8.顔が怖いです、先生
その日のお昼時、ミラは学生時代と同じように大学の食堂へと向かった。
食堂は学生も研究員も利用するので、かなりの広さがある。適当な席に座って昼食を取っていると、不意に声をかけられた。
「おや、ミラ君じゃないか。クリス君のところの研究員になったそうだね」
振り返ると、そこには初老の男性が佇んでいた。
彼はジョセフ・ベネットという、この大学の中でもかなり著名な教授で、これまでに様々な研究成果を挙げている人物だ。
ただし、クリスとはあまり相性が良くないようで、会うたびにクリスに嫌味を言ってくる。そのため、ミラは正直彼のことが苦手だった。
どうやらベネットは、若くして大成したクリスのことが気に入らないらしい。
「はい。幸いなことに、ロイド先生にお声がけいただいて」
「優秀な君が大学に残ってくれて嬉しいよ。もしよければ、ぜひ我が研究室に移籍して来ないか?」
まさかの引き抜きのお声がけ。それも研究員になった初日に。
それはクリスに対してあまりにも失礼ではないだろうか。
流石にベネットの常識を疑い、ミラは顔を引き攣らせながら無理やり笑顔を作った。
「ありがたいお誘いなのですが、私はロイド先生の元で研究すると決めておりますので」
「まあまあそう言わずに、一度検討してみてくれないか?」
ベネットは笑顔でミラの肩をバンバン叩いてくる。女性に不用意に触れてくるデリカシーの無さも、苦手な理由のひとつだ。
ミラは小さく溜息をついた後、彼に向き直って言った。
「お言葉ですが、配属初日に引き抜こうとするのは、流石にロイド先生に対して失礼ではありませんか?」
ミラが面と向かってそう指摘すると、彼はあからさまに不快そうな表情を見せた。
「おいおい、そう熱くならんでくれよ。全く……君は冗談も通じない、つまらない女性だな。そんなだから婚約を破棄されたのではないのかね?」
つまらない女性。誰かからそう評されるのは二度目だ。
ジュダスに婚約破棄されたときのことを嫌でも思い出し、ミラはどうしても暗い気持ちになってしまった。
わずかに俯いたその時、地を這うような、低く静かな怒声が頭上から降ってくる。
「うちの研究員に何か?」
ハッとして見上げると、すぐそばにクリスが立っていた。彼は皿が乗ったトレイを持ったまま、ベネットを鋭く睨みつけている。背筋が凍りつきそうな冷たい視線だ。
「え、ああ、いや……」
「彼女はうちの研究員です。二度と勧誘しないでいただけますか?」
(顔、こっわ!!)
クリスは最大限に機嫌が悪いようで、今にも人を殺しそうな目をしている。普段の彼はベネットの嫌味も適当に受け流しているのだが、ここまで怒っているところを見るのは初めてだ。
ベネットは流石にバツが悪くなったらしく、そそくさとその場を去っていった。
そのことに満足したのか、クリスはいつもの仏頂面に戻り、ミラの対面に座って食事を始めた。
「ありがとうございました。困っていたので助かりました」
クリスに礼を言うと、彼は一度食事の手を止めた。
「あいつに言われたことは気にするな。聞くに値しない」
どうやらクリスにもベネットの発言がある程度聞こえていたらしい。
今思い返せば、ベネットからものすごく失礼な事を言われたなと怒りを覚えたが、クリスが代わりに怒ってくれたので自ずと溜飲も下がった。
「それと、これからは食堂に行くときは俺を誘え」
「どうしてです?」
「お前を欲しがっている教授は多い。さっきみたいに変な虫がついても困る」
「ブフッ……む、虫って……言い方……」
大御所を虫呼ばわりするクリスがなんだか可笑しくて、ミラは思わず吹き出してしまった。彼の発言には本当に遠慮というものがない。
しかし今の言葉から、自分が必要とされていることを実感でき、嬉しさが込み上げてくる。
「わかりました。これからはお声がけさせていただきます」
ミラが笑顔でそう答えると、クリスは満足したように食事を再開させた。
その後、クリスと研究の話や世間話をしながら昼食を取っていると、今度は立派な髭を貯えた白髪の老人が声をかけてきた。
「おやおや、クリス君。それに、ミラ君も」
「ノース学長。こんにちは」
この男性は、ルミナシア魔法大学の学長、ブレイディ・ノース。
彼は魔法研究の権威であり、魔法の属性同士をかけ合わせることで新たな種類の魔法を編み出した天才だ。治癒魔法を発明したのも彼であり、世の中への貢献度は計り知れない。
温和な性格のノースは、穏やかな笑みをミラに向けた。
「ミラ君が大学に残ってくれて、本当に嬉しい限りだ。君の活躍を大いに期待しているよ」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう精進いたします」
「いやはや、良い弟子を持ったねえ、クリス君」
そう言うノースは、にこにこと含みのある笑みをクリスに向けている。
「……なんですか」
対するクリスは、不機嫌そうな顔でノースのことをジトリと見ている。どう見ても学長に送る視線ではない。
しかしノースは気分を害することもなく、むしろ上機嫌に笑っていた。
「君はもう少し僕に感謝しても良いんじゃないかと思うんだけどねえ」
その言葉に、クリスはしばらく黙り込んだ後、この人には敵わないなというように、わずかに苦笑した。
「感謝はしていますよ。ただ、その生ぬるい視線はやめてください」
「ホッホッホ。つい微笑ましくてな。これ以上は君に怒られそうだ。退散するとしよう」
そう言うと、ノースは微笑みながら立ち去っていった。
一連のやり取りを聞いていたミラは、彼らの話の内容が全く理解できず、首を傾げながらクリスに尋ねる。
「何の話です?」
「なんでもない」
クリスはいつの間にか食事を再開していて、黙々と料理を平らげていく。まるでその話題を避けているかのようだ。
隠されると気になるのが人間の性である。
ミラは何とか教えてもらおうと、聞き方を変えながら何度も尋ねた。が、結局彼は頑なに答えてくれないのだった。