35.聞くに値しない
一時間後、ミラは一度実験の手を止め、居室へと戻った。扉の閉まった教授室からは、クリスとシリウスの真剣な声が聞こえてくる。
(まだ話し込んでいるわね……)
ミラが居室に戻ったのは、図書室に行ってくるとクリスに伝えるためだった。装置の安全性担保に関わる実験で、調べたい箇所が出てきたのだ。
しかし、二人はまだ議論の最中。彼らの邪魔するのは流石に憚られた。
(実験室以外では一人になるなって言われたけれど……昼間の大学内なら、流石に大丈夫よね)
そう判断し、ミラは念の為書き置きを残して図書室へと向かった。階段で一階に下りて研究棟の外に出ると、冷たい空気が肺を凍らせる。
「うう、寒い……何か羽織ってくればよかった……」
真冬の風は凍てつくように冷たく、ビュウビュウと全身に吹き付けてくる。教育棟まですぐだからと油断した。
ミラは駆け足で教育棟に入り、そのまま図書室へ向かう。中は魔法による暖房がよく効いており、とても温かかった。
三十分ほど滞在し、欲しい情報が載っていそうな本を二冊ほど借りた後、ミラはまた寒空の下へと戻っていく。図書室で温まった体に再び冬の空気が入り込み、自然と肩がすくんだ。
「すみません。ミラ・ハインズ先生でいらっしゃいますか?」
急いで研究棟を目指していたところに後ろから声をかけられ、ミラは内心泣き笑いを浮かべた。この寒い中で立ち話はつらい。
どうか手短に終わりますようにと祈りながら振り返ると、そこには大学の白衣を着た研究員らしき男性が立っていた。その左胸には、大学のシンボルである樫の木が黒い糸で刺繍されている
歳はクリスと変わらないくらいだろうか。初めて見る顔なので、どこの研究室に所属している人かわからない。
「はい、そうですが……何かご用でしょうか?」
「ロイド教授に、これをお渡しいただきたくて」
彼はそう言うと、茶色い紙袋を手渡してきた。分厚く、四角い何かが入っていそうな見た目をしている。
ミラは素直に紙袋を受け取ったが、思った以上の重さに、慌てて袋を抱え直した。分厚い本が何冊か入っているのだろうか。
「これは?」
「お渡しいただければわかります。くれぐれも中は見ないように。よろしくお願いしますね。では」
彼はそれだけ言い残すと、さっさと背を向けて立ち去ろうとした。その背中に、ミラは鋭い声で制止を求める。
「お待ち下さい」
ミラが呼び止めたのは、この一瞬の間に数々の違和感を抱いたからだ。この男は、何とも怪しい。
「なぜ直接お渡しにならないんですか?」
大学の研究員なら、クリスに直接渡しに来ればいい。中身を見てはいけないような機密性の高いものならなおさらだ。
歩みを止めた背中に、ミラは畳み掛ける。
「それに、お召しになってるその白衣。樫の木の紋章が入っていますが、刺繍の色が黒色ですね。黒は確か、四年ほど前の型だったと記憶しています」
大学支給の白衣は、作られた年代によって刺繍糸の色が異なる。いま支給されているのは緑色だ。
彼の顔を知らなかったので、一瞬「新しく大学に入ってきた研究員」かと思ったが、ミラは白衣の刺繍を見てそれはないと判断していた。
「そんな昔の白衣なのに、どうしてそんなに綺麗なんですか? 今その型の白衣を着ている研究員は、この大学に一人もいませんよ」
疑いの言葉をかけ続けると、男はしばらく沈黙した。
外が寒く、みな建物の中に引きこもっているのか、二人の周囲には誰もいない。せめて人目があればと思ったが、この状況では一人で対処するしかなさそうだ。
ミラは万が一に備え、最大限の警戒を男に向けた。いつでも魔法が使えるよう、意識を集中させておく。
すると、ようやく男が返事をし、沈黙が破られた。
「……物持ちが良いほうで」
「お名前をお伺いしてもよろしいですか? あと、所属している研究室名も」
「………」
再び沈黙が返ってきたその時、後ろから「ミラ!」と名を呼ばれた。反射的に振り返ると、慌てた様子で走ってくるクリスとシリウスの姿が見える。
「先生? 殿下まで……きゃっ!」
振り返った隙を突かれ、ミラはまんまと男に捕まってしまった。後ろから首に腕を回され、刃物を突きつけられる。
「動くな! この女がどうなってもいいのか!?」
キラリと光る刃物の切っ先を見た途端、ミラの心臓は縮み上がってその場で動けなくなった。
視線だけをクリスに移すと、彼は物凄い形相で男を睨みつけている。彼からは、強い強い憎悪を感じた。
「……そうか、お前だったか、ギズリー。ミラにあのふざけた手紙を送ってきたのは……! 刑期を終えて出てきたかと思えばこれか!!」
「いいから、そこを動くな! 少しでもおかしな真似をすれば、この女の命はないぞ!」
(二人は、知り合い……?)
