第7話 人生最高の甘苦い日
# 第7話 人生最高の日
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朝の6時。俺は北部工業地区の下水道を這い進んでいた。
腐敗臭と汚水が鼻を突く。だが、不思議と気分は悪くない。ポケットに入れたヌカヌカコーラの缶が、歩くたびにカラカラと音を立てる。この音を聞いていれば、どんな苦痛にも耐えられる。
「セクター30......もうすぐだな」
マンホールの蓋を持ち上げ、研究所の地下に侵入する。薄暗い通路が続いている。
偽造した社員証を首から下げ、堂々と歩き始めた。ヌカヌカコーラの帽子とジャケットも着用済み。完璧なファンの姿だ。
通路の角を曲がると、白衣の男が立っていた。
「おい、君は......品質管理部門の新人か?」
「はい、今日から配属になりました」
俺は社員証を見せる。男は疲れた顔で頷いた。
「また新人か。この部門は入れ替わりが激しいからな」
「そんなに?」
「毎日何十本もヌカヌカコーラを飲む仕事だぞ。普通の人間なら1週間で胃がやられる」
何十本も!?
俺の心臓が高鳴った。そんな天国のような仕事が存在するのか。
「案内してやる。ついて来い」
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品質管理室は、俺の想像を超えていた。
壁一面にヌカヌカコーラの自動販売機。中央には快適そうなリクライニングチェア。そして、無数の新フレーバーのサンプルが並ぶ冷蔵庫。
「ここが君の職場だ」
男は説明を始めた。
「朝から晩まで、新フレーバーの試飲をしてもらう。味、香り、喉越し、後味、すべてを評価シートに記入する」
「......本当か?」
「ああ。今日はブラックチェリー味のテストだ」
男は冷蔵庫から黒く輝く缶を取り出した。限定試作品のラベル。市場に出回ることのない、幻のフレーバー。
「さっそく飲んでみてくれ」
俺は震える手で缶を受け取った。プシュッという音と共に、甘酸っぱい香りが広がる。
一口飲んだ瞬間、全身に電流が走った。
「うまい......」
チェリーの濃厚な甘みと、ヌカヌカコーラ特有の炭酸の刺激。そして、舌に残る放射性物質のピリッとした後味。完璧なハーモニーだ。
「どうだ?」
「最高です。今すぐ市販してください」
「はは、気に入ったようだな」
男は満足そうに笑った。
「じゃあ、これから6時間、ひたすら飲み続けてもらう。30分ごとに血液検査もあるから覚悟しろよ」
血液検査? まあいい。こんな仕事ができるなら、血の一滴や二滴くらい安いものだ。
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昼過ぎ。俺は幸福の絶頂にいた。
ブラックチェリー味を12本、通常のクァンタム味を8本、そして試作品のストロベリー味を5本。合計25本のヌカヌカコーラが、俺の胃の中で炭酸の交響曲を奏でている。
「調子はどうかね?」
白衣の医者が採血しながら聞いてくる。
「人生で一番幸せです」
「ふむ、放射線量は基準値の3倍か。まあ、許容範囲だな」
許容範囲。いい響きだ。
医者が出て行った後、俺は次の缶に手を伸ばした。今度はマンゴー味。トロピカルな香りが鼻腔をくすぐる。
「転職したい......」
本気でそう思った。騎士団の汚い仕事なんかより、ここで一生ヌカヌカコーラを飲んでいたい。
だが、現実は甘くない。夕方には「本来の仕事」をしなければならない。マロンとの約束もある。
せめて、それまでは――
「失礼、君がホークス君かね?」
振り返ると、立派なスーツを着た中年男性が立っていた。鋭い目つき、整えられた口髭、高級そうな腕時計。明らかに重役クラスだ。
「私はヌカヌカコーラ社の開発部門統括、ジェラルド・クァンタムだ」
クァンタム。まさか、あのクァンタム味の開発者か?
