊きたい事があってきたんだけど、良いかな?」
「お前、この辺の奴じゃないな!」
お互いの言っている事が噛み合っていない。都は思いっきり作り笑顔をしながら、一歩、二歩と、小人が顔を半分だけ出す大扉に近付いてみた。すると小人は恐怖心を表す子犬のように、更に大きな声でまた怒鳴った。
「お前!質問に答えろ!」体は小さいくせにやたら大きい声だ。
都が再度、肩を窄め驚くと、小人はギギギと音を立てて大扉を閉めてしまった。
「あっ、すいません!開けて、お願い開けて!」
見た目はかなり重そうな、高さは一般人の背丈の倍以上はありそうな、ガッシリとした濃い茶色の古木の大扉。この屋敷の越えてきた年月を端的に表しているようだ。その重厚な扉を都はドンドンドンと何度も叩き何度も声を張り上げたが、小人は再び姿を現す事はなかった。都は大扉を叩く事を止めて、クルっと向きを変えると大扉に背中を付けた。
―っふぅ、どうしよ~ 溜息交じりの弱い声だ。
彼女の頭の中では、あの小人に会ったらどう言うか何を言うかは、はっきりいって纏ってはいなかった。しかし、とにかく一度話がしたかった。何の事でも良いから話しをしてみて何かを知る事ができたら、それはそれで一つの道筋ができるかもしれない。漠然とではあったがこの時はそれ以外、彼女の頭の中には何も思い浮かんではいなかった。
都は緊張していた気持ちを少し緩め、ギュっと窄めていた肩をスーと下ろしてみた。そして屋敷の周りを緩んだ気持ちで改めて見渡してみた。
ここに来た時、小人の事ばかりを考えていたせいか、彼女の瞳に映っていたはずの周りの景色を、彼女の脳味噌は何も認識してはいなかったようだ。屋敷の横に美しい庭が見える。大扉だけでなくこの屋敷自体が大きく、そして重要文化財のように、どっしりとした存在感を周囲に放っているのが分る。
大扉だけでも通常の家の扉の三倍はあろうかという、縦三m以上横一m以上はあるのだろうか、小人が小さいだけでなく大扉自体が大きかったのだ。もちろんその大扉のある屋敷は、常識的にはかなり大きい建物だといえる。
それにしても、この大きな扉を簡単にギギギと閉めたあの小人は、実は力持ちだったのだろうか。そして扉の前で、どうしよ~、と言って立ち尽くしている都にとっては、目の前の大きな屋敷の事や、出てこなくなった小人の事よりも、この後自分は何をしなければならないのか、その事がより重要な事であった。
都が屋敷を前にして一人突っ立ちながら、コクっと頭を上下させた。何かを心に決めたのか、右手でこぶしをギュッと強く握り締め、そのこぶしを見詰めた。彼女はとにかくあの小人と、いや小人でなくても良い、誰かこのおかしな世界の事を説明してくれる人がいないか、探そう、と思った。そう決めると都は顔を上げ、改めて屋敷を目にした。
「うわーっ!この屋敷、大きいのねぇ~!」今頃気付いたようだ。
都は取り敢えず誰かを探そうと屋敷の周囲を見るため、十歩ほど後ろに下がってみた。下がって屋敷の脇を見てみると、大扉の横側、屋敷の壁に沿って奥の方に向かい細く庭が続き、その中を平たい飛び石が点々と屋敷の角を曲がって見えなくなるまで、ずっと奥まで続いているのが見えた。小さな石から始まって段々と大きくなっていく。都は、向こう側に大きな庭か何かがあるのかしら、と思った。と同時に彼女の足がそれに向かい勝手に動き出していた。飛び石の上をポンポンポンと、都は実にリズミカルに歩いていく。飛び石の間隔は都がここに来るのが分かっていたのか、というほどに丁度彼女の歩幅に合っていた。
歩きながら足元を見ると、木々の木漏れ日が美しい。太陽光を優しく遮ってくれるのは、背の丈が綺麗に切り揃えられている栗の木々と、それと平行して鬼胡桃の木々、そして桜の木々が並び立っている。恐らく季節に合わせて楽しめるように、この飛び石の通路に配置されているのだろう。そして各々の飛び石の周囲には、同心円を描くように緑のビロードのような美しい苔が、丁寧に手入れされ貼り付けられている。見た目は緑の水面を走る水切り石の飛び跡のように、美しい円形が連なっている。
都はその飛び石の上をポンポンポンと、リズミカルに進んでいく。壁伝いにしばらく進み角を曲がった。曲がると、まだまだ先に飛び石は続いていた。そのズーっと先に太陽光を鏡で映したように、かなり眩しく反射する場所が彼女の目に映った。
―あれはぁ、水? 池?
と思いながら更に先に進んでいくと、大きな池のある広大な日本庭園が姿を現した。
都が思ったように大きな水、大きな池である。京都は大覚寺〝大沢の池〟のように緩やかな楕円形で、その大きな池の中心よりやや右側に一つ、小さな小島が浮かんでいる。その小島には朱色の太鼓橋が対岸から渡され、小島の中心に小さな社が立っている。池の周囲は大きな岩や小さな石、緑の柳の木や色とりどりの草花が植えられ、金沢の兼六園や水戸の偕楽園のような、どちらかといえば賑やかな回遊式庭園の趣である。しかもその面積が驚くほど広い。ゴルフ場とは言わないまでもサッカー場よりは遥かに広そうだ。都の位置から向こう側の庭園の端がどこなのか、それを表す何物も見る事ができない。
都は大きな屋敷のはずれ、飛び石の道から庭園の見える位置で立ち止まっている。そしてその場に立ち尽くし、ここに来てから驚く事ばかりなのだが、また驚いている。
―なんて広いのぉ~ 口が開いたままだ。
―でも、綺麗ねぇ~ 今度は一人ニヤニヤしている。
グルっと庭園を見回した都の目に、小高い山が見えた。池を挟んで庭園の屋敷とは反対の位置に作られている人工の山だ。山を覆うように山ツツジらしき低木が繁茂し、山裾に石灯篭が二本立っている。その灯篭の間に細い道が見える。その小道に目をやると道の途中、山の中腹ほどに庭仕事をしている人が小さく見えた。都が思わず声を上げた。
「あーっ!」都はその人に向かって片手を上げた。と同時に走り出した。
「ねえ、ねえ!おじさ~ん!」
彼女は走りながら声を上げ、更にその相手はこちらを見ていないにも係らず、上げた手を勢いよく振った。池を半周してその距離凡そ五十m以上はあろうか。小山の中腹で仕事をしているその〝おじさん〟は、都の声は全く聞こえていないらしく、振り返る事もなく下を向いたまま黙々と作業をし続けている。
早くも都の足がとろくなってきた。さすが体力無しの本領発揮。
「ハァハァ、ゼーゼー」
―ほんと、私って、だめだわねぇ
都のヨロヨロとした足取りに合わすようにそのおじさんは、腰を屈めた作業をしながら小道の先にゆっくりと移動していった。移動して、道なりに小山の向こう側へと姿を消してしまった。都はまだ走っている?歩いている。無論、都自身は走っているつもりなのだろう。しかし足が既に歩き状態だ。
―私って、今日、走ってばかりだわ
「ハァハァ、ゼーゼー」やっと到着。
石灯篭の間をヨロヨロと通り抜け、山ツツジの茂る小山の小道をダラダラとした足取りで、やっと登ってきた。
―あらっ、おじさん、ハァハァ、いない 都、辺りを見回している。
既におじさんはそこにはいなかった。都は呼んでみた。
「おじさ~ん」声に殆ど力が無い。
―どこに行ったのかしら?この辺にいたわよね 見回すが、姿は依然見えない。
「おじさ~ん!」少しだけ声に力が出てきた。
―っもう、話、聞こうと思ったのにぃ~、どこに行ったのかしら?
都はせっかくハァハァゼーゼー言いながらもここまで来たのに、目的のおじさんがいなくなり、肩をダラっと落とし頭を下げ気味で、いかにもがっかりという姿で小山の中腹をウロウロしだした。
―何でいなくなるの?ここの周りって何も無いじゃない、どこに消えちゃうわけ?
確かにおかしいといえばおかしい。小山を越えた向こう側には、やはり山ツツジの茂みが続くだけで、人間一人を隠すほどの大きさのある建物などどこにも無かった。柳の木や楓の木々は数本あるが、人が隠れるほどの太い木は無い。あの〝おじさん〟はどこかへ、フッ、と消えてしまったんじゃないのだろうか、都はそう思った。と、その時、
「えっ! キャア~!」
見ると山ツツジの茂る葉の陰に隠れ、地面に人が通るくらいの穴がポッカリと口を開けていた。という事は都が探していた〝おじさん〟もここに誤って落ちたのか、もしくは、自ら入って行ったのだろうか。しかし何故こんなところにこんな穴があるのだろうか。
穴の事はともかく、今都は、
「キャアー!」落ちている途中のようだ。
どこまで続くのか、この穴はかなり先が長いようだ。落ちながら都は思った。
―私って、アリス?
―でも何で私、落ちているの?
都は落ちながらも、そんな事を考えている余裕があるのか、それでも次第に意識が霞んでいった。
落ちているのか漂っているのか、加速度は感じていない。一瞬途切れたようにも思えたが、意識はここにあるようだ。
―何でこんな事になったの? 私達、何かした?
―美奈美を探さなくっちゃ!でも、どこをどう探せば良いの?
―私は今、どこにいるの?
真っ暗な闇の中で、都は何度も何度も一人呟いていた。今までの自分に起きたわけの分からないでき事に、自分なりに何か理由付けをしようと色々考えていたのだが、なかなか纏らないでいる。
―映画ならこの後、ジョニーディップが登場するのよね、フフフ
―あ、でも、変な女王も出てくるんだっけ?
―それにしても、私、今どこにいるの?
