表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

10.官之宮

          官  之  宮


 四方を香木に囲まれた村〝伽羅都〟は、その香木の流通で潤っていた。とは昔の話で、この時既にその姿を変えていた。

四方を囲むのは長々と続く壁に変り、整然と並ぶ家々は悉く屋根が破壊され瓦礫が散乱し、とても人の住む集落とは思えない。人々はどこへ行ったのか、街中には人っ子一人見当たらない。人が見当たらないどころか、白骨の小山が街のあちこちにあり、今は文字通り本物のゴーストのタウン、と化している。

 時の流れとはいえ、この繁栄の村を襲った忌まわしい過去。それもつい最近の出来事だ。

無数のおぞましい姿の死人が、集落の周辺に現われ出したかと思うと、どこからか得体の知れない〝影〟が現われ、そいつが連れてきた空飛ぶ怪物に次々と家々は破壊され、人々が食われ、集落は崩壊した。ただそんな瓦礫の中、生き延びた者もはっきりとした人数は確認できずとも、数名の単位で何組かが街のあちこちにいた。それぞれが小さな家の地下室などの狭い空間に、肩を寄せ合い身を縮め潜んでいた。

 その生き残りの一つのグループが街の一角、白い小さな家の地下室にいた。そう、ハル達が藤ノ宮を助けに行く前に立ち寄った場所だ。ハクもいたところだ。

「おおぉぉ~ぅ、無事だったかぁ~」狭く薄暗い部屋に大きな声が反響する。

「おお~ぅ、何とか帰って来たぞ~ぅ」これは藤ノ宮の声だ。

 狭い空間で老人数名がいる。子供が一人だ。

「みんなぁ、こんな狭いところにいないで、外に出よ~よ、ねぇ」キコの声だ。

 キコはハルと共に、他数名がいると言って、地下の薄暗い部屋にいるメンバーを呼びにきたようだ。しかしこの地下部屋にいた者達は、長い間この薄暗い部屋にいたせいなのか、まだ外の状況が分らない事もあってか、キコの言葉に直ぐには反応できないでいるようだ。それぞれが皆、藤ノ宮に再会した事は喜んでいるが、外に出る事に躊躇している。

 そんな老人達に対し藤ノ宮が説得に当っていた。

「ハル殿やキコ殿が何とかして下さったのだよ。もう死人も影も空の怪物も、おりはせんから、皆々、さぁ~外へ出ようぞ」藤ノ宮、皺の一本一本を震わすような笑顔で言った。

「それは、…本当なのかね?」リーダー格の老人はまだ不安な様子だ。

「おお~う、本当だとも、現にわしがこうやって、ここに帰ってきたじゃないか、ハッハッハッ」藤ノ宮は薄い胸をポンッと叩き、出る事を促した。

「じゃあ、私が最初に出る!」と言う間に唯一の子供が駆け出し、サッと出ていった。

「ハッハッハッ、そうだそうだ、皆も早う出ようぞ。外は良い天気だぞぅ」

 子供に触発されてか、その後残りの老人達も漸く重い腰を上げ、不安気な顔付きながらも、一人一人ゆっくりと連れ立って部屋を後にした。

 外に出た老人達、久し振りの太陽光を浴びるようで、各々額に手をかざし目を細め、街の景色を見ている。そして久々に新鮮な外気を吸うのだろう、今度は大きくゆっくりと深呼吸をしている。そしてその後、これも皆が皆同じ動きをしているのだが、身を幾分縮めながら、言うなれば恐る恐る真っ青な空を見上げ、何かを探すような目をしている。そんな行動を公弐宮が指摘した。

「大丈夫よあんた達、もう空飛ぶ怪物はいないから、…まぁ分らないでもないけどね」

 公弐宮も老人達の気持ちを察してか、真面目な顔付きで言った。

 長い間苦しめられた状況がここにあったのだ、そう簡単に恐怖心は拭い取れまい。公弐宮に言われてからも、老人達はなかなか気を大きくは持てない様子だ。キコ達は地下の老人組みも出てきたところで、揃って広い大通りへと移動した。

「う~む、これからこの街の建て直しをせにゃならんのぉ~」

 藤ノ宮と共にさらわれ、共に戻ってきたこの街の長が言う。

「そうそう、この井戸の水も、どうしたもんかのぉ~」地下にいた老人の一人が言う。

「そうねぇ、先ずは水の問題はあるわよね」公弐宮が心配顔で井戸の中を覗いた。

 公弐宮は顔を上げ、藤ノ宮と地方の国津神へとそれぞれに視線を移した。

「私の呪文には〝水の浄化〟なんて、そういう便利なのは無いけど、貴方達、何か知らないかしら?」

「そうよなぁ、わしにもそういうのは無いのぉ」「わしもじゃ」「わたしも」

 藤ノ宮始め他の地方の国津神も、汚染された水を正常にする呪文、というそんな都合の良い呪文は知らない様子で、各々顔を見合わせそれぞれ残念の意味で顔を横に振った。その横で一人一番若い地方の国津神が、真面目な顔で井戸の中をずっと見ている。若いといっても四十代前半くらいなのか。

「あのぅ」弱弱しい声で何かを言いたそうにしている。

「あらっ、貴方、何か知っていそうなの?」公弐宮がその者へ顔を向けた。

「え、ぇぇ、…多分」実に弱弱しい。「そうなの、それじゃあ、やってみてよ」

 公弐宮に勧められてその地方の国津神は、井戸の前で公弐宮がいつも呪文を唱える時と同じように直立姿となり、周りの誰も聞き取れないほどの小さな声で何事か呟き出した。

「清涼なる、…、何がし、むにゃむにゃ、…、流れの、…、ぶつぶつ、…」

 他の国津神やキコや他の老人達は黙ってその様子を見ていた。その間ハルはというと、その場にはいなかった。どこに行ったのだろうか、ハクもいない様子だ。

「多分、これで」いつの間にか呪文が終ったらしい。弱弱しい声で言った。

「そう、…でも、確かめなきゃならないわよねぇ」

 公弐宮はそう言ったは良いが、その後の言葉に困った。誰が確かめるのだ。

「あ、私が確かめますよ」その弱弱しい国津神が雰囲気を察して、直ぐに桶を手にした。

―ガラガラガラ、シューッ、ジャッパッン、ガラガラガラ   よいっしょっと  

 この国津神、弱弱しい声の呪文であったが、自分の呪文に些かの不安も無し、という感じで水を汲み上げると、全く躊躇無しに桶に口を付けた。

「ゴクゴクゴク、っはぁ」水を飲んでから暫し間を開けた。皆が注目している。

「あぁ、美味しい!」今までの弱弱しさが嘘のように、大きな声で感想を述べた。

「おお~ぅ、そうかね、飲めるようになったのかい!」心配顔の藤ノ宮が笑顔となった。

「じゃあ、これで水の問題は無くなったのね、良かったね!」キコも笑顔で言った。

 そこにハルが通りの向こうからテクテクと、落ち着いた足取りで戻ってきた。

「少なくとも五、六組は生き残った住民はいるようだな」

 ハルはこの集落の、生き残りの住民グループを探しに行っていたようだ。という事はハクもまたそうなのだろう。という間に、やはりハクも通りの逆側の向こうから、小さな身体を上下させながら駆けてきた。

「クゥ、クゥ、クゥ」「クゥクゥクゥ」もちろん犬語会話だ。

「ハル、何だって?」キコが訊いた。

「うん、やっぱりな、北と南と東の入り口も開いているようだ。俺達が入ってきた以外の門も開かれているという事は、どこかにまだ人がいる、という事だな」

 ハルはこの集落の長を呼び、生き残っている他の住民を探し集めるように指示をした。その後言われた長は直ぐに、一緒に囚われていた他の者達と手分けして探しに出た。そしてハルは藤ノ宮を呼んだ。

「藤ノ宮、もう一度あの〝見えない村〟の話しを聞かせてくれないか」

 ハルがそう言うと、キコと公弐宮も近くにきた。藤ノ宮はコクっと一度頷き、清らかになった井戸の水を飲んでいる他の地方の国津神も呼び寄せ、改めてその村の話をした。

「じゃあ、お話ししますが、わしの知っている事はあくまでも言い伝えで、それ自体がどこまで信憑性があるのかは、正直、分からんのですよ」

 藤ノ宮の言葉に地方の国津神達も、自分達もそうだというように揃って頷いた。

「では、その言い伝えなのですが、それはぁ…」

 藤ノ宮の話しを要約すると次のようである。

 その昔、地の世界が乱れていた頃、天界からその乱れを収めるために投げ入れられた〝力の木〟がどこかにあるという。そして天系の子孫達がその木を守るために集り村ができた。その村が〝見えない村〟であり、普段は地の世界の者にその村は目にする事はできないという。故にその村がどこにあるのかは誰も知る事が無いのだという。

「あくまでもこれは、言い伝えであって、わしらは本当にそんな村があるのかどうか、考えた事も無かったのですが、ハル殿が天界の犬であるという、その事がもしやこの言い伝えは本当の事なのかと、…のぅ」藤ノ宮はそう言って、他の国津神を見やった。

 他の国津神も皆々同じように、そうだそうだという感じで大きく頷いた。

「うん、俺達はその村を、いや、その〝力の木〟と呼ばれる木を、いや木かどうかは分らないが〝御印〟と呼ばれる天から下された物を、それを探しに出たのさ」

「そうなの、私達の集落〝千世〟は天系の子孫が作った集落なんです。その見えない村とは違って、私達のような普通の住民と一緒に栄えている集落なんですけどね」

 キコはその話しをしながら、千世の事がフッと頭に浮かんだ。考えてみるとこの旅に出てから、一度もその後の千世の事を顧みていなかった。旅に出てから数週間が過ぎていたが、その後の千世はどうなっているのか。今、軍神の強大なパワーによって、一時的にではあっても死人も駆逐され、四方津国の手先と思われる影もいなくなった。それは千世の周辺もそうなのか、同じように一時的な平和はきているのか、今まで考えた事が無かった。

 もちろん自分達は、永続的な平和を得るためにこの旅に出たのだ。そしてまだその目的である〝御印〟に辿り着いていないのも事実だ。そして今まで色んな出来事が起き続け、その事を顧みる余裕も無かったのも事実なのだ。