「お会いできて光栄です」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。心からの敬意だ。
「君の噂は聞いているよ。10年連続消費量トップ10。我が社の優良顧客だ」
「ありがとうございます」
「ところで」
ジェラルドは声を潜めた。
「君に特別な新フレーバーを試飲してもらいたい。ついて来てくれるかね?」
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エレベーターで地下へ。B10、B20と下るにつれ、雰囲気が変わっていく。
白衣の研究員から、武装した警備員へ。清潔な研究施設から、物々しい軍事施設へ。
「ここからは極秘エリアだ」
ジェラルドが説明する。
「我が社の最先端技術が集約されている」
B30に到着。重厚な扉が開くと、巨大な工場が広がっていた。
「これは......」
目の前には、ヌカヌカコーラのボトルの形をした巨大なミサイル。青く光る弾頭には『QUANTUM DOOM』の文字。
「クァンタム・ドゥーム。半径10キロを放射能で汚染する戦略兵器だ」
ジェラルドが誇らしげに説明する。
「ヌカヌカコーラの製造技術を応用して開発した。美しいだろう?」
正直、どうでもいい。俺が興味あるのは飲み物の方だ。
「こちらにも来てくれ」
次の部屋には、人型の機械兵士が並んでいた。胸にヌカヌカコーラのロゴ。
「クァンタム・ソルジャー。動力源は濃縮ヌカヌカコーラだ」
機械兵士が動き出し、標的を正確に射撃する。確かに性能は高そうだが――
「で、新フレーバーは?」
「ああ、そうだったな」
ジェラルドは苦笑した。
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更に奥へ進むと、巨大な戦闘実験場に出た。
コロシアムのような円形の空間。観客席には研究員たちが座り、中央のフィールドには各種兵器が配置されている。
「さて、ホークス君」
ジェラルドの声が急に冷たくなった。
「君は騎士団に協力しているそうだな」
「......何の話だ?」
「とぼけるな。我々の情報網は優秀だ」
ジェラルドは指をパチンと鳴らした。周囲を武装した警備員が取り囲む。
「ここには、ヌカヌカコーラのレシピを破壊するために来たんだろう?」
「は?」
俺は素で聞き返した。
「そんな愚かな行為をするわけないだろう。俺は一生ヌカヌカコーラを飲み続けるんだ」
ジェラルドが困惑した表情を浮かべた。
「......え? いや、騎士団領には放射性物質がない安全なフレーバーを輸出しているのに、騎士団長チココは私たちに嫌がらせをやめない」
「ちょっと待て」
俺は手を上げた。
「放射性物質がないフレーバー? それはヌカヌカコーラじゃなくて別商品だろう」
「いや、れっきとしたヌカヌカコーラだ。健康志向の――」
「健康志向!?」
俺は声を荒げた。
「ヌカヌカコーラから放射能を抜くなんて、それはもう炭酸水じゃないか! 冒涜だ!」
ジェラルドは完全に混乱していた。
「......君は、本当は何をしに来たんだ?」
「プロジェクト・クァンタムのデータをコピーしに来た」
俺は正直に答えた。
「それ以外では一切の迷惑をかけたくない。レシピなんて絶対に盗まない」
「信じられないな......」
ジェラルドはしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「よし、こいつを倒してみろ。倒せたらデータをくれてやる」
再び指を鳴らす。
戦闘実験場の中央に、巨大な影が現れた。
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クァンタム・デビルズクロー。
全高3メートルの機械の化物。ヌカヌカコーラのボトルを模した胴体から、鋭い鉤爪を持つ4本の腕が生えている。頭部には赤く光る単眼。
「試作型アノマリー殺戮兵器だ」
ジェラルドが説明する。
「君のようなレベル80程度なら、瞬殺できる性能を持っている」
機械が唸りを上げて起動する。鉤爪から青い電撃が迸った。
「やれやれ」
俺は作業着の内ポケットから、最後のクァンタム味を取り出した。飲み干して、空き缶を投げ捨てる。
「分子分解再構築」
掃除道具が分解され、対物ライフルとなって手に収まる。
だが、相手の動きは予想以上に速かった。
ガキィィン!
