第2話 ロイヤルスクライブ・マロン
# 第2話 ロイヤルスクライブ・マロン
朝の煙が肺を焼く。
研究所の残骸はまだ燃えているだろう。俺は肩に担いだゴミ袋を揺らしながら、薄汚れた下級市民街を歩いていた。
道端には、栄養失調で倒れた男が転がっている。誰も助けない。下級市民の命なんて、路上のゴミと同じ価値しかない。
俺は男を跨いで、目的地へと向かった。
『ホテル・ミラージュ』
看板の「ラ」の字が消えかかっている、寂れたビジネスホテル。だが、この腐った都市連合で唯一、騎士団と繋がっている場所だ。
企業都市連合と騎士団領。
人権無視の利益偏重の企業たちが支配しているか、魔物が蔓延る世界で世界最強の騎士団を持つ絶対王者が支配しているかの違いしかない。どちらも市民を道具としか見ていない支配体制と聞く。
だが、この国よりも酷い場所を想像できないので、騎士団の方がマシだろう。
下級市民の俺では、外の世界なんて知る由もないが。
ガラスの自動ドアが、ギィィと嫌な音を立てて開く。
受付には、いつもの無表情な女が座っていた。どこにでもいる、疲れ切った中年女性。
「仕事の関係で連泊する」
俺はゴミ袋をカウンターに置いた。
「部屋が汚れるから、掃除用具一式は預かっておいてくれ」
女は無言で袋を受け取り、カウンター下に隠す。手際が良い。何度もやっているからだ。
「かしこまりました。こちらが503号室の鍵です」
錆びた真鍮の鍵を受け取る。次にこの鍵を返す時、ゴミ袋の中身は金貨に変わっている。特異点技術のデータは、騎士団にとって喉から手が出るほど欲しい情報だ。アノマリー技術を利用した超常的な技術に対抗するためには、同じ武器が必要だから。
エレベーターは故障中。階段で5階まで上がる。
タバコの吸い殻が散乱する廊下を歩き、503号室のドアを開けた。
「相変わらず、汚くて狭い部屋だな」
カビ臭い8畳の空間。シミだらけの壁紙。軋むベッド。割れた鏡。
だが、俺には十分だ。豪華な部屋なんて、下級市民には似合わない。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。茶色い水が最初に出てきて、徐々に透明になっていく。石鹸は支給品の安物。肌がヒリヒリする。
体を拭き、下着一枚でベッドに座った。
テレビのリモコンを手に取る。画面には砂嵐が映り、チャンネルを変えると企業のプロパガンダ番組が流れ始めた。
『本日も企業都市連合は平和です。市民の皆様は、各企業の定める就業規則を遵守し――』
つまらない。
ルームサービスのチャンネルに切り替える。映画のリストが表示された。
『愛と哀しみのメロディー』
クソつまらない恋愛映画だ。だが、これを見なければならない。
再生ボタンを押す。
安っぽいBGMと共に、男女の出会いのシーンが始まる。セリフは陳腐で、演技は学芸会レベル。だが、俺は画面を見続ける。
15分経過。
主人公たちがデートで映画館に入るシーン。スクリーンに映る映画の字幕が、一瞬だけ別の文字に変わる。
『最上階VIPルーム 22時』
次の指令だ。
俺は時計を確認する。21時45分。
「......頭がおかしくなったのか?」
最上階なんて、上級市民か企業幹部しか使わない場所だ。下級市民の俺が行けば、即座に警備に捕まる。
だが、指令は絶対だ。
服を着直し、部屋を出た。
##
エレベーターで最上階へ。VIPフロアのボタンは通常ロックされているが、今日は押せた。マロンが手配したのだろう。
最上階の廊下は、下層階とは別世界だ。大理石の床、金箔の装飾、名画のレプリカ。上級市民の贅沢さが鼻につく。
VIPルームの前に立つ。インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
不用心すぎる。バカな新人か、よほどの実力者か。
「あなたがホークスさんですか?」
オレンジ色の髪をツインテールにした、11歳くらいの少女が立っていた。白いフリルのドレス。宝石のような青い瞳。どう見ても、上流階級の令嬢だ。