理由付けは止めたのか。実際、彼女は今どこにいるのか、横たわっている。横たわる都の黒髪を誰かが撫でている。一人夢想の世界にいた彼女は、自分の傍らにある優しい温もりを感じていた。彼女は覚醒の途中にあった。
「う、ぅ~ん」まだ起きてはいない。
この時都はまどろむような意識の中で、昔懐かしい幼い頃の思い出の一場面、母親の傍らで寝転ぶ自分を思い出していた。明るい日差しの差し込む窓辺のソファーで、母親の膝に頭を横にしてうたた寝をしている。起きようか、このまま寝ていようか、半分の意識でダラダラとしていたい、そんな暖かい雰囲気を肌で感じながら、都は今自分の置かれている状況の違いを、空ろな脳味噌でも薄々感じていた。次第に意識がはっきりとしてきた。
「う、ぅ~ん」意識は既に覚醒している。
ゆっくり瞼を開けると、目の前に美しい女性の笑顔がアップで映し出された。一瞬戸惑ったが、その人は母親ではなかった。母親はこんなに美しくはない。
「目を覚ましたわね、フフ」美しい顔が綻んだ。
「あ、…あのぅ」
都はやはりこの女性は母親ではないと、先ずは認識した。そして自分の髪を優しく撫でていたその手をすり抜けるように、スルリと上半身を起した。
「あのー、ここは? 私、何か、分からないうちに穴に落ちた、ような」
「フフ、そう、あそこに落ちてしまったのね、そうねぇ、あそこは、道、といえば一つの道なのだけれど、フフ」
この女性、自分の娘をいたわるように話の合間に微笑を投げ掛け、その姿はまるで天女のように優雅で美しい。服装も神社の巫女のような白装束の出で立ちで、長く豊かな黒髪を後ろに束ね、榊を手にすればそのままお払いや祈祷ができそうな、そんな姿だ。
都は穴に落ちたと思った後、何故か普通どこからか落ちた時に感じる、重力加速度を全く感じなかった。そればかりか自分の体が、まるで羽毛にでもなったのかと思えるほどに軽く、空気の分子一つ一つに乗っている感覚でふんわりと漂いながら落ちてきた、そんな風に感じていた。それ故、その後にジョニーディップだか、変な女王などとおかしな夢想をしていられたのだろう。
都は女性が穴の事を話そうとしている時、自分の現在いるここはどこなのか、この建物は何なのか、ゆっくりと首を回しながら、寝起きのような頭の中で何とか情報を得ようと、極力意識を集中しようとしていた。
「でも、あの道は裏道のようなもので、そう、今はあまり使ってはいないはずなのよ」
「私、あそこでおじさんを見掛けて、それでお話しをしようと思って追い掛けていたら、いつの間にか穴に落ちてしまったんです」
「そうなの、おじさん、ねぇ、フフ、今、あそこから出入りする事があるのは、そうねぇ、ツキヨビ、くらいしかいないんじゃないかしらねぇ、フフ」
「ツキ、ヨビ、…その名前って」
「フフ、変った名前でしょ、ツ、キ、ヨ、ビ、由来は知らないわ、フフ」
この女性の言う名前を聞いて都は、先月、老人が自分の部屋にきた際、神話の世界の話をしてくれた事を思い出した。
「私が聞いた神様の名前に〝つくよみ〟ってありましたけど、それとは違うのですか?」
都は自信を持った目で、女性の目に視線を合わせた。
「フフ、いいえ〝ツキヨビ〟という名前なのよ、彼は」
この女性は都の自信ありげな視線に対してやんわりと否定すると、話しを変えるためなのか、右手を上げて今二人のいるこの部屋を見せるように、腕をゆっくりと回した。都は女性の腕の動きにつられるように、自分の視線をその動きの先に移していった。
すると部屋の一角、薄暗く見える天井の片隅に何やら不思議な物体が、これはぶら下がっているのだろうか、天井からハンモックのような物で大きな繭を中に包んでいるような、全体的に白っぽい三mくらいの不思議な物体が、薄暗い中、ボーっと浮かんでいるのが視界の端に映った。
―何なの、あれは 都の視線がその物体に向けて止まった。
都はこの異様な物体に驚くと共に、目を覚ました当初はまだ頭がぼんやりとしていて、部屋の中が余りよく分からなかったのが、今漸く周りの様子が見えるようになってきた。
「この部屋、何だろう、…そう、テレビで見た事あるような」
都の様子を見て、女性はまた優しく微笑んだ。
「ここはね、出都宮というお屋敷の中なのよ、フフ」
「いづと、きゅう、ですか?」「そう、い、づ、と、きゅう、よ、フフ」
女性はモナリザのような不思議な笑みを湛えながら、ゆっくりと膝を立て都の横から立ち上がり、そして都があたかも遠方から来たゲストであるかのように(あながちそれは間違ってはいない)、両手を広げたり、指をさして注目させたりしながら、この部屋の中をあれこれ紹介するように歩き出した。もちろん、それだけこの部屋は広い。
「そう、この屋敷自体は、凡そ二百年くらい前からあるそうなのよ。この柱なんか、太いでしょ。これは樹齢三百年の大木を、そのままここの柱にしてしまったらしいのよね、すばらしいでしょ」
女性は部屋の真ん中で床の下から天井をドーンと貫き、強烈な存在感を示している正に大黒柱といってよい柱を、実にいとおしむように顔を摺り寄せ手で撫でながら話している。
「彼はね、あの丸い物の中にいる生き物の世話をしているの、フフ」
「何ですか、あれは?」都は一本の柱よりも、意味不明な丸い物体の方が気になった。
「何でもないわ、ただの生き物よ」
女性はその丸い大きな繭状の物に関して、それ以上話しを続けなかった。話したくないのか、意味が無いという事なのか、都に分かりはしないが、それよりも、この重厚な造りの屋敷の説明の方が重要だという顔をしている。
実際にこの部屋、現代の部屋感覚でいうとかなり広い。畳でいうと数百畳はあろうかという、ホテルの大宴会場といったところだ。しかしこの部屋、いや部屋だけでなくこの屋敷全体が現代の建物とは全く違い、どちらかといえば時代劇でよく見られる板張りの、しかし簡素な造りではなく、板材が床も壁も天井も黒光りがして厚みのありそうな、年季をそのまま表面に表したような、この女性が説明をしたいのも理解できるというほど、実に重厚感のあるドッシリとした造りとなっている。
この建物、部屋数も何十とありそうで、先に都が通ってきた庭園も広く、屋敷を含めた敷地面積でいうなら皇居とまでは言わないが、東京なら浜離宮、京都の二条城、大阪の四天王寺境内くらいはありそうか。とにかく、かなり広い事は確かだ。
女性は大黒柱に右手をもたれ掛けさせながら、暫く屋敷の説明をした後、徐に都の方を向いた。都を見るその顔にはやはり微笑を湛えてはいるのだが、この時の彼女の微笑みには何故だか優しさが感じられず、どことなく冷たさを感じる含みを口元に見せている。この違和感は一体何なのだろうか。
「そういえば、貴方のお名前、伺っていなかったわね」
「私、都といいます。田崎都。すいません、貴方は?」
都は崩していた足を正座に変えて、しっかりと女性の方を見据えた。
「あら、私、私は浮芹、夫は大伴主、この国〝出都〟を治めているのよ」
この女性はこの国を治める首長夫人のようだ。因みにこの場合の〝国〟という意味は、この辺りの地域、江戸時代で言うなら〝藩〟よりも小さいくらいの地方を差している。
都は首長婦人と聞いて少々驚きの表情を見せたが、もちろんこの女性の素性など元々知る由もない。それでもこの女性を初めて目にした時から、その気品溢れる容姿、仕草、話し方、纏う雰囲気から高貴な人物だと実際には分からずとも、感じる事はできていた。
結局この屋敷は首長の屋敷という事になる。大きなはずだ。都が穴に落ちる前にあの小人が大扉に入っていった、その屋敷である。という事は、あの小人がこの屋敷の中のどこかにいるはずだ。都はその事を思い出した。自分がここに来る前の経緯を、やっとはっきりしてきた頭で色々と思い出してきた。
「あのー、私ここに来る前にすごく小さな人を見掛けたんです。それでその人を追い掛けてきたらこのお屋敷のお庭が見えて、それでさっき言ったおじさんを見掛けて」
「フフ、そう、小さな人ねぇ、あの者は少名人といってね、フフ、小さいでしょ、可愛いいでしょ、ああ見えても、ここで色々なお仕事を任せているのよ」
この女性浮芹は、話しながらまた都の座る前にきてゆっくりと腰を下ろした。ふんわりと、正に天女のように座ると、一度チラっと都に優しい眼差しを向け、その後ゆっくりと顔を部屋の奥の方に向けた。そして両手の平を肩の高さまで上げ、パン!と大きく一度叩き、また都を見て優しく微笑んだ。都がその音にキョトンとしていると、いつからそこにいたのか一羽の白ウサギが部屋の片隅に、両手を、いや両前足をダラっと下げてチンチンの姿で立っていた。都は驚き、ウサギに向かって指をさした。
「あっ、ウサギさん!」
そのウサギは都の声には何も反応を示さず、そのままの姿で動かなかった。ウサギが現れると浮芹の表情が一変した。先ほど都に向けていた天女の如く優しい微笑の顔とはほど遠い、まるで般若の面を思わせるような厳しい表情となり、やや下を向いたまま、その物を射通すような目付きだけを横に向け、心に深く突き刺さるつららのように凍り付くような口調で、そのウサギに向け言葉を投げつけた。
「さあ、突っ立っていないで、さっさと食事の支度をしなさい!」
白ウサギはこれが当たり前なのか、無表情のままペコっと小さく一礼すると四つん這いとなり、サッと動くや否や屋敷の奥へと姿を消した。
「都さん、御免なさいね、ウサギは本当に動きがのろまで、こちらで指図しないと直ぐには動かないのよ」一応笑顔で話しているが、先ほどのような優しさが感じられない。
この変わり身には驚くが、再度都に見せる表情は前の天女顔に戻っている。ただ、都に対しての浮芹の言葉も優しいようにも思えるが、どこか棘のある含みが感じられる。都もどことなくそんな言葉の響きを敏感に感じ取っていたのか、
「あのぅ…」無意識で言い淀んでしまった。
「あらっ、どうかなさいましたか、都さん」
「い、いいえ、別に、何でもないんですけど、白ウサギって、今あそこにいた白ウサギしかいないんですか?」
「フフフ、いいえ、ウサギはこの国では小間使いなのよ。各屋敷が何羽かずつ抱えていてね、ただ、役立たずが中にはいるのよ、その教育がなかなか大変なのよね」
そういうとまた両手の平を肩まで上げると、さっきよりも大きくパンと叩いた。すると今度もまた白ウサギが現れた。都はそのウサギのいる方に目を向けたはいいが、今度はかなり驚きの顔でキョトンとしている。何故なら、先ほどはいつの間にかウサギが部屋の片隅に立っていたのだが、今度は都の視線の中心から少し外れたところで、角度にして五度ほど離れたその空間にフッと現れ、現れた瞬間を都は直接見たため、正に突然視野に入ってきた、という感覚だったからだ。
