第8話 ヌカヌカコーラとベップシ
# 第8話 ヌカヌカコーラとベップシ
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ホテル・ミラージュのVIPルームに入った瞬間、俺は足を止めた。
マロンがソファーに座り、見慣れない青い缶を傾けている。銀色のラベルに、流れるような文字で『Bepsi』と書かれていた。
「おかえり、ホークス!」
マロンは缶を掲げて俺を迎えた。
「データは無事に手に入った?」
俺は返事をせず、その缶を凝視した。青と銀のグラデーション。爽やかそうなデザイン。そして何より、放射能警告マークがない。
「......何を飲んでるんだ」
「ベップシだよ! 騎士団が作ってる炭酸飲料」
マロンは嬉しそうに缶を振った。
「甘さ控えめでフルーティーな味わい。ビタミンも入ってて健康的なんだ」
「泥水か」
俺は吐き捨てるように言った。
「は?」
「それは泥水だ。炭酸飲料の名を騙る、ただの泥水」
マロンの表情が固まった。パティとメイドのアノマリーも、微妙な空気を感じ取ったのか、少し距離を取る。
「いや、美味しいよ? 飲んでみる?」
「遠慮する」
俺は両手いっぱいのヌカヌカコーラグッズを床に置き、懐からフュージョン味を取り出した。
プシュッ。
青く光る液体が、室内の照明を反射する。一口飲むと、核融合を思わせる強烈な刺激が喉を焼いた。
「はぁ......これだ」
「それ、さっきから気になってたんだけど」
マロンが身を乗り出した。
「放射線量計が反応してるよ。かなり危険なレベルで」
「だから美味いんだろう」
俺はもう一口飲んだ。
「炭酸飲料ってのは、体に悪いから価値がある。健康的な炭酸飲料なんて、矛盾した存在だ」
「いや、それは極論でしょ」
「極論?」
俺は空き缶を握り潰した。
「じゃあ聞くが、その泥水は飲んだ後に何が残る?」
「え? 爽やかな後味と......」
「違う」
俺は首を振った。
「ヌカヌカコーラは、飲んだ後も舌に放射性物質の痺れが残る。胃の中で炭酸が暴れ回る感覚。そして、いつ死ぬか分からないスリル。それが炭酸飲料の醍醐味だ」
マロンは呆れたような顔をした。
「君、頭おかしいよ」
「下級市民だからな」
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俺はソファーに腰を下ろし、プロジェクト・クァンタムのディスクを取り出した。
「仕事は終わった。約束のデータだ」
「おお!」
マロンは目を輝かせてディスクを受け取った。すぐに端末に差し込み、中身を確認し始める。
「すごい......クァンタム・ドゥーム、クァンタム・ソルジャー、クァンタム・デビルズクロー......全部入ってる!」
「レシピは入ってないぞ」
「いらないよ、そんなの」
マロンは画面に夢中になっている。データを高速でスクロールしながら、時折メモを取る。
「ねえ、これ見て! 放射性物質を動力源にする技術! 効率は悪いけど、アイデアは面白い」
「ほう」
俺は興味なさそうに相槌を打ちながら、ダークマター味を開けた。
黒い液体が、光を吸収するかのように鈍く輝く。一口飲むと、舌の上で重力が歪むような感覚。
「うまい......」
「そういえば」
マロンが顔を上げた。
「ヌカヌカコーラ社は無事だった?」
「ああ。データをコピーしただけだ。誰も殺してない」
「珍しいね」
「当たり前だ。ヌカヌカコーラの生産に支障が出たら困る」
俺は貰ってきたグッズを広げ始めた。限定版ジャケット、ネオンサイン、等身大ボトルクッション。
「......君、本当にヌカヌカコーラが好きなんだね」
「ああ」
「でも、体に悪いよ?」
「だから?」
俺はマロンを見据えた。
「この腐った都市で、下級市民として生きていて、体にいいものなんてあるか?」
マロンは言葉に詰まった。
「空気は汚染され、水は濁り、食べ物は合成品。どうせ早死にする運命なら、好きなものを飲んで死にたい」
「それは......」
「お前たち騎士団の人間には分からないだろうな」
俺は窓の外を見た。灰色の空、煙を吐く工場、うごめく人々の影。
「恵まれた環境で、きれいな水と空気と食べ物に囲まれて育った連中には」
「......」
マロンは黙ってベップシを見つめた。
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「まあ、いい」
俺は話題を変えた。
「次の仕事は何だ?」
マロンは気を取り直したように、新しい資料を取り出した。
「実は、ちょっと変わった依頼なんだけど」
「変わった?」
「騎士団内部の掃除」
俺の手が止まった。
「......どういうことだ」
「最近、騎士団の中に企業のスパイが紛れ込んでるみたいでね」
マロンの表情が真剣になる。
「機密情報が漏れたり、妨害工作があったり。でも、誰がスパイか分からない」
「それで、俺に?」
「君なら、怪しまれずに調査できるでしょ? 下級市民の清掃員なんて、誰も気にしないから」
なるほど、理にかなっている。
「場所は?」
「騎士団領、第三駐屯地」
マロンは地図を広げた。
「ここに、騎士団の補給物資が集積されてる。食料、武器、そして――」
彼女は少し間を置いた。
「ベップシの製造工場」
「......は?」
「だから、ベップシの製造工場があるの」
俺は深いため息をついた。
「その泥水工場に、俺を行かせるのか」
「別に工場を壊せって言ってるんじゃないよ」
マロンは慌てて手を振った。
「スパイを見つけて、排除してくれればいい」
「分かった」
俺は立ち上がり、アンチマター味を懐に入れた。
「ただし、条件がある」
「何?」
「その泥水を二度と俺の前で飲むな」
マロンは苦笑した。
「......分かったよ」
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部屋を出る前に、俺は振り返った。
「そういえば、一つ聞きたいことがある」
「何?」
「なぜ騎士団は、放射性物質の入っていない飲み物を作るんだ?」
マロンは少し考えてから答えた。
「騎士って、長生きしないといけないから」
「長生き?」
「魔物と戦い続けるには、健康な体が必要でしょ? 放射能で早死にしたら、人々を守れない」
「......なるほど」
俺は苦笑した。
「守るべき人々は、放射能まみれの飲み物を飲んでるのにな」
マロンは複雑な表情を浮かべたが、何も言わなかった。
俺はドアを開け、廊下に出た。
騎士団領への潜入か。面倒な仕事だが、仕方ない。
ポケットの中で、アンチマター味の缶がカラカラと音を立てる。
この音を聞いていれば、どんな仕事も耐えられる。
たとえそれが、泥水工場への潜入だとしても。