この空に、君への愛を歌おう
何に打ち込んで良いかわからなくなっていた。
前に進みたいのに、気づけば見当違いの方向を向いている自分がいる。
どうしたらいい?
何度も自問自答するけれど、答えは見つからなくて。
自問自答するほどに自己嫌悪ばかりが募った。
どうしたら、どうしたら。
焦燥ばかりが心をざわつかせる、そんな高校一年生の秋。
どうしようもない気持ちの私の前に。
君は、現れた。
◆ ◆ ◆
合唱部に入ったのは、単に大きな声で歌ったら、気分がすっきりするかも、という単純な理由だった。
だから、周りと調和のとれた歌が歌えるわけもなく。
指揮をしていた三年の女性の先輩は、私が音を外すとその都度指摘した。もちろん、指摘するのは私に限ったことではないが。
そうは言っても気になるもので、最近では注意を恐れて、私はあまり大きな声で歌えなくなっていた。
自分の歌なんて、ほどほどで、邪魔にならない程度でいい。
そんなことを思って。
だけどある日、その先輩が指揮を辞めたいと言い始めた。
代わりはすぐに決まると思えた。
だけど、みんな積極的に指揮をやりたがらなかった。その先輩ほど的確な指摘ができると思えないというのが、みんなの理由だった。
誰もやりたがらず、困った先輩は、ある人物に白羽の矢を立てた。
一年の、合唱部でもない帰宅部の男子。
彼を勧誘して、無理矢理指揮に据えた。
まったくの素人で、一体どうするのだろうと思ったけれど、彼は意外にもリズム感や音感が良く、指揮も指摘も的確だった。
聞けばピアノとヴァイオリンを幼い頃から続けていたらしく、音楽には広く精通していた。
すらりと手足が長く、色白で凛々しい彼を、すぐにみんなが好きになった。
他クラスだったので知らなかったけど、クラスの女子に大人気みたい。
だけど私は知っている。
彼は元指揮の先輩、三木先輩のことが好きで、尊敬していることを。
そのまっすぐな思いを知ったのは、夕暮れの放課後。
三木先輩と彼、城川君が話していた。
部室の前にいた私に、二人の声が聞こえた。
「なんで辞めるなんて言うんですか。ずっと、頑張ってきたんじゃないんですか?」
城川君の真剣そうな声。
「でも、私はやっぱり適切じゃない。みんなのために、私は辞めるべきなのよ」
三木先輩が言う。
途中からだったけれど、それが指揮を辞めることについてだというのはわかった。
三木先輩の指摘は的確で、厳しく、耳に痛くて、だからこそ委縮してしまっていたけれど。
でも、誰よりも一生懸命で、みんなのこと、この部のことを考えてくれているのはわかっていた。
私も、みんなも。
「僕は、三木先輩の、音楽にまっすぐなところが好きです」
三木先輩に何かを言おうと思った私だったけれど、城川君の言葉で思いとどまった。
先輩は何かを言ったようだけど、私にはその言葉は聞こえなかった。
そんなこともあって、城川君が優美に指揮をしている姿を見ても、私がときめくことはなく。みんなの黄色い声援を横目に、ちょっと距離を置くようにしていた。
◆ ◆ ◆
自分で自分のことを好きになれない。
そんな自分を変えたいと思いながらも、どう前に進めばいいか、わからずにいる。
勉強も、部活も、人間関係も、何もかも中途半端。
全力で取り組もうにも、すぐに挫けて、本気を出す勇気が湧かない。
自分の中で、言い訳ばかり探している。
藻掻く自分に寄り添うような歌を聴いていた。
どうしようもなさを、慰めながら。
「♪自分が自分を愛さなきゃ、一体誰が君を愛するっていうんだ」
そんな歌詞を口ずさみながら、学校への道を急ぐ。
だけど校舎が近づくと集団がいて、進行を妨げられた。
その輪の中心にいたのは、城川君。
楽しそうに友人たちと話しているのが見える。
進みたいのに。
こういう、みんなの中心にいる人に、私の気持ちなんて、わからないんだろうな。
そんなことを思いながら、私は気持ちを切り替え、耳を澄ます。
音楽は最後の部分へ。
「♪一番わかっている君自身が、君を守らなきゃ。そうでなきゃ、たとえ世界が味方でも、君はいつまでも一人」
◆ ◆ ◆
「高野さん」
城川君が私の名を呼んだ。練習終わり、私にだけ声をかけてきた。
「もう少し声を出してください」
声。
「このぐらいがちょうどよくない? 私、あまり上手くないし、大きいと邪魔になっちゃうよ」
私がそう言うと、彼はむっとしたような表情を浮かべた。
「だったら上手くなってください」
その言葉に、今度は私がむっとした。
「具体的にどうすればいいの?」
これまで自分でも、少しは努力してきたけれど、それでもほとんど上達はしなかった。
「なんで」
城川君は呟くように言う。
「なんで、諦めちゃうんですか。自分で、自分の可能性を追求せず、ちょっとのところで放棄するんですか」
「そんなこと言われても」
「ちょっと歌ってみてもらえますか」
私は渋々、先ほど歌っていた練習曲を歌い始める。
「三木先輩が言っていました」
