第9話 楽園を作る泥水工場
# 第9話 楽園を作る泥水工場
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検問所で通行証を見せ、巨大な壁を通り抜けた。
企業都市連合の外――かつて地獄と呼ばれた場所に、俺は立っていた。
だが、目の前に広がるのは、想像とは違う光景だった。
整然と並ぶ石造りの家々。舗装された道路。そして、白い鎧を着た騎士たちが巡回する、平和な街並み。
「......これが不可触民の街か」
俺は煙草に火をつけた。
確かに、壁の内側に比べれば文明は遅れている。電気の代わりに魔法灯、車の代わりに馬車。まるで中世にタイムスリップしたようだ。
だが、人々の顔は明るい。
子供たちが笑いながら学校へ向かい、市場では商人たちが活気よく商売をしている。道端にゴミは落ちていないし、物乞いの姿もない。
壁の中と外、どっちが流刑地か分かったものじゃない。
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「おい、そこの兄ちゃん!」
振り返ると、小綺麗な服を着た老人が立っていた。清潔に整えられた白髪、穏やかな表情。とても不可触民には見えない。
「企業の人間か?」
「清掃員だ」
俺は薄汚れた作業着を指差した。
「そうか、珍しいな」
老人は優しく微笑んだ。
「騎士団がやってきてから、この街も随分変わったよ」
「良くなったのか?」
「ああ、見違えるようだ」
老人は街を見渡した。
「医者が来て、病気が治った。学校ができて、子供たちが文字を覚えた。騎士様たちが治安を守ってくれて、夜も安心して眠れる」
確かに、街は平和そのものだった。
「それに、あの青い水のおかげでな」
ベップシか。
「皆がベップシを飲み始めてから、みるみる大人しくなった。喧嘩も減ったし、盗みもなくなった」
老人は胸に下げた聖印を撫でた。
「犯罪の数が減って、教会で祈る時間が増えた。神様に感謝することを覚えたんだ」
「......そうか」
「君も飲むといい。心が穏やかになるぞ」
老人は青い缶を差し出した。だが、その手は微かに震えている。
「遠慮しておく」
「そうか、勿体ない」
老人は缶を一気に飲み干した。震えが止まり、表情が緩む。
「ああ......落ち着く」
その顔は、確かに幸せそうだった。
薬物中毒者の、偽りの幸福に満ちていた。
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騎士団が不可触民の街を「救済」したのは5年前だという。
まず野良アノマリーを討伐し、安全な居住区を確保。次に医療施設と学校を建設し、無償で市民にサービスを提供。そして工場を建てて、雇用を創出した。
武器、食料、衣服。そして――ベップシ。
特にベップシ工場は、この街の誇りだという。騎士団領全土に「幸福」を届ける、聖なる飲み物の生産拠点。
「検問所はあっちだ」
道行く商人が親切に教えてくれた。皆、よそ者にも優しい。ベップシのおかげだろう。
「企業の商人も、騎士団の商人も、みんなあそこを通る」
表向きは企業都市連合と騎士団は冷戦状態らしいが、この街を経由して貿易している。
自分の利益しか考えてない奴らには、戦争なんて知ったことじゃないか。
いや、違うな。
戦争なんてしたら、ベップシの輸出入が止まる。騎士団は精神安定剤を失い、企業は貴重な貿易品を失う。
この偽りの平和こそが、両者にとって最も都合がいい。
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ベップシ工場は、街の中心部にあった。
真っ白に塗られた美しい建物。手入れの行き届いた庭園。正門には騎士団の紋章が誇らしげに掲げられ、「皆に幸福を」という標語が刻まれている。
俺は裏の業務用入り口へ回った。
「止まれ」
若い警備員が丁寧に声をかけた。騎士団の下級兵士。礼儀正しく、清潔感がある。
「清掃員だ」
俺は偽造した通行証を見せた。マロンが用意してくれた、騎士団公認の書類。
「清掃ですか。今日は予定表にありませんが」
「急な依頼でな。配管の詰まりだとよ」
警備員は申し訳なさそうに首を傾げた。
「確認を取らせていただけますか? 規則なので」
丁寧で、真面目。ベップシが効いている証拠だ。
「......構わんが、急ぎの仕事なんだ」
「すみません、すぐに済みます」
警備員が内線で確認を取る。数分後、笑顔で戻ってきた。