「うーん、思ったよりは普通。もっと色々変異してると思ってたよ」
少女は俺を値踏みするように見回す。失礼な餓鬼だ。
まあ、レベル4の下級清掃員に見えるように偽装してるんだから、当然か。本当の力を見せたら、この餓鬼でも驚くだろうが。
だが、それよりも――
「......何だ、こいつら」
少女の後ろに、二体の人影が立っている。
一人は色白なパティシエ風の格好。もう一人はメイド服。だが、どちらも顔に口がない。鼻の下から顎まで、滑らかな皮膚で覆われている。
魔物だ。
しかも、尋常じゃない魔力を感じる。少女自身からも、抑えきれないほどの力が漏れ出ていた。
俺も隠蔽スキルで魔力を抑えているが、この餓鬼も同じことをしていた。はぁ、魔力隠蔽は俺の専売特許だと思ってたのに。
「その声、お前がクライアントか?」
俺は警戒しながら問う。
「直接来るなんて、何の用だ?」
少女は嬉しそうに飛び跳ねた。
「強制進化薬が出来たんだ!!」
懐から小さなアンプルを取り出す。緑色に光る液体が入っている。
「こいつに使われてる技術はね、まず特異点由来の触媒を使って、人体の限界値を突破させて、それから魔力回路を強制的に――」
「そういう説明はいい」
俺は手を上げて制した。
「下級市民が分かるわけないだろう」
少女は不満そうに頬を膨らませた。
「あー、60%で成功して大幅レベルアップ、30%でアノマリー化、10%は聞かないほうがいい」
「科学者にしては頭が良いじゃないか。そんなに分かりやすくできるなんて」
皮肉のつもりだったが、少女は嬉しそうに笑った。
「もっとわかりやすくできるぞ!パティ!!」
パティシエ風のアノマリーが前に出る。手にはフライパン。
ゴン!
フライパンでテーブルを叩いた瞬間、光が爆発する。
次の瞬間、テーブルが巨大なケーキに変化していた。苺のショートケーキ。湯気が立っている。
「これがSランク以上のアノマリーやアノマリーから抽出した武器の効果だ!」
少女――マロンが早口でまくし立てる。
「ここからの戦いはチートの押し付け合いなんだ!物理法則とか因果律とか、そんなの関係ない!より強力な、より理不尽な能力を持った奴が勝つ!」
その瞬間、メイドのアノマリーたちが動いた。
気づいた時には、俺の両腕は拘束されていた。柔らかそうに見えるメイドの腕が、鋼鉄のように俺を締め上げる。
「くそ......」
抵抗しようとするが、びくともしない。Sランク以上か。下級市民の俺では、到底敵わない相手だ。
「そんなに早口で言うな」
俺は諦めたように言った。
「聞き取りづらい。選択肢がないなら、さっさとやれ」
マロンは首を傾げる。
「抵抗しないの?」
「俺には家族の仇がいる」
煙草を吸いたかったが、両手が使えない。
「そいつを苦しめ抜いて殺せるなら、何でもやる。化物になろうが、人間を辞めようが、関係ない」
マロンの表情が変わった。さっきまでの無邪気な笑顔が消え、研究者の冷たい目になる。
「いいね! 仲良くなれそうだ」
注射器を取り出し、アンプルの中身を吸い上げる。手慣れた手つきだ。何度もやっているのだろう。
目がキラキラと輝いている。実験動物を見る研究者の目だ。
「レベル40だろう? なら、レベル100行くか行かないぐらいには強くなれると思うよ」
本当のレベルを見破られている。
「あ、そうだ。私、マロンっていうの。騎士団のロイヤルスクライブ・マロン」
ロイヤルスクライブ、騎士団が抱えるたち科学者のトップか。
「終わったらベッドの上に運ばせるよ」
俺の首筋に針を突き立てた。
冷たい液体が血管に流れ込んでくる。
最初は何も感じない。
だが次の瞬間、全身が燃えるような激痛が走った。
「があああああ!」
骨が砕け、再構築される音。筋肉が引き裂かれ、より強靭に編み直される感覚。細胞の一つ一つが悲鳴を上げている。