「あっ、またウサギ…」
「飲み物は食前は蓬茶、食事中に土筆茶、食事後に蕨茶、良いわね!」
都の驚いた顔には全く反応せずに、浮芹は現れたウサギに向かってまた厳しい口調で言いつけた。浮芹の言葉にウサギはまたペコッと頭を下げ、即座に奥へと消えた。このウサギがつい先ほど現れては消えた、あのウサギと同じウサギなのかどうかは判別できないが、都は自分が夏の出雲の神社からこの世界へと誘った、あの少々態度の悪い白いウサギの事を思い出していた。そして浮芹にその事を話してみた。
「私がここに来るまで、この国に来るまで、白ウサギが私を道案内してきてくれたんです」「あらっ、そうなの」「はい、私、友達と一緒に旅行にきていて、ある人に会うために、ある神社に行く途中、突然その友達が消えてしまって…」
言いながら、都は美奈美の安否の事を考えた。
「辺りを探し回ってもどこにもいなくて、泣きそうになった時、そうしたら、そこに一羽の白ウサギがフッと現れて、何かを知っているような目をして、私に付いて来るようにと誘ったんです、…いえ、そのように私が感じたんです」
「そう、友達が消えてしまったの、心配ねぇ」
「はい、すごく心配なんです」都は浮芹の目をしっかり見て力を込めて言った。
「すごく心配で、でも、その白ウサギが何かを知っているように感じたから、私、付いてきちゃったんです。すると、この国へ、ぅ、ぅ、ぅ…」
その後都は、今まで押し殺していた感情が堰を切ってしまったのか、涙を止める事ができず声にならなくなってしまった。浮芹は黙って都の泣き顔を見ていた。
実際のところ、都の話の中で〝旅行〟と言っても浮芹には意味が通じていないだろう。
浮芹は都の涙で濡れた手に、小さなハンカチのような布切れを手渡し、娘に言って聞かせるような優しい口調で話し始めた。
「都さん、ここでは安心して、いつまでもいてもらって良いのよ。お友達の事は、どのような形でお手伝いできるかまだ分からないけれど、私達にできるだけの事はしてみましょう。その間、ここでゆっくりしていらっしゃい」
都は涙でグシャグシャになった目の周りを、そのハンカチでしきりに拭った。
「ぅ、ぅ、ぅ、本当ですか、…お願いします、美奈美を探して下さい」
「そうね、ただ」浮芹は都の話の中で、一つ気になった事があったようだ。
「都さんの前に現れた、その白ウサギの事なんですけれどね、普通この国のウサギ達は自分で勝手には動かないものなのよ。必ず主人がいて、何がしかの指示があって初めて行動を起すものなのよね。そぅ、例えばね」
浮芹はまた両手の平で大きく、パン!と叩き、するとやはりこの時もどこからともなく、一羽の白ウサギがある空間から、フッと現れた。
「さぁ、さっさとお食事をお出しして!早くしなさい!」
白ウサギはいつも同じ態度で頭をペコっと下げ、そしてフッと消えていく。今まで浮芹の合図で出てきた白ウサギ達は皆、一言も何も話さなかった。都は同じ白ウサギなのに私を誘いにきた白ウサギとは全く違うわ、と感じていた。
「ほらね、今みたく何か合図をして呼び出し、する事を伝え、そして動き出す、こういうようにこちらが指示を出さない限り、ウサギは勝手には動かないものなのよ」
「はい、そのようですね」都、目の周りの涙を拭いながら頷いた。
少しして二人が話しているその横に、フッと白ウサギが朱色のお膳を両手で、いや両前足でしっかりと持って現れた。そしてゆっくりとしゃがみ、そしてゆっくりと身体を伸ばすようにして、先ず浮芹の前にそのお膳を床に置いて滑らすように出していった。それをジッと見ていた浮芹は突然目尻を上げ、口元をキッとさせると、
「最初はお客様からお出しするのよ!まだ分からないの!この、役立たず!」
浮芹のその大きな声に、白ウサギはその場にお膳を置いてキュッと身体を縮め、その場でチンチンの格好で無言で立ち尽くしてしまった。都も同時に肩をキュッと締め、体を硬直させて両目を広げて驚いた。
この浮芹という女性、優しい目で都を労わる時と、白ウサギを怒鳴る時のギャップがかなり大きい。どちらがこの女性の本質なのか。ただ都にとっては、今の自分にはこの人を頼るしかない、と思う現実がそこにあった。しかしそれとは別に、心を許すにはまだ早いよね、という心境も併せ持ちながら、チンチン姿の白ウサギを見詰めていた。
都の向かい側で、鬼のような目で白ウサギを睨みつけていた浮芹は、都の方に目を移すとその顔はうって変わり、観音様のような柔和な微笑みを浮かべていた。
「都さん御免なさいね、大きな声を出してしまって、フフ、本当にもぅ、最近のウサギ達は本当にできが悪くてね、躾がなるまでに時間が掛かるのよ、困ったものだわ」
その笑顔は首長の美しい婦人というに相応しい、気品溢れる笑顔に戻っていた。
「先ほどの話の続きですけどね、今見たようにこちらから指示を出さないと動かないウサギが、独断で貴方を誘いに行くという事は、通常は有り得ないはずなのだけれどね」
「という事は…」都は肩の力を半分ほど緩めた。
「そう、という事は、その白ウサギに指示を出した誰かが、明らかに存在するという事になるわねぇ」また浮芹の顔付きが険しくなった。
浮芹は話しながらまた両手の平で、今度は若干軽めに、パン、と叩いた。すると二人の横で固まっていた白ウサギが、フッと消え、間を置かずに別の、見た目では分からないが雰囲気が少々落ち着いた感じの、恐らく別の、と思われる白ウサギが現れた。浮芹は端的に、その新しく現れた白ウサギに指示を出した。
「良いわね、分かりましたか、後、宜しくお願いしますよ」
この婦人、指示を出す時はいつも厳しい般若のような顔付きだ。
その白ウサギはやはり、ペコっと頭を軽く下げると直ぐに消え、そしてまた直ぐにもう一つの朱色のお膳を持って現れた。現れると直ぐに、そのお膳を先の白ウサギと同じように、身体をゆっくりと伸ばしながら、この時は都の前に恭しく差し出し、身体を元の位置まで縮め直すと再度ペコっと頭を下げ、またフッとその場で消えた。
「さぁ都さん、お腹が空いたでしょう。大した物ではないけれど、どうぞお好きなだけお食べ下さいな、フフフ」
言われて都は一度小さくコクっと頷き、ゆっくりと箸を右手に持った。しかし暫しそのままの格好で動かない。余りに美味しそうな食べ物が目の前に並んでいるので、箸が迷って動かない、というわけではなさそうだ。浮芹の言うように、お腹が空いていたのは明らかだ。美奈美と一緒に出雲に向かって走る列車の中で、海鮮弁当を食べて以来何も口にしてはいなかったから、その後の時間がどれほど経っているのか分らないが、かなり経っている事には間違いがない。しかも彼女は彼女の人生で、こんなに歩いた事あったかしら、と自分で言うほど歩いてきた後でもあった。お腹はペコペコのはずだ。
都は美奈美の事を考えていた。
「あの、誰かが指示を出して白ウサギが迎えにきた、と、いう事は、その誰かは私の事を知っていた、という事なのでしょうか?」
「そういう事になるわね」浮芹は表情を変えず、当たり前でしょ、という顔で答えた。
「それと、美奈美の事はその事と、何か、関係があるのでしょうか?」
都はまだ手に箸を持ったまま、ジッとその箸の先を見詰め動かそうとしていない。
「そぅねぇ、何ともいえないけれど、それは関係があるかもしれないわね。問題は貴方の事を知る、その誰かなのよね」
浮芹は少し厳しい視線を都から外すと、自分の中で何かを決めたのかコクっと一回頷くと、再度両手の平をパンっと叩いた。もちろん直ぐさま白ウサギが一羽、ある空間からフッと現れた。
「ちょっとこちらへきなさい」浮芹は白くスラッとした美しい手で手招きをした。
彼女は近くにきた白ウサギの、ピンッと伸びた二本の長い耳の片方を荒々しく、片手でギュッと握るとクキっと折り曲げ、自分の口元の近くまで引き寄せた。そして都に聞こえないくらいの囁きで何事かを短く伝えると、握っていた耳をサッと離し、さっさとお行き、と言わんばかりにその手を横に三度ほど払った。
「さぁさぁ都さん、どうぞお食べなさい。お友達の事は今調べさせますから。さぞ心配な事でしょうけど、先ずは都さんが元気にならないと、ねぇ、フフ」
「えぇ、…はい」都は無表情のまま、ただ返事をした。
返事をした後も都はやや暫く、そのまま箸の先端をジッと見詰めていた。
庭先で囀るチチチチチッ、という小鳥の鳴き声が都の鼓膜を刺激した。明るい日差しが屋敷の部屋の奥へと延びてくる。都の座る辺りにも庭の木々の先端の尖った影法師が、都の座る間近まで何本か近寄ってきた。都はやっと箸を握る手に意識を向け、目の前の色とりどりの鮮やかな惣菜の一つにゆっくりと手を伸ばし、そしてゆっくりと口に運んだ。
「美味しい、…これ、美味しいわ!」思わず声にした。
「そう、美味しいでしょう。この国には美味しい食べ物が沢山あるのよ、フフフ」
そういう浮芹はいつも食べ慣れているからなのか、箸に手を付けていない。都は余程お腹が空いていたのか、一度手を付けたが最後バクバク食べている。先ほどまでの憂鬱そうな暗い顔がうそのようだ。
「美味しいわ、これ、本当に美味しいですね」
食べ始めてからまだ数分で、お膳がもう直ぐ空になりそうな勢いだ。
「浮芹さん、この野菜はなんていう野菜ですか?私、これ、見た事ないんですけど」
「それはこの国では普通にその辺に生えている野草なのよ。イズナ、っていうの」
「イズナ、ですか?」箸の先に一つまみほどの惣菜を挟み、ジッと見ている。
「そう、イズナ、美味しいでしょう、私も大好きなんですよ」
浮芹は我子の食事姿を見るように、いとおしむような眼差しで都を見ていたが、
―バッタン! 大きな音がした。
何と、微笑む浮芹の目の前で、それまで実に美味しそうに嬉しそうに、朱のお膳の料理をバクバク食べていた都が、突然、箸を持ったまま横倒しに倒れてしまった。
都の倒れる姿を目の当たりにした浮芹は、…驚いていない。全く驚いていない。そればかりか微笑んでいた柔和な顔が、いつのまにかその視線の先にある全ての物を突き通すような鋭い眼差しに変わり、横倒しになっている都を、何も言わずジッと見詰めている。
この婦人、一体何者なのか。そして無言で両手を上げると例の如く、パン、と、この時はパン、パン、と強く二回叩いた。すると今までのような白ウサギではなく、部屋の奥の扉から小さな影が一つコソコソっと音も無く入ってきた。この屋敷に都を導いてきた、というわけではないが、都がその後を追ってきたあの小人、少名人だ。その姿はやはり確かに小さい。背丈は凡そ五十cmほどだ。少名人はコソコソっと小股で浮芹の近くに寄ってきた。
「お呼びでしょうか、浮芹様」小さな身体を更に屈め、恭しく頭首を垂れた。
「そうよ、呼びましたよ。だからきたのでしょ」
