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第1章  1.老人と出雲

         序    文


 古来、我が国の住人は神々だった。いや、それは神と呼ばれる人々だったのかもしれない。

 国土を造り、歴史を織り成し、現在まで連綿と連なるこの国の成り立ちを、混沌から始まり悠久の歴史の中で蠢き戦い、淘汰の歴史を繰り返した神々がいた。そんな小難しい戯言を考える者など、現代のこの世の中、どこにいるだろうか。

 街に出て一つの問を投げ掛けてみたとしよう。

〝文明社会の現代、日本人にとって、神の存在とは一体何ですか?〟

 正月の初詣で行う願掛けのための存在

 有名神社で行う縁結びの願いのための存在

 そしてもちろん金儲けの願掛けのための存在

 このように日々の暮らしの中での神頼み、または全国各地方に残る祭祀での御神体、等々、答えとしてはそんなところだろう。その存在を各々勝手に自己満足できる形で認識するだけで、国の成り立ちにまで遡り、国造りと関連付けて考える者などいるはずもない。

 しかしながら私たち一般国民が、歴史の授業で一度は接する〝古事記〟と〝日本書紀〟、これら我が国最初の歴史的記述書に於いて、原初の神々に付いての記述が有るのは確かである。しかしこれら二編の古文書が成立したのは、西暦で七一二年と七二十年。この国が型造られたというには時が経ち過ぎている。しかも二編の記述の中で、我が国開闢の年代は明らかにされてはいない。つまり我が国の創成、国造り神話の頃から国家として政治的体勢が整うまでは、あくまでも想像の世界であり、雲が掛かったような曖昧な時代とならざるを得ないのである。

 ではその歴史上政治的国家体勢が整うまでの期間、いわゆる大化の改新により律令国家としての国の形が整うまで、又はそれより少し前でもよい、仏教等の外国宗教が取り入れられ、宗教による国の方向が定まるで、いやそれよりもっと以前、卑弥呼の世界、呪術的力が人々の心を支配していた時代まで遡り思いを寄せれば、実は歴史的考察に載る事のないこの国の礎となる、現代の私達の知識では知り得ない諸々の民の生活が、そこでは営々と刻まれていた事もまた確かなのである。

実際に私達が暮らす〝国家〟の存在する今のこの世界が、それら遥か遠く時間的空間的距離を飛び越えた、想像的国の始まりから脈々と続き、それを土台として成り立ってきた事を考えてみると、不思議でもあり驚きでもある。

 そんなはるか遠くの古の世界と現代とをつなぐ、一つの物語がここにある。

 難しい事は傍らに置き、先ずはその物語の世界へと足を進めてもらいたい。

 


         登 場 人 物 と 読 み



  都       みやこ         猿田      さるた

  美奈美     みなみ         長(老人)   おさ

  タケハヤト   たけはやと       浮芹      ふせり

  大伴主     おおともぬし      少名人     すくなひと

  菟酉      ととり         キコ      きこ

  風福      ふふく         ハル      はる

  公弐宮     くにのみや       ハク      はく

  彌織      みおり         ツキヨビ    つきよび

  藤ノ宮     ふじのみや       コノハナサキ女 このはなさきめ

  官之宮     かんのみや       イズナミ    いずなみ

  影       かげ          靄       もや

  軍神      ぐんしん        獅子蛇     ししへび

  死人      しびと         ウサギ     うさぎ

  ウタカラス   うたからす



     その他の読み


  出都      いずと         天津神       あまつかみ

  出都宮     いずときゅう      国津神       くにつかみ

  主彌尖     しゅみせん       御印        みしるし

  弥寿々川    みすずがわ       御柱        みはしら

  千世      ちせ          四方津国      よもつくに

  上淨沼     かみじょうぬま     勾玉        まがたま

  伽羅都     からつ         黄泉の国      よみのくに

  社       やしろ         大御神       おおみかみ

  怪かし     あやかし        虚         うろ

  古       いにしえ


 都内、某大学、第二学生食堂。

「都ぉ~、お醤油いるか~ぃ?」

「いらな~い、これタルタルソース掛かっているからぁ」

 ランチタイム。二人は学食のむやみに広い白いテーブルに、それぞれ好みの定食をトレーに載せ仲良く並んで座った。昼時、学食は満員御礼が出るほど混雑している。

「このA定食ね、意外に美味しいんだよね、知ってたかい?」

「ねぇ美奈美ってさ、いつも授業終わったらさっさと帰っちゃうイメージだけど、学食にも来ているんだね」都は定食を前に笑顔で背筋を伸ばした。

「都、あのね、あなた未だにわたしの行動がよく分かっていないみたいだわね、実に残念だわ」美奈美も定食を前に背筋を伸ばし、少々むっつりした顔をした。

 美奈美の選んだA定食は、鯖とほっけの半身の焼き魚定食。都の選んだC定食は、タルタルソースのたっぷりと掛かった、白身魚フライと鶏の唐揚げ定食。美奈美は箸を、都はフォークをそれぞれ動かし始めた。

「だってさ、美奈美はいつもバイト忙しそうじゃん。だから学食なんて来た事ないって、勝手に思っていたんだけど」

「うん、確かにそれはそう、間違いではない。忙しいといえば忙しい。でもね、月、金はだいたい学食でランチ食べてからバイトに行くんだよ、知らなかった?」

「そうなんだ、知らなかったなぁ」都、フォークで唐揚げを一つ突き刺し、頷いている。

「そう、月、金はバイトの出勤が遅いから。できるところは少しでも節約していかないとさ、わたしの場合、親からの仕送りなんて殆ど無いからね」

 都は半分笑顔で幾分感心しているようでもあり、唐揚げを頬張った口をもぐもぐしながら、小さくウンウンと頷いている。

「やっぱり美味しいわね、このA定」美奈美も焼き魚を頬張りながら頷く。

「わたしは始めてC定食べたけど、この白身のフライも結構いけてるよ。ちょっと食べてみる?」魚フライの切れ端をフォークの先に突き刺し、ほれ、と美奈美に見せた。

「良いよ、わたしそれ、前に食べた事あるから」

 美奈美はいつもそうなのだが、食事は殆ど無表情で口だけを動かしながら食べる。

「ところで都、あなた何か話しがあるって、さっき言ってなかったっけ?」

 美奈美は都を見ずに、やはり真剣な眼差しでひたすら鯖の身を箸でほぐしながら、言葉の合間を縫うように器用に小骨を抜き取り口に運んだ。他方都は唐揚げを運ぶ手を、可愛く小さく開けた口の五cmほど手前でピタッと止めると、あ、思い出した、というように手はそのままで顔だけを横に向けた。

「そうそう、そうなのよ美奈美、ねぇ聞いてよぉ~」

「いま聞いているわよ」別に不機嫌というわけではない。

 都と美奈美の会話とはいつもこんなものだ。これが美奈美のいつもの反応なのだ。そしてやはり無表情で、口だけを動かしながら鯖を食べている。そんな美奈美の表情の事など全く気にせず、フォークを皿の上にカチャッと置くと、都は堰を切ったように話し始めた。

「それがね、二日前の事なんだけどさ、うちの親のところに何だか変な人がやってきたのよ。その人突然やってきて、何でもうちの家系の昔々の事を知っているみたいで、うちの親にも分からないような事色々話し出してね、そう、とにかく変な人なのよ」

「変な人、…どんな?」

「うん、それがね、親がその何だか訳の分からない何か変な話を、玄関先で延々と一時間半も聞かされたみたいでさ、始め胡散臭い人だなって、そう思いながらその変な人の変な話しを、聞くとは無しに聞いていたんだってさ」

「変な話、…どんな?」

「それがね、結局その話っていうのが、その後、私に関する事になったらしくてさ、それじゃぁ、うちの子に直接会ってみたらって、言っちゃったらしいのよね」

 ここで美奈美は箸をコトッと静かに置くと、無表情のままの顔をゆっくりと都の方に向けた。

「変な人、変な話、内容が全く分からないけど、で、結局どうしたの?」

「ん?そ、そうだよね、ごめん、順を追って話さないと分からないよね、ハハ」

 都の言葉に美奈美も、その通り、という意思を十分表す目付きをして、無言でウンと大きく頷くと、お互い仕切り直しの意味も感じてなのか、二人同時に定食の膳に再度向き直り、ゆっくりと目の前の定食をもう一度食べ始めた。一口、二口、都は白身魚フライを口に頬張ると、先ほどの話の筋道を頭の中で整理しているのか、ゆっくりと咀嚼しながら暫くの間黙っていた。美奈美も都の考えていることが分かっているのか、同じく無表情のまま、今度はほっけの身を箸でほぐし少しずつ口に運んでいる。

 どこの大学の学食にも普通にあるような、壁に掛かる大きな白い丸い時計。長い方の針がコトッと一度動いた。一分ほどが過ぎ、都が隣の美奈美にも聞こえるくらいに、ゴックンと、口の中の咀嚼物をまとめて飲み込んだ。そしてコップの水を一口飲んでから、ウンと軽く頷き、頭の中で話の筋道がやっと整ったのか口を開いた。

「それでね、その話、始めから言うとね…」

 都は言いながら一つ二つと数えるように、フォークを持つ手を小刻みに振り出した。

「先ず二日前の火曜日、親のところに、突然全く知らない変なおじさんがやってきたのよ。親はね、またどこかの変な新興宗教か何かの勧誘かな、と思って追い返すつもりで対応したんだけど、話を少しずつ聞いていると、それが少し違ったみたいなのよ」

「少し、違った?」美奈美は顔を動かさず、箸はまだ動いている。

「うん、そう違ったのよ。玄関先でその変なおじさんが言うにはね、どうもうちの家系の先祖がどうとかで、さっきも言ったけど、話し始めて延々と一時間半もその先祖の事やら神様の事やら、何代も何代もうちの家系で昔から続いてきた何かの儀式がどうのって、親も知らなかった家系の事柄や、親が遥か昔にお爺さんお婆さんに聞いた事があるような、うちの親族しか知らないような事柄も色々と話したりしてね、全くの荒唐無稽の話ではなかったのよ。それで結局追い返すどころかその変なおじさんの話しに、長々と付き合ってしまったらしいのよね」揺らすフォークが止まった。