 しかし今、ここでこうやって一時的な平和の中で一つの手掛かりを得る事ができた。あくまでも言い伝えではあるが、一つの極めて似通う話がここにある。地の世界の平和への道が垣間見えた時、キコの頭の中でふっと思った望郷の念が彼女の心を暖かくした。暖かくはしたが直ぐにその念を振り解き、前を見なくては、とも思った。そんなキコの心情とは別に、一人の国津神が藤ノ宮の話しに付け加えるように、自分の聞いてきた言い伝えの一つを口にした。あの井戸の水を綺麗にした国津神だ。

「あのぅ、私の聞いた話ですけれど」それにしてもこの国津神はいつも控えめだ。

「その村の事を唯一知る者がいるらしいと、いつか、どこかで聞いた事があるんです」その声は、藤ノ宮の後ろから俯き加減で言うので実に聞き取りずらい。

「えっ、何、何て言ったの?村を、何だって?」公弐宮が聞き返した。

「あのぅ、その、村の事を知っている者がいるらしいんです」

 その控えめな話しを、ハルはしっかりと聞いていた。

「その者はどこにいるんだ?」「あのぅ、確か、いづ、…いづ」

 その控えめな声を聞きながら藤ノ宮が、クッと顔を上げて何かを思い出したようだ。

「おお~ぅ、そうそう、もしかしてそれは、いづと、ではないのかね、のぅ、違うかね?」「あっ、そうです。いづと、そう出都、と言ったと思います」

 藤ノ宮はそうだそうだと両手をポンッと叩いた。どうも藤ノ宮はその村を知っている様子だ。振り向いてその若い国津神を見やって頷いた。

「その話、唯一知る者がいるという話、わしも聞いた事がある。う~ん、そうなのか、あの出都にその村を知る者がいるとは、そうかそうか、いづとよ、いづと」

「その者の名前は分らないのか?」ハルが再度訊く。

「名前までは、分らないです」若い国津神、申し訳無さそうにまた俯いた。

「その出都にはぁ…」若い国津神に代わって、藤ノ宮が話しを続けた。

「わしは一度行った事があるのだが、あれはぁいつだったか、かなり昔の話で、そうよのぅ、もうかれこれ五十年も前になるのかのぅ」

 ハルやキコを前に昔話をし出した。

「わしがまだこの伽羅都へと移り住む前の事なのだが、あの地の国津神に助けを求められて赴いたのだよ、…うん、あやつはぁ、何と言ったかのぉ」

 藤ノ宮、空を仰いでいる。えーと、という具合に顎に手を当て考えている。

「う~ん、…おっ、そうそう、あやつは、かんの、そうそう、官之宮渉吏助川ノ命という変な名前の奴、だったなぁ」

「その、わたり、何とか何とか言う国津神様が、どうしたのですか?」キコが訊いた。

「そう、そいつに会えば、もしかしたらなのだがぁ、その村を知っているという者が分かるかも知れないのぅ」藤ノ宮は少し疑問顔で、確信は無いようだ。

「あやつは、名前でも分る通り、国津神でありながら出都の役人をやっておるのだよ。仕事柄その集落の多くの者を知っておるのでな」

 まだ明確な話では無いが、ここに別の一つの繋がりが持てた。

「分った。じゃあ、その出都に行こう。藤ノ宮、案内してくれ」

 いつもそうだがその事に対してハルの決断は早い。ハル達一行は影に囚われていた藤ノ宮達を助けこの集落に戻ってきたのは良いが、元々ここには情報を得るためにきたのだ。故に長く滞在する理由は無い。一つの情報で旅の向きが決れば直ぐ行動に移すだけだ。

 ハルの決断と行動の速さにはキコと公弐宮は慣れているが、突然案内を指名された藤ノ宮は少々戸惑っている。

「わ、わしが案内を、う~む、案内をのぅ」顔をしかめている。

 それを見ていた公弐宮が藤ノ宮の傍に寄ると、耳元で小さく囁いた。

「藤ノ宮、ハル殿を怒らせない方が良いよ。あの影どころの騒ぎでなくなるよ。天系の力はそれはそれは凄まじいものがあってねぇ、私も一度怒らせてしまった事があってさ、ハル殿の本当の恐ろしさがその時に分ったのよぉ、おぉ~こわっ!」

「ん?そ、そうなのか、う~む、それはまた困るのぅ」藤ノ宮、悩んでいる。

 そんな二人の密かな会話に、後ろにいた集落の長が一言言った。

「藤ノ宮様、ハル様を案内してお上げなさいな、もう死人や影がいなくなった今、ここは私らで何とか致します故。今はこの伽羅都だけでなく、この地の世界全体を平和にする事こそ肝要、その事に手を貸してあげなされば宜しいのかと」

 そう言って長は恭しく頭を下げた。この集落の長の言葉で藤ノ宮は楽になったのか、行くしかなくなったのか、幾分しょうがないなという顔付きでハルに応えた。

「長が、あぁ言ってくれました。ハル殿、出都への道、案内させてもらいます」

「そうか、分った。じゃあ、直ぐに準備してくれ」

 藤ノ宮の話では出都までの距離は凡そ百里、今の距離で言うと凡そ四百kmほどか、東京大阪間より少し短い距離に相当する。この距離、江戸時代の普通の民であれば徒歩で一週間から十日ほどというところだろうか。なかなかに長い距離だ。

 今、長が言うように死人や影がいなくなったといっても、どこに何が出るかは分らない。今までキコ達が経験したように獣が襲ってきたり、森の主のような物の怪がいるやもしれぬ。決して安全で楽な旅とは言えまい。しかし、この旅自体、その始めから物見遊山ではない。苦難が待ち構えているのは分っていた事なのだ。今更躊躇するわけも無く、前へ進むだけだ。キコも公弐宮も気持ちも新たに、藤ノ宮を加えハルを先頭にして〝御印〟を探す旅がまた始まる。

 藤ノ宮が足元に寄り添っていたハクを抱き上げた。

「お前はどうする、一人で留守番しているかい?」

「クゥ、クゥ、クゥ」藤ノ宮に抱かれながらハクが鳴いた。

「クゥ、クゥ、クゥ」ハルが応え、そして藤ノ宮に鼻先を向けた。

「自分も一緒に行くという事だ」

「そうかいそうかい、分ったよ」孫を抱く爺さんと何ら変わりがない。

 その後藤ノ宮は集落の長とこの後の集落の事を話し、村人それぞれの役割を決め、各自が役割に向け早々に動き出した。そして地方の国津神や長達も、それぞれ自分達の暮らしていた集落へと足を向けた。キコと公弐宮もこれから向う出都への旅の準備を始めた。

 今一時の平和ではあるが、それぞれがそれぞれの暮らしを守るため、でき得る限りの準備や備えを始めた。この平和な時間がどのくらい保たれるかは誰にも分からない。あの強大なパワーの軍神でさえも、完全な平和を作りだす事はできないのだ。唯一それが可能なのは〝御印〟の力だ。それは藤ノ宮らの聞いてきた言い伝えに由る〝見えない村〟にあると言われる〝力の木〟と同一物なのかどうか、それも定かではない。

 確実なものが何も無い中、しかしハル達一行は戸惑ってなどいられない。前に進むしかないのだ。安心して住むことができる世になるまで、この先どのくらいの時を必要とするのか、天のみぞ知る、というところだろうか。



 さて、キコがふっと思い起こしたその後の千世は、この時どうなっているのだろうか。



 青空に主彌尖の黒く尖った峰がよく見える。いつもの千世の空と変わりが無いようにも思えるが、主彌尖の麓、天系の子孫の屋敷が何やら慌ただしいようだ。

いつも雛壇のような、今で言う長ソファーの上で仏像のように座っていた三人の婆様連中も、この時そこにはいなかった。広い部屋の中を、屋敷の住人達や使用人等が行ったり来たり、見方によっては右往左往しているようにも見える。

何かあったようだ。

「時間が無いわ、急いで!」菟酉の声だ。何かを指示している。

「日暮れまでに何とかするのよ!」「彌織様に連絡は取れたのかしら?」

「お婆様方はこの事を知ってらっしゃるの?」

 何人もの慌てた声が飛び交っている。

 この天系の子孫の住む広大な屋敷には、婆様連中を筆頭に子孫が十名ほどと使用人が二十名ほどがいるのだが、今その誰もが一カ所に留まってはいない様子だ。皆が皆、慌てているのか急いでいるのか、やはり右往左往している。一応、菟酉が指示を出してはいるが、その菟酉でさえその場にジッとしてはいない。婆様連中といえば、風福の姿も見えない。菟酉一人があっちを見てはこっちに戻り、誰かに指示を出しては自分で何かを始める、といった具合だ。

 一体、この状況はどうした事か。先ほど誰かが言っていた、彌織様に連絡は取れたのか、という事は、彌織を呼ばなくてはならないような事態が、今起きているという事なのだろうか。

「菟酉様はどこじゃね」風福だ。どこにいたのかやっと婆様のお出ましだ。

「はい、私はここです」菟酉が部屋一つ向こうから、大きな声を上げた。

 菟酉は動き回っていため、ハァハァ言いながら風福のいる部屋に入ってきた。

「風福様、彌織様への連絡は既に一人を行かせましたが、まだご返事はありません」

「そうかい、では皆に伝えておくれでないかい。昼間もできるだけ外には出ないように、もちろん夜は夜で、街の外部へは出ようにも出られんがのぅ、っふぅ~」

 婆様は菟酉の方を見ずにそう告げながら、ナマケモノのようなゆっくりとした動きで、長椅子のお決まりの位置へと腰を下ろした。そして釈迦如来の坐像のような形で座ると顔を上げ、菟酉を近くに呼び寄せた。

「良いかの菟酉様、あの空飛ぶ化け物が何なのかよく分らんのじゃが、既に何人かが喰われとる。恐らくは四方津国からきた何がしかの化け物じゃろうが、充分に気を付けねばらんようじゃ」婆様の垂れ下がった瞼が僅かに上がり、ジロっと菟酉を見据えた。

「はい、その旨、既に皆々に言い伝えております。が、夜は夜で東の門がいつの間にか壊され、死人が多く入り込んでいるようなのです。故に陽が落ちた後、恐らくはどこからか死人が地中から現われるのではないかと」菟酉、顔をしかめている。

「そうなのかぇ、ふ~む、とにかくじゃ、彌織様が来られる前に、我々にできる得る限りの事はせねばならん、良いかの」「はい、分りました」

 この二人のやり取りの中で、何度か聞いた事のある言葉が出てきた。〝空飛ぶ化け物〟〝東の門〟伽羅都のキコ達がいた状況と同じ言葉だ。しかし何故、この時この言葉が出てきたのか。キコとハルが呼び寄せた軍神のパワーで、既に死人を始め影や空飛ぶ怪物はいなくなったはずではないのか。この千世の空までは、あの強大な軍神のパワーさえ及んでいなかったというのだろうか。それはともかく〝東の門〟という事は、この千世にも塀が作られたようだ。その事に関してまた二人が話している。

