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2.出雲とウサギ

 夏! 日本の夏。乙女の夏?学生の夏?そして、出雲も夏。

 大阪発出雲行き夏休み特別急行列車内。大きな声が聞こえる。

「ねっ、あそこの明石焼き、美味しかったでしょ~ぅ!」「うん、そうだね」

「でもさ、大だこ、だったっけ、あの有名なたこ焼き屋さん、あれも美味しかったよね。美奈美はどっちが美味しかったと思う?」「ん?明石焼き」

 「私ねぇ、たこ焼きも明石焼きも好きだけど、やっぱ一番はお好み焼きかな、ハハ」

 話のひだの多い都に対して、美奈美はいつも簡潔に応える。車内はこののんきな会話の二人の他は、母と子二人の親子三人連れが一組と、七十代前半かと思える老夫婦が一組いるだけだ。これだけの人数しかいない列車の一車輌とは、こんなに広い物だと改めて気付かされる。それにしても夏休みも終わりに近いとはいえ、夏休みの特別急行列車がこれだけ空いているとは珍しい。

 母子連れの子供の一人、小学校低学年と思われる男の子が、車内の両窓を行ったり来たりして景色を眺めては、あそこが綺麗あそこに何が見えたとはしゃいでいる。もう一人の方の小学校高学年と思われるお姉ちゃんが、静かにお母さんと話しをしながら、時々弟のはしゃぎ過ぎに、うるさいよ迷惑になるよ、と大きな声で注意をしている。歳もさほど離れていない弟に、ここにきちんと座っていなさい、と躾の面倒も見るなど良くできた子だ。

 老夫婦は特別列車は別としても、普段出雲行きを何度も利用しているのだろうか、お互い大した話もせずに、お爺さんは窓際に寄り掛かり、静かに寝息を立てている。お婆さんは一人本を読み、たまに窓の外を何気なく眺めては何を思うでも無しに、また本に目を落とす。旅する熟年の二人、端から見ると、落ち着いた一幅の絵のようでもある。

 車窓の外遠くを眺めると雲の切れ間から、時々後光のような陽光が、真っ直ぐに海面へと降りて行くのが見え、海と線路の間には次々と山陰の美しい景色が連なり流れていく。日本海側の海岸線沿いとは何故にこんなに荒々しくも美しいのか。

そんな叙事詩的な感傷を、微塵も感じさせぬ会話が車内に響いている。〝花より団子〟という言葉は、この二人の為にあるようだ。

「わぁ~、この但馬牛丼弁当って、すっご~い!美奈美のはどんな感じ!」

「ん?別に、ただ美味しそうなだけだよ。何だろうこれ、松葉蟹、弁当?」

 楽しさを目いっぱい表現しながらの都に対して、ただ美味しそう、と不思議な表現をする美奈美。二人は途中の停車駅で駅弁を購入したらしい、それぞれ名物弁当での昼ご飯を食している。

「でもさ、二日目に出雲大社に行った後、どうする?私はね、とにかく神社がいっぱいあるから、神社巡りでもしようかと思って。それでお願い事いっぱいしちゃうんだ」

都は弁当の牛肉を箸で持ち上げながら話している。

「うん、そうだね、私は宍道湖の方に行きたいと思っているのよ」

「ふ~ん、美奈美、あの、何だっけ、しちちん、だっけ?何だか色んな食べ物が美味しいよっていう?あれが目当て?」

「それ、七珍だよ」「そうそう、しっちん、しっちん」

 そもそもこの旅、二人は夏休み前、都の部屋に突然訪れ神話の世界の話しをしていった、あの老人の話から出雲に旅する事となった。お互いアルバイトのシフトのやり繰りをして、何とか二人の都合の合う日を見付け出し、夏休みも終盤の、八月末から九月に掛けての四泊五日、乙女二人旅である。

 二人は東京発の新幹線で、先ずは食い倒れの街大阪に一泊立ち寄りで、先ほどの会話に登場していた大阪といえばこれ、といわれる名物を食べ歩きしてきたようだ。そしてその後、大阪を発した「夏休み限定特別急行列車〝神話の里へようこそ〟出雲号」という、えらく肩書の長い列車に、今乗っている。

 この旅の始め、飛行機で一気に東京から出雲へ飛んでしまおうと言っていたのが、都が途中で、美味しい物を食べていきながら旅をするのも良いんじゃない、と提案。美奈美は旅に関しては性格と同じく実に淡白で、都の言う事に一々口は挟まない。したければすれば良い、という考えなので、すんなり列車移動が決まった。従って都の考えがそのまま旅の順路、大阪立ち寄りの名物食べ歩きのコースとなったようだ。

 都が選んだこの列車、今も東京出雲間を定期的に走っている別名「縁結び列車」といわれる、寝台特急出雲号とは違い、夏休み期間限定で運行している特別なものだ。そのため、東京発ではなく大阪発で、旅の道筋も違い、現在の出雲号は大阪から瀬戸内海側に向かい岡山から日本海側に抜けるコースを取るが、この特別列車は、大阪を発つと直ぐに北に向かい京都経由で山陰本線をひたすら日本海を車窓に入れ、海岸線をひた走るコースとなっている。二人は乗車前に、先ずは予定通りの食い倒れをしてきたようだ。

 普段からこの二人、ひたすら話す都に聞く美奈美と、役割分担としてはそう立場が分かれている。何かに付け都は話のひだを付けまくり、美奈美は確信的な事を簡潔に応える。どこかへ一緒に行くにしても、都はあれこれ行く先を横道に広げていき、突っ走る。美奈美はそれを見守りたまにセーブを掛ける。それがちょうど良い具合に何事も収まり〝馬が合う〟という表現がしっくりくる二人なのだ。

 そんな二人を乗せ、夏休み特別列車は一路出雲を目指す。大阪駅を出て四時間。出雲まであと二時間というところか。

駅弁をしっかり食べ、旅のイメージトレーニングを充分にし終えた二人は、暫しのお昼寝タイム。車内はというと、途中の駅から乗り込んだ乗客でかなり賑やかさが増していた。先にいた母子三人と老夫婦の他、何組かの親子連れと何組かの若者のグループが乗車。大阪を発した際は午前の時間だったためなのか、少々もの淋しい雰囲気であったのが、この時刻の車内は、やっと夏休みらしい賑やかな雰囲気となっていた。

「ん?な、何?」突然都が起きた。

「んん? 何か言った?」美奈美がつられて目を覚ました。

「えっ?美奈美じゃないの?」「何が? 何も言ってないよ、私」

 都は眠い目をしたまま身体を起し、ボーっとしている。

「都、どうかしたの?」美奈美も身体を起した。

「ん?う~ん、何だろう?私、誰かに起されたと思ったんだけど」

「っもう、私もまだ寝ていたよ、今」少し不機嫌顔だ。

「ぅ~ん、そうだよねぇ」

 二人は寝ぼけた目をしながら、お互い向かい合ったまま暫くの間ボーっと座っていた。その二人の真上、荷物棚の近くの空気が何故かユラっとした。

無言の二人。ボーっとした顔のままどこを見るともなく、ただ座っている。そんな二人にお構いなく出雲号は走り続け、車窓の外の景色も海と山の二分された単純な風景から、畑の中に民家がポツンポツンと混じる農村の風景へと、いつの間にか変化していた。美しい自然景観から離れ、日本人が古から係る原風景と言っても良い里の景色だ。この風景もまた美しい。

 日本海側、山陰海岸で都市と呼べる町の数は多くはない。それは大きくても中核都市に満たないほどの規模で、それらの都市はあっという間に通り過ぎ、直ぐにこの時二人が見ている農村の、誰もが懐かしく思えるような田舎の風景へと移り変わる。

二人が乗るこの列車も、鳥取、米子、松江の各都市部を過ぎて、いよいよ終着駅、出雲市へと近付いて来たようだ。

 島根県出雲市。現在は島根県の東、宍道湖のある島根半島の西側、出雲平野のほぼ中央にある十七万人ほどの中規模の都市である。江戸時代には出雲とは、現在の島根県の東側半分ほどの領域の旧国名。更に歴史的な側面で見れば、武士による幕藩体制が敷かれる遥か以前、まだ国という枠組みがしっかり確立できていない、宗教的な色彩の強い一つ一の力の無い多くの小国が、大和朝廷に組み込まれる前段階、いわゆる現代人の言うところの卑弥呼の時代には、この国は他の国々を圧倒する宗教的強国であったと考えられている。それは近年発掘された荒神谷遺跡から出土した、多くの祭祀用の青銅器からも明らかにされつつある。

 つまり出雲とは、現在の山陰の各都市の中でも特に、古の時代からの影響を色濃く残した、地域独特な空気を纏った宗教都市と言っても良いだろう。国内で一般的に知られている出雲のイメージも、それに大きく反する事は無いのではないだろうか。

 さて出雲号の二人は、出発から始めのうちこそ、わー綺麗、すてきぃ!とか、こんな景色見た事無い!等と、車窓から眺める日本海の絶景を楽しんでいたのだが、一時間も経てば景色などそこそこに、何が食べたいあそこに行きたい、あれがしたいあれを見たい、とガイドマップ中心の会話となり、そしてその後の四時間ほどは、景色といえばその殆どは、夢の中での幻想しか見ずに終点まで来た。この二人らしいといえばらしいのだが、旅の楽しみの一つの要素といえる移動時の景色の移り変わりを、この二人は殆ど気にも留めずに通り過ぎてきたことになる。