「そう、都の家のご先祖様の話だったんだ」

 美奈美は話を聞きながらも器用に骨だけを綺麗に取り外し、博物館の標本よろしく皿の上に魚の形で並べている。そして魚の頭から尾ひれまでの全ての身を食べ終えると、これが美奈美の性格を表しているのだろう、きちっと箸を揃えて皿の横に並べ、拝むように手を合わせ小さな声で、ご馳走様、と呟いた。そして右肘をテーブルの上について手の甲に顎を載せ、半身の体勢となり都の方を向いた。

「それでその人、都の遠縁の人だったの?」聞く体勢が整ったという感じだ。

「その辺は親にもはっきりとは分からないらしいのよ、というか実はその話、その後私の事になったらしくて、これもさっき言ったけど、母親が、じゃあ娘に直接会ってみたらって、そう言ったらしいのよね、っもうほんと親戚かどうかもはっきりしない人なのに勝手にさ、会えば、なんて決めちゃうんだから!」

「直接、って事は、じゃぁ都」都の目を覗き込んだ。

「そうなのよ、実はもうその変なおじさんが昨日、私のアパートに突然来ちゃったのよ。で、私、会っちゃったんだよねぇ、ハハ」

「ハハって、なんだもう会ったんだ」「そう、会ったのよ」

 都は母親への抗議の意味なのか子供のように頬を膨らませ、それと共に一つの八つ当たりなのか、皿に残る最後のポテトサラダをフォークで力を込めてグチャグチャと潰しては丸め、潰しては丸めを繰り返した。その哀れなポテトサラダに引導を渡すように、彼女はポンっと口の中に無造作に放り込むと、ゴクっと飲み込み、カチャッとフォークを皿の端に置いた。

「美奈美、お茶飲む?」「うん、飲むわ、悪いね」

 都は立ち上がり、配膳のカウンターに向かって歩き出した。別に気を落ち着かせるためにお茶を取りに行ったわけではないのだろうが、いつもの都の歩き方より幾分早足のようにも見える。五分ほどが経ち、ミュールの踵を鳴らすカチャカチャという音が近付いてきた。オレンジ色のトレーにお茶の入った紙コップを二つ載せ、都が戻ってきた。

「はい、どーぅぞ」「うん、サンキュウ!」

 二人は同時にそれぞれ一口お茶を啜った。そして都は一息付いた後、美奈美とは逆の鏡写しの半身の体勢となり、それじゃあ、と続きを話し出した。

「うちの親もさ、そんな変なおじさんが、こっちに向かっているって事が分かっているんだったらさ、事前に電話の一つでもくれれば良いのに、全然なんだもん。だからそのおじさん、私の部屋に本当に突然来ちゃったのよ、昨日の夕方」

「そう、それも困りもんね、で、どんな風に変だった?」

「えっ?いや、見た目は別に変じゃなかったのよ。ただの優しそうな小さい丸いお爺さん、って感じ。そう、おじさんじゃなくて、お爺さんって感じだったの。それと、そうねぇ、着ている物は上下共随分よれよれで、長く着ている風だったかな」

「じゃあ何が、どこが変だったの?」

「あのね美奈美、あのお爺さん、そんなに変!と強調するほど変なわけじゃなかったのよ、見た目はね、ただ言っている事が少しだけ変っというか、変わっていたのよね」

都、言いながら斜め上の空間を見た。

「言っている事が、変?」「そう、言っている事がね」

 ランチタイムには全席ほぼ埋まってしまう学食も、午後二時くらいにもなると、数名の塊が瀬戸内海の小島のようにポツンポツンと見られる程度となり、各島々の他愛もない話声と笑い声が、耳を傾けずともお互い聞こえるほどの静けさとなる。その後二人はそれら島の一つとなり、確実な理由の無い憶測と、二時間ドラマ百%受け売りの誠に豊かな想像力を働かせ、暫くの間あーでもないこーでもないと、この突然の来訪者の話を続け、ランチタイムの終わる午後二時半頃にようやく学食を出た。

 そして美奈美はこの日、出勤時刻の遅いアルバイトへと向かい、都は四時までには自分のアパートに戻る予定であった。何故なら、この話の元となっているその〝変〟なお爺さんが、都に何かを見せたいと言ってこの日の夕方、再度アパートを訪れる事になっていたからである。



―ピンポーン!  午後四時。都のアパート。 

―あ、来た!  都は来訪者のために、部屋の中を簡単に片付けていた。

 人の心というのは面白いもので、大きな嫌悪に対しては当たり前の事ではあるが、即座に拒否の姿勢を表す事ができる。しかし事柄の内容が曖昧模糊の場合、時として心と態度や言葉が反対の表現を取る事が往々だ。

 昨夕、よれよれの服装をした見も知らぬ初老の男性が、突然アパートを訪ねてきて自分の家系の話や先祖の話、何だか分からない神々の事などを次々と話しだした。聞いた事も無い先祖の話をして、しかもその話が自分の将来にとって非常に大事な事なのだと言う。

―何なのこの人?  それが率直な感想であった。

 都は話をある程度聞いた段階で、どうぞお帰り下さい、と言うつもりであったが、この老人が引き払う直前、彼女の口からは、じゃあ明日の四時ですね、と彼女自身思いも寄らない言葉が発せられていた。老人の姿が街中の闇に消え、ドアの鍵をカチャッと閉め、チェーンロックをしっかりと掛けた後、都はドアを背にして、何でこうなったの?と、自問している自分に気が付いた。

 つい先ほどまで、一人の小さく丸い体の老人がこの玄関先にいて、何か自分の事を話していたのは確かだった。しかし都は頭の中でその話の内容が、薄ぼんやりとしてはっきりとは思い出せないでいた。老人の話の中に、学校で習った〝古事記〟の中の話が少し出たような気がした。歴史が好きな自分が、その話の短い部分に無意識に反応したのかもしれない、と思った。または自分の家系を辿った過去を、この老人が幾らかでも知っているらしい、そこに自分の心が何かを感じ取ったのかもしれない、とも思った。

 そして老人がポツリと言った一言、

―お嬢さんは知らぬ間に、歴史の中に組み込まれておるのじゃよ

 この一言が、都の無意識のひだに触れたのかもしれない。

今この時都は、愛想は良いが未だに素性のよく分からない変なお爺さんが、そろそろ来る時刻と分かってはいても、心のどこかであれは夢だったのかも、と幾分逃避的な考えをしながら部屋を片付けていた。

 そして午後四時ピッタリ、

―やっぱり来たんだ  来るとは思ってはいたが、実際に来ると気が重くなった。

 都は鉛のように重く感じる自分の足をゆっくりと、右、左と、一歩一歩頭の中で意識しながら前へと動かし、玄関ドアの前まできた。その距離三m。この僅かな距離がどれほど長く感じたか。玄関ドアに触れた。

「はい」重い声で返事をした。

―昨日お邪魔した、猿田という者じゃがのぉ、フォフォフォ

 ドアの向こうから聞こえるそのしわがれた声は、どこか遠くの山から聞こえてくる木霊のように、そこに見えるドアがまさか二重であったのか、と思わせるように僅かにエコーが掛かっているようにも聞こえた。都は幻想を振り払うように少しだけ頭を振った。

―すまんのぅ、また少しだけ話をさせてもらいたくてのぅ、フォフォフォ

 幾分温かみのある少しばかり奥行きのあるような、何ともいえぬ不思議さを感じさせるが、別に嫌になるという声ではない。この時都は気の重さからなのか、いつもは必ず行う覗き窓のチェックはせずに頭を前にたれたまま、小さく息をフゥーと一度軽く吐いてから徐に鍵を開け、チェーンロックを外しゆっくりとドアを開けた。

 ドアを開けた瞬間その小さな狭間から、スゥーと何かがすり抜けた気がした。ある種の気の流れなのか、小さな空気の塊のような物が都の頭の上を動いていった。都はそんな事はまったく気にも留めず、無表情のままドア越しに表に顔を出した。

「お爺さん、やっぱり来たのね」

「フォフォフォ、ほんに申し訳ないのぅ、いらん時間取らせてしまって。今日はどうしても見てもらいたい物があってのぅ」

「良いですよ、お話、聞きます、どうぞお入り下さい」

 都は笑顔ではないが、かといって別段悪気のある表情ではなかった。美奈美のようにただ無表情で、この初老かと思える老人を部屋の中に招き入れた。最初は断るつもりで仕方なく聞いた話に、自分でも分からないところで、心に何かが引っ掛かりを持ったのだろう。ましてやそこに自分の将来が関係している、と小さな声で囁かれれば尚更である。招き入れた老人をけっして広くはない茶の間の、中央に置かれた長方形のグラステーブルの前に、優しく座るように勧めた。

「そこにどうぞ、座布団使って下さい。今お茶入れますから」

「いやぁすまんのぅ。ほんじゃぁ遠慮なく落ち着かせてもらうかいのぅ」

 どこの言葉であろうかこの老人、独特な訛りで話しながら満面の笑顔を見せている。

 一見、身形は殆ど布袋様のようで、着ている物はよれよれで身体付きは小さく、しかし丸々としているので小柄というほど小さくは感じない。それと何を入れているのか分からないが、自分の身体と同じくらいに大きな、それこそ布袋様が背負っているのと同じような、大きなよれよれの麻袋を持っていた。今時何で麻袋なのか。

 その麻袋をドサッと床に置くと、その横にある座布団の上にストンっと腰を下ろした。

「よっこらせっと!ふ~ぅ、東京というところはほんに疲れるとこじゃの」

 老人は座ると同時にこの部屋をクルリと一度見渡した。気のせいなのか小さな空気の塊が、天井の辺りをクルクルと渦を巻くように舞っていたかと思うと、スゥーと老人の座った辺りに舞い降りた気がする。老人は何も感じていないらしい。壁に背をもたれ掛けた姿勢で、都に聞こえるように言っているのかいないのか、一人で話し始めた。

「どこへ行っても、まぁ~ず人が多いもんでのぅ、わしゃぁまったくもって苦手じゃて。こればっかりは慣れるもんではないのぅ、フォフォフォ」「…、…」

 都はキッチンで急須にお湯を注ぎながら、相槌を打とうかどうか迷っていたのだが、そんな事とはお構いなく老人は一人で話し続けた。

「わしの住んどるところはのぅ、一日中外を歩いておっても殆ど人には会わんからのぅ。ほんにたま~にの、生きとるか死んどるか分からんような爺さんか婆さんに、一人か二人顔を会わすと、まぁだ生きとったんかいの、しぶといのぅ、なんて話をするくらいでのぅ。もしくはそうじゃのぅ、普通はどちらかといえば、人間よりイノシシかサルにでも出くわす方が多いかも知れんて、フォフォフォ」一拍空けてまだ続く。