「お待たせしました。どうぞお入りください」
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工場内部は、病院のように清潔だった。
白い壁、白い床、白い天井。そして、甘いフルーティーな香りが充満している。まるで楽園の香りだが、俺には吐き気しか催さない。
白衣の技術者たちが、穏やかな笑顔で働いている。誰も急いでいない。誰も怒っていない。まるで、全員が同じ夢を見ているかのようだ。
「あら、新しい方?」
振り返ると、優しそうな中年女性が立っていた。血色の良い顔に、幸せそうな笑み。
「清掃員です」
「まあ、ご苦労様です」
女は丁寧にお辞儀をした。
「配管の件でしたら、こちらへどうぞ」
女は俺を連れて、工場の奥へと案内した。
「ここは第三精製室。ベップシの最終工程、聖別の儀式を行っています」
巨大なタンクが並ぶ部屋。中央には、神々しく青白く光る水槽があった。
「美しいでしょう?」
女は恍惚とした表情で水槽を見つめた。
「騎士団長チココ様の聖なる魔力が込められた聖水です。これを混ぜることで、ベップシは人々に幸福をもたらす飲み物になるんです」
聖水、か。
魔法の支配装置と言った方が正確だろう。
「毎日、騎士団領から新鮮な聖水が運ばれてきます」
女は誇らしげに続けた。
「でも最近、悪い人たちが輸送を妨害するんです」
「悪い人?」
「企業のスパイです。この幸福を独占しようとしているんでしょう」
女の目は、狂信者のそれだった。
「ところで」
急に女の表情が曇った。
「あなた......ベップシの匂いがしませんね」
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その瞬間、警報が鳴り響いた。
赤いランプが点滅し、騎士たちが走り回る。
「侵入者だ! 第二工場で爆発!」
「テロか!?」
混乱に乗じて、俺は女性技術者から離れた。
第二工場か。俺じゃない別の侵入者がいる。恐らく、それが企業のスパイだろう。
「完全偽装」
監視カメラを欺きながら、俺は聖水タンクへと近づいた。
近くで見ると、その異常さがよく分かる。
水の中に、無数の光の粒子が漂っている。チココの魔力の結晶。これを飲めば、確かに体は癒されるだろう。だが――
「精神も支配される」
俺は呟いた。
マロンから聞いた通りだ。ベップシは回復魔法の飲料化。だが同時に、飲んだ者の思考を徐々に騎士団に従順にしていく。
「ホークス、だったな」
背後から声がした。
振り返ると、黒いローブの男が立っていた。顔は隠れているが、纏う魔力は尋常じゃない。レベル90は超えている。
「誰だ?」
「企業都市連合、特殊諜報部のエージェント・ゼロ」
男はローブを脱ぎ捨てた。
筋骨隆々とした体。全身に刻まれた魔法陣。そして、腰に下げた特異点技術製の双剣。
「お前も工場を破壊しに来たのか?」
「いや」
俺は首を振った。
「スパイを排除しに来た。つまり、お前をな」
ゼロが嗤った。
「下級清掃員が、俺に勝てると?」
「さあな」
俺は懐から、アンチマター味のヌカヌカコーラを取り出した。
プシュッ。
黒い液体を一気に飲み干す。反物質の刺激が、全身を駆け巡った。
「始めようか、掃除を」
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ゼロの双剣が、紫電を纏って振るわれた。
俺は横っ飛びに回避する。床が切り裂かれ、聖水タンクに亀裂が走った。
「おいおい」
俺は舌打ちした。
「工場を壊すなよ。俺が怒られる」
「知るか!」
ゼロが魔法を詠唱する。
「『特異点解放・重力崩壊』!」
空間が歪み、凄まじい重力場が発生した。床が陥没し、天井が軋む。
「くそ......」
俺も完全偽装を解除し、本来の力を解放した。
「汚染領域展開」
紫の霧が広がり、ゼロの重力場と衝突する。二つの力場がせめぎ合い、工場全体が震動した。
「レベル88......いや、もっと上か!?」
ゼロが驚愕する。
「まさか、騎士団にこんな手駒が......」
「勘違いするな」
俺は対物ライフルを構えた。
「俺は騎士団の犬じゃない。ただの掃除屋だ」
引き金を引く。弾丸は正確にゼロの肩を撃ち抜いた。
「がっ......」
だが、ゼロは倒れない。特異点技術で強化された肉体は、常人の限界を超えている。
「面白い......もっと本気を出せ!」
双剣が高速で振るわれる。俺は紙一重で回避を続けた。
その時――
ガシャン!