 この旅の一週間ほど前、都は出雲へ行く旨をあの老人に連絡していた。訪れる日にちの連絡と凡その行程を告げると、老人はたいそう喜んだ。そして行く旨を告げた直後から、受話器の向こう側からは、あそこの何が良いあそこの何が美味いあそこには行くべきだと、都に口を開かせる間も無いほどに出雲PRの話が続き、都が、じゃあそういう事で宜しくお願いします、と無理やり会話を閉じたたくらいであった。そこは都にとって少し重荷に感じていた部分でもあった。



 さてここはJR出雲駅。午後二時半。二人は列車から降り、今、駅前に立っている。

二人並んで駅を背に、初めて足を踏み入れる〝出雲〟という、世に聞こえた歴史のある町の街並みを、先ずは百八十度グルッと見回した。

「う~ん、余り大きなビルは無いね、ふ~ぅ、でも、気持ち良いところねぇ!」

 都は荷物を脇に置き、両手を一杯に広げ大きく息を吸った。

「うん、空気が美味しいわねぇ、すぅっ~、っふぅ~」

 美奈美はいつもより幾分柔らかな笑顔で、片手にキャリーバックの柄をつかみながら、初めて来た土地の感触を探るように、鼻から大きく深呼吸をした。駅舎入り口は神話の里らしく、出雲大社の大屋根を模した造りで、新しくはあるが都会のただ四角いだけの駅舎の屋根とは違い、実に風情のある造りとなっている。そしてこの年は駅開業百周年らしく、それを祝う横段幕が掲げられていた。

 都は少しだけ佇むと、クイッと美奈美の方に顔を向けた。

「さぁ、美奈美!これから私達のサマーバケーションが始まるのよ!いいこと!じゃんじゃん歩き回るわよ!」

 都が一歩前に出て振り返り、まるで体育会系の何かのクラブのキャプテンのように、拳を握り力をこめて美奈美をしっかり見据えた。

「そうね、楽しみだわ」美奈美は頭だけコクっと動かし、実にシンプルに応えた。

 もちろん機嫌が悪いわけではない。二人の高揚感のギャップはいつもこんなものである。

「うん、そうねぇ、先ずはお爺さんに連絡取らなきゃ」

 都はスマホを手に取り連絡をしだした。直ぐに連絡が付き、話し始めると、やはり老人は先に連絡した場所ではなく、別の神社に滞在しているという。そこは出雲市からは少し離れた場所であった。出雲國第四番霊場、佐太神社、老人はそこにいた。二人は取り敢えずそこに向かう事を決め、予め決めていた旅程を宿泊所で再度確認する事にした。

「お爺さんの話だと、ここの駅前からバスが出ているんだって。確かねぇ、十番のバス停って言っていたかなぁ」「十番だね、分かったよ」

 二人はたわいもない話をしながら、駅前の歩道に沿って連なるバス停の並びを、キャリーバッグをゴトゴトと引きながら番号の順に見ていった。

 ここ出雲駅の北口もどこの町の駅前と変りなく、バスの発着所として県内各都市行きのバス停が連なる。市内各地区行きのバス停の並びに続き、松江行き、境港行き、米子行き、浜田行き等の長距離バスの停留所も並んでいる。その中で佐太神社方面行きのバスは、あの老人が言う事には十番乗り場らしいが、地図上では国道を北に上り宍道湖の向こう側、松江市の手前辺りまで行く。自家用車で行くなら一時間も掛からないくらいの距離だ。

 都が歩きながらある事に気が付いた。

「七番、八番、九番っと、ん? あれっ?」

 都は足を止め、周りをキョロキョロと見回している。美奈美が後ろから声を掛けた。

「都、どうしたの?」「バス停がぁ」どうも目当てのバス停の番号がそこに無いようだ。

 都がバス停の並びの先を指さし、キャリーバックを片手で引きながら早足で歩き出した。美奈美も無言で後に続いた。二人が九番のバス停を越えて少し行くと、バス停の無い歩道の化粧タイルの上で、都が何かの異変を感じたのか、顔をしかめ辺りを見回している。

「ねぇ、美奈美、何かこの辺り変な感じがしない?」「ん、何が?」

 美奈美は別に何も感じてはいない様子で、目当てのバス停を探している。

「都、バス停、この先に無いよ。確か十番って、言ったよね」

 都はこの辺りのどこか重い感じのする空気が気になったのか、美奈美の声が聞こえていない様子だ。そこへバスが来た。普通の路線バスより小さめのマイクロバスだ。通常〝コーチ〟と呼ばれる小型バスだ。少し黒い排気ガスが、車体の後ろからボッボッと弱く噴出している。かなり年季の入った車輌のようだ。ボンネットバスというわけではないが、何十年も使用しているのがパッと見で分かる。このバスが来ると共に周りの空気が鈍よりと更に重くなったように、何故だか都にはそう感じた。

「やっぱり変だなぁ、何だろう、この重い感じ?」「ん?何が?」

 美奈美は何も感じていないようだ。それよりこのバスが、自分達が乗るべきバスなのかどうかを気にしている。

「このバスかなぁ?」「そう、このバスがそうなのかなぁ」

 二人の言っている意味が違っている。都はこの空気の重さの理由がバスのせいなのか、を問うている。もちろん美奈美は違う事を言っている。通常バスは乗り口の横の窓に、行き先の表示が示されているものだが、何故だかこのバスには行き先を示す表示は無かった。もちろん、バスのフロントガラスの上にも、大きく行き先表示が示されているのが普通だ。バス停の事を気にしていた二人は、このバスのフロントガラスの上部を、そのあるべき表示を目にしていなかった。

 それぞれが別の意味で頭を傾げていると、目の前の乗り口が、プー、と鳴って開いたので、都は条件反射的にとりあえず一歩乗り込んだ。そして頭だけ覗かせて運転手に声を掛けた。

「すいませ~ん、このバス、佐太神社の方に行きますかぁ~?」

「行くよ、神社には」「ありがとうございます、ん?」

 都は一歩戻り、美奈美の方に向き直った。

「このバスで良いみたいなんだけど…」「そう、じゃあ!」

 美奈美が都の言葉に、待ってました、と言わんばかりに早速乗り込んだので、都もつられてキャリーバックを持ち上げ乗り込んだ。が、再度頭を傾げている。

―行くよ、神社には、って、今言ったよね

 都は運転手の言い方に何となく違和感を覚えたが、まっ、良いか、といつもの乗りでそのままキャリーバックをゴロゴロさせ、後部座席に座った。もちろん美奈美は何の疑いも無く、バスが来た、それだけで安心したようで笑顔で都の横に座った。

「都、グットタイミングだったね、全然待たなくて良かったわ」

 美奈美が上機嫌で荷物を座席に置いている横で、手放しで喜べぬ気持ちでいる都がまだ頭を傾げている。

「ん、う~ん、まぁね、待たなかったよね」

 二人がこのバス最後部で荷物を固定し座席にドッカと腰を下ろすと、直ぐにバスが動き出した。別に他の客を待つ風でもなく、発車時刻になったのかどうなのかさえ分からずに、プー、とドアを閉めるや否や二人だけを乗せ動き出した。まるで二人を待っていたかのように。

 発車して間も無く、先ほどから頭を傾げたままの都は新たな違和感を覚えた。

「ねぇ、美奈美、このバス何か変じゃない?」「ん?変って、何が?」

「えっ、何が、って、感じない?走り方っていうか、何かフワーっていうか、普通じゃないよね、走り方が、そう思わない?」

「ん~そうかな、別に普通だと思うけど」

 美奈美は窓の外をあちこち見ている。何か意味のよく分からない事を呟く都の言葉より、初めて来た土地の景色を見る方が重要と見え、都の呟きなどどこ吹く風だ。都もどこかこのバスに不自然さを感じてはいたが、美奈美が何も感じていない様子なので、いつしか自分がどこか調子が悪いのかな、くらいに思い直し、暫くは美奈美と景色を見ながら、あそこは何だここは何だと、その内普段の自分に戻っていった。

 そんな二人を乗せたバスは出雲の街中を、少し黒い排気ガスを吐きながら走って行く。

 出雲市内を十五分ほども走ると、早くも街並みが田園風景へと変わってきた。そこはいつまで走ってもコンクリートの続く大都会とは違い、地方都市では当たり前のように緑溢れる世界が広がっている。

 暫くして二人はお互い無言となり、ただ窓の外をジーっと眺めていた。普段、都会のビルが林立する中を行き来している二人にとって、この全くの田園風景はもちろん初めてというわけではないが、久し振りの乙女の二人旅という事で気持ちも少々浮かれ気味のところ、都会の疲れを取るという意味では充分な癒しを与えてくれていた。心にジワーっと染み込むような緑多き自然の豊かさと、長い歴史の中で培われてきた田舎風景の優しさを、今二人は車窓からじっくりと眺め、心の底から癒しの効果を感じているのかも知れない。

 もしくはそれとは逆に、人工物一色の普段の都会の景色から、自然溢れる田舎の景色への意識の転換が、これが意外に困難であるという事を、改めて認識させられてでもいるのだろうか。その意味も含め、口から生まれたような都をも数分とはいえ、無言にさせているのかもしれない。

