その旗は白
車のエンジンの音が間近に聞こえた気がして、万尋と龍臣は顔を見合わせて反射的にしゃがみ込んだ。
撮影スタジオの外階段の手すりの隙間から下を覗くと、ロケバスと思しき白のバンが駐車場から出ていくところだった。
まばらに車が駐められた駐車場は無人になり、また静けさが戻る。
考えてみればここは7階の踊り場なので、ちょっとやそっとの声は下には届かないだろう。
二人は安堵して背中を手すりに預ける。
7月の真昼とあって日差しは強かったが、湾岸エリア特有の風が吹いて心地いいくらいだった。
「綾香に何もらったんだよ」
龍臣が、万尋の手元を覗き込む。
万尋が同年代の共演者から何やら可愛らしいデザインの紙袋を渡されていたのは、ついさっきの出来事だった。
「これ?貸してた本と、コラボしてるブランドのパックだって」
「パック?」
差し出された袋の中を見ると、確かにパックらしき薄いパウチがぎっしりと詰められていた。
一つ手に取ってみると、カラフルなパッケージには女の子のイラストが描かれ、20代男性にはおよそ縁遠いアイテムであることが分かる。
「これ、お前にって?」
「事務所の皆さんにって。営業だよ、要は」
万尋が苦笑いしてみせる。
ゆるふわで可憐な外見に似合わずドライで抜け目ない性格の綾香ならば、共演者の事務所にコラボブランドを売り込むことは充分にあり得た。
「龍臣にあげるよ。石野さんとか、喜ぶんじゃない」
龍臣のマネージャーの石野は20代の女性で、確かにこのアイテムのメインターゲットだ。
「…なら貰っとく」
龍臣は少し嬉しそうに、万尋からその小さいが重たい紙袋を受け取った。
その様子を見て万尋が笑う。
「龍臣のくせに、嫉妬したんだ」
容易く心中を見透かされ、龍臣は顔をしかめる。実際、万尋と綾香が親しげに話す様子に耐えきれず、この外階段に万尋を連れ出していた。
「くせにって何だよ」
「今の現場でも人気者なんだろ、どうせ」
「お、嫉妬してんの」
「…してるよ、ずっと」
目をそらすこともなくまっすぐ龍臣を見つめて、万尋が言い切る。
形勢逆転を計った龍臣のからかいはあっけなく砕かれ、心臓がどきりと跳ねる。
さっきまで万尋の口元に浮かんでいた笑みは消え、その黒く光る瞳に見入る内、何を考える間もなくキスされた。
はじめ感触を確かめるように触れるだけだった唇は、徐々に深さを増していく。
心臓は耳元で早鐘を打ってうるさい。
柔らかな舌で唇をなぞられ、思わず吐息が漏れそうになる。
「…ちょっと、タイム」
一筋の理性をたぐり寄せ、万尋の背中に回した手で肩を掴んで引き剥がした。
まだ息の触れる距離で見つめる万尋の瞳は、夢を見ているかのように濡れている。
「…何?」
「何じゃないだろ。ダメだろ、こんなところで」
何か特別な引力が働いているに違いない万尋の瞳から無理やり目を逸らし、勢いをつけて立ち上がる。
同時に、素早く手を掴まれた。
「帰っちゃうの?」
哀れっぽく見上げてくる万尋は、捨てられた子犬のような目をしていて、龍臣の理性がまたぐらりと揺らぐ。
やんわり握られたままの掌にじわりと汗がにじんだ。
振りほどいたほうがいいと分かっているのに、体は動かない。
「このあと打ち合わせなんだって」
「俺だって現場あるよ」
こともなげに万尋が言ってのける。
この前までは何かと泣いていたくせに、あのしおらしさはどこへ行ってしまったんだろうか。
「尚更だろ。早く支度して芝居に集中しろよ」
「じゃあ龍臣のことで頭がいっぱいでセリフ飛んだら責任とってよ」
ああ言えばこう言う万尋に、龍臣は抵抗を諦めた。はじめから勝てる相手ではなかったことをようやく認める。不本意ながら。
「…打ち合わせに遅刻したら責任取れよ」
万尋の隣に座り直し、柔らかな髪を撫でて首筋を引き寄せる。
万尋はいいよ、と呟いて目を閉じ、恋人のキスにこたえた。