第11話 虚無を見つめる者
# 第11話 虚無を見つめる者
##
深夜の中央駅。
俺は薄汚れた清掃員の作業着に身を包み、業務用の入り口から侵入した。肩に担いだ掃除機には、マロンから受け取った装備が隠されている。
「夜間清掃のサニテック・サービスです」
眠そうな警備員が俺のIDをスキャンする。偽造品だが、騎士団の技術は確かだ。
「B20まで行くのか? 珍しいな」
「配管の詰まりだとよ。下級市民にしかやらせない汚い仕事さ」
警備員は同情的な目で頷いた。
「気をつけろよ。B20より下は......まあ、噂は聞いてるだろ」
「ああ」
俺は煙草をくわえながら、エレベーターへと向かった。
##
B15を過ぎた辺りから、空気が変わった。
温度が下がり、壁に霜が張り付いている。時空の歪みが物理法則を狂わせているのだ。腕時計型の時空安定装置が、微かに青く光っている。
B20。
エレベーターを降りると、巨大な鉄扉が待ち構えていた。
『ヴォイド・レイル運輸 関係者以外立入禁止』
扉の前には、黒いスーツの警備員が二人。だが、様子がおかしい。
目が虚ろで、まるで人形のように直立不動。呼吸はしているが、意識があるようには見えない。
「......虚無を覗いた連中か」
俺は静寂世界を発動し、音もなく近づいた。警備員の瞳孔は完全に開いている。脳は生きているが、精神は死んでいる。
哀れだが、これも仕事だ。
首筋に手刀を入れ、二人を昏倒させる。IDカードを奪い、認証パネルに通した。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
##
扉の向こうは、別世界だった。
通路の壁が、まるで水面のように揺らいでいる。天井は存在したり消えたりを繰り返し、床は歩くたびに色を変える。
「時空の境界線か」
時空安定装置がなければ、即座に虚無空間に引きずり込まれるだろう。
奥へ進むにつれ、異常はさらに激しくなった。
廊下の一部が突然消失し、別の場所へと繋がる。壁から人の手が生えているかと思えば、次の瞬間には消えている。
そして――
「ようこそ、ホークス君」
振り返ると、そこに老人が立っていた。
白髪、皺だらけの顔、質素な黒いスーツ。一見すると、ただの老人だ。
だが、俺は反射的に視線を逸らした。
目を見てはいけない。マロンの警告が脳裏に響く。
「トーマス・ヴォイド......」
「私を知っているようだね」
老人はゆっくりと近づいてくる。足音が、妙に響く。まるで深い井戸の底から聞こえてくるような。
「騎士団の使いか? それとも企業の?」
「ただの清掃員だ」
「ふむ」
トーマスは立ち止まった。
「清掃員にしては、随分と物騒な装備をしているようだが」
バレている。さすがに30万年の経験は伊達じゃない。
「分子分解再構築」
俺は即座に戦闘態勢に入った。掃除機が分解され、対物ライフルが手に収まる。
だが――
「遅い」
次の瞬間、トーマスは俺の目の前にいた。
速い、というレベルではない。瞬間移動でもない。まるで最初からそこにいたかのような、自然な出現。
「30万年の間、私は何をしていたと思う?」
老人の声が、直接脳に響いてくる。
「戦闘? 修行? いいや、違う」
トーマスの手が、ゆっくりと上がる。
「私は『理解』していたのだよ。時間とは何か。空間とは何か。存在とは何か」
空気が歪む。
いや、違う。空間そのものが、トーマスを中心に再構築されている。
「虚無とは、すべての否定。だが同時に、すべての可能性でもある」
俺は後ろに飛び退いた。だが、距離が縮まらない。どれだけ下がっても、トーマスとの距離は変わらない。
「空間を支配されている......!」
「支配? 違うな」
トーマスは首を振った。
「私はただ、『ここにいる』だけだ。君が逃げようと、近づこうと、私は常に『ここ』にいる」
##
「掃討殲滅!」
俺は全力で攻撃スキルを発動した。無数の光弾が、トーマスに向かって放たれる。
だが――
光弾は老人の体を素通りした。いや、正確には、トーマスが『そこにいなかった』。
「無駄だよ」
声は背後から聞こえた。振り返ると、トーマスがそこに立っている。
「私を攻撃することはできない。なぜなら、私は『いない』から」
「何を......」
「30万年の虚無体験で、私は理解した。存在と非存在の境界を」
トーマスが手を振ると、周囲の空間に亀裂が走った。
亀裂から、真っ黒な『何か』が漏れ出してくる。光も音も、すべてを飲み込む絶対的な無。
「これが虚無だ。すべてを否定し、すべてを無に帰す力」
黒い虚無が、俺に向かって迫ってくる。
「汚染領域展開!」
紫の霧が虚無と衝突した。だが、俺の最強スキルは、あっさりと飲み込まれていく。
「くそ......!」
このままではまずい。俺は懐から超濃縮ヌカヌカコーラ・クァンタム弾を取り出した。
「ほう、面白い武器だ」
トーマスが初めて興味を示した。
「放射能と魔力の融合か。この時代の技術も捨てたものではない」
俺は狙いを定め、引き金を引いた。
青く光る弾丸が、トーマスの胸を貫く――はずだった。
だが、弾丸は老人の体に触れた瞬間、消滅した。
「残念だが、物理的な攻撃は意味がない」
トーマスはゆっくりと歩み寄ってくる。
「私の肉体は、とうの昔に概念と化している。ここにいるのは、ただの残響だ」
##
逃げ場がない。
虚無が迫り、空間は歪み、時間の流れすら不確かになっていく。
その時、俺は最後の手段を思い出した。
グラブジャンプガントレット。
「30分のチャージが必要だと?」
俺は苦笑した。30分も持つわけがない。
だが――
「おや?」
トーマスが足を止めた。老人の目が、俺の手袋に注がれる。
「空間転移技術か。懐かしいな」
懐かしい?