「先ずは、東の門を日暮れまでには直さねばならんの、菟酉様」「はい、もう手筈は整えております。何人かを修繕させに行かせております」

「その他の門は大事無いのかの?」「はい、大事ございません、確認しております」

 やはり伽羅都のように街を囲む塀を作ったようだ。それだけ千世の周りにも、死人が多く現われるようになったという事なのだろう。そこへ街の住民一人が、屋敷の入り口に飛び込んできた。

「大変です、大変です!あの、でっかい、怪物がぁ~!どぅ、どうしたらぁ!」

 住民は急いで走ってきた様子で、ハァハァと大きく息継ぎをして、その後の言葉が続かなかった。そのまま屋敷の入り口で倒れ込んでしまった。

「どうしたのです!大丈夫ですか!とにかく中へお入りなさい!」

 菟酉と何人かの使用人が、急いでその住民に駆け寄り抱き起こした。住民は中に運ばれ、先ずは落ち着くようにと椅子に座らせられた。

「どうしたのですか、何があったと言うのですか?」菟酉が住民に水を与え一息付かせた。

「っふぅ~、そ、それが、今までたまに空を飛んでいるのを見掛けるだけだった、黒い鳥のようなコウモリのようなのが、今までそいつはすごく高い空を飛んでいたので、鳥くらいの大きさにしか見えなかったのですが、そいつが突然舞い降りてきたかと思うと、実際は鳥でもコウモリでもなく、とんでもなくでかい化け物で、家々の屋根を壊しては中にいる住民を喰らい出したのです!」何と、伽羅都と同じ状況が起き出している。

「それもでかいのが何匹も何匹も、あぁ~」そう言いながら住民は顔を手で覆った。

「何と、あの化け物が何匹も!」菟酉も話しを聞いて言葉が止まった。

「菟酉様、これは由々しき事態じゃ、あんな化け物が一匹のみならず何匹もいたとは、この間現れた時は一匹だけじゃったのにのぅ」婆様、何がしか考え込んだ。

「そうじゃの、先ずは天系の者が行って、まだ壊されていない家々から住民を避難させねば」婆様、皺皺の瞼を開け菟酉を見た。

 婆様もこの事態をどうすれば良いのか、まだ考えながらの言葉だ。

「はい、分りました。直ぐに手配させます」「お、それとじゃ」

 婆様、直ぐに事態の対処に向おうとした菟酉を、手を挙げて一旦呼び止めた。

「彌織様は、恐らくはいつものように日暮れになってからいらっしゃるのじゃろう。それまで、塀の中に入り込んだ死人の事をどうするかじゃ、のぅ」

 婆様の言う通り、壊れた塀から入り込んだ死人は、太陽の上がっている内は地中に潜り込みどこにいるのか分らない。そして日暮れになるとモグラのようにモゴモゴと、次々と土の中から頭を出してくるのだ。つまりその後、そいつらをどう処理するかなのだが、その死人の数が問題だ。どの程度なのか出てこないと分らない。しかし出てきた時には誰がその相手をするかが問題なのだ。天系の子孫にその力はあるのか無いのか。結局は彌織に頼ることになるのだろう。

 それから暫くの時間、菟酉を始め天系の他の子孫や他の使用人達は、塀の補修や化け物に壊された家々の住人の手当て、そしてまだ壊されていない家々の住民の非難の手助けなどで、皆が皆大童となっていた。

 こう言った場合、時が進むのは早いもので、右往左往してる間に陽が暮れた。

 主彌尖の尖ったシルエットが薄暮の空に浮かび上がる。実に美しい、と眺めていたい気分だが、この時彼らにそんな悠長な時間は無い。

―ボコッ、ボコッ、ボコッ   何とも薄気味悪い音があちこちから聞こえてくる。

 セミが長年の地中暮らしから親ゼミになるために、地上に這い出てくるが如きに、いや、そんな生命の神秘や美しさとは程遠い姿で、ぼろ雑巾のような薄黒い頭からゆっくりと這い出てくる、いかにも不気味な者ども。

―ボコッ、ボコッ、ボコッ   あちらこちらから、どのくらい地中に潜んでいたのか。

―ううぅ~、ぅぅ、おぉ~、ぉぅ~   何とも薄気味悪い唸り声だ。

 菟酉が東の門の修復を調べにきていた。できれば聞きたくは無い声だが、気にしなくても聞こえてしまう。

「みんな!気を付けて!奴等から離れるのよ!」菟酉は叫びながら走り回った。

 確かに奴等は数多く出てくるが、その動きは極めてのろく、普通の人間が走って逃げれば捕まる事はまずない。但しそれがどこから現れるのかが分らず、突然目の前に現れ鉢合わせになると厄介だ。菟酉は一応天系の子孫である。故に何がしかの呪文を唱える事はできるがその力は弱く、国津神ほどの呪文力は持ち合わせてはいない。

 しかしこの場合、周りには天系の子孫の若い者が二名いるだけで、他は一般の千世の住民しかおらず、黙っているわけにはいかなかった。

 自分の呪文の力がどの程度まで奴等に効くのか分らなかったが、差し当たり自分達周辺の死人に対して試してみる気だ。菟酉自身、今まで殆ど呪文を唱えた事が無く、これが実質初めての呪文と言っても良い。自信などあるわけもない。

―私にできるのかしら   そう思いながら何事か唱え出した。

―何がし何がし、…、天の巫女よ、…、力の源湧き出でよ、…

 菟酉はこういう場面で行使できる、自分の知り得る限りの呪文を唱え出した。その間にも死人は地中から這い出してくる。一体どれくらいの死人が塀の中に入り込んでいたのだろうか。菟酉は呪文を唱え出す前に若い子孫達に、先ずは住民を非難させるように指示を出していた。それ故、周辺に逃げ遅れた者はいないようだが、菟酉自身が囲まれだしている事に気付いていない。一心不乱に呪文を唱えている。

―何がし何がし、…、乱しざる者、むべの彼方へ、…

―おぉぉ~ぅ、うぅぅ、~、ざわざわ、ざわざわ

 いつしか菟酉の周りは多数の死人だけとなっている。菟酉を中心に同心円を描いて、既に年輪のように死人が集ってきていた。住民はもう避難しているから、当たり前のように菟酉一人目掛け、生ゴミに群がるハエのように、いやそんなに動きは早くは無い、唯一の餌に群がる蛆虫のように、蠢くようにその数は増している。住民を避難させていた若い子孫も遠目で見ながらどうする事もできず、死人に気付かれないよう声を上げる事もできずに、只々心配顔で、菟酉自身が呪文で自らを守る事を祈るしかなかった。

 しかしその願いも虚しく、同心円がどんどん狭まっていく。

「菟酉様、死人がもう直ぐそこにいる事、気付いているのかしら?」

 若い子孫二人がハラハラしながらそう呟き合ったその時、バタバタバタ、どこか近くで何かが舞い降りたのか、羽音らしき音が響いた。

―シューシュー、シュパッ、シュパッ   これはまた違う音だ。

 二人がその音が何の音なのか不思議に思っていると、遠目に見える死人の同心円が崩れ出した。そして菟酉を囲む円を描いている死人が、その外側から次第に消え始め数が減っていくのが見える。そしてどんどんその数が減り、いつしか中心でひたすら呪文を唱えていた菟酉が、スッキリと見えるようになった。ポツンと一人、蚊取り線香の渦巻きが燃え尽き、後に残った線香立てのように一人だけ立ち尽くしている。菟酉はその時点で漸く気が付いたのか、呪文を唱えていた両手を下ろし目を開けた。

―あ、私の呪文って、こんなに力があったのかしら? 

 菟酉はまだ気付いていない。遠目でその様子を見ていた若い二人が駆け寄ってきた。

「菟酉様!菟酉様!」二人は驚きと安堵の顔付きで近寄った。

「菟酉様、あそこに!」

 二人は自分の呪文の力なのかと驚いている菟酉に、揃ってある場所を指し示した。菟酉は指し示された場所に目をやると、静かに一人佇み微笑む者が見えた。無論こんな場面に現われる事ができるのは、そう、彌織しかいない。さすが彌織の力だ。悲しいかな、菟酉の呪文はさして効力があったわけではなかった。彌織は何故か夕暮れに、いつも何か羽音のような音と共に現われる。その事は風福の婆様も気付いていたのか、ここに来る前、菟酉にそれらしきことを言っていた。その点は彌織の謎の一つと言えるだろう。

「彌織様ぁ!」菟酉は彌織に向って駆け出した。若い二人も後を追った。

 当の彌織は間に合って良かった、という顔で、あの誰をも包み込むような観音様のような微笑みをしながら、駆け寄ってくる菟酉達を迎えた。

「菟酉様、大丈夫ですか?遅れまして申し訳ございませんでした」

 彌織は誰に対しても礼儀正しく、謙った態度で接する。この時も全く申し訳無い事など無いはずなのに、言いながら恭しく頭を下げた。

「そうでしたか、彌織様のお力でしたか、ハハハ、そうですよね、私の呪文にこんな力があるわけ無いだろうと、自分で驚いていましたよ、ハハハ」やっと菟酉も気が付いた。

「菟酉様、それにしても、かなりな数の死人が塀の中に入り込んでいたのですね」

 彌織は辺りを見回し、厳しい顔付きとなった。菟酉は頷き、そして塀を修繕した事を説明し、その後は大丈夫だろうと話しをした。しかし彌織を呼んだ本当の理由はこの死人の事では無く、空を飛ぶ怪物の事なのだと話をした。

「菟酉様、先ずは屋敷へ戻りその話しを致しましょう」「分りました」

 菟酉は塀の修繕の後片付けを若い二人に指示し、彌織と共にその場を後にした。

 陽もトップリと暮れ、広大な天系の子孫の屋敷にも、ポツンポツンと各部屋に明かりが灯り出した。大広間の奥、雛壇の長ソファーの上には、いつものように婆様連中が並んで座っている。その前に菟酉と彌織が座っている。

「しかしながら彌織様、あの怪物に対処できる術はございますかの?」

 婆様は目を閉じたまま、仏像のような座り姿で呟くように言った。実際のところこのような怪物に対して、つい先ほどの菟酉の例を出すまでもなく、天系の子孫の力ではやれる事には限界がある。やはりここは彌織に頼るしかない。