何とも意地悪にいうこの婦人、倒れている都を指さして少名人を睨んだ。
「どこからこんな小娘を連れてきたの!まったく、ろくな事をしないわね!」
「申し訳ございません。こちらがチラっと見ただけで、こやつが気付いてしまいまして、姿を消したつもりでいたのですが、どこをどう付いてきたのか」
「言い訳はいいわ!さっさと始末しなさい!」
そう言い放つとスッと立ち上がり、天女のような白い着物を翻しスーっと床を滑るように、足を動かしているのかいないのかが殆ど分からない動きで、音も無く流れるように部屋から出て行った。浮芹が立ち去った後には、ほんのりと、何がしかの花の香りが漂っている。浮芹がこの部屋から退出するのをしっかり見届けてから、少名人は振り返り、横たわっている都を暫くの間ジッと眺めていた。気付くと朱のお膳がどこへいったのか消えている。
この小人、少名人は何を考えているのか。立っているのか座っているのか分からないような背丈で、都の横でジッと立ち、首だけを左右に動かして都の頭から足のつま先までを、瞬きもせずに丹念に見定めている。
そして一分ほど経った頃、その短く小さな両手を上げ、パン、と、先ほど浮芹がやったと同じように大きく叩いた。叩いたは良いが余りに小さい手のためか、浮芹がやった時ほどこの広い部屋では音が広がらない。しかしそれでも部屋の奥のどこともなしの空間から、数羽の白ウサギがフッと現れた。続けて少名人がこれも浮芹が先ほどやったように、パンッパンッと二回小さな手を大きく叩いた。するとこれも同じように、部屋の奥の扉から数人の小人がコソコソっと現れた。という事は、ここには白ウサギだけでなく小人も何人もいたという事になる。
数羽の白ウサギと数人の小人達はそれぞれ少名人の前に来ると、一度ペコッとお辞儀をし、それから彼らは当たり前のように、都の回りに綺麗に間隔を開けて並んだ。この一連の動きを見ると、意外とこの少名人という小人、浮芹が仕事を任せていると言うだけあって、この屋敷の中でそれなりの地位があるのかもしれない。
彼らが都の周りに綺麗に並び終えると、それまで黙って立っていた少名人は右手を伸ばすと肩の位置まで上げ、ブツブツ、ブツブツ、と殆ど聞き取れない小声で何やら呟きだした。そして上げた手を都の体の上にかざすと、右に左に何度も水平に動かしだした。一瞬、都の体が数センチほど浮いたように思えたが、少名人の呟きはまだ続く。すると都の体が自然と仰向けになるように動きだし、手足がピンッと伸び、横にはなっているが仰向けのまま直立不動の姿勢となった。そしてその都の周りに姿勢良く並んで立っていた白ウサギと小人達が、それぞれ都の体の下に軽く手を差し込むと、見た目は殆ど力を入れていない感じで、ただ支えるようにしてフワッと持ち上げた。
少名人が更に呟きを続けていると、都の体が何となく白く見えてきた。どこから出てきたのか、繭のような、輝く艶のある白い糸のような物がシュルシュルっと、彼女の身体を覆いだしたかと思うと、彼女の身体はどんどん白色に包まれていった。一、二分この繭のような状態が進み、見た目は本当に大きな繭のように、大きな楕円を描いてフワフワの状態に見える。その大きな楕円型の繭の先端に、チョンと突き出た丸い都の頭だけが突起物として見えている。何ともおかしな絵だ。いや、都にとってこの状況、おかしいとは言っていられない。生きているのか死んでいるのか、都は未だに目を閉じたままだ。
都の身体に手をかざし、何か念仏のような言葉を呟き続けていた少名人は、自分より遥かに大きく丸くなった都を見上げると、呟きを止めた。周りの小人やウサギ達もそれに合わせ手を離した。しかし都の身体は床から五十cmほどの高さで浮いたままとなっている。
少名人はその繭のようになった都の身体を、片手で撫でるように軽く触り、それと共にフゥ~っと獣臭のような臭い息を吐きだした。その息が大きな繭のようになっている都の身体に、靄のように全体に広がり、その繭玉がスーっと次第に縮みだした。いや、縮むというよりは溶けているのか。しかも白い色が次第に色が無くなり透明になりだしている。
繭のようだった都の身体は、全く違う装いとなってきた。白かった繭のような楕円の身体が透明なプラスティックのようになり、都の体の形で固まった状態となった。エジプトのミイラが入っている人型の棺桶のような、そんな物だ。既に色が無く透き通った殻に包まれた状態となった都は、未来の睡眠システムで寝ているようにも見える。
横に立っていた少名人は、殻を見上げながら都の顔の近くに移動した。すると今度は臭い息をフゥーっと都の顔に吹き掛け始めた。その周りで突っ立ったままの数名の小人と白ウサギ達は、微動だにせず、少名人のやる事をただジッと見ているだけだ。
少名人は一旦息を止めると胸を膨らませた。そしてその小さな顔を、できるだけ都の顔に近づけようとしているのか、すっぽんの息継ぎ見たくに首を更に伸ばし、再度あの獣臭のような臭い息を都の顔目掛け、フゥーっ!と先にやったより強く吹き掛けた。すると蝋人形のようにまったく動かなかった都の瞼が一瞬、ピクッと動いた。
「ゴホッ!ゴホッ!」都、覚醒。
都は咳き込むと同時に目を開けた。開けたは良いがその目はボヤっとした目付きで一方向を見詰め、焦点が合っていない。長い間の冬眠から目覚めた熊のように、暫くボーっとしている。そして何やら口をもごもごしだした。まだ意識が朦朧としているのか、目の焦点が合わないまま何かを言いたいのか、口をもごもごさせている。
その内、小さく呻き声を出し始めた。
―ぅ、ぅ、ぅぅ、ぅうう、ううう 次第に呻き声が大きくなってきた。
呻き声を出し続け、言葉は無いが目が次第に色を取り戻してきた。
暫くして呻き声は止まったが、まだ言葉が出ないようだ。しかし目がしっかりと物を捕え始めた。顔の表情を全く変えず、向きも変えず、何か情報を得ようとしているのか、目だけをキョロキョロと上下左右に動かしている。その目だけがまるで単体の生き物のように、必死で何かを探しているみたいに、次から次へと目的物を変え落ち着かない。
暫くキョロキョロが続いた後、都の視線は自分の直ぐ横でただ黙して突っ立ったままでいる、白ウサギと小人達を捕らえた。
―私の周りに小人が七人?
―私って、白雪姫?
このような状況で精神的余裕があるのか無いのか、とにかく都は目を覚ました。しかし目を覚ましたからといって都の置かれた状況が良くなるわけでもなく、都の頭の中にはこの状況を打開する術の、何をも思い浮かんではいなかった。
この部屋は畳で数えるなら何畳間になるか、板張りの床なので寸法が分かりづらいが、少なくとも畳二百枚くらいは敷き詰められそうだ。熱海などの温泉旅館の大宴会場といったところか。しかも部屋の中には何の調度品も置かれず、声を出せば自然エコーが掛かりそうな、空間だけが広がる大きな部屋である。唯一目にする物といえば、天井からぶら下がる異様に大きな繭玉だ。一体これは何なのか?オブジェとは言い難く、その物ズバリ
〝繭〟というには大き過ぎる。一つしかないのもおかしい。不可解な物体というしかない。
この一見大きな繭玉以外、四方の一面こげ茶色の板壁には何も無い。その一画、広大な日本庭園が見渡せる南側には、現代のベランダといっても良い窓枠がある。ガラスはもちろん無い。そこから真夏の太陽光が燦燦と降り注ぎ、板張りの床を、実際焦げているのではないかと思えるほどに熱している。この時刻、太陽が真上にいるためなのか、先ほどまで床板に薄黒く伸びてきていた庭先の針葉樹の尖った影法師が、いつの間にか消えていた。南側の大きな窓からは、全くの無風のため動きの止まった草木の綺麗な立ち姿が見え、大きな池の上では空気が揺らいでいるのだろうか、距離感の分からない感覚で陽炎がユラユラと見えている。
この暑さゆえ、もちろん部屋の中もかなりの温度と既になっている。室内の空気がモワァとした質感を持って纏わり付いてくるようだ。そんな中、都は更にプラスティックのような透明な殻に包まれている。熱くないわけがない。都の目だけが落ち着き無しにクルクル動き、小人と白ウサギを見ている。目以外の部分の動きは無く、額や首筋からタラタラと脂汗が滴っている。
この時都の意識は既にはっきりとしていた。ただ体を全く動かす事ができない状態のため、唯一動かす事のできる目で状況把握を行うしか、文字通り手が無かった。
―私、何でこんな格好になってしまったの?
―う~ん、本当に動けないわ
―そこに、誰か居るの? 目をできる限り、充血するまで動かしている。
都の目の位置からは、背の低い少名人は見えていないようだ。その少名人、都の目の動きに係らず淡々と飽く迄事務的に、ただ自分のやるべき事を進めているように見える。恐らくこのような雑用は、この屋敷の中でこの小人の役割の一つなのだろう。
少名人が都の殻の周りにいる白ウサギと小人達に、何やら指示を出している。上げているのかどうかも分からないくらいの短い腕を伸ばし、彼らにあれやこれや忙しなく何かを指示しているが、それに対してウサギと小人は全くの無表情で突っ立ったまま、この時もやはり微動だにしていない。こいつら話を聞いているのか、と思わせる光景だ。
突然少名人がただの突起物のような短い指を、パチ!と鳴らした。小さい指で鳴らした割にはかなりな音が部屋中に響き渡った。その音は何かの合図らしく、鳴らした音と同時に、無表情で突っ立っていた白ウサギと小人達が都の殻から少し離れ、一斉にゾロゾロと殻の前方に向かって歩き出した。
結局彼らは何をしにやってきたのか。彼らが都の頭が出ている殻の前方に来た時、殻と彼らの列が、見えない綱か紐かで繋がれてでもいるかのように、殻が列の後ろをスルスルと独りで動き出した。その列の動き出した後に一人残る少名人は、ただ黙ってその異様な光景を後方からジッと見ている。その姿もまた異様だ。
殻に包まれ身動きの取れない都は、この時はっきりとした意識で、辺りの状況を何とか把握しようと努力していた。しかし目玉の動く範囲でしか辺りは見えず、今のこの事態が何なのかどうなっているのか、把握をするには程遠い状態にある。
今彼女の目に見えるのは、立派な艶のある竹細工でできた格子状の部屋の天井と、彼女の頭の少し前を行く、白ウサギのピンっと立った何本もの耳の先っぽ、それと自分が少し前に入り込んだ大きなベランダ窓の外、あの広大な日本庭園の上空の青空だけだ。
その景色がゆっくりと前から後ろへと移動している。殻が浮いているために振動が全く無く、目を閉じると自分が動いているという感覚は無かったが、この時は見えている天井と建物の庇の移動で、都は自分が殻のまま移動している事だけは分った。
―いったい、…どこに向っているの?