 そして数分後、車窓から見える景色は田園風景が終わり、次第に山間部へと移っていった。二人を乗せたバスは、少し黒い排気ガスを更に勢いよく後方に吐き出しながら、徐々に勾配を付け標高を上げ山道を登っていく。

 一時間ほどが過ぎた頃、バスは山間のさほど高くはない、一本の橋を渡るところに差し掛かっていた。欄干を見ると木でできている。バスが渡りだすとギシギシと、別に落ちそうというわけではないが、余り安心のできる音には聞こえない。

 しかしそんな音も聞こえないくらい、二人はガイドマップを見ながら、あーだこーだと言い合っている最中だった。

「えーっ、美奈美ぃ、そんなところに行きたいのぉ~へー、意外だなぁ、美奈美がそういうところに興味があるなんてさぁ」都、ガイドブックを手に目を大きくしている。

「ん?そう、前から時々言っていなかったかい、こういうところ結構好きなのよ、私」「言ってたっけぇ、ふぅ~ん」

 楽しい会話の合間、都がふと異様な雰囲気を感じて顔を上げた。バスはいつの間にか砂利道を走っていた。車体の下に砂利が当っているのか、ゴトゴトと音が聞こえる。しかし何故だか車体は余り揺れてはいない。

「ねぇ、美奈美ぃ、何か変だよ」

「ん?何が?あら、砂利道走っているんじゃない、この音」

 都が変に感じた雰囲気は、この砂利道の事ではない。

「ねぇねぇ、砂利道もそうだけど、何だろう、この感じ、何か少し圧迫感があるっていうかさぁ、あっちこっちから、このバスが見られている感じがするんだけど」

「何それ、猿かなんか周りの山にいるんじゃないの、ハハ、でも、あなた、そんな事感じ取れるの?すごいね」

 美奈美は都の言っている事を、半分ほどにも本気では聞いていない。確かに、都の言っている事はおかしいと言えばそうなのだが、都自身はかなり真面目な顔で言っている。

 都はその真面目な顔で、最後部座席から運転手に質問をした。

「運転手さ~ん、すいませ~ん、あのぉ、まだ神社には着きませんかぁ?」

 バスが走っているのだから運転手はそこにいるはずなのだが、この運転手、いるのかいないのかよく分からない、実態が感じられない雰囲気で簡潔に声だけを後ろに返した。

「もう、着くよ」「は~い、分かりましたぁ」

 都は猿を探しているのか、窓の外の山々の景色を見ている美奈美に、また頭を傾げながら話し掛けた。

「ねぇねぇ、美奈美、あの運転手、何か変じゃない?」

「ん?運転手?ハハ、あのねぇ都、あ、な、た、が、変だわよ」

 美奈美は人差し指を、都の顔の直ぐ目の前にさして、

「もう、さっきから、あれが変だこれが変だって、どうしたの、今日の貴方は何でも変に感じちゃうんじゃないの、ねぇ、まったくぅ」

 別に怒っているわけではない。これでいつもの美奈美である。でも都は美奈美の言葉に少々不満というか、やはり〝何か〟が、それが雰囲気なのか何なのか、都はその何かを感じ取っているという顔をしながら、美奈美の指先を避けるように顔を背け、黙ってバスの前方に視線を移した。そして運転手が、もう着くよ、と言った通り五分もしないうちに、バスは山間の、大きなこげ茶色の古い木でできた鳥居の下を潜った。明らかに、ここから神域という標である。

 道は数分前に渡った木の橋のあたりから、ずっと砂利道が続いていた。鳥居を潜ったところでバスはスピードを落とし、そこから更に五分ほどゆっくり走ると、前方にやや広めの、車を四、五台くらい止める事のできる駐車スペースが見えてきた。バスはゆっくりと速度を落としそこで止まり、最後の一息、というようにマフラーから、ボッ!っと、黒い煙を一塊吐き出した。この時、このバスの他に車は無かった。

 周りは杉の大木が何本も何本も重なり合い、辺りは鎮守の杜どころではない、原始の森と言っても良いくらいの鬱蒼とした山間の森が、見える範囲でどこまでも、息が詰まる程に延々と続いている。つい先ほどまで、出雲の豊かな田園風景の中を走っていたとは思えないくらい緑が濃い。そして空が狭い。この時、真夏の太陽がギラギラと、これでもかと照り付ける炎天下のはずであったが、杉の大木のせいで青空の見える空間が極端に狭く、光を受ける箇所が殆ど無い。そのためか、ここの山は標高がさほど高くはないにも拘らず、出雲駅前にいた時よりも確実に涼しく感じる。恐らく半袖のシャツでは寒く感じるだろう。

 シーンとした山間に、停車中のバスのエンジン音だけが聞こえている。いや、少し離れたところから、いくらかの鳥の鳴き声が聞こえているのか、時折、チーチー、とか、ピピピピ、とか可愛らしい小鳥と思われる鳴き声がする。普段はもっと多くの野鳥の声がしているのだろうが、大きな人工物が山に入って来たので、慣れているとはいえ警戒して鳴き止んだのだろうか。

 この駐車スペースから参道が山の上に向かって伸びている。登りの傾斜度は余りきつくはない。お嬢様二人の足でもさほどにきつくはないだろう。しかし、全くきちんと整備されているとは言い難く、全面が土の細道で所々が大きくはないがうねりも見える。一応、道筋に沿って細い丸太で仕切りはあるが、かなり古そうだ。その丸太の仕切りも所々が朽ち果て、更に地面に届く日光が少ないせいなのかその多くが苔で覆われ、人の歩く位置以外のところは土色に近い緑色になっている。

 バスのドアが、プー、と鳴って開いた。

「運転手さん、どぉ~もでしたぁ~」「はい、どうも」

 二人が簡単な挨拶をして荷物を抱え、バスから降りたと同時にバスは少し黒い排気ガスをプファっと出して、ゆっくりと今来た道を戻っていった。二人は先ずは黙って並び立ち、バスの後姿を見送った。

「何か、あのバス、揺れていないよね、そう思わない?」都、目を凝らしている。

「都、また、何か変、って言いたいの?」美奈美、真っ直ぐバスを見て口だけ動かした。

「ん、い、いや、そういうわけではないけど、ハハ、ちょっと変かなってね、ハハ」

 もちろん美奈美は怒っているわけではないが、ちょっと今日の都はおかしい、と内心思っていた。当の都も、美奈美の横で何とか笑顔で取り繕ってはいたが、心の中では、あのバス絶対、変!と呟いていた。それから二人は、ほぼ同時にクルッと向きを変え、参道の先に視線を向けた。都が大きく両手を広げた。

「う~ん、気持ち良いねぇ~!」「そうね、涼しいわね」

 二人は大きく手を広げたまま、更に大きく深呼吸をした。山の空気はどこでも気持ちの良いものだ。特に神社の境内は落ち着いた空気が漂い、吸い込んだ息で少なからず身体の内側も神聖になっていく気がする。暫し佇んだ後、都が何かに気が付いた。

「あっ、ねぇ美奈美、バス行っちゃったけど、帰りのバスって、あるんだろうか?」

「うん、確かに、それは問題だわね」

 美奈美も落ち着いた様子でそうは言ったが、都に続き辺りを見回している。都は二、三歩、歩いてみた。

「バス停って、無いんじゃない、ここ」「うん、無い」

 この広くはない駐車スペースに、バス停が無いのは歩かずとも一目で分かる。都は山の上の方を見て、またある事に気が付いた。

「あっ、そうそう、お爺さんに電話してみよっと」

 スマホを取り出し早速ナンバーを押す。が、何かおかしい様子だ。

「ねぇ、美奈美、電話、通じない」スマホを美奈美に向けた。

 そして都はいつに無く真面目な顔で、そのまま腕を伸ばし美奈美にスマホを渡した。美奈美も受け取ったスマホの画面を見た。

「う~ん、圏外だね」

「ねぇ美奈美、とりあえずさ、神社に行ってみようよ。お爺さん、いるはずだからさ」

 都が真面目な顔のまま、山の上の方に向かって指をさした。そして言うと同時にキャリーバックを片手で引きながら、さっさと歩き出した。美奈美も一度頭をコクっと上下させた後、やはりキャリーバックを片手に都の後に続いた。いつもながら都は決断、行動が早い。良い悪いではなく先ずは動く。その時、間違いがあれば美奈美がそれを修正する役目だ。これでいつも二人は釣り合いが取れている。

 この時二人は老人に連絡が付かなくても、まるで臆する事はなかった。下界では真夏の炎天下、ひんやりとした森の雰囲気を充分に楽しみながら、お互いの会話を楽しみながら、この一応参道と思われる土の道を、どんどん山の奥へと歩を進めていった。

「ハハハ、それは無いでしょう。あいつがそんな細かい性格しているとは思えないなぁ、そう、思わない?」「ハハ、それもそうだね」

 大学生活の日常の他愛もない事柄を、楽しそうに会話している二人。歩き出した始めは周りの木々を見ながら、かすかな鳥達の声を聞きながら、落ち着く雰囲気だね、などと言っていた二人だが、十分も経てばそこはこの二人である、山中にいる事などどこ吹く風、世間話に花が咲き出したようだ。