「それでものぅ、そんな田舎でも都会より良いところは、これはこれで結構あるもんでの、それはの、ま~ず空気が美味くてのぅ、蒼空はまったくもって澄み渡り、緑に溢れ水に溢れておっての、実際に目には見えなくともそこにはの、数え切れぬほどの生き物の精気で満ち満ち溢れておるのじゃよ。これはのぅ都会の人間には、そうじゃのぉ、ちと感じられん事かもしれんてなぁ」

 老人、どこか物憂い的な表情をして部屋の天井近くを見詰めている。一人で話している割には、フォフォフォ、と大きな笑顔で笑ったり、少々学者的な表情を見せたりと何かと忙しい様子だ。

「それって、お爺さんの田舎の話ですか?」

 都がお盆に急須とお茶の入った湯飲み茶碗を二つ、それと幾らかのクッキーの入った小さな籐かごを載せて、完全にくつろいだ姿勢で座っている老人の前にやってきた。

都は膝を付いて老人の前のグラステーブルの上にお盆を置くと、湯飲み茶碗を一つ老人の前に置き、その逆側にもう一つを置いた。クッキーの籐かごをテーブルのほぼ中央に置くと、自分もテーブルの逆側できちっと膝を揃えて座った。

「そういえば昨日はうちの家系の昔話ばかりで、お爺さんの事は全然聞いていなかったですよね」ここで初めて、ほんの少しの笑顔で言った。

「わしの事かの?フォフォフォ、わしの事は何ら話す事なんぞないわさ」

 老人は笑いながら湯飲みを手に取り、頂きます、と小さく声を出し、同時に拝むように頭を小さく上下させた後、一口お茶を啜った。

「おっ!これはこれは実にうんまいお茶じゃのぅ。何とも香りが良いのぅ。それにこの深みのある味わい。うんまいのぅ。これはどこのお茶かね?」

「お爺さん分かる、美味しいでしょう。私もこのお茶に、はまっちゃったのよねぇ。これはね、うちの親戚が送ってくれたお茶なんだけど、そうそう確かね、福岡の八女茶、だったっけかな」

 老人に会ってから二日目の慣れなのか、それとも今のたわいもない老人の田舎の小話が良かったのか、お茶への反応が良かったせいなのか、都はつい数分前までの重い心はどこかに行ってしまったようだ。憑き物が取れたように警戒心は既に解かれ、いつの間にか自然の笑顔となっている。

「これはね、八女茶の中でも最上級の玉露なの。煎れる時もね、温度の管理が結構大変なのよぉ、でもその分本当に美味しくてね、もう私、このお茶飲んでから他のお茶飲めなくなっちゃったのよね、フフ」

 都は湯飲みを両手で持ち、美味しさを自ら再度確認するように一口啜った。啜りながらこのお茶の事を気にしてくれた事が余程嬉しいとみえ、にっこりとして老人の方を見た。

「ところでさっき言っていたお爺さんの田舎って、どこなんですか?」

 老人は都の美味しい説明を聞くと、自分でもそれを確認するためなのか、ソムリエが深紅の赤ワインを口に含む直前にそうするように、湯のみを少し揺すって鼻を近づけ、湯飲みの中の温かい空気を少量鼻腔に吸い入れた。そして発情期の雄鹿のようにゆっくりと鼻を上げ、香りを楽しむように、

「う~ん実に良い香りじゃ、この茶の香りは何事にも代えられんのぅ、ん?何、わしの田舎の事かの?島根じゃよ。出雲じゃ。しっかし、これはほんに良い香りじゃのぅ」

老人、目を瞑り、本当に香りを楽しんでいる様子だ。

「出雲?出雲って、あの神話の里みたいな、あの出雲の事?」

「フォフォフォ、そうじゃよ。神話の里、出雲大社の鎮座する、あの出雲じゃ」

 出雲。神話の里、出雲大社。

 誰もが持つ出雲のイメージ。雨の長崎、天下の台所大阪、杜の都仙台、千年の都京都、讃岐のうどん、のような物か。いわゆるその町のブランド化である。その中でも〝出雲〟ブランドは歴史が断トツに深い。何せ神話の時代をその冠に頂いているのであるから、他の追随を許さない。次に来るのが高々千二百年程度の京都であるから、いろんな冠を頂く東京でさえ霞んでしまうくらいだ。その出雲から、この老人は来たという。

 お蕎麦屋さんの名前にもあったかしら、などと出雲に対してしっかりとしたイメージが、この時都には無かったようだ。顔を少し傾けている。そんな都に対し、老人は羊のような皺皺の小さな目を見開くと、ここぞとばかりに自分の故郷の紹介を、旅行代理店にスカウトでもされたいのか、と思うほどの意欲満々の笑顔で語り始めた。

「お嬢さん、出雲はのぅ、そりゃあ良いところでのぅ。お嬢さんが今言ったように、神話の雰囲気がそのまま残っておっての、そのわりに奈良や京都のように観光客でごちゃごちゃしとるわけでもなく、大社さんを中心として、実に落ち着いた魅力たっぷりの、それはそれは良~いところなんじゃよ、フォフォフォ」

「そうなんだ」都は興味津々という顔だ。

「しかもじゃ、出雲の場所は関西や九州、広島など西日本の各大都市方面からそう遠くはなくての、地理的に便利であるだけでなく、後ろは山で前は海、♪海はよ~ぅ、おぅぉぉ、海はよ~ぅ、♪でっかい海はぁよ~ぅ、とな、山の幸、海の幸で溢れている所なんじゃよ、フォフォフォ」小歌も交えての熱弁だ。

「お爺さん、まるで観光大使みたいに説明がお上手なのね」

「そうじゃよ、わしは地元をこよなく愛しておるからのぅ。どこに行こうとも、わしは地元の話をするのは大好きなんじゃよ、フォフォフォ」

 老人は一見、農作物品評会のカボチャような体型で、ただの突起物と思えるくらいの短い腕を目一杯広げたり伸ばしたりして、上半身をフルに動かしての表現である。お互い会ってからまだ二度目でしかない、という雰囲気を全く感じさせないほど和気藹々の会話が続いた後、二人は揃ってお茶をそれぞれ一口啜り一息付いた。

「おぅそうじゃ、それにのお嬢さん、ちと余計な情報かもしれんがの、大社さんは縁結びで全国的に有名なお社なんじゃよ、知っとったかいのぅ?」

 老人は年頃の女の子が、必ずといって良いくらいに興味を示す話を出してきた。そして意味があるのか無いのか、下から窺うような目で都を見た。

「縁結び?縁結びねぇ、フフ、実はわたしそういう話、すんご~く興味あるんです、お爺さん、ぜんぜ~ん余計な情報じゃないですよ、フフフ」

 当然の帰結とでもいうべきか、都はおそらくは老人の思惑通り、夜の巷に店を出す似非占い師に心を見透かされた酔い客のように、釣られたのもしょうがない、という表情で興味を示すとテーブルに両肘を付き顎を載せ、キラキラとした大きな瞳で老人を見詰めた。

「ねぇねぇお爺さん、縁結びの神様って日本全国あっちこっちにあるけどね、出雲の神様って、本当に願い事叶うの?」

 この世の若い女性とはこういうものなのか、宗教心皆無、現世利益丸出しの質問だ。

「フォフォフォ、そうじゃのぅ、本当に叶うかどうかはそれはのぅ、実際にお嬢さんが行ってみて試してみるのが良いじゃろぅなぁ」

「実際に行ってみて、かぁ、でもね、宝くじだってチャンスセンター宝くじ売り場なら、一等が何本も出るっていうから皆が行くわけでしょ。一回も当りの出ていない宝くじ売り場で、よしここで買おう、って誰も思わないじゃない。ねぇそう思わない?」

「宝くじは宝くじ、じゃからのぅ、飽く迄も運は運なんじゃよ、フォフォフォ、そうさなぁ、お嬢さんがそう言いたくなる事は分からんでもないけどの、神様にお祈りするという事はの、本来神様に負担を強いる、という事が本意ではないのじゃよ。これはの、このお祈りという行為を通して我々の心の内を、そして気持ちを一旦神様にお預けする、という事に他ならないのじゃよ、分かるかの?」

「う~ん何か難しいのね、ただお祈りすれば良いってもんじゃないんだ。よく分からないけど、じゃぁお爺さんの言っている事って、神社でお祈りをするっていうのは、当るも八卦の占いや一か八かのギャンブルではなくて、心がどうのこうのだから、結局自分の心、気持ち次第なんだって事、なのかな?」

「まぁ簡単に言うと、そんなところじゃろうなぁ、フォフォフォ」

 都の頭の中では今、縁結びの御利益が有るのか無いのか、ちょっと訊いただけなのに、何で心がどうのって話しになっちゃったの?という思いが頭の中で右往左往している。

 都のような女子大生に限らず世間一般の方々は、日本各地の神社で日々誠に自分勝手なお祈りを、はたまたそこまで言うのか、というような欲張りなお祈りを、これでもかというくらいにしていると思われるが、その殆どが祈願、いわゆる現世利益の祈願であろう。

 どこそこの大学に受かりますように、とか、誰それさんと上手く行きますように、等々、家内安全、大願成就、縁結び、これらが三大祈願とでも言えようか。現世ではそれも当たり前であり間違った行為とは言えまい。しかし神社に参るというのは本来、イザナキの命が黄泉の国から帰った際、身体の穢れを落とすために禊をした事から始まる行為である。

 穢れとは〝気枯れ〟に通じ、気持ちが枯れる事、それを御祓いによって禊ぎ、精気を取り戻し、自分はこれで大丈夫だ元に戻った、という報告を神にする、または宣言をする行為、この行為が本来神社に参る、神に祈る意味である。それが時を経て、各地各様に様々な謂れや伝承を帯び、または偉人を祀り、力を貸して下さい助けて下さいと頼むために祈る、そのように現世の〝御参り・参拝〟へと変化してきたのだろう。もちろん現世利益の権化のような都にとっては、そんな元々の意味など爪の先にも載っていないのは明らかで、都にとって神社とは、歴史的建造物の形をしたチャンスセンターでしかないのだ。