―でも、何で私はこんな格好になっちゃたんだろ?
都は今の自分の境遇がどこでどうしてこうなったのか、殻から飛び出した頭を何とかクキクキ動かしながら、必死で考えていた。すると彼らの前方に見えている、ただのこげ茶色の板張りの壁が、彼らの動きに合わせてゆっくりと少しの音も無く、仏壇の扉を開けるように、ちょうど壁の真ん中辺りから開き出した。
開いた先は真っ暗で何も見えてはいない。そこに向かって彼らの列は何の躊躇も無く静々と進んでいく。さも、それが当たり前のように。もちろん都の殻も彼らの後に続いていくのだが、都は目をキョロキョロさせながら、何?何なの?と、目一杯の不安顔のまま、恐らく気持ちの半分は恐怖心であろうが、彼らと共にそのまま暗闇へと消えていった。
そして殻の後ろの端が暗闇に消え入ったその途端、こげ茶色の壁は開いた時とは正反対に、バタン!と勢いよく勝手に閉まり、そこにはまた継ぎ目などどこにも無い、ただのこげ茶色の傷跡一つ無い板壁があるだけとなった。
後には、シーン、と静けさだけが残る大広間の大空間にポツンと一人、土筆のように無言で立っている少名人がいた。この小人殆ど表情が変らない。能面のように顔の筋肉がピクリとも動かない。頬も眉の動きも眉間の皺も、顔の筋肉が全く無いのかと思うほどに表情が無い。能面のような不気味さだ。無論、このガランとした大広間で一人ニヤニヤとしていたなら、その方が不気味ではある。
少名人は都の殻が暗闇に消え、こげ茶色の板張りの壁が元のようにバタンと閉まった後、やや暫くその壁を見詰めていたが、何かに気付いたように身体の向きをクルっと変え後ろを向いた。そして短い腕を上げると、更にただの突起物のような指をある方向に向けピンと伸ばした。そしてまたブツブツと何やら唱えだした。それは呪文のようだが、声が小さく何を言っているのか分からない。突起物状の指の先はというと、この大広間の片隅の天井付近、天井からぶら下がるこの部屋の唯一のオブジェ?これもまた不気味な大きな繭のような、実際は何なのかは分らない物体。小人はそれを指さし何やら呪文を続けている。
するとその繭玉のような不気味な物体が、一瞬ピクっと動いた。
小人はまだブツブツ言い続けている。
―ピクピク、ピクピク やはり動いている。
中に何か生き物がいるようだ。やはりこれは何かの繭なのだろうか。
小人はまだブツブツと呪文を唱えている。するとその繭がピクピクしながら、見た目少しだけ小さくなったと思ったら、ドサ!っと床に落ちた。床に落ちて形が歪み平べったくなると、そのままの形でユルユルと動き出した。これは既に繭とはいえず、アメーバーのような、もしくは粘菌のような動きで近くの壁に向かうと、何とその壁と床の間の僅かな隙間にスルスルっと入り込み、見る間に姿を消してしまった。不可思議、と言うしかない物体だ。
この間数十秒、少名人はブツブツと呪文らしき呟きを続けていたが、あの異様な物体が壁の中に姿を消すと同時に呪文を止めた。そしてまた暫くの間壁を見詰めていたかと思うと、クルっと身体の向きを変え、トボトボと短い足を部屋の出入り口に向け部屋から出ていってしまった。
小人の去った大広間には何も無く、ガラン、とどこからか乾いた音がしてきそうだ。
そんな乾いた空間に真夏の強い日差しが僅かだけ入り込み、床の端をジリジリと焦がしている。
都会の野菜工場で見られるような、薄暗い赤色光の明かりが辺りを仄かに照らしている。この部屋の中央を貫く通路の向こう端は、全く確認できないほどに長く続き、実際にここは工場ではないかと思えるような、天井の高い空間の意外に幅の広い通路の脇、何のための物なのか、棚状に仕切りのある壁が通路と同じく端の見えないほどに続いている。この空間に通路は中央に一本しかない。この一区画だけを見ると、古くなって色褪せた巨大なカプセルホテルのようだ。しかしそれほど現代風ではない。
この薄暗い空間に、今動く物は何一つ見当たらない。空気も淀み、暫くいると息苦しくなりそうだ。決して気持ちの良い場所ではない。ここは部屋なのか倉庫なのか、そんな事さえ分らない不気味な空間だ。
―ガタン、…、ゴトン 見えない空間の奥で音がした。
―グゥー、…、キュゥゥゥー 何の音だろうか。
泣き声とも、呻き声ともつかぬ不気味な音が聞こえる。
「何なの、ねぇ、誰かいるのぉ」都の声が響いた。
その端が有るのか無いのか分からないほど、薄暗く奥が見えない通路に、都の殻がポツンと置かれていた。周りには既にウサギも小人もいない。
時間的にはほんの少し前、少名人を後に残し、宴会場のような大きな部屋の壁から暗闇に消えた、小人とウサギと都の殻は、その後この屋敷のどこなのか、見るからに異様な空間へと都だけが移動してきたようだ。
薄暗い空間の中、何故か都の殻だけが一つ置かれている。都は殻から突き出た唯一動く頭をクキクキさせ、目だけをひたすらキョロキョロさせながら、辺りの状況を何とか把握しようとしている。が、殻の周りには誰もいない。いないはずなのに不気味な音だけがどこからか聞こえてくる。ただでさえ薄暗い異様な空間で、一人殻に閉じ込められ身動き一つできない状態で、その音が都の恐怖心を更に煽っている。
「ねぇ~、誰かいるなら、返事、してよ~ぅ、ねぇ~!」
都は自分の恐怖心を紛らわせるため、明らかに誰もいなさそうな空間で、一人声を出さずにはいられないのだろう。
―グ、グゥーン、…、ゴト、…、グゥーン、カタ
今度はある意味、機械的な音がした。
―ズズゥー、ズズズ、…、クチャ、…、クチャ、クチャ、クチャ
何の音かよく分からない音がする。薄暗い通路の先、少なくとも何か得体の知れない物があるのかいるのか、都の恐怖心は否応無しに増していく。
―ズズゥー、ズズズ、…、クチャクチャ、グゥ、グゥ、…、ウゥー
「何、なんなの! ねってばぁー!」
都の頭の中はパニック状態となっていた。
しかし身体がどうにもならないこの状態では、ただ叫ぶしかない。すると、都の殻以外何も無い通路で、都の殻が独りで少しずつ動き出した。殻は氷の上を滑るような滑らかな動きで少しずつ、凡そ一分間に三mほどのゆっくりとしたスピードで動いている。
どこへ向かっているのか。
壁一面にカプセルホテルのような升目の並ぶある一角、そこだけ升目の空いている箇所に、スゥーっと吸い込まれるように、それは殆どこの殻のために作られたのかと思えるくらいに、スッポリとはまるようにゆっくりと自ら入り込んでいった。
「ええーっ! どこに行くのぉ~、ねぇ~、ぇ~、ぇ~」
都の声が小さくなっていく。悲しいかな次第に聞こえなくなってしまった。その間、あの不気味な何の音なのか分らない、クチャクチャ、ズズズー、という音が、見えない通路の奥の方から途切れ途切れに聞えてくる。
一体この空間は何なのか、薄暗く奇妙な音のする誰もいない空間、という以外に何とも形容のし難い、実に異様な空間である。もちろんここも屋敷の一部であろう事は想像できる、が、一体ここは何をする場所なのか。こう問い掛けてみたところでここには誰もおらず、都は升目の壁に入り込んでしまい答えは出ない。
一方、この升目の壁をよく見てみると、中が薄ぼんやりと見えている。都の殻が入り込んだ升目は正に今、膜が張っていくように入り口が閉まった。他の升目に開いている箇所は見当たらない。そしてじっくりと中を見てみると、他の升目にも僅かに動きが見て取れる。一つ一つの升目の中には、どうやら都の殻と同じような殻が入れられているようだ。
その一つ一つの殻が微妙に、ほんの僅かだが、ピクピク、ピクピク、と動いている。それこそ蚕の繭棚に置かれた、既に幼虫が育っている繭のように、その一つ一つが動いている。その中の一つが都の殻だ。
ここは何かの育成室なのだろうか。まさか本当に蚕が入っているわけでもあるまい。疑問ばかりがうす暗い空間に浮いている。この異様な空間でその答えを求める事は無理なのか。どうにも、答えの無いテストのようだ。
―ググーン、カタカタ、グググググゥー 突然、升目の一つ一つが動き出した。
通路の手前から端の見えない奥に向かって、鈍い機械音のような音と共にカプセルホテル状の升目の中が少しずつ、ググ、ググ、とゆっくりと全体が横にずれていくのが見える。
その中の一つ、都の入る殻も例外ではない。都の顔は通路側とは反対側に向いているようで、直接見えはしないが、恐らく恐怖のためにその顔は歪んでいるに違いない。その証拠といって良いのか、通路側から見える殻のお尻部分が他の殻と同じく、ピクピク、ピクピク、と不定期に動いているのが分かる。
―ググ、ググ、ググ
こうしている間にも升目の中全体が、少しずつ奥へ奥へと移動を続けている。
―ズズゥー、ズズズ、…、クチャクチャ、グゥ、グゥ、…、ウゥー
あの不気味な音もまだ聞こえている。静かになったと思えばまた続く。気付くと都の殻は先ほど入り込んだ位置から、数メートル先に進んでいた。
―ガタン、ズズゥー、カタ これは枡目の音ではない。また別の音だ。
都の入り込んだ升目の壁の通路を挟み、逆側の壁の一部が突然パカっと開いたかと思ったら、どこからか滑り落ちて来るように、壁の奥からスルスルっと一つ殻が現れた。その殻は都の殻のように一見プラスティックのような、人工の材質でできているのではないかと思える半透明な殻だ。ただ中に何が入っているのか見えてはいないし、都の殻のように頭が出ているわけではなかった。単に楕円形の繭状の半透明な殻だ。今その殻がこの通路の真ん中にポツンと一つ置かれている。都の殻が置かれていた時と同じ状況だ。やはり周りには誰もいない。
この殻、都の時と状況が似ているならば、やはりというべきか間を置かず、通路を挟んで逆側の都の殻が入っていったカプセルホテル状の枡の一つ、その膜状の入り口がスゥーっと音も無く開いた。そして一瞬躊躇うかの如き数秒の間を置いた後、この殻は自らスゥーっと風にでも流されたように滑らかに、その開いた升目の一つに吸い込まれるように入っていった。この異様な空間では、何故だか全ての動きが自動で行われているようだ。凡そ機械文明からは程遠い雰囲気ではあるのに、どういう仕掛けか全く分らない。
この不気味な空間でどれくらいの時が過ぎたのか、通路の奥から何やら音がする。この空間で始めから聞こえているあの不気味な音とは違う、もっとキーの高い、これは明らかに人の声だ。
「だ、…、かぁ、~、…、た、…、け、…」
升目の中からだ。はっきりとした言葉には聞き取れないが、何かを叫んでいるようだ。
「誰かぁ~、助け、…、てぇ~」これは都の声だ。
あの殻から出ている頭で、必死に声を振り絞っているようだ。しかし悲しいかなこの空間には誰もいない。もしいたとしても、彼女を助けるべく人物がいるとは思えない。それはこの空間に入り込む以前の状況から、容易に想像はできる事だ。
