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第3話 アルケミア製薬

# 第3話 アルケミア製薬


朝の煙草が肺を焼く。


騎士団が用意した通行手形を懐に入れ、俺は東部工業地区へと足を向けた。下級市民の俺が上級区画を自由に移動できるなんて、普通ならあり得ない。


どうやって偽造したのか、それとも賄賂でも渡したのか。知らない方がいいだろう。組織なんてものは利益を追求するものだし、大義名分を手に入れた人間はろくなことをしない。


この腐った国に住んでいれば、嫌というほど教えられる真理だ。


『アルケミア製薬 本社ビル』


ガラス張りの巨大なビル。表向きは医薬品開発の大手企業。裏では――まあ、今から俺が掃除する内容が答えだ。


正面玄関で警備員に止められる。上級市民用の入り口に、薄汚れた作業着の男が現れれば当然だ。


「サニテック清掃サービスだ。産業廃棄物の回収兼清掃に来た」


俺は偽造した業務証を見せる。警備員が顔をしかめる。俺がくわえた煙草の煙が、彼の顔にかかったからだ。


「清掃中の喫煙は――」


「下級市民に何を言っても無駄だろう? それより、さっさと案内してくれ。時給制なんだ」


警備員は諦めたように肩をすくめ、内線で連絡を取る。しばらくして、白衣の女性がやってきた。


「地下の特別研究室まで案内します」


エレベーターで地下へ。B1、B2と下るにつれ、薬品臭が強くなる。


仕事の時に煙草を吸うのは、この臭いを誤魔化すためだ。吐き気を催すような、腐敗と化学薬品が混ざった悪臭。太ったドブネズミどもの巣の臭いがする。


B5で止まり、扉が開く。


防護服を着た研究員が待っていた。


「俺の防護服は?」


「......下級市民の清掃員に、防護服なんてもったいない。2〜3時間以内に終わらせろ。直接触れるのは避けろ。死んでも責任は取らん」


騎士団から渡された小瓶を思い出す。ワクチンと応急薬。なるほど、そういうことか。


2〜3時間もいらないだろう。そんなにいたら、鼻がおかしくなる


##


研究室の扉が開いた瞬間、俺は息を呑んだ。


巨大なタンクが並ぶ空間。緑色に光る液体で満たされたタンクの中には――


「実験体、か」


檻に入れられた者たち。いや、もはや人とも動物とも呼べない何か。下級市民の浮浪者、身寄りのない老人、そして野良犬や野良猫。社会の底辺で、誰も気にかけない存在たち。


タンクの横には『Project C.E.V. - Compulsory Evolution Virus』のプレート。強制進化ウイルス。


「マロンの後追いか」


俺は呟いた。あの餓鬼が俺に打った完成品を、こいつらは必死に再現しようとしている。


研究員が俺の横に立つ。


「実験体の体液や排泄物を清掃してくれ。生き残りがいたら、そこの銃で処理しろ。タンクの中に落ちても責任は取らないぞ。契約書にサインしているから、分かっているとは思うが」


「落ちたらどうなる?」


研究員は俺を見下すような目で笑った。


「下級市民でも、それくらいは分かるだろう。どれだけ頭が悪いんだ」


ああ、そうか。


俺は納得した。この男も、ゴミだ。


「完全偽装、静寂世界、発動」


監視カメラに映る映像が歪む。今この瞬間から、カメラには俺が真面目に掃除している姿だけが映る。音も同じだ。俺が流したい音だけが、この空間から外に漏れる。


「実際に見せてくれないと分からない。下級市民なんだからアホなんだ」


俺は作業着の内側から、小さなナイフを取り出した。研究員が反応する前に、俺はその防護服を切り裂いた。ナイフの刃が、薄い素材を簡単に引き裂く。


「な、何を――」


男の言葉は続かなかった。俺が彼の胸を蹴り、薬品タンクへと突き落としたからだ。


ドボン!


緑色の液体が跳ね、研究員の体が沈んでいく。


すぐに変化が始まった。


肌が緑色に変色し、筋肉が異常に膨張していく。顔の形が崩れ、知性の光が目から消えていく。わずか30秒で、さっきまで人間だったものは、頭の悪そうな筋肉ダルマに変わり果てた。


「使えそうだな。タンクが壊れてバイオハザードが起きました、でいいだろう」


分子分解再構築、発動。


業務用の高圧洗浄機が分解され、部品が宙を舞う。それらが瞬時に再構築され――重い金属音と共に、対物ライフルが俺の手に収まった。


まず、実験体たちの檻にナイフを投げる。正確に鍵を破壊し、扉を開放。まだ意識がある下級市民たちが、おぼつかない足取りで外へ逃げていく。


「騎士団からは全部排除しろと言われていたが、俺も下級市民だからな。頭が悪いんだ。すぐ命令を間違えてしまう」


数分ほど経ってから、対物ライフルの照準を、最大のタンクに合わせる。


引き金を引いた。


ドォォン!