 そして更に十五分ほども歩いたのだろうか、周囲はますます木々の重なりが鬱蒼としてきた。いつしか鳥達の声が煩いほどにあちこちから聞こえてきた頃、突然視界が明るくなり、ある程度の広さの空間が現れた。真夏の日差しがそこだけ強く照らしている。

 上空の青空が大きく見える。二人の目の前にかなり古い建物が建っていた。壁の木材はくすみがひどく、歴史の古さがそのまま壁材に表れている。この建物がここの神社の本殿らしい。二人は長々と話しをしている間に木々の連なりが消え、突然現れた古い建物を前面にして立ち止まり、少々戸惑っている様子だ。

「この建物、…神社、だよね?」都が少し疑いの顔で言った。

「そうでしょ、…多分」美奈美も半信半疑という顔だ。

 二人が思い描いていた神社とは、少なからず違う外見なのだろう。立ち止まっていた二人はどちらともなくゆっくりと歩き出し、この建物の近くに歩を進めた。人の気配が全く無い。そればかりか生き物の気配が感じられない。神社と見られるこの建物の周囲には、長年風雨に耐えてきた木材の朽ちた臭いなのか、苔やら雑草やらの侵入した臭いなのか、簡潔に言葉を選ぶとするならば〝古い〟臭いが、どこからか漂っている。

 それにしても通常ちょっとした神社の境内には、おみくじ、と書かれた木の箱が置かれていたり、巫女の姿をしたお姉さんがいる御守りの売り場があったり、常時タラタラと水の滴り落ちる手水舎の水場があったりと、それなりの施設が目に入るはずだが、ここには全くそれらの施設が見当たらない。建物の前には一面の白い玉砂利の空間が広がるだけで、そこには何も置かれてはいない。何も無い故、元気いっぱいの真夏の太陽光が、真冬のゲレンデのように白い玉砂利に全反射して眩しいくらいだ。

そして何も無いといえば、神社に百%付き物の注連縄、呼び鈴、賽銭箱のうち、ここには注連縄と呼び鈴が見当たらない。賽銭箱はあるにはあるが、これは賽銭箱なのか?と問いたくなるような、見た目は殆ど朽ち果てる寸前という状態の、手入れなど全くなされていないという事が一目瞭然に分かる〝木の箱〟が一つあるだけだ。

 この神社の本殿らしき古い建物は、実際のところ大きな神社によくある拝殿なのか本殿なのか、見た目だけでは判然としない。ただ小さな村の外れによくあるような、境内も無く、小さな建物一つだけがポツンと建っているだけの、そんな神社のように、ただそれが一際大きいだけのこの境内唯一つの建物のようで、外観は見た目かなり古く、江戸時代からずっと存続されてきた建物ではないか、そう思わせるほどの古びようだ。

 上を見れば、神社としてはかなり珍しい濃紺の屋根瓦に光沢は殆ど無く、太陽光が反射する事を諦めてしまったようにも見える。建築当初は恐らく、美しい木目がクッキリと見えていたはずの四方の壁も、遠い過去に既にくすんだ灰色の木材へと変化していて、何の種類かも特定できないような生命力溢れる植物が、這い上がったり枯れたりを繰り返したような跡が、あちらこちらに多くの染みを残している。更に建物の土台は深々と苔生していて、緑とは言えぬ、土色と緑の中間色といえば良いのか、その色自体が既に土台の色と化してしまっている。

 しかしここの境内、先ほどから人の気配が全くしていない。二人が境内に現れてから、住職どころか参拝客すら誰も姿を現していない。だがそれにしては、建物正面の扉は開け放たれ、そして周囲の玉砂利は掃き清められている。この違和感は一体何なのか。

「ねぇ美奈美ぃ、ここで…、ここで本当に良いのかなぁ?」

「う~ん、誰もいないみたいだわね」

 二人は揃って少々不安気な顔をしながら、この建物全体をゆっくりと見回している。さすがに普通どんな時も、落ち着いて事の次第を見守る美奈美でさえも、今回は少しばかり落ち着きが無いようにも見える。この神社を取り巻く雰囲気がそうさせるのか。

気が付くと、先ほどまであちらこちらからしていた鳥達の鳴き声が、いつの間にか消えている。が、二人はそれどころではなさそうだ。

「ねぇ美奈美、どうしようか、私達、どこか違う神社に来ちゃったんじゃない。ここ、絶対佐太神社じゃないよね、…ねぇ、そう思わない?」

 都が不安気一杯な顔で腰を少し折った格好をして、建物の正面の奥を覗くように小刻みに右に左へと動き、幾分落ち着きを失っている様子だ。

「うん、もしかしたら、どこか違うところに来た可能性、あるかもしれないわね」

 美奈美は都に比べると落ち着いている。そして神社の関係者、もしくは他の観光客か参拝者か、誰かがどこかにいないかしきりに辺りを見回している。

 美奈美の背後から、都が袖をクイクイと引っ張った。

「ねぇねぇ、美奈美、どうしよう、戻ろうか、こんなところにいてもしょうがないよねぇ」やはり落ち着きがない。

「う~ん、そうね、でもね、バスはもういないし、歩くにしたって、この山の中まで、さっきの鳥居からだって結構距離あったよね。ここは車でないと、ちょっとねぇ」

 美奈美のこの言葉で二人の思考が止まった。どうするべきか。

 真夏の炎天下、鬱蒼とした緑に囲まれここだけが真っ白く広がる境内の真ん中、時刻も午後三時半を過ぎたところ、まだまだその勢いを強める太陽光が全反射する中、二人は立ち竦んでいる。二人はそんな太陽光の輝きなど感じているどころではないのだろう、都は首筋を流れ落ちる汗も拭かず、建物の正面を凝視している。

「ちょ、ちょっと、中、見てみようか、ねっ、美奈美。もしかしたらさ、お爺さん、中にいたりして」「ん? う~ん、もしかしたらだけどね」

 明らかに二人とも自信が無く、一応言葉にして見た、というだけの会話だ。都はキャリーバックをその場に置いたまま歩き出した。美奈美も同じくキャリーバックから手を離し、都の後をゆっくりと歩き出す。二人の玉砂利を踏み締める音がジャリジャリと、二人の気持ちを無視するかのように、大きく辺りに響いている。

「だけどさ、美奈美、この神社、何て言う神社なんだろうね?」

「うん、それもそうだけど、あのバスの運転手、何でこんなところに私達を連れてきたんだろう、どこか、おかしいよね」

 二人が建物正面に続く階段の前まで来た。二人並んで見上げている。都が美奈美の方に顔を向け、美奈美の問にここで返事をした。

「そうだよ、おかしいよ、うん、絶対おかしい!」言いながら階段を登り出す。

「そうでしょ、おかしいのよ。それに、あの運転手、何っていうか、存在が感じられないっていうんだろうか、どこか、変な雰囲気があったわよね」

 美奈美も、バスの中で都が言っていたような事を言いながら、都の後に続き登り出した。

二人は階段の上の踊り場に上がり、一応賽銭箱と思われる古びた木の箱の前まで来た。この木の箱、間近で見ると、少し手で圧力を掛ければボロボロと崩れ落ちそうなくらいの、離れて見ていた時に感じたよりも、実際はもっとひどく古びていた。

「私、バスに乗る前、佐太神社、って、しっかり言ったよね!」

 足を止めた都が、突然美奈美の方を向いて言葉に力を込めて言った。

「うん、言った」美奈美もその言葉を肯定するように、力強く頭を上下させた。

「そうよね!私、確かに言ったわよ、なのにさ、何で?」

 二人は賽銭箱の前に仲良く並んで立っている。今のこの状況がバスの運転手のせいだとする事で、先ほどまでの不安な気持ちは、二人共どこかに行ってしまった様子だ。都は力強く言った後、少し俯き加減で何かを考え込んだ。そして顔を上げ美奈美を見た。

「あっ、でもね、私が〝佐太神社〟って言った後、あの運転手〝神社には行くよ〟って言ったんだよね、確か」「神社には行くよ、っかぁ、ふ~ん」

「それって、ここの神社っていう意味だったのかな?」

「多分、そうなんじゃない」「じゃぁ、嘘ではなかったって事なの?」

 都の声が段々小さくなっていった。その後二人共言葉が続かなかった。

確かに運転手の言った事は間違いではなかった。神社には来たのだ。ただそれが都が告げた〝佐太神社〟ではなかっただけだ。二人がその後何も言わなかったのは、各々その事を頭の中で認識したからなのだろう。都がモゾモゾと財布を出している。

 この少々不安な状況下で、そしていつもとは全く違う装いの賽銭箱に、普段神社で当たり前にする慣習的行動に、無意識で反応しているのだろうか。美奈美も横に並んで同じ動作をしている。これは言わば条件反射的行動と言うべきなのか。

―ツァリーン、ツァリーン

 二人の賽銭を投げ入れた音が、賽銭箱が古いためか少し音がくぐもっているようだが、誰もいなさそうな堂内に一応少しは響き渡った。

 二人は投げ入れた後、ほぼ同時に礼をして、拍手を二回、そしてまた礼をした。

「ねぇ、お辞儀の回数って、これで良かったんだっけ?」都が腰を曲げたままで訊く。

「ん、良いんじゃない。お辞儀だもん、何回やったって良いでしょ」

 一般的には何回やってもという事は無いのだろうが、二人はとにかく賽銭箱の前から離れ踊り場の上を歩き出した。都が踊り場と堂内の区切りとなる、床面の太い横柱から顔だけを入れ、少々大きめの声を出した。

