37.最後まで抵抗することを選んだ
※この回にはストーカー・性的暴力を想起させる描写が含まれます。ご自身の体調に応じて読み進めてください。
クリスの研究を盗んだあの男――ギズリーが連行されていった後、ミラはいつものように夜まで実験をしてから、大学の寮に帰ろうとしていた。
「本当にひとりで大丈夫か? うちに泊まるのに気が引けるなら、せめて寮まで送る」
「心配しすぎですよ。犯人はもう捕まったんですから」
ミラの元に届いたあの刃物入りの手紙も、おそらくはギズリーの仕業だ。彼が捕まったというのに、クリスは依然としてミラがひとりになることを不安がった。今朝、ミラが怪我をしたことが余程堪えたらしい。
「寮は大学のすぐそこですし、この時間でも大丈夫です」
時刻は二十二時近く。今日は比較的帰りが遅くなってしまったが、大学から寮は目と鼻の先だ。寮に着くまでに何か起きることはないだろう。クリスは思った以上に心配性で過保護なタチらしい。
「いや、やはり送ろう」
「先生、まだ仕事が残ってるんでしょう? 寝不足で倒れられては私が困りますから。それでは先生、また明日」
渋い顔のクリスに無理やり別れを告げ、ミラは研究室を後にした。ただでさえ今日は迷惑をたくさんかけたのに、これ以上多忙な彼の手を煩わせるわけにはいかない。
研究室と同じフロアにある更衣室で着替えを済ませてから、階段で一階へと下りる。そしてそのまま研究棟を出ようとしたところ、その入口に一人の男が立っていた。
この時間の研究棟はすでに照明が切られていて、入口の扉から入ってくる月明かりだけが、ポツンと佇むその男を照らしている。しかし、月明かりが逆光になっていて顔がよく見えない。同じ棟の研究員かと思ったが、似た体格の人物に覚えがなかった。
ミラが思わず立ち止まったところ、男がこちらの存在に気づき、ゆらゆらと近づいてくる。
「ミラ」
その声を聞いて初めて、ミラはようやく男の正体に気づいた。ほのかな恐怖心が湧き上がり、声が震える。
「ジュ、ダス……?」
「会いたかったよ、ミラ」
嬉しそうに口角を上げて笑う男は、間違いなく元婚約者のジュダス・クウォークだ。しかし、以前の彼とはまるで別人のように見えた。
目の前に来てようやく彼の顔をはっきりと視認できたが、頬は痩せこけ、目には覇気がない。髪は艶を失いボサボサで、唇もひどく荒れていた。
ミラはジュダスが今ここにいる事実にそこはかとない恐怖を覚え、思わず一歩、後ずさる。
「どうして、ここに……?」
ミラが恐る恐る尋ねると、ジュダスはにこりと微笑んだ。
「君と僕は結ばれなきゃならないんだ。神から魔法の力を授かった君と僕なら、きっと上手くいくはずだよ」
その笑顔と言葉に、ゾクリと悪寒が走る。何かが致命的におかしい。
「……ごめんなさい。ジュダスが何を言っているのか、さっぱりわからないわ。あなたは何をしにここに来たの?」
「君はあのクリスとかいう男に騙されてるんだ。魔法は神の力なのにそれを解き明かそうとするなんて、きっと天罰が下るよ。ミラもこのまま研究なんか続けていたら、身も心も穢れてしまう」
話が全く噛み合わない。
どうやらジュダスは、こちらの話を聞くつもりがないらしい。それとも、聞ける精神状態にないのか。
彼の目はどこか焦点が合っておらず、夢現の状態に見えた。
「だからさ、ミラ。大学なんて辞めて、僕と一緒になろう、ね? ああそうだ、あの男との婚約も破棄しないとだめだ。そのあと、僕達の結婚式の準備をしよう。やることがいっぱいだね」
支離滅裂な事を言っているジュダスに、ミラは本能的に距離を取った。この場にいては危険だと、脳内に警鐘が響く。
「近づかないで。警備員を呼ぶわよ」
「君がいなくなってから、すべてが上手くいかなくなったんだ。魔法師団をクビになり、キャシーにフラれ、親には勘当され、行く当てを失った。僕には君が必要なんだよ、ミラ。それが神の思し召しだ。思し召しなんだよ。うん、そうに違いない」
ジュダスはそう言いながら再びミラに近づき、ぬっと手を伸ばしてきた。ミラは反射的に身を引き、思わず叫ぶ。
「触らないで!!」
ジュダスの手は止まったが、彼はひどく傷ついた顔をした。そして段々とその顔が歪み、怒りと憎しみが混ざりあったような表情に変わっていく。
(……逃げなきゃ)
本能的にそう思ったミラは、すぐに身を翻し、鞄を放りだして一目散に走り出した。
クリスの元までたどり着かなければ、どんな目に遭うかわからない。後ろから近づいてくる足音を聞きながら、その確信だけが脳を支配していた。
