第5話 夢見基盤層
# 第5話 夢見基盤層
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B20の通風口から這い出た俺は、薬品臭と機械油の混じった空気を肺に入れた。煙草が吸いたかったが、ここでは我慢だ。
「夢見基盤層」
重厚な扉の向こうから、低い機械音が響いている。人間を部品として使う巨大な演算装置。この腐った企業都市連合らしい発想だ。
完全偽装を発動し、監視カメラに偽の映像を流し始める。カメラには何も映らない廊下だけが記録される。
扉の認証パネルに、さっき「借りた」研究員のIDカードを通す。緑のランプが点灯し、重い扉が開いた。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
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巨大な空間。天井まで届きそうなガラスのカプセルが、整然と並んでいる。数百、いや数千はあるだろう。
カプセルの中には、下級市民たちが浮いていた。
老人、女性、子供。目を閉じ、頭にケーブルを繋がれ、培養液の中で眠っている。時折、瞼が痙攣し、指先が震える。夢を見ているのだ。
いや、夢を見させられている。
「訪れるたびに姿を変える夢の王国、か」
俺は呟いた。
モニターに映る情報を確認する。
『被験体#2341:樹木の夢を217日間継続中』
『被験体#3982:噴水の夢を98日間継続中』
『被験体#1205:建物の夢を412日間継続中』
上級市民が楽しむVR空間の背景。それを演算するために、下級市民たちは永遠に同じ夢を見続ける。樹木になり、噴水になり、建物になる夢を。
「反吐が出る」
だが、感傷に浸っている時間はない。
完全偽装で監視カメラを塞ぎながら、俺は奥へと進む。セキュリティが異常に高い。扉という扉に認証システム、廊下の角には赤外線センサー、天井には振動検知器。
大企業の中枢部だけあって、セキュリティのレベルが違う。これは早く監視ルームを見つけないと、胃に穴が開きそうだ。
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角を曲がった瞬間、足音が聞こえた。
研究員の男女が歩いてくる。白衣を着た50代のおっさんと、20代後半の女。典型的な上司と部下の組み合わせだ。
「今夜も残業ですか、課長?」
女が媚びた声を出す。
「ああ、新しい夢のパターンをテストしないとな。君も手伝ってくれるかね?」
おっさんが鼻の下を伸ばしている。女はわざとらしく身を寄せた。
「もちろんです。課長のためなら」
反吐が出る。鼻の下を伸ばすおっさんも、媚びへつらう女も、どちらも同じくらい嫌いだ。
「静寂世界、発動」
音が消える。二人は俺の存在に気づかないまま、話を続けている。
俺は音もなく背後に回り込み、騎士団製の注射器を取り出した。マロンが「面白いことになるよ」と言って渡してきた代物だ。
プスッ、プスッ。
二人の首筋に針を突き立てる。
効果は即座に現れた。二人は声にならない悲鳴を上げ、地面でもがき始める。顔が青ざめ、泡を吹き、苦しそうに喉を掻きむしる。
完全偽装と静寂世界の効果で、誰にも見えないし聞こえない。だが、誰かが来るかもしれない。早くしないとな。
俺は適当な注射器を二本取り出し、片方を靴で踏み潰した。
ベキッ。
ガラスが砕け、中身が床に広がる。残った一本を、二人の前でひらひらと振って見せた。
「解毒薬が欲しいならIDカードとセキュリティコード、その他もろもろを教えろ」
二人は必死に頷いた。おっさんが震える手でIDカードを差し出し、女がパニック状態で施設の構造を話し始める。
「監視ルームはB23の東ブロック! マスターコードは7329!」
「いや、違う! 8429だ!」
「メインターミナルへの最短ルートは?」
「北側の通路から――」
「南側の方が警備が薄い!」
二人の話を整合しながら、俺は頭の中で施設の地図を組み立てていく。嘘をついている暇はないだろう。命がかかっているんだから。
大体の構造とセキュリティの突破方法が分かった。
俺はおっさんの白衣とIDカードを奪い取る。
「解毒薬を! 約束したじゃないか!」
「そうよ! 全部話したわ!」
二人とも必死だな。そんなに欲しいのか?