「そうですねぇ」彌織は何か思う事があるのか、一度下を向いた。

「私の微力な力があの怪物にどの程度通用するのかは、実際のところ分らないのですが、それよりも…」彌織は立ち上がり、真っ暗になった窓の外を見やった。

「一つ気になる事があるのです」そう言って振り返り、

「菟酉様は実際に、あの怪物が襲来した時を見た事がございますか?」

「いえ、無いのです。いつも家々がやられたと、住民が知らせてきてから出向くのです」

「そうでしたか」彌織は何事か考えながら、ゆっくりと菟酉の横に腰を下ろした。

「彌織様、それが、何か?」

「主彌尖の上を何匹もの怪物がグルグルと飛び回っているのを、私はこの何日か見てきたのですが、その間、何か得体の知れない〝影〟のような物が、山肌をスーッと千世の街へ飛び下って行くのを、何度か見掛けたのです」

 彌織は怪物その物よりもその影が気になると、そういう言い方だ。

「影、…ですか?」菟酉は彌織の言葉からだけでは、ピンときていない様子だ。

「そうなのです。私の受けた感じでは、あの影のような者が、あの怪物を動かしている、指示を出しているように思えるのです」彌織の顔が険しくなった。

「手先、じゃろうのぅ」黙って話しを聞いていた婆様が呟いた。

「て、さき、ですか?」菟酉は婆様の方に顔を向けた。

「遠い昔に一度耳にした事が有るのじゃよ、黄泉の国の手先がいるらしい、…とな」

「そうなのだと思います。四方津国からの手先、…そう、まさしく黄泉の国の手先、恐らくはそうなのでしょうね」

 彌織は今後はその〝手先〟に対して何らかの対策を取らねば、と思っているのか、彼女には似つかわしくない険しい顔付きのまま言葉が無くなった。

 実際にハルとキコ達が経験した事が、今この千世の集落に起きている。何故なのか。何故ハル達に既に起きて、軍神のパワーで過ぎ去った出来事が、今この時千世に起きているのか。その時間軸のズレは何なのだろう。単にそれは軍神のパワーでさえ、千世のある地域までは行き届かなかっただけなのか、もしくはキコ達に起きていた時にはまだこの地には起きておらずに、遥か遠くにいた怪物が遅れてやってきただけなのか、それは定かでは無いし分り得ない事だ。彌織達にとって今はただ、この事態をどうするかを考えなければならない。現時点でここには、軍神の強大なパワーは存在していないのだ。



 伽羅都には平穏が戻っていた。塀に囲まれた集落のあちこちの家々の地下で、怪物の襲撃から非難していた人々が、思っていたよりかなりの数生き残っていたらしい。その人々が壊された家々の屋根や壁を修復し、街のあちこちに散乱、もしくは小山となっていた骨や屍を埋葬し、以前の美しい街に見た目は既に戻っていた。そんな集落の西の門の前に何人かの人々が集っている。

「それじゃあ、長、伽羅都の集落の事はお任せしましたぞ」

 藤ノ宮がこの集落の長の肩をポンッと軽く叩いた。

「これからの長旅、お身体を労わり、無理をしないでおいで下され、ここは何とか我々皆で立て直していきますゆえ」長が慇懃に藤ノ宮に対してお辞儀をしている。

 この時見送りにきていたのはこの長と、村人三人だけの簡単な分かれであった。もちろん状況を考えれば多くの者達が集える事もなく、またこの旅の意味を考えてもそんな大そうな見送りは必要無いのは当然で、キコやハル、公弐宮、藤ノ宮、そしてハク、皆が皆、浮かれた気分など微塵も持ち合わせていなかった。

「ではのぅ」「それでは」

 藤ノ宮とハクが、長達四人が手も振らずにジッと立ったまま見送る門を後にした時、ハル達三人は既に先の道を進んでいた。これから彼らが向う先は千世から見ると、今いるこの伽羅都を越えて更に西の方角だ。藤ノ宮がハクを前に歩かせ、彼にしてはかなり足を急がせハァハァ言いながら、やっとハル達に追い付いた。

「ハァ、ハァ、っふぅ~」追い付いてホッとしたは良いが、声が出ない。

「藤ノ宮様、お疲れでしょう、これ飲んで下さいな」キコが足を止め水筒を手渡した。

「おぉぅ、有り難い」藤ノ宮、腰に手をやり、う~ん、と言いながら身体を伸ばした。

「っふぅ~、一息付いたわ」

 水をゴクゴクと飲んだ後、後ろ手に腰をトントンと叩いている。

「藤ノ宮、この方角で良いのか」ハルも足を止め、鼻先を藤ノ宮に向けた。

「おおぅ、そうですのぉ、そうそう、この方向に暫く行きますとぉ…」

 藤ノ宮の案内では、彼等が向っている方向で間違いは無く、暫くの間は何も無い只々草の生い茂る平原がずっと続くらしい。そしてその後、小さな池や林が出てくるとその内曲がりくねった川が見えてくる。その川の石ころだらけの淵を歩いて何日か進むと、一つの小さな集落が現われてくるそうだ。別に何があるというわけもなく、五十軒ほどの茅葺の屋根が集るお伽噺の世界に紛れ込んだかと思うような、ひっそりとした集落だそうだ。

 そこまで4日ほど掛かり、その集落を過ぎると今度は深い森を抜けなければならない。その森を抜けるのに何日掛かるか分らないが、抜けると後は低い丘や浅い谷があるが、それからまたずっと背の高い草地が延々と続き、その先に水の綺麗な川が見えると、それを越えた向こうに出都の街並みが見えてくるそうだ。全行程で約十日間というところだ。途中何事も無ければの話だが。

 一息入れた一行は足を進めた。もう昼間は空を気にせず、夜間も辺りを気にせず歩く事はできる。そこには怪物も死人もいない。時々野犬の群れや熊のような獣が現われたが、今のハルや二人の国津神にとっては何の問題の無い相手であったし、逆に他の生き物を労わる気持ちを持って、大したダメージも無いように追い返すだけであった。

 道中藤ノ宮は豊富な知識を披露し、キコと公弐宮を喜ばせた。それは薬や食用となる役に立つ野草の種類や食べ方、木の実や根、葉、きのこ等の毒物がどれであるか、雲の形で天気がどう変わるか予想をしたり、または食用となる虫や小動物の種類やどこに何がいるかなど、それは殆ど歩く百科事典と言っても良いくらいであった。

 藤ノ宮は歩きながら指をさし、ここに何々があるあそこのあれは何々だ、等々、終始興味深い話しをキコ達に聞かせ、道中を楽しませてくれた。それはキコ達にとっては、今までのひたすら前に進むだけの行軍とは違い、意味としては重い責任を課されたこの旅を、少しは楽に感じさせてくれる役割を果たしてくれた。

 旅の途中一行は、藤ノ宮の話に出てくるその土地その土地の、小さな集落などに立寄ったりしたが、実際に訪れて見るとどの集落も本当に聞いていた通りの、何の変哲も無い小さな集落ばかりだった。しかしある集落では以前、藤ノ宮がここを訪れた時の事を覚えている者がまだいたりして、一行はその家で一晩世話になったりもした。

 また別のある集落の家では、そこの主も今回のこの一行の旅の目的を聞いて手放しで喜んだ。この集落へは影や怪物は現われはしなかったらしいが、今までどれだけ死人に苦しめられてきたか。その長年苦しめられてきた死人が、ある嵐のような激しい風の日の晩から突然、一人も姿を現さなくなった事に驚いていたところらしい。そんな折、藤ノ宮等が立ち寄ったというわけだ。

 そして主は一泊のつもりで寄った一行を、執拗に引き止め二泊させると、上へ下への大もてなしで彼等を歓待した。始め余りのもてなし振りに、少々疑いの目を持って主を見ていたハルも、この集落を後にする時には完全にそれは誠意からきているものと分り、すっかり心を許していた。しかし実際にそれはそうなのだろう。ただでさえ誰もゲストの来ない土地で、長年死人に苦しめられてきた集落の住民が、その死人を駆逐し、更には永遠の平和を得るために〝力の木〟を探しに行くという、そんな一行をもてなさないわけがない。

 一行が集落を出る時に家の主は、少々荷物になるけれど、と一言添えて大きな食べ物が入った麻袋と、役に立つからと薬草の入った小さな麻袋を一行に持たせた。これらが実際に役に立った。旅を再開して暫くの間はいつもハルとハクがしていた、木の実や虫等の食料調達の手間が省けたし、道中キコが病に倒れ、二日ほど小山の洞穴で休む事になったのだが、その際、集落の主が持たせてくれた薬草の効果が大いにあり、病を早期に治してくれた。キコだけでなく、他の者も有り難さを感じていた。

 さて、既に凡そ予定していた十日を三日ほど過ぎてはいたが、今彼らは、背の低い草の生える平原を一列になって歩いていた。もちろんハルとハクが先頭で藤ノ宮、公弐宮が後方だ。キコが中間にいる。

「あの丘で一休みしませんかね、っふぅ~」藤ノ宮が後ろから声を掛けた。

「えぇ、そうしましょうかぁ」キコが一度振り返りその声に応え、また前を見た。

「ハルぅ~、あの丘で休憩しよ~ぅ!」先を行くハルとハクに叫んだ。

 ハルは前を向いたまま、尻尾を真っ直ぐに立て、先っぽをヒョイヒョイと振った。これがOK!という合図なのだろう。そしてその丘にきた。

 丘の上では気持ちの良い風がソヨソヨと吹いていた。またその丘の上からは三百六十度、見渡す限りの眺望が開け、どこまでも続く黄緑色の草原が地平線まで広がっている。よく見ると地平線と平行して地面の割れ目が、遠くに微かに見えている。恐らくそこには川が流れているのだろう。そしてその割れ目の先、意識をして見ないと気が付かないくらいに、地平線の空と地が重なる丁度その線の辺りに、僅かに凹凸のある何かが違和感のある程度に見えている。風景を楽しんで見ている分には気付かないくらいの物だ。