「じゃぁ縁結びの話は一先ず置いて、ねぇお爺さん、昔話しでよく聞く因幡の白ウサギとか大国主命とかって、たしか出雲のお話でしたよね?」

「おぅおぅそうじゃよ、出雲の神話じゃ」皺皺の笑顔が綻んでいる。

「お爺さん実は私ね、日本の神話の世界ってすごく興味あるのよねぇ。一応、日本神話オタクと自称しているんだけど、フフ」

「ほぅそうじゃったか、出雲は神話の宝庫じゃからの、フォフォフォ」

 縁結びの話しと比べて、どちらの興味が勝っているのかは分からないが、都はグラステーブルの上で肘を付き、湯飲み茶碗を無造作に撫でながら、非常に楽しそうに老人に向け満面の笑みを見せている。

「因幡の白兎はサメを騙したら皮を剥がされてしまった、だったかな?それと大国主命って、何した人だっけ?あと、ヤマトタケルの命、だっけ?ハハ、私ね、神話は好きなんだけど具体的にどうの、って言われるとね、あっ、知っているのよ色々と、でもね、なかなかパッと出てこないのよ、ねぇお爺さん、大国主命って何した人でしたっけ?」

「お嬢さん、先ずはの、大国主命は人ではないのじゃよ、神様の名前じゃ、国津神じゃよ」老人、少し真面目な顔で都の言葉を正した。

「あっ!そうか人じゃないよね、ハハ、でも、くにつかみ、って言うの?それって神様の事なの?国をつかむの?」

「フォフォフォ、国はつかまんがの、神様じゃ。国の後に、つ、そして神様のかみじゃ。国の神、国津神じゃ。そもそものぅ、神様には二つの系統があるのじゃよ。一つは今言った国津神。もう一つは天の神、天津神じゃ」「あまつ、かみ?」

「そうじゃ、あまつかみじゃ。ふむふむ、そうじゃのぅ、お嬢さんには基本的なところから話をした方が良いみたいじゃのぅ。それではのぅ、この国の始まりの始まりから話してみるかいのう」

 この話の流れを老人が意図して持っていったかどうかは別として、少なからず老人が望む方向に、都の気持ちを引き付けている事は確かなようだ。老人は崩していた足を身体に引き寄せると、あぐらというより、座禅で行うところの結跏趺坐のような形で足を組み、後ろの壁に寄り掛かかるとゆっくりと話始めた。容貌からいっても、貧乏坊主のお経、といった感じだが、その坊主に合わせ対面に座る都もきちっと膝を揃え、正座の形で座り直すと口元に僅かに笑みを浮かべ、老人の話しに耳を傾けた。

「日本の国の成り立ち、というのは神様の代から始まっておる事、お嬢さん知っておったかいの?まぁ神話が好きという事は、当然知っておるじゃろ、のぅ」

「うん、そ、そうねぇ、じんむ、え~と神武天皇が最初でしたっけ?」

「フォフォフォ、それはの、初代の天皇の名前じゃよ。神様ではないわさ」

「そうかぁ、ハハハ、そうだよね天皇か、じゃあ、えーとぉ」

「お嬢さん、本当に日本神話オタクなのかのぅ、ほれ、伊勢神宮におわすじゃろ」

伊勢神宮の方を意味してなのか、どこかあらぬ方を指さした。

 老人は似非オタクでも関係無いよとばかりに、小学校の授業中の先生さながら笑顔で顔を大きく綻ばせ、ヒントを出すのを楽しんでいるようにも見える。それに対して都は、つい先ほど自分からオタクと名乗った事も忘れ、これもまた試験の時の生徒のように、天井を見たり壁を見たりしながら〝先生〟の出す問題の答えを真面目に探そうとしている。

 そんな都を笑っているのか、はと時計の鳩がポッポーと午後5時の時を知らせた。

「そうよ一応オタクなんだから。ちょっと待ってよ、伊勢神宮の神様よねぇ、知っているわよ!あの神様よね、決まっているじゃない、ハハ」

「答えはのぉ」「あっ、言わないで!今、出そうなの」

「ほれ、あ、じゃよ、あ」「あー、あー、愛宕権現!」

「な、何じゃまた、えらく渋いところを出してきたもんじゃな、フォフォフォ」

「え~違うの~!」「まったく違うのぅ」

 まるで孫に付き合う祖父のやり取りのようだ。老人は壁に寄り掛かったまま両手で湯飲みを持ち、皺皺の笑顔でゆっくりとお茶を啜りながら、会話を楽しんでいる。

「お嬢さん、須佐之男命という名前は、知っておるかの?」

「スサノウ?その名前は知っているわよ。超有名よね、当たり前じゃない、出雲のやまたの大蛇を退治した人、でしょう?なんか、すごく荒くれ者ってイメージだけど」

「フォフォフォ、そうじゃ。そうじゃけど人ではないがの、という事はじゃ」

「スサノウと関係があるのね、あっ、分かった!スサノウと関係があって、あ、だから、アマテラスの神!でっしょう!」

 都、散々答えられなかったくせに、どうだ、といわんばかりに人差し指を立てた。

「う~む、アマテラスの神のぅ、まぁ良しとするかの、正式にはの、天照大御神と言うのじゃよ、お嬢さん」

「ええそうよ、あまてらすおおみかみよ!そうよ、もちろん知ってたわよ、常識じゃないそんなこと、ハハ」笑顔が哀しい。

 日本の神話時代に於いて、須佐之男命を外してそれを語る事はできない。ましてや天照大御神は皇室の祖先とされ、日本の神話時代の話だけに止まらず、日本全国、各地に存在する天照を祀る神社は数知れない。日本の歴史を語る上でもなくてはならない存在だ。自称、日本神話オタク、と名乗る都にとって、これら二つのビッグネームを知る事は、神話界の基本中の基本であると思われるはずだが、彼女にとってはそうでもないのか。

 照れ隠しのつもりなのか都は、落ち着きなく自分の湯飲み茶碗を握ったり離したり、口に持って行き少しだけ啜ったり、また置いたりを繰り返している。

そんな都の行動をやはり愉快そうに見詰めていた老人は、そのくしゃくしゃの笑顔を維持したままゆっくりと、自分の座る横にドサッと置いたままにしてあった麻袋を、自分の脇腹の近くまでズズーっと引き寄せた。そして片手をその麻袋の上に載せポンポンと軽く叩きながら、少し上目遣いに都の目を覗き込むように見た。

「日本の天皇家のご先祖様と言われておるのが、今言った天照大御神じゃ。伊勢神宮の内宮におわすのがその神様なのじゃよ」諭すような眼差しだ。

「伊勢神宮って天照さんがいたんだぁ」こちらは生徒の顔付きだ。

「あ、天照さんのぅ、フォフォフォ、因みにの、伊勢神宮は内宮と外宮という二つの大社があっての、内宮は今言った天照大御神、外宮におわすのが豊受大御神じゃ」

「とよ、うけ」

「そう豊受とはの、要するに豊作の神様の事じゃ。簡単に言うとこれら二つの神はの、天照は世の中を照らす神、豊受は食べ物の神様、という事になるのじゃよ。この二柱の神様がいなければ日本人は生きていく事はできん、という事なのじゃよ」

「そうなんだ、知らなかったなぁ、その二人の神様が日本の国を作ったんだ」

 都は自分でも知らなかったのか、このような話に非常に興味があるようで、目を輝かせながらテーブルに両肘を付いて顎を載せ、次第に身を乗り出してきた。

 考えてみれば、昨日突然やって来るなり自分の家系の事や先祖の事、更には神様の話などをしている素性も知らない謎の老人と、自分の部屋で楽しげに相対しているという、通常であればおかしいと思える状況が、この時都の意識の中では、既に受け入れられたものとなっていた。

「いやいや、天照大御神がこの国を作った始めではないのじゃ。それとな、お嬢さん、付け加えておくがの、神様は一人二人とは数えんのでな。覚えておくと良いのじゃが、柱と書いての、一柱、二柱、と数えるのじゃよ。面白いもんじゃな」

「はしら?そういう風に言うんだ、何で?」

「ん?分からん。昔からそう決まっておる。そういうもんなんじゃよ、フォフォフォ」

「じゃあ、だいこく柱って大国主命の事だったの?」

「ん?何じゃ?だ、だいこく…、それは、部屋の中にある、太っとい柱の事じゃろ。大きい国ではなくて、大きくて黒い柱の事じゃ」

 ここで老人は先ほど身体近くに引き寄せた、その大きなよれよれの麻袋の口を両手で開けると、頭を袋の中に入れるように覗き込んだ。そして何度もごそごそ、ごそごそと、その一つの袋にどれだけの物が入っているのだろうか、何かを探し始めた。暫くして頭を上げると、中から古びた掛け軸のような巻物を一本取り出し、都の前に差し出した。

「フォフォフォ、これじゃこれじゃ。今日はの、お嬢さんにこれを見せたくてやって来たようなもんでの」「何なのそれ?巻物?」

 老人の持つ一見古びた一本の巻物。老人はそれをゴトンとテーブルの上に置くと、都に良く見えるように両手で前方に押し出した。長さは凡そ30cmほど。所々の僅かな色合いから、元は薄い緑色であったと思われる。しかし全体が茶色く変色していて、かなりの年代物という事が一目で分かる。端にやや綻びが見えるが大きく破けている箇所は無く、保存状態はけっして悪くはない。真ん中にくすんだ赤色の紐の帯があり、結び目が見える。

 老人は都にこの巻物を見せる事が余程嬉しいのだろう。クリスマスの朝、子供達が寝ている間に枕元に置かれていたプレゼントを、何かな何かなと紐を解いていく時のように、抑えても抑え切れない僅かな笑みを湛えながら、皺のよった短い指で赤い結び目を解きだした。そして紐が解かれその端だけが広げられた巻物を都の前に置くと、都に向けその皺皺の笑顔をクッと上げゆっくりと説明を始めた。

