38.初めて見せる、優しい笑顔
※この回にはストーカー・性的暴力を想起させる描写が含まれます。ご自身の体調に応じて読み進めてください。
ミラは服のポケットに入っていた万年筆をとっさに取り出し、ありったけの力を込めてジュダスの腕に突き刺した。クリスから、研究員になれたお祝いとしてもらった万年筆だ。
「ぐあっ!」
突然の痛みに怯んだジュダスは、刃物を取り落とし傷ついた腕を抑えた。その一瞬の隙を突き、ミラは彼を押しのけて立ち上がると、胸元を抑えつつ更衣室の扉まで全速力で走り出す。
「待ってミラ。僕は君と一緒になりたいだけなんだ。置いていかないで。ひとりにしないで!」
その言葉とともに足がもつれ、ミラは扉にたどり着く前に倒れてしまった。ジュダスが何か魔法を使ったらしい。
彼は再び馬乗りになり、ミラの両手首を床に縫い付けると、顔を近づけてくる。どうやら口づけをするつもりのようだ。
(頭突きしてやる……! ファーストキスは旦那様とって決めてるんだから!!)
ジュダスを思いっきり睨みつけながら、彼の鼻をめがけて頭を持ち上げようとしたその時、バタンと扉が勢いよく開いた。その大きな音で、ミラもジュダスも一斉に扉の方に目を向ける。
そこにいたのはクリスだった。ミラと目が合った途端、彼の表情は驚きから怒りに変わり、反射的に中に飛び込んでくる。
「ミラ!!」
「クリス・ロイド!! 僕のミラを返してもらう!!」
「黙れ、外道が!!」
ジュダスはサッと立ち上がりクリスに火魔法を放ったが、特級クラスのクリスに元三級のジュダスが敵うはずもなく。
クリスは防御魔法を展開しジュダスの攻撃を軽くいなした後、すぐにミラにも防御魔法をかけ、そして氷の礫をいくつもジュダスにぶつけた。
圧倒的な質量に押されたジュダスは、無数の礫に全身を打たれ、その後気絶した。ミラが体を起こし倒れた彼を見ると、顔の原型を止めないほどボコボコにされていた。
「ミラ、無事か? 怪我は? 何をされた?」
いつの間にかそばに駆け寄ってきていたクリスが、ミラの破れた服にふわりと白衣をかけてくれた。彼はジュダスへの怒りとミラへの心配のせいか、ひどく顔を歪めている。
「け、怪我はありません……。乱暴されそうになりましたが、未遂で終わりました。先生は、どうしてここに……?」
「一瞬、お前の声が聞こえた気がしてな。心配になって見に行ったら、一階にお前の鞄が落ちていて、あちこち探し回っていた」
二階に着いてからジュダスに口を抑えられ、更衣室に連れ込まれるまでのあの一瞬。ミラが発したあの小さな叫び声を聞いて、クリスは自分を探しに来てくれたのだ。
クリスが助けに来てくれた事実をようやく頭が理解したことで、強い安堵が込み上げてきた。そのせいか、ミラの瞳から一気に涙が溢れ出し、止まらなくなる。
「う……ううっ……こ、怖かった……」
「もう大丈夫だ。遅くなってすまなかった」
クリスはミラをぎゅっと抱きしめ、その大きな手でゆっくりと頭を撫でてくれた。彼の優しさと温もりがより一層ミラの心を落ち着かせ、余計に涙がこぼれて仕方がなかった。
その後、ジュダスは警備員によって運び出され、気絶したまま王城へと連行されていった。ここまでの事件を起こしたジュダスは城に投獄され、恐らくもう二度と外に出られることはないだろうとのことだった。
一方、ミラは予備の服に着替えた後、クリスとともに研究室の居室へと戻った。彼はミラが落ち着くまで、ずっとそばについていてくれた。
その間、クリスがここ最近のジュダスの動向について教えてくれた。クリスはキャシーの家の一件が片付いた後も、ジュダスとクウォーク伯爵家の動向を追っていたのだという。
クリスから聞いた話によると、クウォーク伯爵は「ジュダスが女にたぶらかされ、ミラとの婚約を一方的に破棄し、挙句の果てに魔法師団をクビになった」という世間からの悪評をクウォーク伯爵家から切り離すべく、自らの息子を勘当したそうだ。