 それに気付いた者がいる。

「あれだな」ハルがつぶやいた。「クゥ、クゥ」クゥもそれに応える。

「っふぅ~、おぉ~、気持ちの良い風だぁ~」そこに年寄り代表がきた。

「ほんとに、気持ち良いわねぇ~」キコが両手を広げて大きく息を吸った。

「ハァ、ハァ、ハァ」約一名、言葉が無い。言わずもがなである。

「キコ、見てみろ、あそこだ」ハルが鼻先を振った。

「えっ」キコは鼻先を振られた方角を見たが、キコの目では判別できないようだ。

「ハル、何、…何が見えるの?」目を凝らしているが、やはり分らない。

 聞いていた藤ノ宮も見ているが、見えない。到底藤ノ宮の視力では無理だろう。公弐宮は反応すらしていない。

「藤ノ宮が言っていた〝出都〟の建物があそこに見えている」ハルが鼻を上下に振った。

「えっ、そうなの、やっと着いたのねぇ~」

「ん? おぉ~、そうよこの景色!うんうん、思い出したぞ、この景色ぞ!言われてみてやっと気づいたわい。おぉ~、やっと着いたのぅ」

藤ノ宮は目を細め、額に手をかざし、顔をぐるっと周囲に巡らせた。その横で公弐宮が膝に手をしたまま、一人つぶやいた。

「っふぅ、っふぅ、やっと、着いたのね、っふぅ~」

 ハルの言葉にここにいる全員が街のシルエットが見えずとも、並んでその方角を向きそれぞれの形で喜んだ。



 透き通った水が、河岸に立つと右から左へとサラサラと流れている。水の中を縦横に泳ぎ回る小さな魚が手に取るように見えている。ひんやりとした辺りの空気のどこを取っても〝清涼〟という言葉が浮かび上がってきそうな、心が洗われる気持ち良さだ。特に今まで荒涼とした世界で何日も戦い、埃まみれの空気を吸ってきた一行にとっては、ここは何とも別世界のように感じられる。ここにいる皆が、暫し何も言わずに佇んでいる。

 目の前の川を越えた向こう側、いくつもの甍の波が続く先に、歴史の重さを感じさせるりっぱな五重塔の上半分が、他の建物を従えるように聳えているのが、距離感が分からないほどに見える。そしてそこまで続く幅の広い大通り、その脇を落ち着いた雰囲気の建物が、高さを揃えて整然と並んでいる。

ここが〝出都〟という街なのだ。この整然とした街並を見ていると〝みやこ〟という言葉のひびきが、どこからともなく聞こえてきそうだ。

 この出都を前にして、川岸に一行が横一列に並んでいる。

「同じ栄えてはいても、千世とは全く違う街なのね」

「伽羅都とは似ても似つかんなぁ」

「上淨沼とは、比較しようにも、ハハ」

 それぞれが、それぞれに自分の街と比べてみた。藤ノ宮が更に説明をした。

「確かにこの街は大きく立派だが、ただ、わしが以前にきた時には、ここに住む人々の表情は余り楽しそうには見えんかったように思えた、そんな気がするのだがのぅ」

「そうなのですか?それは…」キコが訊いたが、藤ノ宮は首を横に振った。

「う~む、それがどうしてなのかは、その時には分からんかったのぅ」

 二人の話しを横で聞きながら、公弐宮が川の上下流を交互に何度も首を振って見ている。

「公弐宮様、どうかされましたか?」キコがその様子に気付いたようだ。

「橋は?どこにも無いわよねぇ?」

 公弐宮の言葉に、キコと藤ノ宮も同じように右、左と首を振った。

「そうですなぁ、そう言えば橋は、…ありませんなぁ」

「どこかに渡れる場所があるのかしら?」公弐宮が目を凝らしている。

 藤ノ宮は以前来た時には、どうやって渡ったのかを顎に手をやり考えている。

「う~ん、そうそう、前にきた時には、確かぁ、あの官之宮がどこかを通って、街の中へと連れて行ってくれた気がするのだが」そう言って自分の頭をポンッと叩いた。

「それは、どこを通ってなのです?」キコも目を凝らしながら言う。

「分らん、それが思い出せんのよ、ここに来るまでの道順がこの旅とはまったく違っていたのだろうし、それに五十年以上も前の事だしのぅ」

 三人が出都のシルエットを前に、目の前の川を渡る方法を探っている間、ハクがトコトコと皆から離れ、一人川岸の土手の上を進んでいた。そしてキコ達から五十mほど離れたところで、鼻先を川の方へと変えた。目を凝らしていたキコがそれに気付いたのか、大きな声を上げた。

「あぁー、ハクぅ!気を付けるのよ!川に落ちちゃうよ!」他の者が揃ってその方を見た。

 するとハクはキコの注意の声にも係らず、足を川の方へと更に進め、見ていると川岸の土手の高い部分から一歩二歩と歩み出していった。

「あぁ~!」キコの叫び「おぉ~、ハクよぉ~!」藤ノ宮の心配な声。

「あらあらあら」公弐宮の何とも言えぬ声。

 彼らが一斉に声を発した時、ハルだけは無言でその様子を見ていた。

 そのハクはというと、川岸の土手から更に足を進め、川の流れに向って歩き出した。正確に言うならば、川の上の空間に向って歩き出していた。ハクの体が宙に浮いている、そのようにキコ達には見えている。

「えぇ~!」「おぉ~!」「な、何でぇ~!」それぞれがそれぞれの驚き方で驚いた。

 ハクは何食わぬ小さな顔をして、普段と何ら変わらぬ様子で、川の流れの上をスタスタと歩いている。そこには恐れの様子も戸惑いの姿も無い。そしてそのまま川の向こう岸の土手へと無事に?辿り着いた。キコ達は揃って?マークの顔でハクを見ている。川を渡り終えたハクはそのままスタスタと向こう側の土手の上を歩き、川を挟んでキコ達のいる丁度向こう岸の位置まできた。

「クゥ、クゥ、クゥ」こちらを見て鳴いている。

「クゥクゥ、って、えーっ、どういう事なの?ねぇ、ハルぅ」キコがハルを見た。

「橋があるのさ、あそこにな」ハルは鼻先を、つい先ほどハクが川の上、空中を渡った方へと向けた。

 言われた三人はその方向を見たが、もちろん橋は見えてはいない。

「ハル殿、わしには橋は見えんのだけども」藤ノ宮、目を凝らしている。

「私にも見えないわよ」公弐宮も腰を少し前に折り、同じ格好で目を凝らしている。

「ねぇハル、私達には見えない〝橋〟が、あの場所にあるって事なの?」

「そういう事だ」ハルはいつも簡潔に言う。「とにかくあの橋を渡ろう」

 ハルは言うなりとっとと歩き出した。キコはハルが行くならと直ぐに続いた。藤ノ宮と公弐宮はまだ首を捻っているが、

「藤ノ宮、先ずは言われたように行くしかないわね」

「おぉそうだのぅ、まぁ、ハル殿がそう言うのなら、あそこに橋があるのだろうて」

 残る二人は首を捻りながらも、ゆっくりと足を進め出した。

 ハルは土手をスタスタ進み、先ほどハクが川を渡った場所に来ると、何の躊躇も無しに川の上の空間に足を進め、さっさと川を渡ってしまった。キコはハルから遅れると、その〝空間〟が歩けるのかどうか不安になるので、ハルの直ぐ後に続いた。続いたは良いが、いざ足を土手から離し川の上の空間へと踏み出す時には、一瞬躊躇った。

「う~、っよし!」キコは目を瞑った。

 一歩二歩、キコはゆっくりと目を瞑りながら足を進めた。もちろんハルはとっくに〝橋〟を渡ってしまっている。キコは目を瞑りながらも、足の裏に〝橋〟の感触を得ていた。

―っふぅ~、本当に橋がここにあるのね、うん

 キコは渡り終えた後振り返り、その空間をマジマジと見たが、キコの目には下をサラサラと流れる清流の水面しか映らなかった。そこへ不安顔の二人が対岸に到着した。

「キコ殿!ここかね!」藤ノ宮はまだ不安気な顔をしながら、大きな声で言った。

「キコぉ!本当に、ここに橋があるのよねぇ!」公弐宮、空間を指さして言う。

 キコは自分自身でも今し方渡ったばかりの〝橋〟が、ここに本当にあるんだよ、と言いたいところなのだが、目に映らないせいかはっきりとした言い方では伝えなかった。

「あのぅ、大丈夫ですよ、…多分、ハハ」その言葉が余計に二人を不安がらせた。

「ほ、本当に、大丈夫なのかね?」「えっ、何ですかぁ!」

 藤ノ宮の声は不安で小さくなり、キコには聞こえなかった。そして不安顔の二人に、

「それじゃあ、私は先に行きます!」そう告げて駆けて行ってしまった。

 次第に遠ざかっていくキコを、二人は揃って突っ立ったまま無言で目だけで追った。

「行ってしまったわよ」「そうだのぅ、では公弐宮、そろそろ我々も渡るとしようか、のぅ」二人は自分達の前方の空間を見詰めたまま、口だけ動かした。

 しかし二人共、お先に、とか、じゃあ私から、などの言葉を口に出す事ができず、暫くはそのままでいた。そんな二人を置いてハルとハク、そして追い着いたキコは川岸の土手を下り、堂々と聳え立つ五重塔へと続く真っ直ぐな大通りを歩き出した。

「ねぇ、ハル、ハルにはあの橋が見えていたの?」キコがハルの背中に向って訊いた。

「あぁ、見えていた」「じゃあ、何で私達には見えなかったのだろうねぇ」

「そうだな、はっきりとした理由は分らないが、もしかしたら〝見えない村〟と関係があるかも知れないな」そう言って真っ白な尻尾をピンッと立てた。

 三人はそのまま大通りを進み、そのうち塔の土台から全体が見える位置まできたのだが、実際に近くまできた時キコは驚いた。

「へー、五重塔かと思っていたら、違うのね!」キコが仰ぎ見ている。

 キコが仰ぎ見ているのは塔ではなかった。塔は塔で別にあるようだが、ここにあるそれは、塔だと思わせるほど高く聳える、大きな神社のような建物であった。その建物は遥か上部に社が見え、そこまで長く続く参道と言うべきなのか、要するに階段が斜めに地上から遥か上の社まで続き、真横から見た時、社とその真下の土台と階段の一段目の三点を結ぶと、綺麗な直角三角形を描いている。これが神社だとすると、常識を超えたかなり大きな背の高い建築物だ。

「ねぇハル、藤ノ宮様の言っていた、官之宮様だったっけ、その人にまず会わなきゃね」

キコは目の前の高層神社を仰ぎ見ながら、つぶやくように言った。

「藤ノ宮が来るまで待つしかないな」ハルは神社を前に近くの草地に身体を下ろした。

 キコは観光気分なのか、腰を下ろさずに高層神社の方へと歩きだした。ハクがキコの後ろを、白い小さな身体をヒョコヒョコと、手毬が跳ねるように上下させながら嬉しそうに付いていった。まるで少し前のハルとキコの戯れを思い出させる光景だ。微笑ましい二人の遠ざかっていくその姿を、今は貫禄も付いたハルが保護者のような顔付きで、目を細めて眺めていた。