私が歌っているのを聴きながら、城川君は言う。
「高野さんのことを、一番期待していると」
私はそれを聞いて、歌うのを辞める。
「三木先輩が?」
「高野さんのことを、合唱部に勧誘したの、三木先輩だと聞きました。仮入部に来た時に、誰よりも声が綺麗だと。僕も、ずっと聴きたいと思っていたんです」
城川君は悲しそうに視線を落とす。
「でも、イメージしていたのと違いました」
「あのさ。勝手にイメージされても、そんなの、知らないよ。三木先輩から、そんな話、一度も聞いたことないし」
いつも手厳しい三木先輩のことしか思い出せない。
でももしかしたら、その手厳しさは、期待の裏返しだったのかもしれない。
そんな考えがふと、浮かんだ。
「投げやりに歌わないでください」
城川君は言う。
「歌う思いに人は心を突き動かされるんです。あなたの歌には、思いが欠けています」
思い。
重い。
三木先輩の、城川君の思いが、重い。
「私も辞めようかな」
「え?」
「三木先輩、辞めちゃうんでしょ? 私も、辞めようかな。そんな風に言われるなんて、心外だよ」
今まで、適当に歌っているつもりなんかなかった。
声をあまり出さなくなっても。投げやりになんて、歌っているつもりはなかった。
でも思った。
投げやりだったのは、多分歌じゃなくて、自分自身に対して。
自分の生き方に対して、いい加減だったかもしれない。
今こうして、大切にしていた合唱を盾に、自分のちっぽけなプライドを守ろうとしているみたいに。
本当に守らなきゃいけないものを守れずにいる。
私は気まずくなって、城川君に背を向けて足早に歩き、部屋を出た。
ああ、こんなんじゃダメなのに。
このままじゃいけないのに。
足音が近くで聞こえた。ふと振り返ると、そこには城川君がいた。
「城川君」
驚いて思わず声が出る。
「多分、気づいていないと思うんですけど」
城川君が私をじっと見て言う。
「高野さんの声って、不思議ですよね」
「え、何が?」
「何を言われても、ずっと聴いていたくなるぐらい、綺麗です」
「はい?」
そんなことを言われたことが無かったので、私は思わず間の抜けた声を出す。
「僕のために、ちゃんと歌ってくれませんか」
いや、だから今までだってちゃんと歌ってたってば。
そう言おうと思ったんだけど、その真剣な表情に、私は小さく空気を吸い込む。
「よく聴いててよ」
上手く歌えると思ったわけじゃないけれど。
城川君が言う、「ちゃんと歌う」が、多分こういうことなんじゃないかと、漠然と思った。
それは怒りのような、辛さの後の更なる悲しみのような、そんなどん底の気持ちと。
その向こうにある、朝の空のような清々しさを抱くもう一人の自分。
そんな、二つの自分が交錯する、起伏に富んだ歌。
感情的と言えばそれまでのこと。
私はどこかで、自分の感情と向き合うことを、恐れていたのかもしれない。
慌ただしい毎日で自分を薄めて、胡麻化してしまっていたのかも。
そうでなければ、この不安定な自分と、ちゃんと向き合わなければいけなくなってしまうから。
私は歌っている間、何も見ていなかった。
ただ歌にだけ、感情にだけ目を向けていた。
歌い終わって、城川君の顔を見る。
これで「ちゃんと歌ってください」と言われたら困るな。そんなことを思っていると。
城川君は何も言わずに私の顔を見ていた。
「何か言ってよ」
私がそう言うと、城川君は、ようやく口を開いた。
「やっぱり、声が好きです」
「何よ、それ」
「次歌う時も、それぐらい力強く歌ってくださいね。楽しみにしてますから」
そう言うと、城川君は部室へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
三木先輩は、指揮は辞めてしまったけれど、合唱メンバーとしてちゃんと参加していた。
私に直接何かを言うことはほとんどなくて、城川君と話していることもほとんどなかった。
秋の大会が近づいていた。
城川君は熱心で、チームも一丸となって練習に励んでいた。
私はそれでもどこか上の空で、城川君とのやり取りなどなかったかのように、過ごしていた。
ちゃんと向き合うことが、やっぱり苦手だ。
自分のこと、才能、やりがい、生き方。
そういうことを考えると、急に苦しくなる。
大会が近いこともあって、朝練に来た私は、ふと三木先輩と二人きりになった。
「おはようございます」
「おはようございます。みんなまだみたいね」
三木先輩はそう言うと、私の方にずいっと近づいてきた。
「城川君はどう? 話聞いた?」
「話?」
「あの子、高野さんの声を聴いて、指揮を引き受けてくれたんだよね。声が好きだって」
「そう、だったんですか」
三木先輩のお願いだからじゃないのかな。私がそんな風に思っていると。
「城川君は、音楽愛に関して、きっと誰よりも強いと思う。だから、これまでは頼んだって、合唱部には来ず、自分の音楽のことばかりやっていたのに」
