第10話 ヴォイド・レイル社
# 第10話 ヴォイド・レイル社
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ホテル・ミラージュの503号室に戻ると、廊下にフルーティーな香りが漂っていた。
甘ったるい、吐き気を催すような香り。まさか――
ドアを開けた瞬間、俺の最悪の予感は的中した。
「おかえり、ホークス!」
マロンがVIPルームのミニキッチンに立ち、青い液体を小鍋でかき混ぜていた。テーブルには空のベップシ缶が10本以上。そして、見慣れない茶色い液体が入った瓶。
「......何をしてるんだ」
「クラフトコーラを作ってるの!」
マロンは誇らしげに鍋を持ち上げた。青と茶色が混ざり合い、不気味な紫色になっている。
「ベップシをベースに、スパイスとカラメルシロップを加えて、オリジナルのコーラを開発中なんだ」
「よく人のこと言えたな」
俺は呆れ果てた。煙草に火をつけ、窓際に寄る。外は相変わらず灰色の空だ。
「そんなえげつない泥水飲んでおいて」
「泥水じゃないもん!」
マロンは頬を膨らませた。
「騎士団長の魔法が溶け込んだ水って言っても、子どもにまで飲ませるものよ? 一定以上のレベルなら、お酒みたいなものね」
そう言いながら、小さなカップに紫色の液体を注ぐ。
「ふー、ふー」
冷ましてから一口飲み、満足そうに目を細めた。
「それに、料理ギルドと提携して延々と味を改良してるから......はぁ、単純に飲み物として完成度高いのよね」
「泥水が汚水に変わった程度だろう」
俺は作業着を脱ぎながら、懐からヌカヌカコーラを取り出した。まだアンチマター味が2本残っている。貴重品だ、大事に飲まないと。
「それで、今回は何が急ぎだったんだ?」
マロンは鍋を火から下ろし、真剣な表情になった。
「ああ、戦争したがってる奴らがいるのよ」
「戦争?」
「戦争しないと武器が売れないし、自分のところの製品を宣伝できないからね。企業も騎士団も、上層部には戦争推進派がいるの」
「だからヌカヌカコーラが武器作ってたのか」
俺は納得した。平和が続けば、兵器産業は儲からない。戦争は最高のビジネスチャンスだ。
「今のところ、うちの騎士団長チココと企業の『頭』たちは冷戦状態を維持してるけど」
マロンは苦い顔をした。
「どちらも一枚岩じゃない。いつ暴走するか分からないわ」
「それで?」
「戦争を止めるには、お互いが手を出せない状況を作るしかない」
マロンは分厚い資料を取り出した。表紙には『ヴォイド・レイル運輸』のロゴ。
「鉄道会社よ。瞬間移動の特異点技術を持ってる」
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「ヴォイド・レイルか」
俺は煙草を深く吸い込んだ。
虚無鉄道。企業都市連合の交通を独占する巨大企業。中級市民以上だけが利用できる、悪夢の移動手段。
「下級市民は自由に移動できないから知らないんだが、どんな感じなんだ?」
「そうね......説明するより見せた方が早いわ」
マロンはパティに目配せした。
「パティ、模型お願い」
ゴン!
フライパンがテーブルを叩くと、精巧な模型が現れた。線路と列車、そして歪んだ空間を表す透明な球体。
「現実世界では10秒ほどで目的地に着くわ。東から西まで、大陸を横断しても10秒」
「便利じゃないか」
「でもね」
マロンは模型の透明な球体を指でつつきながら、神妙な顔をした。
「列車はこの『虚無空間』っていう別次元を通るの。問題は、向こうの時間の流れが違うこと」
「どう違う?」
「乗客の体感時間で、約3000年」
俺の手が止まった。
「......は?」
「3000年間、真っ暗な虚無の中を彷徨うことになるわ。音も光も、何もない世界を」
パティが再びフライパンを振ると、模型に小さな人形が現れた。列車の中で、永遠に同じ姿勢で座っている。
「中級市民は悲惨よ。意識を保ったまま3000年。でも到着後に記憶消去処置を受けるから――」
マロンは指でこめかみをトントンと叩いた。
「『あれ? もう着いたの? 早いなぁ』って感じで、地獄の記憶は全部消される」
「地獄じゃないか」
「でも上級市民は違うのよ」
マロンはクラフトコーラを一口飲んでから、別の装置の模型を取り出した。
「完全コールドスリープ状態で移動するの。肉体も精神も、完全に停止。だから苦痛は感じない」
「それなら問題ないんじゃ?」
「ところがね」
マロンは複雑な機械装置を指差した。
「到着後、この『復旧の特異点』で肉体と精神を起動させるんだけど......システムエラーで記憶が混濁することがあるの」
「混濁?」
「3000年分の虚無の記憶が、夢として流れ込んでくることがある。ほとんどの上級市民は、悪夢だと思って忘れるけどね」
なるほど、完璧なシステムではないということか。
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「実は最近、面白い噂を聞いたの」
マロンは声を潜めた。
「上級市民の中でも、わざとコールドスリープを使わない人がいるらしくて」
「なぜそんな真似を?」
「3000年の虚無体験が、ある種の修行になるって信じてる人たちがいるのよ。『虚無教団』って呼ばれてる」
狂信者の集まりか。この世界には変な奴が多すぎる。
「でもね、一人だけ本当にそれで強くなった人がいるの」
マロンは古びた写真を取り出した。白髪の老人が写っている。だが、その目は――
「トーマス・ヴォイド。ヴォイド・レイル運輸の創業者にして現社長」
「300歳を超えてるって聞いたが」
「正確には312歳。でも主観時間では......」
マロンは指折り数え始めた。
「創業から300年、延べ100回以上ヴォイド・レイルを利用。しかも記憶保持したまま。つまり――」
「30万年」
「そう! 30万年分の記憶と経験を持つ化物よ」
俺は写真を見つめた。一見すると普通の老人だが、目の奥に途方もない深淵が宿っている。