 ところでこの街、立ち並ぶ家々は整然と並び、街全体が規格統一されている感がある。一つ一つの家も京都の旧家のように、重厚で趣のある造りだ。そしてその統一された並びの中に時々一際目立つ建物がある。例えば今キコ達が向っている高層神社、もしくは寺院の大伽藍、五重塔などだが、このような大きな建物が、積み木のような家々の頭一つ二つ高く聳え建っている。

 この景観はいかにも人工的な臭いがする。そう、街という物は人が型造る以上人工的なのが当たり前なようだが、千世のような自然に人が寄り集り、いつの間にか型造られた街とは違い、この出都はそういう臭いがしない。見た目は歴史的な街並みで重厚感があり奥行きが深そうに見えるが、敢えて〝人工的〟という言葉を付けたくなるような街の臭いがする。それは何々ニュータウンというような、街の企画が始めから用意され、そこに人々が集まったというだけでなく、もっと人工的な、つまりディズニーランドやハウステンボスのように、街の企画とその中身である建物、そこに来る人々さえもそのために用意された、集められたというような、街が丸ごとテーマパークのような街のようにも思える。

 その一つの表われが、この街、何故か人が歩いていない。これは時間的にいないのか元々いないのか。藤ノ宮が以前ここにきた際に人々が楽しそうでない、と言っていた。今ハルが神社の見える大通りに暫く佇んでいるが、楽しそうな人がいないばかりか、周辺に人がまるで歩いていない。これだけの立派な街の中、人がまるで歩いていないとはどう言う事なのか。住人はいないのだろうか。この街はどこか普通ではない、何かが隠されている雰囲気を感じさせる街のようだ。

 ハルは敏感にそれを感じているのか、いつしか四足で立ち上がり背中の毛が少々盛り上がってきている。目は赤くはないが顔付きが少々強張り、それは小さな警戒態勢と言っても良い。もちろん観光気分的なキコや小さなハクには、そんな雰囲気など微塵も感じてはいないのだろう。そんな中、国津神二人が何やら話をしながらハルのいるところへ、漸くと言って良いくらいに遅れてやってきた。

「いやぁ、あの見えない橋は、何故に見えないのだろうかねぇ」藤ノ宮だ。

「藤ノ宮、この世の中ね、まだまだ分らない事は色々あるものよ、うん」

 公弐宮も理由が見当たらないので知った風に言ってはいるが、しかし国津神たるもの、空間移動やら水を浄化するやら色々な呪文を持っている割には、見えない橋を渡る事でそんなにも大騒ぎするものなのか。

 そんなのんびりした気分の二人の前に、やや警戒態勢を取っているハルがいた。

「ハル殿、どうかされましたか?」藤ノ宮がそんなハルの雰囲気に先に気が付いた。

「藤ノ宮、この街はどういう街なのか、教えてくれ」ハルの顔が険しい。

 藤ノ宮はハルの険しい顔に、少々戸惑いながらも話し出した。その横で公弐宮も、ハルが僅かでも警戒態勢を取っている事に、やはり少々戸惑っている。

「えぇ~とですな、どういう街か、と言いますとですな…」

「ハル殿、何か気になる事、あったのかしら?」公弐宮、言いながら辺りを見回している。

 公弐宮は言い淀む藤ノ宮に、別に助けを出すつもりでは無かったが、ハルがこのような時には、少なくとも何かが起きているという事を理解していた。

「公弐宮、この街には何かあるぞ、気を緩めるな」「わ、分ったわ」

「藤ノ宮、お前の知り合いの官之宮という者は、間違いの無い相手なのか?」

「そうですな、私の古くからの友人なので、間違いは無い者ですぞ」

「そうか、ではこの街の長はどういう者だ」

 国津神二人はハルの厳しい態度に、見えない橋の事などのんびり気分は吹っ飛び、ピンと張り詰めた空気をヒシヒシと感じた。その中で、何故ハルがこんなに気を張っているのか不思議に思ったが、何とか話しに付いていこうとしていた。

 そんな藤ノ宮の説明では、この街〝出都〟の長は、大伴主と言ってかなり力のある国津神らしい。藤ノ宮自身は会った事は無く、知り合いの官之宮からの話だそうだ。そしてその官ノ宮は、その大伴主の人柄に惚れてここに住み付いたそうだ。しかし大伴主本人は自身の屋敷から、余り外へ出た話しを聞いた事が無いそうだ。故に街の運営を直接指示しているのは大伴主の妻らしく、それに関しては余り良い話しを聞いていないらしい。

 因みに、藤ノ宮の知り合い官之宮は、非常に明るい良い国津神らしいが、女好きで酒好きで、それで失敗する事がたまに傷というところ、なのだそうだ。良いのか悪いのか。

「その官之宮には直ぐに会えるのか?」ハルがまだ険しい顔をして訊く。

「そうですな、暫く振りなのですが、あやつは気軽な性格なものですから、恐らくは大丈夫でしょうな」藤ノ宮はその後、官之宮がどこにいるのかを説明した。

 実際のところ、何故ハルが警戒態勢となったのかは分らない。ハル自身も何かを感じてはいたが、それが何なのかは分からないでいる様子だ。その理由を藤ノ宮の説明の中から拾い出そうとしたようだが、今の説明からは何も掴む事ができなかったようだ。

「よし、先ずはその者に会いに行こう」そう言って直ぐに歩き出した。

 藤ノ宮もハルの行動パターンを漸く理解してきたのか、戸惑う事も無く、公弐宮と共に直ぐに後を付いて歩き出した。途中、観光気分で神社の土台の周りでキャッキャと戯れているキコとハクが合流し、ある場所を目指した。



 タワーのような社殿のある建物を横目に、かなり面積の広い広場がある。その広場を中心に大きな屋敷が整然と建ち並ぶ一画、一際大きな建物の前に一行がいた。

「ここですな」「大きな屋敷ですねぇ」「扉があんなに大きいわよ」

 この屋敷、他の屋敷よりも更に一回り、いや二回りと言って良いくらいに大きい。その屋敷の大扉の前で立ち並び、皆上を見上げ驚いている。

「ここが〝出都宮〟ですな」藤ノ宮が他の者より二、三歩前に出て説明している。

「出都宮はこの街の役所でな、長が住んどる屋敷なのだよ」

「だからこんなに大きいのねぇ」キコは上を向き、屋根の高さに驚いている。

「藤ノ宮、この屋敷に官之宮がいるのか」ハルだけは浮かれ気分ではない。

 他の者が出都宮の大きさ壮麗さに驚いている時、ハルだけは警戒の態勢を更に強くしているようだ。藤ノ宮はハルの顔付きを見て自身も気持ちを引き締めた。

「そ、そうですな、ここにいるはずなのですがぁ…」藤ノ宮は一人大きな扉に向った。

 この扉、高さが三mくらいもあろうか、どっしりとした重厚感のある木の一枚板らしく、開けるにしても相当な力が要りそうだ。教会や大会堂にあるような、いわゆる和風建築の引き戸ではない、現代では当たり前の洋風の開くタイプの大扉だ。この時代ではかなり珍しい代物だ。更にこの扉だけではなく、この屋敷全体の大きさも京都の仏教寺院の大伽藍のようで、各部位の装飾は元よりその造りの様式も壮麗な屋敷だ。この時代にどのように建てられたのかと思わせるほどだ。

ハル達がここに来る前に佇んでいた、大通りに面して並んでいた建物もそれぞれ大きく、瀟洒な建物ばかりであったが、この屋敷から見るとみすぼらしくさえ思ってしまう。

 その大扉の前に立ち、やや躊躇気味に下を向く藤ノ宮がいた。

―もうかれこれ五十年も経つからのぉ、…まだいるのやら

 藤ノ宮は下を向いたまま呟くと、顔を上げ、大扉の真ん中に拳を当てた。

―ドン、ドン、ドン も~しもし   一度間を開け、もう一度

―ドン、ドン、ドン も~しもし   手を下ろした

 そして暫く間を開けたが、何も応答が無い。そして三度目、

―ドンドンドン   今度は少々早く叩いた。そしてまた間を開けた。

 藤ノ宮は下を向き、っはぁ~、と一息付いた。そしてゆっくりと振り向き、後ろで見ている者達の方に目をやると一度顔を横に振った。藤ノ宮はそれでももう一度と思い、また振り返り大扉に向けて拳を上げた。とその時、ガタ、ガタ、と音がした。

―ギ、ギ、ギィー   扉が開いた

 扉の狭間から殆ど明かりの無い薄暗い屋敷の中の空間が、藤ノ宮の細い目に映った。

―ん?誰かいるのか?

 藤ノ宮は自分の手前、低い位置に何かの存在を感じ目線を下げた。

「おぉ~、これはこれは、少名人殿」藤ノ宮は言いながら恭しく頭を下げた。

「お久し振りですな、藤ノ宮ですがのぅ」藤ノ宮、腰を九十度近く折り曲げている。

 そこにはかなり背の低い、子供なのかと思える人物がいた。いや、子供にしてもかなり低い。背丈は凡そ五十cmくらいだろうか、藤ノ宮の膝頭の少し上辺りに顔がある。低過ぎる。それはともかく藤ノ宮は今、この小人の名前を呼び、久し振り、と言った。という事は既に知り合いという事になる。

「以前ここに来たのはかなり前のことですが、覚えておりますかのぅ」「…」

 この小人の名前を藤ノ宮は少名人と呼んだ。身形は薄いベージュの麻の上下で頭にミズラを結っている。一般的な現代人が思い浮かべる神の時代の装束姿だ。その姿で微動だにせず、しかも藤ノ宮に向けての鋭い視線を見ると、見た目がいかに小さくとも、とても可愛いという表現は思い浮かばない。

 それにしてもこの小人、藤ノ宮が慇懃に挨拶しているにも係らず、口元をキッと結び黙っている。こいつ怒っているのか、と言いたくなる表情だ。

 藤ノ宮は挨拶をしても何も言わぬ小人に向け、構わず更に話し掛けた。

「少々お伺いしたいのですけど、官之宮はぁ、まだおりますですかの?」

 藤ノ宮は腰を九十度に折り曲げたまま、笑顔を絶やさず丁寧に尋ねたが、この小人、それでも何も言わず、ジッと藤ノ宮を凝視したまま黙っている。藤ノ宮は笑顔のまま更に続けた。