「お嬢さんこれはの、神の代から続く、そうさなぁ、一種の系統図、とでも言って良い物なんじゃよ」「系統図?」

 老人は言いながらもう一方の手で、巻物の太く巻かれている方をコロコロと転がした。そして都に見えるようにテーブルの端から端までを使い、できるだけ大きくそれを広げた。都は興味津々そのままという顔付きで、広げられ次々に現れてくる文字列を目で追っている。見えているのはまだ巻物のほんの一部だが、広げてみると内側は外側の茶色掛かった古びた色に比べ、綺麗な淡い緑色がしっかりと残り、思ったよりも保存状態が良いのがよく分かる。更に全体に細かな金色の粉を散らしたような装飾と、かなり薄くはなっているが背景に霞のような雲のような景色が、古びた銀箔のような色合いで描かれている。古い巻き物故に少しばかり生地に皺は寄っているが、それはさほど気にならない程度だ。

 この巻物、どの年代の代物なのか、鑑定をすればかなりなお宝にもなりそうな、古さの中に美しさも感じ取れる実に優美な巻物である。強いて言えば国宝の〝平家納経〟のような、歴史的資料としてはもちろん、一見高貴な美術品としての価値もかなりな物、と推してみてもおかしくはない。

 そしてその巻物に書かれている内容はというと、老人が言うように家系図のようだ。都に見えるように右から左へと広げられた巻物の、一番右に原初の日本〝混沌〟があり、そこを始めとして実線が引かれ、最初の神々の名が順に並べて書かれている。

「これはの、要するに家系図なのじゃが、神様の代からの物じゃから〝家系〟とは言えんだろうがの、フォフォフォ」「えーっ、神様に家系図があるの?」

「そうじゃよ、神様の家系図じゃ。じゃから、そうさのぅ、家系図というのではなく、言うなれば〝天系図〟とでも言った方が、良いのかのぅ」

「天系図ねぇ、そういう物があるんだ」

「フォフォフォ、但しの、天系図にも色々あっての」「色々?」

「そうじゃよ、色々あるのじゃよ」「色々って?」

 老人は予期せぬ質問がきたと思ったのか、一瞬間を置いた後、目の前に広げられている巻物に手を伸ばし、書かれている内容に向かってトントンと軽く叩くように指を置いた。

「ほれ、例えばじゃが、家系図や系統図という物は、これは天系図としてじゃが、このように最初は一つだった名前が次々に何本かに別れ、そしてまた別れ、また別れと、段々と枝分かれして行くじゃろぅ」老人はチラっと上目遣いで都を見た。

「うん、分かれるね」都も目の前の〝天系図〟に目をやりコクっと頷いた。

「という事はじゃよ、別れた先々にそれぞれ違う〝家系〟ができ上がっていく事になるのが分かるじゃろうて、のぅ」老人は再度上目遣いで都を見た。

「うん、分かる。つまり枝の部分だよね」

 都も再度コクっと頷き、直系ではなく分かれた傍系の部分を指さした。

「そうじゃ、その通りじゃ」老人、ウンウンと頭を大きく上下させた。

 老人は天系図の中の何本かの系統に、説明のために指を走らせていたのをピタっと止めると、巻物のまだ多くが巻かれている太い方を軽く持ち上げ、その表側を都に見せた。

「ほれ、今回わしが持ってきたのは、お嬢さんだけに見せるために持ってきた物じゃからの、色々ある天系図の中から一つ〝始祖本流ノ図〟という物を持ってきたのじゃよ」

「始祖本流ノ図?何それ?」

 老人が片手に持つその巻物の表側には、じっくりと見ると確かに、これは金色なのかと辛うじて分かるほど薄い色の字で、この巻物の銘が書かれているのが分かる。老人は片手に持つ巻物を少し広げた方をブラリとさせたまま、都の顔近くにグイっと差出して、その銘の部分を分かるように見せた。

「始、祖、ん~、薄くて分かりずらいな」

 都は目を細めて、グッと顔を巻物に近づけた。

「始、祖、本、流、ノ、…図?」

「そう〝始祖本流ノ図〟じゃ。これはの、普段は秘物として滅多に人には見せんのじゃよ」

「秘仏なんだ、よくお寺であるよね、秘仏で未公開、って」

「フォフォフォ、それは、ぶつ、違いじゃ。お嬢さんが言うのは、ぶつ、を仏と書いての秘仏の方じゃよ。わしが言ったのは、ぶつ、が物と書いて秘物じゃ」

 実際のところ、この老人が持ってきたこの年代物の巻物、中に書かれている、老人が言うところの〝天系図〟なる物の真偽のほどは定かではない。都がやっと読む事のできた巻物の表にある銘の一つに〝ノ〟というカタカナが使われている箇所を見ると、少なくとも平安期以降に作成された代物だという事は分かる。しかしながら一応、一般的に知られている歴史書〝古事記〟に登場する神々の名前らしきものは見受けられるようだ。巻物の冒頭〝混沌〟の下直ぐには〝アメノミナカヌシノ神〟〝タカミムスヒノ神〟そして〝カミムスヒノ神〟の三柱の神の名前が記されている。それに続く何代かの神々の後、一般的に知られた名前の神様が登場する。〝イザナキの神〟〝イザナミの神〟である。

 私達日本人が学校教育で学ぶ、日本の原初の記述として最初に持ち出される歴史書は、一つは先に述べた〝古事記〟であり、次に〝日本書紀〟である。これらの史書はどちらも天武天皇時代に編纂された公儀の書物で、現在の日本の国造りの歴史は中国に於ける〝魏志倭人伝〟等と共に、この二編の書物からなるところが大きい。この老人が都に見せている巻物の中に書かれている記述は、見えている範囲では、概ねそれら公儀の歴史書に沿っているようだ。

 老人は片手で持っていた巻物を机の上に置き直すと、広げた方を小さく巻き戻しながら大きな方を更に広げていった。そして都に言葉で説明を加えながら進めた先に、先ほどの有名な二柱の神様の記述の箇所まできた。

「このイザナキと、イザナミ、っていう名前だけど、何となく聞いた事があるかな」

「フォフォフォ、その名前を知らんようじゃ、日本人とは言えんじゃろぅ」

「えっ!そうなの?」都、真面目に驚いた。

 都は開かれた巻物の、イザナキ、イザナミの名前のところに人差し指を押し付けたまま、驚いた顔をして老人の顔を見た。もしこの時、この二柱の神様の名前を全く知らなかったなら、日本人として私は失格だったんだ、と老人の言葉は少しばかり暴力的に聞こえ、少しでも知っていて良かった、という言葉と、でも良く知らない、という残念な言葉を並べて心の中で呟いた。

「それはそうじゃよ。その二柱の神様が、日本の国土と他の神々を造ったのじゃからのぅ」

「そうなんだ、この二人の神様って偉いんだね」

 都が巻物の人差し指をさしている箇所から先、そこにはイザナキ、イザナミが造り出した国土名と、それと共に現れた諸々の神々の名前が並んでいる。都がそれらの神々を余り興味を示さずに、ツツーっと指を滑らせ辿っていく先に、世間一般的に良く知られた有名な神様の名前が登場してきた。そこで、彼女は指をピタッと止め目を見張った。

「ほらっ!出て来たわよ!」大きな笑みでいう。

 日本の神話の中の、ヒーロー・ヒロインという言い方では罰が当るだろうか。しかし、それくらいの中心的な神々と言って良いであろう。イザナギの神が黄泉の国から逃げ帰った後、穢れを祓うため、禊を行った際にできた神々、天照大御神、月読命、須佐之男命の三柱の神々である。既に一度この名を口にしている都は、この三柱の名前は良く知っているというように、老人の方を真っ直ぐに見ながら、天系図を指していた人差し指を上に向けて立て、この時とばかりに自信満々の顔付きで答えた。

「天照さんでしょ、ツキヨミ?これ、誰だっけ?そして、これはスサノオだよね、うん」

「まあまあじゃな、フォフォフォ」

 老人は天系図の一箇所に人差し指を置き、トントンと突いた。

「これはツキヨミ(月読)とは呼ばずにの、ツ、ク、ヨ、ミ、と読むのじゃよ」

「ツクヨミ?これ、ツクヨミって言うんだ、何で?」

「な、何でじゃと?それはの、そういう名前じゃからじゃよ。何でもかんでもないわさ。それとのぅ、天照さんではなくての、アマテラスオオミカミ、じゃぞ、良いかの、これは間違えてもらっては困るからのぅ」

「そうそう、オオミカミ、だよね、オオカミみたいだけど、分かりました」

 老人は更に巻物の一端を転がし〝天系図〟の、更にその先を開いていった。

 歴史書〝古事記〟では、この有名三柱の神登場の後、天照、須佐之男の話しが暫く続く事になる。そこには、須佐之男の暴虐振りと天照の岩屋への神隠れ、須佐之男の出雲でのヤマタノオロチ退治、そして天照を岩屋から引き出す話、と物語としては非常に面白い内容の神話が展開されていく。

 ここで一つ気になるのが、古事記でのこの辺りの項には〝月読〟の名が殆ど登場してこない。これが何を意味するのかは神話学者に任せるとして、ここでは単に日本の国造りの話としては、夜を司る〝月読〟よりは、昼もしくは世の中と言っても良いが、そこでの天照大御神の重要性と、数々の乱暴的な行為を働くが〝ヤマタノオロチ〟退治という、ヒーロー伝説を持ち神話を面白く彩る須佐之男が、話としては大きくクローズアップされる事となった、と解釈するのが妥当なところであろう。

 老人はその辺りの話の流れを、街の子供達に公園で紙芝居を見せながら話しをしているかのように、身振り手振りを交えて時に面白く、時に辛辣に、そして神話的には重要な内容も差し挟みながら事細かく分かり易く、暫くの間都に話して聞かせた。対して聞く方の都はというと、別に飴を欲しがるわけではないが、自称、神話オタク少女というわりには、やはり余り神話自体をよく知っているとは言えなさそうだ。登場する神々も天照、須佐之男でさえ、単に名前を知っているという程度であり、もしここで神話検定でも受けたとすれば、間違いなく落第となるレベルのようだ。



―ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー

 部屋の南側窓の上にある鳩時計の鳩が、出たり入ったりを繰り返した。鳩が言うには午後6時だそうだ。

 時間を気にしていない時には、ありがとう教えてくれて、と何となく可愛く見える鳩の顔も、時間が切迫している際には、本当に煩いわねこいつったらぁ、と鳩の顔も可愛げなく見えてしまう。幸いこの時の都は、もう六時なのね、と優しい気持ちで上から見下ろす鳩と対面できたに違いない。