そして、家を追い出され行く当てを失ったジュダスは、その後すぐにマナリア教団の人間に勧誘を受け、そのまま入信した。彼の発言が終始おかしかったのは、どうやら教団の洗脳によるものだったらしい。
クリスは、ジュダスがミラに危害を加えるのではないかとしばらく警戒していたが、入信後特に怪しい行動を取る様子もなかったので、そのまま監視を続けるだけに留めたという。
しかし今朝、ミラに不審な手紙が届き、クリスは再びジュダスへの警戒を強めた。彼は手紙の内容を見てすぐに、犯人はジュダスだと考えたようだ。
話をややこしくしたのは、今日の昼間に現れたあの男、ギズリーだ。彼が間の悪いタイミングでミラに危害を加えたことで、ミラへの手紙も全て「ギズリーがクリスへの恨みを果たすためにやった」ということで片付けられてしまった。
クリスはギズリーが捕まり一旦は安堵したものの、やはりジュダスへの懸念が拭いきれなかったらしい。先ほどミラが帰る時、彼がしきりに「寮まで送る」と言っていたのはそのためだ。
「奴を見張っていたというのにお前を危険にさらしてしまって、本当にすまなかった」
「い、いえ! 先生が謝られるようなことでは……!」
ソファの隣で頭を下げてくるクリスに、ミラは慌ててそう答えた。そして、話を聞きながらずっと心の中で疑問に思っていたことを口にする。
「先生はどうして、ジュダスの動向を追っていたのですか?」
クリスにとってジュダスとクウォーク伯爵家を探ることに一体何のメリットがあるのか、ミラには全く理解できなかった。クウォーク家がロイド侯爵家にとって不利益をもたらしうる存在だというのならわかるが、クリスの話を聞く限り、どうやらそういうことでもなさそうだ。
ミラがクリスをじっと見つめて答えを待っていると、彼はわずかにためらった後、覚悟を決めたようにこちらを見つめ返してきた。
「奴がまたお前に余計なことをしてこないか、お前がまた何かに巻き込まれないか、心配で仕方なかったからだ」
予想外の言葉に、ミラは息を飲んだ。
ジュダスの動向を探るような骨の折れることを、全てミラのためだけにしていたなんて、それこそ理由がわからない。いくら心配だったとはいえ、一人の教え子を守るために普通そこまでするだろうか。労力が見合わない。
ミラは目を丸くしたまま、再び彼に問いかけた。
「私のために、どうしてそこまで……?」
「お前に何かあっては困るからに決まっている」
そう言うクリスは、確かに微笑んでいた。仏頂面以外は嘲笑かからかいの笑みくらいしか見せない彼が、ここまで優しい笑顔を浮かべているのは、初めてのことだった。
見慣れぬ彼に動揺していると、クリスはすぐに真顔に戻ってしまった。見間違いかと思うほど、時間にすれば一瞬の笑顔だった。
「少しは落ち着いたか?」
動揺が拭えないミラは、ただ首を縦に振る。するとクリスは安堵したのか、かすかに肩の力を抜いた。
「お前さえ良ければ、やはり今日はうちに来い。今ひとりになるのは怖いだろう」
「それは確かにそうなのですが……でもやはり、こんな夜更けにご迷惑です」
「迷惑ならこんな提案していない。この時間帯に帰るのはしょっちゅうだ」
クリスはそう言うものの、時刻はもはや二十三時を過ぎていた。流石にこんな時間に彼の家を訪ねるのは非常識というものだ。
とはいえ、寮でひとり夜を明かすのもそれはそれで心細い。実家に帰るのも、今からでは日付を超えてしまう。
どうしようかと悩んでいると、クリスがそっとミラの手を取り、目を伏せた。
「ミラ。今日はお前のそばにいさせてくれ、頼む。お前を一人にするのが怖いんだ」
「先生……」
クリスの声は、わずかに震えているような気がした。そんな彼の頼みを断ることが出来ず、ミラは結局、彼とともにロイド侯爵邸へと向かうのだった。