三木先輩は笑う。
「高野さんが歌わなくなったって言ったら、飛んでくるんだもの。ホント、ウケるよね」
城川君は。
本当に私の歌が、好きらしい。
そう思ったら、何だかどうしたらいいかわからない気持ちになった。
「城川君は、三木先輩のこと……」
「尊敬してくれているだけで、この部に来た理由は、私じゃないよ」
三木先輩に何かを返そうと思った矢先、他の部員たちがやって来た。
私はそれ以上聞けず、練習が始まった。
◆ ◆ ◆
全国大会の大舞台。
大きなホールで、思い切り歌うのは楽しくて。
だから思い切り歌いきることができたと思えたから、思ったほどの結果ではなかったけれど、やり切った感はあった。
大会が終わり、帰ろうとしていた矢先。
城川君が一人、屋上にいるのが見えた。
私はふと気になって、屋上へと向かう。
城川君は思い詰めたように、じっと空を見ていた。
「大丈夫?」
私が声をかけると、城川君はこちらを向いた。
「ミスった」
多分大会中の指揮のことだろう。
誰もそのせいでダメだったなんて思っていないだろうし、そんな気にするようなほどではなかったはずだ。
だけどそう言ったって、この音楽愛の塊には、意味がないんだろうな。
「歌ってもいい?」
城川君は何も言わず、私を見ている。
課題曲とは関係ない歌。
私がいつも口ずさんでいるあの曲。
どうしようもない自分に寄り添ってくれる歌詞が好きで、何度となく歌った。
君の心にも届けばいい。
そう、願いを込めて。
「なんで」
城川君は驚いたような表情を浮かべた。
「僕、言ってなかったと思うんですけど」
「え? 何を?」
「それ、僕が作った曲……」
「そうなの!?」
私の方が驚いてしまった。
「その様子だと、本当に知らないで歌ったんですね」
「城川君が作っているなんて、知らないって」
「どうして、その曲にしようと思ったんですか?」
私は、歌詞が好きだとか、曲のテンポが好きだとか、そういう当たり前のことをいくつか挙げて。
「何か今、これじゃなきゃ、ダメな気がして」
と言った。
「そっか」
城川君は、それを聞いて笑う。
「もう一回歌ってくださいよ」
「ヤダ。今日は大会で全力出して、疲れているの」
すると彼は、
「じゃあ、今度高野さんのために曲を作るから、歌ってくれます?」
「いいけど」
「約束」
その笑顔が、どうしようもなく眩しくて。
そんな自分を、少し苦々しく思う。
◆ ◆ ◆
城川君とは、部活を通して何度か会っていたけど、約束の曲の話にはなかなかならなかった。
まだだろうかと、心待ちにしている自分がいる。
その自分を何度か打ち消しているうちに、どうして自分は、自分の気持ちを真正面から受け止められないのだろう、なんて、そんなことを思った。
本当は、多分。
でも、それに気づくのは怖くて。
心にふたをしていた。わからないことにしていようと思った。
だけど。
部活終わり、城川君が、「曲ができました」と楽譜を渡してきた。
城川君の少し不安そうな、緊張した顔を見ながら、私は音源を聴く。
曲が始まった。
城川君がピアノを弾きながら歌っている。
自分の気持ちに正直になれない女の子が、少しずつ自分と和解しながら、前に進んでいく歌詞で。
何度失敗しても自分を嫌いにならないでいたいという、その切なる思いが自分自身と重なった。
そんな君がどうしようもなく好き。
その歌詞で終わるその歌は。
強烈な、ラブレターでもあった。
だから私は「今度覚えてから歌うね」と、逃げるようにその場を離れようとして。
「やっぱり、もう一度聴くね」
と、言い直した。
今日だけは。今だけは。逃げずに君と向き合いたい。
今、この瞬間だけは、どうしたってここにいて、思いを受け止めなきゃいけないと思った。
ゆっくり口を開き、歌い始める。
君の弾くピアノを聴きながら、君の声と重なるように。
「そんな君がどうしようもなく好き」
最後の部分を歌い終え、城川君を見る。
何でか、視線が合った瞬間に、お互い笑ってしまった。
「そういうことです」
と、城川君が言う。
「どういうこと?」
私は少し笑いながら尋ねる。
「さっきまで逃げようとしてたくせに」
「そう言われてもね」
「じゃあ、ちゃんと言いますから、こっち向いて」
私は緊張しながら、彼の顔をまじまじと見る。
「やっぱ無理」
「何それ」
「曲の最後の歌詞。以下略」
そう言って、城川君はそっぽを向いた。
多分、本当は似た者同士の私たちは。
少しずつ、自分と和解しながら、前に進んでいる。
少しずつわかっていこう。
お互いのこと、思いを。
これから君が作る、様々な曲を聴きながら。
赤く染まる夕焼け空を見上げると、
君も同じように空を見上げていた。
正面を向いたら、照れくさくなってしまう私たちだから。
この空に、君への愛を歌おう。
<終わり>
最後までご覧いただきありがとうございます!
もしよろしければ、評価・リアクションなど、応援いただけると幸いです!