―ググ、ググ、ググ 升目の中は更に先へと動き続けている。
―ググ、ググ、ググ
―クチャ、クチャ、ググ、…、ウー この不気味な音も続いている。
都の殻もくぐもった機械的な音と共に、少しずつ先へと移動し続けている。そして都の助けを呼ぶ声も、誰もいない不気味な空間で延々と虚しく響き渡っている。
「助け、…、て~、誰、…、かぁ~」
「え~っ!きゃ、…、きゃぁ~!」俄かに、都の声が変った。
長く伸ばして助けを求めていた声が、差し迫った叫び声に変った。何があったのかその声が更に激しさを増した。
「いやぁ~、何なのあれ、きゃぁ~!きゃぁ~!」
都の殻の動く先、薄暗い空間のその先に何やら動く物があるようだ。生き物なのか何なのか、薄暗い中何かが蠢いている。
―クチャ、クチャ、クチャ、…、ググ、ウー
どす黒く長い、動物なのか何なのか、動く物がいる。それも一匹ではなく何匹かが何かを貪っているらしく、何かを取り合い、お互いの身体をくねらせながら絡み合っている。
この空間に入ってきた時から聞こえていた、あのクチャクチャという不気味な音は、この生き物が立てていた音のようだ。この生き物が何匹も集まり、一つの食べ物なのか何なのか、むき出した牙でその獲物を引き裂き、それを取り合うように貪っている。見るからにおぞましい光景が、仄かな赤い光に照らされ薄黒くシルエットとなり、周囲の壁や床に浮かび上がってぼんやりと映し出されている。これは見ようによっては影絵のようにも見えるが、お世辞にもそんなに美しくはない。単に不気味というしかない。
殻に入って身動きの取れない都が必死で唯一動く頭を回転させ、このおぞましい光景を目にして叫び声を上げていたのだ。これは都でなくても叫びたくなる光景だ。
その生き物はアマゾンの大蛇アナコンダのように、七、八mもあろうかという長い身体を持ち、しかもその身体は屋久杉の大木のような太さで、顔には龍のように大きな目と大きな口、それはまるで太い胴と獅子舞の顔を持った大おろち、といった姿だ。
その獅子蛇とでも言えば良いのか、この生き物がこの薄暗い空間の奥に何匹もいて、お互いの身体を絡ませながら何かを奪い合い貪っている。何とも形容し難い異様な光景、遠目の効かない薄暗いこの空間の中でも気分の悪くなる光景だ。
「きゃー!何なのあれ~、きゃー!」
都の殻の入る枡目は少しずつ動きながら、そのおぞましい光景に向かって進んでいたのだ。という事はこいつらが今食べている物は、少しずつ動きながら彼らに近づいていっている、これら繭状の殻の中身なのか。という事は、必然的に殻に入った都自身もそのままいけば、あの獅子蛇の餌食となる運命の道を進んでいる、という事になる。
「きゃぁ~!誰かぁ~、誰かぁ~!」
もちろん都自身、この空間には誰もいない事は既に承知の上だろうが、叫ぶ時の常套句として〝誰かぁ~!〟と言うしかない。都は動かぬ身体を必死でカタカタと動かし、何とかその死のロードから抜け出そうと試みている。しかし、この姿では如何ともしがたい。
「いやぁ~!誰かぁ~!誰かぁ~!助けてぇ!」
悲壮な都の叫び声が響き渡っている、その時、都の耳に微かに何かが聞こえた。
―その、…、き、…、山、…、峰峰、…、木霊、…、て、…、無辺、…、彼方の、…、岸辺、…、わす、…、天の小船、…、行方に、…、え、…
都は自分の叫ぶ大きな声によって掻き消された、そのどこからか聞こえていた僅かな声らしき音を、ほんの少しだけ鼓膜に触れた程度で、まともに聞き取る事ができなかった。
「誰かぁ~! えっ?今、誰か何か言った?」
都は叫ぶのを止め聞き耳を立てたが、既に何も聞こえてはいない。
―何? 何か今聞こえたよね? 頭の中で再度確認したが、やはり何も聞えない。
「誰かぁ~!誰かぁ~!助けてぇ~!」
都は暫し聞き耳を立てていたが、何も聞こえていないと分ると、また無意味な叫びを再開した。まるで無人島に漂着した一人ぼっちの漁師が、沖を通る船に向かってそうするように、ただひたすら喉を枯らした。すると暫くして、彼女の喉が実際にかすれてきた頃、またどこからか声のような音が都の耳に僅かに聞こえてきた。
―その響き、…、山の峰峰、…、木霊、…、て、無辺、…、方の岸辺に、…、す、天の小船、…、行方に従え、… その微かに聞こえた音は誰かの声のようだ。
今度はかなり小さい音である事には違いないが、先に聞いた時よりもよりはっきりとした〝言葉〟となって聞こえていた。
「きゃあー! きゃ、…、今、何か聞こえたよね、誰?誰かいるの?」
都は恐怖の場面が近付く間にも、自分の叫び声の合間にその微かな声を今度は聞き取っていた。しかし再度耳を済ましたが、この時もまた何も聞こえなかった。
そうしている間にも升目の中は、一枡一枡あの獅子蛇に向かって確実に近付いて行っている。その不気味な生き物のバリバリ、クチャクチャという、おぞましい食事の音が次第に大きくなって聞こえてくる事が、都との距離が狭まってきた事を端的に示している。
「誰?ねぇ誰かいるの!ねぇ、いるなら助けて!ねぇ、お願い!お願い!」
都は誰とも知らぬその声の主に向かい、藁にもすがる気持ちで叫んではみたが、そんな事など気にしている余裕も既に無いほど、もう、目の前といって良いくらいにそのおぞましい光景が迫ってきた。その距離は、獅子蛇の激しい息遣いさえ聞こえる、いや、その強烈な獣臭のする吐息その物を、風圧として肌で感じ取れるほどの距離となってきた。
「きゃあ~! きゃあ~!」
都は聞き耳を立てるのを止め、切迫してきた現実に目を向けた。
「きゃあ~!きゃあ~!きゃあ~!」
誰もいない不気味な空間に、都の悲しい叫び声だけが虚しく響き渡っている。
仄かに薄赤いそして薄暗い空間、天井が高くとても屋敷内にある空間とは思えない。
―バリバリ! クチャクチャ! グゥグゥ
音源が直ぐ目の前にきた。見た目で恐ろしい光景がよりはっきりとしてきた。この空間での主役は、今都の目の前と言っても良いくらいに近付いてきた、この化け物である。
体調が七、八mもある大木のような蛇状の身体を持ち、フライパンほどの大きな鱗が粘液を出しているのかベトベトとして、薄暗いこの空間の僅かな光を時折キラキラと美しくもなく反射している。そしてその頭は龍のような大きな目と、五十cmくらいはあろうかと思える長い牙の光る大きな口、頭部には濃い深緑色のたてがみが、しかしライオンのように、風になびく綺麗なフサフサ状のたてがみというのではなく、粘り気のあるベトベト状の長く伸びたたてがみが、有るのか無いのか分からない太い首に纏わり付いている。そのような化け物が八頭、絡み合うように餌を貪り食い合っている姿が何ともおぞましい。
この異様な光景の直ぐ目の前に、今都の殻が送り出されてきた。都の目の前でその化け物が、都の前に並んで置かれていた他の殻を丸ごと口に銜え、バリバリと事もなげに食い散らかし次々と噛み砕いている。今まで聞こえていた、あのバリバリ、クチャクチャ、グウグウ、という不気味な音の正体は、この化け物の餌を食らう音だったのだ。
都の目の前では、殻の中が何かは分からないが、化け物が殻を噛み砕く度に口の中から血がほとばしり、殻の破片が辺り一面に飛び散り、戦場の無差別爆撃の一場面を思い起こさせるような、無残な光景が繰り広げられている。しかもその状況がこの薄暗い獣臭のする空間で、八頭の化け物、獅子蛇の大きな八個の頭によって個々に繰り広げられているのである。とても正視できるような絵ではない。
結局この薄暗い空間の、カプセルホテルのような升目のある壁面の中身は、全てこの化け物の餌となる殻が並んで入っていたわけだ。そこに都の殻も〝餌〟となって投入されていたのだ。そう、都もまた、この〝餌〟の一つだったのだ。
つまりこの屋敷に何も知らずに入り込み、不意に穴に落ち、優しくもてなされたと思っていたのが、実は〝餌〟が捕獲された、という事に他ならなかった。都は自らその化け物を飼う屋敷に入り込んでしまっていたのだ。ただ、そんな事は今の都にとっては最早重要な事ではなかった。現実は都の目の前で今起きている、この化け物の食事に際していかに対処するかという事である。もちろん、都自身は殻に入れられ身動き一つできずにいる。自分では、只々、叫ぶより他にできる事は無いのは明らかだ。
「きゃぁー!助けてぇ!誰かぁ!」助けを求めても誰もいない。
しかし誰もいないはずなのに、その時また、都の耳にあの声が聞こえてきた。
―その響き、山の峰峰木霊して、無辺の岸辺におわす、天の小船の行方に従え…
聞いた事の無い同じフレーズが、何度も何度も繰り返される。
「きゃぁ~!きゃぁ~!誰かぁ~!きゃぁ~!」
もう都にとってはそんな声などどうでもよい、それどこの騒ぎではなくなっている。
―その響き、山の峰峰、…
しかしそのどこからともなく聞こえる声は、都の叫び声に対抗しているかのように、何度も何度も繰り返され、彼女の耳なのか頭の中なのか、都の脳裏に次第に焼き付き、都には次第に大きく聞こえてきている気がしていた。
その内、もう都と獅子蛇の距離があと一、二mというところで、キャァキャァ、とパニック状態に落ち入っていた都が、いつの間にか叫び声を止めていた。
叫びを止めた都は、何故だか今の今まで寝ていたのかと思える程に、実に穏やかな顔で目を瞑り、何か口をモゴモゴ小さく動かしている。何かに乗り移られたように、獅子蛇の臭い息や激しい絡み合い、おぞましい貪り合い等、今目の前で起きている事など何事も無いような仕草で、穏やかに、まるで赤ん坊のように無心で口をモゴモゴ動かしている。
―その響き、山の峰峰、…
このフレーズ、どこからともなく聞こえてきているそのフレーズ、まだ聞こえている。が、今度はどこからともなくではなかった。都自身が口ずさんでいた。
都はありったけの力を振り絞り、喉が張り裂けるのではないかと思えるほど続けていた、悲壮感溢れる〝助け〟の叫びを、突然止めていたかと思うと、怪物まであと数m、都の前には同じような繭型が数個ほど並んでいるだけの、そんな危機的状況下で何故か静かに目を瞑り、そのどこからか聞こえてきていた何の意味かも分らないフレーズを、自身で穏やかに口ずさんでいた。
もう怪物は目の前、都の前にはあと三個の殻だけが残るだけとなった。
―その響き、山の峰峰、… 都は、ただ静かにそのフレーズを口ずさんでいる。
すると、バリバリ、クチャクチャと、他の殻が食われている直ぐ目の前で、都の殻にピキッ!ピキッ!とヒビが入った、かと思った瞬間、パカ!と割れた。そして都は殻が割れたと同時に、深い眠りから目覚めたように、まるで白雪姫の喉から毒りんごの欠片が飛び出し目覚めた時のように、ゆっくりと静かに瞼を開いた。
―えっ、私、…どうしたの?