聖水タンクが完全に破壊され、青い液体が床に溢れ出した。
「しまった......」
大量の聖水が、俺たちの足元に広がる。
ゼロが嗤った。
「これで騎士団の犬どもも困るだろう。ベップシ無しじゃ、正気を保てない」
「だから違うと言ってるだろう」
俺は最後の手段を使うことにした。
懐から、特別な弾丸を取り出す。マロンから貰った、濃縮CEV弾。
「これで終わりだ」
狙いを定め、引き金を引いた。
弾丸は正確にゼロの胸を貫いた。
「な、何だこれは......体が......」
ゼロの肉体が変化し始める。筋肉が異常に膨張し、骨格が歪み、人の形を失っていく。
「があああああ!」
3秒後、そこにいたのは元企業エージェントではなく、醜悪なアノマリーだった。
「自我を保てるのは、せいぜい30秒だ」
俺は煙草に火をつけた。
「その間に、言い残すことはあるか?」
アノマリーと化したゼロが、必死に言葉を紡ぐ。
「こ......ろ......せ......」
「ああ」
俺は頷いた。
「存在抹消」
アノマリーが内側から崩壊し、塵となって消えた。
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工場の外に出ると、騎士団の兵士たちが集まっていた。
「お前は......清掃員か?」
隊長らしき男が近づいてくる。
「ああ。スパイは片付けた」
「聖水タンクは?」
「......壊れた」
隊長の顔が青ざめた。
「なんてことだ......あれがないと、市民たちが......」
「1日や2日なら大丈夫だろう」
俺は肩をすくめた。
「それより、セキュリティを見直した方がいい。簡単に侵入されすぎだ」
隊長は複雑な表情で頷いた。
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帰り道、俺は「幸福な」街を歩いていた。
夕暮れ時。人々が整然と家路につく。誰も急がない。誰も怒鳴らない。
広場では、人々が輪になって祈りを捧げていた。皆、同じ笑顔。同じ声のトーン。同じリズムで聖歌を歌う。
ふと、青い缶を持った子供が目に入った。ベップシを美味しそうに飲んでいる。その隣で、母親も同じように飲んでいた。
「ママ、今日も良い子でいられたよ」
「えらいわね。神様もきっと喜んでいるわ」
親子は同じ笑顔を浮かべていた。
幸せそうで、平和で、そして――死んでいた。
魂が死んでいた。
「......」
俺は何も言わず、通り過ぎた。
騎士団の支配も、企業の支配も、結局は同じだ。
人々を生かさず殺さず、都合よく管理する。
違いは、使う道具が放射能か魔法か、それだけだ。
いや、騎士団の方がタチが悪い。
企業は少なくとも「これは毒だ」と分かる。
騎士団は「これは薬だ」と嘘をつく。
ポケットの中で、ヌカヌカコーラの缶がカラカラと音を立てる。
俺は自分の毒を選んだ。
他人の選択に、口を出す資格はない。
たとえそれが、偽りの幸福だとしても。
壁が見えてきた。
50メートルの巨大な壁。
俺はもう一度振り返り、騎士団の「理想都市」を見た。
清潔で、秩序があり、皆が幸せそうだ。
だが、それは生きているとは言えない。
「......どっちが地獄か、本当に分からないな」
煙草を踏み消し、俺は壁の向こうへと戻っていった。
企業都市連合という名の、少なくとも正直な地獄へ。