俺は肩をすくめて、注射器を二人の間に投げた。
「ほら」
注射器が床を転がる。二人は同時に飛びつき――
殴り合いが始まった。
おっさんが女の髪を掴み、女がおっさんの顔を引っ掻く。上司も部下も関係ない。ただ生き残りたい一心で、醜い争いを繰り広げる。
「この国は上から下まで腐ってるが、中身は大して変わらないんだな」
俺は白衣を着て、その場を後にした。
ちなみに、あの注射器はただのビタミン剤だ。高価な解毒薬を、あんなクズどもに渡すわけがないだろう。
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監視ルームは思ったより簡単に見つかった。
警備員を「処理」し、中に入る。無数のモニターが壁を埋め尽くし、施設全体を映し出している。
まずはセキュリティシステムを掌握する。完全偽装で監視カメラをループ再生モードに切り替え、警報システムを無効化。これで多少は動きやすくなる。
次は時限爆弾の設置だ。各ターミナルの重要な箇所に、小型爆薬を仕掛けていく。タイマーは2時間後。俺が脱出した後に、全てが吹き飛ぶ。
研究員たちも「適切に処理」した。静寂世界の中で、音もなく倒れていく白衣の群れ。罪悪感? そんなものはない。下級市民を実験動物扱いしていた連中に、慈悲なんて必要ない。
捕まっている人たちは、システムが停止すれば自動的に解放されるだろう。俺は正義の味方じゃないから最後まで助けはしない。チャンスは与えてやった。あとは自分たちで頑張ってくれ。
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メインターミナルルームの扉を開けた瞬間、俺は舌打ちした。
「やっぱりか」
黒いスーツの男女が5人、俺を待ち構えていた。企業のエージェント。それも、特色付きの面倒な連中だ。
中央に立つ男が一歩前に出た。赤い髪、鋭い目つき、腰に下げた双剣。
「『紅蓮の双刃』ザイード。貴様が侵入者か」
紅蓮の双刃? 何だその厨二病みたいな二つ名は。
「今すぐ立ち去れ。ここは何人たりとも立ち入り禁止だ。一歩でも部屋に入れば――」
俺は話を最後まで聞かなかった。
分子分解再構築、発動。
対物ライフルが手に収まると同時に、引き金を引く。
ドォン!
だが、弾丸は宙で弾かれた。ザイードの双剣が、信じられない速度で振るわれている。
「なめるな、下級市民が」
次の瞬間、俺は横っ飛びに回避していた。さっきまで立っていた場所を、炎の斬撃が通過する。床が溶け、壁に深い溝が刻まれた。
「援護します!」
他のエージェントたちも動き出す。
『凍土の魔女』と呼ばれた女が氷の槍を放ち、『鋼鉄の盾』が俺の退路を塞ぐ。『疾風の弓』から放たれた矢が、俺の肩を掠めた。
「くそ......」
レベル差がありすぎる。エージェントは全員80以上。対して俺は88。数の差も合わせれば、勝ち目は薄い。
濃縮CEV弾を取り出す。まずは人間をアノマリーに変える必要がある。
狙いは『疾風の弓』。素早いが、防御は薄い。
引き金を引く。弾丸は正確に胸に命中した。
「ぐあああああ!」
エージェントの体が変化し始める。筋肉が膨張し、骨格が歪み、人の形を失っていく。わずか3秒で、醜悪なアノマリーへと変貌した。
「何だと!?」
ザイードが動揺する。その隙に、俺はキメラ化弾を取り出し、変化したばかりのアノマリーに撃ち込んだ。
弾丸が命中した瞬間、アノマリーの目に知性が宿る。
「あいつらを殺せ」
俺はザイードたちを指差す。