轟音と共に、タンクに亀裂が走る。でかいタンクほど、ちょっとヒビを入れるだけですぐ壊れる。物理の基本だ。


ピシッ、ピシッ、ピシッ......


亀裂が広がり、緑色の液体が噴き出し始める。


そして――


ガシャァァァン!!


タンクが崩壊し、大量のC.E.V.が床に溢れ出した。


##


警報が鳴り響く中、研究員たちが駆け込んできた。


「何が起きた!?」


「タンクが......壊れて......」


彼らの声は、悲鳴に変わった。


床に広がった薬品が、防護服の隙間から侵入していく。靴底、手袋の継ぎ目、マスクの隙間。どんなに完璧に見える防護も、この濃度のウイルスの前では無意味だ。


一人、また一人と倒れていく。


そして変異が始まる。


ある者は昆虫のような複眼を持つ化物に。ある者は触手が生えた肉塊に。ある者は骨が皮膚を突き破った獣に。


元研究員たちは、理性を失った化物として立ち上がる。そして、まだ人間の姿を保っている者たちを餌として認識し始めた。


「うわああああ!」


「助けて! 助け――」


断末魔が響く。だが、静寂世界の効果で、この階より上には何も聞こえない。彼らには、いつも通りの談笑の声だけが届いている。


俺は化物たちの動きを観察し、ライフルで足元を撃つ。


バン! バン!


驚いた化物たちが、音の方向――階段へと走り出す。上の階へ、その上の階へと誘導していく。


「さて、本題だ」


研究室に戻り、絶対消去を発動する。


書類、データ、実験装置。この階にある全ての研究成果を、存在ごと消し去っていく。特異点技術の痕跡も、C.E.V.の製造法も、何もかも。


##


しばらくして、企業お抱えの冒険者たち――エージェントが到着した。


統一された黒いスーツ。魔力を帯びた武器。レベル50〜70程度の、そこそこの実力者たち。


「化物が発生している! 殲滅しろ!」


リーダーらしき男が指示を出す。


俺は壁際で、完全偽装を発動した。壁と同化し、存在を消す。


エージェントたちが元研究員の化物と対峙する。剣を構え、魔法を詠唱し始める。


だが――


ピュッ、ピュッ。


消音弾が、彼らの手足を正確に撃ち抜いた。


「ぐあっ!」


「何だ!? 狙撃手がいるのか!?」


武器を落とし、魔法の詠唱が中断される。その隙に、化物たちが飛びかかった。


鋭い爪が肉を裂き、牙が骨を砕く。エージェントたちは、あっという間に餌と化した。


満腹になった化物たちは、新たな獲物を求めて上階へと向かう。エレベーターは俺が壊しておいた。階段しか道はない。


「一服するか」


俺は新しい煙草に火をつけた。


30分後、エージェントの第二陣がやってきた。今度は重装備だ。対化物用の特殊部隊らしい。


リーダーが俺を見つけて近づいてきた。「お前は......清掃員か? なぜここにいる?」


「仕事で呼ばれたんだ。産業廃棄物の処理だって聞いてたが、来てみたらこの有様でよ」


俺は肩をすくめて見せた。


「上の階には化物がいる。下の階には、まだ生き残りがいるかもしれない」


リーダーは俺の言葉に頷き、部下たちに指示を出し始めた。そして思い出したように俺に向き直る。


「そうだ、研究員の生き残りは見なかったか? 白衣を着た連中だ。情報収集のために、生きている研究員を確保する必要がある」


俺は煙草の煙を吐き出しながら、曖昧に首を振った。


「さあな。俺が来た時には、もう化物だらけだった」


「本当に誰も見ていないのか? 一人でも生存者がいれば――」


その時、上階から凄まじい爆発音が響いた。化物が何かの薬品庫でも破壊したのだろう。建物全体が揺れる。


「隊長! 早く行かないと上層階が!」


部下の一人が叫ぶ。リーダーは舌打ちして、俺から視線を外した。


「......分かった。お前はすぐに避難しろ」


エージェントたちは階段を駆け上がっていく。その背中を見送りながら、俺は最後の一服を楽しんだ。


研究員の生き残り? いるわけがない。


この階にいた白衣の連中は、全員自分たちが作ったウイルスで化物になった。因果応報というやつだ。


下級市民を実験動物扱いしていた奴らが、自分たちも同じ運命を辿る。これほど愉快な結末があるだろうか。


俺は煙草を踏み消し、掃除道具を肩に担いだ。


ホテルへ帰る途中、元市民の実験体たちとすれ違った。


彼らはまだ人間の姿を保っていたが、目には知性の光がない。ただ本能のままに彷徨っている。かつての住処にでも帰るんだろう。


「......どうせ長くは生きられないだろうな」


だが、檻の中で死ぬよりはマシだ。せめて最期は、自由な空気を吸って死ねる。


それだけでも、この国では贅沢なことだ。

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