鉤爪がライフルの銃身を叩き折る。同時に別の腕が俺の脇腹を狙って振り下ろされた。
「静寂世界」
音が消える。爪が空を切る音も、機械の駆動音も、すべてが無音になる。
横っ飛びに回避し、距離を取る。
「絶対消去」
デビルズクローの右腕に向けて能力を発動。だが――
バチバチと火花が散り、腕は消えなかった。
「無駄だ」
観客席からジェラルドの声が響く。
「特異点技術で作られた装甲は、通常の能力では破壊できない」
なるほど、面倒な相手だ。
デビルズクローが突進してくる。4本の腕を振り回し、床を砕きながら迫ってくる。
俺は懐から小型爆弾を取り出し、相手の足元に投げつけた。
爆発。煙が立ち込める。
だが、煙の中から無傷のデビルズクローが現れた。
「くそ......」
このままでは埒が明かない。
「仕方ない」
俺は完全偽装を解除した。
レベル88の魔力が、抑えきれずに溢れ出す。
「なんだと!?」
ジェラルドが驚愕の声を上げる。
「レベル80どころか......これは......」
「掃討殲滅」
攻撃スキルの真の姿。清掃員のフリをしていた殺戮技術。
俺の周囲に、無数の光の弾丸が出現する。それらが一斉にデビルズクローに向かって放たれた。
ドドドドドドド!
凄まじい連射音と共に、光の雨が機械の化物に降り注ぐ。
装甲が砕け、部品が飛び散り、火花が散る。
だが、まだ動いている。
「タフな奴だ」
デビルズクローが最後の力を振り絞って突撃してくる。4本の爪を揃えて、俺の心臓を狙う。
「汚染領域展開」
俺の最強スキル。
周囲の空間が歪み、紫色の霧が立ち込める。デビルズクローの動きが急激に鈍くなった。
装甲が腐食し始める。関節から黒い油が噴き出す。単眼の光が明滅する。
「これが、ゴミ掃除の極意だ」
俺は歩み寄り、デビルズクローの頭部に手を置いた。
「存在抹消」
機械の化物が、内側から崩壊していく。部品が砂のように崩れ、最後には何も残らなかった。
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戦闘実験場に、静寂が戻った。
研究員たちは呆然と俺を見つめている。ジェラルドがゆっくりと階段を降りてきた。
「......本当に私を殺さないのか?」
「当たり前だ」
俺は肩をすくめた。
「お前を殺したら、ヌカヌカコーラの製造に遅れが出るだろう」
ジェラルドは複雑な表情を浮かべた。驚き、困惑、そして......感動?
「君は本当に我が社の製品が好きなんだな」
「ああ」
「分かった。約束通り、データは渡そう」
ジェラルドは懐から小さなディスクを取り出した。
「プロジェクト・クァンタムの全データだ。兵器開発の情報がすべて入っている」
「助かる」
「それと......」
ジェラルドは少し照れたような顔をした。
「見逃してくれたお礼と言ってはなんだが、試作品のグッズを好きなだけ持っていってくれ」
「本当か!?」
「ああ。新フレーバーの試作品もある。フュージョン味、ダークマター味、アンチマター味......どれも市販予定のない幻の品だ」
俺の目が輝いた。
「今日はなんという最高の日なんだ!」
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結局、俺は両手いっぱいのヌカヌカコーラグッズを抱えて研究所を後にした。
限定版のジャケット、光るネオンサイン、等身大のボトル型クッション、そして何より、幻のフレーバー詰め合わせセット。
「あ、ホークス君」
出口でジェラルドが呼び止めた。
「もし騎士団を辞めることがあったら、うちに来ないか? 品質管理部門の正社員として雇うよ」
「......本気か?」
「ああ。君みたいな愛飲家は貴重だ。放射線耐性も人並み外れているしね」
俺は少し考えた。
毎日ヌカヌカコーラが飲み放題。新フレーバーの開発に関われる。そして何より、大好きな企業で働ける。
「いつか、必ず」
俺は深く頭を下げた。
「その時は、よろしくお願いします」
夜の街を歩きながら、俺は鼻歌を歌っていた。
懐にはプロジェクト・クァンタムのデータ。両手には大量のヌカヌカコーラ。そして、将来の就職先まで決まった。
確かに、今日は人生最高の日だった。
「さて、マロンに報告するか」
俺はフュージョン味の缶を開け、一口飲んだ。
核融合反応を思わせる、爆発的な炭酸の刺激。舌が痺れ、喉が焼ける。そして、じわじわと広がる幸福感。
「うまい......」
この味を守るためなら、俺は何だってやる。
たとえそれが、この腐った世界を掃除することだとしても。