元『疾風の弓』だったアノマリーが、かつての仲間に襲いかかった。異形の腕が振るわれ、『鋼鉄の盾』が吹き飛ばされる。
「馬鹿な! 正気に戻れ!」
だが、キメラの攻撃は止まらない。30分間、俺の命令は絶対だ。
混乱に乗じて、俺は『凍土の魔女』にもCEV弾を撃つ。命中。3秒後にはアノマリー化。すかさずキメラ化弾も撃ち込む。
「お前もだ。仲間を皆殺しにしろ」
二体のキメラが、残ったエージェントたちに襲いかかる。
「くそっ! どうなってるんだ!」
ザイードが炎の剣でキメラを斬りつけるが、元仲間への攻撃に躊躇いがある。その隙を、キメラたちは見逃さない。
俺は戦闘を横目に見ながら考えた。残りのCEV弾は一発。これをどう使うか。
「......そうだな」
最後のCEV弾を取り出し、ザイードに狙いを定める。
「何ッ!?」
ザイードは反射的に剣で弾丸を弾こうとした。だが、俺は彼の足元を狙った。弾丸は床に当たって跳弾し、予測できない軌道でザイードの脇腹に突き刺さった。
「ぐあっ......これは......」
ザイードの体が震え始める。CEV弾の効果が現れ始めた。
すかさずキメラ化弾も撃ち込む――が、弾丸はザイードの体表で弾かれた。
「Sランクか......」
俺は舌打ちした。マロンが言っていた通り、Aランク以上にはキメラ化弾は効かない。
だが――
「があああああああ!」
ザイードの絶叫が響く。人間としての理性が消え、ただの暴走するアノマリーと化していく。
「キメラ化は無理でも、自我を失わせるには十分だな。時間稼ぎには使える」
Sランクのアノマリーが無差別に暴れ始めた。炎の斬撃が四方八方に飛び、味方も敵も関係なく攻撃する。
完全に制御不能な乱戦になった。
「エージェントとやらは敵にいても味方にいても信用できないな。不安定要素が増えるのは嫌だが、これ以上時間をかけられない」
完全偽装で姿を消しながら、俺はメインターミナルへと走った。データ吸出し器を端末に差し込む。特異点技術『夢界接続術』のデータが、次々とコピーされていく。
念のため、ハードディスクごと引き抜いた。物理的に持ち去れば、データの復旧も不可能だ。
同時に、マロンから貰ったロボット生成魔道具を起動させる。小さな蜘蛛型ロボットが、端末に取り付いた。
『ハッキング開始......完了。全システム、制御下に置きました』
「全装置を停止。被験者を解放しろ」
『了解。カプセル開放シーケンス、開始』
警報が鳴り響く。赤いランプが点滅し、カプセルから培養液が排出され始めた。
「ついでに、施設のあちこちを暴走させろ。脱出の邪魔になる」
『了解。電源系統を過負荷に。防火扉を全開放。空調を最大出力に』
背後では、まだ戦いが続いている。Sランクのアノマリーと化したザイードが、手当たり次第に破壊を繰り返している。キメラたちも、それに巻き込まれて次々と倒れていく。
俺は来た道を引き返し、エレベーターシャフトへと向かった。
B20から地上まで、ケーブルを掴んでゆっくりと上昇する。急ぐ必要はない。下では暴走したSランクアノマリーが、施設を破壊し続けているだろう。
途中の階で、カプセルから解放された人々とすれ違った。よろよろと階段を上る者、壁に寄りかかって休む者、まだ夢から覚めきれずに呆然としている者。
何人が脱出できるかは分からない。だが、チャンスは与えた。
地上に出ると、夜風が煙草の煙を攫っていく。
2時間後、この施設は跡形もなく消える。
「さて、次はどこを掃除するかな」
俺は薄汚れた作業着の襟を正し、闇の中へと消えた。