視界が虹色に染まり、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、マロンの興奮した表情だった。まるで実験動物の反応を観察する研究者のように、キラキラした目で俺を見つめている。
##
目が覚めると、503号室のベッドの上だった。
全身が軋む。だが、痛みの質が違う。成長痛のような、心地良い疲労感。
「......生きてるのか」
ステータスウィンドウを開く。
【真実のステータス】
名前:ホークス
身分:下級市民
職業:清掃員
レベル:43 → 88
【登録スキル】
・汚染拡散 LV.5 → 汚染領域展開 LV.10
・分解構築 LV.4 → 分子分解再構築 LV.9
・完全清拭 LV.6 → 絶対消去 LV.10
・消音 LV.3 → 静寂世界 LV.8
・クリーンアップ LV.5 → 掃討殲滅 LV.10
・ワイプアウト LV.4 → 存在抹消 LV.9
・サニタイズ LV.3 → 浄化結界 LV.8
・隠蔽 LV.10 → 完全偽装 LV.10
レベルがほぼ倍になっている。43から88へ。スキルも全て進化し、名前まで変わっていた。
強くなったのは嬉しいが、スキル名が変わってしまっては俺のアイデンティティが台無しだ。
身分証を見られても問題ないからいいんだ
「完全偽装、発動」
隠蔽スキルが進化した能力。ステータスを自在に偽装できる。
レベルを下げて、スキル名だけ元に戻す。
【偽装ステータス】
名前:ホークス
身分:下級市民
職業:清掃員
レベル:8
・汚染拡散 LV.10
・分解構築 LV.9
・完全清拭 LV.10
・消音 LV.8
・クリーンアップ LV.10
・ワイプアウト LV.9
・サニタイズ LV.8
・隠蔽 LV.10
これでいい。元のレベル4から少し成長した程度。
どうせ、下級市民の清掃員のことなんて誰も覚えてないし、誰も疑わない。
ルームサービスにいつものクソ映画の続編が追加されている。
『東部工業地区 アルケミア製薬 本社ビル
受付で支給物資を受け取れ』
また掃除か。
まあ、あいつを殺すまではやることは変わらない。
煙草に火をつけ、天井を見上げる。
記憶が蘇る。
15年前。俺がまだ子供だった頃。
故郷の街が、巨大なアノマリーに襲われた。ビルよりも巨大な、植物型の化物。無数のツルが街を覆い尽くし、建物を粉砕し、人々を飲み込んでいく。
俺は運良く――いや、運悪く、崩れた瓦礫の下敷きになった。
身動きが取れないまま、家族が殺されるのを見ていることしかできなかった。
母親が、ツルに巻かれて圧殺される音。
父親が、トゲに貫かれて絶叫する声。
妹が、花弁に飲み込まれて消えていく姿。
そして、瓦礫の隙間から見えた、アノマリーを操る人影。
顔も、名前も、声も分からない。
だが、あの禍々しく街を一つ飲み込むような魔力と、ビルほどの巨大なツルを操る能力は忘れない。まるでガーデニングを楽しむように、人々を殺していく残酷さ。
15年間、俺は力を隠しながら積み上げてきた。表向きはレベル4の無能な掃除屋を演じながら、裏で力を蓄えた。企業の目を欺き、少しずつ、少しずつ。
都市連合の企業を壊していけば、いつかはたどり着くだろう。あれほどの実力者が、どこかの企業に属していないはずがない。
いや、もっと上の「頭」の手足かもしれない。
企業都市連合を支配する、顔も名前も知られていない支配者たち。特異点技術を独占し、人々を実験動物のように扱う、真の敵。
「どちらにしろ、進むべき道は一つだ」
俺は立ち上がり、新しい力を確かめる。
分子分解再構築。
掃除機が一瞬で分解され、より強力な武器に再構築される。消音魔導器付きの大口径対物ライフル。対アノマリー用の特殊弾頭。そして――
「......すごいな」
以前なら限界だった拳銃が、今では子供の玩具に思える。レベル80の力は、想像以上だ。
だが、これも隠さなければならない。少なくとも、あいつを見つけるまでは。
さあ、掃除の時間だ。