9.猫っぽい彼と犬っぽい友人
研究員としての生活が始まり、一週間ほどが経った頃。
この日、ミラは教授室でクリスと議論を交わしていた。
「脳波を増幅する素材の候補は見つかったか?」
「脳波の強度は、魔力操作と密接に関係しています。ですので、魔力操作を補助する魔道具に使われている素材を、まずは片っ端から試そうかと」
研究の構想は数年前から頭の中にあったので、実験の方向性はある程度考えていた。ようやく思い描いた研究ができることに、ワクワクが止まらない。
「良いと思う。あとは、脳波計の仕組みが使えるかもしれない。あの魔道具も、やっていることは脳波の増幅だ。あれは脳波を増幅して計測可能な信号に変換することで、脳波測定を可能にしている」
「なるほど……確かに! 検討してみます!」
そんな議論をしばらく続けていると、不意に居室のドアが開く音がした。居室と教授室は扉を一枚挟んだだけなので、ここにいても聞こえるのだ。
ミラが来客の対応をしようと立ち上がったところで、教授室の扉が大きく開かれた。
「やあ、クリス! 君が研究員を取ったって聞いたから見に来たよ!」
現れたのは、ブロンドの髪に金色の瞳を持つ、笑顔が素敵な爽やかな若い男性。歳はクリスと同じくらいだろうか。
どうやらクリスの知り合いのようなので彼に視線を向けると、その顔の眉間には見事にシワが出来ていた。
「冷やかしなら帰れ」
クリスがジトリとした視線を送ると、その男性は呆れ顔で溜息をつく。
「冷たいなあ、全く。たった一人の親友を蔑ろにするもんじゃないよ?」
「誰が親友だ」
クリスは無愛想にそうあしらっていたが、ミラには二人の雰囲気がとても親しげなものに見えた。今までクリスが誰かと親しくしているところは見たことがなかったので、これは大変珍しいことである。
(旧知の仲なのかしら? とても仲が良さそうだわ)
クリスが無愛想な黒猫なら、この男性はさしずめ人懐っこい犬といった印象だろうか。大きくてクリクリとした瞳とふわふわの金髪が、より一層犬っぽさを感じさせる。
そんなことを思っていると、犬っぽい彼がミラを捉え、にこやかに話しかけてきた。
「君がミラ嬢かい? はじめまして、僕はシリウス・ルミナシア。よろしくね」
「はじめまして、私はミラ・ハインズと申します…………ん? ルミナシア……? ってことは、王族の方!?」
国の名を冠する彼は、なんとこの国の第二王子、シリウス・ルミナシアだった。
(犬っぽいとか、なんて失礼なことを……!)
クリスがいつも通りの無愛想な態度を取っていたので、彼がまさか王族だとは思わなかった。ミラは慌ててシリウスに向かって一礼をする。
「お、お初にお目にかかります、シリウス殿下! 兄がいつもお世話になっております!」
シリウスは若くして王国軍魔法師団の団長を務める傑物だ。そして、団の中でも特に優れた魔法使いを集めて作られた「特務部隊」の隊長も兼務している。実はミラの兄も特務部隊に所属しており、彼は兄の直属の上司に当たるのだ。
ちなみに、特務部隊に所属できるのは特級クラスの魔法使いだけ。シリウスはその中でも飛び抜けて強く、この国一番の魔法使いと聞く。
そんな彼だが、威圧感や近寄りがたさは全く感じない。むしろ温和で人当たりのよい人物だ。
とはいえ相手は王族なので萎縮していると、シリウスはクスリと笑った。
「ああ、そんなにかしこまらないで。クリスを見てご覧よ。王族に対してあの態度だよ?」
そう言われクリスを見ると、椅子の肘掛けに頬杖をつきながら、迷惑そうな視線をシリウスに向けている。
「先生の真似するのは、少々難しいですね……」
「ハハッ! 確かにあんな目を向けてくる奴はクリスくらいだ!」
シリウスが上機嫌に笑うと、クリスはやれやれというように軽く溜息をついていた。
その後、シリウスから手土産の菓子を受け取ったクリスは、紅茶を淹れに給湯室に向かっていった。彼が戻ってくるまでの間、ミラは居室でシリウスと雑談をしている。
「クリスとは貴族学校時代からの付き合いでね。態度はあんなだけど、これでも仲はいいんだ」