「しかも面白いことに」
マロンは別の資料を見せた。レベル計測器の数値。
「この人、最初はレベル15の一般人だったの。でも今は――」
「レベル135、Sランク」
俺は息を呑んだ。
「虚無空間での3000年、彼は何をしてたと思う?」
「......まさか」
「そう、イメージトレーニング」
マロンは興奮した様子で身を乗り出した。
「肉体は動かない。でも精神は自由。3000年間、ひたすら戦闘シミュレーションと魔力制御の訓練を繰り返したの」
「それだけでレベルが上がるのか?」
「精神と魔力は直結してるから。極限まで研ぎ澄まされた精神は、肉体の限界を超越する」
つまり、トーマス・ヴォイドは30万年分の修行を積んだ化物ということか。
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「話がそれちゃったけど」
マロンはクラフトコーラをくるくる回しながら言った。
「要は、ヴォイド・レイルの技術があれば、一瞬で大量の物資や兵力を移動できるってこと」
「戦争には最適だな」
「でも、私の技術と組み合わせれば、もっといいものが作れるのよ」
マロンは急に立ち上がり、壁に貼られた設計図を指差した。
「見て! これが私の開発した空間転移装置」
複雑な魔法陣と機械の融合体。素人目にも高度な技術だと分かる。
「重力を歪ませて空間に穴を開け、瞬間移動を可能にする。理論上は完璧よ」
「じゃあなぜ使わない?」
「それがね......」
マロンの顔が曇った。
「転移させた物体が、到着時にバラバラになっちゃうの」
「バラバラ?」
「分子レベルで分解されて、運が良ければ肉塊として到着。運が悪ければ素粒子になって消滅」
「使い物にならないじゃないか!」
「でも!」
マロンは再び元気を取り戻した。
「復旧の特異点があれば話は別。分解された物質を完全に復元できるから、真の瞬間移動が実現するわ!」
なるほど、だから復旧の特異点が必要なのか。
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「さて、本題に戻るわね」
マロンは新しい地図を広げた。中央駅の詳細な構造図。
「ヴォイド・レイル本社は中央駅の地下にある。B1からB20までは普通の地下鉄、でもそれより下は――」
「虚無鉄道の専用区画か」
「そう。特にB30からB50は、時空が不安定な危険地帯」
地図には赤い印がいくつも付けられている。
「警備は?」
「レベル70~90のエージェントが30人。それと時空防壁」
「時空防壁?」
「侵入者を虚無空間に飛ばす罠よ。でも安心して」
マロンは小さな腕時計型の装置を取り出した。
「時空安定装置。これを付けてれば、時空の歪みに巻き込まれない」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「99.7%は大丈夫! 実験でも証明済みよ」
「残りの0.3%は?」
「......まあ、運が悪ければ3000年コースね」
俺は深いため息をついた。
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「でも今回は特別サービス!」
マロンは大きな箱を引きずってきた。
「新装備を用意したの。まずはこれ!」
青く光る特殊弾。弾頭にヌカヌカコーラのロゴが誇らしげに刻印されている。
「超濃縮ヌカヌカコーラ・クァンタム弾?」
「そう! 実はヌカヌカコーラ社の開発主任と個人的に知り合いでね」
マロンは得意げに胸を張った。
「私の魔法技術と向こうの放射線技術を融合させたの。着弾時にはクァンタム味の香りも広がるわよ」
俺の目が輝いた。愛するヌカヌカコーラが、こんな形で進化するなんて。
「威力は?」
「半径10メートルを放射線と魔力で焼き尽くす。でも香りは50メートル先まで届くわ」
素晴らしい。戦闘しながらヌカヌカコーラの香りを楽しめるなんて。
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「次はこれ」
マロンが取り出したのは、どろりとした青い液体が入った注射器。
「濃縮ベップシ注射......まさか」
「そう、通常の20倍濃度。どんな怪我も毒も即座に治る万能薬よ」
「泥水の注射なんて」
「でも死ぬよりマシでしょ?」
マロンは真剣な表情になった。
「ただし副作用があるわ。一度使ったら完全に中毒になる。ベップシなしでは生きられない体になるの」
「禁断症状は?」
「地獄よ。幻覚、幻聴、全身の激痛、内臓の機能停止......」
使わないに越したことはないな。
「最後はこれ!」
黒い手袋。指先に魔法陣が刻まれている。
「グラブジャンプガントレット。私の空間転移技術の応用よ」
「どう使う?」
「掴んだ相手を強制的に転移させる。ただし――」
マロンは不気味に微笑んだ。
「着地点は指定できない。相手は分子レベルで分解されて、1キロ四方に肉片となって降り注ぐわ」
えげつない武器だ。
「チャージに30分かかるから、切り札として使ってね」
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「あ、そうそう」
準備を終えた俺に、マロンが最後の注意をした。
「トーマス・ヴォイドに会ったら、絶対に目を合わせないで」
「理由は?」
「30万年の虚無を見つめた目は、常人の精神を破壊するって言われてるの」
「......本当か?」
「彼と目を合わせた社員は皆、廃人になったわ。虚無恐怖症って診断されて」
ますます会いたくない。
「じゃあ、頑張って! 成功したら報酬3倍!」
マロンは紫色のクラフトコーラで乾杯のポーズを取った。
俺は最後のアンチマター味を開け、一気に飲み干した。
黒い液体が喉を焼く。反物質の刺激が全身を駆け巡り、覚悟が固まった。
さて、虚無鉄道への片道切符を手に入れに行くか。
帰りの切符は、自分で用意するしかない。