「すいませ~ん!誰かいますかぁ~!」

―シーン   音という音が何もしない。

「やっぱり、誰もいないようね」美奈美を見た。

「そう、やっぱりこんな寂れたような神社じゃ、お爺さんもいるわけないわね」

―フッ! えっ!   都が振り返った。

 都は背後に、お堂の内部で何かの動く気配を感じた。が、何もいない。

「何だろう?」振り返った状態で動きが止まっている。

 少しの間、都は身じろぎせずに目だけを動かし、耳を澄ましてこの空間から何か情報を得ようとした。お堂の中は何も無く、木目が辛うじて分かる灰色の木の壁と天井、そして床が見えるだけだ。恐ろしいくらいに何も無く、本来ならメインの存在となるはずの、大きな木造か金属であるかは別として、御神体と呼べる物でさえここには見当たらない。時折吹き抜ける柔らかな風に、床の隅々に埃の塊が転がり集まっている。視界に入る認識できる物体といえば、それだけだ。

 ジッとこの空間を見ていると、何やら鈍よりと揺らいでいるようにも見える。夜中には決して入りたくはない空間だ。暫し黙って目だけを動かしていた都が、重苦しい静寂を自ら打ち壊すように、子供が幼い恐怖を振り払うように、わざと大きな声で叫んだ。

「な~んだ、何もいないじゃ~ん!驚かせないでよねぇ~」

 都は肩に入れていた力を抜いて、ホッと一息を付いた。そして安心したと同時にここに来た目的の一つである、あの老人が居ない事に思考が移った。都は顎に拳をあて軽く目を閉じ、その事を考えながら再度ゆっくりと振り返った。

「ねぇ美奈美、この後どうしようか、お爺さんも居ないんじゃさぁ」

 と言ったところで目を開いた都は、その円らな瞳が点になった。

―あれっ!   動きがまた止まった。いや、思考が止まった。

 振り向いた都の目には、視界前面に広がる真っ白い玉砂利に、全反射した煌く太陽光が纏めて入ってきた。

―眩しい!   目をやや細めた。

 そう感じると共に、障害物無しで目に映ったその真っ白い光の中に、ポツン、ポツン、と小さな黒いキャリーバックが二つ、絶海の孤島のように浮かんで見えている。そしてその背後には、鬱蒼とした緑が垂れ幕のように広がる。斜め上方には少しの雲がポツン、ポツン、と小船のように浮かび、海と見紛う真っ青な夏空が広がっている。

―なんて美しいコントラストなの!   ん?都の思考が再度止まった。

―何か、違う?   また目を細めた。

 都は目の前の景色の中にかなりの違和感がある事に、振り向いて直ぐに気が付いていた。が、それが何なのかは直ぐには理解できなかった。

―ねぇ美奈美、…どこ?   頭の中に自然と言葉が出てきた。

 都の目の前には、つい先ほどまでそこにいたはずの美奈美の姿は無かった。都の網膜には白い玉砂利とキャリーバック、緑の垂れ幕と青い空が、障害物無しに直接映像として映っていた。が、そこに美奈美の姿は映ってはいない。

「みぃ~、なぁ~、みぃ~!どこに行ったのぉ~」

 暫しの無音。もう一度読んでみた。

「みぃ~、なぁ~、みぃ!」どこからも何も帰ってはこない。

「ねぇ…、み、な、みぃ…、どこに、行った、のぉ」都は黙った。

 美奈美は僅か数秒の間、都が堂内を見ている間にその姿を消してしまった。物音を何一つ全くさせずに。

 都の頭の中は、何も考えられず真っ白になっている。

「えーっ、美奈美、どこ?ね~ぇ、みぃ~なぁ~みぃ~!どこに行ったのぉ~!」

 白い玉砂利が敷かれている庭には、二人の残してきたキャリーバックがきちんと大人しく並んで立っている。美奈美の物もそのままだ。都は何が何だか理解できなかった。頭の中を整理しようとしながら、足は勝手に踊り場を行ったり来たりしている。街中で母親から手を離してしまった幼子のように。

「えー、何で?ねぇ~美奈美ぃ~、どこぉ~、み、な、みぃ~!」

 見たところ、美奈美がどこかへ去った痕跡はどこにも無い。その辺に隠れている、というのもおかしな話だ。別にここで、突然かくれんぼでもあるまい。ましてや隠れるところなどどこにも無い。音も何もしなかった。もし庭に下りて歩けば、玉砂利の上でジャリジャリと音がするはずであるが、全く音はしていなかった。踊り場の上をあちこち歩き回ったとすれば、古い木造の建物である、ギシギシと、少なからず音がするはずだ。現に今、都が右へ左へと歩き回る度に灰色に変色した床板が、都の足に合わせてギシギシとかなり大きな音をさせている。これらの音がしたなら、いくら見ていなかったとしても背後で音のする事は分かるはずだ。

何も言わず、音もせず、美南美は消えてしまった。

 右往左往していた都の足が踊り場中央で止まった。途方に暮れている。無理もない。自分達が向かった神社が目的の神社とは違っていて、会うはずだった老人とは連絡も取れず、そして今度は親友が目の前で、いや、背後で突然姿を消してしまった。この状況ではパニクってもしょうがないところ、都の場合、その思考が止まった。

―何で?何なの?どうしたっていうの? …どうしよう

 ふと見ると、踊り場の中央、都の足元に何かが落ちている。

―あ、御守り  都は泣きそうな気持ちで、落ちていた一つのお守りに手を伸ばした。

―美奈美のだ、北海道に行った時のだ

 その御守りからは、中に入っているラベンダーの香りが仄かに漂っていた。

―富良野で買った、御守り

 都はその御守りを手にしたまま、一人言葉も無く、ただ立ち尽くすしかなかった。



 下界の人間どもがどう足掻こうが太陽は燦燦と輝き、その莫大な量のエネルギーを地球という惑星に降り注ぎ続けている。夏は特にそれを顕著に感じる。

どこかの文学者が言いそうな、そんな状況下で彼女は今、歴史の重みに殆ど潰されそうな古い神社の踊り場の中央で、呆然と立ち尽くし、暑い、とか、眩しい、だとかいう感情の外にいる。

―どうしよう   今の彼女の頭の中には唯一つ、この言葉しか浮かんでいない。

 親友の美奈美が突然消えてしまった現実に、どうしよう、といった言葉を頭の中で何度も何度も思い浮かべてみても、その実、何もする事ができないでいる。それを自分自身で分かってはいるのだが、それ以上の思考が働かないのだ。

―どうしよう、泣きたくなってきた   再び、無理も無い。

 この見も知らぬ神社で一人にされ、さぞや心細いであろう。都はしゃがんで顔を両手で覆った。泣き出したのか、と思ったその時、

―フッ! えっ!   両手を顔から離し、顔を上げた。

 都の背後でまた何かの気配がした。都は涙を流す間も無くスッと立ち上がり、後ろを振り返った。数分前に感じたあの気配だ。

「誰! 誰かいるのぉ!美奈美、美奈美なの!」声が堂内に響き渡った。

 都は何も無い建物の内部を、再度身じろぎせずに凝視した。もちろん何も無い。さきほど見た時と同じく、動きのある物は丸まって転がる埃だけだ。それから何十秒かの間、都は目だけを動かし、耳を澄まし、全身の感覚を鋭敏にするように集中した。

―絶対、今、…何か、いたよね   自分に問い掛けた。

 この時都は恐怖という感情よりも、美奈美がいなくなってしまったという事実への、大きな疑問の答えを得る事の方が大事に思えていた。そして自分自身意識して、しっかりしなきゃ、という気持ちを強く持ち、自ら意識を奮い立たせると足を一歩二歩と何とか動かし、堂内内部に向かって進み出た。

「ねえ! 誰かいるの?みなぁ…」と言い掛けたその時、

―えっ!   都から少し離れた建物の内部に何かの影が動いた。

 咄嗟に都はその何かが動いた方に顔を向けた。すると都から十数mほど離れた建物内部の奥、先ほど見た時には気付かなかったようだが、裏の出入り口があったらしく、その出入り口のところに何かがいる。

―ん?   都はその方向へ目を凝らした。

「う、さ、ぎ?」都は目を見開いた。

 白い毛並み、長い耳。何と、そこにはウサギがいた。

―白、うさぎ? 何で?  確かに、そこには白ウサギがいた。何故かは分からない。

 このウサギ、後ろ足で立ち上がり前足を体の前に垂らし、犬でいうところのチンチンの姿で都の方を見ている。背の高さは頭までが三十cmくらい、耳の先まで入れると五十cmくらいはあるのだろうか。頭の上の二つの長い耳はピンっと立っていて、僅かな音情報も漏らすまいと、ピクピク横に向いたり前に向いたりを繰り返している。これは誰がどう見ても、間違いなく〝ウサギ〟だ。

―白、ウサギ? 因幡の? …何で?