「いやぁ、知り合いとこの近くまできたものですから、久々にあいつに会ってみたくなりましての、ハッハッハッ」藤ノ宮の一人芝居だ。

 小人は藤ノ宮に向けていた鋭い視線をチラっと、ほんの一瞬だけ後ろに立っている一行に向けたかと思うと、また藤ノ宮に視線を戻した。まだ黙っている。

「まぁ、あいつも色々と忙しいのでしょうな、便りも寄こさんものですからの」

 この時点で藤ノ宮は腰を伸ばし、一度後ろを振り返った。

「待っていろ」小人は、ここで初めてぶっきらぼうな声を発した。

 身体に似合わず低い声だが、表情も硬く全くにこやかではない。その声に藤ノ宮がまた小人の方に向き直った時には、小人はそこにはいなかった。

 暫くの間、藤ノ宮はそこで立ったまま待っていた。後ろの一行もそのまま何もせず、黙って待機していた。ハクは大人しく玉砂利の地面に伏せていた。ハルはと言うと、やはり辺りを警戒したままなのか、背中の毛は少しの盛り上がりのままジッとしている。

―ゴト、ゴト、ゴト   何かの音がした。

「おぉ~、誰かと思いきや、藤ノ宮じゃないか」

 大扉の狭間からヌーっと、ギョロっとした大きな目の大男が顔だけを出した。藤ノ宮より頭二つ程高い位置から見下ろしている。これが官之宮なのか。

「おぉ~、官之宮、久し振りじゃのぉ~、お主、更にでかくなったんじゃないのかね、ハッハッハッ」藤ノ宮、右手を挙げ背の高さを表している。

 大男が大扉の狭間からゆっくりと身体を出してきた。そしてその大きな体を全て外部に出すと直ぐに、ギギギギギ、と大扉を閉めた。余り中を見せたくはない、というような素振りだ。この大男、外に出たその大振りな身体付きは縦にも大きいが横にも大きい。小人を見た後故、そのギャップで余計に大きく感じる。

「どうした?俺は呼んでもいないのに、何かあったのか?俺は忙しくはないが、暇でもないぞ、ハハハ」体付きとは逆に、何とも軽い感じのする大男だ。

「ハッハッハッ、相変わらずだのぅ、いや、何、たいした事ではないのだが、ちょっと訊きたい事があってのぅ、近くまできたものだから寄ってみたのだよ」

 藤ノ宮はいかに知り合いとはいえ、ある程度当たり障りの無いように話しを始めた。

「何だ、何十年振りに会って訊きたい事とは、俺は何でも知っているぞ、特に酒と女の事はよく知っている、何でも聞いてくれ、ハッハッハ」やはり軽い。

「お主、何年経っても、まったく変わらんのぅ、ハッハッハッ、しかし今回は酒も女も関係無いのでな、悪いがその付き合いはできんのだよ。いや、実はの、わしらがここにきた目的は…」藤ノ宮は大男の軽さを軽くいなして、この突然の訪問の用件に入った。

 藤ノ宮は誰が聞いているというわけでは無いのだろうが、大男に一歩近付き耳元で囁くように、余計な事は言わず単刀直入に話した。それは〝見えない村〟とその事を知っている者がこの街にいるはずだという事を、そして役人であるお主ならその者を知っているのだろう、と訊いた。

「どこから、その話しを聞いた?」大男、どうしたのか顔付きが変わった。

 先ほどまでのいかにも軽さが滲み出ていた顔が、眉間に皺が寄り厳つい顔付きとなった。この大男に取ってはこの話、良い話しではなさそうだ。

「地方の国津神から聞いたのだよ」「聞いてどうする?」

 藤ノ宮の顔からも笑顔が消え、会話に一度間を取った。それはこの話は大男の態度からすると本当の事らしいと推察されるが、ハル一行の正体と目的をこの者に素直に話して良いものなのかどうか、一度頭の中で整理する時間を取った。そしてチラっとハルを見た。

ハルは話の内容は聞き取れずとも、そこはハルである。二人の置かれた状況を顔色からでも理解したのだろう、軽くコクっと頷いた。藤ノ宮は一行の素性と目的を話した。

「なんと、う~ん、なんと、う~ん」藤ノ宮の話しを聞いて、何故か大男が唸り出した。

「お主、何をそんなに唸っておる?」「これが唸らずにおられるか!」

 大男は藤ノ宮の側から離れ、唸りながらハル達一行のいる方へゆっくりと歩き出した。そしてハルの目の前にきて腰を屈めた。犬であるハルにとっては本当にでかく見える男だ。

「そなたがハル殿か、天からいらしたのか」マジマジと見詰めている。

 今度は腰を伸ばし腕を組んで、ハル達の前をウロウロと歩き回り出した。天を仰ぎながらウ~ンと唸り、足を止めてはウ~ンと唸り、目を閉じてはまたウ~ンと唸っていた。

「官之宮、何をそんなに悩んでおるのだ、わしらはただ、見えない…」

「こらこら、こら、大きな声で、その事を、口に出すなと言うに!」

 官之宮、余程この事を隠しておきたいのか、藤ノ宮に向けて手を上げ下げして声を制しながら、自身の声も合わせて小さくしていった。そしてそのやり取りを見ていたハルが、

「官之宮!その話し、教える気が無いのか!」痺れを切らしたように言った。

 官之宮はクルっと振り返り腰を屈め、ハルに向け大きな顔を再度近付けた。

「ハル殿、この話簡単な話ではないのですぞ。素性も確かでない者に易々と教えるわけにいかぬのでな、故にこうして悩んでおるのですぞ」この言葉にキコと公弐宮が反応した。

―キコ、まずいでしょ、あの言い方   小さな声で囁いた。

―うん、まずいですよね   と囁き合っていると、

「貴様!天系の者を愚弄する気か!我々の使命を馬鹿にするとはただでは済まさんぞ‼」

 この時ハルの声は、あたかも落雷がその場近くに落ちたのかと思えるほどの衝撃で、ビリビリ空気を震わせ、直接天から聞こえてきたようだった。初めてハルに相対した官之宮にとって、これは驚いた。腰を屈めた姿のまま後ろへひっくり返り、目を瞬かせている。以前に少しだけ話しを聞いていた藤ノ宮は、実際にその激しさを見るのは初めてなので、目をバチっと開けて驚き、声を失っていた。

 その二人に対して、慣れているキコと公弐宮は表情一つ変えず、予想していた通りという顔で至って平静そのものだ。官之宮、ひっくり返ったまま開け放った眼をして、ハルをジッと見ている。ハルは目を燃え上がるように赤く染め、背中の毛を警戒態勢のように逆立てていた。

 ツバメが低く飛んできた。動きの固まったこの空間をスゥーっと、風のように滑らかに通り抜けていった。それが切っ掛けになったのかどうか、ひっくり返っていた官之宮がフッと息を吹き返した。

「は、は、ハル殿、ハル殿」地べたに落としていた腰をカクカクしながら上げた。

 官之宮は四つん這いになってハルに近寄り、ハルの目の高さに自分の視線を合わせると、声を振るわせ話し始めた。

「こ、こ、声を、あ、荒げないで、下さい。お、お願いします」

 官之宮、辺りをキョロキョロ見回している。

「こ、ここでは、私の行動は、あ、あ、余り、緩くはないのです」

 緩くはないとは、自由が無いという意味だろうか。この時代の言葉なのだろう。ハルは警戒態勢ではないので背中の毛は興奮した時の一瞬の事で、既に収まってきている。しかし赤い目はそのままで、目の前の相手を突き通すような極めて鋭い視線で、この大男をジッと睨み続けている。しかも、愚弄する気か!と言った後、無言でいるため余計に何かを物語っているように感じ、官之宮がそれに耐えられず、

「わ、わ、分りました、分りました」言いながら声のトーンを落とした。

「は、ハル殿、お、お教え、致します」四つん這いのまま顔を更に近付けた。

「実は、わ、私が、その〝見えない村〟の事を知っているという人物なのですよ」

 言った後、ジッとハルの赤い目を見詰めている。自分は嘘は言っていない、という意味なのだろう。その状態で暫く動きが止まっている。その様子を後ろから見ていた藤ノ宮が、聞き取れなかったのか聞いてきた。

「い、今、何と言ったのかね?」ハルはその動きをチラっと見、目で制した。

「よし分った。お前を信じる。ではその村に連れていってもらおう」

「そ、そ、そのぅ、す、少しだけ待って頂けますか、…こ、ここの者達は、私の行動にうるさいのですよ、…な、何か口実を作らないと」

 官之宮はキョロキョロとして、また辺りの様子を確認している。

「い、一時ほど、時間を下さい。あ、貴方達はぁ…」官之宮、下を向いて考えている。

「うん、そうだ、この屋敷の横を行きますと、一つ扉があります。そこを入りますと階段があり屋敷の下へと通路が続いています。その通路に出たら左に向って下さい。そしてその通路を伝ってずっと行くと、この先の弥寿々川の向こう側へと出る事ができますので、出たところで待っていて下さい、その通路、決して右側へは行かぬようお願いします」

 官之宮はまた、キョロキョロと辺りを見回し確認をしている。余程、この屋敷の者に見られるのが不都合らしい。

「ミスズ川、と言うのね、あの川の名前」キコが呟いた。

「その時、一つだけ注意して欲しいのですが」官之宮、ハルに視線を合わせた。

「通路でウサギか小人がいたとしても、気にせず進んで下さい。その際、決して声を出さないように。あいつ等はこちらが黙ってさえいれば、ただの人形と同じなのです」

「ウサギ?」「小人?」ハルの後ろでキコと公弐宮が、同時に?マークの顔をした。ハルは何も言わなかったが、当然の疑問だろう。先ほど大扉から顔を覗かせた者も小人だった。しかし何故ウサギがいるのだ?キコと公弐宮の顔にその疑問符が浮かんだままだ。

「声を聞かれると厄介な事になります、声を出さずに、それだけは忘れずにいて下さい」

「分った。では行こう」もちろんハルの決断と行動は早い。

 ハルは早速屋敷の横に向って進み出した。ハルが動くと同時に、伏せて大人しくしていたハクも一緒に動き出した。キコと公弐宮も疑問顔のまま直ぐに後を追った。一人、藤ノ宮だけは官之宮に近寄っていった。

「お主、大丈夫なのかね?」心配顔をしている。

「あれから五十年が過ぎたからのぅ、今となっては、わしには今のお主の立場が分らんのだが、わしらがきた事でお主がどうにかなってはのぅ」

 藤ノ宮は五十年振りに会ったばかりの昔の知り合いを、自分達が目的のためとはいえ、窮地に追いやるのかもしれないと心配になった。しかし当の官之宮は、その藤ノ宮の心配顔に対し逆にニヤッとした。そして藤ノ宮の肩に片手を掛けると、ポンポンと軽く叩き、