「あらっ、もう6時?」「お~ぅ、そのようじゃなぁ」

「お爺さん、何か食べる?お腹空いたでしょ」

「いやいや、これは遅くなってしもうた。申し訳ないのぅ、気にしないでおくれ。わしゃぁ、もう、おいとまするでの」

 老人はつい時間を忘れていた、という顔をして、グラステーブルの上に開いてあった巻物をそそくさと、カブトムシの幼虫のような短い指で、思ったより器用に素早くクルクルと巻き戻した。そして脇に置いてあった大きな麻袋の口を開け、中からゴソゴソと何やらまた違う物を取り出した。

 その改めて取り出した物、今度は巻物ではなく古びた一冊の薄い本のようだ。

「お爺さん良いのよ、食べていってよ、私、何か簡単な物直ぐ作るから。自分で言うのもなんだけど、こう見えてもなかなか料理の腕は良いのよ」

 都はそう言いつつ立ち上がると軽く腕を上げ、老人に向けて二の腕をポンポンと叩きながらキッチンに向った。キッチン前でキティちゃんの絵柄のピンクの暖簾を片手で持ち上げ、一度ニコッと老人に笑顔を見せた。この時の都の笑顔は、既に本当の意味での笑顔となっていた。

「いやいや、ほんに気にせんでおくれ。変な爺いが若い娘さんの部屋に遅くまでおるのは、あまり良い事ではないからのぅ、フォフォフォ」

 老人は意外と常識的な事を言いながら、テーブルに両手を掛けて、よっこらしょ、と小さく声を出すとゆっくりと、ナマケモノが違う枝に移る時のように、ビーバーがねぐらの穴から寝ぼけ眼で出て来るように、殆どスローモーション映像といってよいほどにゆっくりと腰を上げた。

「お嬢さん、わしゃぁのぅ、今日は本当はの、今話した内容とは別にもっと重要な事を話すはずじゃったんじゃ。それが、お嬢さんが余りにも楽しそうにわしの話を聞いてくれたもんでの、ついつい話が長くなってしもうて、フォフォフォ、重要な話をできずに時間が過ぎてしもうたわいな」伸ばした腰にトントンと手を当てながら言う。

「そうなの、なんだそれならそうと言ってくれれば良かったのに、だってお爺さんの話、本当に面白かったんだもん」

 都は暖簾と同じキティちゃんの絵柄のエプロンを腰に巻き、これから晩飯を作る意欲満々という意思表示をしながら、片手にしゃもじの姿で老人の前にきた。

「ねぇお爺さん、わたしね、今まで神話大好き少女を自認していたんだけど、本当の事言うとね、お爺さんの話を聞くまで自分自身、日本の神話がこんなに面白いって事全然知らなかったみたい、ハハ」

「フォフォフォ、そうじゃったかい、そりゃぁ良かったのぅ。それは話した甲斐があったというもんじゃ」

 やはりというべきか、神話の内容を知らずに自称オタクを名のっていただけだった。しかし何事も弟子であれ練習生であれ、何かがきっかけで親方や先生の言う事が、フッと分かるようになる事がある。都は正に今その時の顔をしている。

 老人はどこに腰があるのか分からない、その小さく丸い身体をなんとか折り曲げ〝天系図〟の巻物と、先ほど麻袋から取り出した一冊の薄い本をテーブルの上に二つ並べ、腰を曲げた姿のまま都の方に顔を向けた。

「これはの〝出雲国風土記〟の写本じゃ」別に取り出した一冊の方だ。

 言いながらその写本を、都に強調するように左手でポンポンっと軽く叩くと、フゥー、と息を吐きながら腰を伸ばした。

「出雲国風土記?」「そうじゃ、風土記じゃ」

 都はよく見るためエプロンをしたままテーブルの前にひざまずき、顔を写本の上に持っていった。ひざまずいた都の目の前に、信楽焼きの狸と見紛うばかりの、老人のポッコリと丸く大きなお腹が、デーンと存在感を示している。

「お嬢さん、今日わしが話した内容がどこまでだったか分かるかの?」

「多分、分かると思うけど」都、片手で写本を持ち上げ表紙を見ている。

「そうかい、それじゃあのぅ、今日はその巻物と風土記を置いていくのでの、その続きを読んで貰いたいのじゃよ、良いかの」

「ええ良いわよ、これ読むのね。でもこれ、大事な物なんじゃないの?うちなんかに置いていって良い物なの?」

 都は写本をテーブルに戻し、改めて二つ並べて見ている。

「そりゃぁ大事なもんじゃよ。この中に日本の歴史の始まりが記されておるでの、えらく大事なもんなんじゃよ。しかしのぅ、大事なもんじゃからこそ、お嬢さんに読んで貰いたいのじゃよ」老人、小さな目を都に向けた。

 今まで布袋様のような柔和な笑みを湛えていた老人の笑顔が、いつの間にか引き締まった顔となっている。鋭い眼光とまでは言わないが、今はただ真実を話している、と暗に仄めかしている眼差しで都を見詰めている。

「えっ、そうなの?」チラっと老人を見た。

 都は大事な物だからこそ自分に読んで貰いたい、と言われ、多少の違和感を覚えた。

―大事な物だからこそ、って、…何で、私に?

 そういえば、この見ず知らずの老人が突然自分のアパートに尋ねて来て、今まで日本の草創期における神話を、物語のように楽しく聞かされてはいたが、実際のところ何のためにこの老人がここに来たのか分らない。しかもこの老人、都の実家を訪れた後、わざわざここまで尋ねて来たのだ。

―何のため?何故、私のところに?

 もちろん老人はその事を、その大事と思われる事を伝えに来たのだろう。それは先ほど老人が、重要な話をするのを忘れていた、と言った事で分かるのだが、その事と、ついその事を忘れるほど夢中になっていた神話の話と、何らかの関係があったのだろうか。都は頭の中で論理立てる事はできなくとも、漠然と何かを感じていた。

 部屋の空気が一瞬淀んだ。天井に近い空気の、その淀んだと思われる空気のどこなのか、はっきりと見えはしないが揺らぎがあった。色があるとも思えない、形があったのかさえ分らない微妙なその空気の僅かな動きが、丸い体の老人の背に、スーッと降りて来て見えなくなった。老人の背後に隠れたのか、そのままどこかへ消えたのかさえ判然としない。グラステーブルの上の二つの書物を見ていた都は、何も感じてはいない様子だ。

 老人は少しの間都の顔を見詰めていた。ほんの短い時間であったが、それは時間的な感覚としてではなく、〝見詰める〟という行為の意味として見詰めていた。

「実はの、お嬢さん、わしはのぅ、お嬢さんにある事を託しにやってきたのじゃよ」

 老人、この部屋にやって来た時とはまるで違う表情をしている。どことなく目の色合いが違ってきている。

「それとのぅ、わしはお嬢さんに会ってみて、ある事を確信する事ができたわい」

「確信?何?何の事?」都の顔全体が?マークだ。

 都は先ほど覚えた違和感の次に、ここでまたこの老人が自分に対して、ある事を託す、そしてある事を確信した、というほぼ一方的な話をしだした事に、この老人がこの部屋に現れた時点での今まで消え失せていた警戒心が、ムクムクと心の内に再び浮かび上がってきている気がした。そんな都に対して都を見詰める老人の眼差しは、彼が自身で言っていたように確信と安心、そして都は気付いてはいないのだろうが、何故だか慈愛に満ちている。そんな眼差しをしたまま老人は続けた。

「お嬢さん、その事を話すには時間が短じか過ぎたようじゃからの、そうじゃのぅ…」

 老人の周りの空気が揺れている。老人は右手を上げ、軽く自分の頭をポンと叩いた。何かアイデアを出すつもりだったのか、その後、間を置かずに都と視線を合わせた。

「お嬢さん、夏休みはいつかの?」「な、…夏休み?」

 都のまばたきが止まった。話の方向が老人の重要な話しから、突然自分の現実の生活の事に移ったので、頭の中で血液の流れが逆流したように思えた。彼女は止まった瞼に意識を向けて、再度動かした。

「夏休み?夏休みねぇ、突然言われても、えーと、いつからだったかなぁ」

 都が膝まずいている後ろ側の壁に、一幅のカレンダーが貼られている。どこの家にもよくあるような、ガソリンスタンドや何々商店等と宣伝が書かれている、一般的に年末に貰ってくるような物だ。都は上半身を半分後ろ向きに回して、そのカレンダーをチェックした。いや、チェックするように後ろを向いてはいたが、意識はカレンダーを捕らえてはいない。心の中で呟いた。

―このお爺さん、何で夏休みの事を訊くんだろう?

 都の心の中では、既に猜疑心の方が先に立っていた。しかし、老人は続ける。

「今年はのぅ、伊勢の神宮さんは式年遷宮と言っての、二十年に一度、総ての建物の建替えを行うのじゃがぁ」「うん、それ知っているよ、テレビでやっていたから」

「ほ~、よく知っておるの。それでの、出雲の大社さんも、実は今年が御修造遷宮なのじゃよ」老人、言いながら都を見る目を少し大きく開けた。

「遷宮って、お宮を移す事でしょ。出雲大社も同じ事やっているんだ」

 また新たな話の展開に、都は老人側に向き直って頷いた。

「フォフォフォ、正しくはの、出雲の大社さんの遷宮とはの、お伊勢のそれとは違い建物の移動の事ではなくての、建物の中におわす神様の移動、これが本当の意味なんじゃよ」

「そうなの、神様の移動なんだ」

「縁結びで有名な大社さんが新しくなって、今年また新たな力を得たのじゃよ〝縁結び〟としての力がの、ホッホッホッ、どうじゃ、気にならんかの」

 老人のこの言い回し、明らかに何か思惑のある言い方だ。しかしながら〝縁結び〟この言葉に都は弱い。非常に弱い。というか世の女性陣はこの言葉には大抵は弱いだろう。そこにどんな思惑が潜んでいようとも、都の心の中では猜疑心など既にどこ吹く風だ。どこかへ流れて行ってしまった。都の目がキラリと光った。

