40.ファーストキスは旦那様と
「先生からいただいた万年筆、壊してしまったんです。ジュダスから逃げるために、彼の腕に刺して、それで……」
大事に大事に使っていた贈り物の万年筆は、ジュダスの腕に刺した衝撃でペン先がひしゃげてしまっていて、もはや使い物にならなくなってしまっていた。頂き物をこんなふうに壊してしまって、早く謝らなければと思っていたのだ。
しかし、彼は怒ることも不快な顔をすることもなく、わずかにフッと口角を上げただけだった。
「壊れたのなら、また買えばいい。それに、あの万年筆がお前を守ったというのなら、俺も贈った甲斐があるというものだ」
そう言うと、クリスはようやく本から顔を上げてミラの方を見た。その碧眼には、わずかな憂いが滲んでいる。
「もう一度聞くが、何もされてないな?」
「はい。される前に必死に抵抗しましたから」
「そうか。ならいい」
クリスはそう言ってまた本に視線を戻した。彼の横顔を見るに、もう憂いは拭われたようだ。
ミラはなんだか自分の勇姿を語りたくなって、既に読書に戻っていた彼に勝手に喋りかける。
「私、すごく頑張ったんですよ? 好きにさせてたまるかって。唇を奪われそうになったときは、頭突きしてやろうと思ったんです。でもそのとき、先生が助けに来てくださって……」
自然と当時の光景が脳裏に蘇ったが、恐怖心まで蘇ることはなかった。クリスがそばにいてくれるからだろうか。そう考えると、なんだか心がほわほわと温かくなる。
「助けてくださって本当にありがとうございました。私、ファーストキスは旦那様とって決めてるんです」
「……旦那様、か」
クリスはポツリとそうこぼしただけで、他に何も言わなかった。その無表情な横顔からは、どんな感情から出た言葉なのか推し量れない。ミラもこれ以上話す話題がなくなり、口をつぐんだ。
とはいえまだ眠れそうになかったので、ミラは黙ってクリスの横顔を眺めることにした。こんなに彼の顔を眺められるのはこれが最後だろうからと、バレない程度に食い入るように見つめる。
(先生って、本当にかっこいいわよね)
横顔の輪郭から、顔のパーツのバランスの良さがよく分かる。鼻筋はすっと通っていて、唇は薄く、吸い込まれるような碧眼を囲う長いまつげは頬に影を落としている。
彼の横顔を記憶に刻もうと、しばらくの間じっと見つめていると、不意に彼の唇が動いた。
「そんなに俺の顔が好みか?」
クリスを眺めるのに真剣だったミラは、急にそんなことを聞かれ心臓が跳ね上がった。横顔を覗き見ているのがバレていたらしい。
ミラは慌てて誤魔化した。
「え!? いや、別にそういうわけでは……!」
「学会以降、俺のことを見すぎだ。ここ最近は特に」
「まさか、そんなはずは!」
もしかしたら自分の気持ちまでバレているかもしれないと焦り、ミラは飛び起きた。
しかし、とっさに大声を出してしまったことに気づき、ハッとして口元に手を当てる。今は深夜。使用人たちはみな寝静まっている。
するとクリスは本をパタンと閉じて立ち上がると、なぜか寝台の縁に腰掛けた。そしてミラに顔を向け、真剣な表情で問うてくる。
「ミラ、お前は俺のことをどう思っている? お前にとって、俺はどういう存在だ?」
「ど、どうって……」
クリスの目はミラの瞳を捉えて離さず、視線を逸らすことすら許してもらえない緊迫感があった。ミラの心臓はドクドクと早鐘を打っており、学会発表のはるか何倍も今のこの状況に緊張している。
しかし、「どう思っている?」と聞いてくるということは、彼はまだこちらの気持ちに気づいていないのかもしれない。泳がされている可能性もあるが、ミラは一縷の希望に賭け、苦し紛れに答えた。
「こ、心から尊敬している、憧れの先生……ですかね?」
嘘ではない。決して嘘ではない。むしろ本心である。
しかし、ミラの声は上ずり、相手からすれば嘘をついているように聞こえただろう。動揺が全面に出てしまっていた。
(ああ〜もう! もっと上手く隠せたでしょう、私〜!!)
ミラが心の中で大反省会を開いていると、クリスは堪えられなくなったようにフッと笑みをこぼした。
「ククッ。目が泳ぎ過ぎだろう」
「本心ですからね!?」
必死に弁明すればするほど、墓穴を掘っている気がしてならない。なぜって、クリスが確信めいた笑みを浮かべているのだ。これはもう、完全にバレていると思ったほうが良いだろう。
ミラは唇を尖らせ、いじけた様子でジトリと彼を見つめた。
「……もう気づいているんでしょう? 私が先生のことを好きだって」
「そうなんだろうな、とは思っていた」
クリスはどこか嬉しそうに目を細め、口角を上げていた。
ミラは自分の気持ちがバレていたことに落胆し、両手で顔を覆い嘆く。
「ああ〜! 絶対に気づかれたくなかったのに!! 忘れてください! 先生を困らせる気はないので!!」
クリスも気づかないフリをしてくれたら良かったものを。それが大人の対応というものではなかろうか。ミラは心の中で彼に八つ当たりをした。
クリスに合わせる顔もなく、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだ。ここは寝台に潜ってしまおうか。そう考えた時、クリスが優しくミラの手首に触れた。
「ミラ、手をどけろ」
言われた通り仕方なく顔を覆っていた手をどけると、目の前にクリスの顔があった。そのことに驚いた矢先、彼の唇が自分の唇と重なる。
時が止まったかと思った。
一瞬にして、永遠とも思える時間だった。
彼の唇が離れた後も、ミラは何が起きたのか理解が追いつかず、しばらく呆然とした。しかし、目の前にクリスの美しい瞳がある事実に、ようやく脳が状況を理解する。その途端、ミラの頬は一瞬にして赤く染まった。
「けけけ結婚前の女性に、なんてことするんですか! そ、それに、こういうのは好きな人としかしちゃいけないんですよ!?」
「俺のことが嫌いか?」
「好きですけど!!」
「なら問題ないだろう」
(問題大アリですが!?)
ファーストキスを奪われたことは、この際もはやどうでもいい。好きな相手だから、むしろ嬉しいくらいだ。
しかし、ミラにはもうすぐ新しい婚約者ができる。それなのに好きな相手にこんなことをされたら、ずっと未練が残ってしまうではないか。
それに、こういうのは想い合った相手同士でしないと、虚しくなるだけだ。自分が一方的に好きでも、意味がない。
この困った人にどう説教してやろうかと頭を悩ませていると、クリスが不意に笑った。あの、優しい笑顔だ。
「俺はお前を好いている。お前が俺に惚れるより、ずっと前からな」
「…………」
脳内で考えていたお説教の言葉が、一気に吹き飛んだ。彼は今、なんと言った?
(好き? 先生が、私を??)
そんな都合の良い話、あるわけがない。そう思ったが、彼の視線がその考えを否定した。
優しさの中に、渇望が混じっている。目の前の人物を強く望んでいる、そんな視線だ。
「ミラ、聞いてくれるか? 俺の話を」
クリスはそう言って、今から約三年前――ミラと初めて出会った時のことを語り出した。