都は自分が今、どういう状況にあるのか理解していない様子だ。そしてフラフラと、割れた殻から自ら抜け出すと、ゆっくりと立ち上がった。久々に自分の足で立ち上がったためなのか、体がユラユラ揺れている。
―何なの、ここは、…どこ? 辺りをぼんやりとした眼差しで見回している。
そして徐に振り返ると、そこには白雪姫の場合とは違い王子様はいなかった。その代わり王子どころではない、先ほどから目の前で繰り広げられている、おぞましい化け物の宴会が、彼女のぼんやりとした眼にどアップで大きく映し出された。
「きゃあー!きゃあー!」今更なのに、叫び再開。
都は何故だか、今の今までこの場に居合わせていた事など、全く覚えてはいなかったのだろうか。いかにも今思い出したというように、再びありったけの叫び声を上げ、後ずさりしながら腰を抜かすと、その場にヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。そこへ、
「何だよ、ったく!情けないったらありゃしないな!」
突然、どこかで聞いた事のある偉そうな言い回しが、彼女の背後から聞こえた。
都はしゃがみ込んだ姿で顔を獅子蛇から背け、ワナワナと恐怖におののいていたが、彼女の脳裏に残るその声の記憶が、顔を声のする方に自然と向けさせた。
そこには、白い長い耳がピンっと天井に向かって真っ直ぐに立ち、さも偉そうに両手を腰に当て、いつも怒っているのかと思えるぶっきら棒な顔をした、あの白ウサギ、都がこの屋敷に入り込む前に先導していた、あのウサギがいつの間にか都の直ぐ後ろでスックと立ち、彼女を睨んでいた。白ウサギ、久々の登場だ。
都の恐怖におののく眼が、一転して安心の眼差しに変った。それはまるで難破した船から何日も漂流していた難民の目の前に、遠くから現れた大きな船を見掛けた時のように、今にも縋り付きたいという気持ちを顔全体で表しているが、腰が砕け立ち上がれないでいる。本能的に片手をウサギに伸ばした。
「ウサギさ~ん、どこに行っていたの~!」
都は今にも泣きそうな声で、床にしゃがみ込んだ姿のまま白ウサギを仰ぎ見た。それは偉そうでもぶっきら棒でも何でも良かった。藁でも草でも良い、都にとってこの時のウサギは正に天の助けに見えた。それに対しウサギは偉そうな格好のまま、
「何だよそのざまは!なっさけないな、ったく!」相変わらずの言い回しだ。
「ウサギさん、助けにきてくれたのね、…私、何でこんな事になったのか、何が何だか、何で、何でこんなぁ、ぅ、ぅ、ぅ」
都はこの場の恐ろしさと、これまでの自分の身に起こった不可解な出来事の記憶がない交ぜとなり、頭の中でグルグル回り、自分の感情を制御できないでいた。都はおぞましい光景を目の前に、しゃがみ込んだ姿のまま泣きだした。
「あのな、お前、ここで泣いていて、どうにかなるのかよ、ったく!」
ウサギ、この場に於いても相変わらず偉そうだ。
「だってぇ~!」顔が涙でびしょびしょだ。
「おい、お前は赤ん坊か!ここでそうやってずっと泣いているつもりか!ったく!」
「ぇ、ぇ、え~ん、ぅぅぅ…」
ウサギ、イライラを体で表すようにつま先をトントンと動かし、その後何も言わず、都を苦虫を潰したような顔で睨んでいる。
「うん、そうね、泣いてなんかいられないわね、うん、分った、分かったわ」
都も目の前の化け物の事など忘れているのか、泣き顔を腕で拭いウサギに向かってニコリと作り笑顔を見せた。そして床に手を付き、よいっしょ、と小さく声を出して何とか立ち上がった。そこでまたニコっと小さな作り笑顔をウサギに向け、彼女の後ろから聞こえ続けてきている、何とも不気味なクチャクチャという音に気が付いた。
都はこの音が何なのか既に知っているはずなのだが、不思議顔で振り返った。
「きゃあ~!きゃあ~!」またも叫び再開。
都は改めて、思い出したように化け物の存在に驚くと、またヘナヘナと力無くしゃがみ込み、今度は恐怖の顔をしたまま尻餅を突いた形で座り込んだ。それを見ていたウサギは腰に当てていた手を胸の前での腕組み姿に変え、より偉そうに都に向かって更に強く言い放った。
「お前はバカか!泣いていたかと思えば変な顔して笑ったり、今度はキャーキャーうるせーし、ったく!大体が何でこんなところにいるんだよ!分かんねー奴だな、ったく!」
都は化け物の方を見ながらジリジリとお尻で後ずさりし、次第にウサギの後方へと回り込んでいった。そしてウサギの背後に隠れるようにして膝立ちすると、自分の顔の前でピンっと立っているウサギの耳を両手でギュッとつかみ、これはあの化け物に聞こえないようにと思っているのか、小さな声で囁いた。
「ウサギさん、逃げなくちゃ、食べられちゃうよ、ねぇ、ウサギさん」
ウサギは腕組みをしたまま斜め下を向き、フッ、と一息、溜息とも呆れたとも付かぬ息を吐いた。
「あのなぁ、知らねーのか、ったく、あいつらはな、ここから動けないんだよ、あそこでこの殻の中身をバリバリ食うのが仕事なんだ。たった今、お前もあいつらの餌になりそうだっただろうが、ったく。ところで勝手に耳をつかむなよ、いてーな、ったく!」
都はウサギに言われ、恐怖のために思わずウサギの耳をつかんでしまっていた手を、パッと離した。そしてウサギの背後で膝立ちして、ジッと化け物の方を見ながら、
「えっ、そうなの、そうなんだ、じゃあ、ここに居れば食べられる事はないのね、じゃぁ、恐がる事はないんだね、本当に、そうなんだね」
ウサギの言葉に安心しているのか感心しているのか、手をパーの形にしたまま口だけを動かした。都の言葉を全て聞く前に、ウサギは彼女の前でクルッと向きを変え四足となり、通路の逆側に向かって何も言わず、都をその場に置いて歩き出した。そして歩きながら一言、背中で都に言った。
「但し言っておくけどそいつらはな、お前のいる手前に床の色が変っているところがあるだろ」都は言われるがまま、自分の膝立ちしている手前の床に視線だけを移した。
確かに、彼女の膝の手前数十センチ向こう側から床の色が違う。
「そこから先に何か物が入り込むと有無を言わさず、何でもバリバリと食い千切っちまうからな」ウサギは足を止めずにそう言い残した。
獅子蛇はこの二人の事を認識しているのかいないのか、この話のやり取りを聞いているのかいないのか、見た目そんな事はお構いなく、次々と供給されてくる目の前の殻をバリバリと食い散らかしている。その激しさ故なのか、絡み合いながら牙を剥き、獲物を引き千切る度にその欠片か破片か血飛沫か、都の顔にも時折何かが、パチッパチッと当ってきている。
しかしながら都は、ウサギの話しに安心したのか、私もああならなくって良かったぁとのんきな思いで、暫くボーっとしながら無意識状態でこのおぞましい姿を眺めていた。その間にウサギはとっとと通路の先を歩いて行ってしまった。都は自分の視界の端に、いつの間にかウサギの姿が映っていない事にやっと気が付き、ハッと我に帰った。
「あれっ、ウサギさん、どこ、どこに行ったの?」
膝立ちしたまま顔だけをキョロキョロしたが、周りにウサギの姿は既に無かった。ウサギはとうに通路の逆奥へと歩いて行ってしまっている。
「ウサギさ~ん、どこに行っちゃったのぉ~、ウサギさ~ん!」
都は立ち上がり、通路の逆側に向かって走り出した。と思ったその瞬間、都の背後で、ドタッ!と、獅子蛇の食い散らかすバリバリという音の他に、明らかに音色の違う何やら物が落ちたような音がした。
―何、何の音? 都は瞬間的に足を止め、振り返った。
都は一瞬何がそこにあるのか判断できず、目が点になっている。彼女の目には映像として映ってはいるものの、頭の中の理解として判断できずにいた。
―何? あれは、…人?