 都の頭の中で、先ず思い立ったのがこのフレーズだった。〝因幡の白兎〟、でも何故今ここに、白ウサギがいるのだろか?

―野生のウサギ?まさか?   都は頭の中で、また自分に問い掛けた。

 野生のウサギがチンチンの姿で人前に現れる事など、まず有り得ない。わけが分からない。確かにここは神話の故郷、出雲だ。〝因幡の白兎〟には相応しい場所であるにはあるが、この場面でその存在が必要なのか?都の頭の中は混乱状態になってきた。

 都が混乱している最中も、このウサギは黙ってチンチンの姿で立っている。

都が何とか自分の頭の中を落ち着かせ、やっと自分の目の前に、今実際にウサギがいるんだ、と認識した時、初めてウサギと目が合った。ウサギの瞳は以外に可愛い。よく言われるところの赤い目はしていなかった。

「ねぇウサギさん、貴方はここで何しているの?って言っても絵本じゃあるまいしね、ウサギ相手に話すわけにいかないか」一人呟いた。

 都は呟いてからしゃがみ込み、距離のあるところで自分の目をウサギの目の高さに合わせた。そして猫を呼び寄せるように、床をトントン、トントンと指で軽く叩いて音を出し、もう一方の手でおいでおいでをした。ウサギは、馬鹿にするなよ!というような目付きをした。いや、そんな目をしたように都は一瞬思ったので、床を叩く指を止めた。と同時に一瞬息も止めた。指を止めた直後にウサギがゆっくりと動き出したからだ。

 ウサギはゆぅ~っくりと、前足を床に下ろすと四つん這いとなり、前足を動かし後足を動かし、そしてまたゆぅ~っくりと、都から見て横に、左側に向かって動き出した。床に反射する明るさを見ると、左側に外に通じる出入り口があるようだ。

ウサギはその方向に向かって動き出したのだが、少し動いてその動きを止めた。彼、いや彼女か判別はできないがこのウサギ、四つん這いの格好で頭だけを都の方に向けている。そして視線を都の視線に合わせジッとしている。

―えっ!貴方、私を見ているの?   都がその視線に気が付いた。

 少なからず都は驚いた。さっき視線が合った時は単なる偶然と、意識せずともそう感じていたのがこの時は違った。あのウサギは一度横を向き視線を外してから、改めて向き直り視線を都に合わせてきたのだ。これは偶然とは言えまい。都はそう感じた。

「ねぇ、ウサギさん」弱いながら声を掛けた。

 都は明らかに相手として声を掛けた。動物に声を掛ける、という意味ではなく、相対する相手として声を掛けたのだ。それは自分でもおかしな事だとは思いつつ、自然と声が出てしまっていた。

「ねぇ、待って!」意識より前に足が動いていた。

 都が足を前に出すと同時にウサギもまた動き、その姿を壁の向こう側へと、都の視線では左側にゆっくりと消えていった。都はバタバタと直ぐにウサギの後を追った。都の後を埃の塊が彼女を追い掛けるように転がっていく。都が後にした踊り場の背後、真夏の太陽光を全反射している真っ白な玉砂利の庭には、二人のキャリーバックが汗もかかずに大人しく、幾分哀愁も漂わせ、仲良く並んで立ったままとなっていた。



 都が奥の出入り口に来てみると、やはり壁の向こう側には、建物内部から外に通じる通路があった。そして都の目には、その通路の先、向こう側に外と建物内部を隔てる裏口がポッカリと、洞窟内部から外界を見る時のように、クッキリと輪郭をかたどり大きな絵画の額縁のようにも見えていた。都はまた直ぐに、早足でその裏口に向かった。が、直ぐに、二、三歩足を進めたところで立ち止まった。そして足を止めたままの姿で、何かを考えている。

―私、何をやっているんだろう   目を瞑った。

 都はこの来るつもりも無く来てしまった古い神社で、老人とは会えず、美奈美はどこかへ姿を消してしまった、この時に考えなければならない事は何か、一瞬考えた。

―美奈美を探すべきなんじゃないの?

 都はこの時、あの不思議な白ウサギを追わなければ、という理由を探していた。

姿を消した美奈美を探す、という事は、この時点で明らかに重要な事なのだと分かっている。その事柄と白ウサギの後を追う、という事柄の重みを、頭の中の天秤ばかりで量っているところなのだ。頭の中で疑問質問が入り混じり次々と浮かんでくる。故に足を止めた姿で全く動かなくなってしまった。電池の切れたロボットだ。恐らく今、彼女の頭の中では激しい言い合いが行われているのだろう。

―美奈美を探すべきよ、当然でしょ!

―でも白ウサギが何かを知っているんじゃないの?

―だってあれはたかがウサギよ、何を知っているっていうの!

―でも何かを知っているから私の目の前に現れたんじゃない、追うべきよ!

―そんな事、分からないじゃない、美奈美を探す方が大事な事は明らかだわ!

 彼女の頭の中はバトルの戦火が激しく燃え盛っていた。

そんな都の頭の中とは裏腹に、神社を取り巻く周辺の山々では、鳥達の鳴き声と夏虫のかすかな鳴き声しかせず、実に穏やかだ。しかしその対比としてなのか、天空にある真夏のギラギラとした太陽の日差しは、都の頭の中の戦火が飛び火して燃え盛っているようにも見えている。

 気付くと、都が建物の裏口のところに立っている。バトルに終止符が打たれ、天秤ばかりが白ウサギに傾いたようだ。

 裏口に来て外を見てみると、建物の裏はやはり正面から見る建物の周辺と同じく、鬱蒼とした森が覆い被さるように建物に迫ってきていた。森の奥に向かってやや勾配があるように見える。見渡すとその森の奥に向かって、一本の細い道があるのが目に入ってきた。

 都の立つ裏口の位置は地面の上二mくらいの高さにあるのだが、そこから見てもその道の途中からは笹に覆われ、行き先は見えてはいない。しかし笹薮の所々に道の続きと思われる土色らしき場所が、行き先を知らせるヒントのようにポツンポツンと見えている。都は一度そこから目を離した。あの白ウサギがどこに行ったのか、今度は意識をして辺りを見渡した。そして周りの木々を見ている時、ふと思えば、都の目の奥に少しの残像が残っているのを感じた。

―ん、何だろう?   都はゆっくり目を閉じた。

 先に見ていた藪の奥へと続く細い道の方に顔を向け直し、再び目を開けた。するとやはり、森の奥へと続く道は鬱蒼とした笹藪で先が見えてはいないのだが、その笹藪の途中に小さな白い丸い塊のある事に気が付いた。

―あ、ウサギさん   あのウサギだ。

 いかにも都を待っていた、というように、身体は勾配の上に向けている。しかしまた顔だけを都の方に向け、明らかに視線を彼女に合わせてきている。都よりかなり早く建物から出ていたはずなのだが、その態勢でいたのだろうか。

―ったく、遅いなぁ、早く来いよ  とウサギが言っているように都には思えた。

「ウサギさん、待ってぇ!」

 と都が片手を上げて言った時、ウサギは笹薮の中へと今度もまたゆぅ~っくりと、丸い尻尾を僅かに震わせながら消えていった。恐らくこれもまた、都が後を追って来る事を踏まえての動きなのだろう。その動きに従うように、都は直ぐさまウサギの後を追った。

裏口から階段をトトトっと駆け降り、幅三mほどの玉砂利の上をジャリジャリと横切り、鬱蒼とした森へと続く土の細道をタタタっと駆けていった。

 森に入ると建物の踊り場の上にいた時と比べ、空気が嘘のようにひんやりとした。まるで森全体が大きなドームで覆われ、冷房をガンガンと掛けられている感覚だ。今まで建物全体が真夏の太陽の熱い息を、フーフーと吹き掛けられていたようにも思えていたのに、突然冷蔵庫の扉をバタンと閉められたような感覚で、全く暑さを感じないとさえ思えた。

 都は走りながら、ふと、ある場面が頭に浮かんだ。

―私って、アリスみたいね 

―アリス?それは〝不思議の国のアリス〟の事?

―だって、不思議なところで、突然現れたウサギを追って走っているでしょ

―ん?因幡の白兎じゃなかったの?

―因幡の白兎は皮を剥がれて泣いているんでしょ。今私はウサギを追い掛けているのよ

―じゃあ、この後、あなたは穴に落ちるって事なの?

―それは分からないわよ。成り行き次第ね

 都はそんな事を一人二役で想像しながら、タタタっと小走りで笹薮の細道を駆けていた。とその時、笹薮が突然開けた。

何と、鬱蒼とした森が果てしなく続いているのかと思っていたら、笹薮どころでなく森自体が開け、彼女の目の前には広大な草原が広がっていた。

「えーっ!何なの、この草原は~!」一人、叫んだ。声が広い空間に消えていく。

 都は立ち止まり叫んだ口を開けたまま、突っ立ったまま、ただ驚いている。今の今まで鬱蒼とした森が、山の中の森が続いていたと思ったら、余りにも突然の大草原である。都は開いた口がまだ塞がっていない。神社からさほど離れていないはずなのに、この状況の違いに都は戸惑いを隠せないでいる。

 この風景、気持ち良いといえば非常に気持ちが良いところだ。今までいた神社周辺の、深緑色中心の濃い景色から、ここは淡い黄緑色が中心のパステルカラーの世界。都の立つ位置から百八十度前面、視界の利くところ全てが、果てしなく広がる気持ちの良い草原へと変わった。都の膝より少し上の高さくらいの名前も知らない草が辺り一面、一斉に風にユラユラ揺れている。都は戸惑いつつも無意識に両手を広げると、大きく深呼吸をした。

―日本にこんなところがあるのね、空気が美味しいわ。ん?だけど、ここ、出雲よ?