「お爺さ~ん、夏休み、大社さん、縁結び、とキーワードを並べて、フフ、それってもしかして、私を出雲に誘っている、って事なの?」

「ん?いや、別にの、そんなわけで言ったのではないのじゃが、そう聞こえたのなら、そのように取って貰っても良いんじゃがの、フォフォフォ」

 かなりわざとらしいが、都も分かりながらその話に乗った、というところか。

「う~んお爺さん、あのね、私、今の気持ちではすごく行きたいの、出雲に」

「ほぅ、そうかの、それは良い事じゃ」ウンウンと頭を上下させている。

「さっきのお爺さんの話を聞いていたら、出雲の世界を見てみたいなぁ、ってさっき思っていたのよ、実はね」

 都は猜疑心どころか、かなり積極的に出雲の話に惹かれていたようだ。

「でもね、今すぐ結論は出せないのよ、行きたいんだけど、だってね、アルバイトのシフトの事もあるでしょ、それに私あまり頭良くないからさ、ハハ、補習の予定もあるのよ、悲しいけれどね」かなり現実的な話だ。

 老人は都の言葉を聞き、笑顔で開いていた口をすぼめ、声のトーンを落とした。

「お嬢さん、正直に言うとの、確かにわしは最初からお嬢さんには、一度出雲まで来て貰いたいと思い、それでわざわざここまで会いに来たのじゃよ」

 老人、明らかに目の色が違っている。実はこの目をしている時が、この老人の本当の姿なのかもしれない。達磨のように丸い体のため、立って話しているとは思えない姿の老人なのだが、心なしか纏う空気が揺らいでいる。

「しかしの、来るか来ないか、それはあくまでお嬢さんの気持ち次第なのじゃよ」

 老人、一度息をフーっと吐くと、一拍空けて更に続ける。

「わしは先ほど言ったようにの、大事な事をまだお嬢さんに話しておらんのじゃが、その話は、そうさなぁ、出雲で聞いて貰いたいと思うての」「出雲で?」

「そうじゃよ、出雲でじゃ。出雲でお嬢さんにその話をする事に、本当の意味があると思うてのぅ」

 老人は話をしながらやや後ろを向くと、床に置いてある大きな麻袋を片手でグッと引き上げ肩に背負った。何が入っているのかガサゴソと音は聞こえるが、この丸い小さな老人が片手で担ぐとなれば、さほどに重くはなさそうだ。

「さてと、そろそろおいとましようかのぅ」

 老人は肩に麻袋を背負ったまま玄関に向かい歩を進めるが、一歩二歩、三歩目で足を止めた。そして身体はそのままで、梟のように首の無い頭だけを回転させ都の方を向いた。

「ところでお嬢さんは、彼氏はおるのかの、フォフォフォ」

 この間、都は何を言うとはなしに、ただ老人の動きをトーキー映画を見るように、目だけを動かし眺めていた。そこへまた老人が突然出雲の話から転じて、都を現実世界に呼び戻す言葉を並べた。

「えっ、彼氏、いるかって?」都、目が鳩の目だ。

―何で、突然そんなプライベートな事、訊くのよ!

「もし幸いにも独り身ならばの、ほれ、言うたじゃろ、大社さんは新しい力を得たばかりじゃと、のぅ、フォフォフォ」

―幸いにも独り身ぃ! 悪かったわね独り身で!どうせ独り身ですよ、どこが幸いだって言うのよ!私にとっては不幸その物なんだから、フンっだ!

 都は目付きで多少の怒りを表したが、老人は彼女の憤慨している事などまるで気にも留めず、更に続けた。

「もしお嬢さんがの、夏休みに出雲に来る事があるようなら、その時はここに連絡をおくれでないかい」体の向きを都へと向けた。

 老人は一片のチラシを切り取ったような紙切れを、よれよれの上着のポケットから取り出すと、グラステーブルの上にヒラヒラと落とした。一見、手書きの地図のようだ。出雲の地図だろうか。フンっとしていた都が膝まずいたまま、その地図らしき紙を手にした。

「神々の、図?これって出雲の地図なの?」

「まぁそうじゃなぁ、出雲の地図といえばそうなのじゃが、それは出雲の神々のおわす、各社殿のある場所を示した図なのじゃよ」短い指で指し示した。

「出雲って神社が多いのねぇ」

 確かに、この単一の地方に存在する神社の数としては、ここ出雲は〝神々の里〟と銘を打つだけの事はある。その数は多い。都はその書き込まれている、何箇所かの鳥居のマークを目で追ってみた。

「大神山神社、美保神社、佐太神社、あっ出雲大社、ん?熊野大社?これって世界遺産になった、あの?」視線を上げた。

「フォフォフォ、それは和歌山県の熊野三山の事じゃろ。そことは違うのじゃよ。まぁ余談じゃがの、その有名な世界遺産の熊野三山はの、実はこの出雲の幾らかの住民が紀州に移住した際に、この出雲の熊野大社の神様を、分派として御連れしたのだという話じゃよ、言い伝えに因れば、じゃがのぅ」

「えーっ本当に?それじゃあ、あの世界遺産の御本家は出雲っていう事になるんだね、信じらんな~い!」都、地図を両手で持ち上げ驚いている。

「フォフォフォ、信じらんな~いと言ってもの、そうなのじゃよ」

 そこは神々の時代の話、老人の話がどこまで真実なのかは定かではない。しかしながら熊野三山の話はさて置くとしても、ここ出雲には神話起源の神社が多いのは確かだ。

 例えば神話界のヒーロー、スサノウが起源の社は多い。今都が持つ神社の地図に載る〝八重垣神社〟の名は、スサノウの詠んだ我が国最初の和歌と言われる〝八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに…〟に出てくる〝八重垣〟からきている。そして〝須佐神社〟はもうその物、考える必要が無い。須佐之男からきている。いや、話としては逆らしいが、須佐、の男、なので、須佐之男、と名付けられた。真偽がどちらにあるにせよ、スサノウと関係がある事には変わりがない。更に〝須賀神社〟はスサノウがここを訪れた際に、何と清清しい、と言った事でのネーミングらしい。単純だといえば失礼だろうか。

「それでじゃ、お嬢さん、わしはの、その地図の中に示されている各神社のいずれかに、いつも場所を替えて訪れておるのじゃよ」

「それじゃあ、どこにいるのか分からないじゃない!」

「じゃからの、ほれ、そこに連絡して貰えれば良いようになっとる」

 老人は芋虫のような人差し指を目一杯伸ばし、その地図の一端を示した。そこには手書きで書かれた電話番号のような数字の羅列が、辛うじて見て取れる。途切れ途切れに書かれているので、パッと見では地図の図柄の一つと間違えそうだ。

「これって電話番号だったんだ」その数字に目を留めた。

 都は別に目は悪い方ではなかったが、余りに独創的な数字の羅列に気付かなかったようだ。地図に目をわざと近付かせ苦笑いだ。

「フォフォフォ、そうじゃの、ちと分かりずらかったかのぅ。まぁ、それはともかく、そこに連絡をしてくれればの、わしと連絡が付く事になっておるのでのぅ」

「お爺さんメルアド無いの?LINEは?電話よりメールやLINEの方が連絡しやすいと思うんだけど」

「ん?める、める、あと、ラ、ライン?…な、何の事じゃ?」

「お爺さんメールやLINEの事、知らないの?あなた、現代人?」

 老人はとりあえず自分の知らない事は無視をして、話を出雲の事に戻した。

「それでの、もしお嬢さんが来た時は、わしの考えではのぉ」

「あのぅ、でもねぇ~」都は老人の話に割り込み、少しばかり暗い表情を見せた。

 老人は、都が既に出雲に行く事を前提に話を進めているようで、都は少々戸惑っている。

「私まだ、出雲に行けるかどうか分からないわよ。それに一人で旅行するのもなんだしね」意味ありげに、斜め上に視線を上げた。

「ん?そうかの、一人で淋しいのなら、友達と一緒に来てくれても構わんのじゃよ。夏の出雲は良い所じゃぞぉ。山海の食べ物は美味いし、自然は豊富で心は癒されるしの。別に何日滞在して貰っても良いぞ。わしがどこへでも案内するしの、フォフォフォ」

「う~ん、お爺さんに案内されてもなぁ」

 都のまだ浮かぬ表情を見て老人は少々困惑した。夏休み、自然を満喫、山海の珍味、これだけ魅力的なスタッフが揃っているのに、何を迷う必要があるのか、老人の考えとしてはそうなのだろう。しかし都は頭を縦に振らない。老人は上目遣いになって、う~んと唸っている都を黙って見た。そしてこの重苦しい雰囲気をここで一気に打開しなければならないと感じたのか、決定的な一言を発する。

「うむ、それではの、お嬢さん宿代は気にせんで良いわさ、わしが何とかするでの。お嬢さんと友達は出雲に来てさえくれれば、それで良いのじゃ、フォフォフォ、これでどうじゃね、ん?」老人、都を見る視線を強めた。

 老人は都会で働く営業マンの如く、新製品が出ましたよ、割引致しますのでどうでしょうか、と言っているようなものだ。都の顔色をそのまま上目遣いで伺うと、都もそこはそれ、元々かなり現金な性格の持ち主である。こちらも都会で暮らす主婦の如く、セールスマンに新製品を格安で提供された時のように、安くなると聞いた途端、この場合、宿代が要らなくなると聞いた途端に顔色が変わった。

「えっ、ホテル代持ってくれるの!本当?友達の分も!本当に!やったぁ!」

「ん?ホ、ホテル代とはわしは言うておらんがの」

「そう、ホテル代が要らないなら、そうねぇ、考えても良いわね、フフフ」

 都は老人の言葉が既に耳に入っていない。自分で勝手に想像を膨らましている。

「但し遊び代は自分で持っておくれでないかい。わしもそこまでの余裕は無いでの」

「お爺さんそんなの当たり前じゃない。私だってもう大人よ。そんなにずうずうしくないわよ、ハハ、でもね、夕食は付いていて欲しいかな」

 宿泊代、この言葉で話が一気に進んだ。老人としては〝大事な話〟を都に伝えるために軽く付け足した言葉が、こんなにインパクトがあるとは思いもしなかったのだろう。その後の都の態度の変化に、今度は老人が戸惑いを隠せないでいる。既においとまする体勢でいた姿のまま、暫くの間旅行代理店のスタッフと化している老人は、神社のチラシを持ちながら目を輝かす都の質問攻めにあっていた。