刃物を突きつけられながらも、二人の会話を聞いているうちに、ミラはどこか冷静になってきていた。
クリスの反応からして、二人は初対面ではなさそうだ。彼がこれほどの憎悪を抱いているとは、過去に何か因縁があった相手なのかもしれない。
それにクリスは男に向かって「刑期を終えて出てきたかと思えば」などと言っていた。それが妙に引っかかる。
するとクリスは心からの嘲笑を浮かべ、怒りと憎悪をその声に乗せた。
「ハッ! お前ごときが俺に勝てると思っているとは、実に滑稽だな。やはりあの時、殺しておくんだった。今ここで消し炭にしてやる……!」
クリスの目は本気だった。本気で男を殺そうとしている。
尊敬する先生を人殺しにするわけにもいかず、ミラは慌てて彼を制止しようと口を開いた。が、その前にシリウスがクリスを後ろから羽交い締めにする。
「わあー!! 待って待って! 落ち着いてクリス! 流石に魔法で殺すと後始末が面倒だから!!」
「うるさい! 離せ! ミラに手を出したこと、後悔させてやる!!」
二人がわあわあと騒いでいるのを見たギズリーという男は、苛立ちを募らせこんな言葉を吐き出した。
「全く反省してないようだな……! 俺の成果を奪っておきながら……!」
(成果を、奪う……?)
古い型の綺麗な白衣。クリスと知り合いで、互いに憎み合っている。そして、成果という言葉。
(それらから導き出される答えは――)
一つの答えにたどり着いたミラは、ハッと顔を上げた。
「待ってください……もしかして、あなたが先生の研究を盗んだ犯人ですか……?」
「違う! あれは俺の成果だ! 俺が出した成果を、こいつが奪ったんだ!!」
興奮したギズリーがミラの首に回していた腕を引き寄せたので、一瞬ぐっと息が詰まった。ゲホゲホと咳き込みながらも、ミラは確信を得る。
この男が、クリスを裏切った人物だ。クリスの人間不信に拍車をかけ、彼が研究室に誰も人を置かなくなった原因を作った人物。
そう認識した途端、ミラの心の中にふつふつと怒りが込み上げてきた。
一方、クリスを抑え込んでいたシリウスも、険しい顔でギズリーを睨みつけている。クリスの友として、この男のことを許せないのだろう。
「そんな言葉、よく言える……! 君の研究のほとんどはクリスが進めたことなのに、それを君が自分の成果だと勘違いしただけだろう!?」
「黙れ! 俺こそが評価されるべきなんだ! それなのに、どうしてこいつばかり!!」
ギズリーがわめき散らかし興奮するにつれ、ミラはより一層冷静になっていった。
二年以上もクリスをそばで見てきたからわかる。彼は決して、他人の成果を奪うような真似はしない。
この男の言葉は、聞くに値しなかった。