最初はそれなりの距離があったものの、階段を登るにつれ、どんどんジュダスが近づいてくる。一気に二階まで駆け上がったのに、そのときにはすでにジュダスが背後まで来ていた。
しかし、二階まで来れば、あとはクリスに気づいてもらえばいい。
ミラは大きく息を吸った。できる限りの大声で叫んで、クリスに助けを求めるために。
しかし、叫ぼうとしたその瞬間、ミラはとうとうジュダスに捕まり、背後から口を抑えられてしまった。
「んんー!!」
後ろから抱きつかれたミラは、必死の抵抗も虚しくズルズルと引きずられていく。そしてジュダスがミラを連れ込んだ先は、先程までいた女子更衣室だった。
この棟に、女性研究員はミラ一人。つまり、ここには誰も来ないということだ。
そしてたった今、ジュダスが遮音の魔法をこの部屋にかけた。これでいくら叫んでも、クリスに声は届かない。
絶望と怒りとやるせなさが、ミラを支配する。
ジュダスが家を追い出されたのは知らなかった。行く当てを失い、確かに大変だったのだろう。彼も周囲の人間に振り回された被害者なのかもしれない。
しかし、ミラを捨て、キャシーを選んだのはジュダス自身の選択だ。魔法師団と大学の懇親パーティーで騒ぎを起こしクビになったのも、彼が自分で取った行動のせいだ。
そう考えると、彼の自業自得である部分も多いのではないだろうか。少なくとも、自分がこんな事をされる謂れはない。
ミラは言いようもない感情に任せて、口を塞いでいるジュダスの手を思いっきり噛み、彼の拘束から逃れた。
「ジュダス! こんなことをすれば、あなたの人生は本当に終わってしまうわよ!? それでもいいの!?」
叫びながら距離を取る。だが、扉側にいるのはジュダスだ。ミラの逃げる術は、もはや窓から飛び降りる方法しか残されていなかった。
「警告の手紙、届いてたよね? 穢れるから研究をやめろって。なのにどうして続けてるの?」
(今朝のあの手紙の送り主は……ジュダスだったの……?)
恐ろしい真実に、ミラの心臓がより一層早鐘を打つ。頭から血の気が引いていき、体の震えが止まらない。
「あなたは私を傷つけたいの? 自分のものにしたいの? どっちなの?」
「傷つけたいなんてまさか! 自分のものにしたいに決まってる!」
ジュダスは心外だと言わんばかりにそう叫んだあと、何かに気づいたようにハッとした表情になった。
「自分のもの……そうだ、既成事実を作ってしまえばいいんだ……」
歪んだ笑みを浮かべながらズンズンと近づいて来たジュダスに、ミラはあっけなく両手を掴まれた。
「ジュダス待って、話を聞いて……!」
振りほどこうと懸命に抵抗するが、男の力に勝つことなど当然出来ない。ジュダスの歪んだ顔が目の前に迫る。ミラは恐怖のあまり、パニックに陥った。
(ま、魔法……魔法、使わなきゃ……でも、何の魔法? どうすれば逃げられる?)
ミラは戦闘員ではない。そのため、当然魔法の対人戦の経験など一度もない。
昼間にギズリーを魔法で縛り上げられたのは、彼への怒りで無我夢中だったからだ。恐怖に支配され、冷静さを失った今のミラに、「イメージが全て」である魔法を正確に使うことなど不可能だった。
結局ミラはろくな時間稼ぎもできず、ジュダスに組み敷かれてしまった。自分の上に馬乗りになった彼の顔が、月明かりでぼんやりと青白く浮かんでいる。その目は大きく見開かれ血走っている一方、口角だけが上がっていて、なんとも恐ろしく見えた。
そしてジュダスが不意に刃物を取り出したので、ミラは「ひっ」と短い悲鳴を上げる。キラリと光った切っ先は、まっすぐにミラに向けられていた。
恐怖のあまり、言葉もまともに出せなくなった。
「や……!」
「動かないで。怪我をさせたくないんだ」
ジュダスの手はまっすぐにミラの胸元に伸び、彼は迷いなくミラの服を縦に引き裂いた。
「ああ、綺麗だね、ミラ……」
腹まで服が割かれたことで、ミラの白い肌が月明かりに照らされる。幸い胸はまだ隠されているが、ジュダスの行動次第では、すぐにあらわになってしまいそうだった。
(そうか、彼は……)
先ほどジュダスが発した、「既成事実を作ってしまえばいいんだ」という言葉を思い出し、ミラはようやく彼が何をしようとしているのか理解した。
しかしそれは、何とも受け入れがたい事実だった。好きでもない男に好き勝手されるなど、到底受け入れられない。
(そんなの絶対に……嫌!!)
ミラは恐怖心に打ち勝ち、最後まで抵抗することを選んだ。