都の数m手前、背後と言っても良いのか、獅子蛇がバリバリ、クチャクチャと殻を貪っている直ぐ真下と言って良いくらいの位置に、小さな人、つまり子供が丸まって転がっていた。
―子供?何で?何でこんなところに? 都の動きが止まった。
この状況からいうとこの子供らしき丸まっている人は、獅子蛇が食い散らかしているこの無数の殻の中から零れ落ちたと見るべきで、都がそうであったように殻の中に囚われていたと思われる。都も少し間を置き、その考えに至ったようだ。
―助けなきゃ!
と思う間もなく、彼女の足は獅子蛇に向かって走り出していた。そしてあのボーダーラインの手前で一瞬躊躇ったのか、足が止まった。大きな獅子蛇は見るからに、今にも都に向けてその牙を向けてきそうな手の届きそうな位置で、おぞましい姿で猛り狂い貪り続けている。
考えている余裕は無いのは分っている。都は勇気を振り絞るかのように、目の前で転がっている子供らしき人を見据え、グッと息を飲み込み下腹に力を入れた。この時、今の今まで彼女にこんな勇気があったのかと思えるほど、もちろん都自身も気付いてはいなかった底力が、彼女の身体に沸々と湧き上がってきていた。
―行くわよ! 都は目を瞑った。
都は小学校の運動会の徒競走の時以来のスタートダッシュで、その子供目掛けて足を踏み出した。と思った瞬間、足が絡まった。
「きゃあっ!」 ドタッ!
こんな緊迫した場面に於いて、いくら今までに無いほど気力が漲っていた都であっても、そこはそれ、やはり体力無しの都の足はいつものように力無く、ましてや今まで時間にしてはっきりとは分からないが、かなりの時間殻の中で身動き一つできないでいた足だ。自分が思っていた以上に思うように動かなかったようだ。結局都もその子供らしき人の横に、ゴロゴロと並ぶように転がってしまった。
「痛たたたぁ~」と痛がっている場合ではないのは明らかで、
獅子蛇は意思が有るのか無いのか、ギロっとその大きな目を、突然ボーダーから入り込んできて、自分の足元で転がっている都に向け照準を合わせた。その下で、痛たた、と言いながら目を開けた都の視線と、怪物の殆ど黒目のその視線が合わさった。
「きゃあー!ウサギさ~ん!助けてぇ~!」
都は自分が助けに入った事もすっかり忘れ、とっさにウサギに助けを求めた。これでは何しに来たのか意味がない。
都の大きな声に反応したのか八頭のうち一番身近な、ギロッと睨んでいた獅子蛇が、ベトベトのたてがみを振り乱しながら、頭を一度グルッと大きく回すと大きな唸り声を上げた。
「グオーッ!」今までに無い大きな吼え声だ。それに合わせて都も、
「きゃあー!」こちらも負けじと、今までに無い大きな悲鳴だ。
獅子蛇は唸ると同時に、大きな頭をくねるように足元に向かわせた。
―ドダッ! 都はとっさに、無意識に横に転がった。
獅子蛇の大きな牙を持つ口が、都と未だ転がったままの子供との間の床に突き刺さるようにぶつかった。
「きゃあー!きゃあー!」もう叫ぶしかない。
都は恐ろしさの余り、もう腰が立たなくなっていた。逃げようとしても立てずに、床の上を腰でズルズルと後ずさりするしかなかった。その上を大きな顔が一度体勢を立て直したのかグッと大きく持ち上がり、ギロっと都に向け再度目を剥いた。そして二度目の襲撃。
「きゃあー!」もう都に逃げる腰は無かった。と、その時、
―光り瞬き、…、世の狭間、…、常世の国への、標べとなりぬ、…
この緊迫した場面で何とも美しい調べがまた聞こえてきた。が、都の耳には聞こえなかったのか、引き続き大きな声で叫んでいる。
「きゃあー!きゃあー!」「グオー、オ、ォ、ォ、…」
見ると、都の叫ぶ真上で獅子蛇の大きな頭が突然動きを止めた。一幅の絵画のように制止している。
この調べ、先に都が獅子蛇に殻ごと食われてしまいそうになっていた時、聞こえてきたあの声に似ている。言葉の内容こそ違え、この緊迫した場面に凡そそぐわない何とも趣のある、宮中の雅な世界を彷彿とする言葉の響きである。
何故だか、この響きが聞こえてきたと同時に獅子蛇の動きが止まった。その大きな頭が制止している真下で、都もまた両手を頭の上にのせた姿で、目を瞑り動きを止めていた。
十数秒間の沈黙の後、彼女は辺りの静けさに気が付いた。
―えっ?どうしたの?
都は自分に何も起こっていない事を悟ると、恐る恐る頭の上の両手を下ろし、しっかりと瞑っていた両目を開けてみた。辺りはシーンと静まり返っている。つい先程までこの空間のどこにいようと聞こえていた、バリバリ、クチャクチャという極めて騒々しい不快な音は何一つしていない。そして目の前で起こっていたおぞましい光景は、その場で凍り付いたように制止しているのが分った。都はゆっくりと目を自分の真上に移していった。
「きゃあー! きゃあー!」一人騒々しい。
都の声だけがこの広い空間に響き渡り、静まり返った空間の奥からその声の一部が木霊となって帰ってきた。都の頭の直ぐ上では獅子蛇の大きな頭が、その頭の上のベトベトのたてがみを横に垂らし、五十cmもあろうかという長い牙が生える大きな口を開け、そしてその殆どが黒目の眼を真下の都にカッと見開いたまま、都の頭の上一mほどの距離を空け、ピタっと静止している。下から手を伸ばせば明らかに届く距離だ。都はその化け物の顔が彫刻のように動かない事を漸く悟ると、自らもピタっと止まった。
―動いて、いないわね
「一体、お前は何やってんだ!」背後から、また怒りのお言葉が帰ってきた。
「ったく! いくら待っても来ないから戻ってみれば、何をしているんだ、ったく!」
ウサギがボーダーの向こう側で、相変わらず手を腰に当て偉そうに立っていた。
「あ、ウサギさん!」「ウサギさんじゃねぇよ!ったく!」
都は床にへたり込んだ姿のまま、目は真上にある彫刻のような大顔に向けたまま、ウサギが来た事にホッとした声を出した。
「ありがとう、やっぱりウサギさんのお陰なのね、良かったぁ、もう少しで食べられるところだったの」無邪気にニコッとした。
「そんな事知るか!何でお前はこんなところでしゃがみ込んでいるんだ!こっちは暇じゃねぇんだぞ!ったく!いい加減にしてくれ!」
都はいくらこの獅子蛇がその動きを止めているといっても、やはり恐ろしさは変らず、いつまた動き出すことかとゆっくりと、怒るウサギの目の前で、できるだけ静かに大顔の真下から這い出すように動き始めた。そして自分の体の体勢が整うと、自然とその目は隣で蹲るように伏せている子供に向いた。
もちろんその子供のために彼女は今ここにいる。
「ねぇ、ねぇ…」都は手をその子の身体に当て軽く揺すってみた。
しかし揺すってから一拍空けても何の反応も無い。
―この子、死んでいるのかな? どうしよう
都がどうしようか躊躇している間に、ウサギは再度クルッと踵を返すと、構っていられないとばかりに何も言わず、再度とっとと通路の闇に消えて行ってしまった。
「あっ、ウサギさ~ん!」返事はこない。
都は叫びながら、待って欲しいという意味なのだろう、手をウサギに向けて伸ばしたが、無意味だった。ウサギには既にその声すら届いていない。
―えーっ、どうしよぅ、どうしたら良いの
都はウサギが去った後、転がる子供を数秒間見詰めた。そして絵画のように止まっている獅子蛇の大顔もチラっと上目で見た。その後の行動は彼女にしては早かった。
「うんしょっと!」立ち上がった。
彼女は子供の両脇の下に自分の手を入れ込むと、身体を引き摺り始めた。
「うんしょっと!」額に青筋が見える。
こういうのを〝火事場のばか力〟というのか、普段の体力無しの都にしてはいくら子供の体とはいえ、なかなかの重労働なはずだが、何とかボーダーの外まで引き摺り出した。
そしてボーダーから二人が出たと同時に、時を合わせたように、ギロッと、目の前数mにある絵画のようだった大きな目が動いた。動いた直後、バリバリバリ!いきなり何事も無かったかのように、その化け物の活動が再開しだした。目の前にあった食べかけの殻の残りをまた貪り始め、八つの同じ顔、太く長い身体がくねり絡み合い始め、おぞましい姿を都の前で再び披露し始めた。
―バリバリバリ、グゥ、グゥ、グゥ、グチャグチャグチャ
こいつら化け物には、そこに何があるかいるかなど関係無い事なのだ。単にボーダーを越えて目の前にきた物を喰らう、目の前にいる物は全て〝餌〟、それらを喰らう、それがこいつらの〝仕事〟なのだ。
ウサギの姿は見えない。遥か先に行ってしまっているようだ。
何とか歩き出した彼女の後ろでは、化け物、獅子蛇が絡み合いバリバリと餌を貪っている。都はかなり重い足取りとはいえ、歩きながら首を少しだけ反転させると、その絡み合いをチラっとだけ見納めた。そして直ぐに前を見た。都の息が次第にハァ、ハァ、と上がってきた。この薄暗い通路は長い。体力無しの都にとってはこの通路は長過ぎるくらいに長い。そして暗く不気味だ。
一体この空間は何だったのか。早足で通路の先を急ぐ都の目の端に、壁の升目のその中に入る何かが、その後あの化け物の餌となる事も知らずに、ベルトコンベアーの上に並べられた冷凍食品のように、少しずつ前へ前へと移動をし続けているのが映っていた。
彼女がそろそろ音を上げそうになってきた頃、やっと四つ足の白い後姿、白いぼんぼりのような小さな尻尾が、薄暗い中ぼんやりとだが見えてきた。ウサギの耳が笹の葉のようにピンっと立っているのも、何となくだが認識できる。
「ウサギさ~ん、待ってぇ~」声に力が無い。
もちろんウサギは、そんな力の無い都の言葉なんかに振り向く事もなく、ひたすら四つ足で進んでいく。しかし心無しか、わざとゆっくり歩いている気もしないではない。
「ねぇねぇ、ねぇってばぁ~、ウサギさ~ん」
都はもう少しでウサギに追い着くという時、何を思ったのか不意に立ち止まった。そして再度チラっと後ろを振り返ると、小さく口を動かしている。何かを呟いている。
―あれって、やまたの、…おろち、だったのかな?
都は少しだけ首を捻ってから、直ぐにまた振り返り足を動かし始めた。ウサギとの差がまた開いている。都はハァハァ言いながら足を急がせた。この時何とか歩いている都の背には、未だ死んだように意識の無いあの子供が背負われていた。一体この子はどこの子なのかな、都はふと思ったが首を横に振り、重い足を前に進ませる事に集中した。