「300年前、私も似たような研究をしていた。だが、不完全だった」
トーマスは遠い目をした。
「転移した物体が分解される。到着地で再構築できない。多くの犠牲者を出した」
そうか、だから復旧の特異点を開発したのか。
「君も同じ過ちを犯すつもりか?」
トーマスの声に、一瞬だけ感情が宿った。後悔、あるいは――
今だ。
俺は賭けに出た。視線を上げ、トーマス・ヴォイドの目を真っ直ぐに見つめた。
##
瞬間、世界が消えた。
光も、音も、感覚も、すべてが無に飲み込まれる。
これが虚無か。
何もない。本当に、何もない。
時間の感覚すら失われ、自分が存在しているのかさえ分からない。
だが――
『なぜ平気なのだ?』
トーマスの驚愕の声が、虚無の中に響いた。
『君は......壊れないのか?』
俺は虚無の中で、笑った。
「15年前から、俺はとっくに壊れてる」
家族を失った日。瓦礫の下で、ただ見ているしかできなかった日。
あの日から、俺の中には虚無がある。
「30万年? そんなもの、俺の15年に比べたら軽いもんだ」
『......なるほど』
トーマスの声に、初めて敬意が込められた。
『君も虚無を知る者か』
突然、虚無が晴れた。
俺たちは元の廊下に立っている。だが、何かが変わっていた。
トーマスの目に、生気が宿っている。
「久しぶりだ」
老人は微笑んだ。
「誰かと『話す』のは、本当に久しぶりだ」
##
「さて」
トーマスは懐から小さな球体を取り出した。複雑な機械と魔法陣が組み合わさった、美しい装置。
「復旧の特異点だ。これが目的だろう?」
俺は警戒しながら頷いた。
「持っていくといい」
トーマスは球体を俺に投げ渡した。
「ただし、条件がある」
「......何だ?」
「これを」
老人は小さな切符を差し出した。虚無鉄道の乗車券。
「いつか使ってみてくれ。行き先は......君の過去だ」
過去?
「復旧の特異点があれば、時間遡行も可能になる。失われたものを、取り戻せるかもしれない」
俺の手が震えた。
家族を......取り戻せる?
「ただし」
トーマスの表情が真剣になった。
「過去を変えることの代償は、計り知れない。よく考えることだ」
##
老人は踵を返し、虚無の奥へと歩いていく。
「待て」
俺は思わず声をかけた。
「なぜ俺に?」
トーマスは振り返らずに答えた。
「300年、いや主観時間で30万年。私は一つの真理に至った」
老人の声が、遠くから響く。
「虚無を知る者同士は、分かり合える。たとえ敵同士でも」
そして、トーマス・ヴォイドの姿は、虚無に溶けて消えた。
##
地上に戻ると、朝日が昇り始めていた。
体感では数時間のはずだが、時計を見ると丸一日が経過している。時空の歪みの影響だろう。
懐には復旧の特異点。そして、虚無鉄道の切符。
「過去、か......」
俺は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。
15年前のあの日に戻れるなら。
家族を救えるなら。
だが、トーマスの警告が脳裏をよぎる。代償は計り知れない、と。
「......後で考えよう」
俺は切符をポケットに仕舞い、ホテルへと足を向けた。
まずは、マロンに報告だ。
きっとまた、新しい掃除の仕事が待っているだろう。
この腐った世界には、掃除すべきゴミがまだまだ山ほどある。
そして、いつか――
あいつを見つけ出してやる。
15年前、俺の世界を虚無に変えた、あの魔力の持ち主を。