 都の思う通りここは山陰の出雲であって、北海道ではない。しかも山の中だ。不思議ではあるが現実に都は今、そこにいる。

 この森に入るまでいた古びた神社では真夏の太陽が、これでもか!というくらいにそのエネルギーを地上にぶつけていたが、何故かこの広大な草原ではそれが無い。実に柔らかい日差しが、風呂上りにムートンのバスローブで包まれた時のように、心地よい暖かさを上空から身体を包み込むように、実に柔らかく供給してくれている。しかもそよ風が、これもまた適度に心地良く、頬を撫でるようにかろやかに吹いている。

 そんな空間に来て都はいつの間にか、余りの気持ち良さで少しの間ボーっとして立っていた。が、意識も無いまま、一面の黄緑色の草原ばかりが映る彼女の視界の中に、一点、小さな白い塊が、目に入ったゴミのように違和感として映っている事に気が付いた。草原に住む野生の動物、ではない。もちろん、あのウサギだ。

 ウサギは草原の向こう側、草むらの丈が少し短くなっている小さな丘のような場所で、猫のように身体を丸くして蹲っていた。

―あっ!そういえば私、ウサギさんを追いかけていたんだわ!

 ボーっとしていた都も我に帰った。都はその違和感の方角に無意識で身体を向け、また本能の赴くままにといえば良いのか、勢いよく走り出した。走り出してから彼女は、今何故自分がここにいるのか、何故走っているのかを思い出した。

「ウサギさん、待ってよ~」小さく声を掛けた。

 ウサギは顔を少しだけ上に向け、ったく、マジ遅いよなぁ、とでも言っているようなある意味不快な顔をして、都が近付いて来るまで身動き一つせず、ピタっとその場に止まっていた。

 この草原は見た目以上に広さがある事を、都は走り出して改めて認識した。ウサギまでの距離が一向に縮まらない。彼女の息遣いが激しくなってきた。動かす足も見るからにもたついてきているのが分かる。普段いかに運動不足なのかが、こういう時によく分かるものだ。

「ねぇ、ハァハァハァ、ウサギ、ハァハァ、さん、ハァハァ」

 もう声が全然出ていない。これでウサギに聞こえるわけがない。

「フゥフゥフゥ、ねぇ、フゥフゥ、ウサギ、さん、ってばぁ、フゥフゥ」

 都はゼーゼー言いながら、とうとう足が止まってしまった。腰を曲げ膝に手を付いている。まだ大学生だというのに、全くの体たらくだ。ウサギはというと、そのままの格好で都の方を見ている。顔が明らかに不愉快という表情だ。と思ったら、徐に立ち上がった。そしてチンチンの姿勢に、ではなくチンチンを出して小便を始めた。そしてし終わったと思えば、今度はその場で横になり、ウサギのくせに片手?片前足?を枕に寝そべってしまった。都はまだ膝に手で下を向き、ゼーゼー言っている。

「ゼーゼー、フー、私って体力無しだわ、フーフー」一人呟いた。

「本当だ!まったく、何てざまだ!せっかく呼びに来たのに、これじゃぁ役に立つのかどうか、分かったもんじゃないな!」

 何と、ウサギが横になっていたと思ったら、いつの間にか都の目の前に来ていた。都の目の前で仁王立ち姿で偉そうに、両手?前足?を腰に当て長い両耳をピンと立て、恐い顔をして吐き捨てるように都に言葉を投げ付けた。あの古びた神社で最初に出会った時の可愛い目をしていたウサギとは、凡そ似ても似つかわしくない、全く非なるウサギに思える。ましてやこのウサギ、今、しゃべったのだ。当然、驚いたのは都だ。

「えっ!あ、あ、あなたぁ、ハァハァ」

 都は膝から手を離しガバっと上半身を上げると、余りの驚きに、

「は、話しが、ハァハァ、は、話が、できるのぉ‼」目を開き切ったまま、言った。

 当のウサギは、何言ってんだこいつ、という顔で横を向き、チェッ、と舌打ちをした。そして都を上目遣いでジロっと睨むと、

「ったく、当たり前だろそんな事!話さなきゃどうやって意思を伝えるんだよ!おかしいんじゃないのか、ったく!」と、またしても吐き捨てるように言った。

 もしこれが人間が言ったのであれば、何も問題の無い言葉であったが、事実は違う。都の問いが当然だろう。この後ウサギは本当に不愉快だ、という顔のままクルッと向きを変え、四つん這いになった。そして顔だけ都の方に向け、

「ほら、どうすんだよ!俺と一緒に来るのか来ないのか、早く決めてくれ!」

 そう言うとウサギはゆっくりと、草むらの中を長い耳の先だけを草の上に突き出しながら歩きだした。草むらの中で白い身体は見えなくなっても、耳の先端がバスツアーのガイドさんの旗のように、その場所をおしえてくれている。彼は歩きながら一人何かブツブツ呟いている。都へ言いたい事がまだあるようだ。

 このウサギ、見た目と違い、口は悪いし意外と根暗っぽい。

 ところで都はというと、戸惑っている。それはそうだろう。ウサギが話をしてきた、という事自体が驚きの事実である事に加え、そのウサギが、ある目的を持って自分を迎えに来たような口振りだった。更に加えて、そのウサギが余り良い性格ではないように思えるし、都は戸惑っている。が、ウサギは言う事だけ言ってさっさと行ってしまった。早くしなきゃ、という気持ちと、ウサギが言った事は何の事なのか、という疑問と、それとまだ、ウサギがしゃべった事の驚きが彼女の頭を混乱させている。当然だが、今彼女の頭の中は鳴門の渦潮の如き、混乱の渦が勢い良く回り出し収拾が付いていない。

 草むらの中でウサギの耳が止まっている。耳の先っぽ、小さな三角形が二つ、猫の耳のようにも見える。その猫の耳二つをよく見ると、少しばかりピンク色の肌が次第に赤に近い色へと変化していき、ピクピクと細かく引きつるように動いているのが分かる。恐らくあの性格からすると、都がなかなか決断できない事にイラついているのだろう。

都は、早く早く、と自分に言い聞かせながら、俯き加減でゆっくりとだが、取り敢えず足は草むらの中に踏み出し、ウサギの後を追おうとはしているみたいだ。しかし、やはりというべきかウサギは待ち切れなかった様子で、突然スックと立ち上がると、草むらから明らかにイライラした顔を見せた。そして凡そ十mほど離れた場所から都に向かって、大きな声で怒鳴った。

「いつまで待たせる気だ!ったく、俺は暇じゃねぇんだぞ!来ないなら、俺は行くからな!ったく」と、吐き捨てるように怒鳴った。

「わ、分かったわ、今、行くから、待ってぇ!」

 このウサギの怒鳴り声で都は決断した。混乱で渦がグルグル巻いている頭の中を、一度、意識を持ってリセットする事にした。

―うん、もう良いわ、とにかく今は、ウサギさんの後に付いて行くしかないわ

―そうよ、ウサギがしゃべろうが、怒ろうが、関係無いじゃない

 そう自分の心に意思を決めると、自然と足も速度を増した。

「ウサギさん、ごめんね遅くなって!今、行くから!」

 都の動きが早くなったのを見届けると、ウサギはまた四つん這いとなり耳の先だけを草むらの上に出し、前に向かって動き出した。三角形が二つ、草むらを掻き分けている。都も直ぐさま自分の足にムチを打ち、三角形の後を追った。何とか息は整ったようだ。



 ここは一体どこなのか?小さな丘を二つ越え、長い丈の草むらを何十分も掻き分け、短い丈の草むらを何度か通り過ぎ、スーっと立ち並ぶ杉林を一回通り過ぎ、黄色い花びらの可憐な花畑を一回通り過ぎ、この時点で何度か都は、ねぇ、ちょっと休ませてハァハァ、とウサギに懇願を繰り返しながらも何とか付いてきてはいた。しかしその度にウサギは、早くしろよ!と言葉にはしないが、不愉快な顔で都を急かした。急かしてはいたが考えてみるとこのウサギ、以外に根気強いのではないか。

 何だかんだ言っても、二人が歩き出してから既に半日以上は経っている。太陽の日差しの向きが違う方角から来ているのが分かる。よく歩いてきたものだ。その間、常に不愉快な顔はしているものの、都が手を膝にして呼吸を整えている時も、結局は黙って見ていてくれていたのだ。都も弱りながらも、ハァハァゼーゼー言いながらも、何とかウサギに付いてきていた。

 結局この二人、微妙な距離感を保ちながら、かなり長時間を歩き通してきたことになる。草原や丘や花畑など自然の中を、通常ならば、気持ち良いわぁ!と笑いながら、または、空気が本当に美味しいわぁ!とピクニック気分で大きく深呼吸をしながらでも、楽しく歩いてくるのだろうが、この場合は全く違う状況下にある。

「ねぇ、ハァハァ、ねぇ、ゼーゼー、ねぇってばぁ!」

 都はさすがにもうボロボロなのか、両膝に手を付き頭をダラっと下に下げ、大きく肩で息をしている。そして、私はもう動けません宣言を出した様子だ。ダラっとしたまま動かなくなった。もうウサギの事を呼び掛けもしない。先ほどの、ねぇってばぁ、という言葉が断末魔となったみたいだ。

―わたし、普段、生活の中で、こんなに歩いた事って、あったかしら?