「先生にご友人がいらっしゃったとは、驚きました」
「あいつ、僕以外に友達いないからね」
シリウスはそう言って苦笑すると、居室を見回しながら寂しげな表情になる。
「昔はここにもたくさんの研究員や学生がいたんだけどね」
「そうなんですか!?」
それは初耳だ。ミラが二年前にこの研究室に来たときには既に誰もいなかったので、てっきりずっとクリス一人だけの研究室なのだと思っていた。
「うん。でも、四年くらい前かな。クリスの研究成果が持ち逃げされるって事件があって。なんというかまあ、人間不信気味なんだよ」
「持ち逃げ……!?」
研究成果の持ち逃げ。そんな衝撃的な事件を耳にして、ミラの心臓はドクドクと早鐘を打った。
長年心血を注いできた研究の成果を他人に奪われるなんて、想像するだけでゾッとする。クリスはその時、一体どんな心境だったのだろうか。自分が彼の立場だったら、盗んだ相手を憎まずにはいられない。
青ざめるミラを見て、シリウスが慌てて補足を入れた。
「安心して。持ち逃げした奴は早々に捕まったから、事なきを得たんだ」
「そうでしたか……!」
ミラはホッと胸を撫で下ろした。
もし犯人が捕まるより先に研究成果が公表されてしまっていたら――。
そうと思うと、なんとも恐ろしい。研究や発明というものは、一番最初に公表した人が全てで、二番手では意味がないからだ。
しかし、安堵するミラに対し、シリウスはフッと悲しげな表情を浮かべた。
「でもあの事件以来、クリスは研究員も学生も取らなくなってしまったんだ。それが何ともやるせなくてね」
「どうして先生の研究室に人がいないのだろうと、ずっと疑問だったのですが、そういうことだったのですね……」
今の一連の話から察するに、成果を盗んだ研究員は元々この研究室に所属していたのだろう。それならクリスが自分の近くに誰も置きたがらないのは当然だ。秘書でさえ雇わないのも、その事件のせいなのかもしれない。
そんなことを考えていると、シリウスが表情を和らげ、にこりと笑いかけてきた。
「だからね、あいつが研究員を迎え入れたって聞いた時は、正直かなり驚いたんだ。同時にとても嬉しくてね。クリスがようやく誰かを信じられるようになったんだって。君は相当信頼されてると思うよ。あと、期待もされてる」
「そう……なんでしょうか」
「うん。君はすごく優秀だし、あいつは本当に信頼してる奴しか自分のそばに置かないからね」
(信頼と期待、か)
もし本当にそうなら、素直に嬉しい。仮にそうだとしても、クリスはそんなこと、言葉にも態度にも決して出しはしないだろうが。
それでも、自分が彼にとって特別な存在なんだということが、ミラにとってはなんとも励みになった。
「私、先生の信頼と期待に応えられるよう頑張ります」
胸の前で拳を握り、決意を固めたその時、クリスが居室に戻ってきた。
「何の話だ?」
ちょうど彼の話をしていたこともあり、ミラはびくりと肩を跳ね上げた。
クリスはティーカップが三つ乗ったトレイをテーブルに置きながら、過剰に驚いたミラを不審そうに見ている。
なんと答えればよいかと焦りながら目を泳がせていると、シリウスが助け舟を出してくれた。
「何だかんだ言って紅茶を出してくれるんだから、クリスは優しいよねって話」
目を眇めてからかうように言ったシリウスに、クリスは呆れ顔を向ける。
「これ飲んだら帰れよ」
その後、三人でしばらく歓談した後、ミラはシリウスに言われた。
「ミラ嬢には、ぜひとも女性研究員の道標になって欲しくてね。一般的に、魔力量は男性の方が多いとされているけど、女性の方が魔力操作に長けている傾向にある。だから僕は、女性の研究員や魔法使いがもっと活躍しやすい社会にしていきたいと考えてるんだ」
シリウスは魔法師団の団長である前に、この国の第二王子である。この国をより良くしていこうと、常日頃から様々な施策を考えているようだ。
「シリウス殿下にそう言っていただけて光栄です。皆の手本となるよう、精進して参ります」
それを聞いたシリウスは満足そうに笑うと、研究室を去っていった。