「藤ノ宮、良いんだよこれで、ハッハッハッ」声が、この男の普通の声に戻っている。

「俺も、もうここで小さくなっているのが嫌になっていたところでな、うん、お前達が、今こうやって尋ねてきてくれた事が、はっきりとは分からぬが、俺の行く末を何やら暗示してくれたのではないかと、今、ふと、そう思ったのだよ」

 この男の飾り気の無い笑顔が、ハルに言った事、藤ノ宮に言った事が嘘では無いという事を端的に表していた。藤ノ宮はこの大男の目をしっかり見てそう思った。

「しかしハル殿は、犬とはいえ、おっそろしく迫力のあるお方だなぁ、ハッハハハ」

「実はわしものぅ、あのお方の怒りの姿は初めて眼にしたのじゃが、実に驚いたわい、ハッハッハッ」官之宮も藤ノ宮も、笑うしかなかった。

「そうかそうか、では、後ほど会うとするか、のぅ」

「おぉ、待っていてくれ。ここの者はうるさいからな、少々時間を要するかも知れん」

 官之宮はこの僅かな時間の間に、モヤモヤしていた気持ちが吹っ切れた、という明るい表情で藤ノ宮に向け片手を上げた。そして二人の別れ際、官之宮は再度注意を促した。

「決っしてウサギと小人の前では声を出すなよ、良いな」

 藤ノ宮は軽くコクっと頷き、屋敷の横へと向った。



 官之宮の言った通りに屋敷の横に入り口があり、地下へと階段がずっと続いていた。そこは薄暗く、湿気の強いジメジメしたかなり長い階段だ。何段あるのか分らない。数えていても忘れてしまいそうなくらいの長い階段を、暫く掛かってやっと平らなところまで下りると、短い通路になっていた。そしてその先にもっと幅のある広い通路が現われた。そこも決して明るくはなかったが、そこで先行していた一行が待っていた。

 藤ノ宮がその通路に姿を現すと、直ぐに公弐宮が近寄ってきた。

「藤ノ宮、あの者を信用しても、大丈夫なのかい?」やや疑問符の顔だ。

 それに対して藤ノ宮は、ポンっと軽く自分の薄い胸を叩いた。

「おぉ公弐宮、大丈夫だ、それはわしが保障するわい」自信を持った顔付きだ。

 藤ノ宮はハルの前にきて笑顔で続けた。

「ハル殿、あやつはあのように幾分軽くは見えますけどのぅ、根はしっかりとした良いやつでしてな、五十年の時を経ましても何一つ変わってはおりませんでしたぁ。ただちょっと今のあやつの立場が微妙なようで、その辺は、考慮してやってくだされ」

 そう言って藤ノ宮は、キコと公弐宮の方にも振り返り笑顔を見せた。

「のぅ、信用してやっておくれ、あやつは元々嘘は付けん男なのだよ」

 藤ノ宮の笑顔にキコと公弐宮も反論する気は全く無かった。ハルもキコも公弐宮も、ただこの先の〝見えない村〟への案内に問題が無ければ、それで良かった。

 ところで一行の今いるこの通路、右と左に真っ直ぐに続いている。幅は二人が並んで両手を広げる事ができるくらいに、地下通路としては大きいだろう。彼らが地上から入って来た場所から右を見ると、遠くに薄暗くほんのりと赤い色の空間が見えている。そして何の音か声か分らないが、ぉぉぉー、ガチャガチャ、うぅーうぅー、というような表現のしづらい音が、耳をその方向に向けて気持ちを集中した時だけ聞こえるような、本当に微かに聞えていた。話しをしていれば無視できるくらいの音源だ。

 その逆側、通路の左側は何も見えない。薄暗い通路がズーっと、真っ暗な闇へと続いている。その闇へと一行は向って行かなくてはならない。一行がそれぞれ内心、自分達の行く末もまた闇なのかも、などとは一切思わず、行くしかないのだ、とばかりに直ぐに足をその薄暗い通路の先へと向けた。

 その時だ、

―タッタッタッタッタ   足音がする。皆息を止め、その方向へ耳を傾けた。

―タッタッタッタッタ   一行の背後から近づいてくる。皆動きを止めた。

 その足音は一行に近付き、そのまま横を通り過ぎていった。タッタッタッタ…

「っふぅ~、今の、ウサギだったわよねぇ」公弐宮が止めていた息を漏らした。

「えぇ、本当にウサギが…」キコが話し始めた時、

―タタタタタタ   また別の、今度は細かい足音だ。

―タタタタタタ   一行はまた直ぐに息を止めた。また横を通り過ぎていった。

「っふぅ~、何よ今度は、小人?」公弐宮、疑問の顔付きだ。

「確かに、この通路にはあ奴が言うようにウサギやら小人が、ちょくちょく出没するようだのぉ」藤ノ宮が呟いた。

 一行は背後からの音が無い事を確認した後、再度足を進めた。

 藤ノ宮の言うように、いや官之宮の言っていたように、確かにこの通路はウサギや小人が行き来するらしい。そして一行は官之宮に言われた通りに、奴らが来た時には一切声を発しないよう心掛けた、そのつもりだったのだが、

「クゥ、クゥ、クゥ」「きゃっ!ハクぅ~!」

 一行が進む途中、通路の横に小さな扉があった。それは一mほどの小さな扉で、通常の大きさの人が出入りするものではない事は明らかであった。つまりそれはウサギと小人用なのだろう。その小さな入り口の存在に一行は気付かなかった。ただでさえ薄暗い通路の中、人の目の高さからはかなり下にあるその小さな入り口から、突然ウサギや小人が飛び出してきても、避ける事などできないのは明白で、この時実際にそうなってしまった。

「クゥ、クゥ、クゥ」ハクが同じ目の高さにウサギが現れ、驚き、突然足を止めた。

「きゃっ!ハクぅ~!」キコがハクにぶつかり倒れてしまった。

 キコは倒れたところで、顔を上げるとウサギと目が合った。

「きゃあー!ウサギぃ!」「キコぉ、声を出しちゃ、だめだわよ!」

 そう言う公弐宮自身も既に大きな声で叫んでいる。

 この声でウサギの動きが俄かに変わった。しかもウサギの後ろから続いてゾロゾロと、何人かの小人も出てきた。彼らは今まで一行の存在には全く目もくれず、ひたすら自分達の仕事に精を出している、という風であったのが、この声で彼らの存在に今気付いた、という感じで突然ざわめき出した。

―何だ何だ何だ、こいつらは何だ、どこから出てきた、こいつらは何だ何だ何だ

―ザワザワ、オイオイ、ナンダナンダ、ザワザワ

 彼らは小さな扉から次々と現われてきては、一行の周りに集り出した。

「何なの、どんどん集まってきたよ~」「参ったわねぇ~」「どうしたもんかのぉ~」

 一行は一箇所に皆とどまり、動きが取れなくなってしまった。ハルはもちろん落ち着いてはいるが、毛が少しだけ盛り上がり目が赤い。しかしここは下手に騒ぎを起さないようにしているのか、その赤い目で彼らをただ見ている。

 そして一行がどうしようか迷っていると、通路の元いた方向からまた別の足音が聞えてきた。それはパタ、パタ、パタ、と、ゆっくりとしたリズムで、しかし着実に地面を踏み締めているという感じが伝わってくるような、少し安心のできる足音のように思えた。

「ほっほーぅ」その声は低音で落ち着いた感じの声だった。

 薄暗くまだ顔は見えないが、そこには幾分背の高い人物が一行から数m先に立ち止まっている。そしてその場で片腕を挙げ、手の平をウサギと小人達の群れに向けている。そして何やら低い小さな声で何事かを呟いている。聞き取れないほどの、ただ息を吐いているだけなのかもしれない。

―フォー、汝、ただ休めよ、フォー   呪文なのか、囁いただけなのか?

 しかしその呟きとも取れる小さな声でこのざわめきが止んだ。ウサギと小人の群れは全員立ったまま寝ているように、目を閉じユラユラしながら、この空間がプールの水の中のように、その水の中でこの者達が海草のように立ったまま、浮いているような状態で皆の動きが止まった。ユラユラとしている。

「さぁ、お行きなさい!」重低音の静かな声がした。

 顔の見えないその人物が、通路の先に向けて片手を上げている。一行に先進むよう促しているらしい。

「えっ!」「ん?」「ほ~ぅ」

 ウサギと小人の動きに驚いていた人型三名が、揃ってその人物の方を見た。その人物は顔の見えないその位置からは動こうとはせずに、ただ片手を上げ先に進むように合図している。キコ達からは腕と足しか見えない。

「あのぅ…」キコが何かを言おうとした時、

「キコ、行くぞ!」ハルがキコの声を制し、声を発すると同時に動き出した。

 ハクもハルに付いて直ぐに動き出した。

「え、えぇ、そ、そうね」キコは直ぐに反応し、言うのを止めるとハルの後を追った。

 キコだけでなく、国津神二人もその人物に何かを言おうとしていたが、もちろん今のハルの行動で、言葉は無くとも直ぐに動くのが賢明なのだという事を悟った。その後は誰も何も言わずハルの後に続き、その人物に促されるまま空間を漂うウサギと小人の群れを背後に、薄暗い通路の先へと進んでいった。

 しかし一行が去った後、疑問が残る。あれは一体誰なのか?何故突然やってきて、ハル達一行がウサギと小人の群れに囲まれ、これから難儀しそうな時に助け舟を出したのか?この時点では何も分らない。

 実際のところ、この通路自体がよく分らない空間だ。ハル達が進んでいった通路の逆側、あの薄赤く見える、あの通路の奥は何だったのだろうか?そしてあの僅かに聞えてきていた不気味な声、そして今し方一行が囲まれたあのウサギと小人の群れ、それら一つ一つが何だったのだろうか、どういう存在だったのか?

 結局この屋敷は一体どういうところだったのか?そして最後にあの人物だ。それら全てが謎のままだ。

 しかしこの時ハル達一行にとってはそんな事よりも、今は自分達の目的に向かう事の方が遥かに重要であり、またそれ故にハルはキコの問い掛けを制し、直ぐに足を進めたのだろう。ここに止まる理由は無かったという事だ。

 とにもかくにも一行は、通路の先へと進んでいった。それは見た目以上に困難が待ち受ける世界なのかもしれない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