「じゃあね、宍道湖の、ここには何があるの?ねぇねぇお爺さん、聞いてる?」

「ん、おぅおぅ、そ、そこはの、宍道湖七珍を食べる事ができるところじゃよ」

「宍道湖しっちん?何、それ?」

「それはの、…ところでお嬢さん、わしはそろそろおいとませねばのぅ」

 老人、わざと顔を大きく鳩時計の方に向けた。老人の視線に歩調を合わすかのように鳩時計の鳩が、ポッポー、と六時半の時刻を一回だけ出てきて知らせた。

「あっそうね、そうだったわね、お爺さん帰ろうとしていたんだわね、ハハ、忘れていたわ」都も言いながら膝を立てた。

「それではの、現地の詳しい事やら何やらはの、向こうで来てくれた時に充分説明するでのぅ。とにかく、来る日が決まったら連絡をおくれでないかい。首を長くして待っておるでの、フォフォフォ」

 首を長くして、殆ど首があるのかどうか分からない老人が言う言葉に、かなり違和感が漂うが、その老人がおいとますると言って立ち上がり、ようやく玄関ドアから出て行った。

それから凡そ十分は経っただろうか、都の部屋に静寂が訪れた。玄関と居間を区切る暖簾のキティちゃんが笑っているようにも見える。部屋からあの丸い身体が姿を消した。

 都としては昨日の段階では、話しも聞かず直ぐに帰って貰うつもりだった。都自身、新聞の勧誘などの撃退で慣れている事もあり、追い返す事には自信があった。ところが、実際は昨日の段階で話を長々と聞いてしまい、あろう事か二日目に再訪問まで許してしまったのだ。

―何で、こういう話しになってしまったの?

 あの丸い体の老人がいなくなった自分の部屋で、殆ど手書きのような出雲の地図なのか落書きなのか、良く分からない紙片を手にしながら、都はグラステーブル前に一人座り、ふとそう思っていた。理由は、幾らかは思い当たる。

 一つは、自称オタクかどうかは別として、自分の好きな分野であった神話の世界の話が出た事。次に、あの老人が話好きでなかなか人懐っこい性格であった事。そして三つ目が、まだ都にとっては未知の世界である出雲の話が色々出た事。この三つ目が一番大きい理由なのかもしれない。しかし既に老人がこの部屋にやってきて、二日を掛けて話しをし、そしてたった今帰った事実を考えると、今更、何故そうなったの?と問い質しても、あまり意味の無い事は明白であった。それよりも何よりも、今現在、都の頭の中ではまだ見ぬ出雲の景色や場面が、様々な色彩を伴い左脳からなのか右脳からなのか、次々と想像され現れては消えていっている、その事実こそが重要なのだ。

―宿代は気にせんでよいぞ、だって、フフフ

 一人で笑っている。箸が転んでも笑う年頃ではないだろう。とにかく、自分の得になる事に関しては特に反応したようだ。一番の理由は、やはりそこなのかもしれない。

―友達も連れてきて構わんぞ

 ここで言う〝友達〟は、もちろん美奈美を想定している。これは確認の必要は無いだろう。案の定、都は今スマホを手にしている。相手は言うまでもなく〝友達〟である。



 白い海に島々が点々としている。あの島この島から笑い声やひそひそ声が聞こえてくる。

 第二学食の配膳カウンターの上、白い壁に大きくて丸い白い時計が、ステッカーのように貼り付いている。針がゴトっと一回動き、二時ちょうどを指した。

「ねぇ、どう、どう?どう思う?良い話だと思わない、ねぇ、美奈美!」

 都ははちきれんばかりの笑顔で、親友の美奈美に迫っている。内容はもちろん、昨日の老人の話から始まった出雲行きについてだ。

 今日は美奈美のバイト出勤遅い日。二人は並んで白い海の一つの島となり、既にランチを食べ終え例の話しをしているようだ。都の必死の説明に対して美奈美はというと、いつものように無表情で、身振り手振りでの都の熱心な旅行の勧誘をハラリハラリと、何の興味も示さず受け流しているようにも見える。

「ん?どうって?」美奈美、いつも通りの無表情。

「ん?って、どうって?って、えーっ!何にも感じないのぉ!ねぇー美奈美ったらぁ、良い話じゃない、ホテル代ただなんだよぉ!」都、唾を飛ばしながら必死だ。

 それに〝ホテル代〟とは、あの老人は言っていなかったはずだが。

「それに出雲って、何かロマン感じるじゃない、でっしょう。神話の里って言われているし、それに何だっけ、あの宍道湖のしちちんだか何だかちんだかよく分かんないけど、美味しい物もたくさんあるみたいだしさぁ!」

「都、あなたね、別にどこでも良いんでしょ、旅行ができれば。出雲がどうとかじゃなくて、七珍がどうとかでなくて、ホテル代が〝ただ〟というところに乗った、だけなんでしょ」美奈美の無駄の無い指摘、核心を突く指摘、余計な事は言わない。

「ピンポーン!当ったり!っもう美奈美、良いじゃないそれで、だって〝ただ〟なんだよぉ、た~だ。ねぇ美奈美、自然の豊かな場所で温泉入って美味しい物食べて、そしてそして、縁結びをして貰う。ねぇ、こんなに良い事無いでしょう!」

〝温泉〟という言葉も無かったはずだが、何故か少しずつ話が膨らんできている。無駄の無い美奈美の指摘に対して、相変わらず話のひだを付けまくりの都だが、この時、美奈美の眉がピクっと動いた。美奈美が突然片手を都に向けて挙げ、人差し指を都の顔に一直線に差したまま止まっている。

「都、あなた今、最後に何て言った。も~う一度言ってごらん、最後のところ」

「ん?最後?え~とね、こんなに良い事ないでしょう、だったっけ?」

「違う!その前!」「えー何て言ったっけ~、縁結びを…」

「それ!それそれそれ!それよぉ、みやこ!それそれぇー!」

 美奈美はその言葉であると断定するため、都に向けていた人差し指を何度も振った。振られた方の都は目をパッチリと開け、あぁそこね、という顔付きだ。

「で、縁結びがどうしたって、さぁ言ってごらん!」

 美奈美の弾ける声が第二学食中に響き渡り、他の島々から、どうしたの?何があったの?と言葉にならぬ何本もの視線が、真顔で吼える美奈美に向けて突き刺さっていた。

 この第二学食は、漠然とした表現だが結構広い。そしてこの時間帯はランチの学生が引けて午後の授業が始まっているため、白いテーブルの海に、あちらに少しこちらに少しと、まばらにしか島を作る学生はいない。その中で、いつも冷静な美奈美が珍しく興奮した声を出し、隣の島どころか海全体にその声が響き渡っていた。

「美奈美、フフフ、実に良い反応を示してくれたわね、そうこなくっちゃ!」

 美奈美は都の出雲旅行の話に殆ど興味無い、という顔で話を聞いていたのに、何故か都のこの一言〝縁結び〟に強い反応を示した。もちろん、此の世の女性その殆どが、この魔法の言葉に吸い寄せられる事しばしばだろうが、美奈美の極端な反応はまさに彼女の現状を物語っている。

「そりゃあ私だって女の端くれよ。女だったら誰だって〝え、ん、む、す、び〟この言葉に心ときめかすでしょうよ、ねっ、違う?」

「そ~うよ、その通りだわ、美奈美の言う通りだわ!」都、身体を乗り出した。

「でしょう!それによ、私達みたいに悲しい独り身の乙女にとっては、まだ見ぬ幸せな未来を切り開く、大事な大事な言葉なのよ!ねぇ、そうじゃない!」

「そうだわ、その通りよ美奈美!貴方の言う通りだわ!」都、拳を握って言う。

「私達夢見る乙女に、希望と勇気を与えてくれるのがこの言葉〝縁結び〟なのよ!ねぇ、そうじゃなくってぇ!」美奈美も胸を張って主張している。

「そうよ!美奈美の言う通りよ!その夢への架け橋〝縁結び〟の大神様が、出雲大社なのよ!美奈美、行くわよね、出雲に!」この異様な雰囲気は何なのだろうか。

 美奈美は何故か、斜め上のあらぬ方向を見ながら声を荒げている。それに対して都のこの態度は、明らかに都会の営業マンのそれである。美奈美の放つ言葉にイチイチ大きく顔を上下させ、いかにも気分を煽るように美奈美の言葉にテンポを合わせ、ひたすら肯定的な姿勢を見せる。そしてその誘導していく道筋はというと、結局は出雲への旅行へと話を持っていくつもりだ。実に社会人としての将来性充分。どこぞのビジネスマン養成研修会へのお呼びが掛かりそうなくらいだ。

 ところで、二人が力を込めて叫んでいるこの言葉〝縁結び〟、出雲大社が何故、この魔法の言葉のエキスパートな社となったのか。それは神話界のスーパースターともいえる大神、大国主命の愛の遍歴から作られた結びの神話なのである。

 大国主命は元々出雲の土着の国津神であった。それが大和朝廷の勢力範囲が次第に及びだし、朝廷が大王(天皇)の起源を作る際、地方統治の話として出雲をその支配下に入れるため、天津神に国譲りをさせたとした。そしてその代わりに大きな社を建ててもらったというのが、出雲大社の社殿の起源である。そして何故縁結びの神となったのか。

 因幡の白ウサギ伝説を始め、それまで、八十神からの嫌がらせや義理の父スサノウからの試練等、困難な状況に何度も置かれた大国主命が、その都度、正妻である八上比売、スサノウの娘の須勢理毘売、母親である刺国若比売など、その他多くの女神との〝結びの縁〟に助けられ、神話界に確固たる存在感を示すまでに至った。

この大神に因み、現在に至るまで主祭神とする大社さんは〝縁結びの社〟として有名となったのである。

 神の話はさて置き、この後の話としては都の〝営業〟の甲斐もあり、この夏休みは二人で出雲行きの旅行をするという事で話が付いた。二人は各々抱いたキーワード、都のそれは〝ホテル代ただ〟美奈美は〝縁結び〟、それらを各自の胸に秘め未知なる世界、神話の里へと期待を膨らませる事となるのだろう。

 ただここで、突然都の前に現われたあの老人の存在を忘れているのか、何故都の家に、何の思惑があって現れたのだろうか、という元々の意味を二人は考えていないのか、二人にとってそんな事は既に頭の片隅にも無い様子だ。


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