―何か、もう、何にも考えられないって感じ

―私、今、どこにいるの?

 都は身体を句の字に曲げ、完全に固まってしまった。目も閉じている。都が固まってしまったところは、膝下くらいの丈の短い草が辺り一面に生える小高い丘の上。ここから三百六十度、見渡す限り草原が続いている。都とウサギが歩き出した場所と殆ど景色が変わっていない。途中色々な景色があったが、また元に戻って来たような感覚だ。ただそよ風はこの時殆ど吹いてはいなかった。

 彼らがずっと歩いてきたのは一体どこなのか。ウサギは行き先に付いては都に何も言ってはくれていなかった。ただひたすら都を先導するように前を歩き、時々後ろを振り返っては、早くしろよ、と不愉快な顔を見せるだけだった。

 気付くと、固まっている都の二十mくらい先で、ウサギがまた偉そうに腰に両手を当て、仁王立ち姿で都の方をキッとした目で見据えながら立っている。長い両耳がピンっと空に向かって二本並んで真っ直ぐに立っている。真っ白な縁取りにピンクの内側、ササの葉のようにピンと立った耳は、見ようによっては美しいと言っても良い。

そのウサギ、目を閉じて何か分からないがブツブツ言っている。また都に対しての不満でも呟いているのだろうか。

 都は句の字のスタイルから更に体から力を抜いて、地べたに蹲るような格好になっていた。両手を重ねたその上に頭を載せ、足を正座にして身体を丸め、ちょうど猫が縁側で日向ぼっこをしているような、見ていると何ともほんわかした気分になる姿だ。

―もう、私、動けない   都は頭の中が真っ白になっていた。

 イメージとしては、頭の中の中心に白い大きなキャンバスが置かれている状態だ。そこに自意識としては能動的な事は何もしていなかったのだが、この時彼女の頭の中に外部から、この場合は都の意識の枠の外から、突然、何やら勝手に一本の線が引かれだした。

―えっ、何、何が始まったの?

 頭の中の真っ白なキャンバスに、細い鉛筆風の物が横から現れ何かを書き入れ始めた。

―な、何よ、これ   都は自分の頭の中の出来事ながら、端から見ている感覚でいる。

 先ず始めに、画面の斜め上に丸が描かれチョンチョンチョンと丸の周囲に短い線。子供が描く太陽のような絵だ。

―絵を、描いているのね

 次に下から何cmくらいか上に、左から右に向かってずーっと横線を、ある程度の緩やかな波を打ちながら引かれていく。これは地平線のようだ。

―ふ~ん、何の絵なの?

 頭の中の想像のはずが、その中でまた更に想像して絵を描いている。ややこしいが都はこの鉛筆のする事を黙って見守る事にした。

 キャンバスにはその後、松の木や草花、建物らしき物が描かれ、どうやらどこかの風景が姿を現した。細かい線描は抜きにして大まかにザッザッと、この鉛筆は宙を飛ぶように簡潔に、デッサンを思わせるタッチで描いていく。その後キャンバス全体を先ずは輪郭だけで大まかに整え、それからこの宙を飛ぶ鉛筆は小さな字で、風、日差し、香り、等の、絵では感じられない感覚を書き入れている。なかなか細かい仕事をする。

 暫くして、どんどん筆ならぬ鉛筆が進み、この絵の全体像が見えてきた。白黒ではあるが少し太めの線で力強く描かれたこの絵は、やはりどこかの風景画と思われる。そしてその中に描かれている建物を見ると、五重塔があったり大きな屋敷があったりと、見た目でそれと分かる構造物があるので、京都か奈良のような古都の景色のようでもある。

 ここでこの鉛筆、自ら芯の色を黒から鮮やかな朱の色へと変化させた。そしてこの絵の中で一際目立つ建物を、最後に力強く描き入れた。という事はつまり、それはこのキャンバスの中で最も重要なアイテムなのだ、という事を示しているのだろう。

朱の建物を描いたところで鉛筆の動きが止まった。見た目、宙に浮いたまま動かなくなっている。この絵の全体像を見渡すと、白黒の線描の中にクッキリと一つだけ朱の建物が、まるで日本の国旗の日の丸のように、朱の色がそこだけ浮き上がっているように眼に飛び込んでくる。

―この建物って、何だろう?   都、頭の中で目を凝らしている。

 黙って鉛筆の描く風景画を見ていた都が、鉛筆の動きが止まったと同時に脳味噌の活動を再開した。それと歩調を合わせるように鉛筆も、スーッとキャンバスの枠内から外へと静かに退場していった。

―綺麗な、絵ね   極々自然な感想を都は頭の中で呟いた。

 しかし気になるのはこの朱色の建物。

―何でこの建物だけ色が違うの? 

 この一つだけ色の違う建物、その建物は本殿と思われる屋根の前後の部分に、交差した長く突き出た柱状の物が見える。そして屋根の尾根の部分に何本かの、やはり太い棒状の横木が見える。その形状からして、恐らくこの建物は神社と思われるが、しかしもしこれが神社であるのならば、他の神社とは決定的に違う事が見て分かる。この絵で見る限り、本殿の下に見える土台の大きさというのか、その柱の長さというのか、明らかに異常な長さを持って描かれている。通常の感覚でいうなら、これは間違って描かれたのだろう、と思うほどだ。都もそれを感じていた。

―おかしいよね、何でこんなに柱が長いの?

 これは異常な高さの建物である。更に本殿の位置が土台の柱の長さでかなり高い位置にあるため、そこまでの階段がこれもまたえらく長いスロープとして描かれている。イメージとしては、エジプトのピラミッド建築の想像図として登場する、あの長大な建築用スロープだ。横から見ると綺麗な直角三角形の形となっている。都は自分の頭の中のキャンバスに向かって呟いた。

―これって、何の絵? 

 そう思った時、フゥー、と肌を撫でていく柔らかい風を感じた。それと共に体がスーっと軽くなってきた。もう動けない、事はない。

―あっ、私、そういえば   都は自分がこの時何をしていたのかを思い出した。

 都は顔を上げ、上半身を起し、そして二つの瞼をゆっくりと開け、ぼんやりとだが辺りを見渡した。柔らかい日差しが都のぼんやりとした目に差し込み、辺り一体を照らしているのが分かる。時折、大きな白い雲が彼女の上空をゆっくりと流れていき、その影が涼やかな空気を連れてくる。肌を撫でる風はとても柔らかく、縁側で座ってお茶でも飲みたくなる、そんな雰囲気だが、意識がはっきりとしてきた都の目には、全く違う風景がまだぼんやりとだが次第に見えてきた。

―ここは、…どこ?   まだ少しボーっとしている。

 都はもう少し自分の意識がはっきりするまで、そのままの格好でジッとしていた。すると何故だか、そこは都がここに来て動けなくなった時、辺り一面を覆っていた短い丈の草がどこまでも続く、あの大草原ではなかった。そして彼女の網膜に次第に映し出されてきたその風景は、これも何故なのか、彼女の記憶の中に既にある風景のようだ。

―不思議ね、ここって見た事あるような景色ね?

 それと同時に都はもう一つ、ある風景の違いに気が付いた。

―あれっ、ウサギさん?   辺りを見回した。

 ウサギがいない。先ほどまで都の二十mほど先の草原の中に、不愉快な表情と偉そうな格好で都を睨んで立っていた、あの白いウサギがそこにはいなかった。都の目に映る映像が鮮明になってくると、そこはウサギがいないだけではなく、彼女が動けなくなる以前とは全く違う世界になっていた。

 都はまた、脳味噌の活動が停止しそうになってきた。

―どこなの、ここは?

 都はただ猫のように丸まって、数分動けずに蹲まっていただけだった。その僅かな間に都の周りの草むらは既に消え去り、ふと見ると少し離れたところに川が流れている事に気が付いた。彼女は目をその川に沿って動かしてみた。川の流れから下流と思われる方角に、一つの木でできた橋があるのが見える。視線をその橋に沿わせ、対岸に移し視界の届く範囲で遠くまで眺めた。

―やっぱり、見た事があるわ、ここ   一人コクっと確信の頷きをした。

 都の視線の先、川の向こう側、かなり遠くに街並みが見える。低い屋根の並びや高い尖塔、大きな屋敷らしき建物や神社らしき建物。

―そうだわ、この風景   都の脳裏に一つの風景が型造られていく。

 都は目を右そして左に動かし、見渡せる範囲全ての街並みを端から端まで丹念に見てみた。そう、都は赤い建物、背の高い朱色のピラミッド的階段参道を持つ、あの異常に背の高い建物を探している。

 都は気が付いた。今彼女が目にしている街は、彼女の脳味噌の中、一人で動く鉛筆が白いキャンバス上に描き出した、その街であった。


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